1,000 knives of thought (思想の千のナイフ) - 回答

knife 1
脳の前に人は平等である。説明しなさい。
98/8/1

生物なら何であれ、 その種に属する個体がすべて均一の速度で成長するなどということはありえない。 その個体の遺伝的特性、そして環境条件 − その個体が置かれた場所の湿度、温度、栄養状態、日照時間など − によって、 例えば昆虫なら成虫になるまでの時間はまちまちになるはずである。 それは人間であっても例外ではない。

ところが日本では、20歳を迎えた国民は全員、成人と見なされる。 それは法律でそのように定められているからである。

法律は個体の生物的な特性を捨象して、全員を同じように扱う。 そんなことは脳だからこそできる芸当である。 捨象というのは認識の過程に起こることで、認識しているのは脳だからである。 勿論、脳が法律を定めているのだ。 従って、脳の前に人は平等である。

Kenji Saito

knife 2
心の平安を求めるので、インドとパキスタンは仲が悪い。 どういう意味だと思いますか?
98/8/2

そもそも、心も自然現象の一つであり、人間の手に負える種類のものではない。 はなから平安ではありえないもの、それが心である。 それが平安である (ことができる) というのだから、 そう思い込んでいるだけなのだろう。 思い込み方は人によって違いがあるし、文化によっても大きく異なるだろう。 また、思い込んでいるのだから自分こそが正しいと思っていて当然である。 自分が正しいのなら相手が間違っている。 同じように思い込んでいる人々が味方で、 異なった思い込み方をしている人々は敵となるだろう。 多くの紛争の原因はこんなところにあるように思う。

Kenji Saito

knife 3
あなたの裸体はあなたのリアルな身体ではない。何故?
98/8/3

勿論、裸体をリアルと見なす見方もあり、 その場合リアルとは人間の認識している姿とは異なる、自然の姿という意味になる。 設問では裸体はリアルではないと言っているのだから、 その前提で考えればここでのリアルとは自然の姿ではなく、 人間にとってのリアルさを言っているということになるだろう。

そもそも、裸体は人間にとってリアルではないからこそ、人は服を着ると考えられる。 それ以外に人間が服を着なければならない理由はあまり考えられない。 防寒など機能上の理由から服を着ているのであれば、 必要ないときは裸体でいても平気なはずである。 しかし日本では、いくら暖かい日でも裸体で外に出れば逮捕されてしまうし、 何よりも自分が恥ずかしい。 裸体は日本の日常生活では、街中に現れたら困るもので、 もし現れたらその場の現実感は損なわれるだろう。 つまり、それは自分の目を疑うような光景であるということだ。 現れたら現実感が損なわれるようなものが、人間にとってリアルなわけがない。

Kenji Saito

knife 4
菜食主義は人間中心主義の一種である。真か偽か?
98/8/4

真。 菜食主義を通す理由にもいろいろあるとは思うが、 一般に主義として動物起源の食べ物を口にしないのであれば、 その理由は「人間は他の生物を殺さなくても生きていけるはずだ」 という信念にあるといえるだろう。 一方、嗜好によって動物を食べないのであればそれは単なる好き嫌いである。

しかし、動物を食べないからといって、植物の死体は食べるわけだし、 また免疫システムを備えて生きている以上、 体内に侵入してきた生物の多くは恒常的に殺しているはずである。 それに歩けば昆虫も踏み潰しているだろう。 動物を食べないことにより安心するのは自分が動物であり、 自分を中心に置いて仲間意識を持てる生物だけを対象に考えているというのが一点。 そして信念という大脳の働きによって、 個体全体の生存に関わる「食」を制御して構わないと考えるのは 大脳偏重主義的であるというのがもう一点である。

Kenji Saito

knife 5
あなたの一生は一枚のコンパクト・ディスクにデジタルに記録できる。 どうやって?
98/8/5

一生大切にしていた(していこうとしている)もの(こと)の 呼び名をファイル名にして、拡張子を「 .*」にする。ファイル の中身には自由にテクストとかを記入するのがいいんじゃないかな。

「データ化される人間」ってテーマでは、唯脳論的なことを考える のが主流の一つだと思います。といっても私は唯脳論のことはよく わかんないんだけど・・。

情報って我々の感性が何かに触れて、それで感性が「動く」でしょ、 そこで初めて「何か」は「情報」へとコンパイルされる。とすれば、 情報は人の数(感性のある数)だけ種類があると思います。「何か」 っていうのは「情報」と対局する、いわゆる「データ」ってやつです ね。対して「情報」はまさに解釈そのものですよね(詳しくは情報 処理試験の辞書を参照のこと。ごめんなさい)。

