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高畑勲 演出論

アニメーションの本流への復帰

文責/叶 精二

※以下の文章は、「キネ旬ムック/スタジオジブリとホーホケキョ となりの山田くん」(99年8月10日/キネマ旬報社発行)に掲載されたものです。掲載時には一部カットされていますが、以下が原文です。


 高畑勲監督の演出について語ることは相当の覚悟を必要とする。
 高畑監督は、常に明確な位置づけと徹底的な論理化のもとに仕事を行って来た。その映像表現は一見自然体であり、感覚直撃型の宮崎駿監督とは好対照である。そこに込められた精緻を極めた演技設計、莫大な労力、革新的技術などを全て確認出来る人は稀だろう。
 一方、従来の「高畑論」は物語の枠組みをなぞった賛辞か、勘違いによる反発などで、監督の意図を汲み取った解釈は皆無である。高畑作品の場合、印象や感性で斬り込んでも薄皮一枚も切れはしない。一言で言えば奧が深いのだ。よって、評価に際して「研究的態度」は避けられない。

● 映像によって原作を補完する

 高畑演出の特徴の一つは、原作に対するアプローチである。
 まず監督は、自らが原作を愛せるようになるまで繰り返し読み込む。携帯する原作本はいつもボロボロらしい。
 次に監督は、原作者の発想法修得を目指す。作中から最良のエッセンスを抽出し、論理的多面的な解析を試みる。毎回大学ノート数冊にびっしり準備書面を綴るそうだ。この際、同時に「アニメーション特有の表現」の可否も検討して行く。
 こうして思想的・技術的な表現の核を固めると、実践的な取材・調査・探求に入る。ありとあらゆる周辺素材を集めて検証し、原作以上にディテールにこだわり、人物の性格設計や仕草に至るまで復元を試みる。
 この準備期間だけで、数カ月から数年を費やすこともあると聞く。「速い、安い」が勝負の日本の商業アニメーションにあって、この粘りは異常である。テレビ時代、実制作に入ってからの行程は更に尋常ではなかった。監督は、アニメーションとしての完成度を高めるために、レイアウトシステムを導入、一般水準の三倍の動画を費やした。質の底上げを行うことは、同時間・同人数で三倍働くことを意味した。(後述)
 これを単純に「原作を忠実に再現する行程」と片付けるのは間違いである。実際、監督は積極的に原作を改変し、再構築を行っている箇所も多い。ある時は、原作から派生した副軸的な「外伝」まで重要な要素として語って見せている。しかし、それらのシーンが原作を損なうあざといオリジナリティ(作家性)を主張することはない。多くの場合、創作箇所は原作の作品世界を突き詰めた結果であるため、不自然な印象は残らない。
 つまり、高畑監督は「映像による原作の補完作業」に徹しているのだ。その微妙な補完行程に、演出の特徴を見出すことが出来る。
 高畑監督は、一九七一年に「長くつ下のピッピ」の制作(企画のみで制作されず)にあたり、以下のような文章を書いている。

「原作にない話やシークエンスを作る時、リンドグレーン女史になりかわってピッピらしいセリフがかけるかどうか、これも非常に重要な問題となるでしょう。」
「これはいわばアニメーションの本流への復帰を意味します。(中略)子供たちの想像力をふくらませ、遊びの解放感と発見の喜びを味わわせる方向へとその表現をたかめることを要求されているのです。」(高畑勲著「映画を作りながら考えたこと」三八〜三九ページ)

 これは二八年も前の文章だが、既にその後の演出姿勢が伺え、興味深い。「原作者になりかわる」「アニメーションの本流への復帰」という二つの課題は、未だに高畑監督の重要なモチーフとなっている。
 以下、幾つかの具体例を挙げて、高畑演出の展開をざっと追ってみたい。

