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「ホーホケキョ となりの山田くん」

“裏”映像技術論

文責/叶 精二

※「別冊COMICBOX/Vol.5『ホーホケキョ となりの山田くん』を読み解く!?」(99年8月10日/ふゅーじょんぷろだくと発行)掲載。再録に当たって若干加筆しています。 


 高畑作品の映像表現に込められた精緻を極めた演技設計、莫大な労力、革新的技術などを全て確認出来る人は稀だろう。
 「山田くん」の技術については、最新技術と手描き作業を融合させた「フルデジタル」の処理行程に注目が集まっている。だが、この詳細については、ここではあえて触れない。(別項参照)
 高畑作品は、一見目新しくない表現に奥深い楽しみが隠されていることが多い。ここでは、あえてそうした表現の一つ一つにスポットを当ててみたい。いわば“裏”技術論である。ただし、これらは「山田くん」に詰め込まれた情報の氷山の一角に過ぎないことをお断りしておく。
 まだ試写を観た程度で研究不足の感はあるが、そこは今後の課題として御容赦願いたい。

1. 絵巻的・漫画的表現

●オープニングは絵巻の手法で作られている

 「山田くん」の冒頭、絵描きうたのようなオープニングから始まってタイトルが出るまでの連続した映像は、まるで一巻の絵巻のような構成である。以下順番に見てみたい。

1. 最初に、白紙に鉛筆画風にお日様が描かれる。それが「花札の満月」に変化し、グンとトラック・アップ気味に下降して三日月からしげばあさんの顔になる。
2. ポタポタと絵の具が垂れて、やがて色がつくとしげが左へ横移動。ポチが描かれながら現れ、散歩中だと分かり、「エピソード1/菊と毛虫」が始まる。
3. 毛虫は「花札の蝶」になる。その蝶が案内役となって山田家の居間に舞台が移り、「エピソード2/今日こそカレー」が始まる。
4. オチがつくと、右横から「花札のイノシシ」が現れ、今度はイノシシが左へと駆け抜けて、「しだれ柳と番傘の花札」に描かれたたかしとのぼる(実際は「小野道風」が描かれている)に導く。ナレーション役ののの子が左からフレーム・イン。「エピソード3」へ。
5. 「エピソード3/勉強は役に立つか」が語り終わると、今度は「花札のウグイス」が現れ、のぼるの頭に止まる。ウグイスは、はばたきなから左斜め上へとパンし、タイトルへと導く。
6. タイトル脇のウグイスが、花札の風景と一体化したところで「ホーホケキョ」と鳴く。

 以上のシークエンスが、個別のエピソードをはらみながら、連続した一つの流れのように感じたのは私だけではないだろう。この感覚は、どこか「風の谷のナウシカ」のタペストリーを流したオープニングの印象にも似ている。
 冒頭を除けば、各エピソード間は全て右から左へともっぱら横移動をしながら繋がれていく。しかも、その移動を促す案内役は全て「花札」に描かれた動物と昆虫である。
 これは「十二世紀のアニメーション」で高畑監督が詳述した絵巻の手法に似ている。絵巻は基本的に全て横移動で物語を進行させる。監督によれば、「見送る」「見迎える」が表現の基本である。場面転換を促すのは、人々の視線であったり、「すやり霞」と呼ばれる特殊な空白であったりする。
 このオープニングからすぐに連想されるのは、「信貴山縁起絵巻」の「飛倉の巻」である。この絵巻では時空を飛び越えて移動する多数の米俵が「案内役」となっている。
 監督は、自らの研究成果を冒頭から意識的に盛り込んだのではないだろうか。

●タンゴのシーンは「異時同図」

 「リモコン騒動」の直後、山田夫妻が絶妙の間合いでタンゴを踊るシーンが現れる。このシーンにも、絵巻の特徴的技法を思わせるものがある。
 途切れ途切れのリズムに合わせて、前で踊る山田夫妻と後ろで踊る山田夫妻が画面上で二組現れては消える。同じフレーズを時間をずらして踊っているようにも見える。これは絵巻の「異時同図」と呼ばれる手法に似ている。同じ人物を同一画面に何人も描くことで時間経過を示す手法である。
 また、「ベンキョウシナハレ」と口うるさく喋るまつ子が無数に増殖して、果ては阿波踊りまで始めてしまう爆笑シーンも、異時同図的シーンと言えるかも知れない。

