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北田暁大氏の本を読む

 ・『広告の誕生』(岩波書店、二〇〇〇年)

 ・『広告都市・東京』(廣済堂ライブラリー、二〇〇二年)

 ・『〈意味〉への抗い』(せりか書房、二〇〇四年)

 

清瀬六朗


  

 

 今回の企画では、北田暁大さんの『嗤う日本の「ナショナリズム」』がいちおう共通テキストになっていた。

 この『嗤う日本の「ナショナリズム」』というのは、私たちのように、北田暁大さんの書いた文章を初めて読む者にとっては、癖が強くて理解しにくい本だった。どんなふうに理解しにくいかは、『嗤う』の評の最初にしつこく書きまくったので、繰り返さない。ともかく、その癖の強い本と向き合ってなんとか解釈した結果が、私の『嗤う』評である。

 今回の企画が決まったあと、私は、もういちど北田暁大さんという人の考えかたに向き合ってみようと思った。

 『嗤う日本の「ナショナリズム」』を読んでいると、私自身が一九八〇年代半ばから東京で生きてきた日々のことが次々に思い出されてきた。この本は、その日々に私が感じてきたことに、しっくりと来る解釈を与えてくれたような気がしたのだ。異論はたくさんある。それに、私は、北田さんが重視している糸井重里も川崎徹も『元気が出るテレビ』も、横目では見ながら、深くのめりこむことなく―もっと言うと軽い嫌悪感を感じつつ通りすぎた人間だ。けれども、北田さんの本から感じられる一九八〇年代から九〇年代にかけての空気感のようなものは、まちがいなく私がその日々に実感してきたものであったのだ。

 って恥ずかしいセリフ禁止?

 っていうか、これって「偏差値〇メートル地帯」(『〈意味〉への抗い』一六一ページ)な表現かなぁ? いや、べつにそれでもいいんだけどさぁ。

 ということで、私は、書店の店頭に並んでいた北田暁大さんの本をごそっと買ってきた。そのうち、大著『責任と正義』一冊を除いて、読んでみた記録が、この評である。

 「前説」はこれぐらいにして(ちなみに『〈意味〉への抗い』二五二ページに無声映画の弁士の「前説」についての説明がある)、本論に入ることにしよう。

 

 

広告の誕生

近代メディア文化の歴史社会学

岩波書店(現代社会学選書)、二〇〇〇年

 

 突然、尾道にて

 この本を読みながら、私は、八月に尾道に行ったときのことを思い起こしていた。

 尾道の市街は、狭い尾道水道を隔てて、向島という島と向かい合っており、尾道の市街と向島とは四本の渡船で結ばれている。私が思い浮かべたのは、その渡船のうちの一つ、福本渡船の向島側の船着き場から対岸の尾道市街を見たときの情景だ。

 この風景は、もちろん広告を意図して作られた構成された風景ではない。この場所を通る人の多くは、この場所からの風景が「広告」だなどとは考えてみもしないだろう。渡船の発着場の看板や、尾道水道の向こうに広がる尾道市の情景、とくに渡船発着場の向こう岸から少し坂を上がったところに見える小学校の建物―大多数の人にとって、それはたぶんとりたてて何かの購買意欲をそそる風景ではない。というより、ここを通りすぎる人の多くは、対岸に小学校の建物が見えることにすら気づかないに違いない。渡船にとっては、この風景が「広告」としての効果を持つのはたぶん悪いことじゃないと思うけれど、小学校にとってはもしかするとそれは迷惑な話かも知れない。

 しかし、私に対しては、この風景はたしかに「広告」としての役割を果たした。この福本渡船の船着き場に立って、私はますます「よし、『かみちゅ!』のDVDが出たらすぐに買おう!」という決意を固めたのだから。

 ……けっきょくそういう話か……。

 いや、でも、『かみちゅ!』のファンは、あの場所に立ったら絶対に同じこと考えますって。

 私のばあい、ここに来た時点では『かみちゅ!』の録画に連続して失敗していて(最初は放送が始まったのを知らなかった→放映時間を知らなかった→放映時間をまちがえてタイマーをセットした→正しくセットしたら放映時間がずれた……)、DVDへの渇望が強かったのは確かだけど。

 

 ここで『かみちゅ!』の広告

 とか書いても、アニメ『かみちゅ!』を見ていないひとには何のことやらよくわからないだろう(コミックスのほうは読んでいないので私もよくわからないのだけど)。

 『かみちゅ!』は、一九八〇年代半ばごろの瀬戸内のある街を舞台にしたジュブナイル・ファンタジーで、その瀬戸内の街のモデルが尾道である。主人公の中学生一橋ゆりえと、その友だちの四条光恵は、この福本渡船をモデルにした「日の出渡船」で島から街の学校へと通っている。その学校のモデルになったのが、向こう岸に見えている小学校なのだ(作中では中学校として出てくる)。ちなみに、この小学校は、教育家の陰山英男先生(「百ます計算」のひとだっけ?)が校長を務める学校(二〇〇五年度現在)としても有名であるらしい。

 

 で?

 つまり、何が広告であり、何が広告でないかは、だれがどういう状況で見るかで変わってくるということだ。

 福本渡船の向島側船着き場から見た尾道の風景は、『かみちゅ!』を知らない人にとっては『かみちゅ!』の広告としての意味を持たない。また、私がここに立ったのが一年前だったとしたら、やっぱり『かみちゅ!』の広告としての意味は持たなかっただろう(『かみちゅ!』放映が始まるずっと前なのだから)。二〇〇五年の八月で、私は『かみちゅ!』が好きだったから、その風景は私にとって『かみちゅ!』のとても雄弁な広告になり得たのだ。

 ……と、私は、北田さんの広告論には興味があっても、『かみちゅ!』に何の興味もないような人を、『かみちゅ!』ファンの仲間に引きずりこみたいと、この文章でささやかながら「広告」している。その意図が成功するかどうかも、これを読んでくださっている方がどんな方か、どんな状況で読んでくださっているかなどによって違ってくるだろう。

 広告が広告として成り立つためにまず重要なのは、多くの人の目に広告がどういうふうに飛びこんでいくかということだ―この北田暁大さんの『広告の誕生』は、そういう考えを前提に書かれている。

 広告は人の目に触れてはじめて広告としての役割を果たすことができる。だから、人と広告との出会いがどんなふうに起こるかがまず重要だ。それを考察しないで、最初から「広告に載せられたメッセージはすべて人に伝わる」という前提で広告を考察しても、それは広告というメディアの研究としてはけっして満足なものにならない。それがこの『広告の誕生』の問題意識だ(なお、この本では、最初から広告として作られたものを考察の対象としており、尾道の風景のように「広告として構成されたわけではないものが広告としての意味を持つ」という現象は対象にしていない)。

 

 人が広告に接するには二つの段階がある

 もう少し詳しく読み解いていこう。

 北田さんは、都市を歩いている人(電車やバスに乗っている人でもいい)は「気の散った状態」にあるという。そこでは、自分と他人とか、自分と外の世界とかいう区別はとりたてて意識されず、あいまいなままになっている。たぶん、都市を歩いている人は、そういう状態で多くの広告を見過ごしているだろう。

 しかし、ある広告がその人の目に(耳でもいいけど)飛びこんできたらどうなるか? その人は、一人の人間として、その広告が告げようとしている内容と向き合わなければならなくなる。そこから先はさまざまだろう。向き合った結果、その広告に心を奪われてしまうか、落ちついてその商品を買うかどうかを考えるか、くだらないと思って一瞬で忘れてしまうか、その場から携帯で友人に「○○の広告見た?」とメールを送るか、家に帰ってから家族にその広告の話をするか……。でも、ともかく、広告が目に飛びこんできた時点で、一人の人間として広告に向き合うという瞬間を体験する点は共通している。

 

     なお、北田さんは、私が「気の散った状態」と書いている状態を「気散じの状態」と書いている。しかし、私のことば感覚から言うと、「気散じ」というのは、気詰まりな気分や煮詰まった気分―むだに集中してしまった気もち―を発散するための行為だ。北田さんが表現したいのは、最初から「気が散じた」状態のことのようなので、私はここでは「気の散った状態」と表現することにする。

 

 北田さんは、このように、人と広告の接しかたを、「気の散った状態から広告に目を奪われるまで」と「広告に目を奪われてから一人の人間として広告の内容に向き合うまで」の二段階に分ける。その分けかたを前提にして、江戸時代から昭和初期(一九八〇年代ぐらいまで)の日本の「広告」の歴史を語り、その変化のあり方を解き明かしていく。

 

     なお、この分析枠組を書いた序章は、書いてある内容は興味深いのだが、文章が難しくて取っつきにくい。とくに、難しい術語がたくさん出てきて、ていねいに読まないとわけがわからなくなる。たとえば、序章に出てくる「コト的次元の系譜学」と「モノ的次元の系譜学」などという術語自体は、わざわざ出さなくてもその後の文章を読むのにそれほど差し障りがあるわけではない。省いてもよかったんじゃないかという気はする。第一章から読めば抵抗なく読める読者でも、序章で投げ出してしまうひとがいるんじゃないかと、おせっかいながら心配したりもする。それとも、ほんとうはそういう難しい術語はこの本を読み解くには不可欠で、それがなくても読み解けると思っている私の読みが浅いのかなぁ?

 

 第一章「孤立する広告」

 第一章「孤立する広告」では、江戸時代の「広告と広告でないものが分化していない状態」から、明治の「文明開化」を経て、広告が「広告」の枠のなかに押し込められていくまでを考察の対象にしている。このうち、「文明開化」時代を代表するものとして採り上げられるのは新聞広告だ。

 北田さんによると、江戸時代には「広告」と「広告でないもの」ははっきり分かれていなかった。チラシのようなものはあった。宣伝パンフレットみたいなものもあった。さらに、小説(「戯作」という)の登場人物が、小説の会話のなかで商品を宣伝するような場面があったりもした。この時代には、小説家(戯作者)が民間薬の販売元を兼ねている場合もあって、自分の店で売っている薬の効能を小説のなかで登場人物が語り合う場面が出てきたりもするらしい。登場人物がスポンサーの商品について劇中で宣伝するなんて、北田さんがこの本に続けて書いた『広告都市・東京』で紹介している映画『トゥルーマン・ショー』の世界のようだ。

 でも、それを、明治以後の「広告」とごちゃ混ぜにして論じるのはまちがいだと北田さんは言う。なぜなら、江戸時代の庶民には、「これは記事、これは広告」とか「これは広告、これは小説の本筋」とか区別する感覚がなかったからだ。だから、江戸時代の小説の登場人物の会話が、一九九〇年代のアメリカ映画の登場人物の会話に似ているからと言って、「江戸時代の日本は一九九〇年代のアメリカの大衆社会を先取りしていた」などとは言えない。江戸時代の庶民は、新聞記事にあたるような情報も、小説に描かれた物語も、そして商品の宣伝も、区別なく、同じように受けとめていたのだ。

 だから、この時代には、「気が散った状態」が、広告とめぐり会って、一人の人間として広告と向き合わなければならなくなるなどという流れはまだ存在していない。

 では、「記事と広告」や「小説の本筋と広告」はいつ分かれたのか?

 

 文明開化は広告を嫌う

 さっき書いたように、それは明治の「文明開化」の下でである。

 文明開化で近代化ということで出てくるのが福沢諭吉だ。このひとは、明治時代について、「近代」を肯定的に捉える場合も、否定的に捉える場合も、だいたい出てくる。こうなると、「前近代思想家としての福沢諭吉」とかいう発想が出てきたらおもしろいだろうな……と思ったりもするのだけど、それはとりあえずここの話には関係がない。

 ともかく、その福沢諭吉は、事実を伝える記事も論説も投書も広告も区別せずに読んでしまう新聞読者の未熟さを指摘しつつ、あやしげな売薬の広告(まあ今日で言えば「奇跡! ○○で末期ガンが治った!」みたいな感じのものだろう)を非難した。

 広告にはいかがわしさがつきまとう。広告は、その商品のよい点を誇大に宣伝する一方で、都合の悪いことは表に出さないようにする。現在のような厳しい規制のない時代だから、ありもしない効能を謳(うた)った広告も多かっただろう。しかも、明治の新聞は、新聞の名まえも見出しも小さい活字で組まれていたのに、広告欄だけは大きい活字を使って組んでいたりしたらしい。それはなんとなく新聞紙面の秩序を乱しているように見える。

 それに、たとえ広告の内容に嘘いつわりがなかったとしても、「新聞のような公共のメディアで特定の商品を売ろうとしている!」ということ自体が、成立したばかりの純情な近代の感覚からはいかがわしい。「純情な近代の感覚」というのは、世のなかを公共的な部分と私的な部分に分けたとき、その公共的な部分では公平さが原則だと大まじめに信じているような感覚のことだ。その感覚からすると、新聞は、自由とか民権とか世界情勢とかいう、だれにとっても同じように有用な議論を展開すべきで、一企業や一製品のために紙幅を割くべきではない(逆に言うと、ここでは、近代的な「市民」は、自由とか民権とか世界情勢とかについての議論を有用だと感じなければならないわけだ)。