(なお、各作品はいずれも脚本・レイアウト・作画・美術・彩色・撮影など優秀な各パートのスタッフとの共同作業を経て完成したものであり、監督個人の成果と評価するのは不充分だが、ここでは誌面制約上スタッフ諸氏の尽力も含めて「高畑演出」という用語で扱っていることをお断りしておく。)

●「アルプスの少女ハイジ」の場合

 まず、ヨハンナ・スピリ原作のテレビシリーズ初演出(監督)作品「アルプスの少女ハイジ」を見てみたい。
 この作品は、一話に六〇〇〇枚もの動画を使用、テレビアニメで初めてロケハンを敢行し、レイアウトシステムを敷くなど革新的野心作であった。特に、キャラクターデザイン・作画監督の小田部羊一氏、場面設定・画面構成の宮崎駿氏、美術監督の井岡雅宏氏は、高畑監督と共に年間通じて全カットを担当するという驚異的な仕事ぶりであった。
 この作品では、「スピリになりかわって」大量のオリジナルエピソードが創作された。前半部のアルムの山小屋での生活描写は原作の数倍。小鳥のピッチー、葡萄狩り、仔山羊の介抱など、いずれも忘れがたいエピソードだ。しかし、後半部にはスピリの原作とは根本的に食い違うシーンが多発する。
 車椅子の少女クララは、ハイジを慕ってアルムを訪れるが、原作ではこれに同行するのは優しいおばあさま。最初からおじいさんと意気投合してクララは問題なく山小屋に預けられる。高畑演出では、クララに同行するのは家庭教師のロッテンマイヤー女史であり、都会生活とのギャップに何かと問題が発生する。
 原作では、ロッテンマイヤーは硬直した都会人の象徴的扱われ方で、アルム滞在も拒否。以降は登場すらしない。高畑演出では、クララを思う一途な一面と、憎めないユーモラスな奮闘ぶりが描かれる。この変更により、ロッテンマイヤーは分別ある保護者としての膨らみを得て、単なる憎まれ役から脱することが出来た。
 山羊飼いの少年ペーターについても同様である。原作では、ペーターはクララにハイジを独占されることに腹を立て、車椅子を崖から突き落とし壊してしまう。以降彼は、ずっと罪の意識にさいなまれるが、物語の最後にキリスト教的な免罪が語られる。
 高畑演出ではこれを丸ごと変更。ペーターはクララを気遣って牧場まで背負って登る優しい少年である。車椅子は、クララ自身が「頼りたくない」と決意して一端しまい込んだものの、弱気になってこっそり納屋から出そうとして壊してしまうのだ。この時、クララは辛いリハビリから逃げ出そうとした自らを恥じ、本格的な歩行訓練を決意することになる。
 この改変により、ペーターをめぐる「罪と罰」の訓話的要素が取り除かれた。底抜けに明るい子供たちの遊びが浮上し、それと一体でクララの「共に歩きたい」「走りたい」という心身の葛藤が鮮明になった。クララは、他人に依存する発想を捨て、主体的意志を獲得した。自分自身との闘いに勝って初めて歩けたのである。
 原作では、歩行訓練に至る過程にクララの強い能動的意志が感じられず、代わりに「神を信ずれば救われる」式の信仰による魂の救済が語られる。更に、おじいさんの戦地での介護経験まで説明的に語られるなど、看病法の正しさも添えられている。いかにも牧師の娘と医師を両親に持つ敬虔なクリスチャンのスビリらしい描写だ。
 ヤケをおこしてグズグズ悩むペーターと、ハイジと共にクララを励ますペーター。周囲に励まされて何とか訓練するクララと、何より己の意志で車椅子を捨てて「歩きたい」と奮闘するクララ。観客はどちらの描写があの世界にふさわしいと感じ、子供たちはどちらを望むだろうか。
 高畑監督は、ハイジの天真爛漫な性格が周囲の人々を癒し結び付けて行くという基本構造は守りながら、より「解放感と発見の喜び」を与える方向を選んだ。その選択は正しかった。確かな世界の構築が、原作の人物像を越える実在感を生み出し、物語もそれにふさわしい成長を遂げたのだ。
 「原作に忠実」であったなら、あの感動はなかったのである。