●動く波線による音声や湯気の表現

 絵巻との技法上の共通点はまだある。
 まず、予告編にも使われた「春の雨・牛バラ三百」のエピソードで、たかしの公衆電話口に現れる「〜」状の記号束による音声の表現である。
 これは、漫画表現としては使い古されたものだが、中世の絵巻がその元祖らしい。通常、アニメーションでは音声が同時に流れるため、線による声の表現は必要ない。実際、テレビアニメなどで吹き出しや文字を挿入することはあっても、音声を線だけで表現するケースはほとんどなかった。
 この場合、家族一人一人の声の聞こえる方向、感情の差も線の形・方向で表現し、しかもイントネーションに合わせて微妙に震えさせている。絵巻の時代に開拓された革新的表現を現代の最新技術で焼き直したと解釈すべきであろう。
 また、そうめんをゆでる鍋、鍋モノ、コーヒーカップ、風呂、お茶などにも「〜」印の束が、「湯気」として表現されている。これも、通常のアニメーションではエアブラシによる特殊効果か、白やグレーの帯をベタリと塗ったセルをダブラシで半透明にするなどの技法を使う。それらが「線の湯気よりもリアルな表現だ」と、いつの間にか信じられて来たのであろう。
 本作によって、ただの線でも動かし方次第で、液体の熱さやおいしさを表現できることが改めて証明されたと言える。

●吹き出しなどの漫画的表現

 原作にインスパイヤされたと思われる漫画的表現も活用されている。実は、これも「漫画通り」描いて動かして見せることは大変珍しい。思いつくまま列挙してみたい。
 まつ子が物忘れをして、しげを追いかけてパン屋まで来てしまう「なんかあった、買い物が」のエピソード。まつ子はパン屋まで駆け込むが、そこに丸い綿ボウシのような絵記号を幾つも転がしてスピードを表現している。記号もしっかり動いているところが細かい。
 「ミョウガの朝」で、「ヤカンを火にかけていた!」と思い出すまつ子の頭上には、吹き出しがサッと浮かぶ。このタイミングは実に見事で、吹き出しの形が形成されると同時に、ヤカンとガスレンジも瞬間的に「形成」される。まつ子が瞬時に思いついたスピードとあせりが同時に形になって行く。形のない思考と感情が空想で形になる。
 「彼女の電話」で、のぼるの「ドキドキ」をあれこれ詮索する家族に、のぼるが怒るシーンもこれに同じ。ドクロマークの吹き出しが「ボキッ」という効果音と共に瞬時に「形成」される。
 通常のテレビアニメでも吹き出しが描かれることがあるが、文字で騒音や印象を代弁するのが目的で、その出現と消滅に動画枚数をかけたりはしない。
 これらは、漫画表現のアニメーション的昇華とでも言うべきシーンで、一種のメタモルフォーゼと呼べるかもしれない。

2. カメラワークとレイアウト

●カメラが動く時

 「山田くん」全編で最も驚くべき技法はカメラワークである。「動」を前提としたカメラワークは、前述のオープニング、波瀾万丈の「ボブスレー編(「そのうちなんとかなるだろう」の歌唱シーン含む)」と大俯瞰のエンディングだけ。「エピソード編」では、カメラは全くと言っていいほど動かない。「静」と「動」は、カメラではっきり分けられている。
 不完全ながら、筆者が「エピソード編」でカメラの移動を確認出来たのは以下のカットだけである。

1. 「なんかあった買い物が」のエピソードで、しげを追ってまつ子が外へ出た時のフォロー・パン(横移動→)
2. のぼるが酒を「辛口だね」と称し、たかしが長い廊下を追っかけるシーンのフォロー・パン(横移動←)
3. 「春の雨・牛バラ三百」のラスト「春雨やものがたりゆく蓑と傘」が出るシーンのゆったりしたクレーン・アップ(上移動↑)
4.「クラッシック」のエピソードで、台所のテーブルに伏せている(寝ている)まつ子を上からゆっくり下降して捉えるパン(斜め下移動↓)
5.「先生なぐりに」のエピソードで、中村先輩が学校へ歩いて入る途中のパン(横移動→)
6.「彼女の電話」のラストで、ベッドののぼるから壁のカレンダーへのパン(斜め上移動↑)
7. リアルヴァージョンの暴走族が、山田家の前を次々と疾走するシーンのフォロー・パン(横移動←)2〜3カット
8. (たかしの空想シーンで)悪漢のバイク2台が路地のカーブを曲がる時のパン(横移動→)
9. 月光仮面のたかしがバイクで高速道路を疾走するシーンのティルト・アップ(上移動↑)
(注/悪漢のバイク二台と月光仮面のバイクが町中を走るシーンの背景動画、背景のマルチによる移動は一応カメラワークからは除外。)
10. 月光仮面のたかしがバイクで悪漢たちを飛び越える瞬間のフォロー・パン(扇状に上から下へ短く振る↑)
11. 朝寝過ごして駆け出したたかしが息を切らして公衆電話にたどり着く時のフォロー・パン(横移動→)
12. 病気をおして会社にでかけるたかしを乗せた電車が通過した後の陸橋から川へのパン(横移動←)
13. ラストのたかしの台詞「俺が決めるぞ!」の後のゆったりとしたクレーン・アップ(上移動↑)