 そんな「時代」は一部の思想家の頭のなかにしか存在しなかった。で、ここに出てくる福沢諭吉は、目の前の現実がそうでないことをしっかりと認めつつも、「純情な近代の感覚」が通用する社会は十分に実現可能だと考えていた思想家である(と、私は思う)。この「純情な近代の感覚」をいちおうここでは近代の「良識」と言っておくことにしたい(なお、私は、この評でこの「良識」ということばを連発しているけれど、これは北田さんが使っている表現ではない。また、ここでいう「良識」は、デカルトのいう「よき感覚」とは別物である)。

 

 しかし近代社会には広告が不可欠だ

 しかし、まさにその近代社会を支える資本主義は、広告なしにはやっていけない。広告によって宣伝することなしには、資本主義がまともに動いていけるほどの儲けが上げられないからだ。その商品を必要とし、その商品のことも商品を売る人のこともよく知っている身近な人に、必要とする分量だけ売っているような状態は、物々交換の経済とたいして変わらず、そのような経済には資本主義は必要ではない。資本主義は、見知らぬ人に、できれば買う人がまだ知らないような商品を売りつづけることではじめて順調に動く(このことは『広告都市・東京』の評でもう少し詳しく触れる)。

 だから、いかに「純情な近代の感覚」―つまり近代の「良識」が広告を嫌おうと、新聞のような公共のメディアに広告が掲載されるのは避けられない事態なのだ。

 

 「枠囲い」―広告と「良識」のすみ分け

 そこでミシェル・フーコーの指摘する近代の得意技「空間的に分ける」が登場する。新聞は枠囲いのなかに広告を閉じこめた。枠囲いのなかでは、広告は多少のハメをはずしてもかまわない。しかし、その枠の外の部分には、広告が紛れこまないようにして「良識」的読者が安心して読めるようにしたのだ。この関係の構造は、今日の「健全」な読みもの(同人誌などを含む)と「十八禁」との関係の構造と同じである。

 それは、枠で囲われた広告の成立であるとともに、枠囲いの外の「良識」的な文章の成立でもあった。何かをまじめに伝えたい作者が文章を書き、それをまじめな読み手が読みとる。文章そのものはふざけた調子で書かれているかも知れない。なかには品のよくない表現もあるかも知れない。けれども、ともかく伝える内容はまじめでまともなものであるはずだ。文章の作者はそれをきちんと伝える技術を身につける。読者はそれをきちんと読解する技術を身につける。そうして近代の「良識」的な文章作者と読者の関係が成立する。私たちが、小学校から高校までの国語教育で学ぶのは、そういう近代の「良識」的な文章作者と読者の関係を成立させるために必要な技術なのだ。

 それは一種の妥協だった。たぶん福沢諭吉が理想とした広告のあり方は、ハッタリ的(この本のことばで言えば「香具師的」)要素を含まず、公共の世のなかにとってその商品がどう役立つかを論理的にと説得するようなものだっただろう。だが、「枠」を与えられた広告は必ずしもそういう方向には向かわなかった。近代の「良識」は、広告を「枠」の中に追いやるところまでは成功したが、「枠」の中に追いやったために、その広告のあり方を「良識」に服従させることには失敗したのだ。

 

 第二章「散逸する広告」

 次の時代は、広告に「枠」がついたまま、世のなかに広告がちりばめられていく時期だ。時代としては、明治の後半(一八九〇年代ぐらい)から一九三〇年代前半あたりまでである。北田さんがこの時代を代表するものとして採り上げる広告メディアはポスターや看板だ。

 この時代には、「枠」に閉じこめられた広告が、二つのルートで、世のなかに受け入れられようという動きを始める。

 一つめのルートは、近代の「良識」に沿った存在になり、近代の「良識」を広めていく動き―近代的「啓蒙」―の手助けをするという道筋だった。

 この動きは、明治の半ばごろから百貨店(三越)の広告に現れ、次第に他の商品に広がって行く。芸術品として通用する上品な絵画をポスターとして作り、それを商品宣伝に利用する。美的で芸術的なポスターが、民衆の芸術感覚を養い、同時に商品の宣伝の役にも立つ。そういう存在として、広告は、ポスターのなかという「枠」のなかにありながら、「枠に閉じこめられたもの」以上の役割を主張し始める。

 一方で、一九一〇年代、第一次大戦の時期になると、もう一つのルートが動き出す。第一次大戦期といえば、大正政変が起こり、さらに大隈重信がレコードを活用した演説作戦を展開して大衆人気を背景に首相になった時期で、しばらく後に始まる「大正デモクラシー」の先駆けとなった時期でもある。

 この時代に、「広告は目に留まって、メッセージを伝えられなければ意味がない」という発想が生まれる。そして、芸術的であることや、「啓蒙」に役に立つことよりも、「メッセージを効率的に伝えられること」が広告の目的になる。

 

 近代の広告像の成立

 ここに、いわば近代の典型的な広告像ができあがる。広告はメッセージを伝え、広告の受け手はそのメッセージを受け入れる。もちろん受け手にメッセージがきちんと伝わらないかも知れない。しかし、そういうことが起こるのは、メッセージの伝えかたに問題があるからか、受け手の感受性が未熟だからかだ。広告のメッセージがきちんと伝わらないのは異常事態なのであって、広告と受け手が正常な状態ならば問題なくメッセージは伝わるはずだ。そういう広告像だ。

 これは北田さんのいう従来の広告研究の見かたを裏づける広告像でもある。つまり、「気の散った人びとがどう広告を受け入れるか」ということを考慮せずに、「広告のメッセージは完全に受け手に伝わる」ことを最初から前提にした広告像である。北田さんはこのような広告像を批判している。それは、最初からあたりまえのものだったのではなく、一九一〇年代に、いわば「枠」に閉じこめられた広告の自己主張のなかでできてきたものだ―北田さんはそう言いたいのだろう。

 また、この広告像は、広告を「枠」のなかに閉じこめた「良識」的コミュニケーション像と同じものだということにも気がつく。繰り返すと、「良識」的コミュニケーションは、文章の書き手がきちんと文章を書き、読み手がそれをきちんと読み解けば、文章の書き手が書いた「良識」的な内容は完全に伝わるはずだという考えに基づいて成立している。一九一〇年代の広告像も、広告がメッセージをきちんと伝え、受け手がそれをきちんと受け取れるならば、メッセージは十分に正確に伝わるはずだという考えに基づいている。

 こうやってみれば、明治の中ごろから一九一〇年代までの広告は、「枠」のなかに閉じこめられつつ、しかし「枠」の外と同じように「良識」的なものになろうとして行ったということができるだろう。

 

 広告は散らばって行く

 しかし、このような「良識」的な広告像が見落としているのは、広告の送り手のほうはともかく、受け手のほうは普通は「気が散った状態」で広告に接してくるという事実である。

 実際には、むしろ、広告のメッセージをきちんと受け取ろうとして広告に接する「近代的・良識的」受け手のほうが例外なのだ。だから、「良識」的広告像が想定する広告と受け手との関係は、その想定とは逆に、例外的な場合にしか成立し得ない。しかも、やっかいなことに、広告には「良識」の「啓蒙」が通用しない。文章の読みかたについては、「こうやって読むのが正しい」というふうに「良識」による教育(「啓蒙」)が行える。しかし、その「良識」は広告を自分から切り離して「枠」に閉じこめてしまった。だから、「広告はこうやって受け取るのですよ」という「良識」による教育(「啓蒙」)は広告には十分には及ばない。

 そして、この「良識」的な広告像の成立は、もしそれがほんとうに成立していたとしても、一九一〇年代の一時期のできごとだったに過ぎない。やって来た「デモクラシー」の時代はお行儀のよい「良識」的な「民主主義」では立ち止まってくれない。都市社会は大衆社会へと姿を変えていく。人びとは、数は多いけれども、互いに無関心を装いあい、互いに連帯意識をもたない―連帯意識の持ちかたも知らない―「群集」へとそのあり方を変える。

 その社会のなかで、「枠に入った広告」は、「枠」に入ったままあらゆる場所に散らばって行ってしまう。街のあらゆるところに、とくに人の多く往き来する場所に広告は密集する。北田さんが例に挙げているのは新宿などのターミナル駅のポスターや看板だ。

 ここでは、「すべての広告がきちんとメッセージを伝え、人びとはそれをきちんと受け取る」という「良識」的な想定に基づいて広告が並べられているわけではない。駅の広告看板にいちいち立ち止まって内容を読解するなどと言うのは、よほど変わり者の閑人でなければできないことだ。そうではなく、そこを通る人間はみんな「気が散った状態」にいるけれど、そのうちの一部の人間は広告に気がついてくれるという想定で看板やポスターが並べられている。「気が散った状態」の人間が大量に通りすぎるという前提のもとで、「枠」に囲われた広告(ポスターや看板)が密集する空間ができたのである。

 

 第三章「融解する広告」

 次の時期は、時代としてはその前の時期に重なっている。一九二〇年代から一九三〇年代にかけての時代であり、「デモクラシー」社会が大衆社会へと変容して行く時期だ。

 ただ、分析対象が違う。

 一九二〇年代から一九三〇年代に広告が散らばって行ったと言っても、その散らばって行く場所を通るのは、都市を縦横に動き回って仕事をする会社員たちだった。当時のことだから、その大多数は男性である。

 で、北田さんの言う第三の時期の動きは、その都市の男性たちの社会に広告が散らばって行った時期の、女性たちの世界で起こった。都市社会で仕事をする男性たちの社会を「中心」とすると、その「周縁」(「端っこのほう」を難しく言ったことば)でのできごとだ。北田さんは、この「周縁」でのできごとが、二〇世紀の半ばから後半にかけて、やがて社会の「中心」へと進み出ていったと考えている。

 この時期の「周縁」世界で何が起こったか?

 近代の「良識」が広告を閉じこめた「枠」が浸蝕され、溶け去ってしまうという事態だった。一九二〇年代から一九三〇年代にかけての女性雑誌では、記事と広告の区別があいまいになっていく。そして、ついに、記事か広告かはっきりとはわからないような記事が登場する。たとえば、「○○の美白効果を検証します、△△大学の□□先生によると○○に含まれている××酸●●には美白効果があるそうです、また▲▲大学の■■先生によると○○を摂取すると神経系がリラックスしてそれが肌によい効果を与えるそうです、では○○を三か月にわたって試してみたM月学園の生徒さんたちに聴いてみましょう。1年C組K桐姫子さんの話……」というような感じの記事だ。

 こういう「枠」を崩すような広告は、社会の「中心」にある男性たちの「良識」的メディア―たとえば新聞―では、まだ一般に受け入れられていなかった。そのことも北田さんは実例を挙げて検証している。しかし、社会の「周縁」では、その女性雑誌・少女雑誌の読者の連帯感や共同意識に支えられて、こういう「広告記事」の存在が許容され始めていたのだ。

 

 なぜ女性雑誌か

 そういう現象ならば、女性雑誌に限らず、限られた人数の参加者の連帯感や共同意識に支えられた場があれば、どこでも起こりそうなものだ。しかし、この女性雑誌で起こった動きが、後の社会の広告のあり方に影響を与えていくのには、やはり当時の女性が置かれていた立場が影響している。

 男性と、男性を中心に構成された「家」を「中心」に置いたばあい、女性は複雑な立場に立たされる。女性は、一面では「良妻賢母」として、家庭にとって不可欠な重要な存在である。しかし、産業化とある程度の民主主義の進んだ社会では、女性はそれには収まりきらない要素を持つ。少なくとも、男性―多くのばあいは「家長」―が都会に朝から晩まで働きに行くということは、買い物は女性が担当するのだ。コンビニもないし、深夜まで営業しているスーパーもないし、だいいち、デパートはあってもスーパーなんかない時代なんだから。女性が買い物に出るのだから、その女性は広告の有力なターゲットの一つになる(だから、ここで想定されている女性は、都市圏のサラリーマンの妻であって、たとえば農山漁村の農家の妻や娘などではないと考えてよさそうだ)。

 また、男性を「中心」として編成された社会では、女性をあるところから男性から切り離して、「枠」のなかに囲ってしまう。それがまあ「家庭」ということになるのだろう。ここでいう「家庭」とは、政治活動や生産活動の基礎になる「家」ではない、もっぱら私的な生活の場所として「家」のことだ(なお、北田さんは、この部分で「職業婦人」や「モガ」などの「家庭内の女性」以外の女性のことにも言及しているけれども、この評では省いている)。

 

 広告と「消費者としての女性」の結びつき

 そこでは、まさに、「良識」的な文章が広告を「枠」に入れて閉じこめてしまったために起こったのと同じ動きが起こる。

 「良識」的な文章の世界は、「良識」によって「啓蒙」し、コントロールすることが可能だった。だが、広告は「枠」に入れて閉じこめてしまったために、逆に「良識」の「啓蒙」が十分に及ばないことになってしまった。だから「良識」は広告をコントロールできない。

 同じように、「家庭」の「枠」に入れてしまった女性には、男性を「中心」とする政治の世界や産業の世界の「啓蒙」やコントロールが十分に及ばない。そして、一九二〇年代には、女性雑誌を仲立ちにして、男性を「中心」とする「良識」的な社会が「枠」に入れておいたはずの女性と広告が結びついてしまったのだ。

