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ネットのなかの幽霊は萌えるオタクの夢を見るか?と世界の周辺で叫ぶ虹裏

  

松本 晶


  

 

 0.はじめに

 

今回、美味しそうなネタだと思って提案した「オタク、ネット、ナショナリズム」ですが、あまりにも漠然としながらも生臭いお題であったので、例のごとく既存の著書に寄生して話を書いてしまいました、海より深く反省ならばサルでも出来るのですが、このお題は単に、USAの状況と同じで、CNNの討論番組で言われたように「ブログや保守系のFOXテレビの隆盛は、アメリカのリベラルメディアの長年の偏向が多くの国民に批判されているからだ」(西村幸祐氏のブログ:http://nishimura-voice.seesaa.net/の記事より)という身も蓋もない結論だけが問題なのであって、つまり日本でも現在のウヨ的ネット言説は従来のサヨが売国すぎたということに対する正常な反応であるだけで、それをさも軍クツの音が聞こえてくると喧伝することのほうが「思想的偏向問題」なのではないか、というのが現在の2ちゃんねるの大勢ではないかと思われます。それが「本当」であれば、以下の説明はほとんど無意味になるのですが、まあ「論壇」的な知がせっかく「オタク、ネット、ナショナリズム」に目を向け始めようとしているので、それに付き合ってオタクサイドの見解でそのような論理を脱臼させるのもまた一興かと思います。というわけで、今回、北田暁大氏の著書『嗤う日本の「ナショナリズム」』の書評という安全で卑怯な形をとって「オタク、ネット、ナショナリズム」について考えてみたいと思います。

 

 

1.思弁的総論から

 

北田氏はこの本のなかで、現在のオタク状況やネット世間やら、さらには若者の「ナショナリズム」を、旧来の知の枠組みや80年代までのメインカルチャーとサブカルチャーの対立と融合の歴史の継続として考えているように読めます。しかし私の考えでは、現在の「オタク、ネット、ナショナリズム」的な現在の流れは、旧来のメインvsサブカルという対立軸で考えられてきた戦後の文化的流れと大きな断絶があるという読み方のほうが理解しやすいと考えます。確かに、その時代の目立って新しい文化的潮流はワカモノが作るのが常であったので、その時代ごとにその中心が変遷してゆくのは当たり前ですが、そのことをもって「断絶」していると考えているわけではありません。当然、旧来のメイン・サブカルの対立を「中心」と考える方法論と、現在のネット世間という層の間に何も物理的関係が無いわけはありませんから、全く論理的に関係ないと否定するのも変は変です。でもだからといって、それらが当然のように連続した流れであるかのように記述することに私は大きな違和感をおぼえます。つまり、この本における北田氏のようなマトメ方は、たとえば萌えやオタクというアニメに強く依存するデキゴトであっても、それを例えば手塚アニメとかを起源として語ってしまうような勘違い評論系の臭いがしてしまうから納得できないというのが第一印象でした。

 

 後に述べますが、オタクの精神史的に見ると、実はかなり以前(70年代あたりからか?)から「感動とアイロニーの同居」や「多重見当識」を可能にする状況の萌芽(萌える芽とはピッタリのコトバ)が既に見えており、現在単にそれがネット等のサイレントマジョリティーを顕在化させるツールが出揃ってきたために表面化してきているだけだと私は考えています。ですからこの本で北田氏が語った方法論とは別な形で現状を十分説明することが可能で、それは例えばTVアニメの歴史とパラレルだったオタクの精神史としても「演繹」出来るものであり、メインvsサブカルの歴史とは異なる流れにあったと考えるほうが科学経済的にはよろしいのではないかと思われます。以上の長ったらしい主張が今回のオチですが、そこから導かれる結論を簡単にここで示してみましょう。

すなわち90年代までに「表に見えやすい」文化の担い手の中心になってきたのは、旧来の硬い自我体制、つまり(見せ掛けの)自我の一貫性や、身体性無視の理性の側だけから照らされた一面にしか過ぎない心的体制を「正常」として決め付け疑いもしない近代的な知の様式だったり、またそれに対する反動形成的に安定化する自我を否定したいだけの見せかけの「無反省」やら逆に過激さや「異常」さやらであり、それらは「ポストモダン」等をウリにしてそれがヒトの真実だなどと喧伝してしまうようなオッチョコチョイたちによる「カウンターカルチャー」というメインの補強役たちだったりしたわけです。そのような方法で外部にメタ的なものを求めて自我や社会のメカニズムを安定させるのが今までの作法だったとすれば、それに対して現在のオタク的なネット人口の心的状況は、自らの欲動や「生理」を否定せず「ダメダメな自分」とも自我のうちの「表層意識システム」とも共存できる心的体制で「安定」させようとするメタ的自我体制を持っていることに大きな特徴があると思われます。つまり「神様」や大澤真幸氏がいう「第三の審級」を必ずしも必要としない心的体制の一つの在り方で、それを記述するには、たとえば萌えという「トキメキとせつなさとリビドーのアマルガム・並行励起」や、この本で北田氏が言う「皮肉とロマン主義とナショナリズムの混沌」ではないかと思います。つまり、まずはあるがままに「そんなのもあってもイイんじゃない」と認識しなければ現在のネットを中心とした言説を理解するのは不可能ではないでしょうか、と多少楽観的ニュータイプ論的なこと言っちゃってますけど。

たぶん東浩紀氏などはこれをもって動物化などと揶揄するのかもしれませんが、私たちオタクとしてはそれを「環境」への適応として肯定されるべきものとして説明してゆきたいと思います。それに、それはもしかしたら別に心的体制としてちっとも目新しいことなどではなくて、以前から日本での心的体制の基本である小地域での人的ネットワーク(世間さま)による自我体制の維持方法の電脳版であって、単に私たちオタクがネットによってオモテもウラもなくなった言説空間でお互いにネットワーク出来るようになったことによる再ムラ化(悪いことではないと思うデスヨ、そこでの「常識・スタンダード」は恥の概念から開放されているので)、世間的知によるDQNへの非難(2chにおける祭り)、そして「社会」や「国」や「制度」「政府」を直接介さない「原始的」なナショナリズム=が再興しているだけな気がします。そしてそのような空間における言説の相互活性化とミームの選択的淘汰の結果、従来のツリー型の知が理解できない焦りを表明している帰結が現在の「知識人」や「論壇」の言説の説得力の無さなのかもしれません。

 あとここで言い訳を。以下の文章では「知識人」という区分や世代論を自明のこととして述べましたが、それは当然ながらひとつの仮説でラフな議論に過ぎず、いくつもの例外や細かくても大事な点を診落としていると思います。しかし本稿の目的は敢えて世代間の差異を拡大してそのコントラストをつけてみることによって、現在の「ネット、オタク、ナショナリズム」の状況を語ることにありますので、ご了承のほどを願います。

 

 

 さて、この本については本誌にも書いている清瀬六郎氏による極めて明快な良い解説があり(彼のHP:http://www.kt.rim.or.jp/~r_kiyose/)、込み入ったこの本の構成を丁寧に解きほぐしていただいているので、ここにその「新たな「抵抗としての無反省」をめざして」のなかから抜粋の一部を引用させてもらい本稿を進めさせてもらいます。とってもサンクスです。

 

 第一章では1960年代的なものとして連合赤軍の「総括」という異様な行動のダイナミックス(動態、動きの仕組み)にスポットライトが当てられる。 北田さんは、連合赤軍が「総括」の名のもとに凄惨なリンチを繰り返したのは、反省を強いるあまり、それが形式化して暴走してしまったからだとする。

 第二章では、連合赤軍的なものへの抵抗として、ウーマン・リブにつづいて現れた糸井重里の方法が中心に採り上げられる。それは「連合赤軍的なもの」に抵抗するために最初から「反省しない」という立場を打ち出すことだった。これを北田さんは「抵抗としての無反省」と呼んでいる。

 第三章の最初には田中康夫の『なんとなく、クリスタル』論が置かれている。田中康夫の方法は、糸井重里の「抵抗としての無反省」とも少し違っていて、「抵抗」の部分を棚上げした「無反省」だという。 ところが、1980年代半ばからは「抵抗を棚上げした」という部分まで忘れられてしまって、「抵抗を棚上げした無反省」はただの「無反省」になってしまう。それをよく表現しているのが、『元気が出るテレビ!!』を代表とする「テレビがはやらせれば何でもはやることを前提に作られたテレビ番組」であり、また、「反省」の構図(自分を「反省する自分」と「反省の対象である自分」に分けてみること)などとは無関係に作られた(ように読める)俵万智の『サラダ記念日』である。

 第四章では、1980年代の段階では「無反省」の人たちの言動の上にじつはまだ存在した「ギョーカイ」(テレビやイベントなどの情報の送り手側)の権威が崩壊した後の1990年代以後の社会が主題となる。「ギョーカイ」さえネタにされてしまう「2ちゃんねる化した社会」では、皮肉(アイロニー)という形式の「反省」の変種すら、皮肉として成功するかどうかは賭けのようなものになってしまう。それまで「判定基準」として機能してきた「ギョーカイ」を葬ってしまった以上、それが皮肉として通じるかどうかの基準は、ただ自分に繋がる相手(掲示板でレスをつけてくれる人とか)の評価しかないからだ。そうやって「反省」が化けたなれの果ての皮肉(アイロニー)すら形式化してしまう。そこでは、「自分に繋がる相手」を求めるためのきっかけとして―そのきっかけとしてのみ「ロマン主義」が登場してくる。その「ロマン主義」の代表が先に触れた「窪塚洋介的ナショナリズム」だ。

 

