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新たな「抵抗としての無反省」をめざして

北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」』を読む

日本放送出版協会(NHKブックス)、二〇〇五年

  

清瀬六朗


  

 

 

 1  サルにはできない「反省」の歴史

    ―――― この本の概略 ――――

 

 ナンシーへの思い入れ

 最初に読んで受けた印象を二つ述べておきたい。

 まず、一九七〇年代から現在までの社会の動きをつねに客観的に明晰に叙述している北田さんの筆運びが、ナンシー関について語るときだけ、ウェットに、思い入れたっぷりに感じられるということだ。

 たぶん私の読み誤りではない。著者は「あとがき」でもいろんなひとへの謝辞の前にとくにナンシーに言及して

 

     ナンシー関という人は、この複雑な〔テレビ以外のものは目に入らない場所の〕リアリティをその強靱な知的体力をもって、ほとんど独力で、批評の対象へと見事に昇華させた。畏れおおくて、とても「彼女のひそみにならって」などという勇気はないが、私なりにナンシーが批評的に括り出そうとしたリアリティを、社会学の対象として再解釈したつもりではいる。(『嗤う日本の「ナショナリズム」』二六八ページ。以下、この本からの引用は書名を略し、ページ数だけを記す。なお、本稿の引用には、原文にないふりがなを補った箇所がある。また〔〕内は私が補った部分)

 

と書いている。この本で批評の対象になっている「登場人物」のうちで「あとがき」で言及されているのはナンシー関だけだ。

 ナンシー関は、おもに一九九〇年代、テレビに対して辛辣な批評を向けつづけ、二〇〇二年に亡くなった「ケシゴム版画家」・「テレビ批評家」である――――らしい。

 「らしい」というのは、じつは私は生前のナンシー関には何の関心もなかったのでよくわからないのだ。私がナンシー関がどういう人物かを知ったのは、この本の二二八ページに紹介されている2ちゃんねる上の「弔辞」を読んだときだった。WWFのメンバーが「傑作な弔辞がある」とメーリングリストで紹介してくれたのだ。

 著者はそのナンシー関について「反時代的思想家」という評価を与えている(一九〇〜一九一ページ)。

 「反時代的」というその「時代」とは、ここでは、「テレビに感動させられていることを知りながら感動を求める」ような時代のことだ。その時代の仕組みは、正面からの批評はもちろん、皮肉による批評すら通じないほどの強固さを持っている。

 他の多くの論者は皮肉を浴びせるという方法を否定して、テレビとは別の分野から啓蒙的なもの言いを社会に向け始めた(「啓蒙」とは、何かについてよく知っているひとが、それについてよく知らない人びとに「知らないなら教えてあげましょう」という態度をとることだ)。しかしナンシーだけはその動きに同調しなかった。テレビを中心に組み立てられ、外部への離脱すら許さないその時代の仕組みそのものを批評しつづけた。それは、別分野から社会を啓蒙するという方向性が、じつは「テレビに感動させられていることを知りながら感動を求める」という時代の仕組みと同じ方向性を持っていることに気づいていたからだ。ナンシーは、一日に一五時間もテレビばかりを見つづけ、テレビへの批評をつづけることで、その時代に抵抗した。

 それが著者のナンシーへの評価である。

 北田さんはどうしてナンシー関にこれほど高い位置づけを与えるのだろう?

 それは、たぶん、北田さん自身がナンシーと同じ「反時代的」な社会学者でいたいという信念からだろう。

 北田さんが感じている二〇〇〇年代半ばの社会全体の仕組みとは、「感動させられていることを承知で感動する」、「ある信念が虚構であることを承知でその信念を熱心に信奉する」というものである。その仕組みは、正面から批評しても少しも揺るがないし、皮肉を言っても通じない。皮肉を言われることすらが、仕組みのなかに、しかもその仕組みの骨組み部分に組みこまれているからだ。その時代を批評するのは不可能に近い難事である。

 北田さんは、自分が『電車男』を読んで泣いたことをこの本の最初で暴露し、自分自身がその「感動させられていることを承知で感動する」仕組みのなかの一員であることを認めている。その「時代の仕組み」のなかの一員として、その自分の時代を社会学者として批評していきたい――――この本の中のことばでいえば、その時代を「反省」していきたい。この時代を「反省」する方法を何とかして見出したい。その思いが、ナンシーへの思い入れとして表れているのだろうと思う。

 

 独特のわかりにくさ

 もう一つ、この本の強い印象として残っているのは、この本の独特のわかりにくさだ。

 何が「わかりにくい」かと言うと、まず、「この本はわかりにくい」ということ自体がわかりにくい。難しいことを考えずにさらっと読み流せば読み流せてしまう。で、この本は易しいのかと思っていると、「難しいこと」――――たとえば評のネタにしてやれとかいうこと――――を考えて読み出すととたんに難しく感じられる。この本はそういう本なのだ。

 この『嗤う日本の「ナショナリズム」』は、最初に読んだときには、たとえば――――いや、たとえなくても東浩紀さんの『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)よりもずっとわかりやすく感じた。

 『動物化するポストモダン』をはじめて読んだときは、東京の通勤電車のなかで「なんじゃこりゃ? わからんぞ」と関西弁で何度も小声で口に出していた(いや、私は出身が関西なもんで、ひとりごととかは関西弁になるのです)。その声に気づいたひとがいたらけっこうブキミだっただろう。

 しかし、この『嗤う日本の「ナショナリズム」』は、二〇〇五年三月末に岐阜から伊賀上野まで旅行に行ったとき、かなり疲れ果ててたどり着いたホテルで読んで、東京に帰るまでに読み終えてしまった(このとき、廃止直前の、一部路面電車の名鉄揖斐線に初めて乗った。名鉄線に廃止になる線があるとは知っていたけど、この線だとはまったく知らなかった。日立電鉄のほうはずっと「追っかけ」ていたんだけど……)。旅行中でリラックスしていたという要素を考えても、やはり読みやすかったのだろうと思う。

 ところが、この本を「書評」とかしてやろうと思い立って、確認のために再読したときには、こんどは一転してえらく苦労した。いままた読み返してみて、再読したときによくわからなかった部分がやっとだいぶわかるようになった。でもまだ十分にはわかっていない。わからないまま「見切り発車」的にこの批評を書いている。ということは、この批評はトンでもない誤解に基づいている可能性があるわけで、これを読むかたは気をつけてください。

 『動物化するポストモダン』のばあいは、「動物化」や「シミュラークル」、「萌え」、「データベース」といった東さん独特の術語が、読みすすめていく道の上にはっきりとばらまかれている。「あ、これをクリアしないと先へ進めないな」ということが見通せる。だから『動物化するポストモダン』には独特の「読みにくさ」感があった。 だから、読むほうも最初から警戒して取り組むことができた。

 この『嗤う日本の「ナショナリズム」』にも独特の術語はたくさん出てくる。しかし、連合赤軍、糸井重里、田中康夫とつぎつぎに出てくる「登場人物」の紹介を読んでいると、その独特の術語に引っかからずに読み進められる。「反省」が自己目的化して殺し合いに発展した連合赤軍、それに対する「抵抗としての無反省」を自分の方法とした糸井重里、その「抵抗として」のスタンスを棚上げしてしまった田中康夫、そしてやがて抵抗を棚上げしたことも忘れてたんなる無反省がはびこる一九八〇年代の日本文化――そういう流れがなんとか見通せた気がするのだ。そのまま勢いで一九九〇年代から二〇〇〇年代について論じた最後の章まで読んでしまえる。

 

 「わかりにくさ」は存在意義の裏返しである

 ところが、「何が書いてあったか」を考え直してみると、この一九八〇年代の「抵抗を棚上げしたことすら忘れた無反省」の話あたりから先の論理展開が思い出せない。読み返してみてもわからない。それどころか、読み返してみると、最初に読んだときにはよくわかったつもりでいた前半の論理展開もわかりにくく感じられてくる。

 その一九八〇年代以後のわかりにくい部分が前半の部分を参照しているので、その参照されている部分を読み返してみると、あらためて「あれ? この本ってこんなこと書いてあったっけ?」と感じる。その部分は最初に読んだときにふんふんと頷きながらじつは読み飛ばしていたのだ。

 この本にも、『動物化するポストモダン』の「データベース」や「萌え」と同様に、「抵抗としての無反省」、「消費社会的シニシズム」などの「難しげな術語」がたくさん出てくる。しかし、連合赤軍や糸井重里その他の登場人物をめぐる話を中心に読んでいると、それに「オマケ」的にくっついて出てくる術語はそれほど気にせず読んで行ける。しかし、「難しげな術語」を中心に論理展開を追い、連合赤軍や糸井重里以下の登場人物をその説明に援用されているキャラとして読み始めると、なんか待ちかまえていたような難しさが姿を現す。それが私がこの本に持っている率直な印象だ。

 それでも、たぶん田中康夫の『なんとなく、クリスタル』の少し先で終わっていれば、これほどこみいった印象はなかっただろうと思う。「抵抗を棚上げした無反省」はついにただの「無反省」に落ちこんでしまいましたで終わるのだから。それは、連合赤軍が特別に特権的な行為にしてしまった「反省」という行いがついに消滅しましたという一貫した動きとして――「反省」消滅史として、ともかく理解することができる。その「反省」って何なんだとかいうことを難しく考えないとすれば、だが。

 とくに難しく感じるのはその「たんなる無反省」から後の動きの説明だ。いったん消滅したはずの「反省」がまた動きだし、それが「2ちゃんねる化する社会」へと行き着く。その道行きである。

 まず、近代的な「主体性の確立」を求める「反省」が、「主体性の確立」そのものの不可能さに直面して死滅する。ところが、その「主体性の確立」に対する「抵抗」として始まった「一つ上のレベルに立ってものごとを見下す」という方法(「アイロニー」)がこんどは新しい「反省」の型になってしまい、いままたそれが行き着くところまで行ってしまっている。北田さんが書いているのはそういう道筋なのだと思う(この評はその理解を前提に書いている。まちがっていたらごめんなさい)。この過程の説明のためにいろいろな要素が援用され、それが錯綜していて、ともかくわかりにくい。

 このわかりにくさは、まずは、消滅していく過程を説明するほうが生成する過程を説明するよりもたいていはかんたんだという理由によるものだろう。何かが(この本のばあいは「反省」という行いが)消えていく過程は、最初にあったものが徐々に失われていく過程を説明すればいい。しかし、生成していく過程の説明では、どういう素材があって、それがどういう型にあてはめられて、どういう作用を受けつつできあがっていくのかを説明しなければならない。それだけ説明の手間は増す。

