インカレ・リバイバル

第10回 第11回(奈良)インカレ(2)

川又 治(HE・早稲田大学第2走者)

俺達1985年に入学した代はクラブに入ってからというもの、早稲田は日光のインカレで優勝した日本一の学生クラブであり、過去のインカレで3位より下を取ったことがないという話をさんざん聞かされ続けた。勿論そればかりではなかったが、OCは強くこれからも勝ち続けるだろうと思った。

しかし、現実にはその年のOCは他の学生クラブと比較してとりたてて良い成績を残しているとはひいき目にも感じなかった。それでもなお「インカレという学生全国大会だけは違うぞ。何か特別な目に見えないもの、感情がこの大学に集合している。早稲田は絶対に勝つのだ。」それだけは信じることができた。そんな気持ちとは裏腹に我々は順位を落とし続けたのだ。駒ヶ根で2位、愛知ではついに5位になり、群馬で6位。1年生のころ信じていた強い早稲田は既に霧のなかへ消えていってしまっていた。神話になっていた。

群馬インカレの4走・前野のゴールは実に強烈な残像として胸に残る。足の速さはOL界では指折りの男である。ゴール前で足がつるほど、正に死力を尽くして戦ったことは誰の目にも明らかであった。そんな彼が痛々しく、勝てなかったこともあって俺は泣いた。心の深い場所まで泣いていた。来年のインカレは俺が走る。自分で言うのも何だが、俺が出なきゃ勝てない。本気でそう思った。

4月になり俺はトレーニングを初めて始めた。飲みながら国沢に「OLにはスピードが必要なのだよ」と説いたり、学連の会報に「やっと私もトレーニングを始めた。インカレはもらう。」とか書いたりしていた。とにかく思いだけは熱かった。

秋から冬はレースごとに気分がうまく乗ってくれなくてレースの結果も今一つだった。だけど本番だけはいいレースができる自信だけは消えなかった。気力で走るタイプなのは昔から自分が一番よく知っている。冬のOC杯は気合いが入っていて、ナルやトリに「明日は多分おれが勝つぜ」と言っていた。実際にはナルに6秒という僅差で2位に終わったものの良いレースだった。

冬合宿のとある夜、団体戦の候補となる人を集めミーティングを開いた。「男子は主役を演じる、それが今度のインカレの目標である」と倫也カントクは言った。すなわち、愛知と群馬のインカレは一走の遅れをそのまま引きずり脱落したが、今年は常に優勝争いに加わる展開が狙いであるというわけだ。俺は今年の早稲田はチャレンジャーであると思っていたので、優勝を頭から狙うのではなく、優勝争いに加わろうというカントクの言葉に共感を持った。「前野、羽鳥、バースは使おうと思っている。」とも言われた。まあ、そんなものだろうと思った。

年が明け、1月はわりとトレーニングができた。ただ、トリと比べるとかなり少ないので多少焦っていた。2月は毎日10キロくらいの走り込みをするつもりだった。しかし、レポートに時間も精神も奪われ、次は卒業旅行の幹事の仕事で旅行会社のハシゴをし、タケシ城の収録、OC大会。スキーで夜行バスの往復。すぐ追いコン…。なんて書いても所詮言い訳に過ぎぬ。目標が10キロなんて笑い話の世界だった。ただ、2月5日に走った山川リレーは私にとって大きな収穫になった。縮尺の違いから地図から得られる感覚が狂ったのが最大の原因だったかもしれないが、追い上げようとの焦り、後ろから来る敵の影。気合が先走るレースの辛さ。チェックカードまで逃げられた。普通のレースをしろってことだよ。そう言われてウロコがとれた。平常心さえ失わなければよい。

練習会が始まった。この練習会で不安は無くなった。二日目がきつかったらしいが風邪気味で無理はよそうと休んだ。春合宿は走り込むという前提で参加する。今年は合宿とインカレとの間に日を置いてくれたが大変よろしい。最終日のリレートレーニングの最中、冷えたからか右膝に微かな痛みを感じた。夜は酒を飲んでいた。