●「母をたずねて三千里」の場合

 エドモンド・デ・アミーチス原作の「母をたずねて三千里」に於ける創作箇所は更に多伎に及ぶ。原作は「クオレ」の物語中で語られる「今月の話」の一編。文庫版で六〇ページ弱の訓話的短編である。
 物語の大筋は原作を踏襲しているが、影のある準主役の少女フィオリーナとペッピーノ一座、親友・エミリオ、船員ロッキーとコック長レオナルド、貧しいパブロとファナの兄弟、ガウチョの老人や牛車隊の一行、ロバのばあさまなど、愛すべきサブキャラクター達とその物語は全て創作。舞台背景も、ロケハンした実景を元に縦の構図を重視したリアルな復元が試みられた。その世界観は、年間通じて「ハイジ」と同じ担当の小田部氏・宮崎氏に、美術の椋尾篁氏、脚本の深沢一夫氏を加えた強力なアンサンブルによって支えられた。
 原作で印象深いのは、父親像の曖昧さと主人公・マルコを突き動かす動機の弱さ、夢で繰り返される死のイメージ、訪ね歩く様々な地で絶望して泣き崩れて大人に協力を頼む描写の多さである。(この印象は、むしろ楠葉宏三監督によるリメイク新作「MARCO」に近い。)
 高畑監督は、この悲惨な物語を乗り切るために、大人に媚びない少年マルコを創り、父親には市民活動家(無料診療所の事務長)という崇高な職種を与えた。高畑演出によるマルコは、子供であるが故の無力感にさいなまれながら、それでも容易に大人に頼らない独立型の少年であった。明るく素直なステレオタイプの良い子の否定、複雑な事情を抱える善悪の区分のない大人達の群像。それは、デ・シーカ監督作品「自転車泥棒」に代表されるイタリアン・ネオリアリズモを意識した作風であった。
 原作は病床の母の回復であっさり幕を閉じる。高畑監督は、絶望の旅路の代償を母子再会の感動に収束させず、少年の社会的精神的成長に膨らませた。確かな世界と人物群像を構築したからこそ、世話になった人々を訪ね歩く帰路シーンと、「素晴らしかったんだ、ぼくの旅!」という感動的台詞が生まれたのである。

●その他の作品に於ける展開

 宮沢賢治原作の「セロ弾きのゴーシュ」もまた、幾多のアレンジが効いている。
 原作ではうだつの上がらない中年男であった主人公を、「ちょっとした契機で大きく成長するのは青年期の筈」との新解釈で変更。ほのかな思いを寄せる女性まで登場。けれども、賢治文学の不思議なリアリズムや透明感は失われておらず、原作の複雑な魅力を再発見出来る作品となっている。
 監督は賢治の創作時の発想に思いをめぐらせ、「目前には岩手の自然が広がり、頭の中にはベートーヴェンの『田園交響楽』が響いていた筈」と解釈。国籍不明の舞台をあえて昭和初期頃の日本の田舎町に設定。演奏シーンでは、運指まで音楽に合わせるアニメートの徹底ぶりを発揮した。不確定要素の多い物語の再現より、具体的に「気持ちのいい音楽を鳴らす」ことに心血を注いだのである。監督は、観客が「音楽が好きになってもらえればそれでいい」と語っている。
 「火垂るの墓」については、これまでも方々で書いて来たが、監督は、現代をさまよう赤い兄弟の幽霊を創作。過去の自分たちのエピソードを見つめるという二重構造によって、現代と戦中との橋渡しを試みている。現代の神戸のイルミネーションがせり上がるラストショットは原作からは想像し得ないものだ。
 なお、原作者である野坂昭如氏は予告編の数ショットだけで、あまりの臨場感に圧倒され、「アニメおそるべし」「これは私のための映画だ」と記している。
 こうした作品に対する愛着の高じた自己同化的アプローチは、他の作品にも通底している。項数の関係でこれ以上は挙げられないが、「赤毛のアン」「じゃりン子チエ」「おもひでぽろぽろ」など他の作品にもこうした創作・改変箇所は無数にある。機会があれば改めて詳述してみたい。

