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啓蒙をめぐって

――アカデミズムからオタクへ ――

 

清瀬六朗


  

 

 大学近くの喫茶店で

 ある大学の正門近くの喫茶店に入ると、大きめのテーブルを囲んで、男の人一人と、学生らしい若い人たち数人とが座っていた。男の人は学生たちよりだいぶ歳上のようだ。みんなで本を開いている。そのうち一人の学生が、「ここでェ、○○がァ、□□するのはァ、××ということだと思いまァす」という感じの、半分ぐらいかしこまったような言いかたで何か言うと、男の人が何か応える。どうやら、この男の人は大学の先生で、討論形式の授業をやっているらしい。

 懐かしい光景だった。

 私は、もう二十年近く前、自分が同じような学生だったころに出席していた同じような授業を思い出した。この授業は履修している学生の数が四〜五人で、しかもみんなよく休んだ。「みんな」ということは、私もよく休んだのだが。

 学生が一人とか二人とかしか出席していないときには、先生が近くの喫茶店に連れて行ってくれた。そこで、テキストを読むのは半分以下で、雑談が半分以上の授業をしてくれたのである。そのとき何を習ったかはすっかり忘れてしまった。でも、そのときの店のようすや窓の外に見える町並みの感じはいまでも覚えている。

 最近は大学を見る世間の――というより学費を負担している父母の――視線も厳しくなったという。学生の出席チェックを厳しく行う授業も増えたらしい。

 そんな時代に、出席者が少ない授業を喫茶店でやるような優雅な先生がまだいるのかと感心した。

 私は授業をやっているテーブルの近くに座った。

 べつに聞き耳を立てていたわけではないけれど、その授業のようすはなんとなくわかった。

 何かの文学作品をみんなで講読しているらしい。で、流れてくる議論の断片を聴いていると、先生と学生とのあいだで何が議論になっているかが少しわかってきた。

 その小説か戯曲か何かのなかで、ある登場人物が、別の登場人物におカネを渡す場面があるらしい。学生は、おカネを渡した人物が相手を援助し、激励しようとしているのだと解釈しようとしている。それに対して、先生は、おカネを渡す――というより恵んでやることで相手を決定的に侮辱していると解釈している。

 その白熱する議論を聞いていて、「人間関係の問題をおカネで解決するのは相手を侮辱することになる」という点にこだわる先生と、「人間関係は人間関係、おカネはおカネ」と割り切ろうとする学生との価値観のすれ違いが興味深いと思った。

 でも、そのことより私の印象に残ったのは、そこでの議論の進めかただった。

 学生は「おカネをもらった人は、その受け取ったおカネを使って人生をやり直して成功するかも知れない。だから、おカネを渡した人は、相手に成功してもらいたいと思って激励しているのだ」という議論を懸命に展開しようとする。ところが、その議論がある程度のところまで行ったところで、先生のほうが「でもね、おカネを恵んでやるということは、相手をバカにしているということでしょ?」と口をはさんで、議論をもとに戻してしまう。そこで、学生はまた一から議論を始めなければならなくなる。で、途中まで行くと、また先生が口をはさんで議論を振り出しに戻す。その繰り返しなのだ。

 ああ、これだ――と思った。

 学生どうしで本を読んでいるのだったら、発言の途中に何度も途中で口をはさみ、そのたびに議論を振り出しに戻してしまうようなことをすれば、その人は「ちょっと黙ってろ」と言われるに違いない。そして次からはいっしょに本を読む仲間に入れてもらえなくなるかも知れない。

 ところが、大学の先生にはそれができるのだ。

 アカデミズム系の知識人がどうやって自分の言論の正しさを守ってきたか、そして、どうやって言論界に影響力を持ちつづけてきたか。その理由を見たように私はこのとき思った。

 

 アカデミズムとは?――この文章の問題意識とか

 アカデミズムとは何かというと……。

 じつは私は正確な定義は知らない。「大学でやっているみたいな学問のやり方」というのがいちおういま私が考えつく説明だけど、なんかわかったような、わからないような説明だと思う。

 自分が大学でどんな「学問」のやり方を学んだかというと、う〜ん、と考えこんでしまう。いろんな知識を習ったことは覚えてるけどね――その内容は大半はどこかへすっ飛んでしまったけれど。でも、「方法」を何か学んで身につけたかというと、情けないことにそんな覚えはあんまりない。

 だから、ここで書く「アカデミズム」像は、ほんとうのアカデミズムの人たちが認識している「アカデミズム」とかなり違っている可能性もある。最初にそのことはお断りしておこう。

 というより、「ネット、オタク、ナショナリズム」の話が、なんでいきなりアカデミズムから始まるんだ? まず、そのことから説明しないとダメだよね。

 ネットの普及はアカデミズムの影響力に大きな打撃を与えた。それは、オタクの社会的存在感が急に増していったことや、一九九〇年代末から「ナショナリズム」の興隆と深く関連している現象だと思う。そこで、「ネット、オタク、ナショナリズム」の三つの「題」に、「アカデミズム」という第四の「題」を加えて、議論を展開してみようと、まあそういう考えである。

 もう少し詳しく書いてみよう。

 アカデミズム系の知識人――大学教授とか――の言論の世のなかに対する影響力は、ネットの存在で大きく失われた。

 いや、アメリカ(合衆国)とかヨーロッパとかイスラム圏とかのことは知らない。少なくとも日本ではそうだ。

 インターネットとその文化は、アメリカやヨーロッパでは、アカデミズム系知識人を担い手の一部に含んで成立し、発展した。それに対して、日本では、「パソコン通信」やインターネットはまずアカデミズム系知識人の共同体の外で発展し、だいぶ遅れてアカデミズム系の知識人もインターネットに参加してきた。現在でも自分のホームページを持っていないアカデミズム系知識人も多いのではないだろうか。

 で、ネット普及前の社会では、アカデミズム系の知識人が中心になって、社会の「良識」を管理していたように思う。

 もちろん、アカデミズムとはあまり縁のない知識人や、アカデミズム以外の分野で名をなした言論人も世論の担い手ではあった。アカデミズム系知識人の現実離れした発言には、アカデミズム系知識人の内部や外部から批判が向けられた。けれども、アカデミズム系の知識人の発言は、やっぱり世論のなかで支配的な地位を持ちつづけていた。

 しかし、ネットの普及とともに、アカデミズム系の知識人の発言は急速にその権威を失ってしまった。いっぽうで、ネットの普及とともに興隆してきたのがオタク系文化である。そこで、アカデミズム系の文化の失墜は、オタク系文化の興隆と表裏一体をなしているのではないか、また、一九九〇年代末のナショナリズム的な感情やナショナリズム的文化の興隆とも関係があるのではないか。

 そういうことを考えて、この文章を書いている。

 

 アカデミズムの原則

 さっき「アカデミズムとは何かというと……」で始めた話の続きに戻ろう。

 アカデミズムの「知」は万人に開かれたものだ――というのが、アカデミズムの、少なくともたてまえ上の大原則である。

 アカデミズム系の文章とか講演とかで語られた内容は、だれにとっても理解できるはずのものとされる。理解できなかったとしたら、文章の書き手や講演者の工夫や配慮が足りなかったか、それとも読み手や聞き手のほうに知識が不足していたり注意力が足りなかったかするからだ。

 大学の試験というのを考えればよくわかるだろう(高校までの試験でも同じだけれど)。学生がちゃんと授業を聴き、教科書も読み、参考図書まで目を通していれば、満点の答案が書けるはずだというたてまえで、大学の試験はできている。それにもかかわらず満点答案が書けないのは、ちゃんと授業を聴いてないか、教科書を読んでないか、そのほか自分で授業を理解するための努力を怠ったかのせいだ。そういう原則で、優、良、可、不可とかA、B、C、Dとかの成績がつけられる……んだろうと思う。

 しかし、もちろんそれはたてまえだ。アカデミズム系の文章が万人に理解できるかというと、そんなことはない。アカデミズム系の文章を読んで理解できる人はごく少数だ。

 アカデミズム系の文章――「学術書」とか「学術論文」とか呼ばれる――を、そういう文章を相当に読み慣れていない人が読めば、その分野によほど詳しくないかぎり、最初の数ページでわけがわからなくなるだろう。

 たとえば、現代思想の文章ならば、「シニフィアン」とか「シニフィエ」とか「脱構築」とか「差異と差延」とか「想像界/象徴界/現実界」とかいう専門用語が説明なしにぱかぱか出てくる。最初のうちはなんとか理解しようとねばり強く繰り返し繰り返し読みすすめていても、そのうちに何が議論されているかもわからなくなり、投げ出してしまうだろうと思う。だいたいアカデミズム系の文章が日本語で書いてあるとは限らない。英語とかフランス語とかドイツ語で書いてあったら、英語やフランス語やドイツ語をまず身につけないとまったく歯が立たない。

 アカデミズムの「知」が万人に開かれているというのは、アカデミズム系の文章とか講演とかは、わかる努力をすれば、いつかはだれでもわかるようになるはずだという意味だ。それは、逆に、わかる努力をしない人や、努力を中途半端にしかしない人には、わからなくて当然だということを意味する。

 もうひとつ言うと、そのわかるための方法も、万人に開かれているというのがアカデミズムの大原則である。その「わかるための方法」とは、辞書や参考書や参考文献で調べる、理解するために必要な言語を身につける、というようなものだ。辞書は図書館にあるし、参考書やそれ以外の参考文献も図書館に行けば読むことができる。外国語の教科書を読み、辞書で調べ、外国語学校に通うことで、外国語文献を読みこなすこともできるようになるはずだ。

 「わかるための方法」は万人に開かれている。辞書を調べ、参考書を調べ、フランス語の辞書を引き、ソシュールの本を読み、ソシュール言語学の解説書を読めば、「シニフィアン」とか「シニフィエ」とかいうことばは必ずわかるようになる。また、心理学の本を調べ、ラカン心理学の解説書を読み、ラカンの影響を受けた心理学者や社会学者の書いた文章を読めば、「想像界/象徴界/現実界」の三分法も必ず理解できるようになる。参考書や解説書に難しいことばや読めない感じが出てきたら、そのたびに辞書を引けばいい話だ。努力すれば、だれでも「アカデミズムの知」の到達することができる。

 かつての宗教には、ごく一部の人だけが神の声を聞くことができるという信仰があった。それ以外の人たちはどんなに努力しても神の声を聞くことはできないとされた。また、芸術のなかには、ある感性を持っていないとその真価が理解できない芸術作品がある。その感性を持っていない人が、その芸術作品――絵とか彫刻とか――がすごいんだろうなと思って価値を理解しようと努力してみても、けっきょくただのごちゃごちゃにしか見えないということもあるだろう。

 でも、「アカデミズムの知」はそういうものではない。神から与えられた特別の資格とか、人間のだれもが持っているわけではない特別の感性とか、そういうものは必要がない。努力を積み重ねさえすれば、いつかはだれでも理解できるものだ。そういう意味で、アカデミズムは万人に開かれている。

 アカデミズム系の知識人はそうやってアカデミズムの「万人に開かれた性格」を強調してきた。それを「アカデミズムの民主性」と言ってもいい。それは、民主化を目標に進みつづけた二〇世紀の社会とも同調しやすい考えかただった。

 けれども、それを反面から見れば、アカデミズム系の「知」は、冷淡で冷酷なものである。

 努力しない者にはその「知」は開かれないからだ。「シニフィアン? シニフィエ? わかんないよぉっ!」で投げ出してしまったひとには、「シニフィアン」とか「シニフィエ」ということばの意味が理解できる機会は、よほどの偶然でもなければもう二度とめぐってこない。

 アカデミズムの原則から言えば、わかろうと努力しない人びとには「わからない」と苦情を言う資格はない。アカデミズムの「知」は、努力すれば必ずわかるのだし、わかる方法も万人に開かれているのだから、その方法を使って努力しない以上は、「わからない」のはその努力しないひとの責任だ。

 その原則から言えば、アカデミズム系の知識人が「知」の世界の主導権を握るのは、その人がたくさん努力したことに対する当然の報酬だということになる。それは、同時に、アカデミズム系の知識人以外の人たちが「知」の世界で主導権を握れないのは、だれでもできる努力をしなかった結果であって、当然だということでもある。「働かざる者、食うべからず」というのと同じだ。「知」を得ようと努力しなかった者に、「知」の世界で発言する資格はないというわけだ。

 しかし、現実には、努力すればだれでもアカデミズムの「知」を得ることができるとは限らない。そのことにはアカデミズム系の知識人も気づいている。そこで、アカデミズム系の知識人は、それに対応する動きを見せることになる。そのことを次に問題にしたい。

 だが、その前に、少し前から、「知」という、書いている私にとってとても収まりの悪いことばが出てきている。そこで、まず「「知」って何?」という問題を先に片づけておきたいと思う。

 

 「知」って何?

