WWFNo.31のページへ戻る
 

オンライン ユートピア

  

谷風 公一


  

 

  中世(王制)と近代(民主制)の狭間でそれは産声を上げた。ユートピア。トマス・モアが提唱した、原始共産主義的国策と個々人の深い信仰が奇妙に同居するこの島国国家において、国民たち、つまりユートピア人たちは、「馬鹿でないかぎり、正当な手段であろうがなかろうが、とにかく、一生懸命に快楽を求めようとする」(1)らしい。ここでいう快楽とは「徳の力による善良で健全な快楽」のことである。そして、それは神によって定められたものであり、また、隣人とともに得るものである。しかし、理性が作る制度内での完全なる自律と絶対の信仰が矛盾なく組み合わさり、かつ、その中で善良で健全な快楽を得る、というのは実際にはそうたやすいことではない。結局のところ、ユートピアとは、膨大な留保が常につきまとう、大きな「括り」での「制度そのもの」であったのかもしれない。「隣人を愛し、善く生きよ」。モアにとってみれば、宗教と政治を超越する「ヒューマニズム」がひとつあれば十分であったのだろう。だが、ヒューマニズムもまた、明文化されてしまえば「制度」となり「律」となる。それゆえユートピアは「Utopia」(どこにもない場所・政治と宗教が矛盾なく組み合わさる場所)と「Eutopia」(どこにもないがよい場所・ヒューマニズムが讃歌される場所)の狭間を浮遊することとなった(2)。モアもまた『ユートピア』上梓後、ルターが引き起こしたプロテスタンティズムの波に飲まれながら、政治と宗教の狭間で苦悩し、ついには自ら仕えた盟主、ヘンリ八世の命により処刑されたのだった。

 

 モアが創世したユートピアは、サン=シモンやフーリエらを介してマルクスへと接続し、現実のものとなっていくわけだが、そこにモアのヒューマニズムが介入する余地のなかったことは周知の事実である。では、ヒューマニズムはなくなったのか。いや、ヒューマニズムは形を変えたのだ。簡潔に述べれば、ルネッサンス的な社会秩序を後ろ盾としていた高潔なヒューマニズムは、民主主義による「大衆」概念の出現と産業主義による「管理」概念の出現によりついには通俗性を獲得した(3)。通俗的なヒューマニズムは、大衆をより没自の底辺へと誘う。かつて「一生懸命に快楽を求めようと」していた人間は自らの「俗の重み」でもって「快楽に溺れ沈む」ことで、新たなユートピアを獲得することになる。「隣人のように生きよ」。神の御名下にあった「上向き」のユートピアは、競って没自する「下向き」のユートピアにとって変わられたわけだ。「重さがある以上垂れ下がるものであり、垂れ下がるものである以上なにかに依存する・・・それでも下降することを望むものだ。なぜなら次の位置は、その低さにおいて、その都度占めている位置を越えるからだ・・・重さは決して説き伏せることはできない」(4)。

 

 「善き隣人」が大衆を管理すること、それがユートピアであるというのなら、事態は現代に至ってもさほど変わりはしない。あるいは、ニーチェが述べるように、人文主義(モアのヒューマニズム)に基づく教養の在り方が「飼育」と同様であるならば(本来、飼育・raiseとは高尚な行為なのだ)、現代のヒューマニズムはまずもって隣人によって「飼育されること」ありきから始めるべきなのだろう(5)。そして被飼育可能性、つまり想像でき得る飼育の在り方、の壁の内側が現代のユートピアとなる。「隣人に生かされよ」。すなわち、被飼育可能性のうちに個々人のユートピアが出現するのだ。これが「個別のユートピア」である。そして、個別のユートピアは、またさらなる被飼育可能性を獲得するために隣人のユートピアとつながり、より大きな「個別のユートピア」を作っていく。しかし、そこにあるのは決して多様性ではなく、より強固な画一性である。モアならこう問うかもしれない、「そこに信仰と自律が合一されているのか」と。その問いにはこう答えよう、「そこでは被信仰と被自律が合一されている」のだ、と。他人が信仰する限りにおいてその信仰を被り、他人が自律する限りにおいてその自律を被る・・・、より大きな根本的矛盾がユートピアの内に存在せざるを得なくなるのだ。しかし、個別のユートピアはつながりあい、矛盾や多様性の芽を摘みながら、肥大する。さらには「飼育されること」が重要である以上、「誰」が芽を摘むのかは問題ではない。気づいたときには芽は「誰か」に摘まれており、そこに芽があったかどうかすらも分からないのだ。肥大の先になにがあるのだろう? その問いに完璧な答えを出すことはできないが、これだけは言える。変化や崩壊がもし起こるのであれば、それは必ず全域的に起こるだろう。そのこと、つまり、全域的な変化や崩壊を促すものとして、アインシュタインは一九五〇年代前半、三つの爆弾をあげていた。すなわち、原子爆弾、情報化爆弾、人口爆弾である。注目すべきは人口爆弾である。アインシュタインはそれを爆発的な人口増加と、それによる全世界の社会経済的均衡の崩壊に例えていた。しかし近年、ヴィリリオやスローターダイクは新たな人口爆弾の形を預言している(6)。それは遺伝子操作による人類の人工的選別による優生学の誕生、すなわち遺伝子爆弾である。モアよ、ひょっとしたらそれこそが究極のヒューマニズムなのかもしれない。そして遺伝子爆弾の爆発により、生まれる前からつながっている、というまったく新しい「個別のユートピア」が訪れるのだ・・・。

<了>

 

 

 

(1)トマス・モア『ユートピア』、平井正穂訳、岩波文庫、一九五七年、一一〇頁。

 

(2)『ユートピア』本編には、「Utopia」という記述に混じり、時折「Eutopia」という記述がある。「Eu」は「善い」という意味。

 

(3)ニコライ・ベルジャーエフ『現代における人間の運命』、野口啓祐訳、社会思想研究会出版部現代教養文庫、一九五七年、十八−二〇頁。他、サン=シモンの著作を参照のこと。

 

(4)ウンベルト・エーコ、『永遠のファシズム』和田忠彦訳、岩波書店、一九九八年、一三六頁。エーコは「対話の領域」において他者の必要性を「根本形成」条件として位置付ける。さらにエーコは、「無神論者の赦しは他者によってもたらされる」とし、神の絶対唯一の普遍性を他者にも適応でき得る可能性を示唆する。普遍性が「重さ」であるとすれば、他者もまた「重さ」であるといえよう。

 

(5)だからこそ、「飼育のされ方」を克服することによって強い「人の在り方」が生まれる。そのためにニーチェは「超人」という立場を取ったし、ハイデガーは「現存在」という語彙を採用した。

 

(6)以下の文献を参照のこと。ポール・ヴィリリオ『情報化爆弾』丸岡高弘訳、産業図書、一九九九年。ペーター・スローターダイク『「人間園」の規則』仲正昌樹訳、お茶の水書房。なお、スローターダイクは前記ニーチェの「超人」概念から遺伝子爆弾の発想に至っている。

 

(2005/12)

 

 


WWFNo.31のページへ戻る