シンセの旅


 システム・ブルー・ウインクとシステム・ルージュ。 愛する我がマシンと一緒にヨーロッパを旅するのは 喜びでもある反面、 常に心配が伴った。厳重にエア・パッキングで梱包して ツーリング用のバッグにつめ込み、 手荷物として無理に飛行機に乗せて、ヨーロッパに 運んだ。荷物検査では呼び止められるだろうと覚悟を決めて いたが、すんなり通過できた。

 彼等の歌声は海を渡っても健在だった。 各地で梱包を解くたびに自慢の美声を高らかに響かせた。 彼等はどこの国でもエンジニアやシンセ・オタク達の注目を浴びた。 カバンをななめにかけ、ずり落ちる眼鏡を何度も直しながら、 ファンタスティック、とかクレイジーとか あとは良く分からないが、興奮されたり質問されたり誉められたり、 僕はサンキューとかダンケとかメルシーとか、言葉のわからない ときは握手で応じた。
 度重なる移動でスイッチのねじが緩むとひとつひとつ絞めなおし、 つまみの間の汚れをぬぐってやった。 さまざまなステージのライトが彼等を照らした。 あらかたのステージを終え、無事終わるかに思えたとき、事件は 起こった。



 イタリアでのライブをすべて終え、次のロンドンまで少し間があった ので、マルタ共和国で数日バカンスを楽むこととなった。 ローマからマルタ共和国行きの飛行機に乗った。 そのとき、シンセを手荷物で持ち込もうとしていた僕は、 係員に注意を受けた。大きいので荷物係に預けてくれと言う。 飛行機が小さめだったのだ。
 壊れては困るので何度も抗議するが、絶対に持ち込ませて くれない。出発の時刻は迫る。絶望的な思いで僕はシンセを空港に 預けた。楽しいバカンスだというのにふさぎ込む僕に、 他のメンバーも声を掛けられないでいた。

 マルタ共和国の空港で空のカートを手にした僕は、 無事を祈りつつシンセの現れるのを待った。しかし、ついに バッグは現れなかった。ローマ空港で別の飛行機に乗って しまったらしいのだ。荷物の受付のお姉さんにいくら詰め寄った 所で、それ以上どうにもならない。手続きを済ませて空港を 出た。
 来年までにまた二つ作ればイイや、とメンバーに 強がってみたが、マルタ島の雲ひとつ無い青空にむなしく響いた だけであった。

 観光の合間を縫って毎日空港に電話で問い合わせた。 僕の英語力ではさっぱりなので、マルタ氏に代わってもらい 強い口調で問いただしてみるが、それでも今一つ的を得ない。 メンバーのみんなには休日の貴重な時間を割いてもらってしまった。



 マルタ島は、美しい自然に囲まれた小さな島だった。レンタカーで 少し走るとすぐに島の反対側に出てしまう。その途中で、さまざまな 様式の集落とすれ違う。中世風の煉瓦造り、白い壁のアラブ風建築 とモスク、 起伏の激しい岬の先端に整然と並ぶイタリア風の町並みと、 そこに現れる巨大な教会。それらはこの島の、苦難に満ちた侵略の 歴史を物語っている。古くてぼろいが清潔で、治安も良く安心して 観光を楽しめる島だった。
 バス停もトイレも通貨もみなイギリス式で、物価も安く、 すごしやすい。食事もみな、イギリス式だったので、 現地らしい珍しい料理に出会えなかったのは少し残念だった。
 島の人々は、色黒で南国情緒が漂う。女の子はみな美人で、 黒い髪を潮風になびかせ、バイトに励んでいる。 西洋風の顔立ちに黒い眉と黒い瞳。 エキゾチックなまなざしを旅の僕らに向けた。

 ビーチはイギリスからの観光客や現地の家族でにぎわっていた。 その一角にビーチベッドとパラソルを借り、僕は一人寝そべった。 日本やヨーロッパでの数々の演奏を思い出し、ずいぶん使った ものだと思った。
 シンセに頼りきっていた自分を考えた。言葉ができない 僕は、シンセを見せびらかすことでコミニュケーションを とろうとしていた。しかし、それはそれ以上にはならず、旅の中で 何もできない自分の姿をかえってあらわにした。

 確かに、また作れば良いのだ。見せびらかすより、 つぎつぎと作り続けるなかに 自分の価値を見出さなくてはならない。しかしもう、ひとつも 作れないかもしれない。では、別のものを作れば良いではないか?
 それでも、何かを作ることに頼る自分がいる。例えばベルリンで 出会った人達、カズエさんも、ラナも、マイクも、ニッキーも、 すごく身軽で自由で力強かった気がする。 いつでも何でも捨てて、どこへでも行ける。 彼等の生き方を考えると、僕のものを作る姿勢は、 果たして前向きと言えるだろうか?