 この時代の「消費者としての女性」(「男性を助けて家を支える女性」ではなく)を核にして、新しい人と広告との結びつきができる。

 男性を「中心」とする社会の「良識」によって訓練されていない女性たちは、都市を歩いているときも「いま何をしているか」とか「いま何のためにどこに行こうとしているか」とかいうことをいつも意識していたりはしない。そういう意味で、この時代の「消費者としての女性」は、通勤途中に広告の並ぶ駅を黙々と通りすぎていく男性たちよりも、さらに「気が散った状態」にいた。

 そういう「さらに気が散った状態」の女性にもっとも訴えかけやすい広告が、「枠を浸蝕し、溶かし去ってしまった広告」だった。そして、二〇世紀半ばから後半にかけて、この「さらに気が散った状態」が、都市圏のサラリーマンの家庭の妻たちだけではなく、男性も含めた全社会に広がっていく。そして「枠を浸蝕し、溶かし去ってしまった広告」の時代が訪れるというわけだ。

 

 この本の意義

 この本の分析は一九三〇年代で終わっている。で、しばらく経ってから書かれたこの本の続編が『広告都市・東京』だという位置づけになるのだろう。北田さんは、この『広告都市・東京』で「枠」を溶かし去ってしまった後の広告がどうなるかを追跡することになる。『広告の誕生』と『広告都市・東京』のあいだでは、北田さんの広告観に細かい違いがあるかな―などと感じないでもないのだが、そういう細かいところを詰めるのは専門家の仕事だろう。

 この本は、広告という、近代社会にとって不可欠である(なぜなら近代社会を支えるのは資本主義であり、資本主義にとって広告は不可欠なものだから)にもかかわらず、つねに近代社会の「周縁」(「端っこのほう」)に置かれ続けてきたものに注目している。そして、そのことで、この本は、政治や産業といった「中心」から見た近代史では見えない近代社会の動態を描ききっている。私はそう感じた。

 近代社会は、その「良識」性を守るために、「空間的に分ける」という得意技を駆使して広告を切り離した。しかし、切り離された広告は、広告も近代的「啓蒙」に役立つことを示し、また、広告自身が「メッセージは伝わらなければ意味がないし、ちゃんと伝えようとすれば伝わるものだ」という考えの方向に発展して、近代社会の「良識」性に追いついてきた。そして、「良識」が、まさにそれが「良識」であるがゆえに身動きできないでいるあいだに、広告は「人間はふだんは気が散った状態でいるものだ」という大衆社会の現実に適応し、「良識」を追い抜いてしまった。「追い抜いた」というのは、もう少し具体的に言えば、近代の「良識」が大衆社会を健全な社会からの逸脱としてしか把握できないあいだに、広告はその大衆社会の現実に適応してしまっているということだ。その事態を語ることばを「良識」的な社会はいまだに十分に持っていない。この本の表現がやたらと小難しくなっているのはそのせい―なのかどうかはよくわからないけど(少なくともそれだけではないと思うんだけど)、でも、ある程度はそうなのだろうと思う。

 

 苛立ちの感覚

 私は、これまで、北田さんの本を、発表年代とは逆の順番で、『嗤う日本の「ナショナリズム」』→『広告都市・東京』→『広告の誕生』と読んできた(『〈意味〉への抗い』を読んだのは『広告の誕生』のあと)。さかのぼるほど文章が生硬だ―というのはよくある話だからあんまりつつかないことにして、それよりも強く感じたのは、北田さんが持っている苛立ちの感覚だ。そして、その苛立ちの感覚は、私が「良識」と表現しているものに向けられているように思う。

 近代的な「良識」はあるところまでは社会の変化を引っぱってくることができる。それが「啓蒙」という働きだ。だが、「良識」が「啓蒙」の主体であることができるのは―つまり社会を自分の思う方向に変化させることができるのは―、「良識」自体が変化しないからである。ところが、社会は「良識」が引っぱってきた場所をあっさり通り越して、「良識」が予期しなかった方向へとどんどん進んでいってしまう。こうなると近代的「良識」は無力だ。「良識」が社会を引き戻そうとしても、社会はいったん通過した地点へ戻ってきてはくれない。「良識」がその社会のあり方を「行きすぎ」とか「逸脱」とか決めつけても、社会は「ああ、行きすぎたから戻って行ってあげよう」などとおとなしく戻ってきてはくれないのだ。

 しかも、やっかいなことに、社会を認識する概念とかことばとかは、圧倒的にその近代的「良識」に基礎を置いている。だから、近代的「良識」が予期した地点を通りすぎて先に行ってしまった社会を表現する概念とかことばとかを、近代的「良識」はなかなかうまく生み出すことができない。

 

 北田さんの楽観

 だが、そういう不器用な「良識」に苛立ちつつも、北田さんはいつも楽天的であるように見える。悲嘆にくれて絶望感を撒き散らしたり、近代的「良識」相手に当たり散らしたりはしない。近代的「良識」の限界を超える画期的な概念やことばを北田さんが見出したとは思えないけれど、しかし、それを見出せるということについては北田さんはいつも楽観的な見通しを持っているように思うのだ。

 かつて、近代物理学がいまの「古典力学」を完成させていこうとしたとき、伝統的な数学はそれを数式で説明しきることができなかった。しかし、そのとき、数学の世界では微積分が見出されて、古典力学の新しい世界像を描くことを可能とした。微積分は、古典力学だけではなく、相対性理論や量子力学の世界を描くためにも役に立っている……んだろうと思う。いや、よくわかんないけど(『苺ましまろ』の美羽的発言←さて、この文は『苺ましまろ』の広告なのか、それとも違うのか?)。ともかく、北田さんは、近代的「良識」が行き詰まり、それを打開するためにさまざまな試行錯誤を繰り返していれば、微積分に相当する画期的な「語りかた」が出てくるに違いないと信じているようだ。その楽観が、北田さんの本の読後感に一種のさわやかさを生んでいるように私は思う。

 

 もういちど『かみちゅ!』の広告

 ところで、『かみちゅ!』のDVDは、テレビでは未放映だった場面も入っているし、未放映話も全部で四話収録される予定だし(四巻までで一話収録)、脚本の倉田さんと升成監督のオーディオコメンタリーは楽しいし、話数によってはゆりえ役のMAKOさんがコメンタリーに参加したりして、十分に買う価値のあるDVDですよ。

 

 

広告都市・東京

その誕生と死

廣済堂ライブラリー、二〇〇二年

 

 「隠れる広告」へ

 前著『広告の誕生』に続く広告論だ。タイトルは「東京」だが、主に注目しているのは渋谷の街の変容である。

 北田さんは、まず、広告は「目立つ広告」から「隠れる広告」へと進化するという考えを提示する。

 その理由の一つは広告の本質と関係する。

 商品(「サービス」も含む)を買うように消費者を動かすのが広告の役割だ。そのためにまず考えられる方法は、その商品を買えばどういうメリットが得られるかということを論理的に説得することだ。しかしその方法はやがて限界に行き当たる。

 まず、資本主義経済が発展すると、いろいろな製造元が作った同じような商品がたくさん出回るようになる。すると、その似たような商品のなかから、いま広告している商品だけにしかないメリットを短い時間で説明するのが困難になる。

 また、消費者は、広告にまじめに取り組んでくれない。もちろん、携帯電話でもPCでも家でも、まじめに購入することを考え始めてからなら、消費者は、カタログを揃えたり、ネットで商品の評判を見たりして、まじめに取り組むだろう。しかし、広告の最初の目的は、その商品を買おうかやめようかなどということさえこれまで考えたこともなかった消費者を引きつけることだ。

 たとえば、携帯電話の新機種の広告は、「そろそろ携帯を買い換えなくては」と思っているユーザーだけに向けて作られたのでは、十分に効果が上がらない。いま自分が持っている携帯に不満を感じているユーザーは、携帯の全ユーザーのなかでも少数のはずだからだ。いま持っている携帯電話で何の不便も感じておらず、携帯電話を買い換えることなど夢にも思っていないユーザーに、「あ、これおもしろそう」とか「これ便利そう」とか思わせるのが、新しい携帯電話の広告の役割である。

 そういう目標を考えると、何も考えずに視線をさまよわせている消費者の目にふと飛びこんで、その消費者にまずその商品への関心を起こさせることが広告の第一目標になる(このへんの話は前著『広告の誕生』に出てくる)。

 

 「目立つ広告」の限界

 そのために考えられる方法の一つは、だれが見ても気がつくぐらいにめちゃくちゃに目立ってしまうことだ。店舗の装飾で言えば、巨大なネオンサインに店舗名を大きく書いたり、店舗の前面を派手な色で塗ったりするような方法である。

 だが、それは逆に限界に突き当たる。その広告を見た消費者は、最初は度胆を抜かれて吸い寄せられるかも知れないけれど、すぐに「あ、あれはこういうものを売っている店だ」と単純明快に理解されてしまうからだ。で、それは広告にとってあまり歓迎できる事態ではない。一定の数の客を引きつけるかわりに、「この店はこういうものを売っている、でも私はそんなものはいらないから、この店には用がない」という客を決定的に遠ざけてしまうからだ。また、その店が何を売っていて、その店で買うとどんなメリットがあるかを理解してしまった消費者には、もはや広告は必要ない。広告しなくてもその店を訪れてくれるだろうから。たとえば、私が月に一度はゲーマーズ本店を訪れるように、である(でも最近はゲーマーズが開いている時間に秋葉原に行けなくて、間隔が開くこともある。それで特典をもらいそこねたこともある。まあ、どうでもいいけど)。

 

 「啓示」としての広告

 では、「ひたすら派手」以上に有効な消費者への訴えかけはあるのか? ある。ふだん街のなかにひそんでいて、いきなり「あなたはこれが欲しいんでしょう!」と不意打ちをかけることである。ゲームのトラップみたいなものだ。あるいは、突然の「啓示」みたいなものと言っていいかも知れない。啓示というのは、ほかのだれにも気づかれないのに、特定の人間(預言者)にだけに突然に伝えられる神からの「真理のことば」である。多くの人が気づかないのに、自分だけその商品のすごさを伝えられたような感覚があるから、そのメッセージを受けた人はいささか得意になることもできる。「ともかく目立つ」広告が、「目立つ」ために反感を買いやすいのとは逆だ。

 罠のようなものだから、それにかかる消費者はけっして多くはない。少数かも知れない。しかし、その「罠」に落ちた消費者は、その一瞬に「あ、あれおもしろそう」と感じたことを心のなかに刻みつける。いちど刻みつけてしまえば、その消費者は、次から同じ広告に出会ったときや、店頭でその商品を見かけたときに「あ、これ知ってる」とますます興味を高めてくれる……かも知れない。そして、それを繰り返すうちに、そういう消費者の一部がその商品を買ってくれるのだ。

 この方法は、目立つことで客を引きつける方法より効果が落ちるように思えるかも知れない。しかし、「この商品は(店は、でもいい)自分には関係ない」と思ってしまう消費者をあまり作らないというメリットもある。目立つことから来る反感も避けることができる。商品や店舗の数が限られている段階では、目立つほうが勝ちだったかも知れない。しかし、商品が多様化し、そのぶんその商品ごとの単純明快なセールスポイントが見えにくくなってくると、ふだんは街にひそんでいて、なんとなく街を歩いている不意打ちをかけるような広告がより効果的になる。

 この本は都市論だから「街を歩いていて」と表現したけれど、これはテレビのCMでも同じだ。テレビのCMでも、「どれも同じようなCFだ」と気を散らしてCMをぼけーっと見ている視聴者の心に、「あ、これおもしろそう」とか「これを買うと癒されそうだ」とか訴えかけるような広告がより有効だろう。『嗤う日本の「ナショナリズム」』のテレビ論はこの流れの上で展開されているのだ。

 

 広告は近代社会の「良識」から身を隠す

 もう一つ、広告が「隠れ」て行く事情は、『広告の誕生』の評でも触れた近代の都市社会の「良識」の影響だ。近代の都市社会は、清潔さを好み、いかがわしいもの、トリッキーなもの―「罠」っぽいもの―、わけのわからないものを嫌ってきた(それは、逆に言えば、都市社会にはそういう要素やその担い手が集まりやすかったからでもある)。また、近代の都市社会は、だれにでも同じようにその都市の便利さを開け放つことから、公平さを原則とする。目立ちすぎる広告はその「公平さ」の秩序を乱す。そんなことから、都市社会は、ある段階までは広告の存在を敵視してきたし、国家(自治体も含む)は広告を規制してきた。

 たぶん、都市社会の「良識」の楽観的な担い手たちは、それで「俗悪」広告は滅亡すると考えていたのだろう。しかし広告の生命力はそんなことで絶滅するほどひ弱なものではなかった。

 なぜかというと、まさに広告こそが資本主義の生命線(ライフライン)だからだ。

 

 資本主義の宿命と広告の必要性

 資本主義の宿命とは、つねに市場を拡大しつづけていないと安定しないというところにある。つまり、それまで買っていなかった人に商品を売るか、それまで売っていなかった商品を売るかしつづけていないと、資本主義は安定しないのだ。

