花 火 特 集

 今月は8月ということもあり、花火が真っ盛りの時期なので花火について調べてみました。

 花火は夏の風物詩として親しまれていますがいつ頃から楽しむようになったのてしょう・・・


<花火の歴史>
 かなり昔から行われていると思っている花火、鑑賞用としての歴史は以外と浅く古くはものを爆発させる、または、大きな音を出すことに使われていました。だから花火の初期は昼間に使われることが多く、夜の暗闇で「いろ」を楽しむことはしませんでした。また、広辞苑を調べてみましょう・・・

はな‐び【花火・煙火】
黒色火薬に発色剤をまぜて筒につめ、または玉としたもの。点火して破裂・燃焼させ、光・色・爆音などを楽しむ。通信にも用いた。張筒から空中に放つ打上花火、装置して物の形を見せる仕掛花火、子供の玩具とする線香花火など種類が多い。 季・夏 。御湯殿上日記「一条殿より―参る」

えん‐か【煙火】‥クワ
 煙と火。
 飯を炊くかまどの煙。炊煙。
 のろし。烽火。
 花火。
                                                    (広辞苑より)
  このことから、通信手段としてののろしなどが鎌倉時代頃から戦場などで、もっと古くは中国でも利用されていました。
花火の起源は古来より多くの歴史家によって研究されて来ていますが、軍事的機密性や危険性等から文書文献が見つからずほとんどが秘伝や口伝によっていたりしています。したがって起源がいつかが特定できず現在は6つの説で説明されています。

 ほうすい説
 664年、唐の制度をまねて北九州および朝鮮沿岸に設けられた烽燧(ほうすい)は外敵の侵入をいちはやく大和の国(朝廷)に知らせるための「のろし」台を利用した通信システムであるとする説。

 ろうえん説
 1467年の応仁の乱より1600年の関ヶ原の戦いまで続いた戦国時代の各合戦に使用された狼烟(ろうえん)とする説。ろうえんとは、「野狼矢」と書き、”のろし”のことであり烽燧に狼糞(おおかみの糞)を混ぜたことからこの名前がついたという。おおかみの糞がなぜ混ぜられたかと言えば、
  (1) この時代は狼が多く比較的狼の糞の入手がしやすかったこと
  (2) おおかみに限らず肉食の動物の糞は窒素分、すなわち尿素・アンモニア・アミン類を含み自然酸化すると賞賛バクテリアによって硝石が合成される。この硝石こそが火薬の原型なのである。

 てっぽう・ひまり説
 1274年蒙古の元が北九州に来襲したとき蒙古軍が使用した火術(鉄砲・火まり)だとする説。唐の制度をまねて作ったのは狼烟であるが、軍事的に使用したのは火箭(かせん)と中国式の鉄砲であった。元の来襲により大陸の新しい火技の応用を知らされたのである。

 かせん説
 戦国時代の三河武士によって串された火箭(かせん)説。蒙古襲来後200年経て1467年の応仁の乱の際、三河節の細川氏が使用した新兵器が火箭(かせん)であった。火箭の作り方は火薬を丈夫な紙で5・6枚つつみ麻で縛り、松脂やろうで上を塗り使用するときは外皮に火をつけて竹の筒や木の筒などに入れてとばすことを目的とした。これが発展したものがやがて花火になったのではないかと言われている。

 ねんど説
 1457年の大田道灌の江戸築城にあたり発見した燃土とする説。1457年江戸に白を築城するにあたりつぶさに地質を調査したところその地質が火のつきやすい燃土であることを発見した。この燃土に麻殻の灰と硫黄とを混ぜてよく砕き、焼酎で練りかため十分に乾燥させたものを木筒にいれて空高く打ち上げたのである。その後、大田道灌の霊祭として花火が打ち上げられ1659年に隅田川の両国に両国橋がかけられ両国川開き花火として発達していったのである。この川開きで有名な花火師、鍵屋、玉屋は岡崎市史によれば三河の出身であることが記されている。

 種子島鉄砲伝来説
 1543年に種子島に伝えられた鉄砲及び火縄とする説。花火と鉄砲の関係は切り離すことができず、日本における鉄砲の歴史は花火の歴史、発展史であると言われる。


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