 できればこの「知」ってことばは使いたくなかった。

 わかったようでわからないことばで、なんか気もちわるい。それになんか気取ってる感じがするんだよね、「知」ってことばを使っただけで。

 ただ、じゃあ何か適当なことばで置き換えられるかというと、これが思いあたらない。

 「知」とは、たぶん、理屈に理屈を重ねて考えること、そしてそうやって考えて得たものごとをぜんぶ合わせていうことばなのだろう。信仰心や情熱ではなく、理屈とか論理とか理性とかで獲得した知識や、その知識を獲得するための道筋が「知」だ。だから、「知」というのは、現在の日本語で「理」がつくことばと関係が深いと考えていい。

 だとすると、何か知らないけど心に浮かんだ直観とか、神仏に懸命に祈って与えられた啓示とか悟りとか、情熱と根性でつかんだ信念とかいうのは、ここでいう「知」ではない。あくまで、クールに「理」によってだけ到達するのが「知」である。いちおうそういうことにして、この先の議論に進むことにしよう。

 「知」ということばは、ヨーロッパのことばでは、たぶん、「科学」ということばに近いんだと思う。英語のscienceだ。ただ、日本語で「科学」というと、社会科学とか人文科学とかいう言いかたはあるにしても、普通は理科っぽい学問のことを指す(理科っぽいと言っても蒼星石の中の人みたいなという意味ではありません――って言うと思ったでしょ?)。だから「知」を「科学」と置き換えることもできない。「アカデミズムの「知」」を「学問」とか「学術」とかいうことばで置き換えてもいいと思うんだけど、やっぱりそれでも収まりの悪いところが出てくる。しようがないから、カッコつきで「知」ということばを使っておくことにする。なお、アカデミズムの「知」を身につけるためにやること、やらなければならないことという意味で「学問」ということばも使うことにする。

 

 アカデミズムの「知」のたてまえと実際

 アカデミズムの「知」は万人に開かれている。だから、それを求める努力をして、身につけたひとは、「知」の世界の主導権を握れる。しかし、身につけることのできなかったひとは、努力しなかったのだから、何の発言権も認めない。それがアカデミズムのたてまえだ。

 しかし、現実には、なかなかそうもいかない。

 文章の文脈をたどっただけで難しい概念をすっと理解してしまえるひともいれば、何度も辞書を引き、学校で詳しくノートを取りながら講義を聴き、関連する文献を読んでも、いつまで経っても理解できないひともいるだろう。五分ぐらいは難しい本に集中できても、一〇分経つと気が散って読み進められなくなるというひともいるに違いない。

 たてまえから言えば、なかなか理解の進まないひとも、ものすごく時間をかければ理解できるのだから、アカデミズムの「知」はそういう理解の遅いひとにも開かれているということになるだろう。集中力が続かないひとは、少しずつノートを取りながら五分ずつでも勉強すればいいし、そうやって理解が進んでくればおもしろくなって集中力も持続するようになるはずだ。そう考えれば、アカデミズムの「知」は、集中力の続かない、気が散りやすいひとにも、別に門を閉ざしているわけでもない。

 けれども、実際には、理解力や集中力のないひとがアカデミズムの「知」を身につけるのは容易ではない。たとえば、この世に一人の人間が生きつづけられる時間には限りがある。タイムリミットが設定されているのだ。どんなに理解が遅くても、「学問」をつづけていればいつかはアカデミズムの「知」に到達できる。ただし、それには百年も千年もかかるかも知れない。そのことを考えると、やはり適性のないひとがアカデミズムの「知」を身につけるのはけっこう難しいということになる。

 また、たてまえ的にはだれにでも開かれているはずの「努力するための方法」も、実際にはだれにでも開かれているとはいえない。

 仕事や家事に追われている人びとが、「シニフィアン」や「シニフィエ」ということばを調べるためにわざわざ図書館に行くとはちょっと思えない。まして、家計に余裕がないなかで、自分で分厚い思想辞典を買ってきたりはしないだろう。よほど興味のある人が「ソシュール言語学入門」のような手軽な本を図書館から借りてくるぐらいで、しかも、そういうひとだって最後まで読み終わるとは限らない。ソシュールの生い立ちあたりまで読んだところで返却期限が来てしまうかも知れない。

 アカデミズムの「知」を身につけるには努力すればいいと言っても、努力するためには道具立てとかお膳立てとかがけっこう必要なのだ。「知」を身につけるためには、最低限、「学問」を勉強するだけの時間が必要だ。生活に追われていてはその時間は確保できない。飯を食ったり風呂に入ったり寝たり子どもを育てたりする時間をそんなに削るわけにはいかないから、けっきょく仕事をする時間を削ることになる。ということは、仕事の時間を削っても生活が支えられるだけの財力が必要だということになる。けっきょくは、「学問」できるかどうかは財力の問題になってしまったりする。

 アカデミズムの「知」に到達するためには、実際には、適性の壁があったり、財力の壁があったりする。さらに、親や妻や夫が「な〜にをわけのわからない勉強ばっかりして」と言われると、「学問」をつづけるのは難しいだろう(まあ、それよりは「な〜にをわけのわからない同人誌ばっかり作ってるんだ、それも盆と正月の忙しい時期に、毎年毎年……」という圧力がかかることのほうが切実な気もするけど)。そういう家庭環境や生活環境から来る条件があったりもする。

 万人に開かれているはずのアカデミズムの門も、じつはけっこう狭き門なのだ。

 しかも、アカデミズム系の知識人自身が、その門をさらに狭めてしまっている。

 

 学壇

 だれがアカデミズム系の知識人で、だれがそうでないか――それを見分けるのはだれだろう?

 「世間一般の人びと」というわけにはいかない。

 たしかに、世間一般の人たちは「あの人はもの知りそうだ」とか「あの人はほんとうに無知だ」とかいう評価をすることはできる。しかし、それは「世間一般」のものさしで測った「もの知り」かそうでないかであって、「アカデミズム系の知識人」かどうかという区別をしているわけではない。

 ほかの人がアカデミズム系の「知」を身につけているかどうかということは、同じようにアカデミズム系の「知」を身につけた人にしか判別できない。だから、だれがアカデミズム系の知識人で、だれがそうでないかを判断するのは、アカデミズム系の知識人たち自体だということになる。アカデミズム系知識人の「共同体」が判別すると言ってもいい。

 では、アカデミズム系の知識人は、だれを自分たちと同じアカデミズム系の「知」を身につけた人と認識し、だれをそうでないと認識するのか。

 原則から言えば、ちゃんと努力して「学問」をして、知識を蓄え、それを使いこなす技術も十分に身につけた人がアカデミズム系の知識人だ。

 だから、その判断が正しいことを保証するのは、その人たち自身以外の「学問的良心」以外には存在しない。ここにアカデミズム系の「知」の世界が閉ざされていくきっかけがある。

 せいぜいアカデミズム系の知識人どうしの相互チェックが働く程度だ。つまり、アカデミズム系知識人の共同体――「学壇」などという――のなかのだれかがある人をえこひいきして「アカデミズムの「知」を身につけている」と判断しても、他の人が「いや、あの人はダメだろう」と言って、その人を仲間に入れることを拒否することができる。逆に、ある人がだれかを毛嫌いして「おれはあんなやつの学問を学問とは認めんぞ!」と意地を張っても、周囲が「いや、やっぱりあれはすぐれた学者ですよ」と言って仲間として認めるかも知れない。しかしその相互チェック機能がいつも働くという保証はない。また、アカデミズムの「知」の共同体も、共同体である以上は、何か独特の傾向とか好みとかを持つこともあり得る。それも、その「知」とは直接に関係のない分野でだ。そして、その傾向とか好みとかを持たないひとや、逆に、その共同体で嫌われる傾向や好みを持つひとを排除する可能性もある。

 だれを学壇に迎え、だれを迎えないかを、学壇の人たち自身が決めるという仕組みのために、学壇はやはり「閉じられた共同体」という性格を持つことになってしまう。

 

 大学院と学術論文

 しかも、あるひとがを確かめるには、直接に会って、じっくり話をし、その人が十分な知識を持ち、しかもそれを使いこなす技術も身につけているかを確認しなければならない。ところがアカデミズムの人たちはそんなにヒマではない。しかも、アカデミズムの「知」と言っても、専門分野が分かれてきているから、そのひとと違う分野が専門の知識人には、その人の「知」が学壇に迎えるにふさわしいかが判断できない。「学壇」のなかで、そのひとの分野に詳しいひとに頼んで確かめてもらってもいいが、その分野に詳しい知り合いがいるとは限らないし、もし知り合いがいたとしてもそんなことのために時間を使ってくれるほどヒマだとも限らない。

 そこで、だれかを学壇に迎えるかどうかという判断は、その人の学歴と「学問的業績」という「客観的」な基準によって決めることになる。

 まず、普通は大学院を出ていることが条件になる(大学院でなくても、それに似た制度の下で「学問」を修めていればいい)。もうひとつの判断基準の「学問的業績」は、学術論文をどれだけ書いたか、学術書をどれだけ出版したかで決まる。

 学術論文や学術書には一定の書きかたがある。最初に問題設定を置き、問題を解く方法を明示して仮説を提示し、その仮説をきちんとした根拠を使って論理的に検証していることが最低の条件だ。思いついた順に何でもいいから書いていくような文章は学術的な文章とは認められない。

 「学術論文」や「学術書」と認められる文章かどうかを調べるかんたんな方法は、ちゃんと「註」がついているかということだ。しかも、「どうでもいいことを書くための註」ではなく、「根拠を明示するための註」がきちんとつけられていることが必須の条件となる。

 学術的な文章では、自分がなぜこういうことを言うかという根拠を「註」で明示しなければならない。それも、その根拠となる本や論文のページ数まで書くのが普通だ。たとえば、私が「この論点については北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」』参照」とか書いたとしても、その何ページかということまで書いていなければ、私は「本の題名だけは知っているようだが、きちんと読んでいない」と判断されても文句は言えない(本の全体の論旨を参照せよというようなばあいは書名だけでもかまわないけれど)。学術的な文章とは窮屈なものなのだ。

