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論争のためのタバコ煙害問題

 

へーげる奥田


 

 

インターネット上に展開する「論争」のネタはいろいろありますね。それはたいてい、ある問題について保守的な側と、それに対して異を唱える側との確執という形をとることが多いようです。特に保守的な側、加害者的ポジションにいる側は「被害妄想」「電波」といった悪口雑言を浴びせたりもします。

しかしこれはある意味、無理もありません。もしこれがゲームとしてのディベートであり、私が喫煙推進側と喫煙反対側のどちらかで参加しろと言われたら、迷わず喫煙反対側を選ぶでしょう。少なくとも現代において、喫煙推進の立場をとりつつディベートで勝利することはきわめて難しいと言わざるを得ません。いきおい、「喫煙推進側」の物言いは、強弁や罵言に頼らざるを得なくなります。

さて、この文章は、喫煙害問題を告発したいという、いわば「被害者側」の立場から述べようとしています。

私は「嫌煙」という言葉はきらいで基本的には使わないのですが、インターネットの掲示板などを覗くと、「嫌煙」はイタい、被害妄想の立場などと言われているようです。これはこれであまりおもしろいことではありませんね。人に迷惑をかけておきながら言いたい放題とはいかがなものか、などとも思います。

ネット上の掲示板などで展開されるバトルは、基本的には相手の物言いの言葉尻をとらえたり、自己に都合のよい論を展開したりする「言い負かし合い」の場です。そういった場を想定し、いろいろと論証してみようと思うのですが……

 

 

よそゆきの知識とまぬけな議論

 

 おおざっぱな話をしますと、どうも日本は(といっても別の国について確認したわけではありませんが)あまり「議論」をしない文化土壌だったような気がします。しかし、パソコン通信以来、それがいい形かどうかは別にして、いろいろな議論が展開するようになってきました。インターネットの掲示板などが一般的になった昨今、その質はともかく、「議論」に遭遇するケースはずいぶんと増えたように思います。

 ところで最近、ちょっと驚いたことがあります。それは、今までマスコミなどで発言したりものを書いたりして頭がいいとされてきたような人も、あらかじめよく調べたことでない、生のディベートの場においては、結構大したことのないことを言うものだな……ということでした。

 たとえば2002年10月より、東京都千代田区で「歩きたばこ禁止条例」が施行されました。このとき、多くのニュースキャスターやコメンテーターなどが「規制反対」の意見を述べていましたが、そこで述べられた意見は、あちこちの掲示板でさんざん取りざたされ、もはや議論をつくされた初歩的なものだったように記憶しています。「土地は千代田区のものだけど、空気は別でしょう」(猪瀬直樹氏)とか「人間は本来健康を害することを覚悟で悪徳にふける動物である」(筑紫哲也氏)とか、どうもツッコミどころが多いように思います。というか、ことタバコのことになると小学生みたいなことを言い出す人というのは身近にもよくいますね。

 2002年10月5日、NHKの『インターネット・ディベート』という番組で、「賛成? 反対  "路上禁煙条例"」というテーマが論じられました。ここでは千代田区区長・石川雅巳氏と医師の阿部眞弓氏が条例賛成派として、井尻千男拓殖大学教授(都市文化論)が反対派として議論をしていました。

 ここにおいて特におもしろかったのは、やはり条例反対派の井尻氏の意見でした。いわく、

「区内に事業所を置く会社の社員が吸い殻掃除をすればいい」

「灰皿を撤去するよりむしろ灰皿を積極的に設置して捨てる場所を決める方が効果的だ」

「美醜のことをいうなら、喫煙を禁止する前に、どぎつい看板の規制や自動販売機の空き缶やファストフードのゴミの処理など優先的にやるべきことはある」

「自動車の排気ガスで自殺はできるが、たばこでは自殺はできない。受動喫煙のことを問題にするよりも、毒性の強い排気ガスを問題にすべきだ」

        …………

 よく「2ちゃんねる」のタバコ板などで喫煙者が繰り出してくる苦し紛れの屁理屈みたいな感じですね。これを見たとき、正直なところ「知識人やらニュースキャスターやら大学教授などといってもしょせんはこの程度なのか」という感想を抱いてしまいました。

 ある分野の専門家が行う研究というものは、いわば「時間のカンヅメ」のようなものです。それは十分な時間を費やし、あちこちから集めた知識を取り込み、よく吟味して練り込み、そして原則として独白で語られた「よそ行きの知識」としての成果物です。そういった「じゅうぶんに準備された知」を紡ぐことも、むろん高度な能力なくしてはできない作業ですが、それはあくまで「パッケージ成果物」としての知であり、対話の世界(それも、きわめて日常会話的な場における会話の)で必要とされる知とは、その形式がやや異なるものなのかもしれません。じっさい、著作を読む限り「この人はなんて頭がいいんだろう」と思った「知識人」が、インターネット上の掲示板などの上で、ずいぶんまぬけなやりとりをしているのを見た方も多いのではないでしょうか。

 

「BBS」という知

 

 インターネット上の電子掲示板(いわゆるBBS)などで展開される「議論」は、ここ数年のうちに急激に発展した「知の場」です。私などはパソコン通信の時代からとても楽しくこの「場」に遊びましたが、ある問題を議論するにあたって、これほど洗練された知識や理解や論理構成能力が必要とされる場はなかなかないのではないかとかなり以前から思っていました。

 この「場」において議論しようとする者は、さまざまな能力を要求されます。まず自説を展開する一種の物語世界を築くことができなくてはなりません。問題に対する豊富な知識の必要は言うまでもありませんが、いわゆるプレゼンテーション能力や、かなり短い時間で情報を探し編集する能力、相手の論理を瞬時に理解してその欠点を見つける能力、相手が抗しきれない論理を構築する能力、そして相手を効果的にバカにしたり自分を偉そうに見せる能力や相手の挑発に対してやすやすと腹を立てない「心の力」とでもいうべき能力などが必要となってきます。

 インターネットは、基本的には「信頼のおけない知の空間」です。また、BBSは基本的に徹底した価値相対主義の世界です。ここで信頼できるのは、出所のはっきりしたデータと、反論の余地のないロジックだけです。そこにおいて相手を説得なり折伏なりするためには、客観的なデータなり、論証の必要がないような事実や法則をまず探しだし、それをもとに自説を展開しなくてはなりません。裁判と同様、「常識」などといった概念は(あまり)通用しません。

 BBSの種類や形式にもよりますが、ある程度早く「反撃」しないと「逃亡」と見なされたり、話題が流れてしまって、蒸し返すといかにも格好がわるいという状況に陥るケースもあります。つまり、全体的に「速度」という能力も不可欠となるようです。

 そういったさまざまな能力を著しく欠いた者が議論に参加し、スキのある言動をした場合、他の参加者から一斉に攻撃される危険があります。往々にして、「イタい奴」などと揶揄されることもあります。

 実際にいろいろなBBSを見るにつけ、やはり全体として議論が巧くない人たちはいますが、議論が巧くないからといって彼らの主張が的はずれとはかぎらないと、私は思っています。

 さて、この文章は喫煙害問題に関してどうこう、という内容ですが、タバコの害やら健康がどうのとか、そういった記述はいまここで述べる気は(あんまり)ありません。あくまでゲームとしてのディベートを通して、いまタバコ問題がどういう状況になっているか、その場で「勝つ」にはどういうことを論じるべきか、そういった視点でいろいろ述べてみようと思っています。

 

「健康」と「嫌煙」

 

 先にも書きましたが、私は「嫌煙」という言葉は好きではありません。ある事物によって被害を受けている者が、「嫌○○」などと言うでしょうか? 日常的に暴力にさらされている人は「嫌暴力」と称されるでしょうか? 「嫌煙」なる言葉は、あくまで「喫煙」という慣習が社会に是としてあるということを前提とした表現だと、私は考えています。

 そもそもタバコの煙というものは「毒」です。喫煙によって生じる汚煙には人体に不快な感覚を抱かせるホルムアルデヒドなどがふんだんに入っていますし、ベンツピレンなど吸入することで癌を誘発させたり育成したりする物質も入っています。それをわざわざ好きこのんで吸引すること自体、一個の生物として間違っているような気がしますし、だいたい毒のある葉っぱに火をつけて煙を吸引するなどという行為もいいかげん異常なことのようにも思えます。

 しかし、少なくともこの文章においては、その種の話をことさら強調するつもりはありません。タバコが人体に有害である、そんなことはとっくにわかっていることです。しかし、実はこれをディベートで論証するのは、意外に難しいことなのです。

 実のところ、インターネットのBBSでも、喫煙の健康被害に関する話を一生懸命書き込んでいる人を多く見かけます。それはそれで別に止めませんし、実際ほんとうに喫煙の害をあまりよく知らない喫煙者もいるのですから、リテラシーの意味である程度の意義はあると思います。

 ただ、そういった視点でものごとを論じるならば、ある程度データの扱い方を知っていなければかなり難しいということは承知しておくべきでしょう。ちなみに私はきちんとした統計学や疫学の知識を持たない素人ですので、その意味でもあまりこの種の本格的な議論はできないと考えています。

 たとえば、厳密な話をすれば、喫煙によっていかにして癌が発生するかというメカニズムはまだ完全には解明されていません。また、本当に喫煙によって癌が発生するかどうかについても、完全には立証されてはいないのです。現代では、癌の発生要因となる他の因子が非常に多く、タバコだけを純粋な形で切り離すことが難しいことなども主要な原因のひとつです。

 まあ、こうなってくると「何をもって立証か」という議論になり、科学的認識論とか不可知論とかいった議論になってきて大変不毛です。つまり、たとえば胸にナイフが刺さっていて死んだ人だって、刺さったナイフが原因かどうかは実ははっきりわからないということです。ナイフが刺さる1秒前にいきなり老衰とか隕石が当たったとか誰かの呪いとか、何か別の原因で死んだのかもしれない。あくまでも、「きわめて強い因果関係の存在が推測される」にすぎないのです。まあ、「常識」というものがあればこんなことは言い出さない話なのですが、言葉だけで構築されているような思考空間(インターネットのBBSや、裁判所などはそれですね)ではこういうヒマで非建設的な言葉遊びが横行しているのが現実なのです。

 喫煙が健康に悪影響を与えるという事実は、よほど狂信的な者でもないかぎり、喫煙者もよく承知しています。「まだ確証がない」などと言っているのは、賠償金を払うのが嫌なタバコ企業や、タバコ業界からの利益供与を手放したくない政治家や、なんでもいいからとにかく喫煙の習慣を固持したくて強弁している喫煙者ぐらいのものです。彼らはわかっていて開き直っているだけですから、「説得」というような作業はほとんど意味を持ちません。もっとも、多くの喫煙者は、自分が日常的に吸引している煙にどんな毒が入っているのかすらほとんど知らないのが実情なのですが。

 実際にこういう言葉遊び的な「反論」を出してくる「喫煙擁護論者」を何度も相手にしたこともあります。しかしだからといって、こういう話はくだらないからと無視すると「逃亡! 逃亡した!!」「論破した! また嫌煙を論破してやった!! クハ〜」などと喜ぶ「喫煙擁護論者」もよくいます。

 非常に丁寧に、手間をかけて論じていけば、こういった無茶な議論の大半は封殺することが可能かもしれませんが、一定以上の文字数を書き込むことのできないBBSのディベートではなかなか難しく、だいいち時間と労力の無駄です。

 あらゆることを疑ってかかること、よほどできのよい、信頼するに値するデータ以外は、それに依存した議論をしないことなども、この種のディベートのひとつの手法だということです。

 

「タバコ煙害ディベート」の相手

 

