HOMEへ戻る

スタジオジブリの後継監督育成史
「猫の恩返し」へ至る長い道のり

文責/叶 精二


 以下の文章は、2002年7月17日発売の「ダカーポ 2002年8月7 日 第496号」(マガジンハウス)の巻頭企画「みんな大好き!スタジオジブリ大研究」に掲載されたものです。同特集には他のコーナー・記事にも叶が協力しました。掲載時のタイトルは、「スタジオジブリの後継監督育成史〜最新作『猫の恩返し』へ至る長い道のりと今後の展望」。再録にあたり、原文のタイトルに戻しました。


●新人監督輩出が困難な理由

 スタジオジブリは、1985年に高畑勲プロデュース・宮崎駿監督作品「天空の城ラピュタ」(86)を制作するに当たって設立された。以来17年間で70分以上の長編が13本、短編・CM・テレビスポットが各数本制作されて来た。
 長編作品の内訳は、宮崎駿監督が6本、高畑勲監督が4本、望月智充監督が1本、近藤喜文監督が1本、そして森田宏幸監督が1本である。当初より、ジブリは高畑勲・宮崎駿という突出した才能を支え、実制作を担うスタジオという位置づけで、二人が交互に作品を作ることが前提であった。高畑・宮崎両監督は、脚本・絵コンテ・作画チェックなど要職を兼任する責任集中型ハードワーク(通常は複数で分け合う)が特徴だ。流行(エロ・グロ・ナンセンス等)と無縁の健全さと独創性を貫き、キャラクター演技の省略記号化を許さず、手間暇をかけた演技設計に挑んで来た。予算と制作規模に見合う媒体が劇場用に絞られたのは必然であった。しかし、結果としてジブリでは無名の新人監督でも最初から失敗の許されない劇場用長編に挑まざるを得ない。観客も、高畑・宮崎両監督のクオリティを一種の基準線として評価する。その重圧は想像以上であろう。
 しかし、ジブリが次世代監督(演出家)の養成・発掘を怠ってきたかと言えば、そうではない。

●前史「アンカー」「魔女の宅急便」


 宮崎監督は、テレコム・アニメーション フィルム社時代の「名探偵ホームズ」(82)に於いて、既に当時無名の新人を脚本に起用、社内から新人演出も輩出している。「風の谷のナウシカ」(84)企画時には、若手脚本家・伊藤和典氏の起用が検討されたが、実現せず。86年頃には押井守氏を監督に、夢枕獏氏を脚本に想定した豪華企画「アンカー」が検討されたが、これも実現しなかった。
 この流れを汲む形で、「魔女の宅急便」(89)では宮崎氏はプロデューサーに徹し、実制作には新人監督・外部脚本家を立てる予定であった。角野栄子氏の著名な児童文学に材を採ったのも、一からオリジナルを作るリスクを回避する目的があったと思われる。若手スタッフ中心で準備作業が進められたが、諸般の事情により難航。結局、宮崎氏が責任を取るという形で監督を兼任。氏は、前年の「となりのトトロ」(88)から休養なしに現場に入ったと聞く。

望月智充監督作品「海がきこえる」

 再び「次回作は若手で」という宮崎氏と鈴木敏夫氏(現・スタジオジブリ代表)の提案で、社外から新鋭・望月智充監督を招き「ジブリ若手制作集団」を結成して制作された作品が「海がきこえる」(93)である。「月刊アニメージュ」に連載された氷室冴子氏の小説を初のテレビ用長編に仕上げた。望月氏と作画の近藤勝也氏が二人三脚でコンテと世界観を構築。淡々とした日常芝居、ハイコントラストの美術なども効果的で、技術的には劇場用と遜色ない仕上がりであった。しかし、単発テレビ枠では予算的に見合わず、ビデオ販売など二次収入で赤字を補填する形となり、テレビ進出の難しさが浮き彫りとなった。また、宮崎氏はこの作品の好き・嫌いのはっきりしない男女の機微に怒ったそうで、内容的には「作り手が若返れば感覚も志向も違う」という自明の理を証した傍系作となった。

●近藤喜文監督作品「耳をすませば

 結局、劇場用大作の新人監督起用は「耳をすませば」(95)が初となった。当初「佳作・小品」が目標であったが、途中から大作長編に移行。監督の近藤喜文氏は、高畑・宮崎両氏が最も信頼を寄せるベテランアニメーターで若手ではない。いわば高畑・宮崎両氏とも感覚を共有出来る本流の後継者であった。宮崎監督は、短編「そらいろのたね」(92)で既に近藤氏に演出・絵コンテを任せていた。「耳をすませば」では、宮崎氏が原作を選考し近藤氏を監督に指名。絵コンテを描き下ろし、多方面でアドバイスを行い、裏方に回ってバックアップ。宮崎色が濃厚な作品でありながら、演技のテンポや間合いなどに自然派の近藤色が滲む好篇となった。概ね意図に適った作品が世に出ることとなり、宮崎氏も満足であったろう。
 強烈な個性で全体をまとめ上げる宮崎氏と違い、寡黙で実直な近藤氏は若手スタッフの意見によく耳を傾け、悩みながら淡々と作業を進めていたと言う。若手育成の意味でも近藤氏が監督作を撮り続ける意味は大きなものがあった。次回作は自らコンテを切ることを予定していたと思われる。
 しかし、近藤氏は「もののけ姫」(97)の作画監督を終えた98年1月、47歳の若さで急逝されてしまった。関係者の深い哀しみと共に、こじ開けられたジブリの新たな可能性は再び閉ざされてしまった。
 その後のジブリは多機軸の展開を見せる。高畑勲監督作品「ホーホケキョ となりの山田くん」(99)では、新鋭・田辺修氏とベテラン・百瀬義行氏が共に演出を担当。田辺氏は「アサヒ旨茶」(01)「ローソン」(01)等のCMを制作、百瀬氏は「ギブリーズ」(99)「ギブリーズ episode 2」(02)の監督を務めることとなった。共に簡略化されたキャラクターや実験的画風のフルデジタル路線を押し進めており、新たな潮流となっている。
 また、三鷹の森ジブリ美術館で上映中の短編「くじらとり」(01)「コロの大さんぽ」(02)の二作は共に宮崎監督作品だが、「演出アニメーター」という新たな職種に社内の実力派が起用されている。

●森田宏幸監督作品「猫の恩返し」

 そして、02年森田宏幸監督の「猫の恩返し」が完成。この作品も、「ビデオ用中編」の当初案が劇場用に発展した。宮崎氏が森田氏を監督を指名、負担軽減のために原作を「耳をすませば」の柊あおい氏に依頼した経緯も従来通り。しかし、森田氏以下メインが外の仕事で腕を磨いて来たスタッフであること、監督自ら緻密な絵コンテを描き下ろしている点、日常芝居だけでなく波瀾万丈の活劇を含むエンタテイメントである点などが、従来の新人監督作とは異なる。傍系・直系双方のテイストが混在した作品と言うべきか。
 過日、鈴木敏夫氏に伺ったお話によれば、「いつまでも高齢の高畑・宮崎に頼っているわけにはいかない」「今は実力のある若い人がジブリを使いこなして自作を作るチャンスだ」とのこと。「猫の恩返し」が成功を収めれば、新人監督を招いて映画を作るという新たな展望が開ける。ジブリ作品の豊かなバラエティと将来性のためにも、業界全体の底上げのためにも、この試みの継続を切に願う。


コーナートップへ戻る