 それだけではない。「学術論文」や「学術書」は、どんな小さいことでもいいから、これまで学壇でだれも言ったことのなかったことを言い、だれも発見したことのなかったことを書かなければいけない。他のひとがすでに言っていることを知っていて、それを黙って書けば盗作になるし、先に言ったひとがいるとはっきりさせて書けばそれはただの「紹介」だ。どちらも独自の学術的「業績」としては認められない。

 大学院に入ると、書きかたが決まった窮屈な書きかたで、少なくとも一つはこれまで学壇でだれも言っていない新しいことを書いた「学術論文」を、最低一本は書かなければならない。その論文をネタにして、その大学院の教員が「この学生を学壇に迎えていいかどうか」ということを審査する。審査に通れば、まずはめでたく「修士」の称号が与えられる(修士の称号を与えるネタに使われた論文を普通は「修士論文」という)。この修士の称号を持っていれば、だいたい学壇――アカデミズム系の知識人の共同体――の一員として迎えられるようだ。

 ちなみに、この本で私が採り上げた北田暁大さんのばあい、『広告の誕生』が修士論文(に加筆したもの)である。

 『広告の誕生』では、それまでの「広告」研究が「広告の意味はそれを見るひとにつねにきちんと伝わるものだ」という思いこみを前提にしていたことを批判し、ひとは普通は「気が散った状態」で広告に接するものだという視点から、近代の本の「広告」史を研究している。そして、近代日本の広告は、まず枠に閉じこめられ、しかし枠に閉ざされたまま社会のいたるところに散らばり、そして社会の「周縁」(「端っこのほう」)である女性雑誌のなかでついにその枠を溶かしてしまうという発展のしかたをしたと結論した。これが北田さんが明らかにした「それまでだれも言っていない新しいこと」だ。この修士論文で北田さんは学壇に迎えられたわけだ。

 決められた方法に従って論文を書いたか、その内容が学壇にとって新しいものであるか――この基準はわりとはっきりしている。業績や成果を基準にした客観的な評価が行われているといちおう言える。そして、大学院に入り、決められた方法に従って論文を書き、学壇にとって新しいことを少なくともその論文に盛りこむための道は、やはりいちおうすべての人に開かれている。

 しかし、一面では、この制度によって排除されているものも大きい。

 まず、普通、大学院に入学するためには、大学の学部を卒業していなければならない。しかも、大学院の入試に合格しなければならない。これはそうたやすいことではない。

 しかも、大学院に入ったとしても、修士論文は、普通は二年で書き終えなければならない。留年のたぐいが認められているにしても、まあ二年の倍で四年ぐらいが限度だろう。

 そうなれば、大学院に入れるのは、多くのことを知っており、理解が速く、論理的に考えることに抵抗がなく、それに長い文章を書くことのできるひとに限られてくる。先に書いたような、理解に時間のかかるひとや集中力の欠けるひとが大学院に入るのはけっこう難しいし、何かの幸運で入れたとしても、修士の称号を得るまで進める可能性は低い。

 アカデミズムの「知」は万人に開かれているというのはたてまえで、実際は違うのである。

 いや、たしかにアカデミズムの「知」は万人に開かれている。しかし、自らアカデミズムの「知」を身につけ、それを使いこなす資格は、大学院で修士の称号を得たひと(またはそれに相当する学歴か業績を持つひと)にしか与えられない。そのほかの一般の人たちは、アカデミズム系知識人が「知」を使いこなして得た成果を受け取れるだけである。現実には、アカデミズムの「知」にはそういう二層構造があるのだ。

 ところで、アカデミズムの「知」を使いこなすことが認められるとか認められないとか言うけど、それを決めるのはだれなのか。

 もちろん、アカデミズム系の知識人の共同体自身である。

 

 「知」の再配分としての啓蒙

 アカデミズム系知識人の共同体は会員制の組織みたいなものだ。会員制の組織にだれかが新しく入りたいと言ってきたときには、原則的には、そのときの会員に「この人を入れていいかどうか」をたずねて、全体で話し合って「まあいいだろう」という結論になればその人は会員になれる。話し合って「やっぱりだめじゃない?」ということになれば拒否されるだろう。それと似たようなものだと考えればいい。

 そういう仕組みに弊害がないわけではない。共同体にはその共同体独自の傾向とか好みとかがある。ちゃんとアカデミズムの「知」を身につけていても、その傾向や好みに合わないために排除されることもあるかも知れない。しかも、その「傾向や好み」には、学界の有力者との人間関係や出身大学のステイタスのようなものも入っている。

 さらに、アカデミズムの「知」の世界は実際には専門別に細分化されている。ある分野を専門とするひとの評価は、その同じ分野をよく知っているひとにしかできない。だから、あるひとが果たしてアカデミズム系知識人の共同体の一員にふさわしいかどうかを判断できるのは、じつはごく少数だ。

 そこで、それを判断するために使われるのが、修士の学位を取っているかとか、学術論文を何本発表しているかとかいう形式である。だが形式はごまかすことができる。まともな研究者ならば一本の論文にしかしないような内容を二本にも三本にも分けて発表したり、同じ内容を少しだけ変えながら何度も何度も繰り返して別の雑誌に発表したりして、論文の本数を稼ぐということもできる。じつはどうでもいいようなところに註をつけて「註がついた論文」の体裁を整えることもできる。形式が整っているからといって、その形式にふさわしい実力の持ち主かどうかは、ほんとうはわからないのだ。

 でも、まあ、そういう病理的な面はここでは論じないこととして、さっきの話をつづけよう。

 アカデミズムの「知」は万人に開かれている。しかし、実際には、アカデミズムの「知」の世界には二層構造が存在する。アカデミズムの「知」を自ら使いこなすことのできる者はアカデミズム系知識人の共同体の一員となり、それ以外の一般の人びとは、みずから「知」を使いこなすことは認められず、そのアカデミズム系知識人の「知」の成果だけを受け取ることができるだけだ。アカデミズムの「知」が万人に開かれているとは、現実の世界では、その「知」の成果を受け取るチャンスはだれにだって認められているということと、大学院に入って修士の称号を獲得する道はいちおうだれに対しても開いているということを意味している。

 この構造は自由主義経済に似ている――と言ったら唐突だろうか。唐突だろう。うん。自分でもそう思うよ。

 何が自由主義経済に似ているか? 自由主義経済では、カネ持ちになる可能性は万人に開かれている。しかし、実際にカネ持ちになれるのは一部の人たちだけだし、カネ持ちになりやすい資質や境遇とか、逆にカネ持ちになるのを難しくする資質とか境遇とかいうのも実際には存在している。一部の人たちは、自分で起業して事業を経営し、または株や債券を売り買いすることで、いくらでもカネ持ちになれる。しかしその資質や境遇のないひとは、だれか別の人が経営する企業に参加して適度な賃金をもらえるだけだ。そういう人は少なくとも大金持ちにはなれそうもない。

 経済社会はだれに対しても公平だというのがたてまえで、しかし、実際には、カネ持ちになりやすいひととなりにくいひとが存在する。その実際の不公平を是正するために、社会には「所得の再配分」という制度が存在する。国家が税金を取り、その税金で、カネ持ちも貧乏な人も、カネ持ちになりやすいひともカネ持ちになりにくい人もともに暮らせる社会を作るために、福祉政策をやったり公共施設を作ったりする。それが「所得の再配分」だ。「所得の再配分」によって、カネ持ちになりやすい条件が少ない人たちにいくぶんでもカネ持ちになりやすい機会を開く。それが「所得の再配分」の意義だ。

 アカデミズムの「知」のばあいも同じだ。アカデミズムの「知」は万人に開かれているはずなのに、実際には、一部の人たちだけがアカデミズムの「知」の共同体に参加できる。そこで、そのアカデミズムの「知」の共同体に参加できない人たちのために、アカデミズム系知識人は「知」の再配分を行う。自分がアカデミズムの「知」を駆使することで獲得した成果を、アカデミズムの「知」を使いこなせない人たちに無償で提供し、その人たちがアカデミズムの「知」の共同体に少しでも近づけるようにしてやるのだ。

 アカデミズム系知識人によるこの「知」の再配分が「啓蒙」という活動である。

 

 啓蒙の権力、その前に「権力」とは?

 啓蒙とは、アカデミズム系の知識人が、学壇(アカデミズム系知識人の共同体)の外の人たちに対して「みんなが知らないことを教えてやろう」という姿勢で、その「知」の成果を提供することを指す。それは新しい知識でもいいし、何かの考えかたでもいい。

 「啓蒙」するのは何もアカデミズム系の知識人に限らない。コミックマーケットの日に効率よく自分の行きたいサークルを回る方法を教えてやるのも、秋葉原のどこの店で何を買うとどんな特典がついてくるかを教えてあげるのも、啓蒙といえば啓蒙である。しかし、そういう啓蒙はいまの議論にはあまり関係ない。あとでアカデミズム系知識人以外の啓蒙の話も出てくるけれども、とりあえずここではアカデミズム系の知識人の話に限ることにする。

 アカデミズム系知識人自身にとってはともかく、そうでない人たちにとっては、「啓蒙」はありがたい活動だ。自分ではアカデミズムの「知」を身につけていなくても、アカデミズムの「知」を通して初めて知ることのできるものごとを知ることができるからだ。

 たとえば、北田暁大さんの『嗤う日本の「ナショナリズム」』も、東浩紀さんの『動物化するポストモダン』も、そういうアカデミズム系知識人の「啓蒙」活動の成果である(『嗤う日本の「ナショナリズム」』はちゃんと学術書的な註がついているから、学術書としての性格もあるが)。アカデミズム系知識人の啓蒙活動がなかったら、私はWWFシリーズにいろんな文章を書き散らすような知識をとても得ることはできなかっただろう。

 まあそのほうが世界が平和でよかったという考えかたもあるかも知れないけど。

 大学の授業というのも、まあ現在ではその啓蒙活動の一つと捉えたほうがいいだろうな。理念的にいうと、大学というのは、教員と学生がいっしょになって研究する場で、教員が学生にその「知」の成果を伝える場ではなかったはずなのだが、そういうたてまえは私が学生だったころにすでに現実には存在しなくなっていた。もちろん、理系の研究室で学生がいっしょになって新素材の開発のための実験をやっているというようなばあいは、学生も教員といっしょに研究活動をしていることになるかも知れないが、まあそれは大学で行われている授業のなかではごく一部に過ぎないだろうと思う。

 あと、大学教授がテレビに出るとか、新聞にコメントを書くとか、時評を書くとかいうのもそういう啓蒙活動の一環だ。まああんまり啓蒙していなさそうなテレビ出演とかもよくあると思うけど。

 だから、ここからそのアカデミズム系知識人の啓蒙を問題にしていくわけだけど、啓蒙自体を悪いというつもりはまったくないのだ。むしろアカデミズム系の知識人が啓蒙活動をやらないと世のなかにとっては大きな損失になると私は思う。

 もし、アカデミズム系の知識人が啓蒙の意義を否定して、自分がアカデミズムの「知」を使いこなして得た知識やものの見かたを一般の人びとに広めないとすると、それは、カネ持ちが税金も払わずに財産を溜めこんでいるようなものだ。社会的に見てとても誉められたことではない。だから、アカデミズム系知識人はどんどん啓蒙を行うべきなのだ。