 正直、この清瀬氏によるまとめを見ないと私は北田氏のこの本の要旨の流れがよく分からなくて(エラそうな割にはバカだと言われる所以)、好きなところにテキトーに言及するだけのつもりだったのですが、流石一流の読み手の解説でアタマをよく整理させてもらいました。私としては清瀬氏と同じで(と勝手に言ってますがワタシが真意を理解できていないだけかも)、この本は2ちゃんねる化した社会に対する問題提起というところがキモだとは思いますし、北田氏の流れの整理も力技的ではあるものの見事だと思います、少なくとも90年代前半までは。ただ、清瀬氏も言うように、これは60年代からの「サブカル史」なのではないかと。つまり90年代以降で北田氏が問題にしている2chの担い手の多くは「オタク」であって、「サブカルのひと」とは別系列の問題である可能性が高いと私は考えます。その両者の区別を否定する人たちも多いようですが、否定するのはもっぱらサブカルのひとたちからである印象を私は強くもっています。あと私としてはこの本でイロニー(アイロニー)とシニシズムという用語がどんな意味と文脈で書かれているのか正直わからないもんで、そこで早速検索即引用:EDEN dictionary (http://www.geocities.jp/eden_pro_x/dictionary.html)サンクスです、ってそればっかり。

 

    アイロニー【irony】〔イロニーとも〕:(1)皮肉。あてこすり。また,皮肉を含んだ表現。風刺。(2)反語。(3)〔哲〕(ア)知者を自認する相手を問いつめ,無知の自覚を促す,ソクラテス的問答法の一性格。(イ)否定により真理を追究すること。

     

    アイロニー:[irony<ギ  eironeia (空とぼけ)](1) 【哲】無知を装うことによって,逆に対話者に無知を自覚させるソクラテスの論法をさすことば.ソクラテス的アイロニー.〈明〉(2) (転じて)反語.皮肉,当てこすり.イロニーとも.〈明〉

     

    シニシズム【cynicism】:(1)キニク学派の主張。現世に対して逃避的・嘲笑的な態度をとる。犬儒学派。シニスム。(2)社会風習や道徳・理念などを冷笑・無視する生活態度をさす。犬儒主義。冷笑主義。シニスム。

     

    シニシズム:[cynicism](1) 【哲】[C〜]古代ギリシアの,キュニク学派の教説.社会風習や知識を無視,無欲な生活を営むのを理想とする.犬儒主義.〈明〉⇒キュニク学派.(2) (転じて)一般に,世俗的な常識にことさら逆らい,万事に冷笑的にふるまう態度.冷笑主義.皮肉癖.シニスムとも.〈明〉

 

 しかしさらに困ったことに、清瀬氏の言うように、北田氏の使うそれらコトバは更にまた特殊な用法だそうで・・・止めてヨと言いたくなるのは私だけですか。キチンとした定義のないところに結論はないのですが。つまり、この本『嗤う日本の・・・』で北田氏が言っているアイロニーとは柄谷行人氏や浅田彰氏が使うような文脈で、それに対比されるユーモアとともに解説されているらしいのですが、それは以下の抜粋のとおりです。

 

メタレベルとオブジェクトレベル(メタレベルにおいて対象化される「ベタ」のレベル)が「交替しつつ繰りひろげる永遠のイタチごっこの中にとらわれ」、「そのつどレベル間の落差を」「肩をすくめながら背に負う」のが、「近代資本主義のイロニー」であり、二つのレベルの「交替運動からさらに自由になって、ふたつのレベルに同時に足をかけているという事実をそのまま肯定すること」、「ふたつのレベルの間の決定不能性を、それがもたらすゆらぎを、笑いとともに享受すること」こそが、ユーモアである、と。

 

 これはゲーデルとかカオスを匂わせたなかなか鋭い指摘で、例えばこれをそのまま引用して、2ちゃんねるは量的にも質的にも素の感動とアイロニーとユーモアの混沌であると素直に受けとればいいのに、北田氏は以下のように矮小化してしまっているのではないでしょうか。

 

ごく簡単にいえば、(ア)イロニーとは、メタ/ベタ(紋切型)という区別を前提にしたまま、メタを指向し続けるパラノイア的な駆動原理、ユーモアとは、メタ/ベタという区別=前提そのものをやりすごす実践ということができるかもしれない。

 

 その「メタ/ベタという区別=前提」そのものが「やりすごされる」のではなくて、その分類自体、さらにはその分類を自明のものとする思考方法自体が疑われ「無効化」されているのが現在のネット上の2ちゃんねらーに代表される今日日のオタクや現「新人類」たちの立ち振る舞いであり、現在のネットの知の状況だとワタシは考えています。もともとそれらの対立はヒトの理性により人為的に作り上げられたものであり、その区別はちっとも自明ではなく、現在はむしろ情報の強度による選別、すなわちネット空間のなかでのミームとしての言論のサバイバルというか進化論的生存競争というか今西進化論的な棲み分けとか(本職のヒトは異様に嫌がる理論)、そういう観点から言説が生き残れるかの判断が重要視されるのであり、トップダウン的思考や東氏が言うようなツリー型の知の構造から見ればそれは節操のないもの、よく言われるところの「スーパーフラット」のように映るかもしれませんが、それは偏狭な理性の傲慢であり、別のメカニズムが存在する可能性を認めるべきだとワタシは考えます。

 

 

 従って、この本の最大の論点というか実りある問題は、北田氏が言うように2chおよび2ch的社会状況が80年代までのアイロニズム、シニシズムのある部分を継承し、それを90年代のコンテクストで「再現」したものに「過ぎない」のか、それとも大月隆寛氏が期待?しているように、それが戦後民主主義の語り口だか悪弊だかを乗り越えられる可能性を持つ言論空間たりうるのか、という点にあると思います。実はこの両者の可能性はお互いに矛盾したり排他的となったりするものではないはずですが、北田氏はあえてそういう前提のもとに話をしているようにも見えてしまうところが実はよく分かりません。まあどっちにしても私の考えとは異なるので二人の差異を検討する必要もありませんが。

 しかしその前にそのような「思想的問題」に入る前にちょっと寄り道したいのは、国際政治的かつ地政学的な問題だとワタシは考えています。これは本稿の主題とはあまり関わりもないし(ウソ、大有りか?)、単に生臭い蛇足になるので詳しくは書きませんが、それを少しでも言っておかないと『マンガ嫌韓流』の批評ですっかり「事実の検証」を忘れ評判を落としてしまった東浩紀氏みたく思われるのもナニなんで、シロウトの懸念をチョットだけ表明しておきます。つまりアイロニズム、シニシズムの極北の果てにいろいろややこしい心的経緯はあれど、その結果「ナショナリズム」が現在のネット人口、オタクたちの間に台頭してきたと考える北田氏は、それらを極めて心理的問題、内在的問題として記述している印象があります(そうは思ってなくてもこれだけ慎重な論理運びをしている割に、そのことについて何もエクスキューズがないのはそう思われても仕方ないのでは・・・)。しかし国内事情だけでなくパワーポリティクス渦巻く世界の「現実」が、「ナショナリズム」の台頭?と何のかかわりもないと思うのは極めて不自然ではないでしょうか。素で見えていないのなら、それは思考方法に盲点があること、すなわち抑圧の存在を疑わせるのですが・・・

 つまりヒトの精神発達上でもナルシズムが必要不可欠で終生消えることがないのと同様に、身内贔屓としてのナショナリズムは国に対する基本的な態度として全世界の国で共通であるはずだと思われます。コレを基本にしないで、自虐ならぬ自分以外の日本人を貶す選民意識としての「自己」の分裂をきたしている状態であり、岸田秀氏などこれを「精神分裂国家・ニッポン」と主張するわけですが、いわゆる「リベラル」と考えるのはかなり無理があると思われます。現在の多くのブロガーや2chの大勢を占める意見も、それら旧サヨク的と呼ばれるヒトたちは精神病理の世界にあるというのが基本認識なのではないでしょうか。これについては今回これ以上深入りしませんし、丁度よく別冊宝島から『マンガ嫌韓流の真実!』という良いムックも出ていることで、それを見ていただければいいわけですが、大月氏の冒頭の文章は、おまいはオレか、みたいな文体だったので、ワタシとしては大賛成の意見ではありました、ってハナシが逸れた。とにかく、日ごろからオタクは「現実と空想の区別がつかない」と言われて久しいのですが(今でもフィギュア萌え族とか空想を振り回す輩がいて学問的にも報道的にも全ての資質が欠落した物言いですね)、それらを区別できていないのは一体誰なのかよく考えてみろよ、という認識がネットでの主流になりつつあるのは間違いないようです。では話を戻しましょう。

 

 ワタシの結論は、北田氏はまだ「「大きな物語が崩壊した」という物語」の有効性を信じているが故に、そのような「神が死んだ」あとの世界ではアイロニーとシニシズムのあることがデフォルトになっていると考え、その上で感動やらアイロニーやらを同時に共存させる現在の2ちゃんねらー含めたネットでの人々の振る舞いを不自然なものと考えるのではないでしょうか。その「不自然」と考えるものを無理やり旧来の知の経緯から説明しようとするので、論理のアクロバットを敢行せざるを得ず、結果、難解な理論になってしまっているように私には見えてしまいます。東浩紀氏もそうですが、彼らの考え方の前提として、「大きな物語」に限らず超越的なものへの欲望が存在するのがこの社会やヒトとしてのデフォルトであり、その崩壊が事件なのだというスタンスがあると思うのですが、これがまず私には信じられません。それはラカン的な精神分析の無制限な適応であり、それは決して全人類に普遍的な様式でもなければ、進歩的なことでもなくて、実際日本の社会における個人の心的状態のあり方として、大きな物語をベースにしなければならなくなったのは(そうなるようなことが国策として奨励され、かつそのように人々が啓蒙されたのは)、岸田秀氏のいうところを信じれば、ペリーショックで開国して世界の国々と付き合わなければならなくなった明治以降の話ではないかということです。それ以前が擬似家族性的な社会構造であったということを信じるに足る一次資料に当たっていない私のようなシロウトが言うもの何ですが、話の整合性と現在の日本の状況からのみ判断するに、それらは一応スジの通った仮説と考えます。