 これらのシーンに共通するのは、非日常的な事件の渦中であること、自宅以外の場所が多いことの二点である。つまり、カメラを動かさざるを得ない特別なケースを意味している。
 しかし、この数少ないカメラワークはどれも絶妙で、「実は存分にカメラを動かした芝居も出来るのだゾ」と密かな主張をしているようにも受け取れる。
 たとえば、「11」のたかしが息を切らして、公衆電話にへたり込むシーン。
 家を出てから元気よく走っている間は、固定カメラ。つまり、観客は走る姿を左から右に、奧から手前にと眼を動かして追わなければならない。これは、走るたかしを実際に目撃しているような感覚を味わうことになる。
 たかしが息切れをおこしてヨロヨロして来て、始めてカメラはブツ切りに止まりながら僅かに進行方向へ動き出す。つまり、たかしの歩調とカメラが一体で動く。これにより、観客は一緒にヨロけるような感覚を味わうことが出来る。「1」もこれに似た設計。
 「10」の「月光仮面」のバイクの高飛びシーンもそうで、俯瞰構図でブーメラン状にサッとカメラを振られると、目線がバイクに集中し、フワッと浮いた感じを味わうことが出来る。これは、「(本家)月光仮面」を始めとする日本の特撮映画が得意として来た、「蹴る・飛ぶ・撃つ」式のカット分割によるチープな浮遊表現へのアンチとも受け取れる。
 「3」と「13」は、高畑作品のエンディングでよく使用されるカメラワーク。上空へのゆったりした垂直上昇によって、視線がキャラクター周辺から街並み全体へと移されて行く。ミクロからマクロへの移動。「火垂るの墓」「ぽんぽこ」のエンディングでイルミネーションを写したショットがこれに当たる。
 いずれも、観客があたかも現場に立ち会っているような臨場感を生み出す見事なカメラ設計である。

●全編固定カメラという大勝負

 前述のシーン以外は全てカメラは固定(通常「Fix」と呼ばれる)。舞台はほとんど自宅、たまにショッピングセンター、学校、病院、車内などが混じる程度。狭い居間や自動車の中で、淡々と演技が展開される。
 しかも、ワンカットが長い。「山田くん」の総カット数は九六九。ちなみに「もののけ姫」は一六七六カット。何と六割にも満たない。「山田くん」の上映時間は「もののけ姫」より三〇分短いが、それにしても一カット平均が長いことに変わりはない。
 「山田くん」は一エピソードに付、平均一〜二分を費やす。絵コンテで各カット数を数えてみるとほとんどが一〇カット以下。少ないものでは四、五カットしかない。単純計算でも二分で五カットなら一カット二四秒もあることになる。これは、実写では当然でも、アニメーションでは驚くべき長さである。
 固定カメラは、背景や人物の移動による情報の代謝がなく、視覚的刺激が少ない。全体に画面は大人しく落ち着いた印象になる。観客は、その分スクリーン上の芝居に集中する。つまらない芝居では、直ぐに飽きてしまい、眠気のもとになる。ワンカットが長ければ、更に危険度は数倍になる。つまり、演技のゴマカシが効かない。そもそもが抽象化された絵であり、ゴマカシが特許のアニメーションにとって、これは崖っぷちの大勝負を意味している。
 監督はあえて、観客とのナマの演技による真剣勝負を挑んでいるのである。その結果は、御覧の通りである。実例を引用してみよう。
 冒頭近くの「のの子迷子事件」の車内でのあれこれの会話の妙。たかしの車の窓を開けるハンドルをクリクリと回すパントマイム的動作、ギアチェンジのボコボコッとした感覚、シートベルトを外して窓からのっそりと身を乗り出す仕草。どれも実に感じが出ていて、飽きることなどない。
 ショッピングセンターの受付嬢に「お母さまやない!」とくってかかるまつ子の演技。「誰なんやーっ!」と胸を「×」字にかきむしる仕草の見事さ。
 絵柄がシンプルである分、その演技は実写以上にリアルに感じられ、実に新鮮である。
 「のぼるの家庭教師」の討議で、まつ子の「私の子やから」発言に、「そりゃそうだな」と答えたたかしが、その後しげに意味あり気な目線を送る数秒間。
 暴走族が通り過ぎたかどうかを、しげとたかしが聞き耳を立てて確認する数秒間。
 共に絵はほとんど動かないが、それが逆に絶妙の間合いを作り出している。こんな日本人的な機微を描き切ったアニメーションは、おそらく前例がない。 
 また、コタツまたはちゃぶ台を中心とした居間のカメラ位置は、カット毎に微妙に変えている。
 たとえば、前述の「のぼるの家庭教師」討議シーン。最初はテレビを背にしたやや上からのカメラ位置で左にしげ、中央にたかし、右にまつ子を配置。のぼるが乱入してから「結論がでない」と嘆くまつ子の背中からのアップをはさんで、今度はまつ子の背中の位置にカメラを置き換える。こうして、まつ子から見た位置で、たかし・のぼる・しげが写る。エピソードがまつ子主導で終わる過程がカメラ位置の変化で示されているわけだ。
 こうしたカメラ位置の変化は実に巧みである。アニメーションでは実際にカメラがセットに入り込むわけではないので、レイアウトを一本調子にしない工夫をこらしているわけだ。さり気ない努力と創意工夫が、水面下で固定カメラによる単調化を防いでいるのだ。
 高畑監督はもう二〇年以上、派手なカメラワークやオーバーな緊張感・極端な喜怒哀楽などの流行表現を捨て、「日常の何気ない動作を絵で描き起こすことによって刻印する」路線を歩んできた。リアリズムに傾斜した画風は、一時は「実写的」と揶揄されたこともあった。しかし、「山田くん」に到達したことで、ついにこの路線がアニメーション独自の表現であることが完全に証明されたと言えるのではないか。
 それは、ハリウッド大作やCM、一部のアニメーションなどで大流行している、視覚で判別出来ないほど大量の短いカットをたたみかけるように流し、派手なカメラワークを重ねて一種の「異次元的感覚」を煽る表現への強烈なカウンターである。同時に、「現実のリズムで暮らそう」というメッセージでもあろう。