 では何が問題か。

 啓蒙が権力を生み出すことが問題なのだ。

 ここでは「権力」ということばをわりと広い意味に使っている。ここでいう「権力」とは、かんたんにいうと、ほかの人を動かす力のことだ。

 もう少し詳しく、ややこしく言おう。ある人が、別の人に何かの行動を行わせるとき、その「ある人」は「別の人」に対して権力を持っている。

 それは人一人ひとりの関係とはかぎらない。ある集団や組織と人との関係、または、集団や組織どうしの関係のなかで権力が働くことのほうが多いだろう。

 たとえば、国は私に税金を払うという行動を起こさせることができる。これを難しく言うと「国には私に税金を払わせる権力がある」ということになる。つまり「国には私から税金を取り立てる権力がある」。また、国会は、法律を制定して、他の国家機関や個人にその法律に従わせることができる。つまり、国会には、「法律を制定して、他の国家機関や個人にその法律に従わせる権力」がある。もっと簡明に言えば、国会には立法権があるということになる。

 いま挙げた徴税とか立法とかの権力の例は政治権力だけれども、ここでいう権力は政治権力にかぎらない。たとえば、親が子どもを買い物に行かせるとする。このとき、親は子どもに「買い物に行く」という行動をさせる権力を持っている――でも、この物騒な世のなか、かわいい子をおつかいに出す親はいないかな。逆に、子どもが特定のお菓子が欲しいと言って泣きわめき、親が買いに行くまでぐずりつづける。親はそのお菓子を買いに行かなければならなくなる。このとき、子は親にお菓子を買ってくるという行動をさせる権力を持っている。

 ところで、このとき、親がけっきょくお菓子を買いに行かず、叱るなり、無視するなり、なだめるなりして子どもを黙らせたらどうだろう。

 そのとき、子どもにお菓子をねだられたことを忘れてしまえば、何の権力も働かなかったと考えていい。まあそういうことにしておこう。だが、子どもを黙らせたことを気にして、「今日は買ってやらなかったけれど、次は買ってあげよう」と思ったとすれば? 逆に、「いつか買ってやろうと思っていたけれど、こんなに聞き分けのない子に買ってやる必要はない」と思ったりしたら?

 別の例も考えてみよう。やっぱり親が子どもをおつかいに行かせることにして、子どもは言うことを聞いて買い物に行った。親は、途中で子どもをねらった事件に巻きこまれるといけないので、GPSつき携帯電話を持たせた。子どもがおつかいに行ったのは、親が子どもをおつかいに行かせる権力を使ったからだ。では、子どもにGPS携帯を持たせたことは、「子どもに携帯電話を持つという行動をさせる」という以上の権力を使ったことにはならないか? GPS携帯を持たされたことで、子どもが買い物の帰りに寄り道しようと思っていたのにできなくなったというのなら、親は「子どもに寄り道をやめさせる」という権力を使ったことになる。だが、子どもは最初から寄り道をするつもりなんかなかったのに、GPS携帯を持たされて「何か親にいつも見られているようできゅうくつだ」と感じたとしたらどうだろう?

 子どもがごねることで親にお菓子を買う気を起こさせる、または買う気を失わせる、また、子どもがGPS携帯を持たされることで「いつも見張られている」という感じを起こす。こういうのは「行動をさせる」とは言えない。思いや感情に変化を起こしただけだ。こういうのも「権力」だろうか。

 これも権力だと考えたほうがいいと私は思う。そういう思いや感情の変化が積み重なって何かの行動が起こることがあるからだ。

 子どもが一回ぐずって、でも親にお菓子を買ってはもらえず、二回ぐずっても買ってもらえず、十回ぐずっても買ってもらえなかったけれども、十一回めには買ってもらえたとする。それが十一回めであったことに何か大きな意味があるだろうか? 親が「十回ぐずったら、その次に買ってやろう」とか思って、子どもがぐずる回数をカウントしていたというなら別だ。だが、その回数を意識したりせず、「なんか前から欲しがっていたみたいだし、今日は買ってやろう」と思ったのなら、十回めにぐずったのには親に対する権力はなく、十一回めにぐずったときにだけ親に対する権力が発生したと見るのは、あんまり実態に合ってないと思う。一回ぐずるごとに親の考えを徐々に変えさせていった結果として、十一回めに親は行動を起こしたのだ。ぐずるたびに権力が動いていると考えていいのではないだろうか。

 また、子どもが、寄り道をする気もないのに、GPS携帯を持たされて「いつも見張られているみたいでいやだ」と思っていたとする。あるとき、その子がほんとうに寄り道しかけた。でも、すぐに「でも寄り道したら親にすぐにわかってしまうからやめておこう」と寄り道を取りやめた。このとき、GPS携帯を持たせたことの権力は、「寄り道をやめさせる」という行動のときにだけ働いたと見るよりは、それ以前からずっと「寄り道したら親にばれる」と思っていたときから働いていたと見るべきだろう。

 だから、思いとか感情とかを変えさせるのも権力の働きといっていい。

 これは立法権とか徴税権とかいう政治の権力でも同じことだ。たとえば、税金を払っていない人に払わせるだけが徴税権ではない。「税金を払わなければ」と思わせること自体が徴税権の働きだと考えたほうがいいだろう。

 「権力とは何か」ということから、話をもとに戻そう。

 知識人の啓蒙は権力を生み出す。なぜなら、知識人による啓蒙は、知識人ではない一般の人びとの思いとか考えとか感情とかを変えるからだ。ばあいによっては、知識人の啓蒙の結果として、一般の人びとが何かの行動を起こすかも知れない。

 私は権力が悪いとは言わない。権力を生み出すのが悪いとも言わない。権力は私たちの生活に必要なものでもある。たとえば、裁判所に争いごとを解決する権力がなければ、いくら裁判を行ってもいつまで経っても争いは決着しないかも知れない。警察に犯罪を捜査し、ばあいによっては犯罪容疑者を逮捕する権力がなければ、犯罪は野放しになるかも知れない。

 だが、権力というのは扱いに注意が必要なしろものだ。裁判所がまちがった判決を下し、警察が犯罪とはまるで関係のないひとを逮捕したら、やはり社会は損害を受ける。

 権力が社会のなかでどういう役割を果たすかは、権力の持ち主が権力をどんなふうに使うかによって決まるのである。

 では、アカデミズム系知識人の「啓蒙の生み出す権力」はどうなのだろう? どんな役割を果たしたのだろう?

 

 啓蒙の権力とはどんなものだったか

 インターネットが普及する前には、言論は、どんなメディアで発表されるかによって、どれくらいの人びとに広がるかが決まっていた。大新聞や総合雑誌・中間雑誌に掲載された文章は全国の各家庭や職場にまで広がった。スポーツ新聞や週刊誌などに載った文章は通勤する男性層に主に広がった。テレビや広域のラジオ放送の電波に乗った言論も全国に広がった。それに対して、業界紙・業界誌に載った言論は特定の業界にしか広がらなかった。学術雑誌や学術書もまあアカデミズム業界の業界誌だと考えていいだろう。特定の趣味を持つ読者を対象にした雑誌も、ほぼその趣味を持つ人びとの集団だけを読者にしていた。また、地域の小規模刊行物(「ミニコミ」などといった)とか、ビラとか、チラシとかはあまり広い範囲には広がらなかった。

 アカデミズム系知識人の言論は、学術雑誌などアカデミズム内部のメディアに載るとともに、大新聞や総合雑誌にも掲載され、また、テレビやラジオの電波にも載った。

 たしかに、これらのメディアに載ったのは、アカデミズム系知識人の発言だけではない。大新聞やテレビ・ラジオで流される情報の多くは、そのメディアの記者が取材し、編集者がまとめたものだろう。また、新聞や雑誌によっては、アカデミズム系知識人よりも、アカデミズム外の知識人や、他の分野の人を多く起用したばあいもある。

 しかし、政治とか経済とかいう、社会を大きく動かす可能性のある分野については、やはりアカデミズム系知識人の言論が大きな影響力を持っていたと言っていいだろう。

 当時の社会では、アカデミズムの「知」を使いこなせる立場になれる人の数はほんとうにかぎられたものだった。それだけでなく、アカデミズムの「知」を成り立たせるための情報に接することのできる人たちもかぎられていた。当時はいまほどたくさんの本が出版されなかったから、専門的な知識や概念について一般の人が理解するのはけっこうたいへんなことだった。現在では岩波文庫とか講談社学術文庫とかちくま学芸文庫とかで容易に翻訳が手に入る外国の名著でも、その多くは当時は原文で読むしかなかった。外国の情報を日本語でわかりやすく知らせてくれるニュースメディアもいまほど多くはなかった。詳しい情報を知りたければ、外国の新聞や雑誌で情報を仕入れるしかなかったのだ。アカデミズムの「知」はもちろん、アカデミズムの人たちが一段低い存在と見下すジャーナリズム的な「知」も、アカデミズム系の「知」を扱う技術を持っている人でなければ、十分に使いこなすことのできない状況があったのだ。

 アカデミズム系知識人の一部は、その一般社会との落差に対して、「知の再配分」である啓蒙活動に熱心に取り組んだ。もちろん、一般向けの啓蒙に消極的・否定的だったアカデミズム系知識人も多かっただろう。しかし、いっぽうで、アカデミズム系知識人と一定の協調関係(と一定の距離)を保ちつつ、協力して熱心に啓蒙活動に取り組んだ非アカデミズム系知識人も多かった(鶴見俊輔、林達夫、久野収など)。啓蒙活動に熱心だったのがアカデミズム系知識人の一部だとしても、それと協調した非アカデミズム系知識人も含めて、世のなかに与えた影響は大きかった。

 この時代には、世界とか社会とかを論じるための情報は、アカデミズム系知識人(この人たちと協調する非アカデミズム系知識人も含む)のところに集まり、そこから大新聞・総合雑誌・テレビ・ラジオなどのメディアを通して日本社会に広まって行った。アカデミズム系知識人は情報の流れの「かなめ」の部分を握っていた。アカデミズム系知識人の手もとで、情報は取捨選択され、もともと一体だった情報が解きほぐされたり、バラバラだった情報が一つにつなぎ合わされたりして、日本社会に流れていった。

 また、アカデミズム系知識人(の一部と非アカデミズム知識人の協調者)は、そういう情報に基づいて何を語るか、どういうふうに考えるか、その情報からどういう行動を起こせばいいかということも語った。自ら行動で実践して見せた知識人もいる。

 その啓蒙活動が、日本の社会全体の考えを変化させ、日本の人びとの行動に影響を与えていった。これがアカデミズム系知識人の啓蒙が持っていた権力である。

 

 権力の自覚の不足

 では、その啓蒙の権力には、どんな「扱い要注意」な点があったのだろう?