 しかし今さら鎖国して世界と関係なく生きてゆくことが不可能なのだから、現実問題としてそのような経緯を考えても仕方ないことではないかと考えるむきもあるかもしれません。しかしそこでネットのように、世界に開かれつつ「自閉」することも可能な空間の問題も絡んでくるのではないでしょうか。というわけで、「「大きな物語が崩壊した」というメタ物語」について、ここはキチンと検討しなければならないと思うわけです。とりあえず話しを限定して現在の2ch状況についてですが、北田氏の考えによれば、それはメタ的物語として周到に偽装はされているが、従来のイロニーとシニシズムの末裔であるという立場であり、現在の2ちゃんねらーの「言論戦略」が、戦後綿々と続けてきた敗戦の精神的処理のための一環の終末像という理解の仕方をしているように思えます。いえ、北田氏はそこをハッキリ言ってはいないようなので、話を進めにくいのですが、それをワタシが勝手に補完し反論してみましょう。

つまり今までの第二次世界大戦後の日本の精神史は思想的な発展的歴史の過程と捉えらるようですが、むしろ精神分析的には病理的な敗戦という屈辱感からの逃避の抑圧の歴史であって、それをマルクス的な思想史の問題に投影して誤魔化しているとワタシは考えています。繰り返せばそのような輸入品を自らの問題と理解(誤解というよりすり替えを)することにより、ペリーショックに始まるアメリカへの屈辱の記憶や敗戦の問題から目を背けてきた帰結ではないかと。イロニーやらシニシズムに関して本家本元の西欧のほうはどうかといえば、外国のことなので真偽のほどはわかりませんが、そこではホンキで信じていたキリスト教的なものから、「神の死」や「理性信仰の死」を解決するための思想的必然として出てきた近代を乗り越えようとする動きがそのような思想の根本にあったわけで、ポストモダンというような難解に見える解決策も精神的に必要な「誤謬」であり、その流れは伊達や酔狂で行っていたわけではなくて、精神的に必然の流れであったのは事実かもしれません(それも遠くはローマ時代から続く歴史を奪われた怨念の続きと見るむきもあるようですが、長く沈殿して発酵してるのかも)。

しかしその一方で、それとは異なる歴史を辿っている日本で、北田氏が整理するような仕方での第二次世界大戦後の思想的な動きを理解する方法は、ニホンでのそれを西欧と連動したものと考え自分のモノと輸入品を区別したくない逃避的精神であり、結論を言えばそれが戦後サヨク的サブカルの致命的な欠点であり、オタクのように好きだからという理由だけでロボット戦闘アニメやら萌えアニメを見て育ったものたちとは天と地の差が存在すると、別にふざけてオーバーに言ってるんじゃなくてそう思いますが、当然オタクは地ですが、雲泥のドロのほうがイイにきまってます、ワレワレ的には。

 話を蒸し返しますが、大きな物語が世のなかを覆っていたというのは、まさに西欧の一神教やら理性信仰のメカニズムであり、我々の思考フォーマットにとってはもともと異質なものであるはずなのに、その輸入品を自前のものと勘違いしているような、というよりも輸入品のほうがオシャレだと思ってサル知恵状態になっているようであり、そのようなサブカル的感性が現在の2ちゃんねらーから胡散臭く思われ軽蔑されている一因であることを彼らは自覚できていないのではないかと小一時間問いつめてみたいワケです。そのような内省の不徹底はよいとしても、対人幻想のネットワークが私たちの思考を規定していることへの無意識的な反発、それを進歩的だと信じて疑わない勘違いが明治からの日本の文学の主題となり、そして戦争を経てさらに捩れ、戦後民主主義とやらで勘違いは積み重なり、その挙句に学生運動のような愚行を行わせたわけである(全部受け売りですけどね)ということを自覚しないと、現在の状況を誤解し続けるのではないかと私は思いますが、まあそれは正直どうでもよいかもしれません。世代交代というかDegital devideは確実に進行中ですから(私も旧来のニンゲンだし)。

話しを戻せば、それでも「現実」を見ようともせずに単なる「内的問題、思想的問題」として自らの心的出自の欺瞞を続け辿った道が「抵抗としての無反省」「抵抗を棚上げした無反省」だったのかもしれないのではないでしょうか。急いで付け加えれば、昔から多くの人々は私も含めて日常のほとんどは「ベタな無反省」がデフォであり、地方都市に住んでいる私の実感からはニッポン人の80%はヤンキーDQNではないかと、別に選民意識で言ってるんじゃなくて、私たちが抱く「旧来の素朴な良き日本人」という幻想、都市伝説?というのは、本当に根拠があるのか最近では大変に疑問になるくらいです。

 

 さらに北田氏は現在の2chを中心としたネット状況と個人個人の心的構造を、旧来の社会現象と同じく、ある「思想的な法則・原理」によって演繹的に導き出される、あるいは説明しうる静的な現象と見ているように思えます。もしかしたらそれは理性信仰と上部構造・下部構造のような考え方の残滓でしょうか。ですから「アイロニーと素の感動の同居」が奇異なものと見えてしまうのかもしれません。北田氏の言説のこのような欠点をも彼は自覚しているのかもしれませんが、結局彼は戦後民主主義的でサヨク的でサブカルへの有り余る愛情と郷愁のために、それらに引きずられているのではないかと思います。彼よりずっと年寄りでオタクな私にはそんなものは全くありませんから、そのような屁理屈に付き合う必要はないと考えるのですが、彼の論法(というより思想を語る人々にありがちな論壇的なトップダウンな考え方)に敢えてもう少しお付き合いしてみましょう、いや全部悪いって言ってるわけではないですから。論理化と博物学的、考古学的知のコラージュが大事だと私は考えるので、「現場主義」だけが正しいとかは言ってませんから。ただ最終的には、いくらサブカルサイドがその立場で神学的に論争を深めようとも、それは所詮敗戦後の日本の精神分裂的(統合失調症的)構造の枠から一歩も踏み出せない、いやその問題の在りかや、「真の敵」の姿すら認識できていないものたちのコップの中の嵐に過ぎないと私は考えます。

 

 新「新人類」ではない旧「新人類」と称された私たちは?、ニューアカブームの端緒で既に吉本隆明氏の戦後における一時期の華やかな論戦を既に知っているわけですが、そこでは散々薄っぺらなサヨク的共産主義的な論理は悉く撃破されたにもかかわらず、彼の思想的かつ生物学的老化に付け込んで逆襲をしようとしている人々の多さが鼻につくわけで、そのようなリベラルを装った反動主義と現在の「真に」新しい知について語ろうとしている人たちが渾然としていてよく分からない状況になって敵味方入り乱れているのが現在のオタクを巡る思想的状況(笑、wではない)ではないでしょうか。そして逆説的に聞こえるかもしれませんが、小さい頃からアニメばっかり見ていてバブルの時期にも流行り廃りに乗せられず(乗れず)、仕舞にはニートでパラサイトで引きこもり、よくても社会ではおとなしい旧「新人類世代」であるワタシたちオタク(第一から第二世代)がポストモダン的に見えたり(見えるだけ)、また世界のなかでのサバイバルという意味でのナショナリズムに親和性を示した結果、歴史に興味を示しソースの再検討とともに「嫌韓」的な結論に達するのは当然なのですが、それを感受できない者たちにこのへんの事情を説明するのはチョッと難しいかもしれません。というより神経症のメカニズムと同様に見たくないものを抑圧する人たちには大きな盲点が出来上がり、それが症状を引き起こすというわけです(それはお互い様)。私が今回主張するのは、旧来の言説の構成のように外国のエライ人たちの哲学を切り売りして流通させてきた戦後のトップダウンな思想空間とは異なり、2chでの言説はボトムアップで創発的に複雑系的に織り成されている数学的なカオスであり、極めて雑然としつつロバスト(外乱に強い)で、かつ何らかの演算もアウトプットも行いうる空間となりつつあるということです、ってまた複雑系を持ち出してごまかしていますけど。つまり?2chはその裾野の広さとリダンダンシー(冗長性)のために、便所の落書きと揶揄されるべきクソみたいな言説もいっぱいあるわけですが、全体量にくらべたときにその役にもたちそうもないジャンクが丁度いい具合にブレンドされているスレッドでは、それがバッファーや発言の閾値低下の意味やゴミ箱や意味を脱臼させる装置としての役割も果たしていることでスレッドが上手い具合に動的カオスを作り出している、などという指摘をしておくに今は留めておきましょう。だってホントはそのメカニズムがよく分からないし・・・ただ、東浩紀氏が言うボトムアップと私の今主張したカオス的ボトムアップというか創発的知は何が違うかと言うと、正直よく分かりません。なので、とにかく各論を詰めて考えてみたいと思います。

 

 またさらに、北田氏も気付いているのでしょうが、2chを含めた現在のネットの状況を語る困難さは、まずその莫大な量のテキストにあるでしょう。当然、これを全て毎日網羅して読める者などいるわけがなく、必然的に自分がこれだと選択した領域(板)が、各人にとってのインターネット(たとえばよく揶揄される「ここは悪いインターネットですね」発言に象徴される)、2chワールド、その人にとっての全世界もとい全ネット空間となるわけです。これは2chを語るうえで極めてテクストとしての現象学的、解釈学的な理解の仕方、さらにはフレーム問題のための脳科学的な思考方法を強要するわけで、平たく言えば、見たいものだけしか見えないのですから、ある人が語る2chというのは単にその人の人格や思考方法や嗜好の発露、曝露、もしくは陰画にほかならないわけです、極端に言えば。つまりアニメならば極めて所謂エヴァ的であり(本当のエヴァは違うとワタシは思うけど、とズルイ言い訳を追加)、さまざまな要素のなかから自分にシンクロする要素だけを針小棒大に取り上げるということになります。つまり北田氏のようにニュース板とかの「偏った」サンプルを見て全体を語り始めてしまうというのは、ハナから方向性が間違っているのではないでしょうか。もっとマターリとしたサンプル、例えばワタラ2ッキとか2ちゃんねるベストヒットとかを読めば随分と印象が違ってくるような気がします。しかしまずそのような言説のジャングル、カオスであること自体が、ワタシが言いたい2chの「進化論的」で「生態論」的な言論状況の条件のひとつとなるわけで、全体を語る言葉としては、結局物理の世界のように大統一理論の探求的になるのではなくて、自然界のドグマと同じく進化論的、博物学的な物言いになるような気がします。自説の展開のために北田氏がとったアプローチ自体は決して悪いわけではないのでしょうが、しかしそのような思考方法をとりながら、なおかつそれでも全体を語ろうという欲望を持つならば、逆説的ですが話は極めて局地戦的かつ問題ごと個別的なものでなくてはいけないとワタシは考えます。細部にこそ神は宿るとよく言われますが、ここは日本なので当然のことながら多神教の神が宿ることでしょう。それを局所最適解と考えてもいいかもしれません、よく分かりませんが。

