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人はいい夢と悪夢とどちらを見たがるのだろうか

宮崎作品と押井作品について

藤井隆生



1 いい夢

 最近は声優ブームである。声優関係のCDもたくさん出ている。(声優ファンである)私もいくつかのCDを買っている。その中でいろいろな声優が、なつかしのアニメソングを歌うというCDがある。なつかしいと同時に何か変でおもしろい(と言っておこう。せっかく買ったんだから)。そして、そのCDを聞いていた。その中で、「ルパン三世 カリオストロの城」のテーマ、「炎のたからもの」が流れてきた。流れてきたきたとたんに懐かしさがこみ上げてきた。懐かしすぎる。すーっと過去に連れて行かれる気がした。どの曲よりもじんとくるものがあった。なぜなのか。確かに曲の感じもじんとくるものである。また、「ルパン三世 カリオストロの城」自体も懐かしい作品に違いない。しかし、それだけだろうか。

 私自身、最初は「ルパン三世 カリオストロの城」を好きでなかった。「未来少年コナン」が好きすぎたせいかもしれない。また、物語の骨格であるルパン三世とクラリスの結びつきが、最初はいいかげんに感じられたせいかもしれない。しかし、しばらく時をおいて観ると、ああ、わりといい作品かな、と思うようになり、さらに何回か観るうちに、なかなか傑作じゃないかと思うようになった。そう思うようになるまでに10年以上の時を要した。この時の流れの中の変化は何なのだろうか。

 他の宮崎作品について考えてみる。「未来少年コナン」、「風の谷のナウシカ」、「天空の城ラピュタ」、「となりのトトロ」、「魔女の宅急便」、「紅の豚」、「耳をすませば」(監督はしてないが)。どれも懐かしい。いい作品と、思えるものばかりである。こんないいアニメが世の中にもあったんだと感じてしまう。しかし、この過去形、「あったんだ」は何だろう。何故かどの作品も郷愁を感じさせるものばかりなのである。「耳をすませば」さえ、懐かしく感じる。懐かしく、あのころは良かった。というような回帰を誘う感じがする。

 そして、どの作品も今でも評価の高いものばかりである。特に最近の作品は興行的にも成功して(昔は評価は高いが興業はダメだった)、今では、世界に進出しようとしている。私自身も、いい作品だと今では思っている。というのは、公開当時、「ルパン三世 カリオストロの城」以降、私はどの作品に対しても実は不満ばかり述べていたのである。たとえば「風の谷のナウシカ」には、期待していた世界の広がりがない。「魔女の宅急便」は退屈だ。とかである。別に私ごときがここで批判とか論評するつもりはない。ただ述べたいのは、最初、感じていたはずの不満がいつの間にか解消して、なにか別のものに昇華してしまい、いつの間にか、好きになってしまう、このプロセスについて考えたいのである。この不思議について、はたして個人的なものか、それとも他の人にも言えるのだろうか。

 今では、「風の谷のナウシカ」も「魔女の宅急便」も他の作品も、いい作品、そう、なんか暖かい、自分を優しく包み込んでくれるようなそんな作品に私には感じられる。観れば観るほど、時がたてばたつほど評価が上がる。私にとってはそうである。もちろん、宮崎ブランドというイメージがあると思うが、社会的にも宮崎作品は時がたっても評価は下がらない。公開当時から、確かに、評価が高い。特に一般の人に対しては、である。しかし、アニメファンを中心に不満の声も聞こえてくるのも事実である。しかし、時がたつに連れて、作品の評価が、それを越えてゆき、同時に決して、過去の作品にはならない。これは何なのだろうか。

 宮崎作品は、こうであればいい、という世界を描いてきた。人であれば、少しの勇気、優しさ、村であれば、優しき隣人、こうであって欲しい世界を、又、物語であれば、こうなってほしいストーリーを、見事に、精緻な描写と大胆な嘘で描いてきたと言える。理想郷。宮崎作品では決まって理想郷が登場した。「未来少年コナン」であれば、ハイハーバー、「風の谷のナウシカ」の風の谷、「となりのトトロ」の村、そう、あんな村はどこにもない。あんなよそ者を受け入れ、親切にしてくれる優しき隣人たちなんているはずがない。これは日本人の描く一つの理想郷であり、人々であった。「魔女の宅急便」は、そんな、理想郷探しの話だったのかもしれない。

 描く主人公たちも、一つ一つ理想をしょっていた。登場人物たちが、皆が皆、前向きであるだけではなく、理想の少年、理想の少女であった。理想の悪人。理想のおばさん。おじさんであった。あまり、理想のヒロインばかり描くと批判されて作った、「魔女の宅急便」や「耳をすませば」であっても、登場したのは、理想の少女たちの延長であった。宮崎作品では、ものを食べる少女、トイレに行く少女は登場しないと批判を受けたきた。そんな批判自体、意味がないと思うが、そんな批判を受け、より現実的で、身近なヒロインが登場したはずが、しかし、本質的には、優等生の理想的な少女たちであった。