 まず、一つは、一九七〇年代ごろまでの日本のアカデミズム系知識人に関するかぎり、啓蒙の権力自体が「権力」であることへの認識が十分でなかったという点が挙げられる。

 もっとも、これはこの時代の日本のアカデミズム系知識人にかぎったことではないだろう。権力の持ち主は、自分の権力の力や影響力について自覚的でなければいけないということは言える。でも、ほんとうにその力を客観的に認識している権力の持ち主はあんまりいないものだ。政治権力のような「権力らしい権力」の持ち主は「自分は権力者だ」という意識を強く持つかも知れない。けれどもそうでない権力の持ち主はそんな自覚はあまり持たないだろう。お菓子がほしくて泣きわめく子どもが親に対して持っている権力を自覚はしないだろうし、子どもにGPS携帯を持たせる親も子どもに対して権力を行使しているなんて自覚はあまり持たないだろう。

 ただ、一九七〇年代ごろまでのアカデミズム系知識人は、世論を動かしたり、社会運動を起こしたりするだけの権力を持っていた。それだけに、その権力の使いかたには注意が必要だったはずだ。

 たとえば、アカデミズム系知識人が「主体性を確立しなければならない」と強調したとき、「主体性」について考えつめたあげくに仲間どうしで異常で凄惨な殺しあいを起こす若者集団が出てくるなんて、アカデミズム系知識人は考えもしなかっただろう(北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」』第一章が紹介する連合赤軍事件)。

 権力を使ったときに、それにくっついて害が発生することはあり得る。そのばあいは、その害の発生を抑えるために何か手を打つとか、害の発生をはるかに上回る利益が出るようにするとかいう対策が必要だ。それが適切な権力の使いかただろう。あるいは、害の発生自体が予測を上回ることもあるだろう。何か手を打ったのに害が発生したとか、利益の大きさと較べて害の発生が無視できる程度だったか、それとも、害の発生が予測を上回っていたかならば、まあしかたがないということになるだろう。けれども、自分がこの権力を使ったら害が発生するかも知れないという可能性を十分に考えなかったとしたら、それは適切な権力の使いかたとは言えない。

 この連合赤軍事件前後の学生運動の動きはアカデミズム系知識人のコントロールを離れていた面があった。むしろ運動はアカデミズム系知識人を敵として展開されたのだ。アカデミズム系知識人はこの運動の被害者でもあったわけで、たしかにその面を無視するわけにはいかない。けれども、大きな枠で見れば、この時期の学生運動に対してアカデミズム系知識人の啓蒙活動も影響を与えている――それが「反発」というかたちであるにせよ、「批判的に摂取する」とかいうかたちであったにせよ。だから、単純に百パーセントの被害者であったともまた言い切れないのではないだろうか。

 

 擬似啓蒙

 この権力についての自覚不足とともに、もうひとつ、アカデミズム系の知識人による啓蒙活動の問題点を考えている。それは、本来の啓蒙の枠を逸脱した啓蒙活動を行った部分もあるんじゃないかということだ。

 アカデミズム系知識人による啓蒙活動とは、その「知」的活動の成果を、「知の再配分」として一般の社会に広く広めることだった。

 では、アカデミズムの「知」で必須とされる方法とはどんなものだっただろうか。

 それは、問題を提起し、それを解決するための方法をはっきりさせ、仮説を立て、仮説を一段階ごとに検証していって、最後に結論を得るというものだった。それをちゃんと検証してますよということのあかしが、先に書いた学術論文・学術書の「註」なのである。しかも、そこでは、小さいことでもいいから、これまでだれも言っていないことを言っていなければならない。そういう厳しい基準が学術活動には求められる。それがアカデミズムの「知」に必要な方法なのだ。

 アカデミズム系知識人の仲間うちでは、知識人たちはこの方法を守る。最低限、形式は整える。そうでないと仲間からはじき出されるからだ。もちろん、はじき出されるのが怖いからと言って、学術書や学術論文を書かずにいると、やっぱりはじき出されてしまう――というのは日本のばあいはたてまえで、日本のばあい、アカデミズム系知識人の世界にいちど入ると、何十年も学術書や学術論文を書かなくても、その世界に居残ることができるようだ。よほどの不祥事でも起こさないかぎり、大学をやめさせられることはない。しかし、アメリカ合衆国ではそうでもなく、つねに論文を発表し、何年に一回かは学術書を書いていないと、大学をやめさせられたりするらしい。ただし、そのぶん、アメリカの学界にはしょーもない論文とか本とかも多いという話も聞いたことがある。「数稼ぎ」のためにしょーもない文章でも学術論文の体裁を整えて発表してしまうからだ。これに対して、日本の学壇のばあい、いちど学壇に参加した者は、その後の活動のようすがあまり芳しくなくても仲間として守り抜くというコミュニタリアン(共同体主義的)な性格が強い。

 でも、まあ、学壇内部で業績を発表するときには、やっぱり、アカデミズムの「知」が定める学術研究の方法を守るものだ。

 アカデミズムの外部にいる人たち、つまり、アカデミズムの「知」を自ら使いこなす資格を学壇が認めていないような人たちに対して啓蒙活動を行うときにも、その「知」が定める方法は守らなければならないはずだ。アカデミズムの「知」の方法を守らずに生み出した成果は、それはアカデミズムの「知」の成果とは言えないからだ。アカデミズムの「知」の成果をアカデミズムの外部にいる人たちに知らせるのが啓蒙なのだから、そういうものを啓蒙のために発表してはいけない。それがアカデミズムの「知」の成果ではないということをはっきりさせて、アカデミズムの「知」の方法を守らずに得た知識とか意見とかを発表するのならば、それはそれでかまわない。

 啓蒙が生み出す権力が正当な範囲を超えるのは、アカデミズムの「知」の方法に十分に従わずに得た知識とか意見とかを、アカデミズムの「知」を十分に使ったような振りをして、アカデミズムの外部の人びとに向けて発表したばあいだ。

 そんなことが行われるのかという疑問があるかも知れない。

 理系の人びとのことは私にはわからないのでとりあえず措くとしよう。いわゆる文系には確かにこういう「にせ啓蒙」が存在する。いや、「にせ」ということばはきついので、ここはアカデミズムの人たちがよく使う「やわらかく言うための表現」を使って「擬似啓蒙」と言っておこう。

 たとえば、専門分野については、身が引き締まるほどに厳格な「アカデミズムの「知」」の原則を適用して異論を切って捨て、痛快ささえ感じさせるような議論を展開するアカデミズム系知識人が、社会問題を扱った一般向けエッセイのなかでは、ちょっと調べればわかるような初歩的なミスを冒していたりする。

 もう一〇年以上も前、小沢一郎という政治家が非常に大きな存在感を持っていた時代に、「良識」派や「進歩」派の知識人は、「小沢一郎は憲法第九条を変えて日本を戦争のできる国家にしようとしている」などという非難を浴びせた。

 私は非常に奇異な感じを受けた。小沢一郎の著書『日本改造計画』には、憲法第九条第一項(国際紛争を解決するための手段としての戦争の否定。戦争放棄)と第二項(軍隊は保持しない)はそのままに残して、ただし国際貢献のために自衛隊を活用することを可能にする第三項をつけ加えようということが書いてあったからだ。

 国際貢献のために自衛隊を活用するのは戦争にあたるのだという議論を組み立てることはできるかも知れない。しかし、ともかく戦争放棄の項は残すと言っている政治家を「戦争ができるようにしようとしている」と非難するには、それなりの論証が必要だ。少なくともアカデミズムの「知」の方法に従うならば、その論証は絶対に必要ということになるだろう。しかし、この時期に小沢一郎を「危険な政治家」と非難していた「良識」派・「進歩」派の知識人で、『日本改造計画』の記述まで検証して小沢一郎が「戦争のできる国家」を目指していることを論証したひとは、いたとしても非常に少数だろうと思う。もっとも、私が接した論説の範囲は限られているから、もしかすると私が知っている範囲からだけの判断がまちがっているのかも知れないが。

 私は何も「小沢一郎は平和主義者だ」と言いたいわけではない。「国際貢献」の名目で海外に自衛隊を派遣することが平和主義に反するのか反しないのかは、それはそれで議論する必要があることだと思う。だが、そういう議論抜きに「小沢一郎は危険な政治家だ」と決めつけてしまう言いかたは、きちんとした学問的な検証を経ているとは思えない。そういうことを平気で一般社会(アカデミズム系知識人共同体の外部)向けに言ってしまうのがここでいう擬似啓蒙だ。

 

 アカデミズムは擬似啓蒙を阻止できない

 問題なのは、アカデミズムをめぐる仕組みは、そういう擬似啓蒙を十分に防止できないということである。

 あるアカデミズム系知識人が、アカデミズムの「知」の方法を使わないで、ノリとか勘とか思いこみとかこけおどしとか、およそアカデミズムとは関係のない方法でてきとうなことを書いたとしよう。それをアカデミズムの「知」によって得た知識と同じようにアカデミズムの外部の人たちに向けて発表したとしよう。

 その擬似啓蒙活動をだれが阻止するのか?

 アカデミズム系知識人の共同体の外からの非難はあまり効き目がない。その人がアカデミズムの「知」の共同体の一員かどうかは、アカデミズム系知識人の共同体の側が決めることだからだ。外部の人間が「あんなのはろくな学者じゃない」と非難しても、アカデミズム系知識人の共同体がその人を立派な学者として認めてしまえば、その人はやはり「アカデミズムとは無縁のにせ学者」ではなく、立派なアカデミズムの学者ということになる。逆に、その外部の人が「何も知らないのにめちゃくちゃを言っている」と軽蔑されるのがオチだろう。こういうのを専門用語でいう「先生だぞ!」という。でもベッキーは英語で論文を書いていたから、厳しい審査がちゃんとある海外の有名科学雑誌に投稿しているんだろうな。ちゃんとしたアカデミズム知識人だと思います。

 もし、そういう擬似啓蒙活動を阻止しうるとしたら、アカデミズム共同体の内部に、それは正当な啓蒙ではないという声を上げるひとがいたばあいである。しかしそういうことはそう頻繁には起こらない。

 共同体には、身内に甘く、外部に厳しいものの見かた・感じかたが共有される。甘い・厳しいという言いかたが不適切ならば、身内の言うこと・やることは基本的に信頼し、外部の言うこと・やることは基本的に信頼しないと言ってもいい。

 これは非難してもしようがないことで、それがまったくなければ最初から「共同」体ではない。最初からいちいち細かいことを言わないで信頼してやるかわりに、その信頼を裏切ったら共同体から仲間はずれにする。それが普通の共同体のあり方だと思う。たとえば、コミックマーケットも一つの共同体なので、共同体のルールを破ると、たとえそれが申込書類の不備というようなささいなことであっても、サークル参加できなくなったりする。

 アカデミズム系知識人の共同体にも、共同体内部の人がやることは何か問題がないかぎり信頼するという共同体内部の信頼関係が存在する。また、それ以前に、他人が一般向けに何を書いたかをいちいち気にしていられるほどみんなヒマじゃないのだ、たぶん。

 だから、アカデミズム系知識人の擬似啓蒙活動には、その共同体の外部からも内部からもチェックが十分に働かない。

 チェックを十分に受けない権力は暴走したり腐敗したりする。つまり頽落する。擬似啓蒙を本来の啓蒙と同じように通用させることができるという思いこみができると、その擬似啓蒙活動を止める歯止めがなくなる。アカデミズム系知識人向けにはとても通用しないようなお粗末な文章を、一般向けには平気で発表するようになる。

 自分が書いているものが「何かちゃんと検証していない文章だな」と自覚していれば、まだ頽落もせずにすむだろう。だが、その自覚が消えてしまったときが問題だ。いいかげんを繰り返しているうちに、そのいいかげんがあたりまえになってしまうのもあんまりいいことではない(でも、まあ、この点では私はひとを非難できない。自分がそうだから)。しかし、それよりやっかいなのは、何かの目的意識に方向づけされて、啓蒙には必要な「知」の方法を端折ってしまったときだ。

 その「目的意識」は使命感と言ってもいい。「知識人として一般向けにこういうことを書かなければ」と思いこんだばあいだ。その動機はもしかすると啓蒙活動として正当なものかも知れない。しかし、擬似啓蒙チェック機能がうまく働かない条件の下では、その目的意識から、アカデミズムの「知」としてはあまりにお粗末なものを、立派な啓蒙用の文章だと自分でかんちがいして発表してしまうことがあり得る。自分はアカデミズム系知識人なのだから、一般向けにもきちんとアカデミズムの「知」の方法を使って得た知識で啓蒙活動を行わなければならないと思っていればまあ立派だ。しかし、自分はアカデミズム系知識人(たとえば大学教授)なのだから、自分が一般向けに言ったことはどんな方法を使っているかにかかわらずすべて正当な啓蒙なのだなどと思ってしまうと、擬似啓蒙を阻止するための自己チェック機能が停止してしまう。