 

 ここで更にいい加減な妄想を広げれば、2ちゃんねらーは、いや2chという言論空間をなす人と言論のネットの架空の空間上においては(何か『攻殻』的言い方・はあと)、ミーム(情報子)を要素とする力動的カオスはそのことを暗黙知的に「理解」しているのではないかと私は考えたりします。つまりヒトが理解しているのではない、そのシステムが理解をしてヒトはただその流れを多少は手入れしながらも、流されるのを楽しんでいるのかもしれないのではないかと、下らない(褒めコトバ)お笑いスレッドとかを見て漠然と思うわけです。つまり2ch出現以前のさまざまな言論の欠点を、この動的カオスは暗黙知的に作動させており、つまり学習回路が単純なアルゴリズムで(報償付きのトライアンドエラー)「最適」な経路を見つけるように(そこではヒトが予め行動のためのアルゴリズムをプログラムしているわけではないのに)、この2chという言論空間はそれらの悪弊を潰してゆくべく「学習」する仕組みをもっているのではないかと。当然それは旧来の知として論理的や倫理的に「正しい」ものに落ち着くかどうかは分かりません。そこでは2ちゃんねらーを中心とした言い方というか見方に変換して言えば、「感動」「心を震わせる」「面白いか否か」を学習アルゴリズムの判断基準とした「進化論的」な言説の生存競争が生じているだけであり、結果最適解に辿り着くこともあれば、進化論的袋小路にハマることもあれば、局所的な位置エネルギー最低の部分で停滞したりすることもあるのでしょう。そこでは当然弱肉強食だけではなく、自然界と同様に共生、寄生、擬態、ニッチへの侵入、等々、さまざまな戦略が営まれているのであり、旧来の言論空間にありがちな一元的で線形な言説同士の衝突だけでコトが済むほど状況は「単純」ではないと私は考えます。いえ、というよりか言論空間やヒト同士のコミュニケーションとはもともとそういうもので、少し以前はそれが神様や一元的理性によってツリーモデル的に統合されていたように見えていただけで、最近になり「神の死」を経てもともとのヒト同士のコミュニケーションの欲求だけがネットや携帯によって量的に拡大、開放されてきたに過ぎないという見方もあるでしょう。無論、別にそれが「自然」や「原始的」なユートピアに返っていると考えてもらったりすると困るので、本質的に神経症であるヒトの心的戦略の一方法だと考えて下さい。でもある閾値を越えると量的変化は質的変化に至るわけで(101匹目の猿の概念がウソだという考えもありますが)、もしかしたら私たちはその現場に立ち会っているのかもしれないと2001年的で千葉繁メガネ台詞的に考えたりするのは楽しいのですが、うっかりするとネット大政翼賛的なノー天気と思われると困るので、別にニュータイプ的な理想郷を語っているわけではないことに注意してほしいとだけ言っておこう、などと連邦的な文章で誤魔化しておきましょう。しかしそれでも強調しておきたいのは、その「状況」とはイデオロギーによる思想の限界を踏まえたうえでの現在の「思想的?状況」だということです。ただそれが決して完全に旧来の悪弊が乗り越えられているわけではないし、基本的にヒトの心的構造としてイデオロギーが「必要不可欠な誤謬」として不必要になるか否かはこれからの問題でしょう。

 

 あまり関係ないんですけど、ついでに言うと、2chにおける言説の「深さ」は、ひとつひとつをとれば確かに「浅い」ものが多いかもしれませんが(長文は嫌われるけど例外は常に存在する)、それは統計学的な分布に従い量が質を生み出すことで十分に代償しているとワタシは信じているですヨ。そして北田氏には「イロニーとベタな感動の奇妙な共存」と感じられる現象は、以上のようなメカニズムから生み出される「最適解=言説」の表現形のひとつなのであり、旧来の知の一元論的な思考からは理解しがたいものであり、場合によっては幼稚さや精神分裂的や多重人格的に映るのかもしれません。しかしこのメカニズムの目的は、生物の進化論を持ち出したことからも分かるように、このヌルいようでいて辛い言説空間において、ひとつひとつの発言のミームが「サバイバル」することにあります。例えばよく「繁殖」したテンプレートには「吉野家」テンプレートとかありますよね、2ch見てるヒトなら誰でも知ってると思いますけど。言説空間での繁殖のための「解」は初期条件に依存し様々ですので、ある方向には距離をがっちりと置いたアイロニズム、ある方向には親和性を示しベタな感動アリガトウとイロイロなタイプがあるわけです。そのような事態は、一元的な言説こそが一貫した人格(メカニズムの人格)の証だと思う人たちには奇妙にしか思えず、斎藤環氏とかからは(記憶曖昧模糊)多重見当識だとか、東浩紀氏などからは動物化などと命名されてしまうのでしょうが、そういう意味で彼らの理解は場当たり的だと思うわけです。ここでちょっとナショナリズム関係に話を振りますが、そのような言説空間を可能とする現在の日本の物理的かつ心理的な担保、場としての「日本」がなければ、その空間が成立しないことを2ちゃんねらーたちは意識的無意識的にかかわらず理解しているからこそ、それを脅かす存在に対してナショナリズム的な反応が出るのは当然の帰結であり、その結果として反日教育で国をまとめていこうとしている国家への強い拒否反応として嫌韓や嫌中があり、またネットの「自由」を苦々しく思い制限しようとする旧マスコミや関連法案への反発が大変に強いことは、2chに出入りしている人たちならば納得できることでしょうし、これは既にサラッと大月隆寛氏にも指摘されていたりします。

 

 繰り返しになりますが、北田氏は団塊の世代の学生運動や戦後民主主義、それに続く?イロニー、シニシズムから現在の2chの状況を演繹したいようです。しかしそれは残念ながらそれは大多数のヒトには当てはまらないと私は考えるわけです。下種の勘繰りというか意地悪な見方をすると、サヨク的サブカル的なヒトタチは、人の褌だかトラの威だかは知りませんが、オタクが世界のみならず国内でも俄然いい意味での注目を集め始めたころから、それらを自分たちの「手柄」にしたいようにしか見えないのは私たちオタクの了見が狭かったり僻み根性が身についているせいかもしれませんが、われわれオタクとオタクの遺産を引き継ぎさらにそれを乗り越えようとしている更に若い世代とで作っている現在の状況は、あなたたち団塊やサブカルには関係がないのデスヨという気持ちになるヒトが多いのではないでしょうか、2ちゃんねらーには(ワタシはねらーでも何でもありませんが)。例えばそれは『新世紀エヴァンゲリオン』をオタクの歴史抜きに都合のよい要素だけを抜き出してサブカル的文脈で語ってみたりすることに辟易したり、オタク的なフィギュア造形を萌え要素抜きに切り出して「前衛?芸術」としている村上隆がオタクから冷たい視線を浴びせられるのもそんな事情から来ているのかもしれません。

 私たちも、現在のオタクだのネット状況を可能にしているそのインフラと素地の幾許かを先達の影響や努力で出来上がってきたことに異論を唱えるつもりもないですし、社会の構成員として当たり前に歴史の流れというものを考えれば先達に感謝こそすれ否認することなどないのですが、それでも直接の関連は希薄だと私は考えます。私たちオタクは、北田氏がこの本で愛情を込めて語る60年代から80年代のさまざまなサブカル的社会状況に直接コミットせずひたすらアニメを見ていたわけで(というより私自身アニメ以外に何もない青春ですた)、それが90年代以降になりネットの影響力のおかげで?私たちオタクの行動が表に出てきたに過ぎないのではないでしょうか。オタク的歴史(笑)はこちら側はこちら側で流れていたのであり、その間に社会原現象としてオタクサイドで認知されたのは、せいぜいヤマト、ガンダム等々で、そのように散発的に表面化したことはあっても基本的には「内輪」で喜んでいただけであり「OUT」や「ふぁんろーど」がサブカル的な方法論を一部取り入れ装いを新たにしたように見せたとしても、それを戦後民主主義、学生運動からサブカルに至る人々の流れと混ぜこぜにしないでほしいというのが正直なところです。

我々は親の代わりとしてアニメやマンガで育ったのであり、多くの現在のネタの「教養」はそこから来るのもがコアとなっているわけで、その教養の内輪ウケが2チャンネルだと言われてしまうと、そうかもしれません。いわゆるガノタ(ガンダムオタク)ではなくても、「通常の3倍」とあればシャアネタでスレッドは染まるわ、カルピス名作劇場のキャラは画像掲示板ではコラージュのよい材料だわ、と昔からアニメをホンキで見ていないとなかなかついてゆけないものばかりで、最近ではゲームの隆盛でワタシのようなオヤジにはもう全部のネタをとてもじゃないですがフォローしきれない状況で、さらにそれらのハイブリッドのマッドアニメのFLASHとか見ると眩暈で苦笑が出てくるだす(虹裏とかふたばのコンテンツを提供してくれるWWFのY氏に深く感謝)。ではそれに何の価値があるのかと言えば、まったく無いとも言えますし(当の参加者である2ちゃんねらーやすれあきたちが、自らの「くだらなさ」をよく口にしますが)、逆にそれら自体に価値を求めること自体が偏狭な態度であり、仮初めであっても「繋がる」ことで言説の「ネット」を形成すること自体がヒトの欲望の一環を満たすことになっているのではないでしょうか?というのはかつて岡田斗司夫氏も指摘していたことです。でもそのような状況ゆえに「言説」の「強度」や「感染力」は洗練され巧妙になるわけで、そのような言語内容的ミームと言語音声的ミームが(以上はワタシの勝手な造語で日本語という言語に制約されている音声的で歴史的な部分が多いことを示したかった)、世界戦略的なコンテンツとして成立するための体力の基になっているとも考えられるのかもしれません、ってコレも奥田氏や清瀬氏に指摘済みか〜。