 ところで、先ほど「喫煙擁護論者」と書きましたが、タバコ煙害ディベートの相手は実は単なる「喫煙擁護論者」ばかりではありません。ディベートにおいて「喫煙すること」を擁護することはかなり難しいので、「相手方」は、「自分は喫煙を擁護しているのではなく、行きすぎた主張をする『嫌煙』を攻撃しているのだ」という立場なども好まれるようです。

 この立場には、「もと喫煙者」「今は喫煙はしていない」「他人の喫煙はあまり気にならない」というキャラクター設定が好んで使われます。この設定なら、「喫煙者の気持ちがわかる」「現在は実生活上喫煙によって他人に迷惑をかけていない」「実社会うんぬんの問題には中立だが、論理的に不正確な主張する者だけが許せない」といった、攻撃されにくい人物を演じることができ、攻撃されることなく好きな主張ができるというメリットがあります。

 この種のキャラクターは、この問題にかぎらずよく現れます。彼らは問題の本質より、「正しい情報」だとか「真実」だとかをよく口にします。

 しかし実のところ、こういった者の多くは、ことの本質である問題は別にどうでもよく、タバコ煙害問題で苦労している者の訴えを面白半分に茶化したり、なんとかして解決策を模索している者の意見にダメ野党的な野次をとばすといった、なんの覚悟も建設性もない困った人間です。まあつまるところ、単なる「タバコの害を訴えたりする奴が嫌いなヒト」、いわゆる「嫌・嫌煙者」なんでしょうけどね。いや断言はできませんのであくまで推論ですが。

 この種の人間は、討論ごっこで暇つぶしでもしつつ、自分のディベート能力がいかに優れているか見せびらかして、自意識昂揚の快感でも感じてやろうという欲求、定説っぽい意見を覆すような、いかにもそのへんの凡夫とは見識が違うぞというようなことを顕示できる意見を展開したり、掲示板上で言い争いの結果カッコよく勝利し、高揚感や勝利感、なんとなくひとかどの人物になったような気分を味わいたいなどといった生理学的な欲求が主な動機なのではないかと、穿った見方をせざるを得ないようなケースを私はたくさん見てきました。それのどこが悪いと開き直られればたしかに別に悪いということではないのですが、実生活上ほんとうに苦痛を感じているタバコ煙害問題の被害者諸氏にとってはこういうのとやりとりすることはあまり建設的なことではありません。まあ、ストレス解消のためにやり合いたいという向きにはよい相手ですから、適当に、クセにならない程度にやりとりすることをお薦めします。

 もしあなたの目的が、タバコ煙害問題に関する実質的な議論を行うことであるならば、こうした種類の人間を見極めることが重要です。もっとも、その種の連中は「喫煙害問題をまじめに考えている愛煙家」とか「議論の客観性を確保したい市井の知識人」とかに巧妙に擬態してますからそう簡単には見破れませんけどね。 

 とりあえず、ここではディベートの相手を一括して「喫煙擁護論者」、場合によっては「嫌・嫌煙者」というように呼ぶことにします。

 

タバコ煙害ディベートと疫学

 

 統計というのは、こういった議論で非常にしばしば例示されるのですが、これが結構マユツバものです。統計調査は、調査方法、条件の設定、データの解釈方法などでかなりの部分「主張したいこと」をうまく裏付けるような結果を導くことが可能だからです。

 「疫学」というカテゴリーは、こうした統計の手法に依存した学問です。疫学は、元来の対象領域である感染症以外の領域では、何かを決定的に断定することはできません。あくまで蓋然性の指摘、「これこれの可能性が高い」という事実の提示以上のものは望めません。昔の「公害裁判」などでも、疫学的証明の妥当性をめぐっていろいろと議論があったようです。

 少なくともタバコ煙害問題に関して、疫学のデータは決定打にはなりません。タバコの健康被害をあらわすデータも、あくまで蓋然性の指摘にすぎませんし、逆に「タバコ擁護論」の疫学データ―「喫煙はアルツハイマーを予防する」だの「喫煙は乳癌の罹患率を減らす」だの、「受動喫煙は肺癌に関係ない」だのといった、喫煙者が一縷の望みをもってすがろうとする説もまた同様です。「胸に刺さったナイフ」と、「その被害者の死」との間には、かなり高い関連性が認められると考えられますが、タバコの汚煙の吸引と疾病の関連性は、解析するべきパラメータが多すぎるため、一概に「高い」とは言いきれないとも考えられます。

 きちんとした研究を行うのであれば、むろんこうした疫学や統計のデータを集めて吟味することは重要ですが、少なくともこの種のディベートには、「あまり」役に立たない「場合が多い」ということを忘れてはいけません。ことディベートの場においては、「タバコと肺癌等の疾病の関係は、十分に立証できない」というスタンスが妥当と言えましょう。

リスク内容

10万人対死亡者数

水道水

0.1人

胸部レントゲン撮影

0.5人

アスベスト吸引

10人

ディーゼル排気ガス(室内)

26〜148人

ディーゼル排気ガス(都市部屋外)

300人

タバコ副流煙吸引

700人

喫煙

20,000人

 たとえば、ここにあげたのは、松崎道幸氏の提示する有名なデータで、「人間がそれを一生摂取することにより、癌などの疾病にかかり死亡する割合」というものです。

 たとえば水道水を日常生活上で一生飲み続けた人が10万人いたとすると、そのうちの0.1人(ということは100万人のうちの一人という意味ですね)が癌などの病気にに罹患して死亡するということです。

 論理的に言って、「身体に悪いもの」と「そうでないもの」の間には、本質的な違いというものはありません。青酸カリだって1000兆分の1グラム程度だったら毎日一生飲んでもそれによって死ぬ可能性は低いでしょうし、単なる水であっても一日に100リットルも飲めば水死するか水中毒になって死ぬおそれがあります。ただ、「そのものがどの程度危険なのか」という線引きは当然必要になってきます。このデータはそういった意味で、対象となる物質を日常的なレベルで毎日摂取したとき、その物質が原因となって癌などの疾病にかかって死ぬという状況を仮定したものであり、実効性の面ではそれなりに意味あるものと思われます。

 先進国ではふつう、この10万人対のリスクが1人以上のものは、危険であるとして改善したり廃止したりするのが一般的です。たとえばアスベスト(石綿)は、微細な粉塵が肺に入って癌を起こす確率が10万人対で10人であり、1人を超えましたので、規制されました。レントゲンは0.5人で1人を下回るうえ、そのリスクよりそれによって得られる社会的利益が相対的に大きいので禁止にはなっていません。ただし、危険であることにかわりはないので、しかるべき国家資格のある技術者しかその機器を操作してはいけないことになっています。ディーゼルの排ガスもリスクが大きいのですが、これはそれによって得られる益と、それが社会に対する害悪との相対的な関係が拮抗しているため、とりあえず運用は続けつつ、可能なかぎりリスクを減らすような諸対策を個別にとる、といった方法が採用されています。むろん、これについても、しかるべき国家資格のある者しかその機器の運転をしてはいけない、定期的に国家の認定する整備を行わなければいけないなど、厳しい規制のもとに運用されていることはご存じの通りですし、東京都のように本格的な規制を始めた自治体もありますね。

 話がちょっとそれました。データの話に戻りましょう。

 いろいろと書きましたが、しかし実際のところ、私はこのデータにはやや疑問をもっています。たとえば何をもって「ディーゼル排気ガスによる癌」と特定し得たのかなど、調査方法が不明確ですね。現実問題として、純粋にディーゼル排ガスが原因で癌に罹患した人を選別することは非常に困難だと考えられます。

 もちろんこの資料の内容そのものはそう荒唐無稽でもありませんし、データとしてはとてもわかりやすく、実効性の面ではとても参考にはなるのですが、あくまで参考データとして考えるべきであり、基本的に言葉遊びの世界であるディベートには決定的なものにはならないと考えるべきでしょう。むろん、完全にインチキデータというわけでもないと思いますので、使い方によってはよいデータとして使えるとは思いますが。

 

「喫煙大国」イコール「長寿大国」のパラドックス

 

 統計がらみでもうひとつ話を挙げましょう。

 「喫煙擁護論者」がしばしば持ち出す話題に、「日本は喫煙大国なのに、同時に世界一の長寿国なのはどういうことだ」などというものがあります。

 また、「うちのじいさんは喫煙者だけど90歳まで生きた。じいさんの知り合いもみなタバコを吸っているが長寿だ。タバコは寿命を縮めないのだ」などと鬼の首でも取ったように言ってくる者もいます。中には、さらにたたみかけて、「これは、タバコが健康にいい事の証拠なんじゃないですか?」などと香ばしいアオリを入れてくる「喫煙擁護論者」もいます。

 こういうネタは、BBS用語で「釣り」と言って、意識的にこういう話題を蒔くことにより、タバコ煙害問題によって被害を受けている被害者をわざといらだたせて掲示板を盛り上げようといった性質のものです。まあ本当に議論するまでもないようなくだらない話題でありながら、きちんと反論するのは面倒くさい問題という種類の屁理屈ですね。ただ、中には本当にまじめに(?)こういう話をあげつらってくるあまり頭のよくない輩もいるので疲れるのですが。

 まず最初の「喫煙大国なのに長寿国である理由」について述べましょう。

 答えは、「わかりません」。これが正解です。喫煙習慣がさまざまな形で人間の寿命を縮めることはほぼ疑いのないことなのですが、実際の問題としてこうしたパラドックスのような現象が存在することもまた厳然たる事実です。いい加減な推論だけならいくらでもできます。たとえば「日本古来の食習慣が癌を抑えているのだ」という説明もあれば「日本は医療体制が整っている」という要素もあるでしょうし、「もともと日本人は長寿な遺伝子を持っていたからだ」かもしれませんし、「日本人の持っている背後霊が優秀なので長生きなのだ」などという「推測」だって成り立たないとは言えません。とにかく、こういう問いに対する正解は、神様しか知り得ることはできません。

 「喫煙擁護論者」としては、それ見たことか、実は喫煙が人間の寿命を縮めるという説は嘘なのだ、などと主張したいところなのでしょうが、さすがにいくらなんでもこれは「なんとなく詭弁くさいな」という感じがするのでしょうか、本当に正面からそういう主張をしてくる「喫煙擁護論者」は意外と少なく、せいぜい喫煙を規制しようという論者への嫌味、冷や水的な持ち出し方をするようです。

 さて、「正解」については述べましたが、補足的な「推論」についてはもう少しいろいろあります。順に述べていきましょう。

 まず、社会現象一般にも言えることですが、国民の平均寿命の決定要因などというきわめて複雑な対象は、分析にあたって勘案しなくてはならないパラメータが非常に多く、簡単には推測できないということを認識することが必要です。それを承知で類推しますが、まず「平均寿命」という概念の検討をしなくてはなりません。これが、「とにかく出生した者がどれくらい生きたか」という統計方法に基づく調査結果なのであれば、成人の死亡年齢などより、まず新生児の死亡率、あるいは子供の死亡率などのほうがはるかに強いファクターとなります。もし、喫煙が生存時間に与える影響を正しく測定するつもりなら、新生児死亡率や幼少期の死亡率を補正した、「成人になった者の平均年齢」を比較する必要があります。

 また、生活環境全体がより衛生的で、危険が少なく、飲食物も健康を維持するのに適しているような状況なら、それによって平均寿命は大きくプラス側に動くことになるでしょう。発癌物質の身体に対する悪影響を防ぐ効果のあるような食餌や生活習慣、ひいてはそういった生活習慣などを積極的に生活に取り入れることを可能とする教育水準や知的成熟度などといった要素も影響が大きいと思います。