 そのことを、まず、経済的な側面からだけ説明してみよう。

 市場が拡大しない資本主義(=同じ商品を同じ消費者にだけひたすら売りつづけるような資本主義)では、やがてその商品を買おうという消費者側の意欲が減退する。消費者は、すでにその商品を手もとに持っていたり、飽きてしまって買う気が起きなくなっていたりするからだ。売るほうはその消費者に買わせるために値下げ競争に走る。それでも、消費者は、すでに買う必要がなくなっているものや買う気の起こらないものを、ただ安いからといって買うかというと、そんなに多くは買わないだろう。だから売るほうの経営が成り立たなくなってしまう。だから、市場の拡大しない資本主義はやがて動きを止めてしまうことになる。

 市場を拡大するためには、これまである商品を買っていなかった人に「これ買いたい」と思わせるか、これまで存在しなかった商品を「買いたい」と思わせるかしないといけない。その役割を果たすのが広告で、したがって広告は資本主義の生命線なのだ。

 また、そういう資本主義社会に生きる人たちは、新しい商品がいつも供給されているのがあたりまえだと思うようになる。いや、「思う」とか「思わない」とかいう以前に、意識しないままに「何か新しいものないかな〜」という視線をあちこちに撒き散らしながら歩くようになる。資本主義は、資本主義社会で生きる人たちにそういう体の動かしかたを身につけさせてしまうのだ。そういう人たちに商品を売るためには、商品そのものを見せるだけでなく、広告を見せて商品へと誘導するという方法が効果を発揮する。

 だから、どんなに都市社会が抑圧しても、広告は存在しつづける。都市社会が、トリッキーでいかがわしいものを嫌ったとしても、広告は、都市社会の「良識」の担い手に気づかれないようにますますトリッキーになり、都市社会に隠れて行くことになる。

 広告の「啓示」効果を求めて、また、広告を抑圧しようとする都市社会の「良識」から逃れるために、広告は隠れていく。

 

 都市社会と一体化する広告

 しかしそれは東京ではだいたい一九七〇年代までの話だ。北田さんがカッコ付きで〈八〇年代〉と呼ぶ「一九八〇年代的な時代」(厳密に一九八〇年から一九八九年までではなく、日本が世界第二位の経済大国の地位を確立してからバブル崩壊に至るまでの時期あたりを指す)には、その「都市に隠れる広告」という方向性は変わってくる。広告は、隠れるかわりに、都市社会と一体化してしまうのだ。

 北田さんは、そうして生まれた「広告都市」が東京の渋谷だという。

 しかも、広告や広告の担い手たちは、都市社会の「良識」の中枢にまで進出する。そして、都市社会の「良識」を「広告のない都市社会は考えられない」とか、「都市から広告を追放するのではなく、都市と広告の良好な関係を築くことが重要だ」とかいうものに変えてしまう。

 それを象徴するのは、やっぱり「広告都市渋谷」の仕掛け人であった西武百貨店の堤清二だろう。『嗤う日本の「ナショナリズム」』に出てくるように、堤清二は、渋谷の街を「広告都市」に変えた企業の経営者であるとともに、詩人であり、小説家であり、岩波新書から本を出すような硬派な評論家(筆名は辻井喬)でもある。

 堤清二は、「文化」を仲立ちにして、「都市社会」と「広告」を融和させていく。「都市社会」と「広告」が直接に結びつかないのならば、「都市社会と文化」と「文化と広告」を結びつけていけばいいという発想だ。そして、資本の人であるとともに文化人でもあった堤は、その発想の実現に成功する。

 

 パルコ

 堤の資本が「広告都市渋谷」を作り上げていく拠点となったのが―『嗤う日本の「ナショナリズム」』にも登場する―パルコ(PARCO)だ。

 パルコは店舗の内部を「街」のように演出した。つまり、百貨店のなかを歩いていても、あたかも専門店街を歩いているように感じるよう、店内を整備した。と同時に、パルコを拠点とする街区の開発を通して、パルコの外をパルコの内部と同じように演出する。そうして、堤の率いる西武百貨店資本は、パルコの建物の内部もその外側も同じような「パルコ的空間」に仕立て上げた。その結果、渋谷の「公園通り」―この通りの名まえを決めたのがそもそも西武百貨店資本らしい―は、パルコという店舗自体もその周辺も含めて「パルコの空間」へと変貌していった。街自体がパルコの広告としての機能を果たすようになったのだ。もともと渋谷を本拠にしていた東急がこの動きに追随し、「広告都市」としての渋谷ができあがる。

 

 社会の記号論化

 広告都市渋谷の成立には、世のなかの側の変化も大きい影響を与えている。

 それは、「社会の記号論化」とでも呼ぶべき変化だ。それは、「表現とは、何か表現されるものが存在してはじめて成立する」という考えかたが説得力を失い、「表現は表現のみで成立し、表現に存在意義を与えているのは、表現されるものの存在ではなく、他の表現との関係である」という考えかた(記号論)が実感をもって受けとめられはじめたという変化だ。『嗤う日本の「ナショナリズム」』で使われることばで言えば、「コピーライターの思想」の成立である。

 広告というものに即して具体的に言うと、広告は、その広告で売ろうとしている商品がどんな商品かということよりも、ほかの広告との関係でその存在意義を持つような社会が成立したということだ。こういう社会では、商品のよい点を効率的にアピールするよりも、他のどんな商品の広告よりも人びとの心により強い鮮やかな印象を残すことが広告の成功の条件になってくる。その商品が何なのかがわからなくても、ともかくインパクトの残る広告を打ったほうが勝ちなのだ。

 

 記号論化した社会での消費行動

 しかも、そういう社会では、商品を消費するという場面でも、その「記号論」的な性格が重みを増す。ある商品を消費するのは、それが生きるために必要だからでもなければ、それが自分にとって快適だからですらない。消費行動で重要なのは、他の人の消費行動との関係である。「あの人がその商品を消費している、だから私もその商品を消費する」(「あの人がWWFの同人誌を買ったから、私もWWFの同人誌を買おう」とか)とか、「あの人はあの商品を消費しているから、私は少し違ったこの商品を消費しよう」(「あの人はアトリエそねっとの同人誌を買ったから、私はWWFの同人誌を買おう」とか……あ、これ広告ね)とかいうことが、商品を消費する基準としての重みを増していくのだ。

 その基準は「人」でないばあいもある。「この街に行くときにはこの服を着て行く、でもこっちの街に行くときには別のブランドの服を着よう」というふうに、「どこに行くか」が基準になることもある。ともかく、どういう服を着れば快適かよりも、だれと、いつ、どこへ行くかというようなことが服を選ぶ基準になるような社会が「記号論化した社会」である。一般化すれば、「記号論化した社会」とは、どんな商品を消費するかが、その商品の実用上の価値よりも、その時や場所や他の人との関係によって決定されてくる社会だ。

 広告都市渋谷は、そういう社会の変化に即して成立してきたと北田さんは言う。広告を、商品との関係で―「商品を売るための広告」として―だけしか捉えられない社会には広告都市は存在しにくい。しかし、広告は、「商品を売りたい」というがめつい根性の上にではなく、他の広告との関係のなかに存在すると捉えて、広告も一つの「文化」だと認知される社会であれば、広告都市は十分にその存立の場所を得ることができるだろう。

 

 シャットアウトされる三つの「外部」

 そして、その広告都市渋谷は、じつは「外部」をシャットアウトすることで成り立っていると北田さんは言う。

 シャットアウトされている「外部」の一つは、その都市を成り立たせている資本の存在だ。

 資本が、商品を売って儲けるために「文化」っぽいものを演出し、その演出に誘い出された消費者が商品を消費して資本を儲けさせる。たしかに現象として起こっているのはそういうことだ。しかし、消費者がその広告都市ものを消費する局面では、そのことは重要ではない。消費者が広告都市にやって来るのは、自分の必要を満たすためでもなく、もちろん資本を儲けさせるためでもなく、そこの「文化」に触れ、その「文化」のなかに身を浸してみたいからである。それに対応して、資本も、売るために「文化」を演出するのではなく、「文化」は「文化」として商売とは別に演出してみせる。少なくとも、あるものを売りたいから「文化」を演出しているなどとかんたんに見抜かれるような演出のしかたはしない。

 シャットアウトされている「外部」の二つめは、その都市に対する批判だと北田さんは言う。

 もっとも、「批判のシャットアウト」は、全体主義国家の言論統制のようなやり方で実現されているのではない。逆に、批判を都市の一部にあらかじめ取りこんでしまうことで、批判を批判でなくしてしまうのだ。広告そのものや、広告都市を成り立たせている社会を分析し、「だから問題だ」と批判してくる動きに対して、その分析を受け入れた上で、「そうですよ、でも何も問題ないでしょう? あなたが批判するのは自由だけど、ここではそれでうまく行っていますよ」という状態を先取りして作り出してしまう。批判の内容を先取りして、批判が批判として成り立たなくしてしまうのだ。

 そして、もう一つ、シャットアウトされているのが、「私らしさ」とでも呼ぶべきものだ(「個性」というのとはちょっと違うように思う)。

 広告都市に行くときに着ていく服や持っていく小物は、自分に合わせてではなく、都市に合わせて決めなければならない。もちろんべつにどんなかっこうをして行ったっていいのだが、その街の「文化」に触れ、参加しようとすれば、それなりの装いが要求される。これは、消費が、その人の欲求や快適さを基準に決められるのではなく、他の消費者や消費する場との関係で決められることの結果である。

 

 「見られている」ことの息苦しさ

 この「記号論的広告都市」渋谷に行く人たちは、もちろんその「記号論的広告都市」に触れ、身を浸し、その「文化」に参加することを自ら望んで行くのだろう。それがいやならば行かなければすむだけの話だ。だが、自ら望んで渋谷に行く人たちは、同時に、不安や息苦しさにもつきまとわれたはずだ。なぜなら、渋谷に現れるということは、他の人に、たとえば「あの人は渋谷であんな服着てるのね、ふーん、じゃ私はこっちの服着て行こう」と思うときの判断基準にされてしまうことでもあるからだ。どこの店に行き、何を買い、どこで何を飲み食いしたかというそのすべての行動が、直接・間接にだれかに見られ、それが他のだれかの行動を決めるための「ネタ」にされてしまう可能性がある。

 もちろん、渋谷には、パルコ界隈に限ったところで一日に大量の人が訪れるのだから、ある一人の人が他の人の行動を決める「ネタ」になる可能性は低い。低いけれど、それでもけっしてゼロにはならない。なにせ自分は(雑誌などを通して間接的であるにせよ)そういう他の人の行動についての情報を集め、それをもとにしていま渋谷に来ているのだから。そのことから来る不安や息苦しさである。北田さんは、ベンサムが発明し、フーコーが紹介して有名になった「パノプティコン」を引き合いに出して、その不安や息苦しさを説明している。

 

 この本の渋谷像はやや理想化されている

 ところで、著者紹介によれば、北田さんは一九七一年生まれで、東大卒ということだ。北田さんが渋谷にほど近い(京王井の頭線で二駅)駒場キャンパスに通っていたのは一九八〇年代末から一九九〇年代初めということになる。つまりパルコが渋谷を「広告都市」に変えていった時代を直接に体験しているわけではない(北田さんの個人史は、東浩紀さんのメールマガジン『波状言論』05号で詳しく触れられている。ちなみに、同じメールマガジンの06号では、『嗤う日本の「ナショナリズム」』へと続く問題意識が語られている)。

 で、私は、一九八〇年代半ばに下北沢(京王井の頭線で駒場東大前からさらに二駅。『魔法遣いに大切なこと』の舞台ですよね)から少し離れたあたりに住んでいて、そのころには渋谷にもよく行った。渋谷「広告都市」化の完成期あたりだ。とくに、渋谷駅近くの巨大スーパー「ニュークイック」には、安い肉のまとめ買い(往復の電車賃を入れても近所のスーパーで買うより安かったのだ)という、およそ「記号論」らしからぬ目的で―まさにその商品で自分の欲求を満たすために―よく行っていた。

 その時期に私が実際に感じたことから言うと、この本の渋谷像はやや理想化されているように思う。もちろん、私の実感からしても、一九八〇年代半ばごろの渋谷に「記号論的広告都市」という面があったことは確かだ。でも、そういう「広告都市」性に無縁な消費行動をとる当時の私のような貧乏な若者にもさして居心地の悪い都市ではなかった。私は渋谷がべつに好きではなかったけれど、レコードの海外盤から安い肉までなんでも買える街として、渋谷によく出かけていた。北田さんが「一九八〇年代が終わった後」の渋谷の性格として挙げている性格が、一九八〇年代当時の私にとっての渋谷のイメージだった。だから、「とくに好きでもないけど便利だから行く街」としての渋谷は、一九八〇年代にも「広告都市渋谷」の下の層にきちんと存在していたように私は実感している。ちなみに、この時代、京王井の頭線の渋谷駅(現在より山手線の駅に近い場所にあった)から山手線側に渡ってハチ公前広場の横に下りる階段には「日本共産党は二段階革命論だ」という無粋な殴り書き的落書きがあったのを覚えている。沿線の東大とか明大とかの左翼学生さんが書いたんだろうけど。

 

 一九八〇年代的な渋谷の消滅

 さて、その広告都市渋谷は、一九八〇年代的な時代が終わるとともに、変容し、消滅する。渋谷が消滅するのではなく、「広告都市渋谷」が「普通の都市渋谷」に変化してしまったのだ。

 なぜそうなったか?