 

 

2.アニメ史的説明

 

 さて以上前半の総論的な思弁の嵐で言いたいことは言ってしまったので、これで終わってもよいのですが、あまり説得力がない上に、私自身の考えについての事実に沿った検証がされていないので、後半ではそのさわりだけでも示そうと思います。

 というわけで本稿後半部分の結論は以下のとおりです(これで半分かよって思ったヒトすいません、何か今回無駄に長い)。つまり、現在のオタク、ネット状況は、従来のメインvsサブカルの歴史(北田氏がまさに示したような)からの連続した産物でもなければ、東浩紀氏が言うような歴史の終焉によるヒトの動物化でもないとワタシは考えています(従来だって、メインVSサブカルの二項対立も日本の文化状況のサイレントナジョリティーを説明してきたわけではないのですが、モノを言い書く論壇サイドの人たちの声が大きいために、それが重大なことのように錯覚していただけ)。敢て当事者であるオタクとして言えば、メインカルチャー、サブカルルチャー双方の衰退というか日常知との乖離による張子の虎なことがバレた後に、ワタシたちオタクがそれらの影(笑)で辿ってきた歴史の産物が、80年代からのコミケによる同好の士のマス化の確認と、90年代からのBBS、そして2ちゃんねる等のネットによる相互活性化で目立つようになってきて白日の下に晒された結果だと考えます。例えば2ちゃんねるなどと共に一般人には見えにくいネットの「中心」(あるいはトリックスター的辺縁?)のもうひとつにある画像掲示板の雄(笑)、二次元裏、通称?虹裏のネタを見れば、その多くの在庫は過去から綿々と蓄積されてきたアニメやマンガやゲームのアーカイブであり、それらの動的カオスによるウケの淘汰圧による進化論的混沌が見られるわけです。虹裏と2CHじゃ全然その利用層が違うという方も多いかもしれませんし、実際ワタシが勝手に勘違いをしているだけかもしれませんがキニシナイ(半角+例のAA)で話を進めましょう。

 無論、オタク文化とは言え、同じ日本のなかでの現象なので、メイン・サブカルの対立の影響を全く受けていないということはあり得ないでしょうし、モノによってはその双方のカリカチュアとなっていた状況やら作品もありました。しかし本来はサブカルがメインカルチャーの余剰を溜め込み活性化するべきであったのに対して、当初はそうだった流れも、結局は高踏的で地に足のつかない領域のみを歓迎する体質に変質してゆくことで次第に衰退し、さらに当事者たちはその衰退に気づかないという二重の鈍感さにより面白みのない分野になっていたのだと思われます、ってコレ全部想像で書いてる悪口なんデスけど。それに対してベタでも異端でも幼稚でも「何でもアリ」のネット的な言説が、真に「周辺」の危険な領域としてその役割を果たしてくるようになったのは自然なことだと思うのですが、では「中心」はどこにあるといわれると、それは既に融解し始めてよく分からない状況になりつつあるのかもしれません。

 

 しかし以上の説明だけではイマイチ現在のオタク、ネット状況の肝心なトコを見落としているように感じます、ここまで引っ張っておいて何ですが。それはいろいろなトコロでもう既に言い尽くされている気がするのですが、敢えて重ねて指摘すれば、現在生じているオタクを中心としたネット人口が生み出す「現在の2ちゃんねる」状況に特異的なことが唯一あるとすれば、それは「身体」(物理的生物的身体と全く同一ではない)から来る欲望(ボケ)と、意識システムとしての「自我」から来る思考(ツッコミ)の両方をひとつの体に飼っていることを否定しない態度であり、その例が「アイロニーと素の感動の同居」(オタク世代全般)であり、「岡田斗司夫言うところのカッコよさとダメさの同居」による「酔狂と燃え」(オタク第一から第二世代)であり、「エロスとタナトスとアガペーの同居」である「萌え」(第二世代以降)であるわけです。これらは「現実」適応性という面から見て「よい適応」の例ですが、他方で時々確かにネットの言説で事件の原因となってしまうようなキナ臭い言説が散見されたりしますが、それは例えば北田氏の指摘する「かけがえのない自分とロマン主義的ナショナリズム」という「自己実現」的な同居が昂じてイタイ言動となってしまったり、自己啓発セミナー的になったり、「現実」への不用意な介入により物理的限界を見誤ったりして事件の犯人になってしまったりするのは、確かに「悪い」例かもしれません。しかしそれらは身体論的な諦念を忘れた近代的精神と何ら変わることのない心的状態の同時励起であり、ボケとツッコミの精神を欠いた「ポストモダン的オタク」の成り損ないなのではないかと思われます。北田氏はこれらを全て区別せずにごっちゃにしているのでスッキリとした理論にならないのだと思いますが、それは何故かと言えば彼らのような「知識人」と呼ばれ論壇における言説を神学的に熟考するあまり(生真面目)、日常(というより自らの身体とココロから)の知の互いの検証作業を忘れ近代的自我の神話を完全に否定しきれていないからだと私は考えます。だいたいこの本の「窪塚的ナショナリズム」ということ自体がいかにもありそうもない仮定であり、ほとんど某ジャーナリストの言った「フィギュア萌え族」くらいの想像による悪意ではないかと思います。だって2ch検索で関連のスレッドを探してみれば、窪塚はせいぜいお笑いネタにされるのがオチでありまして、それを現在のネットから発散される「健全な?ナショナリズムw」的なものとは異なるものではないかと思います(小文字のwが肝心)。

 などと批判、悪口ばかりでは面白くないので、では実際に我々オタクがそのような心性を獲得するに至った精神的な歴史とはどんなようなモノだったのかを考えてみたいと思います。それを語ることこそが現在のネット状況を読む考古学的な検討になるのではないかとおもうわけですが、ただこのフーコー的な(笑)試みは、これをキチンと語るには予想するだけでも本が一冊いるくらいの文章量になってしまうので、本稿では文頭にあげた清瀬氏による『嗤う日本の「ナショナリズム」』の要約簡易版に対応させてみて、そのようなメインVSサブカルの喧騒の裏でどのような精神史が進行していたのか、極々簡単に述べてみましょう。「光ある所に影がある、まこと栄光の影に数知れぬアニヲタの姿があった」のかもしれませんからね。以下ではもう一度清瀬氏による『嗤う日本のナショナリズム』のまとめを挙げて、それをアニメ史による現在の2chの思想的変遷を対応させつつワタシの妄想を語ってみましょう。

 

 

 

2‐A.60年代を中心に

 

第一章では1960年代的なものとして連合赤軍の「総括」という異様な行動のダイナミックス(動態、動きの仕組み)にスポットライトが当てられる。 北田さんは、連合赤軍が「総括」の名のもとに凄惨なリンチを繰り返したのは、反省を強いるあまり、それが形式化して暴走してしまったからだとする。

 

 総括が形式化したために暴走してしまったという面があったのかもしれないことは否定しません。しかしもう一歩進んで、そのような形式化に引きずられて内実を欠いたまま暴走するだけの心理的な要因は何だったのでしょうか?想像するに結局は「もう戦後ではない」と言われつつ敗戦後のがむしゃらだった時期が過ぎてみて(無意識的あるいは前意識的に)気がつけば、結局はアメリカへの敗戦の屈辱感が抑圧されたままでいた結果、その抑圧され自我のコントロールの利かない領域に移った行き場のない心的エネルギーが、自己の反省という免罪符で屈辱を外部に反転させ、それによる無限の総括を他人に求め、アメリカによってもたらされた戦後民主主義よりも共産革命による「科学的に進歩した」体制が優れていることを証明しないと気が済まない強迫観念による「暴走」だったように思われます、ってホントかどうか知りませんが。これは正面から自らの屈辱感に向き合わないという意味ではタイヘンに卑怯で弱虫な手管であり、そのことを薄々自覚していればこそ、その後ろめたさを隠すために余計にその反省総括は厳しいものにならざるを得なかったのではないでしょうか。そしてそのような心性が当時の学生運動をした、しないに係わらず団塊の世代に広く共有されていると思われているからこそ(現実にはイロイロなひとたちがいたのでしょうが、世代論として言われてしまうとそうなる)、現在この世代の人達はネットで叩かれることが多いのかもしれません。

 では一方、それよりもひとつ下の世代でオタク(予備軍)のテレビばっかり見ていた私のようなモノたちは、その頃どのような精神風景を過ごしていたのでしょうか(他人事みたいに言ってますが)。それをTVアニメの変遷にそって考えて見るというのが以下の文章の目的です。まず1960年代なのですが、実は私に語るだけのものはないのでどうしても空疎な論理に陥りやすいと言うわけなので、的外れになりそうなことを本当は書きたくありませんが、今回はそこを承知で行ってみましょう。この年代のアニメを挙げてみると、63年の『鉄腕アトム』『鉄人28号』、65年の『ジャングル大帝』、66年の『魔法使いサリー』、67年の『リボンの騎士』『黄金バット』、68年の『巨人の星』『サイボーグ009』『ゲゲゲの鬼太郎』『妖怪人間ベム』、69年の『アタックNo1』『タイガーマスク』『ハクション大魔王』『秘密のアッコちゃん』『ムーミン』と来ますが、これら作品名を見ると私なんかはいろいろとココロにくるものがあります。

