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現実の時間を尊重し、演技主導型をつらぬく
高畑勲演出の技術考

文責/叶 精二

※以下の文章は「CGWORLD/2004年7月号」(2004年7月1日/ワークスコーポレーション発行)に掲載されたものです。




現実の時間の流れに逆らわず、人間の機微を表現する。一見、簡単そうに聞こえるが、アニメーションで表現するには難しい、誰もがさけようとする表現方法だ。しかし、高畑勲監督はあえて現実の時間にそった演技プランを立て続けている。現実の時間に根をはった演技主導型をつらぬく高畑監督の演出とはどんなものだろうか。

●基本は全編固定カメラ、長回し、緻密な演技プラン

 1999年6月29日、『ホーホケキョ となりの山田くん』の完成打ち上げパーティで、高畑勲監督はスタッフを労い、壇上から次のように語った。
「この映画が当たろうが当たるまいが、人が一人も来なくたって、アニメーションの表現上は成功したと思います」
 何とも大胆な発言である。マスメディアにとって、作品の成否を計る基準値は、物語とキャラクターのアピール度、そして宣伝規模と興行収入の結果でしかない。しかし、高畑監督の獲得目標は「新たなアニメーション表現の追求」が第一義。実際、同監督は常にアニメーションの可能性を信じ、果敢な挑戦を繰り返してきた。『太陽の王子ホルスの大冒険』では繊細な心理描写を、『アルプスの少女ハイジ』では丁寧な日常描写、『火垂るの墓』では日本人の骨格を再現するなど、毎回作品にふさわしい画期的な表現を優秀なアニメーターと共に追求してきた。いずれの作品も天文学的な手間暇をかけ、前人未踏の表現を達成した。
 その高畑演出の基盤は、以下の特徴にある。『全編固定カメラ(Fix)を基本とした定点観測的視点』、『10秒を超える長回しカットの多用』、『上記2つの前提となる緻密な場面設計・作画(演技)設計』の3点である。
 この3点を同時に成立させることは、セルアニメーションでは極めて困難だ。手近なテレビやDVDなどで確認してほしい。当該カットの成功例は、皆無に近いと思う。
 マンガと深いつながりを持つ日本のアニメーションは、現実の時空間を無視し、自由自在に省略・拡大・寸断する「リミテッド」技法で演出のバリエーションを築いてきた。コママンガのリズムよろしく、アップのトメ、口パクの短いカットを積み上げ、予算と技術を省力化し、量産への道を開いたのである。昨今は、ハリウッド大作からCMまで、やたらとカメラを振り回し、1秒以下のカットを積み重ね、エフェクトで時空をいじったアクションが流行だが、これは日本の「省セルアニメ」が40年間常用してきた技巧だ。こうした演出は、喜怒哀楽の記号化、つまり未熟な演技をゴマカすには最適である。高畑演出はその対局、つまり現実の時空間に根をはり、人間の機微を表現する演技が大前提となる。
 固定カメラ(Fix)は、もとは「省セル」で多用された技法だ。面倒なカメラワークを避け、短いカットで台詞や場面を説明する紙芝居型は今も流行である。もとより抽象化された絵の連続であるアニメーションでは、ゴマカシのきかない固定の長回しは無謀だと思われてきた。固定は背景移動などの情報代謝がなく、画面は落ち着いた印象になる。カットが長いほど観客は芝居に集中し、その巧拙を見抜く。演技主導の高畑演出は、あえて固定長回しを選択し、観客に真っ向勝負を挑む。
 数字で実証してみよう。高畑監督作品『火垂るの墓』は総尺88分26秒(5306秒)で892カットを使用、つまり1カット平均で約6秒。『ホーホケキョ となりの山田くん』は103分39秒(6219秒)で969カット、1カット平均約6・4秒もある。ちなみに、宮崎駿監督の『となりのトトロ』は86分20秒(5180秒)で953カット、1カット平均で約5・4秒、『もののけ姫』は133分24秒(8004秒)で1669カット、1カット平均で約4・7秒という計算になる。高畑演出のカットが、相対的にスローで長いことがおわかりいただけただろうか。
 以下、前記3点を中心に具体的なカットで分析してみたい。

●繊細な演技設計の演技主導型作品『おもひでぽろぽろ』

【画像用キャプション】『おもひでぽろぽろ』より。トシオがタエ子の分数のこだわりに触発されて、有機農業の理想を語るシーンのコンテ。上のスチルはその直後のカット(26-3)。高畑作品の絵コンテは、高畑監督自身がまずラフコンテを描き起こし、それをもとに優秀なアニメーターが清書するという共同作業で完成される。