 ストーリーであっても、たとえば昔の作品、コナンは決して弾丸の当たらない、高いところから落ちても平気な不死身の少年である。これらは嘘である。嘘を承知にそんな物語が進むのである。ルパン三世でも、「お姫様のためには泥棒は何でも出来る」というルパンの言葉通り、物語も言葉を実現していく、これは、物語が理想通り進んでいる証である。最近作「耳をすませば」におけるプロポーズ、「結婚」の言葉、観るものに違和感をおこさせた、この言葉も、出発点は、責任感とは無縁な若者に対して、宮崎の感じる、こうあって欲しい理想なのに違いない。

 宮崎自身は冷徹な観察者なのであろう(インタビューに端的に現れるが)、しかし、その描く世界は、いい夢である。誰かの対談で確かこう述べたことを覚えている。「観てくれた客が、劇場を出たとき、少しいい気分になって、少し勇気が持てる作品が作りたい」と(出典を捜したが見つからない)。違っているかもしれないが、確かに宮崎作品は、観ているものに勇気を与え、未来に生きていく力をかすべく作られている。そう、未来に向けて作られている作品である。日本中の郷愁を誘ったと言われる「となりのトトロ」、その作品でも過去における日本のあるべき姿を通して、将来あって欲しい未来の理想像を描いていた。まさしくいい夢を描いていたのである。

 しかし、いい夢とは何なのであろうか。こうであったらいいなという世界とは、現実にはない世界である。現実の現在の世界には、存在しない世界である。宮崎の目は未来に向かっている。しかし、それは、その意図とは逆に、未来以上に、過去に向かうのではないだろうか。現在があり、未来と過去が存在する。現在にないものを、描くとき、そのまなざしは、未来か過去に向かう。しかし、現在の状況で、未来にあこがれが抱けることができるだろうか。セピア色にぼやけた世界、過去と言う時に美化された世界こそ、いい夢にふさわしい。宮崎作品は、登場人物も、その世界も、ストーリーも、理想的な姿を描いてきた。それは未来への勇気以上に、なつかしい郷愁も含んでいるのである。つまり、宮崎作品は成立すると同時に、観ているものに懐かしさを呼ぶ装置が働いているのである。そして、この夢は、時間がたてばたつほど、理想化しようとする力が働きだす。自らを、いい作品、いい作品、いい夢へと押し上げていくのである。ほとんどの作品が、懐かしさとは同時に古くささが発生するのに対し、宮崎作品は懐かしさと同時に、風格と、理想的な世界という評価を獲得するのである。

2 悪い夢

 私は、今、「うる星やつら2 ビューティフルドリーマー」を思い出している。懐かしさは何もこみ上げてこない。いや、確かに、ラムや、しのぶや、メガネは懐かしい。そう登場人物自体は懐かしい。しかし、作品そのものには、懐かしさはないのである。懐かしさよりは、今、思い出していても、はらはらする感情や、これから何が起こるんだろうと言う期待感がわいてくるのである。そう、押井守の他の作品もそうである。テレビのパトレイバーは懐かしいかもしれないが、劇場版にはそんな感情はない。「御先祖様万々歳」もそうである。思い出して感じるのは、昔、観たときの感情、それが鮮やかによみがえるのである。押井作品には、懐かしさがないのである。いや、そういう感情を拒絶するものがある。

 「うる星やつら2 ビューティフルドリーマー」を初めて観た時の感動を今でも忘れない。どこかに連れ込まれていく感覚。世界が閉じていくという閉塞観、世界の破壊と脱出。真実の暴露。どれもこれもすばらしい。思い出すだけでもわくわくする。まさしく素晴らしき夢の世界である。しかし、これはいい夢だったのだろうか。

 永遠に続く、学園祭の前夜、喧噪と興奮の中、もっとも幸福なときのはずである。しかし、実際は一人の少女が夢見る世界に閉じこめられた悪夢の世界である。自分の意志ではどうすることも出来ず、むなしく脱出を試みるか、あきらめて、遊びまくるしかない世界である。そして、誰か分からないものに支配され、いつ、間引きされて排除されるかもしれない世界である。これは悪夢以外の何ものでもない。いくら少女が、かわいくても、無邪気であろうが、そんなことは関係ない。そして、悪夢の悪夢たるゆえんは、堂々巡りを繰り返し、出口がないことである。様々な堂々巡りが繰り返され、試みの果てに、夢の世界を脱してあたるは、現実世界に戻れた。ように見えた。しかし、はたして、本当に夢から脱することが出来たのだろうか。否である。夢の世界が、ラムに支配された、いい加減なでたらめの世界であるとすれば、夢の脱出した後、舞い戻ったのはまさしくそんな世界である。悪夢は続いているのである。