 

 第二次世界大戦後の日本の「良識」

 第二次大戦後の日本のアカデミズム系知識人共同体が維持してきた社会の「良識」の一つに平和主義がある。それも非常に理想主義的な平和主義だ。それがつきつめられると、一時期の社会党(現在の社会民主党の前身。もっとも民主党に転じた党員も多いが)が唱えていた「非武装中立」論になる。軍隊を持たずに、また、国内外の軍隊の力に頼らずに平和を維持することは可能である。逆に、軍隊を持つこと、軍隊の力に頼ることが、日本を戦争に巻きこむ。だから軍隊を持つことにも軍事同盟にも反対する。日本の第二次大戦後のアカデミズム系知識人共同体が全体として持っていた理想主義的平和主義はそういうものだった。

 また、この理想主義的平和主義は、反資本主義・反国家主義にも結びついていた。資本は戦争を利用して儲けようとし、また、資本に都合のいいように国家の勢力を拡張させようとする。資本は、また、人びとの生活を貧しくしてまで自分たちの儲けばかりを考える。したがってそのような資本の存在は好ましくない。また、国民の共同体としての国家の存在は当然だが、国家機構、とくに官僚機構は人びとの生活を破滅させてしまう可能性がある。だから、一般の人びとのコントロールが届かないような強大な国家機構は存在しないほうがいい。

 このような理想主義的平和主義‐反資本主義‐反国家主義は、世界の戦争勢力‐大資本‐国家機構が結びついているという想定の下で一つに結合していた。大資本は自分の儲けに有利なように国を動かすために、まず強大な国家機構を作り上げる。また、大資本は、自分の儲けを確保し、拡大するために、さらに、資本に脅威を与える社会主義の勢力を撃滅するために、戦争を起こそうとする。その戦争‐資本‐国家機構に対抗するために、理想主義的な平和主義と反資本主義と反国家主義が一体のものとして唱えられたのだ。

 なお、この時代のアカデミズム系知識人にとって、「戦争勢力‐大資本‐国家機構」の結びつきを体現した存在はアメリカ合衆国だった。アメリカは資本主義の中心国家であり、世界で「人民」や社会主義に対して戦争を起こそうとしている国家であり、しかも日本の国家機構はそのアメリカの支持で作られているというわけだ。もちろん、そのアメリカの支持を受けている日本の保守政権も「戦争‐資本‐国家機構」を体現した存在である。

 この理想主義的平和主義‐反資本主義‐反国家主義の結びつきは、理詰めの理論というよりは、ロマンチックで、ばあいによっては悲壮な気もちに支えられていた。この結びつきの論証は、たとえばレーニンの『帝国主義論』などを論拠に主張されたのかも知れない。しかし、あえていえば、理論が重要なのではなかった。アメリカに代表される「戦争‐資本‐国家機構」という強大な敵と、一人ひとりでは弱小な「人民」の力を結集して闘うという構図そのものが重要だった。それがもたらす「正義の味方」的な感情のほうが理想主義的平和主義の本質だったと私は考えている。

 だから、これは、アカデミズムの「知」の共同体に共有される「知」の成果というよりは、その共同体が持っている気分の一種だと考えたほうがいいだろう。

 もちろん、アカデミズム系の知識人のなかにも、そういう理想主義的な平和主義に反対する人もいた。平和主義自体の非現実性を強調した知識人もいるし、平和主義でももう少し現実的・戦略的な平和主義を構想した人たちもいた。しかし、全体として平均すれば、アカデミズム系の知識人が維持した「良識」の平和主義は、非常に理想主義的なものだった。

 このような理想主義的な平和主義が、冷戦下では一定の「現実」性を持っていたことは、考えに入れておかないと不公平になるだろう。

 冷戦構造の下では、日本は明らかにアメリカ陣営側に属していて、日本が戦争の主体になることはあまり考えられなかった。冷戦構造の下での戦争は、朝鮮半島とかベトナムとか、あるいは(構図はちょっと複雑になるけれど)中東とか、アメリカ陣営とソ連陣営の境界線の近くで発生した。しかもそれを拡大しないように地域戦争のまま抑えようという動きが米ソの両方から働いていた。日本のばあい、中国とソ連の対立という、冷戦の米ソ対立とは違う大国間対立を抱えていたけれど、その対立の火の粉も日本には降ってこなかった。そういう場では、日本の戦力は目立たないようにしておいたほうが無難だった。それには、できれば軍隊の存在自体をないことにしてしまいたい理想主義的平和主義が適していたのだ。

 また、このような理想的な平和主義者たちが、なんとかアメリカに依存しない安全保障のあり方を模索したということにも、私はすなおに敬服しておきたいとは思う。いま書いたような理想主義的平和主義の「現実」的基盤から考えると、平和主義を保持しながらアメリカの軍事的覇権の下から脱出するのは不可能だ。そんなことをすれば、ソ連の軍事的覇権から離脱しようとしてソ連の武力干渉を招いたチェコスロバキア(当時)やハンガリーと同じ結末が待っていたに違いない。しかし、その不可能なことを現実にしようと構想したアカデミズム系知識人のまじめさには、感服すべきものがあると思ってはいる。

 ところで私は何も理想主義が悪いと言いたいのではない。アカデミズム系の知識人が理想を持っていることはいいことだと思う。せっかく「一般」の人たちよりものごとをよく知っており、それを扱う「知」的な方法も身につけているのだから、現状を追認するためにその知識や方法を使うよりは、何かいま世のなかにないものを構想し、世のなかの人のだれもが思いつかないようなことを発想するために使ってほしいと思う。アカデミズム系知識人の共同体全体の傾向が理想主義に振れること自体は、ある程度はしかたがないし、個人的にはそれでいいんだと思う。

 問題はあくまでその理想主義が擬似啓蒙と結びついてしまうことなのだ。

 その話に行くまえに、第二次大戦後の日本で、理想主義的な平和主義がアカデミズムの「知」のなかで優勢になった事情についても理解しておかなければ不公平だろう。

 それは、第二次大戦前のアカデミズムが、当時の「軍国主義」的でイデオロギー先行の国家思想に踏みにじられてしまったことの痛みの記憶から出発している(この点は竹内洋『丸山眞男の時代』(中公新書)から示唆を得た)。第二次大戦期には、アカデミズムの「知」の基準からするととても認められないほどお粗末で非論理的な思想を、軍をはじめとする国家機構の力で押しつけられた。二度と軍やその他の国家機構に同じようなまねをさせてはいけない。第二次大戦期の経験からすると、軍や国家機構が大きな権力を握ってしまってからでは遅い。その前に阻止しなければ、アカデミズム系知識人の共同体を守ることができない。

 しかも、その気もちは、たんに自分たちが安全であればいいというものではなかった。アカデミズム系知識人の共同体がもう少し影響力を持っていたならば、あの悲惨な戦争はなかったはずだという、独りよがりと言えば独りよがりだけど、それなりに崇高な後悔の念も伴っていた。

 したがって、その理想主義は、たんに現実離れした高望みではなかった。そうではなく、むしろ、自分たちの安全を確保し、国そのものを危ない方向に行かせないための必死の現実的な理想主義だったのだ。軍と国家機構に権力を持たせないことが、第二次大戦期の失敗を繰り返さないための絶対の条件だったのだ。

 だから、このアカデミズム系知識人たちが、平和主義であり反米主義でもあったことの理由はよくわかる。それは、平和主義と言うより、反軍主義であり、反国家機構主義だったのだ。「反軍」・「反国家機構」の上に平和主義が存在したと言うべきかも知れない。

 だから、自分たちを弾圧した日本軍の復活には当然ながら反対する。また、アメリカは占領軍としてやって来た。そして、日本をソ連との軍事的な対抗関係のなかに置いてしまった。そうである以上は、アメリカにも旧日本軍と同じような軍国主義に走る危険性がある。だからそのアメリカにも反対する。戦前にその国家イデオロギーで自分たちを弾圧した古い国家機構の復活にも反対するし、アメリカの「軍」の力を背景に樹立された保守政権の国家機構にも反対する。

 そのために、当時のアカデミズム系知識人は、その平和主義を正当化するために、自分のアカデミズム的な「知」を活用した。

 竹内洋さんの『教養主義の没落』(中公新書)によると、戦前のリベラルな時代(一九二〇年代ぐらい)を知っている知識人たちは、「戦前に戻ればいいだけだ」とけっこう気楽に構えていたらしい。これは、以前、石橋湛山とか長谷川如是閑とかいう戦前リベラルの人びとの文章を読んだときにも感じたことだ。竹内さんによると、必死になったのは、その下の世代の、戦前のリベラル時代にまだ知識人として活躍していなかった人たちらしい。そして、「戦後民主主義」と呼ばれるような戦後日本の「良識」を作り上げたのは、その戦前リベラル時代を知らない世代の知識人たちだった。戦前リベラルの人びとはそういう社会のなかで保守派に分類され、アカデミズム系知識人の共同体への影響力を失っていく。「戦後民主主義」は、出発当初は、ともかくもそういう切実さを持った理想主義として出発した。

 しかし、それは、アカデミズム系知識人の共同体に属する者は理想主義的な平和主義・反国家主義を一般の人びとに啓蒙しなければならないという共同体的思いこみに発展する。

 共同体には共同体的な思いこみが発生するものだ。そういう共同体的思いこみから個人的な自由をできるだけ守ろうとするのがリバタリアニズム(自由至上主義または自由尊重主義)、そういう共同体的思いこみを共同体的伝統として肯定するのがコミュニタリアニズム(共同体主義)である。

 日本のアカデミズム系知識人の多数派は、ここでコミュニタリアニズム的な選択をしたのだろうと思う。理想主義的な平和主義を啓蒙することがアカデミズム系知識人共同体の役割だと確認したのだ。

 もっとも、コミュニタリアニズムが徹底すると、その役割を認めないメンバーは追い出すことになってしまうのだが、必ずしもそうはならなかった。とはいえ、たとえば、ある時期まで理想主義的平和論の前線でがんばり、アカデミズム系知識人にも支持されていながら、日本核武装論とか国家主義とかを唱え始めたためにアカデミズム的な知識人共同体から縁を切られたも同然になってしまった清水幾太郎のようなひともいる。清水幾太郎のばあい、自分からアカデミズム系知識人の共同体から離れていったという面もあるけれど、戦後日本のアカデミズム共同体に、コミュニタリアニズムの異端排除傾向がなかったかというと、なかったとも言えない。

 ともかくここから擬似啓蒙の頽落が始まる。理想主義的な平和主義が結論であれば、きちんとしたアカデミズムの方法を使っていない擬似啓蒙であってもかまわない。いや、先に書いたように、その自覚があればまだいいのだ。理想主義的な平和主義を結論として導けるものが(私の言う)擬似啓蒙であるわけがないと思いこんで、自分の方法に自信を持ってしまったりすると、擬似啓蒙の頽落は止められなくなってしまう。