 けっこうむちゃな試みである――というと北田さんは怒るかも知れない。その「反省」復活の仕組みの説明こそがこの本でいちばん書きたかったことなのだから。でも、すごく突き放した言いかたをしてしまえば、一九八〇年代で「賞味期限」が切れた「反省」は潔く捨てて、その後は別の原理で説明すりゃよかったのである。そして、まさにそれをせず、一九八〇年代に消滅したはずの「反省」史として「2ちゃんねる時代」までを描ききったところにこそ、この本の独特の存在意義がある。

 

 北田さんの「自分探し」

 後半がとくにわかりにくい理由としては、これ以外にも、この前半部分を読み終えたあたりでそろそろ私の集中力の限界が露呈し、集中力が切れるので、後半がわかりにくいのだという凡庸なというかなさけない説明も思いつく。

 だが、もうひとつ、この後半部分をわかりにくくしている要因があるのではないか。

 それは、前半が、北田さんがいま残っている資料から再構成した流れなのに対して、後半は北田さん自身がその流れの中にいたということだ。

 北田さんは一九七一年生まれだという。まさに連合赤軍が殺し合いとあさま山荘事件で崩壊する時期だ。この連合赤軍の話を北田さんが自分の体験として覚えているわけがない。糸井重里が関係したパルコの広告を目にした記憶ぐらいはあるのかも知れない(北田さんは、『広告都市・東京』の「あとがき」に「パルコの渋谷の高揚感も、コギャルたちが闊歩していたセンター街のリアルも知らない」と書いている」)。でも、そのころの北田さんは、糸井重里の「抵抗としての無反省」の立場に思いを致したりしなかっただろう。ここまではたぶんあとから再構成した「時代の流れ」だ。

 しかし、糸井重里の話のあとに出てくる一九八〇年代半ばのテレビ番組『オレたちひょうきん族』や『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』は、北田さんはふつうの視聴者として見ていただろうと思う。俵万智の『サラダ記念日』を刊行直後に読んだかどうかは知らないけど、そこから起こった「短歌ブーム」みたいなののなかに一〇歳代の北田さんは身を置いていたはずだ。そこから「2ちゃんねる時代」までは北田さんが自分で体験してきたことなのだ。

 自分が生きてきた時代を論理立てて論じるのは難しい。自分の生きてきた時代についてはいろんなことを知っているので、一つのやり方で論理を立ててみても、それとは違うものをいくらでも思いついてしまう。また説明のための素材を無数に思いつくので、そのどれを使えば適当かがかえってわからない。だから「自分探し」は難しい。

 しかし、だからこそ「自分探し」は人を――北田さんのような「若者」を――惹きつける。その「自分探し」の一つの方法として北田さんが見出したのが、自分の生きてきた時代を一九六〇〜七〇年代との繋がりを軸に整理してみようという方法だった。一九六〇〜七〇年代――糸井重里の時代までが「素材」編で、そこから先が実践編だと考えてみれば、この後半部分のわかりにくさの理由も理解できるのではないかと思う。

 北田さんは「抵抗としての無反省」の人 糸井重里を南伸坊が紹介した文を引用している。

 

     糸井重里は、あの頃も自分をしていたので、いまと同じように、いつでも自分を疑ることができたのである。(七〇ページ)

 

 北田さんは、この糸井重里の後を受け継いだのがナンシー関だという系譜を考えているらしい。そしてたぶん北田さん自身がこの「抵抗としての無反省」人の系譜に連なりたいのだ。一九八〇年代の「あの頃」も、「2ちゃんねる時代」の「いま」も「自分」をしている北田さんが、どうやって自分や自分の生きてきた時代を疑ればいいのか――その「ラジカリズム」の表現の方法を探ったのが、たぶんこの本なのである。

 

 この本は「日本のナショナリズム」の本ではない

 印象とその印象からの勘繰りの話はここまでとして、この本の紹介と批評に移る。

 その最初に「否定神学」的なもの言いをひとつしておこう(「否定神学」とは「○○は〜〜ではない」という否定的な表現でしかものごとは定義できないとする考えかたのことらしい)。

 この『嗤う日本の「ナショナリズム」』は日本のナショナリズムについての本ではない。

 この本は「2ちゃんねる化」した社会についての本だ。2ちゃんねるから生まれた『電車男』が、2ちゃんねる投稿者(2ちゃんねらーというらしい)の枠を超えてベストセラーになったことを例に挙げて、北田さんはいまの社会は「2ちゃんねる化」しているという。ここでいう「2ちゃんねる化」とは、一方ではすべての感動は演出されるものであるという皮肉な見かたを身につけながら、他方では純粋に感動を求め、ときにはひとを感動させる『電車男』のようなものを作り上げてしまうことだ。このように表現すると矛盾しているように見えるが、2ちゃんねるの人びとにとってはそれは矛盾ではないらしい(と北田さんは言う)。

 その2ちゃんねるは、『朝日新聞』に代表される「戦後」進歩主義を嘲笑・非難し、ことさらに愛国的・憂国的な立場をとる発言に満ちている。だが、北田さんは、これは従来の「右‐左」図式で解き明かせるナショナリズムとは性格の違うものだと捉えている。北田さんは、「右‐左」図式で解き明かせるナショナリズムを「思想としてのナショナリズム」と呼び、この本で問題にするカッコつきの「ナショナリズム」と区別している。

 北田さんは、窪塚洋介の二〇〇一年から二〇〇二年にかけての発言(窪塚がコリアン・ジャパニーズの青年を演じた『GO』と「右翼ギャング」の青年を演じた『凶気の桜』のあいだの時期)を例に引いて、「2ちゃんねる時代」の「ナショナリズム」の性格を特徴づける。それは、一方で国境線は人為的に引かれたものにすぎないと知りながら、他方では本気で「日本人らしさ」を求め、愛国的・憂国的な言動に走るというものだ(私は窪塚洋介についてはナンシー関以上によく知らないから、「窪塚洋介的ナショナリズム」のこういう解釈が正しいのかどうかはよくわからない)。

 それは従来の「右‐左」図式では解き明かすことのできない「ナショナリズム」であると北田さんは言う。伝統的なナショナリズムは国境線や民族の作為性を否定するものだと北田さんは考えているのだろう。その伝統的ナショナリズムと異なる2ちゃんねる時代の(カッコつきの)「ナショナリズム」は、「感動は演出されると知りながら本気で感動を求める」という「2ちゃんねる化した社会」のあり方と同じ構造を持っているのではないか。

 そういう理解のもとに、「2ちゃんねる化した(2ちゃんねる化する)社会」がどこからどうやって生まれたかを解き明かす。それがこの本の主題である。

 

     なお、東浩紀さんはこの本を評して「タイトルと帯文に反して、2ちゃんねるの本でもナショナリズムの本でもない」と書いておられる(東さんのブログ「渦状言論」二〇〇五年三月一四日の項)。「ナショナリズムの本」でないのは確かだが、「2ちゃんねるの本」ではなく「中心は1980年代論である」という東さんの読みかたには私は同意できない。たしかに、連合赤軍論の後にいきなり「八〇年代はまだ遠い」(六四ページ)という文が出てきたりして、北田さんが一九八〇年代に特別の重みを置いているように読めないことはないけれども、べつに一九八〇年代を扱った章(第三章)が特別に重要な章だというわけではない。ただし、東さんの「いまこの時期に1980年代論を出版した意図は、1960年代から2000年代にいたる日本のサブカルチャーの風景を一本の線で繋ぐことにある」という評はそのとおりだと思う――「サブカルチャーの風景」という表現がこの本にふさわしいかどうかという点に違和感は感じるけれども。たしかに扱われている内容は「サブカルチャー」にかかわるものが多いが、北田さんは主流「カルチャー」と「サブカルチャー」という概念をそれほど重要視していないように感じるからだ。

 

 この本の大ざっぱな構成

 この本は、序章、第一章から第四章、終章の六つの章に分かれており、最後に註とあとがきがついている。

 序章はこの本の問題意識を提示した章だ。いま書いた「感動は演出されると知りながら本気で感動を求める」という「2ちゃんねる化した社会」のあり方がここで提示される。

 第一章から第四章は、連合赤軍の凄惨な「総括」から2ちゃんねる時代の「感動は演出されると知りながら本気で感動を求める」にいたるまでの「反省」の歴史である。第一章が一九六〇年代(扱っている事件は一九七〇年代初頭のできごとだけど)、第二章が一九七〇年代、第三章が一九八〇年代、第四章が一九九〇年代から現在に大まかに対応している。また、ここでいう「反省」というのは、「自分が悪かったことを認める」という狭い意味(「反省だけならサルでもできる」というときの「反省」と言ったらいいだろうか?)ではなくて、「自分の心のなかを振り返って(反)よく考えてみる(省)」という漢字どおりの意味、または、「自分の心のなかに光を当て返してみる」という reflection という英語の意味に近い(これはヒト以外のサルにはできなさそうである。よくわからないけど)。

 もうちょっと言うと、北田さんが言っている「反省」というのは、自分を「反省する自分」と「反省の対象である自分」にいったん分けてみて、「反省する自分」が「反省の対象である自分」についていろいろ考え、考えることによって「自分」を再統合して上のレベルに進むという「弁証法」っぽい過程のことのようだ(ただし、この理解では「無反省という反省」のあたりから先が十分に解釈できないから、百パーセント正しい理解ではないのだろう)。「自己批判を通じた人格の成長」とか「批判することによってさらに団結を固める」とかいうイメージか背後にあるのだろう。

 北田さんの議論の根底にあるのは、そういう「批判を通じた再統合」みたいな美しい「反省」像というのは理念にすぎず、それは暴走して他人の身体を抹殺する(連合赤軍の)「総括」に化けたり、自分の社会的位置を自在に操ることで他人に対する「アイロニー」になったりする不安定なものだということだろうと思う。

 

     この本でわかりにくい点の一つはこの「アイロニー」の用法である。日本語の「皮肉」にあたる英語の「アイロニー」と「シニシズム」を北田さんは使い分けている。さらに、浅田彰氏の「イロニー」(「アイロニー」)と「ユーモア」という二分法を北田さんは第三章以後で参照している。参照するのはいいのだけど、北田さんの定義とは異なる浅田氏の「アイロニー/ユーモア」の構図を、北田さんはときどき自分の議論のなかに引っぱってきている。もちろんていねいに読むとわかるように書いてあるのだけど、注意しないとこの本の読者は「アイロニー」ということばに振り回されてわけがわからなくなってしまう可能性がある。

 

 この本のもう少し詳しい「総括」(まとめ)