 まず、『おもひでぽろぽろ』よりシーン26・カット2。
 これは蔵王のデートの際、分数計算ができなかったタエ子のエピソードを聞いたトシオが、そのこだわりに触発されて、有機農業の理想を語るカットである。バストアップの真横のレイアウトで歩きながら会話するだけの設計で、派手な感情表現は一切ない。
 前カットで蔵王のカルデラに向かって歩く二人を真後ろから撮した後、本カットにつながる。時間が間断なく継続しているため、本カットの冒頭でも二人は歩いている。カメラは、歩幅に合わせてゆっくりと右から左にフォローし、二人を正面に捉え続ける。
『おもひでぽろぽろ』は全編にわたり、カメラ位置が低い。このため、キャラクターの頭がフレーム外に切れているアップのカットが多い。本カットのような立ち位置でも、ほぼキャラクターの等身と同じ目線となっている。本カットでは、背の高いトシオを手前、タエ子を奧に置き、右斜め上にカメラを設定。身長差のある二人を同時に収めるレイアウトだ。
 タエ子はトシオをやや見上げ気味の目線、トシオは顎を引きやや下を見る目線で徹底されている。他の互いの主観カットの切り返しでも、トシオを斜めに入れこむ、タエ子の頭越しに見るなど、身長差を埋めるさまざまな工夫が凝らされている。
 また、このような真横のレイアウトは、タエ子とトシオの他のツーショットにも見られる。山形駅でタエ子を迎えるトシオ、蔵王のレストランでコーヒーを飲みながらの会話など。簡略造形のセルアニメーションのキャラクターは、真横から見ると凹凸が少なく、演技も単調になりがちである。しかし、本作で高畑監督は次のように語り、意図的に顔の凹凸を表現しようと試みた。真横の芝居もその一環と思われる。
「我々の顔は、頬骨のせいで正面と斜め前の印象が違う。正面から見たときは、なだらかにふっくらしていて頬骨の存在をほとんど感じさせない顔でも、斜めを向くと頬骨が見えてきて、口のわきで頬の輪郭線にややくぼみができる。それは年齢を加えるにつれてはっきりしてくる。たとえ陰影がなくても、この輪郭線の微妙な変化を捉えることができれば、年齢感を出すことができるかもしれない」(高畑勲「タエ子の顔のいわゆる「しわ」について」/「近藤喜文の仕事\動画で表現できること\」2000年 スタジオジブリ自主発行より) 
「省セルアニメ」では、トメ絵に撮影で上下動を加えただけの「歩行処理」が多々あるが、ここでは左右の足が前に出る度に、肩・首が上下に揺れるなど、フレーム外の下半身も計算された演技がキッチリ描かれている。全身で手前から奧へ歩く、逆に奧から真正面のカメラに向かって歩くなど、本カット前後の歩く演技も多彩であきさせない。『平成狸合戦ぽんぽこ』の変化シーンにも、真正面横並びの歩行カットがあるが、こうした基礎技術を活かしたカットは、実はほとんど使われていない。
 ちょうど10歩歩いたところで、トシオは立ち止まる。すると、同時にカメラも停止、以降は固定となる。ここでタエ子ははっと驚き、瞬きをする。観客も、カメラ停止でトシオの言動に注視を促される。一瞬、間があって、トシオの熱弁がはじまる。ここで聞き役だったトシオは、話し手に転じる。本カットの主役はトシオだったのだ。そのため、最初から手前に配置されていたというわけだ。
 注目すべきは拳を握った右手の演技である。話が生真面目な分、表情は変化に乏しいので、手の演技での的確な感情表現が加えられている。「都会のあとばっかり追っかけて」のセリフで小刻みに振り、「んだから、本当の豊かさっていうのは」の箇所でつい力が入り、胸まで拳を振り上げ、同時に自然と足も踏み出してしまう。トシオは自分の世界に入り込んでいるので、目線も真正面に向かっている。驚いたタエ子は止まったまま。
 次の「昔っからの農業にもう一辺こだわってみる必要があるんですよ!」のセリフの途中で本カットは終わり、次のカットで、正面斜め上から二人を捉えたカットに切り替わる。ここまでがワンカットで、何と27秒もある。
 台詞の末尾で突然カットが変わるタイミングは絶妙で、次のカットはセリフ後の余韻と共に始まる。今度は上からのレイアウトに変わり、トシオがタエ子の数歩前に歩み出してしまったことが、位置関係で判明する。トシオは変わらず手前だが動かず、奧のタエ子が歩み寄り、話しかけることで、タエ子主導のカットとなり、観客もタエ子と同様に突然のトシオの言動を理解するという設計である。
 この後も、離れたり、立ち止まったりしながら延々と会話をする二人のカットが続くが、さり気ない芝居の一つ一つが繊細に設計されている。『おもひでぽろぽろ』という作品は、演技の積み重ねで物語を成立させるという壮大な実験でもあった。