●俯瞰による縦の構図と舞台の高低差

 高畑監督は、俯瞰による縦の構図を意図的に持ち込んで来た。それは、横の構図が中心になりがちなアニメーションに奥行きを与えるためである。特に人物を斜め上から見下ろす構図は、頻繁に使われて来た。通常のアニメーションでは避けられる難しい構図である。
 古くは、「太陽の王子 ホルスの大冒険」で絶壁の頂からグルンワルドの頭越しにホルスを捉えたショットに始まり、「ゲゲゲ鬼太郎(新)/第五話 あしまがり」の二階のテラスに置いてある妖怪花から入口の鬼太郎を見下ろしたショット、「アルプスの少女ハイジ」のアルムおんじに飛びつくハイジをおんじの頭上から見下ろしたショットや、屋根裏部屋からの風景、「母をたずねて三千里」で窓から下を見下ろすジェノヴァの街並みを生かしたシッョトの数々、「じゃりン子チエ」で猫達の決闘を上から見下ろした墓場のショット、「セロ弾きのゴーシュ」でカッコウやセロを叩く子ダヌキをゴーシュの頭上から見下ろしたショット等々、数えればきりがない。「山田くん」に於いても、その姿勢は健在である。
 「ボブスレー編」の海賊船上での立ち回りをマストの上から捉えた(「どうぶつ宝島」を彷彿とさせる)ショット、ラスト近く病気を圧して通勤するたかしを電線にとまった雀の上から見下ろしたショットがそれである。
 余談だが、監督のこうした上下の感覚を生かした演出は、舞台装置そのものにも意識的に生かされて来た伝統を持つ。
 「ハイジ」では、「麓」つまり「下」に「デルフリ村」という市民の生活空間、「中間」にペーターの家、「山の上」におんじの小屋、さらに山頂付近に野生動物の住む牧場がある。登るに従って、人間生活からかけ離れ、下るに従って人間生活に戻っていく。これは地理の把握が明解になるだけでなく、ドラマの展開を見事に象徴している。(参考資料/九六年三月東京都庁「都市美シンポジウム」での高畑監督講演)
 「三千里」のジェノヴァも、建物の上下の感覚を生かした設定である。路地裏を真上から捉えたショツトや、階段を駆け上がるマルコを見下ろしたショットなどが印象深い。アルゼンチンの古都・コルドバでも、郊外の高台に駆け上がるシーンがある。線路を挟んで向こう側が市民街、線路の内側が貧民街という設定もこの応用と思われる。
 「火垂るの墓」でも、横穴は窪地の底にあり、高台には蓄音機を持つ裕福な家がある。 
 舞台に高低差が生かされることにより、画面はずっと視覚的に複雑になり、ドラマにも奥行きが出るというわけだ。
 この高低差の特徴を最大限に発展させたシーンが、「ボブスレー編」の雲上から町をなめるように走るカメラと、ラストの大俯瞰上昇シーンと言える。

3. 新しいアニメーション表現 

●リミテッドとフルアニメーションの融合

 「山田くん」のキャラクターは、信じがたいほどよく動く。ただし、よく見てみると体全体はフルアニメーションだが、口以外の顔のパーツはそれ程動いていないことに気付く。
 ほとんどの場合表情の中心である目は点だけ。「∩」や「<」等幾つかのヴァリエーションが突然差し替えられるが、変化する瞬間は描かれない。
 つまり、目の表情はリミテッド・アニメーションなのである。突然「∩」が「<」になったり、「・」に戻ったりする。しかし、画面上は何の違和感もない。観客は、目だけに注目していないからである。
 流行のセル・アニメーションはこれと全く逆で、体は全く動かないが、目だけは巨大で複雑なハイライトがパチパチとよく動く。(但し、パターン化された繰り返しが多いが。)
 これは実写の世界でも同様らしく、故・黒澤明監督は、「テレビ慣れした役者はすぐに顔で演技をしようとする」とぼやいていた。
 これほど目の演技を捨てた動きに魅せられてしまうと、やはり体全体のアニメートによる演技が理想形であると再確認せざるを得ない。