 と言っても60年代前半は手塚治虫先生と横山光輝先生の巨匠の時代って感じで、私には「鉄人派vsアトム派」的な感覚すらもわからないのですが(生まれてないっす)、これについて検索するとうじゃうじゃと出てくるくらい当時現役で見ていた人たちには大きな影響があったようです。例えば福冨忠和氏の「東京バイツ」というウェブコラムで、この人がアトムについて書こうとしただけで、本編以外にもアトムに関係して評論している著作だけでもいっぱいあって云々ということで、随分前からこれはうっかりしたことが言えない領域になっているということだけ分かりました。例えば検索できただけでも(以下『』と著者敬称省略)、アトムの命題 手塚治虫と戦後まんがの主題(アニメージュ叢書) 大塚英志、アトムは僕が殺しました 手塚治虫のこころ 田中弥千雄、図説鉄腕アトム(ふくろうの本) 森晴路、定本手塚治虫の世界 石上三登志、手塚治虫の奇妙な資料 野口文雄、手塚治虫バカ一代 「幻のジャングル大帝」を覆刻した男・石川栄基の物語 司田武己、鉄腕アトムコンプリートブック 霜月 たかなか、鉄腕アトムその夢と冒険 手塚プロダクション監修、鉄腕アトムを救った男 手塚治虫と大阪商人『どついたれ』友情物語 巽尚之、マンガの深読み、大人読み 夏目房之介、鉄腕アトム大辞典 沖光正・・・・さらには清水 勲、呉智英、村上知彦、米沢嘉博、竹熊健太郎氏らが何も書いていないわけがないでしょうし、純文学っぽいところからも、江藤淳『成熟と喪失”母”の崩壊』のなかのアトム評だとか、まあキリがないわけです、少し疲れた。これらは多分マンガ版についてでしょうから、アニメ版についてはまたイロイロあるなど、キリがありません。

 これで何が言いたかったのかといえば、アトムにしても鉄人にしても、これら作品はまだ鉄(兵器)とか原子力などの題材を「直接」的に戦争と関連させて戦後の問題を語っているようであり、それはそれで語るべきことは多く、またその後の作品の製作者たちに多くの影響を与えたことは紛れもない事実でしょうから、考察するべきことは山のようにあるのでしょうが、本稿はそれについて言及するのが目的ではないのでパスします。ひとつだけ指摘すれば、学生運動や連合赤軍的な「反省と総括」と異なり、これら作品の根底に流れるのは、責任を自ら黙って引き受けてみようとする態度であり、またその「責任」を戦後民主主義的とか共産主義的という政治的問題に矮小化しないで、ヒトの業の問題として一般化させ「財産」としていこうとする地道な態度に見えるのは、オタクである私の贔屓目かもしれません。

 しかし一方、そのような「歴史の重さ」を当事者としていちいち背負うことができるのか、否、その必要があるかという現象論的かつ解釈学的?疑問が私たちのオタク第一から第二世代の実感であり、なんとなればその頃の戦争の当事者とは既に団塊よりも前の世代であり、団塊の世代のように当事者であるフリをするために多くの欺瞞を重ねて「反省」して「総括」することは不可能で不誠実であるということを無意識的にせよ考えていたからではないでしょうか。それは北田氏言うところの「抵抗としての無反省」や「抵抗を棚上げした無反省」という立場とは似て非なるものだと私は考えますが、すなわち歴史は「反省」や「総括」や「抵抗」するだけの過去の動かしがたい化石的な「真実」ではなくて(無反省も抵抗を意識してのものである以上それに取り込まれる)、「他者」の行為として「認識して対応する」現在であって相互作用しうる状況的なものであるという「唯情報論」の萌芽がみられるのではないかと思うからです(「他者」というのは単に世代的に戦争にコミットしてない云々の物理的なハナシじゃないですよ、念のため)。ではそれが「単なる無反省」とどのように違うのかという疑問を持つ方もいるかもしれませんが、その差は過去の歴史を認識して現在に対応させることを自覚的に行っているか否かの違いだと私は思います。たとえば「単なる無反省」のノンポリが特定アジアの政治的外交的駆け引きのための圧力に対して易々と屈してしまうのに対して、それを「認識して対応」すべきものと考える現在のネット住人に代表される人々は、まずソースの再点検と現状への有効な対策のための反論を行うわけであり、そのようなネット上の動きは右翼的というよりも極めてマトモな外交的な態度であって、むしろ逆に唯々諾々と相手の要求を聞き入れて「和をもって尊し」とするのは日本国内でしか通用しない非常識を相手に押し付けているだけの極めて自己中心的な態度の裏返しでしかありません(もちろん、どーしようもない単なる嫌中・韓厨房はいっぱいいるのかもしれませんが)。そんなことも分からずに、それを社会性のない「プチナショナリズム」とかロマン主義とか断言しちゃうような人たちは、一度『エロイカより愛をこめて』を読んだ方がいいかと思いますが、ほんで岡部いさく先生が監修ってホントですか?

 

 話しがちょっと逸れました。アトム・鉄人系についてグダグダ言ってはみましたが、しかし実はオタク文化の原点として肝心だと考えているのは、どうもそれ以降の作品ではないかと私は考えています。つまり『魔法使いサリー』、『秘密のアッコちゃん』、『リボンの騎士』といったかつて猖獗もとい隆盛を極めた「魔法少女モノ」のはしりの作品は日常のなかの非日常による活性化をもたらし、『黄金バット』、』『ゲゲゲの鬼太郎』、『妖怪人間ベム』などの「怪奇モノ」は、よく言われることではありますが、「陽気な理性のパレエド」の世の中からはみ出した怪奇面妖な部分(本来はそこに中心も周辺もないわけですが)を忘れないようにしてくれましたし、しかしだからと言って『巨人の星』、『アタックNo1』、『タイガーマスク』に代表されるような「努力と根性」がゼッタイ勝つというベタな勧善懲悪的なところも抜かりなく、同時に『サイボーグ009』、『ハクション大魔王』、『ムーミン』のようなSFファンタジー路線をも押さえているというわけで、既にこのような「古典の時代」でオタク予備軍の世の中を見る目は、TVアニメという狭く引き篭もった世界から「何でもあり」の意識の萌芽が育っており、それはメイン・サブカルの流れよりも正鵠を射ていたのかもしれません、ってホントかどうかは保障できませんが。

 

 

 

2‐B.70年代から80年代へ

 

 第二章では、連合赤軍的なものへの抵抗として、ウーマン・リブにつづいて現れた糸井重里の方法が中心に採り上げられる。それは「連合赤軍的なもの」に抵抗するために最初から「反省しない」という立場を打ち出すことだった。これを北田さんは「抵抗としての無反省」と呼んでいる。

 

 これが80年代からの動きなのかどうなのか、サブカルを全く理解しない私には分かりません。いくつかの糸井重里氏のコピーで「不思議、大好き」だの「おいしい生活」だの言ってたのは80年から82年ころなので、それに対応する時代のアニメ作品として70年代中盤から80年代前半のものについて考えてみましょう。

 この時期に重要なことは、まず本格的にロボットアニメの黄金パターンが確立されたということで、それが大きなオタクの精神的なバックボーンのひとつとしてあります。つまり72年の『マジンガーZ』(以下『グレートマジンガー』『UFOロボ グレンダイザー』に続く)で始まり74年の『ゲッターロボ』(『ゲッターロボG』に続く)、75年『勇者ライディーン』、76年『超電磁ロボ コン・バトラーV』(『ボルテスV』『闘将ダイモス』に続く)と、毎週鉄壁なワンパターンの物語が続き、それが私たちオタクの基礎体力になりました(実はほかにもロボットアニメは色々あって私としては語るべきことが多いのですが、メインの作品だけに限らせてもらいます)。以前にも述べたことがありますが、当時私たちは社会的に子供をかまうことが困難であった親との関係よりも、これらアニメのほうが自我形成に強い影響を与えた時代ではなかったのかと考えております(これを語ろうとする長くなるのでパス)。つまりそのような作品ではベタベタに「勧善懲悪、強い主人公、燃える展開、無敵のロボット、萌えるヒロイン」という話がこれでもかと言うほど繰り返され、サブカル等?における「反省、総括」から「抵抗としての無反省」の流れなどとは全く縁も所縁も無い異なる時間を過ごしていたと思われます。このベタさは今から考えると既に極めてポストモダン的ではなかったかと思われます。つまり「制度」を過剰に回転させることにより、それ自体の意味を脱臼させるというような戦略が図らずも行われていたのではないかと考えます。また「オシャレ」なサブカルとは異なり、そのような作品は当時でも小さい子供が見る幼稚な番組というレッテルが貼られており、同級生は次々とその視聴者たることから「卒業」してゆくなか、なぜ自分だけがこんな「低俗」な作品に惹かれ続けるのだろうという内省意識と、横並び社会の日本において余計に「他者」を意識せざるを得ない心的負荷をその頃から負うことになりました。また後になって知るわけですが、そのような作品が継続可能だったのは玩具メーカーのスポンサーあってこそという身もふたも無い「現実」であり、個人の趣味という内面的な分野も経済的社会的な要請によって維持されているに過ぎないのだということを意識するパースペクティブもいつのまにか身につけていったように記憶しています。つまりココロの一方でロボットアニメにベタで惹かれ、もう一方のココロ(他者の内在化された心で、たとえば超自我とか第三の審級とか?)でそれを冷ややかに見ざるを得ない「多重見当識」や「感動とアイロニーの共存」やそれらを見つめる自己言及的なメタ的心的体制を、私たちオタクは既に70年代頃から持たざるを得ない状況だったということであり、現在の2chにおける「冷ややかにベタで燃える・萌える」態度の源流はこのような作品群から来ているのであって、決して糸井だの田中康夫だのという流れとは無関係であるということを私は再度強く主張したいと考えます(さらにメタレベルでの考察からはそれらの「事件」は並列化されるかもしれませんが)。