●現実の時空間を尊重する『平成狸合戦ぽんぽこ』

【画像用キャプション】『平成狸合戦ぽんぽこ』より。写真上は、妖怪大作戦をバックにオヤジ二人がクダをまいているシーンのコンテ。このカットのコンテは、オヤジ二人の演技についてのみ詳細に指定されており、後景の妖怪大作戦はまた別に現場で指示されていたと思われる(未公開のコンテが描かれていた可能性もあり)。
下は作業員に化けたタヌキたちに作業員が追いかけまわされている定点観測風のカット(30-6)

 次に『平成狸合戦ぽんぽこ』よりシーン59・カット3。
 これは、本作最大の山場である「妖怪大作戦」をバックに、団地の屋台で飲んだくれたオヤジ二人がクダをまくカットである。
 実はこのカットは絵コンテにして66コマ、計78秒もあり、おそらく全スタジオジブリ作品でも最大最長のカットだと思われる。
 カメラは屋台に座った親父のバスト上を真正面から低位置で捉え、そのまま固定。まさに定点観測的な設計である。
 真後ろの狭い空に、妖怪たちの華やかな饗宴が繰り広げられる。銀河鉄道、巨大髑髏、鳥獣人物戯画などなど……。それらは実におもしろおかしく描き込まれ、フレーム外から現われては消えてゆく。何ともったいない見せ方であることか。観客はファンタジックな妖怪たちをじっくり見たいだろうが、前景はあくまで正面向きのオヤジ二人。「狐の提灯行列が見える」「見えない」「神経のせいだろう」と、ろれつの回らない口調で意味のない会話を繰り返す。隣に座りながら目線もほとんど合わせることもなく、手振りを交えて酒をあおるオヤジ二人の芝居が延々と続く。変化は、言葉を失って立っている屋台の主人の後姿がフレーム外に出る(卒倒した?)程度である。オヤジ二人の芝居が見事であればあるほど、だらしなさ、みっともなさ、鈍感さが浮き彫りとなり、狸たちが必死で挑んだ大作戦とは対照を成す。
 前カットで「百鬼夜行絵巻」の妖怪パレードが開始され、子どもたちがこれを追って走り出し、まさに大作戦が盛り上がらんとするさなか、突然このような白けたカットが挟み込まれる。まるで自ら盛り上がりを否定するような演出である。
 高畑監督は『平成狸合戦ぽんぽこ』制作にあたり、「これはファンタジーでなく空想的ドキュメンタリーだ」と繰り返し語っていた。高畑監督は、心地よい架空世界の冒険を描くことで、現実を濾過してしまうファンタジーが巷に溢れていることに警鐘を鳴らしてきた。本作でも妖怪大作戦を前面に押し出し、「人間は反省して開発を止めました」「子供たちが味方になってくれました」とでも締めくくれば、カタルシスたっぷりのファンタジーになり得たはずだ。しかし、高畑監督はあえてそれを拒否。それは、現実に都会に暮らす狸の実像を取材し、狸の立場で人間観察に努めた結果であった。大半の人間は、生活に追われて自己都合の発想でしか物を考えず、狸の生存を賭けた暗闘など歯牙にもかけない。オヤジ二人が煩わしいのは、そこに誰でも見覚えのある実在の人物が被るからだ。観客を現実に引き戻すという意味で、このカットは十分に成功したと言える。
 現実の時空間を尊重する高畑演出は、狸たちを主人公に据えても不変であった。

●家族の日常を細々と描写した『ホーホケキョ となりの山田くん』

【画像用キャプション】『ホーホケキョ となりの山田くん』より「山田家の歳時記 秋の夜長・ドラやきとバナナ」カット8。たかしがバナナを取り上げて、それを食べるまでのシーン。

 酔って帰宅した父・たかしが眠気に誘われながら、まつ子が差し出したバナナを仕方なく口にして、モソモソと食べるカットがある。これも固定カメラで24秒。いったん皮ごと口にして持ち替えてから皮をむいて一口ずつ食べる仕草とタイミングが実に見事で、シンプルな芝居に悲哀もペーソスも複雑に入り交じっている。実写でもCGでも不可能な、手描きならではの繊細なアニメーションと言っていい。
 このエピソードは約106秒で9カットしかない。四コマ漫画の原作には、このようなゆったりとした時間の流れは存在しない。高畑監督は、コマとコマの間に現実的な時空間を発生させたのだ。
「山田くん」は原画の途切れ途切れに散った線をそのまま生かし、デジタルで水彩調の彩色を施した空前の異色作であった。それまでの社会的・政治的テーマも影に回り、細々とした家族の日常を活写した89の短編で綴られている。制作の最大の意図は、動きの魅力だけで全編を見せるというアニメーションの原点回帰であった。


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