 第一章では一九六〇年代的なものとして連合赤軍の「総括」という異様な行動のダイナミックス(動態、動きの仕組み)にスポットライトが当てられる。

 北田さんは、連合赤軍が「総括」の名のもとに凄惨なリンチを繰り返したのは、反省を強いるあまり、それが形式化して暴走してしまったからだとする。章の最後に、その「反省の暴走」に対する抵抗の動きとしてウーマン・リブの運動家 田中美津の運動論が紹介されている。ただし、この部分は全体から見れば傍論で、フェミニズムをめぐる話題はここ以外ではほとんど展開されていない(この評でもこの話題にはほとんど触れない)。

 第二章では、連合赤軍的なものへの抵抗として、ウーマン・リブにつづいて現れた糸井重里の方法が中心に採り上げられる。それは「連合赤軍的なもの」に抵抗するために最初から「反省しない」という立場を打ち出すことだった。これを北田さんは「抵抗としての無反省」と呼んでいる。

 第三章の最初には田中康夫の『なんとなく、クリスタル』論が置かれている。田中康夫の方法は、糸井重里の「抵抗としての無反省」とも少し違っていて、「抵抗」の部分を棚上げした「無反省」だという。

 ところが、一九八〇年代半ばからは「抵抗を棚上げした」という部分まで忘れられてしまって、「抵抗を棚上げした無反省」はただの「無反省」になってしまう。それをよく表現しているのが、『元気が出るテレビ!!』を代表とする「テレビがはやらせれば何でもはやることを前提に作られたテレビ番組」であり、また、「反省」の構図(自分を「反省する自分」と「反省の対象である自分」に分けてみること)などとは無関係に作られた(ように読める)俵万智の『サラダ記念日』である。

 第四章では、一九八〇年代の段階では「無反省」の人たちの言動の上にじつはまだ存在した「ギョーカイ」(テレビやイベントなどの情報の送り手側)の権威が崩壊した後の一九九〇年代以後の社会が主題となる。「ギョーカイ」さえネタにされてしまう「2ちゃんねる化した社会」では、皮肉(アイロニー)という形式の「反省」の変種すら、皮肉として成功するかどうかは賭けのようなものになってしまう。それまで「判定基準」として機能してきた「ギョーカイ」を葬ってしまった以上、それが皮肉として通じるかどうかの基準は、ただ自分に繋がる相手(掲示板でレスをつけてくれる人とか)の評価しかないからだ。そうやって「反省」が化けたなれの果ての皮肉(アイロニー)すらが形式化してしまう。そこでは、「自分に繋がる相手」を求めるためのきっかけとして――そのきっかけとしてのみ「ロマン主義」が登場してくる。その「ロマン主義」の代表が先に触れた「窪塚洋介的ナショナリズム」だ。

 終章は、第一章から第四章までの「総括」(もちろんごく穏当に「まとめ」の意味である)と、「では、2ちゃんねる化した社会で私たちはどうすればいいのか?」についての北田さんの考えを述べた章である。

 次節以降では、この本の各章を詳しく紹介しながら、少しずつ私の考えを並べて述べていくことにしたい。

 

 

 2  連合赤軍事件をめぐる「さらなる総括」

    ―― 第一章をめぐって ――

 

 健全な「反省」のできない時代

 この本で描かれるここ五〇年ほどの日本社会の「反省」の歴史はどんなものだろうか?

 二三五ページにこの本の「反省」史の記述を「総括」した表が載っている。時代を (1)一九六〇年代〜七〇年代前半、(2)一九七〇年代半ば〜八〇年代初頭、(3)一九八〇年代、(4)一九九〇年代から現在までの四つの時期に区分し、それぞれの時代について「人物・出来事」、「反省の形式」、「人間(内面)の形態」をまとめたものだ。(1)が第一章の「連合赤軍時代」、(2)が第二章の「糸井重里の時代」、(3)が第三章の「田中康夫と『元気が出るテレビ!!』の時代」、(4)が第四章の「2ちゃんねる時代」に相当する。だが、残念ながら、本文をよく理解していないとこの表はなかなか理解しづらい。

 そこで、僭越ながら、私がここで「さらなる総括」を試みてみようと思う。

 「反省」とは、さっきも書いたように、「反省する自分」と「反省の対象になる自分」に分けてみて、「反省の対象になる自分」についていろいろ考える行いのことだ。

 「反省」すると人間的に成長するというのがふつうの考えだろう。何かのイベントや試合のあとの「反省会」などを考えてみればよい(当然ながら「反省会と称するたんなる飲み会」は除く……って反省会ってたいていそういうもの? いや、飲み会ならこれからコミケの後にも行きますけど。もしかして今日の飲み会では今回のコミケについて「総括」とかするのかなぁ?)。

 たとえば、自分の何かの過ちを「反省」するばあい、その過ちがどうして起こったかを考え直してみることで、こんど同じような状況に直面したときにも同じ過ちをせずにすむようになる。何かの成功体験を「反省」すれば、その成功をまぐれに終わらせず、どんなばあいにでも通じる成功パターンのようなものを身につけられるかも知れないし、その成功に潜む「失敗のもと」に気づいて早めに対処できるかも知れない。

 だがこういう健全な「反省」はこの本にはほとんど出てこない。それは、この本で扱っている一九六〇年代以後の日本社会には何か健全な「反省」を失敗させるような仕組みがつねに存在したからだ。一九六〇年代の連合赤軍時代から現在の「2ちゃんねる時代」までの日本社会は、ずっと「(健全な)反省のできない時代」のなかにあった。

 

 それは「近代」の始まりから始まった

 その「反省のできない社会」はいつ生まれたか?

 それは、突きつめて言えば「近代」が始まったときに生まれた。

 近代より前の時代には「反省」には終着点があった。神が望まれるあり方とか、お天道様のお許しになる生きかたとか、そういうところにたどり着けば「反省」は終わりだった。もっとも、この時代にだって、じゃあだれが「神が望まれるあり方」かどうかを判断するのかという問題はあったわけだが、そのことはここでは触れないことにしよう。

 ところが、神様とかお天道様とかいう、人間を超えた権威は、近代には失われてしまった。そこで、人間は、人間がこれまでやって来たことを考え直すことで「反省の終着点」を見つけ出さなければいけなくなってしまった(三五〜三八ページ)。

 だが、自分のやったことを考え直すために、人間がこれまでやって来たことを考え直すという「反省」のやり方は本質的な不安定さを持っている。なぜかというと、人間がこれまでやって来たことをどこまで考え直せばいいかという限界がはっきりしないからだ。

 自分がやったことを考え直すために、前に同じようなことをやった人の例を引っぱってきても、もしかするとその人は自分と同じ過ちを犯していたかも知れない。かといって、自分とは違うやり方で成功した人のことを参考にしようとしても、たまたまその人が(『ギャラクシーエンジェル』のミルフィーユ・桜葉のように)超ラッキーだったから成功しただけで、何の参考にもならないかも知れない。前の人が自分と同じ過ちを犯したのかどうか、前の人が成功したのは方法が正しかったからか単にラッキーだったからか――それを確かめるためにはさらにまた別の人の例を参考にしないといけない。そうすると、その「また別の人」も、やっぱりまちがっていたかも知れないし、単にラッキーだったから問題を起こさずにすんだだけかも知れない。考え直すための材料として、法や規約のようなものを持ってきても、法や規約を定めた人たちの考えがまちがっていたとか、いまの時代には合わなくなったとかいう可能性がある以上は、そこで「反省」を終わらせることはできない。そうやって考えつづけて行けば、「反省」はどこまで行っても終わらなくなってしまう。

 

 「大きな物語」の失墜した時代

 では、どうして「近代」の始まりから始まった「反省のできない時代」の問題が一九六〇年代まで噴出しなかったのか?

 答えは二つ考えられる。

 一つの答えは、その問題はつねに噴出していたのだが、たんにこの本では扱っていないという答えだ。話を日本に限っても、その「反省できない時代」の問題は夏目漱石や田山花袋の時代から存在した。しかしこの本は一九六〇年代の終わりから話が始まっているので出てこないだけだ。そういう答えである。

 もう一つの答えは、一九六〇年代までは、近代社会でありながら、近代より前の「神」や「お天道様」のような存在がじつは存在して、「反省」はそこにたどり着けば終わりだったというものだ。それは、学校や会社の共同体的な決まりごとだったかも知れない。また、全社会的にも、その社会全体を覆う「人間とはこういうもの」とか「社会とはこういうもの」とかいう合意が存在したのかも知れない。東浩紀さんのいう「大きな物語」だ。最後には、自分の言ったこと・やったこととその「大きな物語」とを引き比べるところまで行けば「反省」は終わる。

 東浩紀さんは日本社会では一九七〇年代から「大きな物語」の力が失われはじめたと論じている。北田さんの本の舞台となる「反省のできない時代」は、「大きな物語」の失墜とともに、とくにその失墜がはっきりした部分から現れてきた。そう考えてみてもいいと思う。その東さんは、この本について「(僕の言葉で翻案すれば)「大きな物語なき時代にいかにメタレベルを担保するか」という切実な問題意識が横たわっている」と評している(「渦状言論」二〇〇五年三月一四日の項)。

 一九六〇年代までは「大きな物語」があったから日本社会に住む人たちは「反省」できた――そう言ってしまっていいかどうかは私にはわからない。少なくともそれが一九六〇年代以前を理想時代のように描くことにつながるならば、それには私は居心地の悪いものを感じる。でもこのことはこれ以上は論じないことにしよう。

 

     この「これ以上は論じないことにしよう」というところにまさに「近代」の「反省のできない時代」としての性格が表れている。一九六〇年代以後を論じるためには、ほんとうは一九六〇年代より前を論じて、一九六〇年代以後という時代がどんな時代かをはっきりさせなければならない。けれども、こんどは、たとえば一九四五年から一九六〇年ごろという時代区分――「戦後復興期」ということになろうか――を採り、その時代と一九六〇年代以後との対比をはっきりさせたとしても、こんどは「では一九四五〜一九六〇年というのはどんな時代なのか? その時代との対比で一九六〇年代以後をはっきりさせられるのはどういう面についてで、どういう面についてはこの対比でははっきりさせることができないのか?」という疑問が起こる。それをはっきりさせるためには、こんどはたとえば一九四〇年ごろから一九四五年の「戦時体制期」などを持ち出さなければならない。こういうふうに「どこまで行っても百パーセントはっきり言い切るための基準が見つからない」ということが、近代が「反省のできない時代」である大きな原因なのだ。そういう状況では、どこかで「問題はあるかも知れないけど、とりあえずこの場にいるみんなは合意できるでしょ?」という点を無理にでも探さないと、議論が組み立てられない。「反省」のばあいにもこの「とりあえず合意できるところ」が基準になるのだが、それが見つからないときにどうなるか? それがここで北田さんが問題にしている状況だ。

 