 そして時々ロボットものに出てくる「お約束」を敢えて外して作品性を高めた設定やエピソードの存在なども大きな要因のひとつとなっているかもしれませんが(善悪の彼岸というか美形悪役というか)、そのような視点の深化に決定的な影響を与えたのが『無敵超人 ザンボット3』(77年)と『無敵鋼人 ダイターン3』(78年)に始まり『機動戦士ガンダム』(79年)で大きなうねりを創り上げ『伝説巨神イデオン』(80年)でトドメを刺した富野由悠季監督ではなかったかと思われます。伊達にガンダムがこれほど長寿を誇る作品になっていないわけですが、この作品の重要性はリアルな戦闘ロボットものを作ったとか、十分視聴に耐える人間ドラマを描いたという作品自体のオブジェクトレベルに終わるものだけではなくて、ロボットものというトンデモの世界であっても方法論によっては感動して「燃える」世界が作りうるというメタレベルの事実自体を示したことです。それは例えばマンガの世界においては北田氏がこの本にも書いたとおりに、それこそ「メインvsサブカル」的な論戦が行われた後で既に自明のことになりつつあったことなのでしょうが、サブカルはその上に胡坐をかいてしまい、ガンダムで行われたこのようなメタレベルの確立はあくまで動的な「運動」、ベクトルであって、静的な階層を表すものではないことを忘れてしまい、一段高い高踏的世界と錯覚した状況に安住してしまっていたことが、既にその衰退を示していたのかもしれません。そのような差異がサブカルとオタクで認められる故に、現在のオタク、ネット状況をサブカル絡みで語ることに私は大きな違和感を覚えるものです。

 さて、もうひとつこの時期に重大な役割を果たしたのは74年の『宇宙戦艦ヤマト』(劇場版は77年)でしょう。ヤマトが重要なのはそれが社会現象となるような大ヒットをした初めてのアニメ作品だったからでもなければ、ナショナリズム的な萌芽になっているからでも全然なくて、それが大ヒットのあと止せばいいのにNプロデューサーがしつこく続編を続けてグダグダになっていった経緯自体がオタクの重要な経験値となったからです。当時を知る者には言わずもがなではありますが、映画版の『さらば宇宙戦艦ヤマト〜愛の戦士たち〜』(78年)で大抵のオタク(予備軍)たちはヤマトのクルー全員が次々に敵弾に倒れて自己犠牲となり、最後に主人公の古代進と森雪とその他全員が黄金の涅槃みたくなって、これでヤマトも最後だと劇場で不覚にも泣いてしまったわけですが(あの夏の暑い日に徹夜して並んでエンディングがアレでしたからねぇ)、その後のテレビ版や映画版ではその感動を台無しにする出来事が次々と展開してゆき、その商業主義にかつてファンだった者たちは一同揃ってボーゼンとするコトもあれば、または卓袱台返し状態となった者もいたわけです。その感動とご都合主義の心理的落差を表面的には取り繕っても我々オタクは暫くこの事例に対処出来ませんでしたが、この「事件」は確実にオタクのシニシズムを育てる大きな要因となり、自らの感動すら「点検」しなければならないことを学習したのでした(「ためになるゼネプロ講座」とか?)。それが単にアニメ離れとならなかったのは、例えばその一方で先にあげた熱いロボットものが隆盛を極めていたことと、『銀河鉄道999』(79年)、『さよなら銀河鉄道999』(81年)といったヤマトのもうひとつの顔である「松本零士」作品の存在、そして74年の『アルプスの少女ハイジ』、75年の『フランダースの犬』など一連のカルピス名作劇場アニメのように素で今でもトラウマを引きずるような泣きゲーならぬ泣きアニメがTVシリーズとして放映されていたからかもしれません。

 以上のさまざまな要因が自我形成に重要な少年期から青年期に重ねて繰り返えし刷り込まれ沈殿することによって、私を含めたオタクたちはその頃から既に十分に現在の2ちゃんねる的要素を心的過程に組み込んでいったのでしたマル、というのがオチになるわけです。

ですから現在2chにカキコしているような層には色々あるとは思うのですが、すくなくとも私の直感では2chの作法に忠実に?過去のアニメ、マンガを含めたネタで積極的に参加しているようなニンゲンのうち実は半数を占めるのではないかと根拠なく予想するオタク第一から第二世代の人たちの心的構造は、以上のような経緯で形成されたのであって、しつこく繰り返しますがサブカル的な流れとは一線を画すものであるということを主張したいと思うわけです。ただ、このような「アイロニーと感動の混在」が固まるには、まだ幾つかの作品の堆積が必要となるわけで、それをまた年代別に見ていきましょう。

 

 

2‐C.80年代を中心に

 

 第三章の最初には田中康夫の『なんとなく、クリスタル』論が置かれている。田中康夫の方法は、糸井重里の「抵抗としての無反省」とも少し違っていて、「抵抗」の部分を棚上げした「無反省」だという。 ところが、1980年代半ばからは「抵抗を棚上げした」という部分まで忘れられてしまって、「抵抗を棚上げした無反省」はただの「無反省」になってしまう。それをよく表現しているのが、『元気が出るテレビ!!』を代表とする「テレビがはやらせれば何でもはやることを前提に作られたテレビ番組」であり、また、「反省」の構図(自分を「反省する自分」と「反省の対象である自分」に分けてみること)などとは無関係に作られた(ように読める)俵万智の『サラダ記念日』である。

 

 「抵抗」する素振りすらも無反省というよりも反省の裏打ちになってしまうという認識は、むしろオタクに近いとは思うわけで、田中康夫氏がオタク的なモノの記述に手を出さなかったのも近親憎悪というか、戦略が似ているのに扱う対象が正反対なので言及を避けたと見るのが正しいかもしれません、どうでもイイんですけど。結論はここでも同じで、オタクは皆と「同じ時間」を過してはいなかったと私は考えます。なぜならその頃のオタクは『伝説巨神イデオン』のTV版から始まり劇場版の『接触編』『発動編』において気が触れたような「イデオン祭り」の開催であるとか、『うる星やつら』TV版の開始と、それによるコミケへの同作品に対する同人誌の急速な拡大に狂喜していたことなどと相俟って、丁度世の中の流れを先んじてアニメバブル期に忙しかったからです。そしてこの時期84年にはオタク思想史的(笑)に重要な劇場晩3作品が同時に公開されました。それは『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』、『風の谷のナウシカ』、そして『超時空要塞マクロス〜愛・おぼえていますか〜』です。それぞれについて語るとハードカバー本一冊分くらいカルく埋まってしまいそうなので、当然ここで詳しくは述べませんが、それぞれの作品が既存の「物語」に対する懐疑を投げかけることから始まる「メタ物語」であり、決着のつけ方は三様でしたが、世の中のバブル経済期(1986年末から1991年初頭)に先駆けてその結末を予想するような作品であったと考えるのはこじつけかもしれませんが、ワタシ的には本気でそう思っています。ただそれら作品も、「1960年代末から学問の大衆化やサブ・カルチャー化に伴い、構造主義を端緒とする人文・社会科学における学際的領域の流行が発生した」とWikipediaに記述されるニューアカデミズム(ニューアカ)の流れなんかに微妙にシンクロしていたのは時代精神だったのか、それとも意図的であったのか、ここで簡単に断言するわけにはいかない興味深い問題だとは思います。ここで言いたいのは、オタクはこの時代、北田氏が言うような「抵抗としての無反省」だとか「抵抗」の部分を棚上げした「無反省」などという、結局のところは自意識の虜になっていた??ようなサブカルやギョーカイの人たちとは異なり、既にポストモダン的な(脱力な言い方ですが)問題をアニメの作品として享受していたという事実であり、「アイロニーと感動の混在」を許容するような心的理論をアタマではなく眼や耳で「憶えて」いったのではないかと思います(暈した表現でスマンですが)。

 しかし以上の流れはあまりにも豊穣すぎたのかもしれません。その後80年代後半はアニメブームも終わり、それだけではなくさまざまな作品が次々に自家中毒的状況に陥り先の見えない衰退期を迎える気分に満たされていたように記憶しています。鬱な記憶を呼び出す気は今回あまりないのですが、それはちょうど第二世代のオタクたちが学生時代を終えて社会に出始める時期とも一致していたかもしれません。このことは逆説的に当時のそのような流れに逆らった孤高の作品、庵野秀明メジャーデビュー作OVA『トップをねらえ!』に表れています。ここは本作品DVDのリーフレットに藤津亮太氏が書き下ろした?文章の引用をさせてもらいましょう。それは既に現在のネット言説的なものを予感させるに十分なものとなっていないでしょうか。

 

     「何か大切なものが終わってしまった」感覚が積み重なった、失望の’80年代後半が『トップ』の母胎だった。(中略)『トップ』はもともとからパロディを基調とした企画を出発点としている。さらに庵野秀明監督は「アニメ・特撮ファンのための作品」「完璧に観客を絞った作品」という方向で細かなパロディを前編に散りばめた。(中略)それは一旦は、パロディの形を経由するものの、話数が進むにつれて、パロディのメッキはどんどん剥げ落ち、シンプルなストーリーの中で「アニメでしか語りえない叙情を漂わせるドラマ」という”本性”が姿を見せることになった。(中略)一度終わってしまったものをもう一度蘇らせようとすること。そこでパロディの感覚は不可欠だ。なぜなら「”本物”は”一度目のもの”であり、自分は”二度目”である」という自意識、先行作品への尊敬が、”本物”として振る舞うことを阻むからだ。そしてその自覚的な振る舞い故に、二度目の作品は逆説的に”本物”として受け止められることになる。

 

 ここで既にオタク的感覚の先陣を切っていた庵野監督のこのような覚悟、つまりメタ的な思考と自分たちにはコピー(シミュラークル?)しかないという諦念と、原理的に他人のコピーである精神分析的自己理論などはやがて次の新たな流れにつながるわけですが、それが広がるには90年代の作品を待たなければならなかったわけです。ここで藤津氏があえてここでオサレな「インスパイア」という言葉を使わず「パロディ」とする語感が「二度目の倫理」をよくあらわしていて「オヌシデキるな」みたいな感覚があります。その僅かの差がネットのようなコトバだけで勝負する空間では非常に大切で、これをパクリ、インスパイア、オマージュ等のどのコトバで表しても庵野監督の意図から離れたモノになっているわけです。その反対の例として、最近では音楽業界の某A社が2chのAAキャラを商業利用しようと「インスパイア」などという耳当りのよい言葉を使ってキャラクタービジネスを展開しようとしために余計に2ちゃんねらーから叩かれたのは記憶に新しいわけで、謙虚さと先人への尊敬とが生み出す僅かな語彙の乱暴かつ繊細な差異は、ネットを含めたオタク消費空間ではバタフライ効果の如く重要になってくることがこの事例から明らかにされているのではないでしょうか。まあ今回の原稿では、それをもってカオスを言い立てるだけの証拠はありませんが。