●そっけないメタモルフォーゼ

 「山田くん」には、ふんだんなメタモルフォーゼ・シーンが盛り込まれている。
 圧巻なのは「ボブスレー編」で、新婚のたかし・まつ子夫妻が最初に乗るのはボブスレーで、シェルター状のウェディング・ケーキを抜けて飛び越えると、途端にヨットに早変わり。服装もカジュアルに。大海原で暴風雨にさらされると、いつの間にか屋形船になり、波飛沫まで北斎調に変化。浜辺へ着くと中からキャタピラカーが出て来る。キャベツ畑を越えて川へ出ると今度は和船になり、景色も水墨画調になる。夫妻の衣裳も昔話風になり、桃からのぼるが誕生。竹林ではタスキがけの姿になり、竹からのの子が誕生。―という具合に、めくるめくように変化する。それがまた、家族形成の歴史と重なっている点も実に興味深い。
 「エピソード編」では、バスで眠りこけていたまつ子が「次はイチニン前」の呼び出しに驚き、条件反射的にブザーを押してしまうカット。ハッと目覚めると同時に窓外の風景が瞬間的に「出現」する。視界の広がりを風景のメタモルフォーゼで示しているわけだ。
 また、しげばあさんが公園のゴミ拾いボランティアで線引きをするシーンでも、やはり瞬時に六〇年前の少女に戻る。
 いずれも、「別の何かに変化する瞬間」をたっぷりと見せる、本来のメタモルフォーゼとは違う。どれも瞬間的にパッと切り替わるリミテッド的な変化である。技術的には大変な手間がかかっているにもかかわらず、映像は惜しげもなくサッサと通過してしまう。凝った演出である。

●リアル・ヴァージョンの謎

 最も重要なのは「暴走族注意」のエピソードで、ここではキャラクターがリアル・ヴァージョンの体型に変化する。背景も描き込みを取り戻す。その余りの生々しさは、全編の印象を変えてしまいかねない程のインパクトがあった。ここでは、他のエピソードでは感じられない重い緊張感が流れる。「月光仮面」を含めると、冒頭の「のの子の迷子」に匹敵する最も長いエピソードである。
 リアル・ヴァージョンのカットは、このエピソード冒頭のガードレール周辺を往復する車輌、横断歩道をわたるまつ子としげ、夜の街灯、自宅周辺を走る暴走族のフォローショット、たかしが家を出てとぽとぼ歩くショット、暴走族の兄ちゃんのヘッドライト越しのアップ、しどろもどろのたかしのショット、「こっちの水は甘いぞ」と応援にかけつけるまつ子としげ、―というほんの数カット。何故、全編通じてこれらのカットだけがリアルなのか、法則性の発見は難しい。
 要するに、テーマの一つである「人づき合い」が成立しない(あるいは積極的につき合いを破壊する)状況を暗示しているのかも知れない。
 また、たかしの「月光仮面」への空想上の変身も、一種のメタモルフォーゼと言えなくもない。このシーンは、目一杯凝った活劇的演出となっているが、わざとモスグリーンとくすんだオレンジのフィルターがかけられており、何ともスッキリしない虚しさが漂う複雑なシーンとなっている。
 現実に戻り、公園のブランコでたたずむたかしの背景は、まだ描き込みを残しており、ヘルメットや足元はリアルなままである。中途半端な現実感が一層寂寥感を際立たせる。極めつけに「あな、無惨やな……」の文字と朗読が重なる。
 このリアル・ヴァージョンから「月光仮面」までは、高畑監督のオリジナルである。原作のシチュエーションを借りて、監督の主張をはっきり主張したシーンである。監督は、これまでの作品同様、観客に登場人物たちと一緒に考えさせようとしている。日常の軽いペーソスだけでなく、現実の重さをキッチリ提示したと言うべきか。
 それにしても異質な表現であり、今後のジブリ・アニメーションの技術的可能性を感じさせる。恐るべきシーンである。

●短いカットによる爆発的感情表現

 高畑作品は、全編淡々とした演技の印象が強いが、一方で感情を爆発的に表現する描写も必ず含まれている。
 「パンダコパンダ」でミミ子が逆立ちをしてしまうシーン、「ハイジ」で両手を広げて喜びを表現するシーン、「赤毛のアン」で林檎の花の塊に持ち上げられて浮いてしまう空想シーン、「ゴーシュ」で動物への怒りをぶつけてしまうシーン等々。どれも、テンションが爆発的に上がる瞬間をややテンポを早めて表現している。非日常的な感動を、普段使わない描写で表現しているということであろう。
 「山田くん」では、のぼるに彼女から電話がかかって来るというエピソードがそれに当たる。電話が切れた後、余韻を楽しむように両手でそっと受話器を置くが、部屋へかけ上がるなり、コンポで矢野顕子氏の「電話線」を大音量で流す(狙ったタイトルの曲である)、バネのマスコットを殴る、カードは撒き散らす、エキスパンダーを力いっぱい伸ばす、ベッドに飛び込む―と大騒ぎとなる。
 このシークエンスは、全編唯一の短いショットの素早い積み重ねで、急速にテンポを上げている。
 「のの子の迷子事件」でも、急いで帰宅した家族が、各々探し回るカットも比較的短く、スピード感とあせりが、細かな演技で表現されている。
 「山田くん」らしくない事件を、「山田くん」らしくない技術で表現しているというわけだ。