 第二次大戦期の切実な体験に裏打ちされているうちは、まだ理想主義的な平和主義は裏づけを持っていたと言えるだろう。しかし、理想主義的な平和主義を唱えること自体がアカデミズム共同体の目的になり、戦争体験がそれを正当化する理由としてあとからくっつけられるようになると、擬似啓蒙がはびこり始める。しかも、その方向性がアカデミズム共同体全体に共有されている方向に向いているものだから、「自分の議論はおかしいのではないか」とその「擬似」性(にせもの性)に気づくきっかけもなかなかつかめない。さらに、その理想主義的平和主義が冷戦下の日本で一定の「現実」的基盤を持っていたから、なおさらその擬似啓蒙の「擬似」性は意識されなかった。

 こうして、冷戦下の日本で、アカデミズム系知識人が支える「良識」は、徐々に擬似啓蒙が生み出す権力に支えられるようになってしまっていたのだ。それがいいことだったのか悪いことだったのかは、もしかすると一概には言えないのかも知れない。擬似啓蒙であれ何であれ、アカデミズム系知識人の多くが理想主義的平和主義の声を上げつづけ、それが世論に影響を与えていなければ、アメリカは東アジアでもっと軍事的な世界戦略を展開したかも知れないし、日本が本格的再軍備を行って、その財政負担で経済発展が挫折していたかも知れない。

 けれども、その「良識」を支える「知」的分野の権力そのものについて見るかぎり、正当な範囲を超えた権力にはなっていたのだ。

 

 冷戦構造崩壊後の変化

 ともかく、その「良識」を支える構造の頽落は、冷戦構造の崩壊後、その時代の現実に十分に対応できないというかたちではね返ってきた。

 一九九〇年、サッダーム・フセインが隣国クウェートを侵略して一方的に併合し、それに対して国連決議の下にアメリカ・イギリス・ヨーロッパ諸国・アラブ諸国が多国籍連合軍を編成して対決したとき、理想主義的平和主義の「良識」の担い手の多くは「戦争反対」を叫んだ。戦争に反対するという姿勢自体は、まあ、あの状況でもあり得た選択肢だったかも知れない。だが、では、サッダームのクウェート侵略にどう対処すればいいのか。また、そのあと、世界のいろいろな地域でサッダームのまねをするような指導者が続出したときには? そのことに対して、十分な解決策は、理想主義的平和主義の側からは示されなかったように私は思う。

 薬害エイズ事件が起こると、理想主義的平和主義に連なる反国家主義の「良識」は官僚を厳しく責めた。

 もちろんこの事件で官僚と官僚主義が人びとの生命を危険にさらしたことは否定できない。その構図は今日のアスベスト事件でも繰り返されているとおりだ。だから、官僚や官僚主義が非難されたのは、それはそれで当然のことだ。

 けれども、では、官僚という存在は絶対悪なのか? 少なくとも「必要悪」なのか? 政治家の下に官僚を従属させておけば日本は安全なのか? 専門的知識を持った官僚がのさばるよりも、専門的知識を持っているとは限らない政治家がのさばるほうが、日本はいい国になるのか? そうとも言えない。官僚専制国家には問題がある。だが、官僚の力を押さえつけてしまえばよい国になるわけではない。政治家と官僚、それに国民全体の世論とか、政府機構に属していない第三者としての専門家とか、さらには司法といったいろんな力のバランスのなかで官僚のあり方を位置づけていかなければならない。もしアカデミズム系知識人の理想主義的な構想力が発揮できる場があるとすれば、そういうところだろう。しかし、官僚と官僚主義から起こったスキャンダルに対して、アカデミズム系知識人たちも「官僚の権力を抑えよ」以上の声をなかなか上げられなかった。

 「良識」は断片化した。そのとき問題になっている状況については、「反戦」とか「反官僚」とかいうことは言える。そして、その論点については、ちゃんとした啓蒙のことばも、擬似啓蒙のことばもあふれかえる。しかし、その論点をはずれたところへ世論を導いていくような力を持たない。問題の全体を見わたす構想をはっきりと示さないまま、そのとき問題になっている争点だけに批判を集中させるという意味で「単争点化」したと言ってもいいかも知れない。

 その方向性が正しかったかどうかは別として、冷戦下の理想主義的平和主義は「理想主義的平和主義で米軍の覇権から脱出」みたいな方向性を打ち出すことができた。しかし、冷戦構造崩壊後の「良識」は、サッダームのような無法な地域軍事権力をどうやって国際社会の枠内に押さえこむかとか、官僚の専横を抑えつつ官僚の能力を政治に活かしていくにはどうすればいいかとかいう方向には世論を導く力を持たなかった。もしかすると、個々の知識人は、断片的・単争点的な考えには満足せず、自分自身の一貫した方向性を打ち出そうと努力していたのかも知れない。しかしそれが共同体全部に共有される気分のようなものにまでは成長しなかった。

 それは、東浩紀さんの言う「大きな物語の喪失」とも関係があるのだろう。アカデミズム系知識人本人たちばかりを責めることはできないのかも知れない。だが、アカデミズム系知識人が、冷戦構造崩壊後、新たな「大きな物語」を創り出そうとしなかったのも事実である。

 「大きな物語」が人間にとって絶対に必要なものかというと、東さんの『動物化するポストモダン』によれば、必ずしもそうではなさそうだ。人間は、「データベース」から好きな要素を持ってきて組み合わせるだけでも十分に満足してしまう存在らしい。

 だが、アカデミズム系の知識人は、それまで「大きな物語」を前提として世界を批判し、国家を批判し、社会を批判してきた。アカデミズム系知識人の共同体は、冷戦構造の「大きな物語」に理想主義的平和主義を掲げて対抗してきたのだ。

 ところが、冷戦構造が崩壊した後の世界には、新しい「大きな物語」を見出そうとしなかった。フランシス・フクヤマの『歴史の終わり』が日本で紹介され、注目を集めたのが一九九〇年代の半ばだった。『歴史の終わり』は、人類社会の理想は自由民主主義で、それを超える理想は現れず、したがって世界の理想をめぐる闘争はもう起こらないと論じた本だった……らしい。私は読んでいないのでよく知らないけど。

 で、当時のアカデミズム系知識人は、この『歴史の終わり』を、たんなるアメリカの冷戦勝利宣言に過ぎないとして感情的に反発を示した。だが、では、歴史は終わっていないとすれば、何に向かっているのか? 社会主義ではなさそうだ。「よりいっそうの民主化」と言ってみたところで、それだと「自由民主主義が最終的な理想」とするフクヤマとたいして変わらない。フクヤマとどこが違うのか? アカデミズム系知識人はそういう問いに積極的に答えを示さなかった。ただ、冷戦構造の下でアカデミズム系知識人の「知」の共同体が維持してきた理想主義的平和主義と反国家主義を、「大きな物語」と切り離して、断片にして、それを批判に活用するだけだった。

 いま「良識」の断片化・単争点化と表現したことは、東浩紀さんのいう「データベース」的な消費の構図にぴったりあてはまる。それまで蓄積された理想主義的平和主義‐反資本主義‐反国家主義の「データベース」からそのときどきの情勢に適した議論が引っぱり出され、組み合わせる。しかし、そうやって作られた批判は、「大きな物語」を背後に持っていたときほどの一貫性も広がりもなかった。そういうことなんだろう。

 断片的で、単争点的で、言ってしまえば一方的な「批判」の実例を、インターネット普及前に冷戦後のアカデミズム系の「知」の共同体があらかじめ自ら示してしまった。それが後にインターネット掲示板で標準的な「批判」として定着することになる。「社会の2ちゃんねる化」に対して、アカデミズム的な「知」の共同体は、まったくの傍観者でも、ましてやたんなる「被害者」でもない。たとえ無意識にであっても、消極的にであっても、「社会の2ちゃんねる化」への道を切り拓くことに手を貸していたのだ。

 

 アカデミズムからオタクへ

 インターネットの普及は、社会にあふれる情報の量を飛躍的に増大させた。そして、そのことがアカデミズム系知識人の影響力を失墜させる上で大きな役割を果たした。

 なぜそうなったか? 単純な話だ。

 アカデミズム系知識人が一九七〇年代ごろまで社会に権力を持っていたのは、情報の流れの「かなめ」の部分を握っていたからだ。社会に流れている情報は少なかったが、解釈に「知」的な技術を必要とする情報が多かった。外国からの情報など、アカデミズム系知識人以外には接しにくい情報も多かった。アカデミズム系知識人は、その情報を加工し、再編し、それに自分たちのものの見かた・考えかたなどを加えて、大新聞・総合雑誌・テレビ・ラジオなどを通して全国に流した。アカデミズム系知識人を通した情報の流れが「本線」としてできあがっていた。そこに自分たちの「知」の成果や自分たちの共同体の雰囲気もいっしょに入れて流した。そのことでアカデミズム系知識人は社会に大きな影響を与える権力を確保していた。

 その活動には、本来の啓蒙と擬似啓蒙とが混じり合っていた。しかし、本来の啓蒙活動に対する「知」的な批判や、擬似啓蒙活動への非難は、出たとしても、なかなかこの「本線」で主流になることはできなかったのだ。

 インターネットは、そういう情報の流れ自体を変えてしまった。

 いや、大新聞や総合雑誌、テレビ、ラジオなどのメディアはいまでも存在する。しかし、インターネット経由の情報が、そういうメディアを通らない太い「本線」をつないでしまった。いまでは、大新聞の記事もネットで読めるし、テレビや雑誌などのメディアもしだいにネット上の世論を無視できなくなってきている。そういう状況のなかでは、アカデミズム系知識人を経由する情報の「本線」の意義は急速に失われる。大新聞、総合雑誌、テレビなどのメディアも、時間もかかるし面倒な人間関係を必要とするアカデミズム系知識人経由の「本線」よりは、すぐに調べられて手軽なネット経由の本線のほうをよほど重視し始める。

 しかも、日本のアカデミズム系知識人は、インターネットを自分の道具として活用することができなかった。インターネットが作り出した新しい情報の「本線」は、日本のアカデミズム知識人とは無関係のところで成立した(ただし、早くからネットを活用していたらしい理系の人たちのことはよくわからないので、ここでは考える対象から省略する)。日本のアカデミズム系知識人は、そのインターネットの「本線」の情報をいくぶんでも自分の手に握ることに成功しなかったばかりか、その新しい太い「本線」の情報を活用する方法もなかなか身につけられなかった。

 こうなると、人の流れは必ず自分のところを通るものだと思って油断していた旧本線沿いの商店のようなものである。新しく便利な新本線が開通すると、客足は途絶え、知名度は落ちた。ようやく新本線沿いを見に行ったときには、そこに店を出す余地はもう残っていないばかりか、新本線を行き交う人びとがどんな人びとかもわからなくなってしまっていた。そんな感じだろう。

 このアカデミズム系知識人の影響力の衰退に対して、新しい本線の情報を積極的に活用し、また、その新しい本線を利用して自分たちも情報を発表する活動を開始した新しい集団がオタクである。

 その中核集団は、九〇年代初期(またはそれ以前)の「草の根ネット」から活動を始め、やがてニフティサーブ(現在のアット・ニフティ)やPC‐VAN(現在のビッグローブ)などの大規模「パソコン通信」ネットワークへと活動の場を拡げていった。それとともに、ネットのオタク系サイトへの参加者も増えて行った。パソコンそのものやパソコン通信そのものにも興味があり、アニメやゲームなどのオタクでもあるというネット参加者にかわって、パソコンや通信技術には関心がなく、ただアニメやゲームが好きで通信に参加してくるメンバーが増えた。ここでも、一九九五年のアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』が一つの大きな画期になったように思う。そういえば、このアニメを放映している途中にWindows95が発売されたのだった。アスカが登場してすこし経ったころだっただろうか? さらに、ADSLや携帯電話からの接続が普及し、二一世紀初頭には、インターネットに参加しているオタク層はさらに厚くなった。