 一つは、資本の存在とか、「広告文化」に対する批判とか、「私らしい私」とかいう「外部」が遮断(シャットアウト)しきれなくなったからだ。というより、それを遮断しておく必要が感じられなくなったことが、渋谷の変容を引き起こした。

 どうして「外部」のシャットアウトが消滅したかという動態について、北田さんは必ずしもきちんと説明していないように思う。そこで、北田さんが書いている変化に注目して僭越ながら私が解釈すると、要するに、そこに来る人が、資本とか批判とか自分らしさとかが「広告都市」に持ちこまれることを気にしなくなったからだろう。

 資本や批判や「私らしさ」がシャットアウトされていたのは、そういうものが目につくと「広告都市の都市らしさ」とか「広告都市の文化」とかいうものが失われるからだ。しかし、都市に広告があってあたりまえという視線に人びとが慣れてしまうと、資本が都市を広告に使って儲けようとしていることにも別に不快感は感じなくなるだろうし、批判があっても街に来る人の側が最初から気にしなくなるだろう。「都市は、清潔で、公平でなければならない」というかつての「都市社会の良識」が完全に消滅した都市では、広告は「広告都市」を作り上げてそこに潜む必要もなくなる。「文化」で批判を封じこめ、資本の論理をくるんでソフィスティケートする必要もなくなるから、「文化」の出番がなくなってしまうのだ。

 そうなると、渋谷は、「文化」を求めて人びとが集まる街ではなく、べつに好きでもないけどたんに便利だから人が集まる街へと変容していく。変容というより、「地下鉄二本、私鉄線が二本と山手線が乗り入れているターミナル」から来る渋谷の「もとのあり方」がまた現れてきたのである。

 しかも、そうなった渋谷を待っていたのは、人びとのつながり方の変容だった。

 

 「不安」の逆転

 一九八〇年代的な渋谷に集う人びとの「不安」は、だれかに見られているかも知れないというものだった。しかし、インターネットと携帯電話の普及で、渋谷に集うことの魅力を感じなくなった人びとの「不安」のあり方は逆転した。かつて渋谷に集っていたような人たちがいま感じている大きな不安とは、インターネットに自分が発信した情報をだれも見てくれていないのではないかということだ。「見られていることへの不安」から「見られていないことへの不安」への逆転である(北田さんの本のこの部分は、東浩紀・大澤真幸『自由を考える』二〇五〜二〇六ページでも言及されている)。

 「見られていないことへの不安」が高まることで、コミュニケーションのあり方に変容が起こる。

 

 コミュニケーションに大切なこと

 だれかが何かを伝えようとするとき、そこで重要なことは、伝える相手がいることと、伝える内容がなるたけ正確に伝わることだ。

 このうち、「相手がいること」は、この「見られていないことへの不安」が浮上するまではあまり重要な要素ではなかった。「内容を正確に伝えること」のほうがずっと重要だった。マスコミで働いているような人はともかく、そうでない一般の人たちは、何かを伝えるときには具体的に相手が決まっているのが普通だったからだ。だから、自分の考えていることを相手にどう誤解なく十分に伝えるかだけが主要な関心事だった。また、マスコミのばあいには、一定数の受け手がいるのは最初から明らかなので―でなければ「マス」(大衆)コミュニケーションとして成り立たないだろう―、やはりその不特定多数の相手にどう伝えるかのほうが重要だった。

 しかし、現在では、インターネットに接続できる人全員が、不特定多数の人間に何かを伝えることができる。そうなると、その全員が、自分の書いたものをだれかに読んでもらえるとは限らなくなる。インターネット普及前には自明のことだった「伝える相手がいること」という要素が自明ではなくなった。「伝える相手」は自分で獲得しなければならない相手になったのだ。

 

 コミュニケーションの分解

 そこで、コミュニケーションのあり方は二つの方向に分解する。一つは、「伝える相手」がいることを前提に、いかに正確に十分に自分の言いたいことを伝えるかという点に重点を置く、従来型のコミュニケーションである。そして、もう一つが、誤解されても叩かれても相手が傷ついてもいいから、それどころか「伝えたい内容」なんかなくてもいいから、ともかく自分の書いたものを受け取ってくれる相手を確保することを目指すコミュニケーションである。

 従来型のコミュニケーションでコミュニケーションを継続しようとしたら、正確に十分に言いたいことを伝えるだけでなく、伝える内容も相手が受け入れうるようなものでなければならない。あまりに突拍子のない内容だったら、相手に理解してもらえず、コミュニケーションが続かないからだ。だから、その内容は、多くの人に理解してもらえる程度には穏当な範囲に収まる。あるいは、言っていること自体は「過激」であったとしても、それを相手に理解可能な論理に載せて表現することが必要になる。「過激」な内容も、その表現方法は穏健なものにしておかなければ受け入れてもらえないのだ。そのため、従来型のコミュニケーションは、社会の秩序を破壊しないような方向に方向づけられていく。

 しかし、「伝える相手」を確保することを目標とするコミュニケーションでは、そのような秩序志向は最初から存在しない。むしろ、秩序破壊的で過激であったほうが、「伝える相手」を確保しやすいだろう。伝えられた相手から返ってくるのが反発や反感やからかいでもかまわないのなら、一方的な決めつけや、根拠のない罵倒や、あまりにツッコミどころの多すぎる間の抜けた発言でかまわない。というより、そのほうが効果的だろう―考える手間も省けるし。

 この「伝える相手」確保型のコミュニケーションについての考察が『嗤う日本の「ナショナリズム」』につながるのだろう。でも、この『広告都市・東京』では、話が「都市と広告」のほうに戻って行ってしまうので、2ちゃんねるの話とかには行かない。ただ、この「伝える相手」確保型のコミュニケーションの説明は『嗤う日本の「ナショナリズム」』よりもこの本のほうがていねいな印象はある。

 

 なぜ「不安」は逆転したのか?

 ところで、かつて「見られているかも知れない」ことを恐れていた人たちが、一九九〇年代後半以後、「見られていないかも知れない」ことを恐れるようになったのはなぜだろう? インターネットへの接続が容易になり、携帯電話が普及したという技術的条件はある。で、問題は、その技術の変化が人間性そのものを変えてしまったのか、それとも人間性はそのままなのかということだ。人間性そのものを変えてしまったと見ると、東浩紀さんが『動物化するポストモダン』で論じている内容に近くなる。

 で、私が読んだところでは、北田さんは、人間性が変わってしまったとはあまり考えていないように読める。

 人間はかつて「見られているかも知れない」という不安を感じていて、「見られているかも知れない」などという不安の存在を想像することすらなかった。けれども、実際に「見られているかも知れない」という不安をもたらしていた条件―つまり「広告都市」の存在―が崩壊してみると、急に「見られていないかも知れない」という不安に気づく。そこで、こんどは、その不安を打ち消すために、「見られている」ことの証明を求めようとする。

 人間が不安を感じ、その不安から逃れたいと思っていることには変わりはない。違うのは、「広告都市」ではいつも「見られているかも知れない」という不安にさらされたとしても、それに対処する方法は、「広告都市に行かない」か「不安を抑えて広告都市に行く」しかなかったのに対して、ネットでは「見られていることの証明」を自分から求めて不安を解消する方法が得られるということだ。

 

 データベース都市秋葉原

 その時代を代表する都市は秋葉原であると、北田さんは、東浩紀さんや森川嘉一郎さん(『趣都の誕生』)を引用しつつ論じる。

 都市の役割は、「伝える相手」を獲得するための「ネタ」を提供するための「データベース」となることだ。だから、「伝える相手」を引きつける力の強い要素(つまり「萌え要素」)をたくさん持った秋葉原のような都市が時代を代表する都市になる。そして、秋葉原自体が、より多くのより強力な「萌え要素」を求める動きに応じて変化していくというわけだ(秋葉原がほんとうにそう変化しているかというと、そう変化しているところもあり、そうでないところもあり……という感じはするけど)。

 

 新しい「批評」を求めて

 そういう「伝える相手」確保型のコミュニケーションに対しては、従来の「批判精神」はまったく役に立たない。そうすっぱり切り捨てる北田さんの論調は「諦めの境地」っぽくて清々しくさえある。

 だが、「伝える相手」確保型のコミュニケーションがコミュニケーションの主役にすわった社会でも、広告は死滅しないし、それどころか、広告はそれに即応して進化するだろう。なぜなら、広告は資本主義社会の生命線(ライフライン)だからだ。

 北田さんは、そこで、広告が生き残る以上は、広告に対する批評も死に絶えるわけにはいかないと、あらためて軽やかに闘志をかき立てる。批判の精神とか批評の方法とかも、広告と同じようにトリッキーに進化し、少なくとも広告の変化に追随すること、できれば広告をアウトレインジして先回りすること―北田さんはその具体的な方法を模索している。

 その模索は、たぶん、『嗤う日本の「ナショナリズム」』でも続いていると見るべきなんだろうと思う。

 でも、広告と同じように、街を無目的に歩いている人に「あっ!」と思わせて注目させるような批評とか、都市と批評が一体化してしまって区別がつかなくなるような批評とかいうのは、実現するのは難しいと思うよ。まして、その先に進むなんていうのは……。

 

 

〈意味〉への抗い

メディエーションの文化政治学

せりか書房、二〇〇四年

 

 Moon Light Love

 メディア論である。ベホイミ論もたぶんある。しかし私が興味があるのは芹沢茜論である。何と言っても沢城キャラだし。

 沢城キャラというと、mediaというのはじつは複数形で、単数形はmediumで、この語は英語読みすれば「ミーディアム」になる。どうして他の単語はドイツ語にこだわるのに(まあmaidenを「メイデン」と読むのは英語読みだけど)、この単語は英語読みなのだろう。

 ―と、深夜アニメのネタを二本つづけたところで、「本題」に入ろう。

 いや、「本題」といっても、私がいちばん言いたかったことはここまでで終わっている―などということは北田さんにはないしょだ。

 いや、でも、わかってくださいますよね、北田さんなら。

 何せ、「メディア」ということばで最初に思い浮かべるのがあのキャラだったもので。

 ……まあ、北田さんはわかってくださることにして、先に進もう。

 

 「アイロニー」についての寄り道

 ところで、こういうのが北田さんの言う「アイロニー」なんだろうなぁ。『ぱにぽにだっしゅ』と『ローゼンメイデン トロイメント』を見てない(見ていなくてもネットとか仲間とかから情報が入っていればいいわけだけど)読者には何のことかわからないわけだから。

 いや、書いてるほうのつもりとしては、「アイロニー」なんて大それたものではなく、ただのうちわ受けなんですが。

 ところで、「アイロニー」と「うちわ(内輪)受け」ってどこが違うんだろう?

 多くの人に「アイロニー」と認めてもらえれば「アイロニー」で、認めてもらえない「アイロニー未遂」が「うちわ受け」なのかな? つまりあるコミュニティー(コミュニティーの数は複数かも知れない)の内部でだけ通用してその外部では意味を理解しようとすらしてもらえないのが「うちわ受け」で、一部のコミュニティーを超えて広くその意味を理解してもらえれば「アイロニー」なのか? だとしたら、ある表現を「アイロニー」と理解する―どういう「アイロニー」かはわからなくても少なくともそれが「アイロニー」だと理解する―コミュニティーの数が増えれば「うちわ受け」は「アイロニー」になるのか? つまり、「ある表現をアイロニーとして理解しなければならない」という約束ごとを持つコミュニティーが拡大すると、その約束ごとはコミュニティー内部だけではなく、大げさに言えば全世界を覆いつくす約束ごととして通用するようになるのか? う〜む、これはリバタリアン‐コミュニタリアン論争にも大いに関わりのある論点のようだ。だから『ぱにぽに』を見て「〈帝国〉」を語ろう!