●直接・間接のオマージュシーン

 「山田くん」には直接的なものから、隠喩的なものまで数々の引用やオマージュシーンが散りばめられている。
 花札を多用したオープニングは、映画版「じゃりン子チエ」の豪華なセルフ・リメイク。
 まつ子が 「ベンキョウシナハレ」と増殖するシーンのBGMには「ぽんぽこ狸囃子」がチラリと混じる。
 先に述べた「月光仮面」や、後に述べるノルシュテインの「話の話」の音楽は直接的引用である。
 「ボブスレー編」で雲上の一家の背景に現れる月は、どこかメリエスの「月世界旅行」風。
 暴走族の頭に浮かぶ蛇がカエルを飲み込むカットは、絵コンテに“「星の王子様」風”と書かれていた。小説冒頭に登場するサン=テグジュペリ自身によるウワバミのイラストをイメージしたと思われる。
 ラストの教室丸ごと浮き上がるカットは、ケストナーの名作児童文学「飛ぶ教室」を連想させる。「飛ぶ教室」は作中で生徒達が創作した劇のタイトル。近未来の教室は、空を飛び世界各国で授業を行うという設定である。
 ここでは、藤原先生の教室は普段から「地に足がついていない」という意味あいも感じてしまいそうである。
 パラソルで天空を上昇する山田一家は、まるでディズニー映画「メリー・ポピンズ」。この作品では、ポピンズ一人しか空を飛ばなかったが、山田一家は全員でクルクルと飛ぶ。
 「メリー・ポピンズ」には、上空からロンドンを見下ろした空撮や、煙突屋根上の大花火シーンもある。また、心から笑うと自然に体が浮き上がってしまう魔法は、どこか「そのうちなんとかなるだろう」のコタツ上昇シーンとも似ている。仕事一筋の父と婦人運動家の母が、最後には「適当」になって子供達との仲を回復する筋立ても、どことなく象徴的である。
 余談だが、今春公開の佳作「クレしんパラダイス!メイド・イン・埼玉」でも、「メリー・メポピンズ」のパロディがあったが、密かな流行なのであろうか。
 「ケ・セラ・セラ」は、もともとヒッチコックの映画「知りすぎていた男」の主題歌。この映画は、夫婦が力を合わせて誘拐された息子を救出する話だが、ここに「のの子の迷子事件」との関連を読むのは、流石にうがち過ぎであろう。

4. 音楽・雑音・音響効果

●音楽・騒音の対位法的効果

 高畑監督は、東大映画研究会時代の同人誌「影繪」に、映画音楽と音楽的効果に関して以下のような興味深い論評を書いている。
「騒音効果は演出者と映画音楽担当者との極めて緊密な協力と手腕を必要とする。」
「『自転車泥棒』で大詰めにおけるサッカー場の使い方は実に巧妙で、(中略)その歓声や騒音は次第に彼の心を混乱させ焦燥に駆り立て残っていた理性すらも失わせてあの行動へ彼を押しやるのである。」
「『望郷』で、(中略)ふとしたはずみに自動ピアノに触れて、急にそれが全く陽気な曲をがなりたて始める。」
「前述した手法は、ライトモチーフ的手法に対して対位法的手法と称び得ることを附記しておく。」
(「映画音楽と早坂文雄の死」より/「映画を作りながら考えたこと」一〇〜二〇ページに再録)
 高畑監督は、確かにこの「対位法的」な音楽・雑音を頻繁に使っているように思われる。
 たとえば、「火垂るの墓」のラストで、蓄音機から突然流れるガリ=クルチの「はにゅうの宿」。節子の死とは別次元の涼やかな曲が余計に物語の悲惨さを浮かび上がらせる。
 「おもひでぽろぽろ」でカーステレオから流される東欧の民族音楽。奇妙な懐かしさが紅花の咲く夜明けの里山へと主人公と観客を誘う。
 宮崎駿監督の「魔女の宅急便」の冒頭でも、主人公キキがラジオから流れる「ルージュの伝言」を聞くシーンがある。これも旅立ちの希望と不安気の入りまじった心境を代弁する効果を上げている。実はこの作品の音楽演出は高畑監督である。
 これらは、登場人物たちが実際に聞いていない音楽、いわゆる「劇伴」ではなく、実際に彼・彼女が聞いている音楽である。
 「山田くん」では、隣の奥さんが「マーラーかしら」と呟く台所のラジカセから流れるクラシック(マーラー「交響曲第一番『巨人』第四楽章」)が、やはり「観客がキャラクターと共に聞く(ただし、この場合本人は寝ているわけだが…)」効果を上げている。
 極めつけは、「暴走族注意」のバイク騒音で、これは「自転車泥棒」同様、「雑音による対位法」と思われる。
 右から左へと流れるバイクの排気音は、半端じゃないうるささ。わざわざドルビー・デジタルで「ホンモノの騒音」を聞かされると思った人はないのではないか。山田家の人々と同様、こちらまでイライラしてしまう。効果は絶大である。
 その後、家を出てリアルな絵柄に変化したたかしが、暴走族の青年に注意しようと話しかける間、バイクの「ドッドッドッ」というアイドリング音が低く響く。これが、たかしの動悸と見事に重なり、こちらにまでピリピリとした緊張感が伝わって来る。
 高畑監督は、四四年も前に書かれた文章の問題意識を作品に生かし続けていることになる。しかも、それは未だに新しい表現たり得ている。天才は一日にして成らずと言うべきか。