 そもそも発癌物質の発癌誘引作用は、必ずしも絶対的な効果を期待できるものではありません。人によっては発癌物質に対する感受性が強い人もいれば弱い人もいますし、この感受性は年齢とも大きな関連があります。言うまでもなく子供のほうが化学物質に対して強い感受性を持っています。特に癌は、確率的に発症する遺伝子系の病気ですから、遺伝子が激しく複製されている子供への毒煙の影響は、生涯摂取量は同じであったとしても、成人よりはるかに大きいものと想像できます。幼少のころからタバコ煙を吸引する生活習慣を許容する社会なのかそうでないのかといった要素も、平均寿命の問題には大きくかかわってくることでしょう。

 そして最大の要因(これも推測ですが)は、原因物質の摂取と、疾病の発生とのタイムラグによるものです。

 日本の場合、現在のような大量のタバコが消費されるようになったのは、歴史上全般でも、戦後の高度成長期以降です。1950年〜1960年代から爆発的にタバコが消費されはじめました。当時の日本人は、馬車馬のように働き、たまったストレスは酒とタバコで散らすとともに酒税とタバコ税を国に献上し、年とって仕事をリタイアして年金を貰うころになったら寿命や癌になってさっさと死ぬ、といった滅私奉公的人生を期待されていたのです。

 そのライフスタイルは個人の自由ですから別に止めませんが、問題はタバコの健康被害が、摂取開始からだいたい40〜50年ほどの時間をおいて顕在化するという点にあります。タバコの大量消費から40〜50年で各種タバコ病(喫煙習慣を持つことを原因として引き起こされたと考えられる疾病の総称)の罹患者が爆発的に増加する。これは、アメリカでも中国でも現れている現象なので、高い確率で日本でも起こることが予測できます。

 つまり、いま現在日本の「長寿」という統計結果を支えている要素というのは、実はタバコ大量消費時代以前の明治〜昭和初期生まれの人の死亡年齢であって、喫煙習慣の悪影響というものは実はこれから「効いて」くる可能性がある、というわけです。

 どうでしょう、最近、50歳〜60歳代ぐらいの世代に、肺癌、喉頭癌、膀胱癌、肝臓癌、肺気腫、肺気胸、心筋梗塞などで倒れる人が多くありませんか? 芸能人などでもなんとなくその手のニュースをよく耳にするようになっていませんか? 日本人はたいてい10代の中・後半に喫煙習慣を身につけます。40年後にはちゃんと効果があらわれる……のかもしれません。

 以前、アラブのある国のレポートに、「この国では老後のことなど考える者はいない。日本人はいったい何歳まで生きるつもりなのだ」といった意見がかかれていました。その国の平均年齢は50〜60歳代程度でしたから、そういう認識で十分なのでしょう。たしかに日本人もかつては70歳ぐらいまで生きれば上出来だ、といった認識でしたが、現代の日本では普通に生きれば60代で職をリタイアしても、場合によってはあと30年は生きることになります。そうなってくると、「老後」などといった人生の余剰時間のような考え方は切り替える必要がでてくるかもしれません。

 むろん、こういった各種の病気は、喫煙習慣の有無にかかわらず壮年期には多くなるのだという反論も可能です。ただ、これらの病気が喫煙習慣を持つ者に有意に多く発症するという研究者や医療関係者は多いですし、世界一の長寿大国日本は、同時に肺癌増加率世界一の国であることもまた厳然たる事実なのです。

 

「喫煙じいさん長生き」のパラドックス

 

 もうひとつの問題である、「うちのじいさんは喫煙者だけど90歳まで生きた。どうしてくれる」の問題についても触れましょう。

 前述のとおり、この手の話はまじめな議論というよりむしろ「釣り」の餌として好んで使われる話題です。しかも、これはどちらかというと「とんち小話」的な性格の話ですね。

 まじめな人なら、発癌の感受性には個人差があって……などと説明するのかもしれませんが、そういう話はこの場合あまり効果がありません。誰にでもわかることですが、この「データ」は、たまたま「喫煙しつつ長生きした人」だけをピックアップしただけの特称的なケースであって、統計手法や論理的な考え方をぜんぶ無視した「おもしろ話」にすぎません。

 本当にこういう調査をするのであれば、生き残っている喫煙じいさんと同時代の人で、喫煙習慣を持っていた人の集合を対象に、その中で一定の年齢まで生き残った人をピックアップして母集団に対するその割合を調べ、同じ条件で抽出した「喫煙習慣をもたなかった人」の集合における一定年齢までの生き残り確率と比較する必要があります。生き残った喫煙じいさんの背後には、同年配ながら病に倒れて死んでいった非常に多くの喫煙じいさんたちがいることを、この小話は意識的に無視しているのです。

 しかし、こんな小学生でもわかりそうな反論をするのも野暮というものなので、ここは「知り合いのじいさんは戦争に行ったが100歳まで生きた。つまり、戦争に行くと長生きができるのだ。逆に、戦争を経験しないで100歳まで生きた奴は誰もいない。くやしかったら戦争体験なしで100歳まで生きた日本人をあげてみろ。結論。長生きしたい奴は戦争に積極的に参加すること。……というロジックと同じですね」などと、似たようなわかりやすい例を挙げてやるのもいいかもしれません。

 

「喫煙擁護論者」の主張

 

 さて、どちらかというと「嫌・嫌煙者」的なあまり建設的でない議論の例をいくつか挙げましたが、そもそも喫煙という立場を擁護したい「喫煙擁護論者」は、どんな主張を展開するのでしょうか。

 以前、どこかのBBSのスレッドで、こんな書き込みを目にしました。

 

    喫煙者は話を大きくしたり小さくしたり、

    すりかえたりして自己弁解してるけど、たまにポロっと

    「やめたくてもやめられない」って事を言っている。

    正直、かこわるい。

 

 なかなか短い言葉で巧いことをいうな、と感心しました。

 先に挙げた、タバコ煙害問題自体はどうでもよくて議論と自分の知識の誇示にだけ興味があるようなタイプの人はさすがにあまり無理な強弁をすることは少ないのですが、とにかく喫煙行為をジャマされることが腹立たしくてたまらないという立場の人は、なんでもいいから言ってみるという感じでネタを振ってきます。

 その中で最もストレートで原始的なのが、

    「タバコを吸って何が悪い」

という主張でしょう。先に挙げた筑紫哲也氏の、「人間は本来健康を害することを覚悟で悪徳にふける動物である」といった意見も結局はこういうことです。

 たしかに、いくら健康被害を訴えたとしても、そもそもタバコを吸うような人は建前としては承知で自己責任のもとにやっていることですから(実はちっとも「承知」していないし「自己責任」も果たす気のない人が多いので困ったものなのですが)、タバコは健康に悪いのでやめようなどという意見は大きなお世話以外の何者でもないでしょう。

 タバコなど、害のあるものを好んで摂取する行為は、諸説ありますが、「愚行権」という権利によるものだという考え方があります。

 愚行権は民主主義体制の発達した国においてはたいてい認められている考え方で、理性的に考えるとたとえ本人にとって不利益につながることであっても、その本人が自己決定権を行使して行動する以上は、他人はそれに干渉してはならないというというものです。ここで、「喫煙はいわゆる『愚行』ではない」という意見も出そうですが、これはあまり異議を差し挟む余地のない問題なので流します。

 時々見かける「喫煙者の権利」というものは、おそらくはこの愚行権に依拠する主張だと思えます。「嫌煙」権ばかり強調されるが、喫煙する権利も守られなくてはならない、と彼らは主張してきました。

 ただし、これが不当と思える点が2つあります。まず第一に、愚行権はあくまで自己決定権と、それによって自己自身が被る「不利益」に対する自己責任が前提となるという原則があるもので、それによって他人の権利を侵害するような場合には当然のことながら愚行権を主張することはできません。

 従来の日本では、喫煙をすることが「常識」であり、また喫煙による空気汚染等の問題が問題として認知されていなかったという状況のため、喫煙者の「権利」は過剰なほどに守られてきました。いま、その「常識」はゆっくりと崩れはじめています。

 

タバコは「卑怯な商品」である

 

 またもうひとつの疑問点として、喫煙者がほんとうに「自己決定権」を有しているかという点かあります。「やめたいけどやめられない」というセリフを、いままで何人の喫煙者から聞いたことでしょう。

 タバコにある種の常習性があることを否定する人はほとんどいません。もちろん、タバコ以外にも習慣性がある商品は多々あります。喫煙擁護論者がしばしば挙げるのはコーヒーやアルコールです。ただし、なぜかこの種の商品の例としてシンナーや覚醒剤やマリファナなどすでに規制を受けている商品を挙げる人は少ないようです。「コーヒーは許されているのに、なぜタバコだけに文句を言うのか」というロジックにつなげにくくなるためでしょう。

 常習性、習慣性、依存性などを有する消費財はいくらでもあります。問題は、その度合いや、市場における在り方や、消費のされ方、仕様などの複合的な状況なのです。

 自由な市場が成立するためには、消費者に消費を行うかどうか、またその商品を選択するかどうかについて、意思を行動に移すための自由があること、そして消費者が、商品に関する情報を十分に持っているという条件があります。タバコは、この両方について条件を満たしていません。

 タバコは、かなり高い確率で、依存症患者を作り出す製品仕様を持っています。ひとたび喫煙依存症になってしまうと、消費者は継続的に消費をし続けることを、肉体的・精神的な苦痛をともなう形で強いられます。

 また、多くの消費者は、タバコに関する説明を受けていませんし、この商品に関する詳細な仕様を知らずに消費に踏み切ります。試しに、誰か身の回りの喫煙者に、タバコに含まれる発癌性物質を1つだけ挙げてくれるよう言ってみましょう。ニトロソアミンやベンツピレンなどの正解を挙げることのできる喫煙者の率は決して高くないでしょう。ちなみにニコチンは発癌性物質ではありませんし(ニコチンを摂取した際の代謝生成物には発癌作用があるとの報告もあるそうです)、「タール」というのはその中にさまざまな化学物質を含んだ化合物の形状に対する曖昧な呼称で、少なくともよい答えとは言えないでしょう。

 昨今は、製造者責任がかなり広い範囲で認められるように世の中が変化してきていますが、タバコはこの点からも大いに問題があります。簡単な部分について言えば、タバコには正しい使用法や使用上の注意についての記述はパッケージのどこを探してもありません。含有される成分や人体への危険についての具体的な警告もなく、「あなたの健康を損なう恐れがありますので、吸い過ぎに注意しましょう。」などというかなり曖昧な表現の注意書きしか書かれていません。これでは、消費者はなんの情報も得られないばかりか、「吸い過ぎなければ健康を損なうおそれがないのか」と考えないともかぎりません(2003年7月現在)。

 これは、タバコのパッケージに記載される文言が、「たばこ事業法」において「財務省令で定める」という形で規定されていることと無縁ではありません。タバコ事業が旧大蔵省(現財務省)の管轄事業であり、さまざまな利権のもとに運営されていることを知らない人はいないでしょう。もっとも、これを声高に言っても喫煙者はたいして気にしませんし、ここで細かく触れるつもりもありません。

 話がそれましたが、タバコという商品が、自由市場における他の一般的な商品とはかなり異なる性質をもつ商品であるということが重要なのです。タバコという財をうっかり選択してしまい、依存症という身体および精神の障害を背負わされてしまった消費者は、商品を選択するかしないかの自由を奪われ、一生の間その商品を強制的に消費し続けることを余儀なくされます。そして多くの消費者は、そういった依存性や、長期的に健康を害すること、人生のさまざまなシーンで大きな肉体的・精神的なハンディキャップを背負うことになるといった商品の仕様に関する情報を十分に知らされない状態で、この商品を選択してしまっている実態があります。

 タバコとは、自由市場において一般の商品が満たしていなければならない要件を満たさず、消費者に自由な選択を許さない、アンフェアな商品と言っていいでしょう。

 