あと、自分の中である人物が存在するっていう概念は、「データ」を 私たちが持っているからじゃなくて、自分の感性が生成した「情報」 を持っていて、それが成り立たせていると思うんですね。

フロッピーにデータとして納めるんだから(えっデータじゃないの?)、 万人がそのデータに触れて、解釈される人物像(えっ解釈されることが 目的じゃないの??)、それは誰が触れても均一的であることが、 ここでは大事なことですよね。「人の一生」っていうのは「情報」 だと思います。「データ」じゃない。でも、ここでは「情報」を納め ようとしてるんですね。

ここが難しい。だって受け手によっていろんなふうに変わっちゃう 「情報」を敢えて「データ」として納めるわけでしょ、さらに受け手が 生成する情報を均一にしよう、っていう話でしょ? 何で均一的になら なきゃいけないかっていうと、受け止めさせて解釈させようとするもの 自体が「これが私の一生ですよ」っていうふうに決定されてなきゃ、 ここでの目的は達成できないからですね。

それが大事じゃないっていうデータ設計思想であれば、手にとれる出来 る限りのデータをとことん圧縮して納めればいいと思います。生成 される「人生」の有り様を受け手にゆだねてね。これだったら結構 現実的ですよ。ある程度均一にすることもできる。それはまさに芸術の 志向ですね。芸術は青春ですよねー(^^)。芸術は切ないですよねー(;;)。 だから芸術ってエッジなものかも知れませんねー(-o-)。これなら大丈夫 です。いけますよ。

やっぱりこの場合、人間の一生を記録するってのは不可能だと考えます。 「誰が触れても均一的であることが大事」って言いましたけど、これは 難しいですよ、不可能なんじゃないかな?

だから、データを読みとる人に対して、せめてものヒントぐらいしか 提供できないんじゃないかなー、と。思ったわけでございます。

Kouhei SAITOH

数値化が可能なものならデジタルに記録できる。 自分の一生が数値化できるかと問われれば、 部分的にはできるとしても (納税額とか(笑))、全体的には不可能ではないにせよ、 とても一枚のコンパクト・ディスクに収まる程度のデータ量にはならないように思える。 それは例えば生まれてから死ぬまでに五感から入力された信号すべてを記録することを 意味するだろうからである。

しかしデジタルな記録の本質はサンプリングであろう。 サンプリング周波数を十分に下げれば一枚のコンパクト・ディスクに格納できる 682MB にデータ量を削減できるはずである。 ただし、それを再生した時に人間がそこに意味を読み取れるかは保証できない。

人間の感覚に特徴的なのは (おそらく他の動物でもそうだと思うが)、 視覚の方が聴覚よりもずっと低いサンプリング周波数に耐えられることである。 例えば聴覚では 40kHz 程度でようやく可聴域をカヴァーできるのに対し、 視覚では 30Hz 程度のサンプリングで十分に動画を認識できる。 更にはたとえ 1Hz でもフレーム間の動きを補完しながら観ることができるのは、 漫画を読む人なら実感として分かることではないだろうか (もちろん漫画では様々なテクニックを駆使して補完を容易にしているのだが)。

そこで例えば、生まれてから死ぬまで、 毎日同じ時間に正面から顔を撮影した画像を圧縮して QuickTime ムービーを作ったらどうだろうか。 これを 30 fps で再生すると、80 年の人生だった場合、 約 16 分の短編映画となる (丁度「アンダルシアの犬」くらいだ)。 これは人生の記録として申し分のないものではないだろうか。 1フレームずつゆっくり眺めていったとしてもその価値は損なわれることはない。 これは先に述べた視覚の特徴に加え、 他人の認知にとって顔が果たす役割の大きさを応用したものである。