 連合赤軍事件

 この「近代」の病理が強く現れたのが連合赤軍事件である。

 連合赤軍事件が起こったとき(一九七〇〜一九七二年)には私はもう生まれていたが、どういう事件かはまったく知らなかった。この本で遅まきながらその凄惨な実態を知り、何かやりきれない暗い気分になった。

 連合赤軍事件というのは、「革命」集団の連合赤軍が山中に引きこもり、その環境のなかで仲間どうしで凄惨で異常な殺しあいを展開したという事件だ。この殺しあいの理由になったのが「総括」という行いだった(らしい)。

 「総括」とは一種の「反省」のことだ。一人のメンバーの「反省」をみんなで聴き、疑問点を問いただして、そのメンバーの「反省」をやり遂げさせてやる。メンバーの「反省」をネタにしたミーティングみたいなものらしい(なんかそれだけでイヤ〜な感じがするけど)。

 ところが、この「総括」と呼ばれた「反省」には終着点が存在しなかった。「ここまで反省すればもういいよ」という「落としどころ」がなかった。だから、たとえば会議中に化粧をして他人の発言を聞いていなかったとかいう些細なことの「反省」が、過去の恋愛体験とか生い立ちとかにまで遡ってしまう。そして、ついにその人の人生を全否定し、人生を否定するだけでは足りずにサディスティックなやり方で死に追いやる。そうやって「総括」は異様な殺しに発展した。それが北田さんの解釈だ。

 「総括」が「終わりのない反省」である以上、途中で終わるというのはあり得ない。どこまでもやり遂げようとすると、自分が死ぬことで中断するしかない。つまり、「総括」については、「総括を終えないまま生きている」か「総括を終えないまま死んでしまう」(「敗北死」)のどちらかしかあり得ない。「総括」を求められる場から脱出するしかないが、実際にはそれも難しかったようだ。

 では、生きて総括をやり遂げる方法はないのかというと、ある。「総括」をやり遂げていちど死んで、死体となってなお生きつづければよいのだ。

 したがって、「総括」の場は「ゾンビ」が支配することになる。

 もちろん「ゾンビ」というのは比喩であって、具体的には森恒夫という、生物としてはちゃんと生命を持った男だったらしい。ではなぜ森は「ゾンビ」なのか?

 この森という人物は自分の「総括」の途中で泣き出してしまった。しかも、その森の「総括」というのは、内容から言えば凡庸でごくつまらないものだったらしい。ところが、森が泣き出したのが、その「総括」の場にいた者たちに伝染してしまった。みんながもらい泣きして、なんだか知らないけど感極まって、最後には「インターナショナル」の大合唱で終わったという。

 

     ちなみに、「インターナショナル」と言っても「近ごろの若い者」にはわからないだろう。一八八九年にできた国際労働者組織「第二インターナショナル」の歌として作られ、その後、全世界で革命歌として歌われるようになった歌……だったと思う。ちなみに私は(日本語版の)一番だけなら歌詞を知っている。まあみんなで歌えば盛り上がる歌ではある……と思う。

 

 ともかく、これで森は「総括」をなし遂げたことになってしまった。終わりがないはずの「総括」をやり遂げたのだから、森は死んで、しかしなお生き残ったのだ。そして、その森は、他のメンバーが同じように「総括の終わり」に到達することを絶対的に妨害する存在になってしまった。他のメンバーが「総括の終わり」に到達しそうになっても、森が「総括」をやり遂げた者として何か疑問をさしはさめば、そのメンバーの総括を「未完」にして出発点まで引き戻すことができるからだ――それがどんなに本筋からはずれた「揚げ足取り」のような些細な「ツッコミ」であっても。

 

 なぜ「ゾンビ」なのか?

 北田さんが森の存在を「ゾンビ」という不気味な存在として捉えているのがこの文章の特徴的なところだろう。

 

     もっとも、「ゾンビ」という表現が北田さんのオリジナルな発想かどうかは私は知らない。少なくとも、この本の後のほうでこの「総括」ゾンビと対照されている「消費社会的ゾンビ」のほうは必ずしも北田さんのオリジナルではなく、浅田彰も同様の捉えかたをしているようだ(一六七〜一六八ページ)。

 

 いったん死んでなお生き残っているのであれば、「生まれ変わった」とか「復活した」とかいうポジティブな感じの表現もできるはずである。「不死身」とか、さらには「復活」を証明した救世主であるとかいう、神々しいカリスマ的な表現もできたはずだ。じっさい、自分の達した境地に達することをだれにも許さない権威の高さは「神」とか「救世主」とか呼んだとしてもおかしくはない。

 しかし北田さんはあえて「ゾンビ」と呼んでいる。これは、あとで出てくる「消費社会的ゾンビ」と対照させるための伏線なのかも知れない。あるいは、森はどうもカリスマ性のない人間だったらしく、それを神やカリスマに類する存在として描くのはおかしいということかも知れない。

 けれども、もう一つ、「ゾンビ」は、いちど死んでいながら身体は持っているという特徴がある。その身体の存在に北田さんは注目しているのだと思う。

 森がどうやって「総括」の場の主人になったかというと、なんかつまらないみっともない話をして、それで他のメンバーをもらい泣きさせてしまったからだ。けっして他人にはまねのできないカッコいい演説をやってその場の主導権を握ったのではない(もしそうやったのなら「カリスマ」と言っていいだろうけど)。理屈ではどんなにツッコミどころがあっても、どんなにつまらない話でも、ともかくもらい泣きという身体的反応を引き出したことで森は「総括」の場の主人になった。森は身体のレベルで共感されたために主人になり、森のつまらない話で泣いてしまった他のメンバーは、その身体的な反応をさらしてしまったために、森の主導権に反論できなくなってしまったのだ。

 「総括」の場ではだれも理屈では終着点に達することができない――生きつづけても死んでしまっても総括は終わらない。だが、理屈で到達できないその距離を、身体のレベルで「なんでか知らないけど泣いてしまった」という共感を引き出すことで森は埋めてしまったのだ。

 もらい泣きしてしまった他のメンバーは、森が「総括をやり終えた」ということへの疑問を提起できなくなる。理屈で――論理で納得したわけではない。だが、森の凡庸な話でもらい泣きしたことはみんなに見られている。しかも、ほかのみんなもそれぞれがもらい泣きをしたことは身体感覚として覚えている。それでなお森に疑問を提起すれば、自分が身体で認めたことをあとから否認したことになるし、他のみんなが身体感覚として覚えていることをも否定することになる。そんなことをすれば自分のほうが「総括」共同体から浮き上がってしまい、そのことについて新たに「総括」を迫られることになってしまうだろう。

 身体は、論理ではどうしても解決できないことを一瞬で解決してしまう存在なのだ。そして、森は、理論的に、または論理面で優れているからではなく、もらい泣きを引き出した身体を持っているために、他のメンバーより絶対的な優位に立てた。じっさい、その身体を持っていれば、「共産主義化」とかいう、およそ体系性のない、論理的には超えーかげんな論理を振り回しているだけでもその場の絶対的指導者になれたのである。

 論理や精神の面では死んでいても、ともかく身体を持っているだけで絶対的な存在として君臨しつづける「総括」の指導者を北田さんは「ゾンビ」と呼んだのだ。

 

 身体と「共産主義化」理論

 論理ではどうしても到達できない距離を身体と身体感覚はかんたんに埋めてしまう。身体のこの性格が、次の章以後に出てくる津村喬の戦略につながっていくのだろう。津村は、自分で全国各地に出かけることで自分の文章の読者とじかに対面し、活字媒体が一方通行であることの不十分さを埋めようとした(九八ページ)。また、津村は、『なんとなく、クリスタル』ブームのころ、消費生活を送ることに何の疑問も持たない「クリスタル族」を批判し、自分で体を動かして自分で消費するものは自分で作ろうとする「ドゥ・イット族」を持ち上げたという(一二八ページ)。その後は津村は太極拳の専門家になってしまったらしい。これも身体の動きを重視する運動である。

 身体を同じ場所に置いてコミュニケーションをとることを重視し、自分の消費するものは自分の身体を使って作るべきだと主張する津村の考えを背後から支えているのは、この「論理が到達できない距離を身体が埋めてしまう」という信念だろう。

 連合赤軍事件のなかに、「身体」という要素は、この「ゾンビ化」を除いても何度も姿を見せている。

 「ゾンビ」であり「総括の場の主人」であった森は「共産主義化」というおよそわけのわからない支離滅裂な思想――運動の指導原則――を好んで口にしていたらしい。

 もっとも、「共産主義化」思想を支離滅裂だと書いているのは北田さんであり、森という人は一貫した思想だと考えていたのかも知れない。しかし、たしかに北田さんが五三ページで引用している森の「共産主義化」ということばの用例を見ると、とてもそれが体系立った思想とは思えない。

 ちなみに、ここに引用されている「共産主義化」とは、縛られても「総括」に集中しなければならないことを要求する思想であり、タバコをやめる思想であり、「自分の女房と子供」を連れてくることを当然とする思想であり、ろくでもないことを言って討論の中心になるのを許さない思想であり(たぶん森本人は適用対象外――ということだろう。森はろくでもないことをしゃべってもらい泣きしてもらって「中心」にのし上がった人物なのだから)、だれかが逃亡することを見抜かなければならない思想である。たしかに、連合赤軍事件という舞台を外して考えれば、こんなことばかり言っている人間の支配する空間は喜劇的というより笑劇的である(ジャイアン的とでもいうのかな?)。何を言われても「共産主義化」ということばばかりを唱えているゾンビが支配する空間というと、何かシュールなギャグマンガみたいな世界だ。

 ただ、「共産主義化」理論の気分みたいなものはここから感じ取ることができる。森が中心となる「総括」共同体を危うくしそうなものはぜんぶダメで、したがって森が中心となる「総括」共同体への異議申し立てはすべて否定され、逆に、森が中心となる「総括」共同体を強化すると森が考えるものはすべて肯定される。

 こう表現すればやっぱりギャグマンガに出てくる暴君的人間のわがままみたいだ。

 けれども、問題は、森という人自身がおそらくそれを「自分本位の考えかた」と気づいておらず(これはまあよくあることだ)、それどころかその場のメンバー全員もその「森の自分本位の考えかた」を共通の指導思想として認めてしまっていたことにある。みんなが自分たちのやっていることがギャグであることに気づかず、大まじめで、悲劇的な気もちで、だれが命を失うかわからない場としてその笑劇を生きていた。それが連合赤軍事件の起こった場だったのだ。

 森のこの「共産主義化」理論を指導思想として認める基盤となっていたのは、理論的な整合性や精緻さではなく、「森が総括をやり遂げた唯一の人物だ」という「事実」だ。それは、メンバーのなかでただ一人、森の「総括」だけがもらい泣きをさそったという身体のレベルでの共感――共感を示してしまったのを身体感覚として覚えていること――に由来している。