なぜ未成年はタバコを吸ってはいけないか

 

 また話がそれますが、ちょっと関連した話題に触れましょう。

 BBSを眺めていると、「なぜ未成年者が喫煙してはいけないか」という根拠に関する話題がときどき思い出したようにあがることがあります。

 多くの日常会話では、身長が伸びなくなるだとか、身体の発育に害があるだとか、健康被害があるだとか言われますが、実のところはっきりした根拠はありません。現在の日本においては、喫煙が健康に被害をもたらすことはまだ完全に解明されていないことになっているため、健康被害を未成年者の喫煙が禁止となっている理由とすることは説得力をもたないのです。BBSの「喫煙擁護論者」の場合、もしタバコが原因となったことが完全に証明された健康被害があるというなら証拠を出せ、といった主張をする者がいます。これは疫学的な研究が主な情報源ですから、厳密な証拠はありません。同様に、未成年だけが健康被害を受けるのだという説を立証する根拠も、疫学的レベル以上のものはありません。

 実のところ、未成年者の喫煙禁止の根拠は、「そう決まっているから禁止なのだ」という説明でも十分なのですが、あえてそれらしい根拠を出すとしたら、「生涯契約」という側面も説得力があるかもしれません。

 先に述べたとおり、タバコという商品を消費し、喫煙という習慣を身につけるということは、生涯にわたる定期購入契約をタバコメーカーの企業を相手に結ぶこととほぼ同義です。

 この契約は、人によって異なりますが、たとえば1日1箱のタバコを消費する人なら1ヶ月で7千5百円、1年で9万円、生涯で喫煙を行う期間を50年とすれば、実に450万円をタバコ企業にひたすら支払うという内容の契約です。この金額に対してタバコ企業は、それを必要としない人には単なるゴミとしか思えない毒のある葉っぱの干したものを供給し、消費者側は支払った金銭の対価として、ニコチンの欠乏による苦痛の緩和効果や、毒のある汚煙および周りを汚染する灰および吸い殻による経済的損失や、生活上の実にさまざまな不便さや、火災のリスクや、自分および家族の長期的な健康の喪失や、家族や友人からの非難や、人生において健康でいられる時間の削減効果など、さまざまなものを得ることができます。

 そしてこの契約は、消費者が自分の意思で中途解約することはできません。タバコ企業側は、他の商品を扱う企業のような努力をすることもなしに、安心して一定量の製品をひたすら売り続ければよいという、企業側にとってかなり有利な契約を一生涯のスパンで締結するのです。

 人生全体に対する判断力も、情報収集能力も、知識も、社会的責任能力も未熟な未成年者が、こうした、人生のありかた自体を左右するような可能性のある、長期で高額の販売契約を結ぶことは、あまりに企業側にとって有利すぎるという問題があります。実際、タバコ企業は、なりふりかまわぬ手段でタバコのイメージ広告戦略を展開し、判断力が未熟で、依存症になりやすく、人生の持ち時間が十分に残っていて、より長い時間企業にカネを払い続ける可能性のある未成年に対するマーケティングを行っています。この点に限らず、タバコ企業のビジネスモデルは、ビジネス倫理学の観点から非常に大きな問題を持っていると言わざるをえません。むしろ「ならずもの企業」という呼称をあたえるべきであると、個人的には考えています。

 こうした状況から考えて、未成年者の喫煙は法律で規制するべきだ、というロジックは、ただ健康に悪いなどといった説明より説得力があるように思いますがいかがなものでしょうか。この種の問題が、直接ディベートに関係してくることはあまりないのですが、ちょっと触れてみました。

 

タバコ会社の陰謀理論

 

 ところで、タバコ煙害の被害者の一部には、タバコ関連企業がひそかに大規模なロビー的活動を行っていて、タバコのイメージを肯定的に向かわせようとしたり、反喫煙運動を妨害したり、若者や女性を洗脳しようとしたりしている……などといった主張する人がいます。甚だしくは、いま書いているこの掲示板にはJTの回し者がたくさんいて、タバコ被害者の意見を片っ端からツブしているのだ、などと言います。

 この種の「陰謀理論」の主張は、まあある程度気持ちはわからなくもないのですが、少なくともディベートでは避けておくべき内容でしょう。なぜなら、ツッコミどころが多すぎるからです。

 まず、証拠がありません。だいたいそんな大規模な陰謀を行っているなら、そうおいそれとそのへんにわかりやすい形で証拠を残しておくはずがありませんね。

 それにそもそも、現代社会においては、そんな大規模な陰謀はきわめて成立しづらいと言えます。社の箝口令など飲み屋にでも行けばたいてい自動解除したりしますし、もし本格的に悪どい陰謀のようなことをやっていることが発覚した場合の企業イメージの失墜など有形無形の経済的損失は、企業の存続を危うくするほど大きいものになるでしょう。もしあなたが企業の経営者であったら、そんな危険な橋を自分の職責において指示しますか? そんなリスクの高いことなら、やらないほうがはるかにマシです。

 そういった状況を無視して、「タバコ企業の陰謀が進行している」などと主張すれば、当然「妄想」という反論を受けます。それを立証する証拠を持っていても、陰謀理論の立証はかなり困難な作業です。そのへんを覚悟して主張を展開するならまだよいのですが(ほんとはよくないのですが)、この手の主張をする人はたいてい議論のあまり得意でなく、議論を闘い抜く覚悟も実力もない人が多いようです。こういう人が頻出しますと、「嫌煙活動する奴なんかはみんな気違いだ」などと言われるので、たいへん迷惑です。心当たりのある人はぜひともやめていただきたいですね。などと書くと、さっそく「嫌・嫌煙者」の方が「疑似・気違い嫌煙者」を装って、狂ったようなアーティクルをどんどん書き込みそうですが。

 とはいえ、実のところこういう「陰謀理論」を持ち出したくなる気持ちもわからないではないですね。『現代たばこ戦争』(伊佐山 芳郎著・岩波新書)によると、日本のテレビ局でドラマ制作をしていると、山のようにタバコの差し入れが届くことが指摘されています。そういえばドラマの中ではやたらと喫煙シーンが多いような気もします。

 タバコは、いったん依存症患者になってしまえば、ちょっとやそっとのことでは患者が依存症から回復しタバコ消費をやめてしまう心配はない商品なのですが、少なくとも新規の消費者を獲得するために、「イメージ」がマーケティング上非常に重要な要素となるという特徴があります。そのため、タバコ企業は、なんとしてでも喫煙シーンというものが「日常的な、ごく普通の情景であること」を一般化・常識化させておこうと、あらゆる手段で、莫大な予算をかけてPRしています。

 と書くとまた妄想だとか言われそうですが、これはマーケティング戦略としてはごく常識的な方法でしょう。実際、JTは、社会的ヘゲモニーを握っているような30代〜40代あたりをターゲットにした雑誌のほとんどに広告スポンサーとして金を出し、盛大に広告を打っています。「男」「大胆」「豪快」などといったイメージを赤井英和あたりなんかを使って演出したり、掲載雑誌の空気にあわせていろいろやっていますね。

 世論形成に重要な位置を占めるテレビ番組にも、JTはたいていスポンサーとして金を出しています。『ニュースステーション』『ニュース23』『たけしのテレビタックル』など他にもたくさんありますね。そういえば『テレビタックル』では、わざわざ「喫煙コーナー」などという枠まで設けていますし、『ニュースステーション』ではどうもJT寄りに偏向した番組構成姿勢があちこちのメディアで指摘されています。

 そもそもJTは、旧大蔵省の子飼いの企業で、社長などもほとんど大蔵省(現財務省)OBですし、いかにも何かやっていそうな気もしますしね。

 たしかに、人の口に入るものとして本来なら管轄官庁となってもよさそうな厚生労働省の意見を強硬に排除したりする財務省の態度にも、またほぼ明らかに人体に害のある製品を、まだ因果関係が完全に明らかになっていないなどと称して製造・販売しつづけているという企業姿勢にも、非常に大きな問題があることは事実です。

 しかし、だからといってむやみに陰謀などというトンデモ系の話に直結するのはよい戦略とはとても言えません。毎日毎日無神経な喫煙者の被害に遭い、殺伐としている気持ちはよくわかりますが、そのへんは冷静に考えていきたいところです。

 

タバコは税金を多く払っているから社会正義なのか?

 

 さて、「喫煙擁護論者」の主張しがちな論理についてつづけます。

 これまたよく出るのが、「喫煙者はよけいに税金を払っているのだから、ちょっとぐらい社会に迷惑をかけても許されるのだ」という意見です。けっこう社会的地位のある人でも平気でこういうことを言う場合があるようですから困ったものですね。

 手っ取り早く言えば、いくら税金を払っていようが迷惑行為はダメに決まってるとしか言いようがありません。ガソリン代を払っているからと言って暴走行為をしてもよいというわけではありませんし、高額納税者なら犯罪を犯しても許されるということもありません。まあ、喫煙者側も「そういうことを言ってみるテスト」程度の場合が多いようですが、たまに口をとんがらせてムキになってこういうことを主張するいい大人がいるというのもまた事実です。

 喫煙害問題を扱った本などを見てみると、タバコによる税収がいくらで、タバコによる社会損失がいくら、といった資料がたくさんでています。これはこれでたいへん重要なデータなのですが、いちいち書いてもどうせ相手はそんな数字なんかまともに読みはしませんし、BBSにはやや退屈な書き込みになってしまいます。そもそも、この種のデータの正当性などがはっきりしないため、少なくともディベート上での決め手とはなりにくいように思います。むろん、常識的に考えて、建設的な費用を捻出することは困難がともないますが、被害額というものは容易に跳ね上がりますから、タバコによる社会の害がタバコ税の税収をはるかに上回るという意見はべつだん無理がないものと思いますが。

 まあ常識的に考えて、タバコ1本吸ってまき散らした汚煙や残灰、吸い殻や包み紙(どうしてタバコ吸いの連中ってタバコの包装などを道端に平気で捨てるんですかね?)などの回収に必要な設備や人件費などが、1本あたり8円やそこらでまかないきれるでしょうか? まあいろんなシチュエーションが考えられるでしょうから一概には言えませんが、1本のタバコが社会に与えるさまざまな悪影響が、わずか8円ですべて修復できるとは、私には思えません。何度もいいますが、秩序というものはそれを乱したり破壊したりするコストより、守ったり修復したりするコストの方がはるかに高くつくものなのです。

 しかしどうも日本の喫煙者の間では、そもそもタバコの税収が多すぎるといった意見も聞かれるようです。JTは「たばこは税負担率が6割にものぼる、わが国でも最も税負担率の重い商品のひとつです」などといったコピーでさかんに反対PRをしています(2003年7月現在ウェブサイトにて)。

 こういう言い方をするといかにも税金をたくさん払っている例外的なモノのように感じられますが、これまた「わが国でも」とことわり書きがしてあるところが「罠」ということで、国際的に見ると日本のタバコ税は相対的に決して高いとは言えません。

 まあ詳細はインターネットなどでどっかのサイトかなんかをご自分で調べていただくとして、大雑把に書きましょう。日本の約60%というのは韓国とほぼ並んで先進国中では最低クラスであり、ドイツ70%、イタリア73%、フランス75%、イギリス77%、デンマーク85%といったところから見て、安すぎの感があるくらいです。

 ちなみに、厚生労働省所管の研究機関、医療経済研究機構の2002年9月の試算では、仮にタバコをひと箱1000円にした場合、喫煙者は1780万人減り、タバコによる死亡者も現在10万人のところが3万人台まで減少するとのこと、医療費も今の3分の1近くに約8000億円以上削減できると言います。一方の税収ですが、たばこが300円になると現在の約2兆3000億円からわずかに減少しますが、500円では4000億円になり、ひと箱1000円になると1兆円余りそれぞれ増えるとのことです。……どうもこういう数字ばかり書くのは面白くないですね。

