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私は本書(吉本隆明の『心的現象論序説』)における特異な造語が一般化されるとは思わないし、吉本氏もそれを望んでいるわけではあるまい。ただわれわれは新しく名付けるほかしようがないものを氏がみつめていたことを了解すればよい。小林秀雄は、西田幾多郎について、この優れた哲学者はデッド・ロックの発明も征服も全く独力でやらねばならなかったが、この孤独は健全でない、と書いたことがある。本書もまたそういう性質を帯びているので、実はおそろしく孤独な本だと言うべきだ。(「孤独なる制覇」から)

(中略)

だが、右のように書いたとき、たぶん私はこの「孤独」に、他者を過度にひきよせるか過度に排除してしまう吉本氏の言説に、”不健全”なものを感じていたと思う。(中略)だが、その時点では、私はこのような「孤独」を何か意思的に回避できるもののように考えていたのだった。

(中略)

夏目漱石が「自己本位」といったり、吉本隆明が「自立」といたことが(中略)スローガンになるような言葉ではありえない。それらが意味するのは、どこにもアイデンティティを求めることを拒絶したあげく、もう何のためでも誰のためでもない、ただ自分の気の済むまでやるほかないというようなことではないのか。(中略)

私は”健全な”小林秀雄の批評より、”不健全”な夏目漱石の『文学論』や吉本隆明の『言語にとって美とは何か』の「孤独」を選び取ろうと思ったのである。

柄谷行人


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