 ―などと意味のないことを書くのはここまでにして、いいかげんで『〈意味〉への抗い』についての話に入ろう。

 

 『〈意味〉への抗い』

 この『〈意味〉への抗い』は、北田さんが二〇〇〇年から二〇〇四年までに書いた論文を集めた論文集だ。一本だけ一九九三年の論文が入っている。一九九三年って……大学の四年生か大学院の修士一年じゃないですか。その年齢で書いたのが第一章の「観察者としての受け手」で、……なんかすごい難しいんですけど、この論文。

 しかも、この論文によると、大学の指導教員が就職推薦書に「人付き合いがよく、運動能力抜群で、小生の授業にも休むことなく毎回出席しております」と書いたら(二四ページ)、それは「テニスとスキーと飲み会にばっかりうつつを抜かしていて、授業には毎回出てはいるけどこいつ何も聴いちゃいませんぜ」という意味に読まなければならないんだそうである。これは初めて知った。いや〜、ダイガクって怖い世界だねぇ。でも、この推薦書をもらった学生のほうが、「非常に熱心に学問に取り組みました」という推薦書をもらった学生より就職できる確率がたぶん高い―企業の採用担当者が指導教員の「皮肉」をきちんと読み解く能力があれば、だけれど。だから、キギョーというのもやっぱり怖い世界である。

 ともかく、この本の文章は第三章「ヴァルター・ベンヤミン―反メディア論的省察」までがやたらと難しく、第四章の「リアリティ・ワールドへようこそ」からは、それまでと較べれば取っつきやすくなる―内容がわかりやすいかどうかは別として、だけど。もしかすると、この本は映画『トゥルーマン・ショー』(『広告都市・東京』でも紹介されている。というより、この章は『広告都市・東京』に対する批評への回答だ)を扱った第四章から読んだほうが挫折せずにすむかも知れない。

 第T部「メディエーションの理論」は理論編で、「メディア論」の樹立者マクルーハン、社会学者ルーマン、哲学者ヴァルター・ベンヤミン、「読書史」の歴史家シャルチエ、一九二〇〜一九三〇年代の日本の映画批評家中井正一らの理論や「メディア論」的映画『トゥルーマン・ショー』を検討しながら、北田さんが自分の理論を展開していく部分である。第U部「メディエーションの現場」は各論で、Jポップの歌詞、学術論文、映画と「声」などのそれぞれの「現場」に即して北田さんの「メディア論」が展開される。

 

 メッセージだけでメディアは語れない

 この本に収録してある論文に共通するのは、メディアはメディアが伝える内容(「メッセージ」)だけでは語れないという北田さんの主張である。

 メディアとは何かを伝えるものなのだから、だれが、だれに、いつ、どこで、どんな状態で伝えたかがまず重要だ。それによって、「メディアで何が伝わるか」ということが変わってくる。まじめに聴くつもりが最初からない人びとに向かって、いくら論理的に明晰に組み立てた議論を一時間とか二時間とかにわたって展開してみても、まずその目的を達することはできない。相手は寝てしまうか、話の途中で帰ってしまうか、それとも怒り出すかだろう。たとえば、コミケで、男性向け創作の壁サークルに列を作っている人たちに向かってベンヤミンのメディア理論の新解釈みたいな議論を展開するばあいだ。どんな論理的な理論も、まじめに聴くつもりのない相手には、たとえば「さあつまらない話をしますからどうぞ眠ってください」という「メッセージ」としてしか伝わらない。というより、そういう「メッセージ」として伝わってしまう。

 それなのに、これまでの「メディア論」は、メディアが伝えようとした「メッセージ」は伝えようとした内容の通りに伝わるものだという前提で議論してきた。

 

 二月一三日深夜の恋する女子生徒と『囲碁の時間』

 メディアの受け手が「メッセージ」にまともに取り組むとは限らない。むしろ、メディアの受け手(読者とか視聴者とか)がメディアの「メッセージ」を時間をかけてじっくり論理的に読み解こうとすることなど、よほど例外的なできごとだろう。たとえば、バレンタインデーにチョコレートケーキを自分で作って好きな男子生徒(いや、敬愛するお姉さまでもいいんですけどね)に渡そうという女子生徒は、「チョコレートケーキの作りかた」みたいな本を細かいところまで懸命に読むに違いない―って想定がアニメっぽすぎ? まあ、バレンタインとは言わなくても、晩飯のおかずに困っているときの料理番組とかはわりとまじめに見るだろう。でも、もう作るおかずが決まってるときとか、最初から自分でメシを作る気がないときとかは、料理番組を見ても、「あ〜肉じゃがか(べつにビーフカレーでもいいけど)、前もどっかの料理番組でやってたな〜、変わり映えせんなぁ」と思うだけで、内容は聞き流してしまうに違いない。それが普通だ。

 たとえば、いま私はNHK教育の『囲碁の時間』の対局を聞きながらこの文章を書いている(たぶん『囲碁の時間』はもうすぐ終わると思う)。でも、画面もほとんど見ていないから、だれとだれが対局して、その二人の対局者はどんな経歴のどんな個性のある人で、いまどんな情勢なのか、ぜんぜんわかっていない。というより、私は囲碁は知らないのだ。昼前まで『将棋の時間』を見ていて(毎回見ているわけではないけど、今日はいちおうまともに見ていた。ところで、解説者が下手なときには、聞き手の千葉涼子女流王将が一人で解説したほうがいいんじゃないかとか思ってしまうなぁ。どうでもいいけど)、そのままテレビがつけっぱなしになっているだけである。消してもいいんだけど、テレビが消えてると何かさびしいからつけっぱなしにしている(地球環境の敵?)。そして、囲碁ファンの人たちにはほんとに申しわけないけど、私はテレビとはこんなふうに見るのが普通じゃないかな、と思ったりする。

 

 「メディア論」の想定と北田さんの議論

 ところが、「メディア論」は、まともに時間をかけて読解して得られた「メッセージ」をもとに議論を展開してきた。その「メッセージ」がきちんと伝わらないこともあるけれど、それは努力しだいで回避し得る異常な例外的事態だと最初から想定されていた。「メッセージ」の受け手がもっと注意深く読むか、それとも送り手が論理的に明晰に伝えるかすれば、送り手が伝えたかった「メッセージ」はきちんと伝わる。そういう想定だった。つまり、「メディア」が何かを伝えようとしてきたときには、受け手はいつも好きな男子生徒や愛するお姉さまに自作のチョコレートを渡そうと必死になっている女子生徒のように懸命に「メッセージ」を読み解かなければならないというわけだ。

 北田さんはそういう想定を白紙に戻してしまう。

 メディアの送り手が想定した「メッセージ」が、その送り手の意図どおりに伝わることもあるだろう。しかし、意図どおりに伝わらないことだってある。そして、「送り手の意図どおりに伝わる」ことと「送り手の意図どおりには伝わらない」ことのあいだには、優劣の差はない。片方が正常でもう片方が異常という関係ではない。両方とも当然にあり得ることだという想定でまず考えなければならない。全世界の人間が、あらゆるメディアに接したときに、いつも「アニメに出てくる二月一三日深夜の女子生徒」みたいに必死にその「メッセージ」を読み解こうとするなんておよそありえない非現実的な想定だからだ。私がいま『囲碁の時間』を見ているような状態、いや、たぶんそれ以上に気の散った状態でメディアに接するのが、「正常」とは言わないまでも、むしろ普通だろう。

 

 近代の文章メディアの特殊事情

 ちなみに、私のこの文章は、「チョコレートケーキの作りかたの本を読む二月一三日深夜の女子生徒」とまではいかなくても、いちおう「送り手のメッセージを、送り手の意図どおりに読み解く」という読みかたをされることを前提に書いている。そうでない人は、ここまで到達する以前に読むのをやめているはずだという想定からだ。つまり、本を読む人は、普通は「まじめにメッセージ(書き手が伝えたいこと)を読み解こうとする」か「読むのをやめる」かどちらかで、読むのをやめた人はここは読んでないはずだから、「まじめな読者」だけを相手に書いていればいい。そう考えているのだ。

 これはたぶん私だけではない。北田さんの本だってそういう想定で書いてあるはずだ。っていうかさぁ、この本ってやっぱり「現代思想」用語がある程度はわかってて、「現代思想」特有の言い回しとかに慣れてないとすごい読みづらいよぉ。

 近代的な文章はわりとそういう「まじめな受け手」だけを相手にしていれば成り立つ分野だ。そして、その近代的な文章をめぐる状況をあたりまえのこととして「メディア論」を組み立ててしまったために、北田さんが指摘するような問題点が出てしまったに違いない。

 しかも、この本に紹介されているシャルチエや前田愛(『ガメラ』に出ていた人ではありません。って『ガメラ』じゃ古い?)の「読書史」論によれば、文章の読み手が「まじめに文章を読むものだ」という想定だって、近代になって―日本だと明治の中ごろあたり―はじめて通用するようになったものだ。

 それまでの「読書」には、本を持っていること自体に権威があるとか、文字を読めない人がだれかの朗読を聴くのが普通だったとか、多様なかたちがあった。その時代には本というのは声に出して読むのがあたりまえで、「一人でじっと黙読する」という読みかたが音読を圧倒するのは近代になってかららしい。読書が、地味で、孤独で、静粛な環境を必要とするしんどい仕事になったのは、近代になってからなのだ。

 

 余談―小学校では「相互読み聞かせ」授業をやろう!

 学校教育のなかで私たちは孤独でまじめな読書を徹底して叩きこまれる。小学校の低学年では音読をさせられるが、学年が進むにつれてしだいに本を黙読するように仕向けられる。音読自体は高校でもやらされるが、それは、つながりの難しい文や新出漢字をちゃんと読めるか―つまりちゃんと予習してきているかのチェック手段にすぎない。いや、小学校の音読だって、ちゃんと姿勢よく立って、ちゃんと本を持てて、ちゃんと声を出して、読み終わるまでちゃんと立ちつづける力の訓練のためにやっているのであって、「声を出して本を読む」こと自体に価値を見出しているわけじゃない。

 それを考えると、小学校では、「教師が当てて教科書を読ませる」というのだけじゃなくて、「小学生どうしでグループを作って、一人が自分の好きな本を音読して、ほかのみんながそれを聴く」みたいな「相互読み聞かせ」教育をもっとやっていいんじゃないかな、と思う。そこで、自分がしゃべっているあいだにおしゃべりされる、寝られる、声が小さくて何を言っているかわからないと苦情を言われる、自分は感動して読んでいるのに聞き手に「それでそれの何がおもしろかったん?」と訊ねられて拍子抜けする、自分ではどうでもいいと思っているところに感動されてとまどう―なんていう経験を、小学生のときからいっぱい身に積んでおくことが、すごくだいじなんじゃないかなと私は思うのだ。そういう経験を積んでないから、近頃の若い者はディスコミュニケーション(コミュニケーションの失敗)状況が発生するといきなりぷち切れたりするんだよ。まあ私もよくぷち切れるから近ごろの若い者のことを一方的に非難はできないけど―というか、自分がそうだから、「相互読み聞かせ」みたいな教育があったらよかったのになぁ、とか思ってるんだけど。

 小学校から高校まで「自分で調べて発表する」という授業はいちおうあるにしても、よほど積極的な取り組みをする生徒でなければ―またはよほど積極的に考えて取り組んでいる学校でなければ―、それは「教師が先に知っている正解を探りあてる」という枠内にとどまりがちだ。正解があるわけでもないテーマについて自分で調べて、出席者にわかるようにプレゼンして、出席者から反応をもらうという授業を大学のゼミまでやらないというのは、やっぱりよくないよなぁ。いや、大学のゼミでさえ、やっぱりじつは教員が知っている知識に合うかどうかを試されるので終わってしまう例がけっこうあるのではないか(理系とか、卒論指導が厳しい文学部とかはよく知らないけど)。教員もよくわからないようなことを自分で調べてプレゼンを組み立てるなんて訓練は大学院までやらない、大学院に行かない人は社会に出て「プレゼンやってみろ」と言われてはじめて訓練が始まる―なんて実態があるんじゃない? いや、そうでなければいいと思うけどさ。

 思わず放談してしまった。

 えーと……何の話だっけ?

 

 「黙ってまじめに」メディア論

 ともかく、私たちは、学校教育で、「本は黙ってまじめに読むものだ」という大原則の下で、その「まじめに読む」ための技術を教えられる。その技術自体が学校教育で十分に伝えきれるとは思わない―自分の経験から考えても―が、少なくとも「本は黙ってまじめに読むものだ」という大原則は雰囲気として叩きこまれる。だから、私たちは、本とか印刷された文書とかのメディアに対しては、「黙ってまじめに読まねば」というアプローチで接し、読んでもわからなさそうだと最初から投げ出してしまう。本や文章中心の雑誌、そしてたぶん「評論」系の同人誌はそういう前提で書かれている(いや、お酒系評論サークル「アトリエそなちね」の本みたいに、萌え絵のほうにもけっこう力点を置いているサークルさんもありますけど……ってこれは広告でした)。

 また、学者というのは、そういう「本は黙ってまじめに読むものだ」という大原則の下で耐えに耐え、その「本を黙ってまじめに読む技術」を身につけた人間だ。学校教育の「勝ち組」である。そういう人が「メディア」について考えるから、「メディアから伝えられる情報は黙ってまじめに受け取るものだ」という想定でどうしても議論してしまうのだ。

 

 その限界

 で、もちろん実態はそうではない。たとえば、北田さんが論じてきた「広告」というのは、「メディアから伝えられる情報は黙ってまじめに受け取るものだ」という想定がまったく通用しないメディアである。映画もテレビもそうだ。ラジオは、テレビに較べれば比較的「黙ってまじめに聴く」という想定が通用しやすいメディアだと思うけど―そういえば、北田さんの論文にはラジオ論・ラジオ番組論はないな。テレビが普及するまで、ラジオは人びとの娯楽にけっこう大きな重みを占めていたものだと思うのだけど。まあ、ラジオとか一九七〇年代ごろまでのテレビ番組とかはあんまりちゃんと残ってないからね。台本が残っていても、北田さんのような方法での研究では役に立たないし。

 さらに、インターネットの普及後は、文字メディアでさえ、「黙ってまじめに」読むものではなくなってしまった。「黙ってまじめに読む」崩壊後の文字メディアに北田さんが取り組んだのが、『嗤う日本の「ナショナリズム」』なのだろう。見かたを変えれば、「黙ってまじめに読む」の通用しないメディアを論じてきた北田さんに、文字メディア―インターネット上の掲示板―を論じる余地が生じてきたこと自体が、文字メディアをめぐる大きな変化をよく表現しているのだ。

