ローマへの道


 パリの環状高速をいっきに抜け出た僕らは数々の思い出を 振り返るひまもなく、次の演奏場所、ローマを目指した。 途中、ジュネーブとリオンにちょっとずつ立ち寄り、 知り合いの歓迎に甘えて精気を養った。

 ジュネーブに到着する頃には静かな夕暮れがあたりの山々を包み、 その非の打ち所の無い美しさに見とれた。松本氏の古くから友人の フィリップさん宅は、そんな景色を一望できる小高い丘の上にある。 プール付きの庭先からは、モンブランが西日を浴びて 白く輝いているのが見える。
 今までの汚い部屋に、 と言っては失礼だが、とてもなじんでいた僕らは、白い大理石の床と ふかふかのソファーに初めは少し緊張していた。しかし、 冷蔵庫で冷えている珍しいビールを何種類も試しているうちに、 立派な家もやはりイイね、というかんじになって来て、 出された焼肉を次々とたいらげるしまつ。 その後でまたベルギーのビールを飲んだり、ソファーで ジャズを聞いたり、すっかりくつろがせていただいたのだった。

 ジュネーブを後にした僕らはリオンへ向かった。 リオンのクリストフさんとフランソワーズさんは、 幻想的な曲を自宅で精力的に作り続けている夫婦。 彼等「クリーム・ペライ」のCDは、日本でも多数、手にすることが できる。
 マンション最上階の見晴らし良いテラスにはテーブルと 白いパラソルがあり、リオンの心地よい日差しと風が僕らを迎えた。 ケーブルカーで登っていくと、古い大聖堂のそばからは旧市街地が 一望できる。古い路地を散策すると、沢山の店がテーブルを出して いて、その中のひとつのタイレストランで舌鼓を打ちながら、 日がとっぷり暮れるまでお喋りを楽しんだ。
 マンションに戻り、彼等の次回作の、不思議の国のアリスを モチーフにした小品集を聞かせてもらう。 彼等の愛するリオンの古い町並み、陽気で冗談ばかり言う クリストフさん、小柄でか弱く優しい フランソワーズさん、それらが一体となってひとつの世界を 形作って行くのが良く分かった。



 夜もふけ、すっかり静まり返ったリオンの町を後にする。 モンブランの脇を通る長いトンネルを抜ければ、あとはローマを ひたすら目指すだけだ。
 いったい、イタリアでは何が僕らを待ちうけているの だろうか?日本人の知り合いが一人もいなかったし、 泥棒は多いというし、車の運転はめちゃめちゃだというし、 僕らはイタリアでの旅に不安を募らせていた。 事故の一つや二つは覚悟して、無事帰ってこれたら上出来でしょう、 と自分達に言い聞かせていたりした。
 そんな僕らを、この旅、最大のピンチが、すぐそばで手招きして 待ちうけていたのだった。

 リオンからローマへ向かう高速に入り、ドライブインで小休止。 運転を松本氏に代わり、イタリアまではただひたすらまっすぐだ。 なごやかな雰囲気の中、再び高速を走り始めたそのとたん、 ものすごい豪雨がフロントガラスをたたき始めた。あっという間に 視界は最悪。 さらに雷まで鳴り響く。ヘッドライトは水しぶきを 照らすだけ。前がほとんど見えない。
 助手席の僕も、後ろの二人も、それまでの冗談交じりの お喋りがいつしか途絶えていた。

 トラックの後ろにつくとテールランプを頼りにできるので 少し安心できる。しかしそれでは次の日じゅうにローマに着かない。 トラックは慎重な運転のため、かなりスピードを落として走って いるからだ。 とはいえ、しぶきを上げるトラックを抜かすにはかなりの勇気がいる。
 矢庭に雷鳴がとどろき、それを合図としたかのように 松本氏はアクセルをふかした。隣の僕も、思わず手足に力が入る。 トラックと並ぶとすぐに大量の水をかぶって、 一瞬、前がまったく見えなくなる。 それでもアクセルを踏みつづけると、風にあおられながら、 ようやくトラックの前に出ることができた。
 抜かした後は、しぶきが無くなった分かえって視界が良くなり 走りやすくなる。松本氏は勇気を振り絞り、立ちはだかる トラックを次々と抜かしていった。
 山道にさしかかると道は狭くうねり出す。さらにはガスが視界を さえぎる。永く孤独な戦いが続いた。

 どのくらい走っただろう。標識もまばらなので現在位置が つかみづらかった。
 漆黒の中にときおり稲妻が光ると、 まわりの風景が青白く照らされる。 空と思っていたところに突如、巨大な山々が現れる。稜線が細かく 尖り、雲を携えてそびえたち。マザー・ボードのように 緻密な山肌が、雷の気まぐれでモノクロームに描きだされる。
 その壮大さに一瞬、息を飲む。 アルプスのど真ん中にいることに気づく。 彼等はいつのまにか、その黒々とした巨体で僕らを取り囲んで いたのだった。

 昼間だったら、恐らく世界でも屈指の景色の中をはしゃいだり 撮影したりして楽しいドライブとなった事だろう。 しかし、僕らは、トラックを抜かすのに 精一杯だった。ほんの瞬間、現れては消える大自然の美の世界。 そのときの僕らにとっては、むしろ、 地獄のふちが映ったかのようであった。

 イタリア側に抜けると雨も上がり、しばらく進むと夜が明けてくる。 朝もやに煙るイタリアのさびれた農村が次第に姿をあらわす。 長い穂が黄金にたなびき、どこまでもどこまでも続いて美しかった。


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