 だいたい、喫煙者はタバコの価格が少しぐらい高くなっても、喫煙習慣をなくそうとはなかなかしません。こういうグッズのことを、「価格弾力性が低い財」だとか言うようです。

 インフォシークの調査では、2003年7月の価格引き上げに際して、「禁煙する」と答えた喫煙者は12%だそうですが、まあくやしまぎれのハッタリもあるのでしょう。2003年6月下旬に東大医学部の院生が一般の大学生を対象に行った調査では、喫煙をやめると答えた者は0%だったそうです。この程度の値上げでは、喫煙依存症患者が依存症を脱する動機としては弱すぎるということなのでしょう。

 ついでに触れますが、「喫煙擁護論者」の中には、タバコの規制を強めると税収が減って大変だからどうしてくれる、などといったことを訴える人がいます。いつからアンタは国や地方自治体の税収の動向を心配するほど大物になったんだとかツッコミを入れたくなりますが、そもそもタバコ税のように奢侈税的な要素の強い税収に依存すること自体、あまり健全な話ではありません。

 ちょっとだけ天下国家とか語ったりしましょう。国家レベルで言えば、日本がまだ貧しくて、とにかく当座のカネが必要だった時代においては、とても手軽で優秀な「カネのなる木」だったタバコですが、日本が貧乏国家を脱して豊かになり、生活の質、人生の質などを考える時代へと移ってきたところ、タバコとはそれによって得るカネより遙かに多くのカネを喰う病人を大量生産する厄介ものであるということに気づきはじめたんでしょうね。で、国としては、だんだん持ち重りがしてきたのでそろそろ切ろうとしているところなのかもしれません。狡兎死して走狗煮らる、まあ世の中なんてだいたいそんなものです。

 

タバコは社会の敵なのか?

 

 退屈ついでにもうちょっと突っ込んだ話をしましょう。面倒くさい方は読み飛ばして次のアーティクルに行ってください。

 さて、ここでひとつの視点として、経済財としてのタバコの位置について少々考えてみたいと思います。結局のところ、タバコという財は総合的に言って、人間を幸せにする財なのか、不幸せにする財なのかという視点です。

 ある財がその国の人間すべてを最大限に幸せにするものだったとき、この状況を「パレート最適を実現した」と言います。

 実のところパレート最適モデルという概念は非常に大きなツッコミどころをいろいろ有した概念なのですが、ここはまああまり細かいことを言わず、「結局タバコという財はマクロ的視点でパレート最適を実現しうるのか」、言い換えれば「タバコという財の市場的均衡によって社会のみんなが幸せになれるのか?」という程度の考え方として仮に話を進めます。

 タバコという財は、その消費者にとっては恍惚とした多幸感を与えてくれるものですし、生産者にとっては価格を少々高くしようと常に安定して消費が継続的に発生する優れた商品ですし、政治関係者にとっては文句も言わず自動的に高い税収がある収入源ですから、「よいもの」に決まっていると考えるかもしれません。しかしそれはあくまで喫煙者やタバコによって利益を得ている関係系の中から見た見方であって、問題は「その外部」なのですね。

 タバコという財の特徴的な性質のひとつとして、その消費がそのまま「生産」→「消費」の体系の「外」に対してマイナスの効用をもたらすという仕様があげられます。事実、インターネット上を散策してわかるとおり、タバコによる被害を訴えるサイトや掲示板などは他の財に例を見ないほど多数存在します。これはとりもなおさず、この財が大きな外部不経済を生み出していることの現れと言えるでしょう。

 パレート最適モデルが成立するための不可欠要件のひとつに「外部不経済が存在しないこと」があげられますので、この財が社会的にみてパレート最適モデルを実現するには、なんらかの「補正」が必要となります。つまりタバコという財が生み出している「市場化されていない社会的費用」は、現状では本来費用負担するべき者が負担しておらず、その負担は多く社会全体の関係ないひとたちに負わされていると考えられるわけです。

 これを補正し、社会が不当に費用を負担させられるような状況を修正するものがピグー税(もしくは環境税)というものです。まあ実際は、こうした外部不経済の経済的規模を完全に数値化することは困難であったりします。事実、先にも述べたように、少なくともいまの税率では、タバコの税の規模は、社会に対する外部不経済の規模とはどうもぜんぜん釣り合わないのが現実のようです。

 加えて、ピグー税の理想を言えば、補正的な税負担を課することによって消費傾向を縮小させたりし、結果として外部不経済を市場システムの内部に取り込むという考え方があるのですが、ことタバコの場合これがどうもあやしいんですね。ここでタバコという財の「特異性」が発揮されるわけです。

 以前、2000年問題の際、水やら食料やらを買い込む人が増えて今となっては笑い話ですが、実際のところ、このとき最も売り上げが増えたのはタバコだったといいます。喫煙者は、水や食料の備蓄などより、タバコの備蓄に走ったわけですね。先に述べたとおり、タバコという財は、少々購入が困難になっても消費傾向が落ちない、すなわち価格弾力性が極めて低い財であるという特徴を無視して語ることができません。これはとりもなおさず、ピグー税的補正を非常に高い水準に置かなくてはならないことを意味します。早い話、消費抑制を考えるなら、いまの税率じゃぜんぜん足りないってことです。

 タバコという財が他の財と大きく異なる点はいろいろ提示することができます。たとえば、

・きわめて有害性が高いにもかかわらず、安全性に関する基準が非常に古い時代のものであること

・経口的に人体に取り入れられるものであるにもかかわらず、監督官庁が財務省であること

・その使用環境が、人間の生活空間に極めて強く密着しているため、きわめて高い効率で人的被害としての外部不経済を生み出すこと

・タバコによる害は、そのコントロールが非常に難しく、またそのコントロールには非常に高いコストがかかること

などです。

 つまり、タバコという財が他の財に比していっそう特異なのは、本来パレート最適というモデル自体が自由市場をある意味前提としているものなのにもかかわらず、この財の消費者は「依存」や「嗜癖」によってメーカーに強力に服従させられてしまい、自由な経済行動をとる能力を奪われてしまうこと、またこれにより価格弾力性が極めて低いため、集金装置としての価値が高く、利権による特殊な政治的構造を構成しやすく、自由市場的経済財としての要件を満たしていない点などもあげることができるでしょう。また、パレート最適実現の重要な要件である「消費財に関する情報の開示」が確保されていないことも先にふれたとおりです。

 結論として、タバコという財については、「パレート最適が非常に成立しづらい特殊な財」という視点において、他の財と異なる取り組み、「とても特別な財」としての取り組みを行う必要があるように思います。

 

個人の嗜好を国が規制するのはいけないことか?

 

 ところで、私のようなタバコ煙害の被害に苦しんでいる者にとってはありがたいことに、最近では国や地方自治体などによるタバコ規制が広がる傾向にあります。BBSではよく、「気違い嫌煙どもがいくら騒いでも、結局何もかわらない」などと挑発してくる「嫌・嫌煙者」などがいますが、ここ10年ぐらいの間に世の中はずいぶんいろいろ変わりましたね。飛行機も禁煙がほとんどになりましたし、企業でも自席でタバコ吸い放題という会社はかなり減ったようです。千代田区で歩きタバコに罰金が科せられたり、私鉄ホームが全面禁煙になったりというニュースは記憶に新しいところです。

 こうした状況にあって、喫煙者の愚痴のような書き込みも目立ってきたような気もします。

 その大半は単なる自業自得の依存症患者が禁断症状の発作で譫言を吐き散らしているようなものなのですが、ちょっと注意を引いたのが「個人の趣味や嗜好を国や地方自治体が規制するのはよくないことだ」という意見でしたので、この点に触れてみたいと思います。

 基本的な原則としては、私も個人の思想信条、趣味や嗜好に関して国家等が口を挟むことは好ましいことではないと考えています。むろん原則は原則であって例外はあります。それは、規制をすることで国民全体が大きな利益を得ることが明白である場合、あるいは規制をしないでいると国民全体が大きな損害を被ることが明白である場合です。具体的には、拳銃や毒ガスといった武器の個人的所持・使用など、また麻薬や向精神薬の乱用などがこれに該当するでしょう。

 ただ、この「利益」や「損害」が本当に国民全体にとってのそれであるかの検討は不可欠です。たとえば拳銃は、日本では厳しく規制されていますが、アメリカなどいくつかの国では極めてゆるやかな規制しか行われていません。日本人は、民間の個人が武器を所有していると、犯罪や事故の増加するなどの事態が起こり、国民全体としては利益より不利益が大きいと考えていますが、これは単に日本人がそう考えているだけで、別に普遍的な真理としてそうなのではありません。アメリカ人の場合、民間の個人が武器を所有して犯罪などからの自衛手段を確保しておくほうが、国民全体としては利益が大きいと考えているわけで、これはその国の国民が考えて判断するしかない問題です。麻薬や向精神薬も同様ですが、覚醒剤やヘロインなど、依存性や嗜癖が強力な麻薬・向精神薬を無制限で許容している国家はおそらく少数にすぎません。また、毒ガスや爆弾、地雷、ミサイル類、細菌兵器、核兵器などのいわゆる大量殺戮兵器の個人所有を許容している国も、おそらくはほとんどありません。この種のものは、それによって得られる国民全体のメリットがデメリットを下回ることがかなり明白であるからです。

 問題は、それを規制することによって得られる国民全体のメリットがデメリットを上回るのか下回るのか判然としないケースです。たとえば、猥褻画像などは、日本において頒布、場合によっては所持自体が規制の対象となっています。しかし、これらを規制しないことが、本当に国民全体に不利益をもたらすのか、疑問を差しはさむ余地は大きいように思います。

 人によっては、青少年に猥褻画像などを見せると青少年犯罪が増加すると主張しますが、この主張にはほとんど根拠がなく、せいぜい「自分だったら猥褻画像を見ると犯罪がしたくなるから他の人もそうだろう」といった憶測でものを言っているにすぎません。統計では、日本の青少年犯罪の発生率は1960年代ごろがピークですが、この時代は今より猥褻画像等の規制は強力でした。また、日本よりも猥褻画像等の規制の強い韓国では、暴力犯罪の発生率が日本よりも有意に高いと言えます。つまり、少なくとも統計で見るかぎり、猥褻画像等の自由化と青少年犯罪の発生率の間には、負の相関性があると言えなくもありません。

 ただむろん、「風紀」という無形の秩序というものの価値もありますから、街中に無制限に猥褻画像等が開示されていたり、あまりに特殊な系統の猥褻画像等が子供などの目に触れる状況は回避されるべきだと思います(ただし、この「回避」を流通レベルで的確にコントロールすることはそれほど難しいことではないと思います)。

 また、その画像が実写であった場合、その被写体が、意思決定能力の未熟な子供である場合は、やはり非常に大きな問題があると思われますので、この種のものに対する規制は必要であろうかと思います。ただし言うまでもなく、これはその撮影対象が実在人物の場合に限られます。CGや絵画を規制する合理的なロジックは、私には考えつきません。

 一方のタバコですが、これも世の中に対するメリット・デメリットをなるべく冷静に勘案する必要があります。

 少なくとも従来は、税の集金システムとしての価値、向精神薬的作用による多幸感・ストレス解消等の効果、人前で余裕のポーズを演出したり格好をつけたり「大人であること」を誇示したり、あるいは「おれはこういう禁煙の場所で決まりを守らずタバコを吸ってもオドオドしたりしない、物凄く剛胆なワイルドで無法者な格好のよい漢なのだ」などということをアピールするディスプレイ効果など、有形無形の効用が高く評価されていたことは事実でしょう。また逆に、それによってもたらされるデメリットは、事実上無視され続けてきたという経緯があります。