 森は「共産主義化」理論を「革命を志す精神とそれを遂行する身体」を融合させるための思想だと整理していたようだ。ところで、マルクス‐レーニン主義っぽい表現で言えば、革命戦士は革命のために「鉄の規律」に服して行動しなければならず、そのためには「鉄の規律」に自分から積極的に服従して行動する身体を作らなければならない。自分の身体を「鉄の規律に服従する身体」へと変えていくのが「共産主義化」だということなのだろう。

 

 「総括」の異常さはどこから来たか

 精神的には死の境地を踏み越え、身体はなお持ちつづけている「ゾンビ」が支配する「総括」の場には、「身体」は別の現れかたも見せている。たんなる「厳しい体罰」ではすまない異常なサディスティックな虐待の対象としてである。

 たとえば、北田さんが例に引いている遠山美枝子という被害者は、先に殺された被害者の死体を埋めに行かされ、それに従うとこんどは「死体を埋めに行くことを恐れていない」ことへの「総括」を迫られ、何を答えても森(と、森と同じように立場にいた永田洋子)に「総括になっていない」と追及され、ついに取り乱して、自分が埋めに行った被害者のような死にかたはしたくないとわめく。その遠山に対して、森は自分で自分の身体を殴るように命じ、三〇分も自分で自分を殴らせたうえ、遠山は髪の毛を切られて柱に縛りつけられる。それから数日後、遠山は縄を解かれて「総括」の場にまた引きずり出され、今度は過去の恋愛体験を洗いざらい語るように強要され、足を広げるように迫られてその間に薪を突っこまれ、逆エビ型に縛りつけられて、その翌日に死亡したという(三〇〜三一ページ)。

 いじめっ子の言うことを聞いたらさらにいじめられるというのは、「いじめ」ではよくあるパターンである。別に子どもたちのいじめに限らない。無理とわかっているスケジュールを押しつけられて全従業員が夜も寝ないで必死でがんばって納期に間に合わせたら、「前にできたじゃないか」と言ってさらにきついスケジュールを押しつけられるという「下請けいじめ」みたいな話もよく聞く。だから、命令に従って、その命令を忠実に守ったことをネタにさらにいじめられるというのは、べつにこの事件に特有の構図ではない。

 しかし、自分で自分を殴らせたあとの行動はいかにも常軌を逸している。

 どうしてこんな極端で異常な暴力が身体に向かうのか? そのことを北田さんはあまり問題にしていないようだ。そこで、北田さんがここまで示している枠組で説明を試みてみよう。

 森としては――そしてその森を「総括」の場の主人と認める他のメンバーとしては、遠山と森とを身体のレベルで徹底的に区別する必要があった。死体を埋めに行くことを要求され、怖がるだろうと思っていたらそれをわりと平気で果たしてしまった遠山は、森と同じように「精神的には死の境地を踏み越え、身体はなお持ちつづけている」という存在になる可能性があった。

 私は森や遠山がどういう容姿の人だったかをよく知らないから(森の行為に積極的に加担している永田洋子という女性の顔写真だけはテレビか何かで見たような記憶がある。でもどんな顔だったかぜんぜん覚えていない)確たることは言えないが、会議中にリップクリームを塗っていたり指輪をしていたりという遠山の「問題行動」を見るかぎりでは、遠山のほうが森よりも人の目を惹きつける身体を持っていたと考えていいだろう。そうすると、遠山が身体のレベルで森よりも共感を集めてしまう可能性があった。それは、森にとっての脅威であるだけでなく、森を「総括」の場の主人と認めている共同体を崩壊させる危険がある。そのことを他のメンバーも感じ取っていた。

 そういう事態を阻止するために、遠山は、自分で自分を殴らされたり、髪の毛を切られたり、縛りつけられたり、性交を誇張したようなポーズでさらしものにされたりして、その身体の魅力を徹底的に傷つけられなければならなかった。このメンバーたちは遠山の身体の女性的な魅力をさらしものにすることでその魅力を消そうとしたのだろう(こういうところで、この「革命」集団のメンバーたちが、革命で打倒されなければならない社会と同じジェンダー的な感性を持っていたことがバレてしまう)。しかし、もともと持っている身体の魅力というのはそうかんたんには消せないもので(東浩紀さんと大澤真幸さんが対談で出している「ハエに変身してしまう」というような極端なばあいは別だけど。『自由を考える』一一九〜一二〇ページ)、これをやったら遠山は身体的魅力を失って森への脅威はなくなるという想定をつねに裏切ってしまう。これは遠山自身が何をどう思ったり考えたり発言したりしてもどうしようもないことだ。どんなに従順に「総括」の要求に応えようとしても、問題は「総括」の論理のレベルにはないのだから。森としては、また森を「総括」の場の主人と認める「革命戦士」の共同体としては、遠山を身体ごと葬ってしまうしかなかった。

 それがこの「総括」がサディスティックな方向へと発展してしまった理由ではないかと私は思う。

 

 「身体」について

 ところで、北田さんの説明は、この連合赤軍事件以後、「身体」という要素から離れて行ってしまう。「抵抗としての無反省」時代の津村喬の部分で少し触れられた後にはほとんど出てこない。いや、じつはときどき思い出したように出てくるのだが、出てきかたが断片的で、なぜそこに「身体」ということばが出てくるのかが私には十分に理解できないのだ。

 たとえば、この本の登場人物たちでも、ハンサムな容姿の糸井重里(「抵抗としての無反省」)、失礼ながら風采はあまり上がらなさそうだけどブランド品を着飾ることでその身体の存在をアピールする田中康夫(二〇〇五年現在、長野県知事。抵抗を棚上げした無反省)、命を縮めるほどの肥満体だったナンシー関(2ちゃんねる時代の「抵抗としての無反省」の後継者)、見たことないけどたぶん風采が上がらないであろう電車男(「嗤う日本」=2ちゃんねる)、スマートな窪塚洋介(2ちゃんねる時代の日本のカッコつき「ナショナリズム」)と「身体」を系譜づけてたどってみても、それはそれでおもしろい「歴史‐社会学」の本にはなったかも知れない。

 けれども、北田さんの説明は、「身体」を舞台の背後にいつもいるであろう登場人物、しかし表舞台にはごくたまに脈絡なく出てくるだけの登場人物として扱っているような印象を受ける。少なくとも、このあとに出てくる「身体」ということばは、この「総括」事件のときのような生々しさを持っていない。

 なお、先に、論理では絶対に到達できない距離を身体は埋めてしまうと私は書いた。しかし別に身体が神秘的な能力を持っているというわけではない。人間にとって、身体のほうが先に存在し、人間は身体と長くつき合ってきた。思想とか論理とかいうものは後から出てきた。それは人類全体についてもそうだし、個人についてもそうだろう。だから、思想や論理が、身体と人間との関係を十分に説明できるところまで追いついていない。身体で感じることをすべて表現しきれるほど、私たちのことばは――まして私たちの論理は豊かになっていないのだ。それだけのことだろうと思う。

 しょーもない内容の話にもらい泣きしてしまったという身体の動きと、それを身体の感覚として覚えていること、同じ身体の感覚をその場にいるみんなが感じたこと――それが人間の行動を決めようとする力に対して、論理の力は対抗できない。それどころか、論理は、その身体の感覚が行動を決めようとするのに従属し、身体の感覚とそこから出てくる行動とを正当化するために使われてしまう(なお、ここでの身体の現れかたには、大澤真幸さんが指摘するような、人間が身体を持っていることから来る「羞恥」の感覚も関係しているのかも知れない。大澤真幸『文明の内なる衝突 ―― テロ後の世界を考える』二一三〜二一七ページ)。

 

 「共産主義」と身体感覚の暴走

 その論理の力の弱さは自由主義をはじめどんな論理についても言えると思う。だから私たちはどんな理論についても理論は万能だと思ってしまわないほうが安全だ。

 しかし、連合赤軍事件の「共産主義化」理論のばあい、やはりその背後にある「共産主義」理論に、身体感覚の暴走を許し、それを助長するような要素があったのではないかと私は感じる。

 細かいめんどうな話を抜きにすれば、「共産主義化」の「共産主義」とはマルクス‐レーニン主義のことだろう。そのマルクス‐レーニン主義は整然とした理論体系を持つ思想である。

 だが、それは、同時に、身体の感覚が行動を決めるような場をコントロールできず、それどころかそれを正当化し強化するような体系にもなってしまった。

 ソ連のスターリンが力をつけ、ライバルを蹴落とすための手段として理論闘争を活用したとき、理論の論理的正しさを決められるのはスターリンただ一人になってしまった。スターリンをたたえるためにスターリンの理論をよく研究し、それを正当化するような理論を考えたとしても、スターリンが思いつきもしない理由を作り上げて「それは違う」と言っただけで、その人は反スターリンということで逮捕され、殺されてしまうかも知れない。

 東浩紀さんと大澤真幸さんが『自由を考える』で語っていることによると、じっさいにスターリン体制下では人びとが逮捕されることに理由はなかったという。逮捕される側に「思いあたるフシがない」というだけではない。逮捕する側にもなぜ逮捕するのかという理由づけがないのだ。ではなぜ逮捕するかというと、スターリン体制下では「社会のこれぐらいの人数は反革命分子とか裏切り者とかだ」という数字があって、その数字に合わせて管轄地区に住む住民を何人か逮捕しないと、逮捕する側が反革命や裏切りを疑われてしまうからだ。数字より多くても少なくてもいけない。数字より多いと無罪の人間を逮捕していることになり、数字より少なければ反革命分子や裏切り者を見逃していることになるからだ(『自由を考える』四九〜五二ページ)。

 数字があり、その数字に合わせた人間を「反革命」や「裏切り」の罪状で逮捕し、そしてあとからそれを説明するために理論が使われる。というより、理論と言うほどのものはなくてもいい。たとえば、「スターリン同志がソ連共産党なんとかかんとか会議でこう言った」ということを断片的に引用して正当化すればいいのだ(その引用だってもしかするとあとでスターリンの一言で覆されてしまうかも知れないから、それができれば百パーセント安心とは言えないが)。「スターリン主義」とは、スターリンの書いた論文や演説の寄せ集めというより、はるかに、スターリン体制下の官僚たちがスターリンの言ったことを断片的に引用して自分の行動を正当化しようとした膨大な事例の寄せ集めとして成り立っていたものなのだ。

 

 森は毛沢東になりたかった?

