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浪人時代にみつけた方向性 ──『平凡パンチ』での革新的な雑誌づくりに明け暮れていた。そんな時代はどれくらい続いたんですか。 石川 『平凡パンチ』には6年いました。それで、平凡出版を辞めるんです。 ──えっ、そこで辞めてしまったんですか。
石川 そう、辞めてしまった。それはなんとなく会社が僕を必要としてないな、って感じたからなんですよ。というのは、出版社とは言っても一応会社だから人事異動がある。当然各雑誌の編集長もだいたい2年くらいのサイクルで交代していくんです。編集長が代われば雑誌も変わってしまいますよね。それでいいものなのだろうか、雑誌というものは、ということを考えていたんです。僕は木滑さんが作った平凡パンチが好きだったし、そういう雑誌を作っていられる環境がものすごく好きだった。それが、まったく違う雑誌になっていくのはどんなもんかな、という疑問を持っていたんです。それと、そうやって僕も人事異動でいろんなところを回されて、好きな雑誌を作れなくなってしまうことはいやだったし、何よりいずれ僕も編集長になって2年くらいでまた次のところに異動になって、ということを考えると、これまで木滑さんのもとで僕が培ってきた取材方法や視点は評価されることはないのかな、と思ったんですね。そうなると僕のやるべき仕事はない。それではたまらん、ということで平凡出版を辞めてしまったんです。 ──平凡出版を辞めたといっても、のちに『ポパイ』をはじめとするマガジンハウスの一連の雑誌を作られていますよね。ということは、繋がりはずっとあったんですか。
石川 そのあたりの話をはじめると長くなってしまうんですが、とりあえず辞めたときには、まあ一年くらいは何とかなるから、その間にまた好きな雑誌の編集の仕事を探そうと思ってたんです。そうしたらまた、木滑さんから声がかかったんです。「清水さんが何か考えているらしいから、一緒に彼を手伝わないか」と言うんです。これもまたおもしろそうな話だったし、当面予定もなかったから二つ返事で受けました。それで平凡企画センターという社員三人の会社に入るんです。
残りの話は『話半分第3号』で読んでね。 |
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石川次郎(いしかわ・じろう)氏プロフィール 1941年東京生まれ。 |