 パラソルを閉じると刺すような日差しにたちまち肌が赤く焼ける。 ビールを飲んだり、サンドイッチをほおばったり、フルーツを 食べたり、泳いだり、水中眼鏡で潜ったり、寝たり、 またビールを飲んだり、パラソルを開いたり、うつ伏せになったり。
 ビキニのお姉さんがすぐ脇をを行き来する。それを追いかける 若者。隣で砂をほじくる子供。本を読むおじさん。 焼け具合を気にし合う背の高い少女のグループ。
 海でこんなかんじの 時間の過ごし方をするのは初めてだったかもしれない。慌てて 焼いたので、海パンのひもの跡がへそのあたりに残った。




 その頃シンセサイザー達は、シシリー島のカターニア空港にいた。 いわば、彼等なりの旅を満喫していた。自慢げな持ち主から 解き放たれ、自由な時間を楽しんでいたのかもしれない。

 シシリー島の最後の夜、メッシーナでの演奏が終わると僕らはすぐに 逃げ出すように島を離れ、マルタ共和国に遊びに来て しまった。メッシーナを案内してくれた元気な女の子シンシアは、 僕らの様子を見て戸惑っていた。
 シンセ達は、もっとシシリー島をあちこち見たかった に違いない。空港で、カターニア行きの飛行機を 見つけ、たまらずに乗り込んでしまったのだろうか? もしくは、ローマ空港でいかしたイタリアの女の子を見つけて、 ついていってしまったのだろうか?

 彼等と僕等のバカンスも終わりの時がきた。 ロンドンへ発つというまさにその朝、彼等は運良く僕達と合流 できた。早朝の飛行機に乗り込んで、マルタ島の空港で僕等の来るのを 待っていたのだ。まさに、離れ業だった。
 バッグの中を覗くと、彼等は蜂蜜まみれだった。 パレルモを離れるときお土産にもらった オレンジの花のおいしい蜂蜜のビンが、バッグに一緒に入って いたのだった。いったい、何があったのやら、いずれにせよ、相当 小突き回された様子だった。



 ロンドンは曇り空だった。 キングズ・クロスはロンドンで今一番危険だと言われている町。 ヤクの売人がうろうろし、話し掛けられても答えてはいけない。 街角では女性が仰向けに倒れ、空のワイングラスを手に一心に 何かをしゃべっている。
 そんな町の片隅の友人のアパートの共同バスで、 僕は真っ先にシンセの 梱包を解き、蜂蜜を洗い落とした。純度の高い蜂蜜は、まわりの エア・パッキングを溶かしていた。スイッチは折れ曲がり、 つまみは欠け、ちょうつがいは外れていた。 内臓電池がケースから飛び出し、暴れたせいで回路がずたずたに なっていた。
 手塩にかけた作品の惨憺たるありさまは、見るに絶えなかった。 しかし、ウインクのVCOはまだ生きていた。スイッチを入れると、 よわよわしい音と光りでかろうじて僕に笑いかける。

 翌日から修理が始まった。万が一のために半田ごてなどをトランクに 入れてあったのだ。 ギャラリー「97−99」のアルフレッドは、快く場所を提供してくれた。
 3日後、ぬいぐるみ作家ミヤタケイコさんの個展が開かれる。 そのオープニングパーティーで僕らが演奏することになる、 ギャラリーの地下室だ。

 ロンドン観光は諦めねばならぬだろうが、僕はむしろ わくわくしていた。どこがどれだけ壊れているかも分からない。 回路図までは用意してない。 でも、何とか演奏ができる程度にまではしたい。 ひんやりした地下室も、どことなくロンドンっぽいし、 閉じこもって作業する事は僕は好きだし、何より、見知らぬ土地で 見慣れぬ材料での作業は、僕にとっては観光よりも未知の体験 だったのだから。



Back to MENU