 ところで連合赤軍の「総括」の場の主人であった森は毛沢東の「三大規律、八項注意」というのを好んで引用し、それを自分の「共産主義化」理論を正当化するために使おうとしたらしい。これを考えると、森は毛沢東のまねをしたかった――毛沢東になりたかったのではないかと考えてみたくなる。

 スターリン主義の下での暴力が広く大衆に共有されたのが毛沢東の下での文化大革命だった。大学生を主体として、共産党組織自体を批判の標的にし、当時の共産党・政府の指導者たちをつぎつぎに「打倒」していく文化大革命(プロレタリア文化大革命)は一九六六年に始まった。連合赤軍事件の六年足らず前である。そのリーダーはいったん国家の最高指導者の地位を引退していた毛沢東だった。

 この文化大革命では、学生たちが共産党・国家の指導者を学生たちが引きずり出し、多くの人たちの面前で罵り、殴り、道化師の帽子のような三角帽子をかぶせたり、その人を侮辱する内容のプラカードをぶら下げたり、髪の毛を変なふうに(パンクっぽく)刈ったり、身体的にもきつい上に屈辱的なへんな格好をさせたりした。

 森という人はこれのまねをしたかったのではないか。

 もちろん、森は山のなかにこもっている「革命」小集団の主人に過ぎず、毛沢東は人口十億人の大国の最高指導者だ。しかし、その毛沢東も、この文化大革命の四〇年前には山のなかにこもる小集団の中心人物の一人に過ぎなかった。当時の(中国)共産党が弾圧下の小勢力だっただけでなく、毛沢東はそのなかでも異端の小集団のリーダーに過ぎなかった。毛沢東はその時代に「星のように小さな火もやがて野原を焼きつくす」(「星火燎原」)と唱え、そしてほんとうに中国の全土を支配する「偉大な革命指導者」になってしまった。森も、山に根拠地を持つことで(すくなくともこの思想は毛沢東に倣ったものだと思う)、やがては毛沢東のような革命指導者になり、革命日本に君臨するという夢を抱いていたのかも知れない。

 毛沢東が山にこもったのは、中国古来の伝統的秘密結社に属する山賊団みたいなのと手を結んだからであり(福本勝清『中国革命を駆け抜けたアウトローたち』)、ただ山への情緒的な思い入れで何の計算もなく山に入ったわけではない。しかも、毛沢東がこもった南中国の山地には、「太平天国の乱」(一八五〇〜一八六四年)のように、秘密結社系山賊団みたいな勢力が政府に対して決起し、その反乱を持続させた伝統がある。さらに、毛沢東はもらい泣きしてもらうことでリーダーになれたような情けないリーダーではなく、明確な権力意志を持ったリーダーだった。だから森が毛沢東になれるはずがなかった。その土地の伝統も性格も違いすぎるからだ。

 また、この毛沢東は「矛盾論」とか「実践論」とか「持久戦論」とかを書いていて、けっして理論的思考のできないリーダーではなかったようだ。しかし、文化大革命の時期には、毛沢東の言ったことの一部分だけを抜き出して編集した『毛沢東語録』(『毛主席語録』)が広く読まれ、本場中国の学生たちにも日本の学生たちにも運動の指針として利用された。断片の寄せ集めだから論理的一貫性はあまり強くない。その場の成り行きに合わせてどうとでも利用できた。引っぱり出してきた共産党や国家のエリートに「暗唱してみろ」と強要し、言い間違えると「毛主席に忠実でない証拠だ」と言って責め立てるという道具として使えたのだ。

 だいいち、「毛主席に忠実かどうか」で、共産主義として正しいかどうかを判定するというやり方自体が異常である。理論的にいうなら、「毛主席」が言ったことでもまちがっていれば批判すべきだし、「毛主席」に反対する意見でも正しい意見は擁護しなければならない。げんに、毛沢東が主要著書の「実践論」で言っているのもそういうことだろう。

 しかし実際にはそうはならなかった。「毛主席」に反対すれば修正主義であり、アメリカやソ連の手先ということになってしまう。毛沢東の図像があらゆるところで利用された。また、毛沢東への「忠実さ」を表現する「忠の字踊り」というのもあったそうだ。

 『毛語録』も、引用されるだけでなく、文化大革命に参加している者が、胸の前に持ったり、高く掲げたりして、毛沢東への「忠実さ」をアピールする「革命的な身体」の装飾具でもあった。毛沢東の身体を表す図像や、身体を使った「踊り」、「革命的な身体」必須の装飾具としての『毛語録』など、文化大革命では「身体」的な要素が理論よりずっと優位な地位にあったのだ。

 指導者の図像の活用は文化大革命より前の共産主義運動から見られる。マルクス、レーニン、スターリンの図像は共産主義国家ではよく使われた(エンゲルスってあんまり見た記憶がないな)。図像の活用はべつに共産主義政権だけで行われたことではないけれど、すぐれて「科学的」で理論的なはずの共産主義で図像が盛んに使われたことには、たてまえと実体の大きな落差が見てとれるように思う。

 この時代、共産主義自体がその場の成り行きに合わせて利用されやすい思想になっていた。それは、共産主義(マルクス‐レーニン主義)の解釈がスターリンや毛沢東によって精緻化され、スターリンや毛沢東にしか論理的正しさが判断できないような論理になり、そのためにスターリンや毛沢東やその取り巻き・手先たちによって恣意的に利用されたからだ。スターリンや毛沢東が理論を権力闘争の手段に使ったこともその理論の性格を決めた。論理的な正しさが理論の正しさを保証するのではなく、だれが判断したか、またはだれに味方して判断したかが理論の正しさを決めた。理論より人間が優位に立ち、その人間への忠誠を表現するために図像や身体運動などの身体的なものが多用されたのだ。

 そういう意味での共産主義の理論的性格の衰退こそが、それが化けた「共産主義化」の理論的めちゃくちゃさを生んだとも言えると思う。だから、この「共産主義化」理論の支離滅裂さは、いきなり、連合赤軍事件の起こった異様な空間で生まれたものではない。

 だとすれば、一九六〇年代的なものを代表する事件として連合赤軍事件を描く北田さんの捉えかたには十分な根拠があるということになる。一九六〇年代の世界を吹き荒れた「文化大革命」の衝撃を極端なかたちで受けとめて発生したのがこの事件だったというのだから。

 

 

 3  「反省」をやめようという時代

    ―― 第二章・第三章をめぐって ――

 

 「抵抗としての無反省」の出発

 そろそろ連合赤軍事件の部分を離れて、次の時代――第二章の「抵抗としての無反省」時代へと移ることにしよう。

 この時代の鍵となる人物は糸井重里である。

 連合赤軍の「総括」では、「反省」しようとしたら「どこまで反省しても反省が終わらない」という泥沼にはまり、身体感覚による判断が場を支配して、サディスティックな殺人に発展してしまった。北田さんはこれを異常現象と見るのではなく、六〇年代の時代精神が行き着いた終着点と位置づけている。

 その限界から先へ進むためにはどうすればいいか?

 「反省」をやめてしまえばいいのだ。

 連合赤軍的な「反省」――つまり「総括」は、いちおう(革命運動を行う)人間の主体性の確立という名目のもとに推進されていた。ところが、「主体」を確立するための基準を探しているうちに連合赤軍の人たちはどんどん泥沼にはまってしまったのだ。

 その泥沼の「総括」を回避するには「反省」の道筋を閉ざしてしまえばいい。それが可能だという信念を持ち、その思想を実践したのが「もと過激派」の糸井重里だと北田さんは言う。このやり方を北田さんは「抵抗としての無反省」と呼んでいる。何への「抵抗」かといえば、「主体的であること」の押しつけに対する抵抗だ。

 

 「コピーライターの思想」

 糸井重里はことばはことばだけで自立しているという信念を持っていた。ことばは人間の何かを表現するものではない。人間の何かを表現しても別にかまわないけれど、それがことばの本質でも本来の機能でもない。そうやってことばと――もっと広く言えばメディアと――人間の生活とか一人ひとりの経歴とかの関係を切断しておけば、ことばを使った「反省」が人間を抹殺するところまで行くことはない。「主体的になれ」とだれかが強要してきたところで、「ことばは人間を主体的にするようにはもともとできていない」という理屈で回路を切断しておけば、ことばのやりとりを利用した身体的虐待への道を塞ぐことができる。こういう考えかたを北田さんは「コピーライターの思想」と呼んでいる。

 この「コピーライターの思想」は、糸井重里が広告を活動の場として使うことで世のなかに広まって行く。雑誌『ビックリハウス』の読者参加型の企画「ヘンタイよいこ新聞」を通じて、糸井重里と同じような感じかた・考えかたをする多くの読者たちが一つの共同体を作り上げていったのだ。

 その感覚は、『ビックリハウス』の出版にかかわっていた西武百貨店グループの広告にも採用される。西武百貨店やそのグループ企業のPARCOの何を宣伝するというのでもない。インパクトのある映像を見せ、また、インパクトのあるキャッチコピーをぼんと目立たせておいて、それにただ「PARCO」の名まえを添える。それをPARCOの宣伝にする。そういう広告の方法が一九八〇年代初頭の日本に広まって行った。

 これは私たちにとってはそれほど違和感のない方法だ。私たちが(ここで勝手に「私たち」の仲間に巻きこまれるのがイヤなひともいる……かな?)何かのアニメ番組を見たり、アニメのDVDを買ったりするときに、どの作品にするかを決めるのは、たいていは、物語とか表現法の画期的さとかではなく、端的にだれが監督してだれが作画してどんな萌えキャラが登場して何という声優が声を当てているかだろう。内容がそんなにおもしろくなくても、自分の好きな萌えキャラや自分の好きな声優が出れば毎週見てしまうのが人情である(だからたとえば斎藤千和が好きなひとは最近たいへんですよ。いや、出てる作品は私の見ている範囲ではどれもおもしろいけど)。それは必ずしもオタクの萌え人にだけ見られる現象ではない(と……思うんだけど……)。

 何がどうすぐれているかの説明よりも、萌えキャラとかインパクトのあるキャッチコピーとかと並べてその番組名なり企業名なりへと消費者をいざなうほうが広告としては有効なのだ。そして広告の本質もおそらくそこにある。論理的な説明は広告にはならないとは言わないけれど、少なくともキャッチコピーや斬新な映像や萌えキャラと同列のものにしか過ぎない(こういう広告の性格については、北田さんは『広告都市・東京』でより詳しく論じている)。

 もしかすると、中国文化大革命の学生たちや連合赤軍の「革命戦士」たちと同じ世代の人たちはこういう考えかたに抵抗感があるかも知れない。しかしすくなくとも私たちはすなおにそう感じている。

 

 「アイロニー」という方法

 ここで糸井重里の「抵抗としての無反省」は「アイロニー」という方法へとつながって行く。

 