 しかし現在、先にも述べましたとおり、少なくともこの財が社会にデメリットを与えているということが社会の通念として定着してきました。そもそも、年間3000億本以上もの汚煙発生源が、人間の生活空間のなかで無思慮に燃やされて、毒のある廃煙をたれ流すのですから、被害がでないほうがおかしいというものです。おそらく社会の思考習慣が、ものごとの一面だけを最大公約数的にとらえる段階から、よりきめ細かく多面的なものの見方をするような段階へと変化してきたのかもしれません。

 そうなってくると、この製品の引き起こすデメリットから被害者を守ることが要求されます。つまり、タバコ煙を吸引する性癖を持つ者と、正常な者とを分離する施設や設備などが必要となります。これには実のところ、社会全体にかなり大きな費用負担を強いることとなります。

 もっと直接で切実な問題として、医療の問題があります。タバコが、医療の財政に悪影響をもたらしていることを真っ向から否定している人はさすがにごく少数派です。これははるかに深刻で差し迫った問題です。

 「もしかすると」「精神面で」悪影響がある「かもしれない」……こういうレベルで個人の主義や趣味や内面的な思想や嗜好などを国家等が制限することは私もよほどのことがないかぎり賛成できません。しかし、これほど大きなデメリットを社会にもたらし、なおかつ特殊な症状を持つ一部の消費者だけに、あまり明確でない感覚的なメリットしかもたらさない財の場合、これを規制することは条件さえ整備すれば問題ないように思います。

 また、先の例に絡めて言えば、未成年者の非行問題の領域でもタバコは有意の影響をもつように見えます。少年犯罪を起こしたいわゆる非行少年は、犯罪行為の前段階に喫煙習慣を持つことが多いといった「非行と喫煙の相関性」はしばしば指摘されますし、また薬物等の乱用に至る前段階としての「入門薬物」としての地位を、タバコがつとめているという指摘もあります。少なくとも「青少年の健全育成」を謳い文句にするのであれば、ほぼ明確に青少年に有害な影響をおよぼすことがわかっているタバコは、現状より厳しい規制をされるべきだと思いますがどうでしょうか。

 もっとも、社会の中にあるいろいろな制度には、社会的慣性力とでもいうべき、「現状を維持したい」という力が働きます。タバコ関連業界には、特に強くこの力が働いているように思えます。それは、消費者レベルにあっては強力な依存性や嗜癖、生産者や事業者や租税関係者にとっては巨大な金額を得ることのできるという「うまみ」が生み出す、現状をいつまでも維持したいという「力」です。

 公害問題など、戦後多くの「外部不経済」が問題化するたび、加害企業や、その問題に関する利益共有者たちは、こうした「社会的慣性力」を発揮して抵抗しましたが、明確化された「害」は徐々に社会から排除されてきました。

  タバコについて言えば、かつては知られていなかった、ないしはあえて無視されていた外部不経済が、それから得られる益を大きく凌駕しているということが、ようやく暗黙知の段階を超えて形式知の形で明示されはじめているというのが現在の状況といったところでしょう。

 ただし、タバコはきわめて大きな(そしてそれは経済学的に不健全なレベルの)経済的権益を生み出す財ですから、社会的慣性力が大きく、またこれはその第一被害者の思考力を奪ってしまう特殊な財ですので、いったんこれによって精神および身体障害者となった者はこの財を手放すことに必死になって抵抗するため、排除が正常に進みづらいというのもすでに述べたとおりです。

 また、タバコの害の多くは「不快感」というような主観的部分の大きいとされてきた害であり、またその障害が長い時間をかけて進行するといった、形式知になりにくい「暗黙知」的な部分がまだまだ大きいという事情があります。それらの要素は、この財がパレート最適の実現からきわめて遠い財であることを形式知的に開示させることを難しくし、問題を複雑化しているのです。

 

タバコはダメでクルマの排気ガスはよいのか?

 

 ところで、BBSの論争において、「喫煙擁護論者」や「嫌・嫌煙者」らが好んで使うロジックがあります。それは、「煙を出すことに文句を言うなら、タバコより先に自動車に対して言え」といった話です。冒頭で井尻千男拓殖大学教授が言っていたのもこれに近い話でしょう。

 タバコ煙害問題の被害者の話が、「迷惑」の範囲をこえて、タバコ煙の毒性や健康被害などの客観的な被害などの話題になってくると、「喫煙擁護論者」らは「スキあり」といった感じで反応してくるようです。つまり、「客観的被害を論拠として規制なり廃止なりを主張するのであれば、同様の被害をもたらすものに対しても同じ態度をとらないことはおかしい」というような理屈が、彼らの頭には浮かぶようなのです。似たような例に、強い香水などもよく使われるようです。

 この理屈には多くのツッコミどころがあるのですが、まず第一に簡単に言ってしまえば、あるものによって被害を受けた被害者が、自分が被害を受けた事物に対してうんぬんするのはごく一般的な話です。別のあるものに対する言及は、その被害者や関係者にまかせておけばよいだけの話です。「喫煙擁護論者」もこれを言われると少々つらいようですが、どうにも感極まった連中などは納得せず、「逃げだ」などと言って追いすがってくることもあるようです。そこでちょっとだけつきあってみましょう。

 「喫煙擁護論者」や「嫌・嫌煙者」は、クルマとタバコの扱いが違うのはいいのか? と問うてきます。結論を言えば、いいんです。

 クルマとタバコの扱いが違う理由は、ひとことで言えば「クルマとタバコは別のものだから」ということです。

 「タバコがダメだという者は、同じ性質であるクルマもダメと言わなくてはならない」などと言うようなオツムの単純な人は、どうも何か「ダメな原理」のようなものがあって、それに該当するものは一元的にダメ、といったような非常に雑な論理を信奉しているようですが、これはまったくナンセンスです。法体系や法運用は、数学などの先験的な学術とは異なるもので、矛盾、根拠のない規定、二重基準などはよくあることであり、またそれは推奨するべきものではありませんが、現実問題として大きなトラブルが生じないかぎり、すべからく絶対に修正しなくてはならないといったものではありません。世の中というものは、そういう決まりで動いています。

 そもそも、世の中にあるもので、「絶対的にダメ」という物はありません。ある「物」の社会的ポジションというものは、きわめて多くのパラメータによって動態的に決まるものであり、そのときの社会制度や状況、通念、支配的思考習慣などによって変化する相対的なものです。それは、ある「原理」に従って先験的に決まっているような性質のものではなく、単に規約によって人が決めた措定的なものです。多くの場合社会は当該事物が社会に与える益と害とを対比させて、明らかに害が大きすぎるものに対して排除の動きに出るケースが多いわけですが、これとて絶対的なものではなく、社会制度的慣性力などのファクターも大きく関係します。ある財Aと、もうひとつの財Bとは、仮にその外見や機能のある部分が似て見えたとしても、それが別の財である以上、別のものとして考慮し直さなくてはなりません。

 それでもまだ「タバコとクルマに同一の原理を適用しなくては気が済まない」という者のために、ひとつの手段として両者の条件をいくつかピックアップし対照させてみるテストでもしてみましょう。

 クルマの場合、その製造から廃棄までのライフサイクルプロセス全体を含む経済体系がなるべく社会全体に対して外部不経済をもたらすことなく利益をもたらすため、つまり「パレート最適に近づく」ため、社会は非常に大きな経済・時間投資を行い、この害のコントロールを進めています。

 たとえばクルマの場合、教習義務をともなう免許という制度によって、資格のある者のみそのユーザになれるよう、そして何かトラブルがあった場合には、責任の追跡ができるよう、さまざまな制度が確立しています。

 また、クルマの稼働し、排気ガスを放出する空間は、原則として人間が通常生活する空間と、可能な限り分けられています。たとえば、レストランの席でタバコの汚煙を排出することはよく見られる事例ですが、同じ場所にエンジンを持ち込んで排気ガスを排出したりすれば、反社会的行動と見なされます。これはとりもなおさず、タバコというものが人間の日常的な生活空間でも当然のように汚煙をまき散らしている現状と、一見好き勝手に排気ガスをまき散らしているように見えるクルマが、実はかなり限定された場でしかそれを行っていないという事実を示唆しています。こうして、一方のクルマが「パレート最適モデルの達成度」を高めるために大変な投資を行い、外部不経済を減少する努力を積み重ねている一方、喫煙者の感覚的な快楽を除いては社会にほとんど貢献していないタバコは、過去何十年もの間、「マナーがあれば大丈夫」などと言いながらこの努力を十分に行ってきませんでした。この「パレート最適モデルの達成度の差」が、いま顕在化しているということです。

 それでもなお一元論的に「タバコに反対するならクルマにも反対するべき」という人は、逆の議論をも引き受けなくてはなりません。つまり、彼らがタバコを肯定する以上、タバコときわめて近い存在であり、その所持や使用が現行法制で規制されている麻薬や向精神薬、また拳銃など危険な武器類の所持等をも肯定しなくてはならないのです。彼らは現在の法体系がこれらを禁止している根拠に異を唱え、麻薬や向精神薬や銃の解放を訴えなくてはなりません。そうしないと彼らは、「なぜマリファナは禁止なのにタバコは野放しなんだ。その根拠を言え」という問いにさらされることとなります。

 たとえばタバコとマリファナなどは、その効果や形態、利用法、健康被害などたいへんよく似ています。しかし現在の日本では、タバコはあまりきびしい規制を受けておらず、マリファナはかなり厳しい規制を受けています。実はこれらの財は、歴史的経緯とか形成されている市場の状況とか人体への影響の及ぼし方とか、ひとつひとつ異なったパラメータを持っているので、それぞれ別々に論じなくてはならない財である、つまりは「タバコとマリファナは別のものだから」なのですが、すべてを一元論的に、安易な類似パラメータだけを使って同レベルで処理しようというような雑な議論には、いろいろな矛盾が生じます。そして、クルマとタバコもこれと同様です。

 この手の議論は、そもそもタバコの害だけを特権的に許容してほしくて感極まった「喫煙擁護論者」(それもあまり頭のよくない系の)が苦し紛れに持ち出す場合が多く、いろんなツッコミどころがあります。ていねいに対応しても多くの場合時間のムダですので、「違うものは違うものとして考えるべきだ」という話をして却下してやればよいでしょう。

 

なぜ喫煙者は交渉相手としての当事者能力がないのか?

