オリーブを求めて


 パリ在住のマミちゃんはキュートなミュージシャン。 おかっぱで、スタイルがよく、ワンピースから伸びる足が美しい。 彼女の話すフランス語は彼女の舌足らずな日本語と同様、 彼女自身をよく表しているかのように見える。 もちろん、音楽に関してはちょっとうるさい。 ヒトクセありそうなやからを 率いてマミちゃんバンドを結成している。

 彼氏のミカちゃんはそのバンドでギターとアコーディオンを 弾いている。
ヒョロッとしてるがいつも猫背で、神経質そうにあたりを ぎょろぎょろ見回す。しかし、背広を着るとさすがに決まる。
「アロー」と低い声で電話する姿は映画のワンシーンのようだ。 それでいてガロ風のナイーブな漫画も描いている。

 二人はパリ市内のはずれから歩いて15分ほどの住宅地に家を借りて 住んでいる。僕らプノンペンモデルは、約1週間、そこでお世話に なった。



 ミュージシャンはたいてい朝寝坊だが、その日は10時前に 目がさめてしまった。マルタ氏、松本氏と連れ立って食品を 仕入れに出かけた。パリの生活を楽しむぞ、という意気込みに 満ちて近所の商店街にむかう。
 マーケットが出ていて、服などを 見ていると、少し離れたところに煉瓦造りの倉庫らしき建物があった。 人も出入りしている様子だ。 怪しさと期待にふらふらと引き寄せられ、入ってみるとそこは 食品マーケットだった。いろんな食材がひしめき合っていた。

 見たこともない野菜、果物、肉、皮をむいたウサギ、魚、チーズ、 ハム…。 
僕らは手分けして、てきぱきと必要な買い物を 済ませていく。旅も中盤に差し掛かると、ジェスチャーもさすがに 次第に要領を得てくる。通じても通じなくても買い物くらいなら お手のものだ。

 もう帰ろうか、というとき、気になる 匂いがツンと僕のくすぐった。どちらかと言うと、くさい。 振り返ると、プラスチックの バケツがいくつも床に並んでいて、何やら計り売りしている。 オリーブだった。
 とても興味をそそられたが、バケツの前には怪しいおじさんが でんと腰掛けている。かなり近づかないと中が見えないし、 種類もたくさんありそうだ。

 一度は通りすぎたが、小さく1週してまた通りかかると、 やはり同じ匂いが僕を呼び止める。 ヌカ味噌のような、すっぱくて食欲をそそる匂いだ。 しかし、ピクルスやザウアークラウトと違って、 もっとこってりしている。
 オリーブ → 油、という図式しかなかった僕にとって、 それは新しい概念であった。
 このまま通りすぎたら、 それがなんだか確認できない。しかも、もう一度通りかかるのは 不自然だ。 だが、一度近づいたら何もせずに立ち去るわけには行かない。 近づくなら今しかないが、果たしてその価値があるのか?
 僕は、通りすぎようとしているオリーブのコーナーをななめ後ろに 意識しながら、一歩一歩を大切に歩いた。 その間に人生すべての記憶を立ち上げ、さまざまなイメージを つなぎ合わせる。一瞬後、脳裏に黄緑の稲妻が走った。

 「肉に合う。」

 そう、これは必ず、肉に合うはずだ!くるりとつま先を回転させ、 つかつかと歩みより、小さなたるの並ぶ前にしゃがみ込む。 見ると、それぞれのたるの中身は違う形や色をしていて、 予想通り、選択のしようが無かった。
 気を失う寸前でかろうじてひとつのたるを指差し、一握りほど 買い求めた。何それ、と帰り道で他のメンバーに 尋ねられても、眉間にしわを寄せて首をかしげる事しかできなかった。