現地入りの前、カントクの言ったとおり、火曜日に軽く走っておいた。好調だと思った。ロッキーのパート3と4を借りて見た。リングで倒されても倒されても全力で立ち上がるロッキーの姿はまさしく自分とダブってみえた。俺はロッキー・バルボアから崇高な闘志を学んだ。部屋に「自信」「勝つ」「全てをかけて闘う」と書いた紙を貼った。そんな心境になっていた。自分をぎりぎりまで追い込んでおいた。

9日の朝、新幹線から近鉄に乗り換えるときに、カントクに個人戦で早稲田の1位を取れると思うと言った。倫也さんは、「俺もそれは十分あり得ると思う。インカレだから川又はきっと速いとみている」そう言ってくれて内心嬉しかった。実は8日の夜、37度2分の熱が出た。翌朝は回復したようだったが、トレコースを走ると登りで若干苦しさを感じていた。それでも、本番はなんとかなる、大丈夫だと考えるようにしていた。10日の朝起きると少し悪くなったようで、医者に行く。注射を打ってもらったが、あんなに大きいのは初めてだ。大仏を見る程度ならいいだろう。宿から近いと思ったら結構歩いてしまったのは良くなかったぜ。おみくじで大吉を当てた。こんな時は思わず信じてしまうものだよ。

個人戦の朝が来た。頭痛は治まっていない。熱はショックを受けそうなので計らなかった。悲しいが今日は精一杯やってやると自分に言い聞かす。スタートに行きフクマと話す。「今までのことは今日のためにあるのよ」と言ってくれる。

15でメダルを逃すようなロスをしてしまう(勿論、この時は思いもよらなかった)。テープ誘導は長かったが、突然声援が聞こえてきたのはとても嬉しかった。ゴールしてみるといいタイムらしい。今のところ4位だと言われて驚いたものだ。フクマが泣いてくれたのは嬉しかった。速報が出てみると実際は6位と秒差の10位だった。俺は結果的に惜しいところでメダルを逃したが、早稲田から前野と羽鳥の二人のHEのメダリストが出てくれたので満足だった。

宅間もとても速く、リレーは微妙だなと考えながらミーティングに臨んだ。カントクが「2走は川又」と言ったとき、「遂に来たぞ」と思わず空を仰いだ。倫也さんは日光で白戸さんを使わず飯山さんを指名したし、愛知では個人戦で奮わなかった西村さんではなくはるさんを使っていたので、「今年はやはり勝ちにきたな」と思った。とにかく、3走・4走が信頼できるから俺は確実に帰ってくればよい。

祐美子さんにマッサージをしてもらう。「明日は絶対1位で帰ってきますよ」と彼女に言った。HEの個人戦成績表を見て、早稲田の好結果にほくそえむ。

「只今、ゼッケンナンバー204、早稲田大学前野選手1位で通過しました!」

前野がコールされたあの瞬間の想いは弁舌に尽くすことはできない。優勝したら泣いちゃうかもと考えていたが、爆発する喜びでその余裕すら無かった。

今から思うとあの風邪は個人戦の朝には治っていたのかもしれない。あの朝の頭痛は実はプレッシャーが引き起こしていたのだろうか。何はともあれ4年目にHEを走り、しかも優勝できたのは良かった。胴上げ、そして円陣の中に立たせてもらっての“早稲田の栄光”。4年間OLをやってきて最高の感激になった。もう学校代表として走ることはない。大学の命運を欠けてのトレーニングもしなくてよい。そう考えると何とも言えない虚脱感にとらわれるが、とにかく本当にいいインカレだった。

最後になるが、みんな本当にありがとう。OCはいつまでも7月より熱い(≠暑い)クラブであることを信じている。 (わせだUNIV.OCレポート1988年度vol.13)


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