立正寺と日惠聖人(神明山立正寺の開山聖人物語)

    


          立正寺と日惠聖人
 開山日惠聖人は 明治31年に群馬県多野郡岩平村の農業篠原安五郎、
妻セツの長男として誕生し、名を八百蔵といいました。長男ではありま
したが、12才にして大志を抱き横浜の刺繍業小沢保一氏の元で働きま
した。若き日惠聖人こと八百蔵は当時のことを「奉公人が勉強すると怒
られるので押し入れに隠れてランプの光で勉強していたところ親方に怒
られたので『人として学問のない者は目の上にまゆ毛がないのと一緒で
す』と反発、以後許しを得て早稲田の通信教育を受け勉強した」と語っ
ておりました。大正8年には神沢コウと結婚し4男2女を得ました。
 宗祖日蓮聖人との御縁は、ある日夢枕に神明大明神が現われ「汝 
過去世に於いて衆生済度(人々を助けた)せり、神通力を授ずく よく
法華経を広めよ」と二度までも同じ夢を見て一念発起して仏門に入った
のでした。その縁により、昭和3年には山梨県の赤沢妙福寺の井出春省
上人に就いて出家得度をしそれ以降はもっぱら法華経弘通の道を歩まれ
ました。当 立正寺の前身である西区浅間町2丁目の神明教会において
は、苦悩する人々の良き相談相手となり、守護神の神明大明神の力を得
て、信頼を確実なものとされ、法華弘通においても目をみはるものがあ
りました。
 昭和9年には山梨県の学定寺の住職、17年には同県赤沢の神力坊住
職となりました。この間にも横浜の布教伝導にも力を惜しむことなく教
線を広げており、昭和11年には日蓮大聖人立教開宗の聖地、旭ケ森の
景観を横浜の地に求め、現在のこの地に、幼き頃より蓄えたすべての私
財をを投じ本堂、客殿等を建立したのでした。開山日惠聖人は、その苦
しき時に建立せしめた時の思いを、「情熱と信念と努力があれば何事も
成就する、法華経を信ずればなおさら」と語っておりました。
 立正寺の開祖となって以後もその力を惜しむことなく発揮し昭和41
年には、布教伝導の先兵隊ともいえる専任布教師に任命されました。
地域社会においても民生委員、保護司、選挙管理委員、裁判所調停委員
を務め、すべての人々を理解し地域に密接しながら、法華経の無量の利
益(りやく)を説いてまいりました。それは98年間に開山聖人に与え
られた使命とはいえ日本の時代の変化のもっともすさまじいときでした。
時を超越した法華経の如くに開山日惠聖人は、この横浜の地に艱難辛苦
を破邪し、法華経弘通の拠点を草創されたのでした。この業績は多くの
人々に讃えられ、昭和33年には県知事表彰を贈られ、45年には日蓮
宗管長表彰を受けさらに昭和50年には内閣総理大臣より藍綬褒章を授
与されるという栄誉に浴しました。晩年も読経修行を忘れず、また、
よく書を好み、研鑽に励んでおり、新聞を通して、時事問題を把握、
読書は真夜中にまで及ぶことがよくありました。
 平成7年5月25日、自分の部屋にて、家族、子、孫、曾孫、全員の
見守る中、副住職の腕の中で、合掌し、涅槃に入って逝きました。
 今 開山日惠聖人の遷化にあたり、この血脈を法悦に感じ、一文を記
しました。                    
               
平成7年5月25日   住 職 篠原顯紘  副住職 篠原顯祐

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