     なお、北田さんの本では、糸井重里とPARCOの話のあいだに津村喬の話がはさまっている。「抵抗としての無反省」は糸井重里一人のものではないのだということを示し、「抵抗としての無反省」では共通しながら糸井とは別の方向へ行った津村を出すことで、「抵抗としての無反省」運動の広がりみたいなものを示したいという意図なのだろう。しかし、この津村の話で糸井重里とPARCOの話が中断されてしまい、そのあとの「アイロニー」の話でまた糸井とPARCOの話に戻るので、読んでいて議論の筋道が追いにくい。津村の話は、その後には『なんとなく、クリスタル』の意味をみごとに捉えそこねた言論人として出てくるだけで、あとはほとんど出てこない。『なんとなく、クリスタル』を語るうえで失敗例として津村を登場させる必然性もあまりない――というより津村の話が出てくるためにかえってわかりにくくなっているというのが私の印象だ。津村さんには悪いけど、この本には津村の話は強いて盛りこむ必要はなかったかも知れない。ただ、私のここでの考察についてだけ言えば、ここに津村の話が入っていることでいろいろな考えを順調に進めることができた。ここの津村の話はたいせつな「補助線」になったのだ。

 

 「アイロニー」とは何かというと、簡単にいうと「皮肉」のことだけれど、この本では日本語の「皮肉」にあたることばとして「アイロニー」と「シニシズム」を使い分けている。この区別が正直に言ってよく理解できないのだけど、いちおう、「アイロニー」というのはそれぞれの場での態度のことで、それが構造に組みこまれて何に対しても「アイロニー」で臨まなければいけないようになってしまう状況を「シニシズム」と呼んでいるようだ。

 で、その態度としての「アイロニー」をもう少し突きつめて考えると、それは、「アイロニー」を向けられる相手(皮肉を言われているその対象)に対して自分はどんな立場にも立つことができるのだということを見せつけてその優位を思い知らせるというやり方だ――なんて書いてもわからないよなぁ。「メタ」とかいうギョーカイ用語を使わずに説明しようとしてるんだけど……。

 

 「きみは播磨拳児のように頭がいい」

 この本で引用されている例で言うと、たとえば、あまりぱっとしない容貌の人に「きれいな顔だね」と皮肉を言ったとする(一〇九〜一一三ページ)。これがなぜ皮肉として効果があるのか? 少なくとも、率直に「きたない顔だね」と言うよりどうして相手を効果的に傷つけられるのか? 「きたない顔」というのはなんか表現としてイヤなので、「かわいい」か「かわいくない」かで説明しよう――などと言っている私はいま『スクールランブル』の単行本の四巻を引っぱり出してきて読んでいる(一八ページとか参照……しなくていいです)。

 あんまりかわいくない人のことを「かわいくないね」と言っても、言った本人はその「かわいくない」人と同じ「かわいい‐かわいくない」の序列のなかに置かれてしまう。だから、もしかすると「あなたがかわいすぎるだけだよ」と言い返されてしまうかも知れない。少なくとも、「あなたはかわいくない」と言った当人が、その「かわいくない」人との比較でしか「かわいい」ことを主張できないという、あまり好ましくない状況に置かれることを覚悟しなければならない。

 しかし、あんまりかわいくない人に「あなたはかわいいわね」と皮肉で言えば、「こんなにかわいい自分は、あなたをかわいいと言えるぐらいかわいくない人間を装うことだってできるんですよ」というレベルの違いを見せつけてやることができる。すごくかわいい人からぜんぜんかわいくない人まであらゆるかわいさを装えるという一つ上のレベルからものを言ってやることができるのだ。これに対して、あんまりかわいくない人が「あんたのほうがずっとかわいい」と言い返したところで、勝負にならない。言い返された相手はほんとうにかわいいのだから、それはあくまで「下のレベル」でのもの言いとしてしか受け取ってもらえない。皮肉を言った当人の立つ「一つ上のレベル」(この「一つ上のレベル」が「メタ」のレベルである)にはどうやっても及びつかないのだ。こうやって「レベルの差を感じさせる」のがアイロニーの方法だ。

 別の差を感じさせる効果もある。「あんたって周防美琴みたいに胸が大きいね」とか「あなたは沢近愛理のような美人だね」とか言っても、周防美琴や沢近愛理というのがだれか知らない人はまるでわからないだろう(ちなみに北田さんの本文では「君はまるでシド・バレットのように繊細な人間だ」なのだが……だれ、それ?)。相手が知らないことを知っているという点で相手より上に立ち、相手を見下す。これもアイロニーの方法である。ただし、この方法を濫用すると「あいつはスクランのキャラでしかものが考えられないのか」という軽蔑を買って返り討ちに遭う可能性があるので、私のようなオタクはくれぐれも注意しなければならない。

 つまり――『スクールランブル』とか周防美琴とか沢近愛理とかから話を戻すと――、相手と同じレベルでの争いを引き受けるのではなく、レベルの違いを見せつけるというのがアイロニーの方法の基本ということになる。

 

 横並びを肯定するための「アイロニー」

 では「抵抗としての無反省」の「コピーライターの思想」はどうしてアイロニーにつながるのだろう?

 それは、「コピーライターの思想」が、ことばの自立性を信じることで、「ものごとを表現することば」より一つ上のレベルの「ことば使い」を展開できるからだ。

 世のなかに流れていることばは、「あるものごとと、それを表現することば」という関係で(思想ギョーカイの用語でいえば「シニフィアンとシニフィエの関係」で)、ものごとに固く縛りつけられている。しかし、「コピーライター」が自在に操ることばはものごととの関係を断ち切ったことばだ。

 だから、たとえば、あんまりぱっとしない容貌の人が無愛想な顔で立っている写真の横に「かわいい人」というキャッチコピーをくっつけても、広告や宣伝としてインパクトがあれば「コピーライター」としてはそれでいいのだ。広告を見た人が「こんなのかわいくないじゃん」とか言ったところで、その人はその広告に関心を持った時点で「コピーライター」の術中にはまっているのである。逆に、すごくかわいい人の写真に「かわいくない」ということばを添えてもいい。かわいくない人をかわいいと表現しても、わかいい人をかわいくないと表現しても、その表現の受け手にインパクトを与えられたらそれでいい。「コピーライター」はそういう意味で「一つ上のレベル」に立っている(と書くとコピーライターはひどく安易な職業のように思えるかも知れないが、現役のコピーライターの人の話を又聞きしたところによると、その「インパクトを与える表現」を見つけ出すのがすごく難しいらしい。まあそうでなければ「一つ上のレベル」には立てんわな)。

 しかし、糸井重里のばあい、そのアイロニーは自分の優位だけを誇示する方法にはなっていない。糸井重里の「抵抗としての無反省」は消費社会的な横並び意識を積極的に肯定するものだったと北田さんは言う(一一三〜一一五ページ。ここの論理が私には理解しにくい。ここで北田さんは上野千鶴子の文章を引用して議論しているのだけれど、やっぱりここは「自分のことば」で書いていただいたほうがわかりやすかったと思う)。

 

 その限界

 「あるものごとと、それを表現することば」の(シニフィアンとシニフィエの)関係が固定された世界に縛りつけられたまま、「ことば」で自分の持ち上げたいものごとの優位をムキになって証明しようとするやり方が一九六〇年代的なやり方だったと北田さんは整理する。

 連合赤軍の人たちは、自分の主体性を確立するためのことばを本気になって探し求め、それを見つけられず、挙げ句の果てに、自分が身体的な共感でものごとを判断するようになっているのにも気づかず、殺人へと駆り立てられていった。それがその一九六〇年代的な「あるものごとと、それを表現することば」の関係を疑わなかった考えかたの到達点だった。

 それへの抵抗としての「無反省」の「コピーライターの思想」では、ものごとのほうには関係なく、ことばだけが表現を変えられる。

 「コピーライターの思想」はコピーライターという職業を絶対化する思想ではない。『ビックリハウス』の投稿ページのように、だれでも「コピーライター」になれるのだ。どんなにつまらないもの、くだらないものについても、人目をひくコピーをくっつけてやるだけでそれを目立たせることができる。だから、大衆消費社会のいろんなものごと(大量生産、大量販売)も、コピーひとつで目立つものになれるという点で平等である。上も下もない。キャッチコピーを――あるいはもっと広くキャッチコピーを流すメディアを――「ひとつ上のレベル」に置いていることで、あらゆるものは横並びの地位を獲得することができる。糸井の戦略はそういうものとして理解できる。

 これは「主体性」の押しつけに対しては有効な「抵抗」かも知れない。ことばしだいであれもこれも「主体」になるのなら、「主体性」を探せと命じること自体が無意味になってしまうからだ。

 しかし、それが「横並び」の平等性の擁護として役立つのは、「主体性」を探し出せという(北田さんの言う)一九六〇年代的な考えに対する「抵抗」という立場でだ。アイロニーの方法は必ずしも「横並び」を擁護するように働くとは限らない。それでは、その「一九六〇年代的なものへの抵抗」という根を失ったアイロニーはどうなっていくのか? それがその次の章以降のテーマになる。

 

     なお、この章の「コピーライター」のあり方はいくぶん単純化されているように思う。たとえばその企業の活動と無関係な内容のキャッチコピーで目を引けば十分という広告の打ち出しかたはPARCOだからできたことであり、最初から無名の企業がやっても必ず成功するかというと、それは難しいだろう。『ビックリハウス』の投稿ページでだれもが「コピーライター」になれたとしても、それが社会全体に持った影響はそんなに大きくはなかった。糸井重里とPARCOの広告は、一九六〇年代の社会での連合赤軍のように、「その極端な例」と捉えておいたほうがいいだろうと思う。

 

 アイロニーは「もっと上」をめざす

 第三章は田中康夫と『元気が出るテレビ!!』の時代としての一九八〇年代論だ。一九六〇年代の連合赤軍時代が「遠い時代」になり、その時代との関連が急速に意識されなくなった時期である。

 北田さんは、その一九八〇年代の始まりを彩る田中康夫の『なんとなく、クリスタル』の立場を「抵抗としての無反省」と呼ぶ。

 「主体性を確立せよ」という要求に対して、糸井重里のように正面切って「そんな要求は無効だ」と証明してみせるのではない。「主体性を確立せよ」という要求を「まあそんなことを言うひともいるよね、でも私にとってはどうでもいいことだよ」とやり過ごしてしまう(「主体性を持って選択せよ!」という言いかたに対して、「主体性を持って選択はするけど、それってそんなに力入れて主張するものじゃないんじゃない」とやり過ごす)。それが『なんとなく、クリスタル』の方法だと北田さんは言う。