●クラッシックの狙った選曲

 高畑監督のクラッシック通は有名だが、今回も効果的な選曲がされている。
 冒頭の「ボブスレー編」でかかるのは、マーラーの「葬送行進曲」のファンファーレ、次にメンデルスゾーンの「結婚行進曲」。「葬送」の直後が「結婚」とは何とも凄い選曲である。一昔前は「結婚が人生の墓場」などと言われたそうだが、それを逆転させる意味なのか、「死」と「生」の意味を込めたのか、単なる趣味なのか。意味あり気である。
 サントラ盤で「カッコウ」と名づけられた一連のBGMも意味が深い。これは、モーツァルトの「玩具の交響曲 第二楽章メヌエット」を原曲として、矢野顕子氏が編曲したピアノ曲。「ストロガフガフ」「ご名答」などのサブタイトル通り、「ボケ」のシーンに鳴き声のように「カッコウ」「カッコウ」と繰り返し使用されている。
 「カッコウ」と聞いて、「セロ弾きのゴーシュ」のカッコウを連想した人もいるのではないだろうか。それもその筈で、実は「ゴーシュ」制作時に高畑監督は以下のようなメモを記している。
 「田園交響楽にかぎらず、ヨーロッパには民謡から芸術音楽までカッコウの鳴き声を模した音楽がいっぱいあります。(中略)『カッコー』というひびきが、西洋音楽の基礎になっている三度音程をそのまま表しているため、無理なく音楽の中にとりこめるということも理由のひとつではないかと思います。(中略)
ヨーロッパのカッコウはいざしらず、日本では『ミド』と鳴いていると私は思うのです」
(「パクさんのポケット」/「映画を作りながら考えたこと」一九三ページ)
 ヨーロッパでは反主流派の「ミド」のカッコウを今回は全編で使用。これも高畑監督の長年構想していた音楽の一つだったのではないだろうか。 
 また、音楽ではないが、決定的場面に「ホーホケキョ」の鳴き声を挿入する演出も効果的である。

 「どらやきとバナナ」のエピソードで流れる、バッハの「プレリュード」も狙った選曲である。
 ユーリー・ノルシュテイン監督のファンなら誰でも思い当たる。「話の話」の海辺の家族のシーンで度々使用され、強烈な印象を残したあの音楽である。
 このエピソードは、昨年七月一六日の記者会見で「実験段階の映像」として線画だけで上映されたが、その時既にこの音楽が使われていた。高畑監督は会見後のパーティで、この音楽についておかだえみこさんと次のように話していた。「あれは分かる人にだけ、分かるオマージュです。ただ、使った意図としてはノルシュテインと同じだと思っています」と。かつて高畑監督は、海辺の家族のシーンを以下のように解説した。
「時代を超えてつづられるあれふれた日常を結晶化し、それを人々のくらしの本原、家族と社会の原像、そして平和の基礎として提出しているのである。」
(アニメージュ文庫「話の話」一一三ページ)
 酔っぱらって帰宅し、眠気に誘われながら仕方なくバナナをモニョモニョと食べる父。ここに、高畑監督は日本的な「ありふれた日常」の「永遠性」を重ねたということであろう。なるほど、このシーンにバッハは不思議とよくマッチしている。