Kenji Saito

knife 6
形容詞は名詞よりもヒューマニスティックである。どんな意味で?
98/8/6

「ヒューマニスティック」という言葉の意味には二通りある。 「人道主義的」と「人文主義的」である。 そして出題者に特徴的なこの言葉の用い方は主に後者だと思う。

名詞も形容詞も言葉であり、人間の抽象化能力の現れであるから、 どちらもこの意味では人間であることとの繋がりは大きい。 ただし、名詞は事物そのものを示す言葉であるのに対し、 形容詞は事物を形容する言葉で、 他の事物と比較したり (例: 美しい、軽い、速い、大きい、高い) その事物が置かれている状況を観察したり (例: 赤い。何故なら色は光の反射であるから) しなければ発話されないものである。 比較したり観察するのは人間であるから、 形容詞はより人間中心的な種類の言葉といえる。

Kenji Saito

knife 7
男に経済的に依存している女はすべてヒモである。真か偽か?
98/8/7

本人の選択により依存しているのではない場合があるため偽。 すなわち、

  • 男のプライドの犠牲になっている場合
  • 非営利の活動により労働のために使える時間がない場合
  • 病気で働けない場合
  • 法律により就業が認められない場合

などである。

Kenji Saito

knife 8
匂いはインターネットを通して伝達できない。真か偽か?
98/8/8

偽。 インターネットを通して伝達できるクラスの匂いは存在する。 それは

  • 再現方法が標準化され、
  • 名前を付けることができる種類の

例えば香水や芳香剤などの匂いである。 これらの場合、送信側で名前を指定すれば受信側で匂いを再現できる。

Kenji Saito

knife 9
盲人が色を認識するのは不可能である。真か偽か?
98/8/9

偽。 可視光線の周波数を可聴領域の音の周波数に変換する装置を用いれば、 原理的には色を聴くことができるようになるはずである。

Kenji Saito

knife 10
時々、人間も擬人化される。どういう意味ですか?
98/8/10

自分がよく知らない人間を、他のよく知っている人間をモデルとして捉えるとき、 それは人間を擬人化していると言えるのではないだろうか。

Kenji Saito

knife 11
お金は不浄な存在である。真か偽か?
98/8/11

お金を不浄と見なすのはよくある見方だが、正確ではないように思う。 お金は「払う」というくらいだから、不浄なものを浄化するために用いるものだろう。 とすれば不浄なものにいつも付いて回るのがお金だから、 お金が不浄であるという印象もここから生まれているのではないだろうか。 実際に不浄なのは支払いを要するトランザクションだと思う。

Kenji Saito

knife 12
もし誰かが反駁不可能なら、その人は信じるに値しない。説明しなさい。
98/8/12

スティーヴン・ジェイ・グールド教授の著書「ニワトリの歯」 で同様の意見が述べられている。 論拠のある意見なら、 その論拠が事実と適合しないことを証明することにより反駁が可能であるし、 あるいは論拠から意見が論理的に導かれないことを証明するのでもよい。 例えば同位性元素を用いた年代測定方法に基づく化石の年代の測定では、 論拠として用いられている同位性元素の半減期が間違っていれば 測定された年代は正しくないといえるから反駁の余地がある。 誰でもその気になれば正しさを検証することができるのである。 対して、聖書に書かれている年代は、聖書が絶対とする限り反駁できない。 すなわち、誰もその正しさを検証することができない。 誰も正しさを検証できないものは信じるに値しない。

一方、故カール・セーガン博士原作による映画「コンタクト」では、 この問題に対して主観を絡めた更に突っ込んだ考察を与えている。 証明に重きを置く主人公の電波天文学者エリーに対して、 恋人である神学者は彼女が自分の父親を愛しているか、 そしてそれを証明できるかを聞く。 主観は証明できない。 しかしそれは信じるに値する場合がある。

Kenji Saito

knife 13
何故、人は念力ごっこをするとき足ではなく手を動かすのか説明しなさい。
98/8/13

念力を説明する際、「手を触れずに物を動かす」とは言うが、 「足を触れずに」とは普通言わない。 物を動かすという行為で前提になっているのは手であり、腕のようである。 実際、我々は直接手を触れずに物を動かすことがよくある。 小さいものを動かす時にはピンセットを使うし、 食べ物を口に運ぶ時には箸やフォークを使う文化も多い。 人間が用いる多くの道具は手に握るものであり、 人類の歴史で最初の道具もそうだったと考えられる。