●オリジナル作品への発展的展開

 こうした高畑監督の演出姿勢は、実はオリジナル作品にもあてはまる。
 「平成狸合戦ぽんぽこ」は、宮崎駿氏から「狸」というキーワードを与えられた高畑監督が一から練り上げた物語である。高畑監督の採った創作の基本姿勢は、これまでと一貫していた。
 監督は、まず狸についてのありとあらゆる情報を収集した。狸にまつわる伝承・物語・童謡・日本画・漫画・落語などの収集に始まり、狸の学術的調査を進める学者とのコンタクト、里山の狸保護活動を続ける市民グループへの取材、農家で飼われている実物の狸の観察など、何から何まで狸一色の調査活動は数カ月に及んだと言う。その結果、監督は開発によって多摩丘陵を追われるタヌキたちと人間たちとの闘争という極めて現実的な物語をベースに、ありとあらゆる狸的要素を注ぎ込んだ怪作を創り上げた。監督は「日本人と狸との歴史的関係性」という文学的・芸術的視点と「狸の急迫した現状の告発」という社会問題的視点を見事に融合して見せた。
 監督は、狸を愛し、狸の気持ちになり切り、狸の視点で現代日本を見据えた物語を作り上げた。確かにオリジナル作品ではあるが、監督自身としては「狸達から原作を与えられた」という気分だったのではないか。
 また、本作について監督が「これは空想的ドキュメンタリーであってファンタジーではない」と強調していたことも加えておきたい。現実逃避に浸れる「痛みのない架空世界」でなく、空想を織りまぜながらも「痛みのある現実世界」を目指したのであろう。ファンタジー全盛時代にあって、あえて「ファンタジーに遊ぶな、現実へ還れ」というメッセージを観客に突きつける。この、「アンチ・ファンタジー路線」も高畑監督の重要なモチーフの一つである。

●究極の本流を目指して

 このように、高畑監督は原作者、乃至演出対象の発想・着想を吸収し、作品世界に深い自己同化を遂げつつ、更に作品世界をリアルに実体化させる試みを繰り返して来た。より能動的な意志を持つ人物像を築き上げ、誠実で純粋な世界観を追求して来た。また、アニメーション技術的には、より精緻な世界を時空間丸ごと紡ぎ出す路線を邁進して来た。
 言うまでもないが、「アニメーションの本流」とは動画によって世界丸ごとを創り出して見せることである。「動かさない」ことを前提とした描き込みや、過剰な台詞、派手なカメラワークやカットバックなど、小手先の技巧に頼ることではない。その意味では、単純な線画と水彩塗装で丸ごとリアルな世界を創り出す「ホーホケキョ となりの山田くん」の試みは、まさに「究極の本流」と言える。セルアニメの限界を極めた高畑監督ならではの高次的必然的な挑戦である。
 重ねて言うが、高畑監督の作品が素晴らしいのは、「原作の忠実な再現」を目的としたからではなく、原作と真正面から向き合い、死力を尽くして格闘した痕跡をとどめているからである。
 私たちは、「高畑演出」という優れたフィルターを通じて、名作文学や名作漫画と出会い、音楽から社会問題まで知ることが出来た。高畑作品は常に「アニメーションの本流」の表現を駆使して、新たな観点で現実の社会生活を照らし出す。物語世界は自閉することなく、知性と社会性豊かな日常を歩む契機を与えてくれる。この、「二重の喜び」を何度もかみしめるべきではないか。

(1999.6.15.脱稿)



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