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弁証法的な緊張関係

−高畑勲と宮崎駿−

文責/叶 精二

※この文章は「月刊 自己表現/2月号」2002年2月1日発行(芸術生活社)に掲載されたものです。 


高畑さんを 丸いと喩えるなら
宮崎さんは 四角い
高畑さんは 海のようだとすれば
宮崎さんは 山のようだ

似ても似つかない二人だし
近頃では希な偏屈ときている
仕事のこととなると
テントウ虫の卵ほども妥協しない
でも 不思議な事に
二人はスタッフと組んで
輝くような作品を何本も作った

森やすじ「二人と私と」より(『天空の城ラピュタ GUIDE BOOK』徳間書店 掲載)

 これは高畑勲監督と宮崎駿監督の先輩アニメーター・森康二氏(故人)が二人に贈った文章の一節である。この散文詩のように、二人は対照的な作品を世に送り出して来た。「ルパン三世 カリオストロの城」(79)と「じゃりン子チエ」(81)、「となりのトトロ」(88)と「火垂るの墓(88)、「もののけ姫」(97)と「ホーホケキョとなりの山田くん」(99)。約十年周期で作られたこれらの作品だけでも、二人の作風は決定的に異なっている。
 高畑作品は日常性を重視した(本人曰く)アンチ・ファンタジー、宮崎作品は正当派の冒険ファンタジー。高畑演出は遅効性の感覚浸透型、宮崎演出は即効性の感覚直撃型。高畑監督は原作をとことん尊重するが、宮崎監督は(自筆漫画でさえ)原作を破壊して再構築する。現在では、何から何まで相容れないように思われる。
 しかし、ある時期まで二人の志向性はぴたりと一致しており、二人三脚で作品を作り出していた。「パンダコパンダ」(72)「同 雨ふりサーカスの巻」(73)「アルプスの少女ハイジ」(74)「母をたずねて三千里」(76)などの作品では、高畑氏が演出を、宮崎氏が場面設定や画面構成などを担当。「子供達を心から喜ばせたい」という健全な動機の下、驚異的なハードワークで平凡な日常を丹念かつ魅力的に描いて見せた。それは、新たなアニメーション表現の開拓であった。宮崎氏はこの時期を「思い出しても胸が熱くなるTぼくらの時代Uだった」「この時代を共通分母として
それぞれの道を歩んでいる」と述懐する。
 「三千里」以降、地味な日常描写に傾く高畑氏と、冒険活劇路線に惹かれる宮崎氏の方向性は次第に離れて行く。宮崎氏が「未来少年コナン」(78)で演出として自立を遂げると、高畑氏は中盤のコンテでサポート。続く「赤毛のアン」(79)の中途で従来型のコンビはついに解消する。以降は監督同士として並び立つ新ラウンドを迎える。
 その後も協力関係は継続するが、それは暗黙の不可侵条約の下に互いの職務を全うする分業型に落ち着いた。「風の谷のナウシカ」(84)「天空の城ラピュタ」(86)では、高畑氏がプロデューサーで宮崎氏が原作・脚本・監督。「柳川堀割物語」(87)「おもひでぽろぽろ」(91)では、逆に宮崎氏がプロデューサーで高畑氏が脚本・監督を担当。互いにプロデューサーとしては、監督を尊重し創作上は一切口を挟まないという理想的管理職に徹した。それは深い信頼関係を前提としてはいるが、一端口を挟めば監督同士の深刻な衝突になってしまうことを互いに自覚していたからでもあった。

 宮崎氏は高畑氏のねばり腰を「大ナマケモノの子孫」と揶揄する一方、「悪口は限りなくあるが、他人が悪口を言うのは許さない」と語る。高畑氏は宮崎氏の才能を「類希な天才」と讃える傍ら、「余りに良く出来ているために観客がファンタジー漬けになってしまう危険性」に警鐘を鳴らす。発言だけを採り出すと丁々発止だが、相手への回答は常に作中で行っているように思われる。
 たとえば、「千と千尋の神隠し」(01)で大きな変化もない日常に帰還する千尋は、閉じた架空世界に終始していた過去の宮崎作品とはひと味違った印象を残す。ここには高畑氏の「現実に帰還せよ」という問題提起に対する回答が含まれていたのかも知れない。また、宮崎氏はヴァーチャルな映像世界だけでなく現実に見て触れることの出来るファンタジー空間を「三鷹の森ジブリ美術館」として完成させた。高畑氏は、これに対し「ホンモノの魅惑的空間を作り、子どもたちの自発的な好奇心を引き出そうする試み」と熱烈な賛辞を贈っている。
 作品の相互批判や評価を通じて、より高次の創作を呼び込むという特殊な意志疎通は、高畑氏の言葉を借りれば「弁証法的な緊張関係」と言えるだろう。



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