そもそも、何故念力のようなものを多くの人間が思い付き、 何の批判もなしに受け入れるのだろうか。 一つの答えは、それが人間の性質であり、より正確には、 人間の性質による副作用だからである。 例えば、テニスラケットを握ってボールを打つとき、 腕に限らず全身の筋肉の動きは素手でボールを打つときとは異なっている。 何よりも、肩からボールが当たる場所までの距離が、 ラケットを握ると延長されるからである。 あたかも腕が伸びているかのように運動する必要があるのだから、 少なくとも脳にとって、ラケットを握ると自分の身体が延長されるといえる。 また、状況に応じて身体を延長することができる脳だからこそ、 道具が使えるといえる。 そして道具を持たずに身体を延長すると、 念力が使えるかのように錯覚することになる。

道具を持たずに身体を延長した状態で物を動かそうと脳が思えば、 その延長した目にみえない身体を動かそうとするため、 延長されていない生身の身体が動くことになる。 具体的には、延長した身体と繋がっている腕や手が動くことになる。

Kenji Saito

knife 14
間違いが詩的であるような例を一つあげなさい。
98/8/14

ボウリングで、手が滑って隣のレーンに玉を投げてしまい、それがストライクだった。 (ほぼ実話)

Kenji Saito

knife 15
男と女は人間の目にだけ平等に映る。真か偽か?
98/8/15

真。 平等は自然界には存在しない。

Kenji Saito

knife 16
戦争は常に悪である。真か偽か?
98/8/16

偽。 戦争は常に正義である。 何故なら、何が正義であり、悪であるかを決めるのは常識であり、 戦時下では、何らかの理由により戦争が正当化されていて、 自国の主張が正しいことこそが常識となるからである。

Kenji Saito

knife 17
動物のすべての行動はその起源において病的だった。真か偽か?
98/8/17

真。 行動が病的であるということは、 その行動が常識と照らし合わせて逸脱しているということになると思う。 ある行動の起源を問題にする場合、 起源というからにはその行動はそれまでなかった、 従って常識外の行動だったと言うことができるだろう。 だからすべての行動はその起源において病的だったといえる。

勿論、病的だと判断を下す主体となるのは、 常識の概念を持つ動物、すなわち文化を持つ一部の動物だけである。

Kenji Saito

knife 18
目を閉じて散歩することから学べることを列挙しなさい。
98/8/18

自分の家の周りはどんな音で満たされているか。 自分のメンタル・マップはどれだけ正確か。 車が自分のそばを通りすぎるときは、身の危険を感じるとはどういうことか。 自分が日頃どれだけ視覚に依存しているか。 この街のデザインではどれだけ目の見えない人のことが考えられているか。 近所の人たちは自分にどれだけ親しみを感じているか。 勇気とは先が分からないときに一歩を踏み出すことだと言われているが、 その通りかどうか。

Kenji Saito

knife 19
今あなたが思う未来はすでに時代遅れである。何故?
98/8/19

今思っていることであれば何でも、 脳の中ですでに起きた過程であり、過去のことだから。

Kenji Saito

knife 20
動物には人権が与えられるべきである。真か偽か?
98/8/20

偽。 人並みに扱われることが動物のためになると考えるのは人間の思い上がり。

Kenji Saito

knife 21
どうしたら汚れが美しいと感じられるか教えてください。
98/8/21

匂いを嗅いだり、食べ物を味わうように目や耳や肌触りの感覚を磨くこと。

Kenji Saito

knife 22
嘘と冗談の違いを説明しなさい。
98/8/22

月並みだが、嘘は偽りを伝え、冗談は真実を垣間見せる。 ちなみに月並みならかなり巨大だと思うがどうか。

Kenji Saito

knife 23
我々の寿命は短いので、世界は時に狂っているように見える。説明しなさい。
98/8/23

精神科医のなだいなだ氏の著書「くるい きちがい考」によれば、 狂いとは常識からの逸脱であり、 自分が狂っているように見えるのは世界の常識から自分が逸脱しているから、 世界が狂っているように見えるのは自分の常識から世界が逸脱しているからだという。 自分の常識は自分が生きていく過程で培われていくもので、 それが例えば20歳までに大体固まったとしたら、 人生100年としてその後の80年間は 周囲の状況が変化するたびに世界が狂っているように見えることになる。 もし仮に寿命が1,000年もあれば、 その長い人生の間に、世界の常識とは変化するものだということも、 そしてそれに追従していく技術も学習できるだろう。 だから世界が狂っているとは思わなくなるかも知れない。 勿論、こんなことは別に1,000年生きなくても、 複数の文化圏で生活すれば分かることだと思う。 この意味において、いろいろな国で生活することは、 人生を長く生きることと同じだけの価値がある。