 

2‐D.そして90年代から現在へ

 

 第四章では、1980年代の段階では「無反省」の人たちの言動の上にじつはまだ存在した「ギョーカイ」(テレビやイベントなどの情報の送り手側)の権威が崩壊した後の1990年代以後の社会が主題となる。「ギョーカイ」さえネタにされてしまう「2ちゃんねる化した社会」では、皮肉(アイロニー)という形式の「反省」の変種すら、皮肉として成功するかどうかは賭けのようなものになってしまう。それまで「判定基準」として機能してきた「ギョーカイ」を葬ってしまった以上、それが皮肉として通じるかどうかの基準は、ただ自分に繋がる相手(掲示板でレスをつけてくれる人とか)の評価しかないからだ。そうやって「反省」が化けたなれの果ての皮肉(アイロニー)すらが形式化してしまう。そこでは、「自分に繋がる相手」を求めるためのきっかけとして―そのきっかけとしてのみ「ロマン主義」が登場してくる。その「ロマン主義」の代表が先に触れた「窪塚洋介的ナショナリズム」だ。

 

 この著書において北田氏の語る80年代までの歴史が「サブカルの歴史」として語られたのだとすれば、それはひとつの理論としては筋の通ったものだと思います。しかし以上の第四章の肝心な現在の2chを含めたオタク主導のネットの言論空間の説明は、あまりにも恣意的で場当たり的で牽強付会です。いちいち反論しませんが、それはむしろアニメの歴史として説明したほうがスッキリするとワタシは考え、その時代を過ごした人々には当たり前のことをグダグダと述べてきました。自己解説すればちょうど北田氏の解説に対を成す形でやや無理やりにTVアニメだけでその説明を試みてきました。ここまでの時代はある程度それでも通用しましたが、90年代からはオタクの動向を象徴的とは言えアニメだけで語るのは無理があります。他の大きな要因はゲームとネットで、それらを含め多くの要素が互いに影響しながら、混沌としながらもある一定の流れを作っているように思えます。ここに来て事態はさらに重層的で錯綜したものになってゆきますが、それを無理やりアニメ一本で行おうとすれば、北田氏が行ったのと同じ適用範囲外の現象を屁理屈で語ろうとする愚を犯すことになります。それはまるで言説の熱帯雨林状態とでも言えばよいのかと、書いていてこれじゃ古舘伊知郎だなと自己嫌悪したりするのも気にせず先へ進みましょう。

 80年代後半から続いたドンヨリした空気は、まるでそんな停滞が無かったかのように92年に放映開始されたある作品によってすっかり取り払われてしまいました。それは『美少女戦士セーラームーン』シリーズです。「ベタとアイロニー」がオタク的ネット的言説だとすれば、この作品はまさにベタの極致を、魔法少女モノの極北というかド真ん中直球を投げたらスゴいことになりましたという、当たるべくして当たったけれど、誰もがなんで今まで実行しなかったのと虚を衝かれる、そんな画竜点睛の??見本みたいな作品でした。ベタでもこんなに萌えるんだという現象学的認識が一気に広がったのですが、それだけではなく同時期の94年の『機動武闘伝Gガンダム』のように、ガンダムの文法ですらスーパーロボット的に燃える作品も可能であることを示したことはこれまた驚異的記念作でした、ってちょっとオーバーww(アタマ悪そうな記述に注目)。さらに同じ年に『赤ずきんチャチャ』が放映されて、語るべきことは多いのですが、これはWWFの特集読んでくださいね(通販可)。

 しかし更にそれだけで済まなかったのがこの年代であり、このときに多感な時代(ときと読む)を過ごしたワカモノの世代がオタクの真の継承者たるに相応しい新「新人類世代」になったのは、ある意味しょうがないやねって感じです。つまりその作品とは95年の『新世紀エヴァンゲリオン』です。エヴァも実に多くのオタク的SF的センスをパロディというかオマージュとしながらも(つまりそれらお約束事という自覚を十分にしながらも、それをアイロニーやシニシズムとは言わないビミョーな差異がキモなのですが)、泥臭いほどのベタを同時に出来るんだよ、そして更にその上があるかもしれないんだよ、ということを庵野監督が「血を吐きながら続けるマラソン」状態で自ら身体的に「実行」したのだと記述し得ます。その後しばらくは、どんなアニメ作品であろうとも、そしてどんな形であろうともエヴァを意識せずにはいられないモノが多く輩出されましたが、比較的それが暗示的ながらも明らか(意味不明)だった(とワタシが妄想している)のは、『機動戦艦ナデシコ』のような完全にオタク自身を意識したメタアニメであり、『少女革命ウテナ』のように象徴的手法の作品であり、『勇者王ガオガイガー』のように旧来のロボットものの洗練と熱さを意識的に行った作品でした。これらは作品の共通した捉えられ方は、それが立ち位置や自意識ではなくてメッセージの強度こそが重要であるという現象論的かつ解釈学的な視聴方法であり、それは後にネットにおける「ベタとアイロニーの同時並行励起」と相同なものであったとワタシは考えます。

 先ほども言いましたが、アニメ主導の時代はここまでです。ゲーム(ギャルゲー、エロゲー、美少女ゲーム、なんて呼べばいいのかオサーンなワタシには分からず)において萌えの開花の素地が出来上がりつつあったからです。例えばそれはリーフの『雫』『痕』『To heart』、Keyの『ONE』『Kanon』などを筆頭に(以下略)なのですが、カンブリア爆発のバージェス動物群の如く様々な可能性が一機に開花し始めた時期でもありました。そこではリビドーと愛しみ慈しむことがパラレルワールド的に体験できるわけで、「萌え」の概念をそのまま体現しているわけですが、このような同時並行意識を明確に前提とした作品が出現したわけです。ここにおいて「ベタとアイロニー」の対象物が、例えばロボットもののような作品自体への態度(これはナルシズム関係といっていいかもしれません)だけに止まらず、さらに女性的なものなどの対人幻想のレベルにまでその概念が拡張されてきたことが重要だと思われます、なお自閉的であることを否定しませんが。

 ここでワタシはこのような自己形成の幾つかの場面、すなわち基本的なナルシズムと対人的なエロティシズムにおいて「ベタとアイロニー」の同時並行励起が生じることから、それが共同幻想のレベルにまで自然に?広がったとするトンデモを主張してみたい気にもなりますが、残念ながら根拠が全くありません。しかしもしそうであれば、現在のネットにおけるナショナリズム的に思われるものが、アイロニーのショックアブソーバーを得たことによって敗戦後の精神分裂的心理状況を和らげて「ベタ」な主張がようやく出来る環境になってきたのかもしれないという仮説を出すことも出来るかもしれません。ですからオタク的ネット関係が、いかに旧来の右翼的言説に近いことを言ったとしても、それは「世界のなかにおける物理的サバイバル」という即物的で「リアル」なナショナリズムであるわけで、そのことに気づかないと、とんでもない勘違いをすることになります。実際、旧サヨク的な言説はそれを「プチナショナリズム」だと片付けようとしたりしていますし、またきっと近い将来に、旧ウヨクが自らの「精神的支柱」としてのナショナリズム(必要だけれど抑え気味に主張するべきこと)を持つ「脆さ」を理解してもらえると勘違いしてネット関係オタク関係に擦り寄ってきたりすることが、これから起こってくるのではないかと予想しますが、さてどうでしょうか。

 この後の事態はまさに現在進行形ではあると思いますが、それはともかく、以上のような歴史の積み重なりを博物学的に把握することが、現在のネットでの現象を認識理解するにあたって基本であるとワタシは信じております。ホントはさらにそれら全てをメタ的に考察したらヨイかな?などと考えておりましたが、なんかここで力尽きたのでオシマイにしましょう(TV版『英國戀物語エマ』的な最終回と思って、はあと)。続きは書きたいデスヨ。

 

 

3.おわりに代えて妄言のひとつふたつ

 

それはいつ生まれたのか誰も知らない。

暗い音の無い世界で、ひとつの細胞が分かれ増えていき、みっつの生き物が生まれた。

彼らはもちろん人間ではない。また、動物でもない。

だが、その醜い体の中には正義の血が隠されているのだ。

その生き物、それは人間になれなかった妖怪人間である。

 

 フーコーの言う?人間の終焉のあとには何が来るのか、東浩紀氏はそれを動物だと言いましたが、妖怪人間あたりが私たちオタクにはお似合いですかね。でも最後に彼らは人間になる方法を見つけながらもそれを捨て、結局は彼らが守ろうとした人間たちの放った炎の中に消えていったんですよね。現在、昔オタクが愛着をもって視聴した過去の優れたコンテンツが、現在リバイバルと称して安易なダメダメ作品として次々と作られ作品の「薫りとアウラ」が消費されてゆく現状がまさにそれに重なるような気がします。ハッキリ言ってネットだのオタクだのが右傾化しているなんて下らない言説が垂れ流されていることなんかどうでもいいと思うときもあるデスヨ。

 

「いい作品だと思うなら敬意を払え、泥を塗るな。そして監督にも敬意を払う気があるのなら・・・噛み殺せっ」

 

 そんなコミックマスターJみたいなことを言ってくれる人はいないんでしょうかね? と思ってたら大塚英志氏、漢だね、経産省にケンカを売るのかしらん(詳細はググれば出てくる)。ワタシとは主義主張は違いますが、こーゆー人を応援しています、ってちゆ12歳じゃない、この終わり方。『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか』、『物語消滅論』読んでから本稿書けばヨカタかなぁ・・・。大塚氏へのインタビューとかも是非してみたいな、などと妄言吐いて、こんな尻切れトンボなわけで今回はオシマイ。バッハハーイ。

 

 

(2005/12)

 

 


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