 

 近代の「良識」の圧力

 しかし、それは学校で教えられる近代の「良識」が最初から学校の外ではまったく影響力を持たなかったというわけではない。『広告の誕生』で見たように、二〇世紀前半には、「良識」の外の世界にも、絶えず「良識」に合わせて自らを変えて行けという圧力がかかりつづけていた。その圧力から逃れられたのは一部の女性雑誌などだけで、しかも、それと引き替えに、そういう女性雑誌の読者は「女は誘惑に弱い」というような偏見を引き受けなければならなかった―意識して偏見を引き受けていたかどうかは別として。

 北田さんは、この『〈意味〉への抗い』では、映画を主な素材としてその「良識」の圧力を明らかにして行く。

 映画が日本で普及し始めたとき、映画は、ろくでもない、いかがわしいものだと認識された。映画館は低俗な場所だとして「良識」的な人たちから忌み嫌われた。当時の映画は音の入らない無声映画だし、映写機も手回しだ。映写技師が回す映像に合わせて、弁士が大声で大げさでえーかげんな説明をつけ、低俗な楽隊が煽情的でえーかげんな音楽を鳴らす。映写技師も、客がたくさん入っているときには早回しして客の回転を上げるというえーかげんさだった。そして、それを見る客のあいだには、弁士の説明を疑い、映写技師の腕前にケチをつけるという「騒々しさ」があった。映像上の技法としてのコマ落ちを、技師が下手なので映写速度が速くなっているのとかんちがいしてツッコミが入るようなことも起こっていたらしい。映画館では、ポップコーンを食べる音もなるべく控えめにして、黙って映画を観るという、現在の「良識」的な「映画の見かた」とは正反対の「騒々しさ」があった。その「騒々しさ」が「良識」的な人びとから嫌われたのだ。

 それに応えるために、弁士は控えめに「裏方」的な立場に撤退していき、やがてトーキー(音声入り映画)の登場が弁士や楽隊というえーかげんな存在を映画館から追い出してしまう。

 

 視覚を主に、音声を従に、そして「黙ってまじめに」

 無声映画の段階では、映画はただ映像としてカットとカットを順番に映し出すだけだから―途中に字幕を入れるなどの方法はあったが―、カットとカットがどうつながるかは観客が勝手に解釈できた。だから映画館で弁士がまず「この映画はこういう映画だ」ということを派手に説明し(映画ポスターの大げさな宣伝文句は今日までその雰囲気を伝えている。というより、そういうところにしか伝わっていない、と言うべきか)、弁士が「ここはこういう場面だ」と説明する。弁士が映画を理解していなければてきとーな説明でごまかす。それに対する観客からのツッコミもあっただろう。

 しかし、観客が映画というものに慣れ、音声が映像の補助役として入ってくることで、カットとカットのつながりをどう解釈するかは映画が自ら教えてくれることになった(押井守監督の映画『Talking Head』の「編集 森田」のエピソードは、その自明さを疑い返すエピソードになっている)。映画が適切にメッセージを伝えれば、観客はそのメッセージをきちんと理解できるはずで、それができないとしたら観客がちゃんと映画を観ていなかったからだ。それは、「本は黙ってまじめに読むもの」という「良識」的な読書観と同じ考えかたである。

 

 「神聖なオリジナル」と「低俗なコピー」・余談つき

 だが、この映画についての近代的な「良識」の成立は、危ういバランスの上に立っていた。

 この近代的な「良識」が通用している時代には、世界には「オリジナルとそのコピー」という区別があるものだと信じられていた。世界―と言っても欧米中心の世界だけれど―はすでに印刷物の普及によって「コピーが大量に出回る」という時代は迎えていた。しかし、この時代には、オリジナルには独特の「神聖なオリジナルらしさ」(これを「アウラ」というらしい)があり、コピーはどんなによくできていても「低俗な模造品」に過ぎなかった。たとえば、小説ならば、小説家が原稿用紙に自分のペンで書いた原稿が「神聖なオリジナル」であり、印刷された本は「低俗なコピー」だ。どこかに校正ミスや原稿の読みまちがいがあるかも知れない。

 クラシック音楽のばあいでも、音楽家自筆の楽譜が絶対的な「神聖なオリジナル」で、印刷された楽譜は「低俗なコピー」に過ぎない。だから印刷された楽譜には校訂ミスがあるかも知れない―というより実際にいっぱいあったのだ。そういう事情もあって、自筆譜が比較的容易に見られるようになった現在では、クラシック音楽界ではこの「神聖なオリジナル」信仰がますます増進している。それでいい演奏が生まれれば文句はないんだけどね。ラトルのベートーヴェンとか評判いいんだけど。私も、最初に聴いたときには「あっ」と思う清新さを感じはしたけど、でもどうもあんまり繰り返し聴く気になれないんだよねぇ。ガーディナーとかクイケンとか楽器も古楽器で演奏してる人たちの「アカデミック」な演奏のほうがいいような気がするんだけど……って話がずれた。

 

 映画が体現する「ねじれ」

 近代の「良識」的なメディアとの接しかたは、「黙ってまじめに読む」ことによって、その「神聖なオリジナル」が表現するものをできるだけ正確に感じ取ることを目標としていた。

 ところが、映画は、本質的にすべてがコピーである。小説での自筆原稿やクラシック音楽の自筆楽譜に相当するものがない。オリジナルのフィルムとコピーのフィルムのどちらが出来がいいという区別はつけられない。それは、最初にコピーのフィルムを生産した段階ではオリジナルのほうが質がいいだろう。でも、その後の映写の状況とか保存状態とかによっては、オリジナルのフィルムが劣化し、それよりもずっと質のいいフィルムがたくさん残っているという事態だってあり得る。映画は「神聖なオリジナル」と「低俗な模造品」の区別をはっきりとつけられないメディアだ。

 映画が低俗でろくでもない娯楽だと思われていた時代ならばそれでもいい。低俗でろくでもないメディアには「低俗な模造品」ばかりが供給されていて当然だからだ。ところが、「低俗な模造品」ばかりで構成される映画が近代的「良識」にしたがって「鑑賞」されるようになると、その背後に「神聖なオリジナル」の存在が想定されるようになる。しかし映画にはそれがない。そういうねじれが生じてしまう。

 映画に「神聖なオリジナル」を設定できない以上は、映画をもういちど「低俗でいかがわしい娯楽」に引き戻さないかぎりそのねじれは解決できない。しかし、近代の「良識」の圧力がかかっているかぎり、この逆戻りはあり得ない。このねじれの下では「神聖なオリジナルと低俗なコピーの区別があるはずなのに、神聖なオリジナルはどこへ行ってしまったんだ?」と不安を抱きながら嘆きつづけるほかなかった。

 

 「オリジナル」と「コピー」の区別自体の消滅

 では、このねじれはどう解決されたか。それは、「神聖なオリジナル」と「低俗なコピー」の区別そのものの消失によってだ。その区別がなくなってしまえば、すべてがコピーなのだから(とりあえずそういうことにしておこう)、「オリジナルの消失」を嘆く必要などなくなる。

 しかし、そうなると、「低俗なコピーを通して神聖なオリジナルの伝えたいことをなるたけ正確に読みとる」という近代の「良識」的なメディアの受け取りかたが通用しなくなる。広告も、映画も、文章メディアも、すべてにわたって、近代の「良識」が黙殺してきた事実―すべての読み手が「黙ってまじめに」メディアに接するわけではないということ―を考えに入れなければ、メディアを論じることができなくなってしまったのだ。この本で北田さんが繰り返し力説しているのはそのことである。

 そういう時代のメディアをどう論じたらいいだろう?

 

 決定的な「よい方法」はない?

 北田さんもこの本で決定的な結論を出しているわけではない。というより、決定的な結論は出ないと割り切っているようだ。

 メディアは、つねに「これをどう受け取るの?」という問題提起といっしょに受け手のところにやって来る。逆に受け手のほうも「メディアの受け取りかたはそのときどきの判断に委ねられていると思っている―いや、思う以前にそれが習慣として身についているのだ。だから、メディアが「このメディアをこう受け取れ!」と主張してやって来ても、法律で強制でもしないかぎり、受け手はそんな言い分はまともに相手にしないかも知れない。

 受け手は自分の判断に従って自分のところにやって来たメディアを受け取る。受け取るときにどんなルールに従うかは、それがどんなメディアか、受け手がどんな人間か、どんな立場にいるのかによって違ってくる。好きなように受け取ればいいという「リバタリアン」な場もあれば、ある共同体的なルールに従って受け取らなければならない「コミュニタリアン」な場もあるだろう。あいかわらず近代的「良識」にしたがって受け取るのがあたりまえの分野もあるだろう。

 

 ネコミミモードで〜す♪

 ところで、ちょっと前で、私は「神聖なオリジナル」と「低俗なコピー」の区別が消滅して、すべてがコピーになるという書きかたをした。しかし、「神聖なオリジナル」と「低俗なコピー」の区別が消滅すれば、逆に、すべてがオリジナルにだってなりうる。

 たしかに「すでに存在するほかのものとまったく同じもの」を「オリジナル」だと主張するのはけっこう難しいと思う。けれども、すでに存在するものを二つとか三つとか組み合わせることで、それを「オリジナル」だと主張することはできる。「オリジナルの神聖さ」だってある程度は感じさせてくれるだろう。猫耳(っぽい髪型)と沢城みゆきの声を組み合わせただけでは「オリジナルっぽさ」は生じないように思えるかも知れないが、にもかかわらず、(アニメの)芹沢茜は確かに他のキャラと入れ替えることのできない「オリジナルっぽさ」を持っている……ってけっきょくそのネタか……。

 あ、べつに芹沢茜とか『ぱにぽにだっしゅ』とかをとくに貶めるつもりで書いているのではありませんからね。私は『ぱにぽにだっしゅ』好きだし、芹沢はとくに好きなキャラだし。それに、ここに書いたようなことは、何にでも、たとえば「斎藤千和の声でネコミミ(モード)」でもあてはまるわけです。だから、おにいさま、わたしの読者になりなさい♪ (わけわかんないって)。

 ……まあ、好みが偏っているのは否定しませんけどね。

 いいかげんで話を戻そう。

 

 ぷち「神聖なオリジナル」の氾濫と知的財産権

 これは東浩紀さんが言っている「シミュラークル」とか「データベース」とかいう問題につながっていくわけだ。東さんのばあい、「データベース」時代になると、オリジナルとコピーの区別は意味を持たなくなると論じるわけだけれど、北田さんは、むしろ、「オリジナルっぽさ」が隅々まで拡散したというふうに捉えるわけだ。

 これは知的財産権にとっては頭の痛い問題だ。「神聖なオリジナル」が一部に限られているときには知的財産権という考えかたは機能していた。しかし、「データベース」から取り出した「データ」を組み合わせるだけでいたるところで「オリジナル」が生まれるような状況では、知的財産権の管理は困難になる。どんなにささいな「創意」であっても、登録したり強く自己主張したりカネの力にものを言わせたりすれば「財産権」と認められるかも知れないし、自分では「オリジナル」だと思っているものが社会から「オリジナルではない」と見なされてしまうかも知れない。登録を受けつける役人や、紛争になったときに裁判を行う裁判官も、何を「オリジナル」として何を「オリジナル」ではないとするかについて、絶対に明確な基準なんか持っていないだろう。というより、役人や裁判官って、メディアのあり方をめぐるこの状況の変化をきちっとわかっているんだろうか? なんかけっこう実情はお寒いような気がするのは、冬のビッグサイトの天候のせいだけではないように思うけど(まあ、これを書いているいまはまだコミケまで一か月ほど間があるけど……でも寒いです)。

 

 「権利保護協会」乱立に戻るという案・余談つき

 こういう分野では、いちど、ノージックの言う「権利保護協会」の乱立状況までいったん戻っていいんじゃないかと思ったりもする。

 急進的リバタリアンの理論家だったロバート・ノージック(井上達夫さんによるとノージックは早々にそういうことに関心をなくしてしまったらしいけど)は、人間が自分の身の安全などの権利を守るために「権利保護協会」を結成し、その乱立状況から徴税権と警察権を持つ国家が成立するまでの過程をモデル的に描いた(『アナーキー・国家・ユートピア』)。知的財産権の保護も、「私たちはこれを知的財産権で保護する対象だと認定します」というような認定制度を持つ民間の知的財産権保護協会みたいなのを作り、紛争をその民間権利保護協会の交渉に委ねる(相手も同じ保護協会に属していれば保護協会内で交渉し、別の保護協会に属していれば紛争当事者の代理として保護協会どうしで交渉する)―というやり方にいったん戻ってみてはどうだろう? とか言ってみても、そう簡単じゃないよねぇ。でも、現在の業界全体の団体みたいなのとは別に―もちろん業界全体の団体も存続すればいいと思うけど―、複数の権利保護協会を作って交渉と協議で解決するというルートを考えてみてもいいような気もするけどな。