 この情報の流れの変化が、アカデミズム系知識人の影響力の急速な衰退と、オタクの急速な抬頭をもたらしたのだ。それは一体の関係にあったのである。オタクが言論界の中心に登場し、アカデミズム系知識人は社会の周縁(端っこのほう)へと追いやられてしまった。

 

 啓蒙と擬似啓蒙の区別の消失

 そういう状況のなかで、啓蒙と擬似啓蒙の区別が消失する。

 というより、啓蒙と擬似啓蒙が区別されていたのは、啓蒙を行うのがアカデミズム系知識人だったからだ。アカデミズム系知識人が、本来のアカデミズムの「知」の方法で行うのが本来の啓蒙で、その方法をきちんと使わず、へんな使命感に燃えたり、自分たちの共同体の価値観を押しつけようとしたりしたのが擬似啓蒙だ。

 けれども、こんな区別は、きちんとした方法を持っていたアカデミズム系知識人だから問題になるので、それ以外の人たちにとっては区別する理由はない。

 また、アカデミズムの「知」には、本来は「問題と方法の設定から仮説の定時とその検証を経て結論にいたる」という道筋を通る流れがあった。東浩紀さんの「大きな物語」という言いかたからことばを借りると、アカデミズムの「知」には、別に大きくなくていいからある程度まとまった「物語」がなければならなかった。

 そのアカデミズム系知識人の「物語」志向が、その共同体のコミュニタリアン志向を強めることになったのかも知れない。人間は世のなかを「物語」的に解釈するものだから、人間には「物語」を共有する共同体が不可欠だというのが、コミュニタリアニズムの基本的構想である。

 ともかく、アカデミズム系知識人の共同体では、そういう「物語」性を前提として、何を論じるときにも一貫した立場から議論することが必要だという考えが共有されていた。だから、そのアカデミズム系知識人による啓蒙も擬似啓蒙も「物語」性を持っていた。けれども、先に書いたように、冷戦構造が崩壊して一九九〇年代に入ると、アカデミズム系知識人の発言も、断片化・単争点化(東さんのことばを応用すれば「データベース化」)した擬似啓蒙へと頽落していった。啓蒙はアカデミズムの「知」の成果だから、ある程度の「物語」的一貫性を必要とする。だから、「物語性のある擬似啓蒙」はあり得ても、「断片化・単争点化した啓蒙」の存在はなかなか難しい。

 その断片化した擬似啓蒙が、ネットでの表現活動の方法へと接続していく。

 ネットに参加してるオタクも、オタク的な啓蒙活動を行う。というより、オタクは啓蒙活動に非常に熱心な人たちだ。他のひとの知らないことを知っているとか、他のひとが持っていないものを持っているとかということが、オタクの何よりの悦びであり、その悦びを手に入れるためには、どんな犠牲も、とは言わなくても、金銭的にも時間的にも、ばあいによっては社会的にもけっこう大きな犠牲を払う。そして、そのオタクの悦びは、他のひとの知らないことや他の人が持っていないものを多くの人に向かって披露することへとつながっていく。これがオタク的啓蒙活動ということになるだろう。

 無理あるかな? うん。じつはもうちょっと検討したいのだけど……残念ながら私は原稿の締切をマイナスX日後に控えている(専門用語では「X日前に締切が過ぎている」という)ため、検討している時間がない。

 それがオタク的啓蒙活動であれば、それは最初から断片的であり、単争点的なのだ。それを内容から啓蒙と擬似啓蒙に区別する必要もない。そんな区別は消滅する。

 しかも、そのオタクに対しては、アカデミズム的知識人の啓蒙と擬似啓蒙の区別自体が無効になる。いや、アカデミズム的知識人自身にもその区別はあんまり自覚されていなかったわけだから、区別が無効になること自体はそんなに大事件ではないのかも知れない。けれども問題はその「無効になりかた」である。頽落したアカデミズム知識人は、擬似啓蒙もまともな啓蒙の一種だと思っている。しかし、オタク側は、アカデミズム知識人にとって、アカデミズムの「知」の方法を使って行われるまともな啓蒙であっても、それは擬似啓蒙と同じものとして捉えられる。アカデミズム的な「知」の方法は、かつては、その方法を一般の人にも尊重させられる立場にいたのだが、いまではそれはアカデミズム的「知」の共同体内部でしか通用しないローカルな方法に化してしまった。

 オタク的共同体に向かって、アカデミズム系知識人が、自分が正当な「知」の方法を使っていると強く主張しても、その効力は限られている。その正当な「知」の方法の権力は、断片的・単争点的な反論を出されることでかんたんに覆ってしまう。アカデミズム的な方法を貫いたどんな労作であっても、それが尊重されるのはアカデミズム系知識人の共同体の内部だけにすぎない。その外では、アカデミズム的な方法に苦労して従うことはむだな努力としてしか認識されない、いや、それどころか、むだな努力としてすら認識されることはないのだ。

 

 暫定的な結び

 今回の特集の主題は「オタク、ネット、ナショナリズム」ということだ。私の文章は、アカデミズムという枠外の話題から始まり、ようやくネットとオタクまでたどり着いた。あと、またナショナリズムが残っている。

 しかし、残念ながら時間切れである。いや、正確に言うと、時間はもう少しあるのだが、その前に体力が尽きた。というより、まだ編集にかける体力を温存しておかなければならない。それを考えると、先に進むことはできない。

 そこで、ここではかんたんにこの先の見通しを書いておくだけにとどめよう。

 オタクの活動は、オタク的啓蒙活動も含めて、断片化し、単争点化している。だが、オタクはそういう断片的・単争点的な活動の集積に耐えられるのだろうか?

 東浩紀さんは十分に耐えられるという考えのようだ。だが、私は、その断片化し、単争点化したオタク的な自己意識の一つのよりどころとして、ナショナリズムが浮上してきていると考えたいと思う。

 それは「一つのよりどころ」であって、「唯一無二」のよりどころというような必死さはない。けれども、さまざまなオタクにさまざまな自己意識があるなかで、比較的、多くの者が一致できる点としてナショナリズムがある。そういうことではないかと思う。

 加えて、中国・韓国のネットの急速な排外的ナショナリズム化がある。また、アメリカ合衆国は、世界じゅうのだれに何の遠慮もなく、アメリカ的価値観を普遍的価値として声高にわめき散らし、「帝国」的な姿勢でそれを世界じゅうに押しつけまくっている。そういう状況と影響しあいながら、日本のネット社会の中心にすわるオタクに、ナショナリズムが自分たちの一体性を確認するための一種の「信仰」として広がりつつある。

 以上が、この先に続けられるはずだった議論のラフな素描である。

 この文章を書いていて、いまどうしてリベラリズム論や「帝国」論が流行しているかという事情がいくぶんわかった気がした。

 何について考えていても、個人単位の自由を最大限に尊重して共同体の個人への干渉を最小限にとどめようとするリバタリアニズムと、逆に人間にとって共同体の内部で生きることは避けられないのだから、共同体の伝統や合意を尊重し、その限りで個人的自由が制約されてもしかたがないと考えるコミュニタリアニズムと、そのどちらを採るかという問題に突き当たってしまう。その中間でどういう「リベラリズム」を構想するか。「自由」を構想するか。また、たとえすばらしい「リベラリズム」が構想されたとしても、それを「持続可能なリベラリズム」にするための仕組みは存在するのか。それは何を考えようとしてもどこかでぶつかってしまう問題だと感じたのだ。

 「帝国」論については、まだ「なぜ帝国について考えることが避けられないか」という説明がうまくできないまま、でもやっぱり避けられないだろうなと感じている。その一つの理由は、境界の消失状況――かなり前に流行したことばで言えばボーダーレス化――ではないだろうかと思う。

 しかし、境界は消失しても、自己意識は境界の外まで広がっていかないのだ。だから、そういう状況の上に成立する「ナショナリズム」は、はっきりした境界が内部と外部をはっきり区切っていた二〇世紀のナショナリズムとは違うものなのではないかとも思う。そして、その「はっきりした外枠を意識しないナショナリズム」に「帝国」意識が重なる。国の外枠の外にも国が広がっていくならば、それは「帝国」しかない。だから、そうやって構想された「帝国」も、もしかすると一九世紀や二〇世紀の「帝国」(大英帝国、二〇世紀的アメリカ帝国主義など)とは違っているのかも知れない。

 この先の話は、またしばらく時間をかけて考えたいと思う。

 最後に、この文章で主題として採り上げてきたアカデミズムの「知」の共同体が十分に考えてこなかったことを二つ指摘して、いちおうの結びとしたい。こんなことを書くとかえって凡庸になってしまうかも知れないが――まあいいのだ。凡庸だといえばたぶん最初から凡庸なのだから。

 一つは、アカデミズムの「知」の共同体が実質的に一部のひとにしか開かれていない段階で、一般社会への「知の再配分」のために啓蒙活動を展開したのはいいとして、では、「知の再配分」の必要がなくなったときに、何をすればいいかを考えなかったことだ。ネットの普及で、アカデミズム側から見た「一般社会」に情報があふれかえったとき、アカデミズム共同体は、それにはまったくかかわりなく、以前と同じように「知の再配分」としての啓蒙活動が必要だと認識してしまったようだ。しかし、その一般社会の側は、すでにアカデミズム共同体に「知の再配分」をほとんど要求しなくなっていたのだ。そのときどうすればいいかをアカデミズムの「知」の共同体は十分に考えてこなかったのではないか。もしかすると、いまでも、社会がどう変わろうと、「知の再配分」としての啓蒙は必要だと信じているのかも知れない。

 もう一つは、それとも関係することで、アカデミズムの「知」の共同体は、自分の内部に保守すべき価値を何も作らなかったのではないかということだ。

 それまで社会で主導的な地位を占めてきた集団が、一転してその主導的な地位から転落しそうになると、その集団には保守主義が出現してその転落に抵抗しようとする。たとえば、中国には、一九八〇年代以前の中国社会主義を守ろうとする「保守派」が存在する。アメリカ合衆国には、合衆国を本来はプロテスタントの宗教国家だったと捉え、その性格を守ろうとする宗教保守勢力が存在する。エドマンド・バークが『フランス革命の省察』を書いたとき、バークが守ろうとしたのは、一七世紀の名誉革命以来のイギリスの国家制度だった。

 しかし、日本の「戦後啓蒙」には、その「戦後啓蒙」を守ろうという保守主義が非常に弱いように思う。それらしいことを言うひとはいるけれど、何を守ろうとするのか、それをどうやって守るのか、守り抜いたらどうなるのかについて、具体的な議論があるかというと、それが非常に乏しい。ただ「保守派の攻撃で戦後的なものが危機にさらされている、戦後的なものを守れ」というそれだけである。

 それは、たぶん、その「戦後啓蒙」の中核に位置したアカデミズム系知識人の共同体による啓蒙が、自分自身が持っている権力について無自覚だったことと深く関係するのではないか。それは、外に向かっては、急進的な理想主義的平和主義を訴えた。しかし、なぜ理想主義的平和主義こそが自分たちのたいせつにしたい価値なのかを、ロマンチックな「情」的にではなく、あくまで「知」的に説明しようとする試みが不十分だったのではないかと思う。

 

(2005/12)

 

 


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