 誰かの夢に支配され、右往左往する物語は、押井作品の基本的な構造として多く見られる。「トワイライトQ2 迷宮物件FILE538」、無邪気そうな少女の神様に支配される話だし、劇場版「機動警察パトレイバー」も、コンピューター犯罪者の筋書きの中で、最初から負けている戦いをする話であった。劇場版「機動警察パトレイバー2」も、犯罪者の悪夢に巻き込まれる警察の話である。「御先祖様万々歳」、得体の知れない少女に家庭を破壊され、身を滅ぼす話である。「天使のたまご」、これこそ、得体の知れないものに支配せれている話である。まさに、(立場としての)一般人が、何かより強力な意志により、閉じこめられ、筋書きの中を転がされているイメージである。

 そして、それらの世界では、出口ない、堂々巡りが繰り返されている。「紅い眼鏡」において、出口を求めながら、堂々巡りが繰り返され、求めるものは最後まで見つからないようにである。「うる星やつら2 ビューティフルドリーマー」は結局、悪夢から脱出できなかった。「トワイライトQ2 迷宮物件FILE538」では、物語が物語を包み、登場人物は自らの立場も分かっていない。劇場版「機動警察パトレイバー」では、最初に死んだ犯罪者の犯罪を全うさせた。劇場版「機動警察パトレイバー2」でも犯罪者の手の内で物語が進む。「御先祖様万々歳」でも、そうである。登場人物がどんなごたくを並べようが、行動を起こそうが、物語をはじめようが、まるで無意味のように、他の誰かの手のより物語は完結してしまう。これこそ悪夢ではないか。

 悪夢は決して、いい思い出にはならない。忘却の彼方に忘れることは出来ないのである。そして、一度見た悪夢は、繰り返し繰り返し、襲ってくるのである。そして、いい夢は、夢として意識することが出来るが、悪夢は、いつの間にか、現実の中に侵入して現実と夢の境目まで分からなくするのである。押井作品の中で、出口のない堂々巡りと、現実と夢の無限の彷徨いを見ているうちに、人は、押井作品に浸食され、悪夢にとりつかれるのである。押井作品は、いつでも鮮やかに思い出され、というより、現実の体験として、思い出すことにより、繰り返されるのである。押井作品は思い出と化すことはない、あまりに生々しいのである。

3 現実世界

 現在の状況は、いい夢か、悪い夢か、と問われるとするならば、社会的にも、個人的にも、悪い夢の中でいるような感じだといえるのではないか。そんな中でどういう夢の物語を望むのかと問えば、物語を、物語として見ることが出来れば、いい夢も、悪い夢も、どちらもおもしろければいいと言えるだろう。しかし、現実に生きている人間として答えるならば、いい夢は、もしかとすると、明日への勇気になるし、いい思い出にもなる。なによりも、自分にとってではなく、社会にとってはこういう作品が必要であると言いたくなる。

 悪い夢は、そう、出口のない恐怖感、不安感というものは、現実世界を喚起させ、悪い夢から覚めようとする力と、現実世界を夢に引きずり込まれる力により、さらなる悪夢に誘われる。押井作品の悪い夢は決して、いやなものではない。知的で、魅力的で、あこがれさえ抱くものである。それは、世の中の真の姿を暴露するものだからである。だからこそ、その力は、物語だけではなく、それを見ている私たちの世界まで侵入し、見ているものまで巻き込んで悪夢の世界を創り出すのである。そういう作品を観れば、悪夢に住んでいる現在では、逆に居心地の良さを感じてしまう。感じながら心のどこかに傷をおってしまうのである。こういう悪い夢は見たいと言うより見てしまう魔力があるのである。

 最新作の「攻殻機動隊」においても、はたして、自分は何ものであるのか。どこに行くのかという迷路の中、悪夢を彷徨うのである。その中で、この作品のラストで、ついに、出口らしきものが見えたのである。今まで出口がないと思われた押井作品で、である。しかし本当にこれが出口であるのろうか。何か解答が得られたのだろうか。見せかけの出口に過ぎないのではないか。しかし、現実世界が悪夢である以上、人は出口を見たがっている。その見たがっている出口としてはふさわしいものであったと言えるのではある。悪夢は終わってないのである。

 宮崎作品も押井作品も、現実世界から誕生している。現実世界がより悪夢に近くなりつつ現在、いい夢は、より嘘がつきにくくなり、悪い夢はより現実味を帯びつつあるように見える。



(1996/12)


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