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 高い学校教育を受けた者で、退屈を感受する力だけが欠けているというタイプの人間は現代ではむしろ増えている。

 たいがいの退屈は各種の気晴らしで埋めることができる。ドイツ語で「短い時間」Kurzweilはあまり使われない単語だが、気晴らし、憂さ晴らし、慰みの意味である。時間を短く感じるようにすることが気晴らしだからであろう。普通気晴らしはテレビ、映画、パチンコ、競馬、スポーツの類と相場がきまっているように思われるが、しかしさまざまな知的活動も、ひょっとすると学問もまた、気晴らしの一つかもしれないのだ。否、いっさいの知的活動が「時間の空虚に対する恐怖」を蔽い隠す仮面の役を果たしているという、そういう生のディメンションがあり得る。それが分からない者は、いくら高い知的能力を持っていても、退屈を感受しない。私がいま退屈をあれこれ考究しているこのこともまた、退屈から目を逸らす自己防衛の一つ、「気晴らし」にすぎないのかもしれない。

西尾幹二「人生の価値について」


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