 

 個人的な話ですが、タバコ煙害の中で私自身が最も迷惑を感じるのは、レストランなど飲食店での汚煙です。少なくとも2003年現在の日本において、完全な防煙対策を講じている飲食店は、やや増えつつあるとはいえ、まだまだ少数派でしかありません。「禁煙席」を設けている飲食店にしても、単に席を分けているだけで汚煙の拡散がまったく管理できていないというケースがほとんどであり、喫煙依存症患者のまき散らす汚煙によって、われわれ健常者は相互性のないまったく一方的な被害を被っているというのが現状です。

 こうした状況に対する喫煙者側の考え方を、過去いくつかのBBSで訊いてみたことがあります。この種のBBSでの態度というものはだいたいわざと相手を挑発したり煽ったり釣ったりするような発言態度が多いのでそのぶんを差し引いて考える必要がありますが、大半の意見は、「灰皿が置いてある、もしくは頼めば出てくる以上、そこは喫煙可能の場であり、従って自分はタバコを吸う。非喫煙者の迷惑は考慮しないし、する必要はない。非喫煙者の迷惑に対して考慮する責任があるのは、その飲食店の経営者である」というものでした。

 この意見は、社会制度や法規制の観点からは正当と言えます。ただし、一人の人間として、自分が行った行為が他者に大きな迷惑をかけているという状況についてどう考えるのかという問いを発してみたこともありますが、帰ってきた答えはほとんど皆無か、議論に値しない種類のものでした。

 一方、喫煙に関する法的な規制を行うという話となると、喫煙擁護論者はしばしば「マナー」という概念を押し出してきます。つまり、自分たちは「マナーを守る」という形で外部不経済が起こらないような自主的運用を行うことができるので、法律による規制は必要ない、という理屈です。

 この「マナー」による喫煙害の解決という考え方は、「喫煙擁護論者」の最後の切り札ともいうべき方策のようですが、だいぶん都合のいい部分をいいとこ取りした考え方ですし、正直なところ実効性があるようには思えません。

 2003年現在、タバコのパッケージには、「喫煙マナーを守りましょう」などといった文言が書かれていますが、そもそも、いったい「マナー」というものがどういうものなのか誰も知りません。

 参考のため挙げてみますが、以下は、かつて旧厚生省保健医療局健康増進栄養課がウェブサイトに出した「喫煙マナー」です。

1.禁煙区域、禁煙場所での喫煙は厳に慎みましょう。

 ・喫煙場所が指定されている場合は、それ以外の場所での喫煙は絶対に止めましょう。

2.灰皿のない所や、換気設備のない室内等での喫煙は慎みましょう。

3.あなたの味覚に影響するだけでなく、非喫煙者も食事中に席を立つことが出来ないので、食事をする所での喫煙は慎みましょう。

4.吸い殻のポイ捨てや歩行喫煙は、防災の観点だけでなく、他の人の皮膚や衣類に付いてやけどをするなど大変危険なので絶対に止めましょう。

5.喫煙する際は、周囲の人に了解を得るなどの気配りをしましょう。

6.喫煙者が吸い込む煙(主流煙)より、たばこの先端から立ち上がる煙(副流煙)の万が刺激性が強く、有害成分が多く含まれています。

・吸いかけのタバコを置き放し(置き忘れ)にしないように気をつけ、また、吸い終わったたばこはきちんと消しましょう。

7.喫煙中の灰は灰皿へ、吸い殻は火が消えていることを必ず確認してから燃え易いものと分けてゴミ箱へ、各々きちんと捨てましょう。

 これらの項目が世に言う「喫煙マナー」だそうです。知っていましたか? 私はぜんぜん知りませんでしたし、知っていたという人を見たことがありません。厚生省が厚生労働省になってしばらくすると、このウェブページもいつの間にか削除されてしまいました。(2005/10付記;ここにありましたねえ)

 ちなみに、BBSでこの「マナー」を紹介し、喫煙者はこの「マナー」が守れるかと聞いてみたところ、ほとんどの喫煙者が、3の「食事をする所での喫煙は慎みましょう」が守れないとの意見をもっていました。人によっては、「ここでいう慎むという言葉は、『度を越さないように控え目にする』という意味なので、これは吸ってもよいのだ」などと言う者もいて、まあ早い話とにかく何でもいいから吸いたいのだな、と感じたものです。JTが20年以上も前から呪文のように言い続けている「喫煙マナー」の実効性など、結局この程度のものにすぎません。

 飲食店の話に戻りましょう。「喫煙擁護論者」の多くは、自分らのまき散らす汚煙が喫煙習慣を持たない者に何らかの迷惑をもたらすものであるという認識は、少なくとも持っているようです。しかし、それでもなお、自分のばらまいた汚煙が他者に迷惑をかけた責任は自分にはない、責任があるのは喫煙を許可した店の経営者だと、彼らは言います。

 ちょっと電波系なことを言いますが、私はどちらかといえば哲学かぶれの人間でして、少しだけ勘弁してもらいましょう。人間が、機械などの非人間系システムと異なる最も顕著な点は、「責任能力の行使」だと、私は考えています。どんなに優れたコンピュータにもできない、人間にしかできないことは、自分の行為や意思決定に対して責任を取ることです。逆に言えば、人間の人間たる所以は、自分の所属する集団や社会において、一人の責任あるものとしてその位置を占め、そして自分の意思や自分の行為に対して責任能力を発揮することである、と私は思います。

 くだんのBBSの「喫煙擁護論者」たちは、非難されることなくタバコが吸いたいという欲求のあまり、すべての責任を場の管理者や法制度に委ねてしまっています。私は喫煙害によって日常的に一方的な被害を受けている立場ですので、かなりバイアスのかかった見方であることは自覚しているつもりですがあえて言えば、これは飲食店での喫煙という特定のシチュエーションにとどまらない、一般的な喫煙者の一般的なスタンスではないかと思います。

 たとえば、電車の車内で目の前に老人や妊婦などが立ったとしたら私はたいてい席を譲りますが、それは法規で決まっているからではありません。逆にもし自分が席を譲らなかったとしたら、それは自分が席を譲るのが嫌だったためであって、法規で決まっていなかったためでも、そこがシルバーシートと規定されていなかったせいでもありません。

 タバコについて言えば、そこに灰皿があろうとなかろうと、吸うか吸わないかの最終的な判断は行為主体である喫煙者が自己責任のもとに行うことがすべからく人間たる者の行為だと思うのですが、実のところ多くの喫煙者が、この意思決定プロセスを、自分以外の誰かの責任による他律的な判断として行い、自分自身の責任として引き受けることをしていません(むろん、この意思決定を自己自身の責任において行っている喫煙者も多くいるのですが、他者に被害を与えないように喫煙することは非常に難しいため、結果としてその種のひとは喫煙者であること自体を他者に知られずに喫煙しているという実態もあります)。

 このスタンスは、たしかに効率的です。自己の行為から生じる責任は問われず、場所さえ選べば面倒な意思決定をせずに心おきなくタバコが吸えるわけです。そして少なくとも現時点では、大多数の飲食店や一般公道ではどこでもほぼ問題なくタバコが吸いたいだけ吸えるのです。

 これはあくまで主観ですが、喫煙者の行動を見ていると、どうやら、彼らの喫煙行動における判断は「その場所はタバコが吸えるのかどうか」という部分のみです。あとは生理的欲求に従って昆虫のようにひたすら吸うだけのように見えます。むろん、喫煙者本人は十分自主的に行為しているように思っているでしょうが、彼らの行動を見ていると、どうも理性をもって自分の行動を制御しているようには見えません。

 まあ私の主観的評価の話はとりあえず措きますが、少なくとも議論の上で、自己の主体的な判断力や責任行使能力を自ら放棄してしまうことを前提とする喫煙者には、この問題に関して当事者能力がありません。彼らは、「場の管理者」がいいと言えば吸うし、いけないといえば吸わないという他律的な存在であることを、自ら宣言しているからです。とすれば、議論や交渉は「場の管理者」や法規の制定・運用主体とするのが有効であって、意思決定の主体性のない単なる消費者とあれこれ言いあってもほとんど時間のムダです。喫煙者にタバコを吸わせないようにするには、彼らから「タバコを吸ってもいい場所」を奪ってしまえばいいだけですし、あらゆる場所に好き勝手にまき散らされる汚煙の害を防ぐには、結局それしか方法はありません。

 さらに嫌な状況についてちょっと触れますが、日本ではいまだに飲食店の厨房で従業員がタバコを吸いながら調理する、などといった状況がけっこう目立ちます。まさかと思う方もおられるかもしれませんが、注意してみているとけっこうあちこちで見られますので気をつけて見てみてください。タバコを吸うと手指にベタベタのヤニがつきますが、その手を洗いもせず直接食材を持ったりする光景は、やや小さめの中華料理店などでは日常茶飯事です。また、医師や歯科医師などがタバコを吸った手でそのまま診察をするという実例も、私自身体験しています。身も心もニコチンにどっぷりと浸りきってしまった喫煙依存症患者にとっては、そんなものは何でもないことなのかもしれませんが、まともな感覚を持った健常者にしてみればたまったものではありません。

 喫煙者とコミュニケーションをとる実効的なメリットといえば、リテラシーの問題しかありません。つまり、タバコというものがどんな毒を含んでいて、どんな健康被害があって、それを売ることによって誰が得をし、また誰が損をし、人体にどんな悪影響を与え、周りの人間にどれほど苦痛や憎悪や悲しみをふりまくものであるか、ぜんぜん考えたこともないような喫煙者に、実際はどうなのかを知ってもらうというメリットです。しかし、それはあまり効率のよい方法ではないようにも思えますね。なぜなら、喫煙依存症患者は、タバコに都合の悪い情報は見えないし聞こえないし、もし見えたり聞こえたりした場合は、多くの場合狂ったような攻撃性で抵抗しようとするからです。

 

喫煙者は知的能力が低いのか?

 

 BBSにおいて、喫煙者や「喫煙擁護論者」、あるいは「嫌・嫌煙者」にしばしば不快な反応を起こさせるテーマに、「喫煙者は知性が劣っている」というものがあります。というよりも、喫煙者が不愉快なのは、非喫煙者が自分たちを「知性が劣る人種」だと思っている(らしい)ことに対して反論しにくいといういらだたしさかあるようにも見受けられます。

 このへんのテーマはもはや論理も何もないただの言い争いや貶し合いの世界なのでバトル自体が好きな方にしかおすすめできない内容なのですが、たしかに、決して安くない金額を特定の企業に支払って、その製品の向精神薬作用が切れることによる苦痛をやわらげる無限ループを数十分ごとに繰り返し続け、長期的には健康を損なうという自分自身の行動が、決して利口なものに見えないことは、喫煙者自身も気づいてはいるようです。

 人間の日常生活というものは、必ずしも「知的」「科学的」「健康的」「効率的」などといった価値観によって最適化されているとは言えません。タバコの他にも、寿命を縮めたり、人生にマイナスの効用をもたらす可能性の高いものなどは多々あります。「愚行権」が保障するように、健康で長生きする人生を選ばない自由も、また人間にはあるのです。従って少なくとも私は、それをもって喫煙者全般の人格を低いものに見ようという気はありません。

 ただ、そういった権利だの特殊な人生哲学だのといった机上の議論を別にすれば、この21世紀の日本において、喫煙などといったかぎりなくメリットの少なくデメリットの多い生活習慣をわざわざ身につけるということは、とても利口なこととは言えないとも思っています。少なくとも、情報収集能力、自分の人生に対する長期的な視点による判断能力、ストレスに際して薬物に依存しない意志の強靱さ、外見やしぐさなどの格好よさなどの要素を過剰に高い価値指標に置かない慎重さ、科学的な知識を実生活のレベルに適用する教養、他者に対して配慮する想像力、世界と自己とのかかわりを総合的に把握する認識能力、そういったもろもろの「心の力」が乏しい人物である、という評価は免れないのではないかと思っています。

 とはいえ、タバコの害がまだ認知されていなかった時代に喫煙習慣を身につけてしまい、タバコというものをごく一般的な嗜好品としか意識せず、依存症によってその習慣をやめることができなくなってしまった喫煙者も多くいます。こういう人に責任を問うことはなかなかできません。

 人は、時代の子です。その人間が世界に対する考え方を形成した時代の常識は、多くの場合その人間の思考や行動を生涯にわたって規定します。私は、ひとたび常習的な喫煙依存症患者になってしまった人は、ほとんどの場合もはや救済することができないと考えていますが、それはこういった理由によります。

 タバコというものが日常的な風景にとけ込んでいた時代を過去のものにする以外、こうした喫煙依存症患者が新たに発生することを防ぐ方法はありません。もっとも、そのために昔の映画やらレコードジャケットなどのコンテンツを修整しろなどと主張するのは大いに問題があると思いますが。

 

タバコは制御が難しい商品である

 