 マミちゃんの家に戻ると、真っ先にオリーブの入ったビニール袋を 開けた。まわりは汁でべとべとしている。一粒を恐る恐る かじってみた。
 それは予想以上に衝撃的な味だった。 ああ、世界中の神様、あの時のひらめきに感謝します。また新たな 味の世界をひとつ、開拓することができました。
 一口ほおばると、くさい、すっぱい、しょっぱい。そして噛み締める と、魚のようなこくのある香りが口中に広がっていく。 それを、サラミと一緒にパンにはさんで食べると、肉の脂身と 混ざってさらに複雑な味になった。
 ほかのメンバーは、うまいとは言ったが今一つぴんときてない 様子だった。しかし、これが僕だけのまぼろしであってもいい。

 しばらくしてマミちゃんが起きてきた。 食卓の上のオリーブの袋をすぐに見つけた。 そして、一口かじって、寝ぼけた目を丸くした。
 パリに7年住んだマミちゃんが、これはうまい、と唸った。 このオリーブはうまい、と言った。 僕は自信を取り戻した。
 僕が買ったのは、何種類かがミックスされたもので、 初心者にとっては少しずつ色々試せてズバリ正解だったと言える。 オリーブは僕に新たな創作欲を湧き立たせた。

 いろいろなものと食べ合わせてみたい! 人類がオリーブを食べ始めてからの何千年だか何万年だかの歴史を、 僕は今まさにさかのぼらんとしていた。
 ところがそのオリーブは、1日で無くなってしまった。 出かけている間にマミちゃんが食べてしまったのだ。
 でも、僕はむしろ、うれしかった。おいしいオリーブは オリーブ仲間には幾ら食べられても良いと思った。 それに、自分が 発見したという誇りがあった。マミちゃんとミカちゃんはいつも 午後から起きるので、マーケットには行けないのだ。

 次の朝、使命感に頬を紅潮させた僕は、オリーブを買い足しに 出かけた。だが、マーケットは跡形も無かった。 倉庫は閉まっていて、道路には普通に車が走っていた。 仕事へと急ぐ人々が行き交う中、僕はひとり立ち尽くした。



 次の朝も同じだった。悪い夢のようだった。もしくは、 あの朝の体験が 幸せな夢のようだった。オリーブの味だけは現実で、 マーケットの記憶は、パリの朝日が旅人に見せたいたずらだったのか? 様々な考えが頭をよぎる。
 しかし、不思議なことではない。マーケットは、たいてい週1日か2日なのだ。 ひるむことなく、僕はアラブ人のやってる近くの肉屋へ向かった。 あらかじめ、マミちゃんに教わっていたのだった。 スーパーには目もくれなかった。計り売りの方がうまいと 聞いていたからだ。

 程なく、その場所は見つかった。 表のガラスに沢山の値札が張り紙してあって、 ちょっと見た目には肉屋と分からない。一歩足を踏み入れると、 充満した肉の匂いで少しむせる。店内の片隅には大きなプラスチックのたるが何種類も並んでいる。 たるはドロドロでギトギトに濁った汁で満たされていて、 オレンジやハーブや魚らしきものが浮かんでいる。オリーブは その中にとっぷりとつかり、眠っていた。

 今回は2種類買ってみた。味はと言うと、 これが、少し苦かった。後味に渋みが残るかんじだ。 きっとこれを好む人もいるのだろうが、僕はあまり なじめないかんじだ。 いかにも期待させる風貌だっただけに、失望も大きかった。

 パリ最後の夜、近所の人たちだけのお祭りがあった。
家庭料理を満載したテーブルが路地に所狭しと並んだ。 そこへマミちゃんや他のミュージシャン達とお邪魔して、 踊ったり喋ったり演奏したり、夜中まで楽しく騒いで過ごした。 その料理のひとつに、すごくおいしい自家製のオリーブがあった。
 表面にバジルがちりばめられ、つやつやとして美しい。 味もこくも、はじめに見つけたオリーブと同じかそれ以上で、 まわりに並ぶクスクスやハムやトマトのサラダと一緒に食べると、 より味が引き立った。
 近所の方の自慢の一品なのだろう。いくつもいただいた。しかし、 それはその場だけで味わうもので、持って帰るわけにはいかない。 次の日、パリを後にした。
 僕の心には、名残惜しさと、そして新たに宿った確信が 秘められていた。

 「オリーブは温かい生卵ご飯に合うはずだ!」



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