●作詞家・訳詞家 高畑勲の肖像

 あまり知られていないが、高畑監督は何度も作詞・訳詞を担当している。
 「ハイジ」では「花嫁さん」と「村の山羊飼い」(どちらも正式な題は不明)、「赤毛のアン」ではロケハンで収集したスコットランド民謡に「はしばみ谷のネリー」という詞を書いている。
 外国語の歌の和訳とは、原文の精神を忠実に守りながら、メロディの音階に合った日本語を選び出す作業だと思われる。文学的格調を無視しても、メロディに乗せた時、より正確に聞こえる日本語を詞にしているようにも見える。
 「愛は花、君はその種」の「愛」「ただひとり」のリフレイン、「ケ・セラ・セラ」の「なるかな かっこよく お金持ちに」など、一文として見れば一種の倒置だが、音階はピッタリ。実にユニークな好例と言える。
 高畑監督は、八五年に行われた講演で以下のように語っている。
 「沢山の人がね、日本語を音感を大事にして(中略)一時非常に沢山の優れた童謡を作った。(中略)
 今のニューミュージックにしろ、何にしろ、とうとうここまで来たかっていう位ですね、日本語のイントネーションは崩れてしまっているんですね。(中略)
 せっかく作曲家と言われる人たちが、確立することに努力してきたのに…」
(「赤毛のアン」の全貌に迫る/「映画を作りながら考えたこと」一〇四ページ)
 高畑監督は、平板な日本語の音韻を最大限に生かす努力をしていると思われる。
 実は、「火垂るの墓」で歌われた「こいのぼり」も、「山田くん」でラジオから流れる「犬のおまわりさん」も、日本語のイントネーションを尊重した貴重な童謡である。 
 監督の「日本語を生かす」具体的成果は以下に記す二曲の原語直訳と、高畑訳を比較して口ずさんでもらえば一目(一聴)瞭然だと思う。
 なお、「ケ・セラ・セラ」の一・二番に該当する歌詞は、高畑版和訳では二番の際のコーラスとして重ね合わせて使われている。詞は「( )」で表記されている。

○「おもひでぽろぽろ」主題歌

原曲
「ローズ」
(作詞/AMANDA McBROWN 訳/石川ゆう子)
ワーナー・ミュージック・ジャパン「ベット・ミドラー・ベスト」歌詞カードより

ある人は
愛は河だと言う
若い芽を
溺れさせる
ある人は
愛とは刃だと言う
魂に血を流させる
ある人は
愛とは飢えだという
絶え間無い、欠落感だと
私は
愛とは花だと思う
そしてあなたは
だったひとつの種

怪我を恐れる心は
一生、踊れるようにはなれない
目覚めを恐れる夢は
何かに賭けることが、出来ない
奪われることを拒む意固地は
与えることが出来ない
死ぬことを恐れる魂は
生きることを、学ぼうとしない

夜が寂しく、道が遠い時
愛とは強く、運のいい人にしか
やってこないと思う時
思い出して
冬の冷たい雪の下、奥深く
眠る種は、太陽の恵みを受け
春に萌える、薔薇なのだと

劇中使用歌
「愛は花、君はその種」
(訳詞/高畑勲)

やさしさを 押し流す
愛 それは川
魂を 切り裂く
愛 それはナイフ
とめどない 渇きが
愛だと いうけれど
愛は花 生命の花
きみは その種子

挫けるのを 恐れて
躍らない きみのこころ
醒めるのを 恐れて
チャンス逃す きみの夢
奪われるのが 嫌さに
与えない こころ
死ぬのを 恐れて
生きることが 出来ない

長い夜 ただひとり
遠い道 ただひとり
愛なんて 来やしない
そう おもうときには
思いだしてごらん 冬
雪に 埋もれていても
種子は春 おひさまの
愛で 花ひらく

○「ホーホケキョ となりの山田くん」挿入歌

原曲
「ケ・セラ・セラ
作詞/JAY LAVINGSTON & RAY EVANS

(訳/映画「知りすぎていた男」で使用された複数の和訳を参考に構成)

私がまだ小さい時 ママに訊きました
私は何になるの
美人に? お金持ちに?
するとママが言いました
ケ・セラ・セラ なるようになる
先のことなど分からない
ケ・セラ・セラ

私が学校へ行っていた時 先生に訊きました
私は何になるの?
画家に? 歌手に?
すると先生が言いました
ケ・セラ・セラ なるようになる
先のことなど分からない
ケ・セラ・セラ

私が大人になった時 恋人に訊きました
これから先の私は?
毎日毎日虹をつかむように幸せに?
すると恋人が言いました
ケ・セラ・セラ なるようになる
先のことなど分からない
ケ・セラ・セラ

今は私にも子供がいます その子が訊きます
ぼくは何になるの?
ハンサムに? お金持ちに?
すると私がやさしく言います
ケ・セラ・セラ なるようになる
先のことなど分からない
ケ・セラ・セラ

劇中使用歌
「ケ・セラ・セラ」

訳詞/高畑勲

恋をして彼に 私はたずねた
来る日も来る日も 虹のいろね
ケ・セラ・セラ なるようになる
未来はみえない お楽しみ
ケ・セラ・セラ

ケ・セラ・セラ なるようになる
未来はみえない お楽しみ
ケ・セラ・セラ

ケ・セラ・セラ なるようになる
未来はみえない お楽しみ
ケ・セラ・セラ

今では子供が私にたずねる
(ちいさいときママに 私はたずねた)
なるかな かっこよく お金持ちに
(なるかしら きれいに お金持ちに)
ケ・セラ・セラ なるようになる
未来はみえない お楽しみ
ケ・セラ・セラ

ケ・セラ・セラ

                                 (1999.6.)禁無断転載


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