無線でインターネットの時代 - PC-98vm を使った無線TCP/IP

平成が始まり、さらには1990年代の幕開け。

インターネットという言葉がマスコミに登場することがほとんどなかったこの時期に、 インターネットと出会いました。


職場では UNIX、自宅でも MS-DOS を UNIX のように

社会人になった 1989 年からは、職場で SONY NEWS などの UNIX ワークステーションを 使うようになり、.junet で終わるインターネットメールアドレスが割り当てられました。 (このアドレスは、のちに .junet -> .co.jp に置き換えられ、そのまま現在に至る)

初めての夏のボーナスで、やっと市販のパソコン(PC98VM の中古)を購入。
この頃 PRUG ではパケット無線で TCP/IP を使ったネットワークが話題になり、 PRUG meeting で TCP/IP 用ソフトウェアを入手。 これがなんと、でっかい5インチフロッピー! 当時のパソコンは5インチフロッピーが主流で、HDD なんて内蔵していないのが普通だった。

しかしフロッピーだけでは容量不足であることが判明、冬のボーナスで外付け HDD を購入 (容量は 20MB くらいだったと思う)。 これにより、1990年代には無線TCP/IP環境ができあがり、職場で使っていた NetNews (当時はこうは呼んでいなかったが...)や e-mail の環境とよく似た環境が 自宅で使えるように。
DOS の使いにくさは、フリーソフトなどを活用して、可能な限り unix ライクな操作で 使えるようにカスタマイズし、 頻繁に参照されるファイルを RAMディスクへ入れておくなどして、 最適化を図りました (そのために EMS ボード買ってメモリの拡張もした覚えが...)。 「まるで286マシンのように速いね」と言われたことも。 結局はディスクが遅いだけなんだよね。

TCP/IP を入れる前は、BBS へいちいちアクセスしに行くスタイルだったので、 混信などでレスポンスが悪くなったときに待たされていました。
でも TCP/IP の導入後は、24時間つけっぱなしで留守の間に自動転送するという 使い方ができるようになりました。学生から社会人になって自由な時間が 少なくなった私にぴったりのシステムだったのです。

当然、これまで使っていた自作の CPW-1 では古い環境にしか対応できないので、 分解してパケット無線用の TNC に作り替えてしまいました。

その後、この頃近くに引っ越してきた無線TCP/IP仲間の一人から、中古の初代 DynaBook を買って 追加しました。小型になったので、98vm とシリアルケーブルで SLIP 接続し、 離れたところからメールやニュースが読めて便利に。このために AIWA の RS-232C 拡張ボードまで 買ったほどです。

ニュースシステムの開発

やがて JK1LOT 横田氏が開発したフリーソフト、寺子屋ニュースシステムの 一部を引き継ぐようになりました。寺子屋は yomi, kaki, soroban の3つのコマンドから 始まったことに由来します。
引き継いだきっかけは、私が自動投稿対応のために kaki を分離したものを作ったことです。

その後、さらに yomi と kaki を統合し、新しく yomikaki というコマンドを作りました。 その記録はPRUG 京都ミーティング 99「パケット無線の歩みとPRUGの紹介」(JK1FNL 小林氏) の予稿 pdf ファイルにも記されています。 Borland Turbo C でコンパイルしていろいろ改良しながら、 寺子屋ネットでリリースして、みんなに使ってもらっていました。

寺子屋ネットのルートマップ

寺子屋ルートマップ 寺子屋ニュースシステムの転送は、JUNET のニュース(NetNews)と同じような「バケツリレー式」の 転送方式でした。遠く離れたPCのオーナーと無線でつなぎ、相互にニュース記事の交換を するように設定することでネットワークが形成されていきました。

どんな風に転送されるかは、Path: ヘッダの内容でわかります。 ホスト名(ほとんどの人が無線のコールサインを使っていた)が「!マーク」でつながって出てくるので、 ニュース記事の通り道がわかるわけです。これをもとにして、白地図に転送ルートをマッピングして 「巻物」にして、よく PRUG などのミーティングに持ち込んで最新情報を得て、それを | や - を使って テキストで書いた地図にして、寺子屋ネットのニュース記事として投稿していました。

左の写真は当時の巻物です。2007年5月27日に物置を空けてみたところ、 娘に「その巻物なぁに?」と言われました。引っ張り出してみたところ、 このように虫食いだらけになっていました。

寺子屋ルートマップ(横浜付近) 横浜付近を拡大。幸い、このエリアには虫食いがなかった。

赤が144MHz青が430MHz黄色が1.2GHz。 東京23区の外側や、横浜南部(磯子区・港南区付近)、大和・町田付近に無線局が集まっていた。 東京23区の中心部や横浜市の中心部には局がほとんどなく、ここでも「ドーナツ現象」が浮き彫りになっていた。


▼1990年11月現在の机の様子。

DynaBook と 98vm が並び、3.5インチフロッピードライブも追加。 この頃から5インチフロッピーの利用頻度が徐々に減っていく。


▼1994年1月現在の机の様子。

机の上の本棚を外してすっきりしました。さて、98本体はどこでしょう?

▼答え:右側の洋服棚の中。 夜寝るときもこの部屋だったので、ファンやハードディスクの音を抑えたかったのです。


1994年、ついに PC/AT 互換ノートに手を出す

このあたりからか、パソコンのアーキテクチャーのトレンドが、「国民機」などと言われていた NEC PC98 系から、世界標準である IBM PC/AT 互換機へシフトし始めていました。 「マルチメディア」なんていう言葉も登場。

そんな中、1994年のゴールデンウィークに、カラーノート型AT互換機 CONPAQ contura aero を 買ったものの、16色しか出ない、PCカードスロットがフロッピーで占領される、など 使いにくい点が目立ちました。

このため、同じ年の12月に ThinkPad 230Cs (2342 YB7) に買い替えてしまいました。 (230Cs の CPU:SL Enhanced Intel 486SX 33MHz)

▼1995年1月現在の机の様子。

左側にあるノートパソコンが ThinkPad 230cs。当時は Windows 3.1 だった。

シリアルポート経由で MIDI 音源(Roland Sound Canvas SC-55mkII)を、 PC カード経由で外付け SCSI CD-ROM を接続。 どちらもオーディオ出力はステレオコンポへ接続していた。 ステレオコンポの CD プレーヤーは壊れてしまったので、代わりにこの CD-ROM ドライブで オーディオ CD を再生していました。

98vm <-> 230Cs 間のデータ転送手段は、720kB のフロッピー。LAN がまだなかったのだ...。


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