Kenji Saito

knife 24
学ぶことは、狂うことである。真か偽か?
98/8/24

真。 常識から逸脱した考え方をするのが狂うということなら、 常識を覆すような発見が生まれる学問という行為は、 狂いに近づくことだと言えはしないだろうか。

Kenji Saito

knife 25
カルチャーショックは狂気と区別がつかない。真か偽か?
98/8/25

真。 カルチャーショック状態にある人を観察すれば、 所謂狂っている人と見分けがつかないことが分かるはずである。

例えば、日本では家に入る時に靴を脱ぐ習慣があるが、 外見は一般的な日本人と変わりがない、 日系3世のアメリカ人が初めてあなたの家に来るとする。 彼がアメリカ人であることをあなたは知らない。 そして彼は日本のことを一生懸命勉強してきていて、流暢に日本語を喋る。 あなたは英語を解さない。 玄関での簡単な挨拶のあと、彼はついうっかり靴を履いたまま家に上がってしまう。 あなたは狼狽して、「あああああああの、靴を」と言う。 彼はあなた以上に狼狽して、靴を脱ぎながら、 「すみません、ついうっかり」と弁解する。 しかし狼狽しているので、自分が英語を喋っていることに気づかない。 あなたは自分の家の玄関先で片足で飛び跳ねながら 分けの分からないことを口走るこの男のことをどんな目で見るだろうか。

Kenji Saito

knife 26
正気を保とうとして過激な努力をするあまり狂気に至る例を一つあげなさい。
98/8/26

初めて訪れた大好きなおばあちゃんの国日本で、 靴を脱がずに家に上がってしまうという大失態を演じた彼は、 二度と同じ間違いは繰り返さないようにしようと誓う。 その甲斐あって、彼は行く先々の家で無事に靴を脱ぐことに成功するが、 靴を脱ぐことが一種の強迫観念に至っていることの自覚がなかった。 気がつくと、電車に乗るときにドアの前で靴を脱いでいる自分がいた。

Kenji Saito

knife 27
片足を上げて料理をすることの効能をいくつか述べなさい。
98/8/27

1. 平衡感覚が養われる。 2. 筋力がつく。 3. お腹が空くので食事が美味しくなる。 4. 刃物を使うときなどスリルを味わえる。 5. 日常生活が新鮮味を増す (最初の数回だけ)。

Kenji Saito

knife 28
音楽で会話することは、互いの違いを知るのによい方法である。何故?
98/8/28

音楽は、それが原始的なものであるほど、言葉に翻訳できない。 言葉に翻訳できないということは、 人間が共通に理解できる基盤を持たないということであり、 それだけ個人的な部分が捨象されていないといえる。 そのような音楽を交換すれば互いの違いがより明らかになるはずである。

現在広く聴かれている音楽にはある程度言葉に翻訳できるものが多い。 それは、複数の人間がひとつの音楽を作る場合、 言葉でコミュニケートしながら作るからであり、 どうしても音楽以外の記号や言葉で表現できる種類の音楽になってしまうからである。

ところがテクノロジーは、 音楽を作る際の他人との言葉でのコミュニケーションを無用にした。 それはたとえ複数人で作る際でも同じである。 同じ時間、同じ場所にいなくてもひとつの音楽を作れるようになったからである。 そのようなテクノロジーを用いて作られた、 広く「テクノ」という言葉で括られる音楽は非常に多様で個人的であり、 音楽が今、その起源に還りつつあることを如実に物語っている。

Kenji Saito

knife 29
よい音楽は泥のようですか?それともよい泥は音楽のようですか?
98/8/29

泥の感触を愛好するフェティシストにとっては両方が成り立つと思う。

Kenji Saito

knife 30
どんな意味で恐怖は重力に似ていて、愛は電気に似ていますか?
98/8/30

重力には引力しか存在しないが、恐怖にも反対の感情が存在しない。 一方、電磁気力には引力と斥力が存在するが、 愛にも親しみと憎しみの正反対の感情が存在する。

Kenji Saito

knife 31
狂気は伝染する。真か偽か?
98/8/31

真。 狂気の正体は、母集団の常識から逸脱した考え方であり、 考え方はコミュニケーションにより伝達されるから。

Kenji Saito

ヒューマニズムは馬鹿げている。

mailto: ks91@cornell.edu