 また話題がずれた。でも、ずれたことはずれたけど、一九九〇年代後半からの時代のいろんなことを考えるためには、原理的なところまで戻って考えなければいけないということでは、メディア論も知的財産権論も、リバタリアン‐コミュニタリアン論争も共通していると思うのだ。北田さんは『広告都市・東京』とこの『〈意味〉への抗い』とのあいだに、真っ正面からリベラリズムを論じた『責任と正義』(勁草書房、二〇〇三年)という大著を書いている。今回は採り上げていないけれど―分厚くて難しくて読むのたいへんで……。「現代思想」でもメディア論でも都市論でも、たぶんオタク論でも「萌え」論でもネコミミモード論でも、いや、ネコミミはどうか知らないけど、ともかく、ここ一〇年ほどの社会の変化を見据えるには、社会を成り立たせている原理までいちどさかのぼらなければならない。そういう時機を迎えているんじゃないかと、北田さんの活発な知的活動を見ていて私は強く感じている。北田暁大監修の「リバタリアニズムとコミュニタリアニズム」とかいうビデオ教材があったら私は買うぞ―ナレーションが斎藤千和と沢城みゆきと能登麻美子だったら(何を妄想しているかと思えば……)。

 

 で、ネコミミとかの話をしているうちに

 何を書いているのか、いよいよ自分でもわからなくなってしまった。ここでちょっと思い出してみよう。

 二〇世紀前半ごろまでは、近代的「良識」というものの圧力が強くて、「良識」からはずれた場所に追いやられていたはずの広告とか映画とかの世界にも「良識」が浸透していった。メディアについて言えば、その「良識」とは、送り手がきちんと伝えたものは、受け手が完全に正確に受け取ることができるはずだというものだった。もしそれがうまく伝わらないとしたら、送り手がじつはきちんと伝えていないか、受け手がちゃんと受け取っていないかだ。受け手がちゃんと受け取るために、受け手には、「黙ってまじめに」メディアを通じて送られてきたものごとを受け取ることが要求される。ただ、それでも、メディアを通じて送られるものは、送り手の手もとにある「神聖なオリジナル」そのものではなく、その「低俗なコピー」にすぎない。したがって、受け手は、「低俗なコピー」を「黙ってまじめに」受け取ることで、「神聖なオリジナル」を少しでもよく理解するようにしなければならない。

 

 「良識」の領分の後退

 しかし、その「良識」は、映画や広告に代表されるような複製技術の普及で、成り立たなくなってくる。

 まず、「神聖なオリジナル」が「低俗なコピー」に圧倒されるだけではなく、「神聖なオリジナル」と「低俗なコピー」の区別そのものがなくなってしまうのだ。すべてのものがコピーでもあり、オリジナルでもあり得るような社会ができてしまう(東浩紀さんの表現を使えばシミュラークル化した社会である)。

 また、「黙ってまじめに」だけがメディアを通じたコミュニケーションではないということが覆い隠せなくなってしまう。むしろ、人間は、私が昼間に『囲碁の時間』をながら聞き―「ながら見」ですらなかったもんなぁ―しながら原稿を書いていたときのように、「気が散った」状態でメディアに接することが多い。そういう場では、メディア自身が受け手のところに「このメディアをどう受け取るか」という問題提起を伴ってやって来る。「問題提起を伴う」とか言うと大げさだけど、テレビの『囲碁の時間』を「ながら聞き」するのか、「ながら見」ぐらいはするのか、いちおうまじめに見るのか、碁盤を持ってきて自分で碁石を置きながら熱心に見るのか、その選択が視聴者側に委ねられているということだ。また、受け手のほうも、自分のそのときどきの気分や都合で、メディアで送られてきたものの受け取りかたを変えるのを当然だと思っている。その社会では、「黙ってまじめに」が当然だとしていた近代の「良識」は通用しない。メディアをどう受け取るかを選択してから、メディアが伝えてきた内容に接するという「二段構え」の対応があたりまえになってくる。

 それで人間生活がたいへんになったかというと、そんなことはない。人間はじつはずっとそうしてきた。ただ、そういう人間生活の上に「黙ってまじめに」という「良識」の原則が覆い被さっていて、メディアを通じて「黙ってまじめに」受け取った情報にだけ価値があり、そうでない情報はゴミだという選別が行われていただけだ。その「良識」の原則がはずれただけである。

 

 二つの基本姿勢

 ただ、この変化は、そのメディアを論じる者にとっては大きい変化だ。「黙ってまじめに」を前提に議論を組み立て、そうでない受け取りかたを「不正常な受け取りかた」として処理するという議論のしかたが成り立たなくなったからだ。メディアを論じるには、まず、人びとがそのメディアにどう接していくか、「どう受け取るのか?」というメディアの「問題提起」にどういう選択で応えるのか(ながら聞きなのか、ちゃんと見るのか、熱心に見るのか……など)から考えを始めなければならず、それを考えた後になってやっと内容についての議論が始まる。

 で、北田さんが、その最初の「人びとがメディアにどう接していくか」について、この本で詳しく論じているかというと、そういうわけでもない。この本を読むかぎりでは、第T部の総論編では繰り返し決意表明が行われるだけで、第U部で個別の例に則して検討が行われる。その「個別の例に即した検討」は、『広告都市・東京』での人びとの広告への接しかたや、『嗤う日本の「ナショナリズム」』でのテレビや2ちゃんねるへの接しかたについての検討にもつながっている。北田さんの議論では、八〇年代の渋谷や九〇年代のテレビや二〇〇〇年代の2ちゃんねるに、まず、人びとがどう接しているかが検討され、そのあとで、そこで伝えられているのがどういう内容かが検討されていく。『嗤う日本の「ナショナリズム」』で、「思想としてのナショナリズム」の検討をせず、どういう場で「ナショナリズム」が語られているかに重点を置いて議論しているのも、その姿勢の現れだろう。

 ただ、完全に「個別の例」ごとに検討していて、それを貫く原則みたいなものがまったく提示されていないかというと、そういうわけでもない。ルーマンとかベンヤミンとか中井正一とかの検討のなかで、北田さんは「メディアへの接しかた」を論じるときの基本姿勢をいくつか提案しているように私には読める。そのうち二つを挙げておこう。

 

 「観察者」としての受け手

 一つは、メディアの受け手を「観察者」として捉えることだ。

 「観察者」という表現は北田さんが使っていることばだけれど、適当なのかどうかはわからない。メディアの受け手は、メディアがどんなものか、どういうメディアによって情報が自分のところに運ばれてきたかにいつも注意している。そのメディアで伝えられる情報の内容は、その「メディアがどんなものか、その情報を運んできたメディアは何だったか」と考え合わせて判断される。だから、メディアを論じるときは、受け手に視点を据え、その二段階の両方に注目しなければいけないという原則だ。これは、北田さんが『広告の誕生』から『嗤う日本の「ナショナリズム」』までつねに実践してきた原則である。

 

 メディアは水道管ではなくてプールの水である

 もう一つは、メディアを分析するときには、受け手は「メディアのなかで」情報に接するのだという見かたを忘れないでいるということだ。

 こっちの原則は難しい。最初に読んだときにはぜんぜん理解できなかった(だからこの本の最初のほうって難しいんですって!)。だが、近代の「良識」と較べてみれば、わりと理解しやすい。

 近代の「良識」では、送り手が伝えようとするものは、メディアを通して受け手のところまで届き、受け手が「黙ってまじめに」読み解けばきちんと伝わるものだとされていた。たしかにメディアを通すことで「神聖なオリジナル」から「低俗なコピー」への劣化は起こるのだが、それだって、受け手が「低俗なコピー」から「神聖なオリジナル」への復元方法を知っていれば、「神聖なオリジナル」を再現しつつ受け取ることはできた。

 この「良識」的メディア観では、メディアは情報を通すものすぎない。水道管とか電線みたいなものだ。メディアを通り抜ける前と通り抜けたあとには、「送り手が送りたかったもの」と「受け手が受け取ったもの」の一対一の対応関係が残る。それは、「送り手が意味したかったもの」と「受け手の手もとで意味を持つもの」ということであり、つまり哲学とかでいう「シニフィアンとシニフィエの対応関係の成立」である。いや、書いてる本人にもよくわかんないけど(『苺ましまろ』の美羽的発言)。

 しかしそれではダメだというのが北田さんの主張だ(それがたぶん『〈意味〉への抗い』という本のタイトルにもつながっている)。メディアとはただ受け手のところまで来て情報を伝えるだけの水道管や電線ではない。受け手はメディアに自らの身を委ね、メディアから意味を吸収する。だから、メディアは水泳のときのプールの水に似ている(本文で引用されている例は競技用ボートで、説明のしかたもだいぶ違っているのだけど……まあ似たようなものでしょ、よくわかんないけど、と再び美羽的発言)。どちらにどれぐらいの速さで進むかは、クロールで泳ぐか平泳ぎで泳ぐか、ゆっくり泳ぐか懸命に力を入れて泳ぐかで変わってくる。向かう方向も泳ぐ人の選択で決まってきて、プールサイドから遠ざかるのもプールサイドに近づくのも、水の影響というよりは泳ぎ手―メディアの受け手の選択だ。受け手はメディアに対してけっこう自由に動ける。だから、「送り手が送りたかったもの」がたとえ一つに限定されるとしても、それがどう受け取られるかは、受け手の数だけ、いや、それぞれの受け手が受け取る機会の数だけの違いがある。「送り手が送りたかったもの」と「受け手が受け取ったもの」の一対一対応なんてけっして成立はしないのだ。

 これも第一原則の裏返しみたいなもので、北田さんはご自身の著書や論文ではこの原則をちゃんと守っていると思う。

 

 『トゥルーマン・ショー』論

 さて、最後に、この『〈意味〉への抗い』に『嗤う日本の「ナショナリズム」』につながる日本のテレビ論が収録されている。この本の評の最初のほうで触れた第四章「リアリティ・ワールドへようこそ」だ。

 この論文は映画『トゥルーマン・ショー』を論じた論文である。ここに載せた評では触れなかったが、『トゥルーマン・ショー』は『広告都市・東京』で、一九八〇年代(一九八〇年代っぽい時代)の渋谷を論じるための「補助線」として何度も引用されている。だから『トゥルーマン・ショー』は見ておかなければと思ってDVDを買ってきたのだが、けっきょく見ている時間がなかった。だから『トゥルーマン・ショー』の内容紹介は北田さんに頼るしかない。

 『トゥルーマン・ショー』は、ハリウッドの巨大スタジオで生まれ、育った男の物語だ。この男トゥルーマンはそこが撮影スタジオであることを知らず、自分が暮らす都市がスタジオに組まれた巨大セットであること、自分の友人や妻さえもその役を演じる俳優であることを知らない。そして、その生活のすべてを撮影され、そのようすが全国にテレビで放映されていることも知らない。

 映画は、そのトゥルーマンがやがてその事実に気づき、脱出を企てるという、まあハリウッド映画にありがちなあらすじらしい。だが、ここで問題になっているのは、主としてこういう「個人の生活のぞき見趣味」のテレビ番組のことだ(いや、トゥルーマンの巨大スタジオからの脱出劇、つまりテレビ番組からの脱出劇のことも北田さんは論じている。そこには、観客もトゥルーマンの置かれた境遇に無関係ではないことを強く印象づける仕掛けがあるらしいのだけれど、ネタバレになるみたいなので、ここでは触れないことにする)。

 

 『嗤う日本の「ナショナリズム」』への問題意識

 アメリカ合衆国やヨーロッパでは「個人生活のぞき見趣味」の番組が実際に放映され、倫理的な非難を浴びつつも、人気を集めている。大澤真幸さんの本によれば、フランスで「個人生活のぞき見趣味」番組の出演者を募集したところ、山のような応募者があったのだそうだ。ところが、日本では、個人生活をそのまま隠し撮りして垂れ流すような番組は、作られたとしてもそれほど人気を集めることがない。これはたんなる倫理観の強弱の問題ではない。欧米でもこの種の番組は倫理的に非難されているし、犯罪被害者やその家族や逆に犯罪容疑者やその家族へのプライバシーを無視・軽視した取材を見れば、日本社会がとりたててプライバシー観念が強いとは言えなさそうだ。

 北田さんは、日本ではそのかわり演出されたことがはっきりわかるタレントを起用したバラエティー番組が人気を得ていることに注目する。そこでは、「素」の演技を要求されるのは、街の一般人ではなくて、タレントのほうだ。ふだんは打ち合わせどおりに演技しているタレントが、思わず涙を流したり、いきなり逆上したりという姿を、日本の視聴者は見たがるのだ。それすらじつは演出されているかも知れない。それも知っていて、それでも日本の視聴者はタレントの予想外の「素」の表情を見たがるのだ。

 北田さんは、この違いを、日本と欧米の視聴者がテレビ番組に対して持っている期待や思いこみの違いとして説明しようとする。欧米の視聴者は、テレビは「演出されないありのままの人間の姿」を映し出せるものと信じている。けれども、日本の視聴者は、逆に、テレビはすべて視聴者向けに演出されていると信じている。演出されていないテレビ番組など存在しないのだ。だとすると、テレビに「現実」を見たいと思っている視聴者は、その演出の一瞬の裂け目のようなところに現れる人間の現実の姿を強く待ち望むようになる。しかも、それさえもが演出されたものである可能性を知っても、それでもそういう「現実の姿」を追いつづける。

 このような「日本の視聴者」観が『嗤う日本の「ナショナリズム」』の問題意識へとつながっていくのだろう。

 

 

(2005/12)

 

 


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