 タバコ煙害問題は、いったい誰が悪いのか? タバコという製品のエンドユーザーである喫煙者か? あるいはメーカーであるJTか? 管轄官庁である財務省か? ……まあ強いて言えばこの財の生産・流通・消費に関与するすべての者が悪いんでしょうが、悪者を特定することに意味があるとも思えません。むしろ「悪い」のは、この製品の仕様と、仕様を正しく理解しないまま今の誤った使用方法が一般化してしまった歴史的ないきさつである、とでも言うべきでしょうか。

 通常の使用方法をとった場合でも、タバコという製品はかなり多くの外部不経済を生みます。つまり、まわりに大きな迷惑をかけます。他にも、まわりに迷惑をかける仕様をもったものはたくさんあります。たとえば、スポーツの砲丸投げは、ふつうに競技してもまわりに迷惑をかけます。だから砲丸投げは、ちゃんと設備の整った場所を設置して、人間が生活する空間から隔絶された場所で行われるような社会的システムが確立しています。散弾銃なども、むやみに使えば命にかかわるような外部不経済をもたらします。したがって、やはり人間の生活空間から隔絶された場所で射撃することが社会的な決めごとになっていますし、その製品を使うための資格を国家が管理し、だれがユーザーであるか、もしそのユーザーが使用上のトラブルを起こした場合、責任を追跡できる可能性を確保してあります。

 先ほどのちょっと触れましたが、自動車というものも、大きな外部不経済をもたらす可能性をもった財です。そしてそれは、質的な仕様の問題だけにとどまらず、量的にもきわめて巨大なものがあります。この財を利用するにあたって国は、自動車が快適に稼動することのできる「道路」という設備を作っています。自動車という製品は、これほど莫大な費用をかけて稼動条件を整備し、人間の日常生活空間から隔離し、使用者の選別や責任追跡可能性を確保するといった数々の体制を確立した上で社会で広く使用されているわけです。

 タバコという財のもついろいろな問題のうち、特徴的なものは、コントロールに関するコストの問題です。タバコという製品の機能は、「燃焼させて煙を発生させ、その煙を吸引して気持ちよがる」というものですから、当然使用後の主流煙や副流煙などの汚煙が排出されます。この汚煙は言うまでもなく気体ですから、本当ならかなり本腰を入れた対応策をとらないかぎり、そう簡単にその害を管理することはできません。つまり、タバコという製品は、その影響をコントロールすることが非常に難しく、またそのコントロールのコストはたいへん高いものとなるため、現実にはその害が充分にコントロールされておらず、結果として大きな外部不経済を生み出していると見ることができます。

 たとえば「ゴミをゴミ捨て場に捨てる」という行為は、廃棄物に対するコントロールです。これを路上に放置すれば、それはコントロールを放棄したことになり、そのゴミは本来の「系」を逸脱して社会外部不経済をもたらすことになります。ゴミの場合、ゴミ捨て場やゴミ収集システムはおおむね完備されており、社会リソースとしてこれをコントロールするシステムがほぼできあがっていて、最終消費者はちょっとした努力とコストで自分の出したゴミをコントロールすることができます。このコストを惜しんでコントロールを放棄し、ゴミを無差別に投棄したりすれば、その責任は追跡され、処罰を受けるというシステムも設定されています。

 ところが、タバコに関してはこのコントロールに関するシステムも、責任追跡可能性の確保も、ほとんど未完成です。BBSなどで喫煙者はよく、吐いた煙や副流煙の行き先まで知るかなどと言いますが、これはゴミでいえば「川に放り込んだゴミの行き先まで知るか」ということと同義です。しかし、ゴミの場合はそのコントロールのシステムが社会に充実していますから、消費者は少ないコストでその社会システムを利用し、ゴミをコントロールの体系に収めることが可能です。ところが喫煙の場合、廃棄物が気体ですので、これをコントロールするためには高性能の空気清浄機の設置や換気システムの設置、廃ガス流出に対する防止システム等、大きなコストがかかります。このコストは、タバコの価格には反映していませんから、タバコという製品はそれが消費されるたびに社会に負担、すなわち外部不経済を強要していることとなります。これを解決するためには、高いコストを、負担するべき受益者が負担してコントロールのためのシステムを整備し、製品利用によって生じる外部不経済を解消するか、この製品自体を廃止するかのふたつの選択肢が考えられます。私は、短期的には前者の方法を、長期的には後者の方法を取ることが合理的だと考えます。

 まず短期的には、社会システムとしての分煙の制度化が急務です。タバコの害の特徴のひとつに、「その発生が、人間の生活空間に密着している」というものがあります。タバコ煙害問題の短期的な部分の特徴は、他の「周囲に迷惑をかける可能性のある製品」と違い、それが人間の生活空間から隔絶されていない状態で運用されることから深刻なものとなっているということなのです。本来、相当大規模な排煙装置などを設置した上で使用するべき製品であるにもかかわらず、そういった措置を行わず、しかも人間が日常生活を送る空間に毒と強烈な不快感を引き起こす化学物質を大量に含む汚煙がところかまわず、それも年間3000億本を上回る量で不法投棄されている。これが、短期的な意味でのタバコの外部不経済の原因です。

 ちなみに、こうした分煙の形態は、企業の事業所内などで現実に稼働しているレベルで考えると、パーティションで区切ったエリアに、喫煙テーブルや天井設置型空気清浄機(それぞれ約50万円程度)を備えたもので、月に1万円程度のメンテ料金がかかります。この程度が現実的なレベルでしょうし、2003年現在、こうした設備を喫煙者のために設置している企業は少なくないでしょう。

 タバコという製品を、人に迷惑をかけずに消費するためにはこの程度のコストは当然かかります。今までの喫煙者は、自分の嗜好のためのコストを自分で支払わず、外部不経済という形で社会に押しつけていただけです。

 こう言ってしまうと身もフタもないのですが、タバコなどというものははっきり言って本来人間という種に不必要なものですから、廃絶してしまうのが最もよい方策です。しかし先にも述べたとおり社会制度には慣性というものがあり、この財は特にその傾向が強いため、廃絶には何段階ものフェーズを設けたソフトランディングを行う必要があることでしょう。そのフェーズのひとつが、このように「人間の生活空間からの隔離性」を高めることです。

 こういった方向性には、国や地方自治体、いろいろな施設の管理者や経営責任者などへの請願やクレームなどが実効性を発揮するでしょう。私はもう容赦なくばんばんやっています。また、現在は封じ込められている形の「最終消費者の自由意思」をもっと発現させられるようにすること、具体的にはタバコに関する正しい知識をもっと普及させ、これが非常に大きな危険と高い外部不経済を生み出すものであるという情報を共有する必要があると思います。

 もっとも、この不況下、どこの企業にとってもコストダウンはかなり切迫した課題です。切ることのできるコストはすべて切っていかないと、企業の存続自体が危うくなります。その結果、企業の収益になんの貢献もせず、貴重なオフィススペースを無駄に喰い、空気清浄機の減価償却費やメンテ料という費用もかかり、社員の勤務時間が短くなる喫煙所という制度自体を見直す企業も増えてきました。いままで各階にあった喫煙所をビルで一カ所にまとめる企業、また喫煙所自体を廃止してしまう企業、喫煙癖をもつ人材を採用しない企業なども出始めています。たしかに、個人の嗜好品のためにになぜ企業が費用を負担しなければならないのかといわれれば反論するのはむずかしいですね。

 BBSのとある掲示板によると、「おまえら貧乏くさい嫌煙者と違って、タバコを吸うのは社会的な成功者が多いのだ」などというようなことを言うスレッドがあり、その具体例として、「ダウンタウン、ラルク、権力のある人びと」というのが出されたことがあります。

 しかし数年前(たしか飛行機の国際線が全面禁煙になったころだったかもしれませんが)に放映された番組の中で、松本人志氏が、「こんな禁煙ばかりの世の中になるとわかっていたらタバコなんか吸い始めなかった」という発言をしていたのが印象的でした。まあ、時代の流れというやつですね。

 それから、社会全体において、タバコを吸うという行為が自然なことだという、「作られた通念」を壊す必要があります。これは、CMの禁止などで進みつつありますが、まだ状況は深刻です。たとえば野放し状態の自動販売機などは、ただタバコを24時間売ることができる機械、というだけではありません。人間は、世界を、サインやシンボルで構成されたまなざしで見ながら生きています。タバコの自動販売機は、ただの機械としてだけでなく、タバコというものが街角でいつでも手軽に入手でき、消費でき、社会に広く当然あるべきものとして認知された親和的なものであるという「意味」を構築するひとつの材料ともなっているのです。従って、タバコの自動販売機は徹底して排除するべきだと、私は考えています。タバコがどれほど危険かという知識が通念になれば、現在そこかしこに見られるような、子供や赤ん坊の前で平気でタバコを吸う行為などは減っていくでしょう。

 加えて重要なのは、次世代の教育の問題です。タバコメーカーに限らず、販売戦略上最も有効なのは、価値観や意思決定能力が未熟な子どもに対してその製品のプラスイメージを植え付け、一生の消費者に仕立て上げることです。しかし、ただでさえ消費者の自由意思を発揮できないようにしてしまう性質をもったタバコという製品に関しては、これは非常にダークでアンフェアなマーケティング戦略と言えるでしょう。子どもに対する知識の普及、またメーカーの子どもに対する販売ルートを切断すること、これが効果的な指針と考えます。

 そしてこれは長期的な問題解決にも寄与する方策でもあります。というのは、先進国全体で起こっている「治安の悪化」などの問題に関して、「軽微な違法行為」というようなものが、その社会秩序の崩壊の引き金になるという説があります。アメリカの場合、それは窓ガラスが割れたまま放置され、管理者不在と認識されたビルであり、また街のあちこちにある落書きでした。こうした軽微な犯罪を徹底的に取り締まることにより、そこが法的秩序維持システムが正常に機能している都市空間であるという認識を一般化するという効果を得ることができたといいます。昨今はやりのジョージ・ケリング博士「割れ窓の理論」というやつですね。

 これは私見ですが、日本においては、成年・未成年を問わず「喫煙」がアメリカにおける割れ窓や落書きのような「軽微な犯罪」のポジションを占めているような気がしてなりません。未成年の喫煙や禁煙場所での喫煙など、無軌道な喫煙行為を徹底的に取り締まることは、日本の崩壊しつつある法秩序の復活のための重要な一歩のような気がします。ただし、これには特に明示的な根拠はありません。単なる私見なんですけどね。

 

最後に

 

 と、最後はどうも説教くさくなりましたが、まあタバコの問題についていえば、なんとなく腹が立ったというような感覚的な話に終始したり、すべてはJTの陰謀だなどとデンパ系の話をしたりするより、その問題に関するある程度総合的な知識なんかを知っておくと、BBSでの罵り合いでもいろいろ有利に論を展開することができていいですよ、ということですねー。

 だいたい、人に迷惑をかけている奴らがいて、被害者がいて、議論している。そんなの加害者が悪いに決まってるじゃないですか。もしこの問題を題材にしてディベートゲームを行ったとしたら、私は「喫煙擁護論」の側で議論を勝ちに持って行くのはかなり骨が折れるのではないかと思っています。結局、現実のディベートでは、「喫煙擁護論」側の開き直りや、細部に関する混ぜっ返しや、机上の空論の陳列、揚げ足取り、論点ずらし、話のすり替え、人格攻撃からただの罵倒まで、あらゆるヒキョーな手を使って抵抗してくるわけです。まあ、こうした「喫煙擁護論者」らの攻撃には、突っ込まれるようなたわけた物言いをする喫煙害被害者の責任もあることも事実ですから、そこらへん考えてやってみてはいかがかとも思います。ま、そもそも人生において別にBBSなんか見たり書いたりする必要なんか全然ないと言えばないんですけどね。

(終)

2003/07

 


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