 『なんとなく、クリスタル』の新しさは「NOTES」にあると北田さんは書いている。

 「NOTES」は「本文」に出てくるブランド品や店の名まえを解説した「註」である。この「註」で、田中康夫は、本編の登場人物を貶したり、『なんとなく、クリスタル』のブランド品志向を非難する評論家にあらかじめ反論を加えたりしている。つまり「NOTES」の著者は、登場人物はもとより、読者や評論家より「上のレベル」(メタのレベル)に立っているのだ。

 

     この本に引用されている『なんとなく、クリスタル』のページで、青山にあった輸入レコード店パイド・パイパー・ハウスの名を久しぶりに見た。私もときどき行ったことのある店だったので懐かしかった。また、この本が出てしばらくしてから、私が通っていた学校で、だれか(たぶん他の学校の生徒)が書いた小説に、みんなでしょーもない註をつけながら回覧するというのがはやったことがある(たとえば小説の本文に「りんご」ということばが出てくると、本文の流れとは関係なく「りんごの皮を薄くきれいにむくのって難しいですよね」とかいう「註」を書く。そんな調子でその小説の最後まで「註」を書いたら次の人に回す)。私は『なんとなく、クリスタル』は読んだことがなかったので、なんでそういうのがはやるのかわからなかったが、あれって「『なんとなく、クリスタル』ごっこ」だったのだな。

 

 糸井重里の「コピーライターの思想」のばあい、「上のレベル」を導入することよって、その「コピーライター」のいる「上のレベル」の存在の下に消費社会の横並びを肯定するという方向性があった。そのことによって「主体性」を求めさせる強迫的な要求を無効にしてしまったのだ。しかし田中康夫のばあいは違う。「NOTES」を導入することで、この小説の作者は、物語の登場人物のレベルも、読者のレベルも、さらにその小説を評論する人のレベルも超えた「もっと上のレベル」(北田さんのことばで言えば「メタを否定するメタ」)から発言することが可能になっている。

 

 「ギョーカイ」の登場

 『なんとなく、クリスタル』のあと、「ギョーカイ」(テレビ番組や情報の送り手側。通俗化され、やや戯画化され、単純化された「業界」ということだろう)という存在がその「もっと上のレベル」として設定されるようになってくる。これまで小説なり広告なりの背後にあって、表には姿を見せなかった「ギョーカイ」という存在が表に出てくることになったのだ。

 この「ギョーカイ」の登場とともに、『なんとなく、クリスタル』ではまだ残っていた「主体性を押しつけられることへの抵抗」という要素がついに姿を消してしまう。「抵抗としての無反省」がただの「無反省」になってしまったのだ(この「ただの無反省」がどうして「無反省という反省」になるのかが私にはもうひとつよくわからない。「主体性」確立のための「反省」の強要に対する「抵抗」として出てきた「アイロニー」がいつの間にか「反省」の本流に居すわってしまったということなんだと思うのだけど)。

 そういう時代を代表するのが、川崎徹の広告と『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』だと北田さんは位置づける。

 糸井重里の広告は「あるものごとと、それを表現することば」という関係自体をはぐらかし、わざと「宣伝しなければならないものごと」とは無関係なキャッチコピーをぶつけることで、かえって「宣伝しなければならないものごと」を印象づけるというものだった。それは、その方法で「キャッチコピーのつけかたしだいでどんな商品でも主役になれる」ということを示唆するものだった。アイロニーの「人を見下す」という要素を、「キャッチコピーのアイロニーの下に置かれたら何でも同じじゃないですか」という横並びの肯定につなげたのだ。

 しかし川崎徹の広告はそうではないと北田さんは言う。「広告らしくない広告」を目指すことで、それまでの広告も、その広告で宣伝されていた商品も(ことばは悪いが)見下せるような地位を獲得しようとする。

 そんな社会で人と対等でいようとしたら、みんなでアイロニーを駆使しあって、みんなで「もっと上のレベル」を目指さなければならない。みんなが「もっと上のレベル」を目指すことが社会の仕組みに組みこまれてしまったのだ。それが「抵抗」の跡形も失った「無反省」があたりまえに時代の社会のあり方だ。北田さんはそれを大澤真幸さんの言いかたを使って「消費社会的シニシズム」と呼んでいる(大澤真幸『戦後の思想空間』)。

 その「もっと上のレベル」(「メタを否定するメタ」)として設定された「ギョーカイ」の存在をあからさまにさらけ出したのがこの時代のテレビだ。その代表が『元気が出るテレビ!!』だと北田さんは言う。どんなに目立たないもの、どんなに寂れている地方、どんなにイメージのパッとしない組織でも、この番組が盛り上げれば必ず盛り上がる。「テレビ番組はすべてヤラセである」ということを正面から認め、その「ヤラセ」の流れを視聴者にさらけ出して見せることでエンターテインメントとして成立させる。

 この番組の視聴者は「ギョーカイ」の人とともに笑い、ツッコミを入れ、感動する。一九八〇年代のテレビ番組は全体としてそういう方向へと変わっていった。そこでは「ギョーカイ」と視聴者の区別はあいまいになる。視聴者は、番組の受け手であると同時に、自分の立場を「ギョーカイ」と同じ高みに置いて、番組のなかで展開されているものごとを見下ろすことができる。立場を自在に変えられる「ひとつ上のレベル」に自分を置くというのは「アイロニー」の方法だ。そのアイロニーの方法が、「テレビを見る」というだれもが日常的にやっていることにごく普通に入りこんでしまった。ここからも、この時代の社会が「消費社会的シニシズム」(みんなが「もっと上のレベル」を目指すことが社会の仕組みに組みこまれてしまったような状態)に覆われていることがわかる――と北田さんは言う。

 

 「ベタ回帰」がどうして「ゾンビ」になる?

 さて、ここまではまだ理解できるのだが、この次に俵万智の『サラダ記念日』が出てくるところから私にはどうも十分に理解できなくなる。

 まず、一九八七年の『サラダ記念日』ブームについて、北田さんは「ベタ回帰」と位置づける。「ベタ」というのは、アイロニーの図式で、自在に位置を変えられる「ひとつ上のレベル」(「メタ」)から見下される「下のレベル」のことだ(「メタ」、「ベタ」ともうひとつ「ネタ」ということばとともに韻を踏んでいる。それでわかりやすくなっているかどうかは、よくわからないけど)。

 なぜ『サラダ記念日』の短歌が「ベタ回帰」なのか?

 川崎徹の広告などに見られる方法では、「ことば遊び」的なやり方は自分が「上のレベル」にいることを証明する方法だった。それは「消費社会的シニシズム」の登場より前の糸井重里の方法からしてそうだった。

 ところが、『サラダ記念日』のことば遊びに満ちた短歌は何のアイロニーも含んでいない。それはただ短歌でうたわれたごく普通の日常生活みたいなものを表現しているだけで、「上のレベルを目指さなければ!!」という姿勢はどこにもうかがえない。アイロニーの実質が抜けて、アイロニーの形式だけが残ったのだ。

 ここまでは、異論がないわけではないけど、まあいちおうはわかる。

 さて、北田さんは、その『サラダ記念日』の方法を「形式主義」として捉え、それを連合赤軍とくっつけて論じる。

 連合赤軍では、どんなに「反省」しても「反省」が終わらず、「主体性」を持つための取っかかりなんかどこにも見いだせないのに、それでも「主体性を持て」という「形式」だけが暴走して、凄惨な殺しに発展した。それに対して、『サラダ記念日』では、最初からアイロニーなんかやる気がないのに、アイロニーの「形式」だけが駆使されている。だから、森と同じように、『サラダ記念日』時代の人たちも(「俵万智も」とは言っていないけど)「ゾンビ」になってしまうというのだけど……。

 なんか飛躍がないかな?

 私にはあるような気がするんだけど。

 

 「必死」さのない「ゾンビ」?

 森が「ゾンビ」であったのは、「総括」というのをやり遂げるのは死んでも不可能という場にあって、その場にいた連合赤軍のメンバーにもらい泣きされることで身体的な共感を引き出し、それを足がかりに「総括をやり遂げた」とみんなに認めさせたからである。死んでも不可能なことをやり遂げたのだから精神としてはいちど死んでいるのだけど、身体は前のまま保持しているということで「ゾンビ」というたとえがあてはまったのだ。

 ところが、『サラダ記念日』時代の「ゾンビ」のどこにそういう「精神は死んで身体は生き残っている」という状態があるのだろう?

 議論の流れを見ると、それまでの「上のレベルを目指さなければ!!」という思いに駆られてがんばってアイロニーをやってきたのがここで死んだ「精神」なのだろう。だが、「革命」をやるために「主体」を目指すことを強いられるのと、消費社会でほかの消費者と対等に生きるために「アイロニー」的な姿勢を強いられるのとはずいぶん違う気がする。

 「革命」をやるために「主体」であろうとするのはいわば必死な行いで、だからそれを突きつめればほんとうに死んでも終わらない凄惨な過程になった。しかもそれは一部の「前衛」がやればいいことで、社会のみんながやることではなかった。だからこそ、自分たちは「前衛」として世界に先駆けて世界のために革命を起こすのだというエリート意識が生まれ、それにともなって「主体的にならねば!」という切迫した思いも極限まで高まって行ったのだ。

 しかし、消費社会では「アイロニーをやろう、アイロニーをするぞ、いやとっくにアイロニーをしていなければならなかったんだ!!」と迫られていなくても、日々、テレビを見て笑っていればその過程はクリアできていた。またテレビを見なくったって殺されることはなかった。

 その「必死」さがやっぱり違うと思うんだけどなぁ。

 

 「身体」の生々しさの違いとか

 まあ「精神」のほうはそれでいいとしよう。しかし、「精神」が失われても以前と変わらず残された「身体」というのはどこにあるのだ?

 いちおうここの「一九八〇年代後半的ゾンビ」の話でも「身体」ということばは出てくる(一六七〜一六九ページ)。しかし、連合赤軍の森についての説明で「身体」についての説明が具体的だったのに対して、ここでは「身体」ということばはぽつんと出てきて説明のないまま消えてしまう。それがこの「ゾンビ」ということばを最後まで唐突に感じさせる原因になっている。たぶん、「精神」が失われても「身体」に染みついた惰性や習慣のようなものとして「アイロニー」(一つ上のレベルから見下すこと)をやらざるを得ないという状態を表現するために「身体」ということばを使っているのだろうけど、それは森の「身体」性を説明していた部分の生々しさからはほど遠い。

 北田さんは、この部分で、浅田彰や島田雅彦の発言や書いていることを引用しながら議論を展開しているのだけれど、そのためにかんじんの北田さんの議論の道筋がたどりにくくなっている(とくに島田雅彦が出てくる必然性がよくわからない。たしかにその時代の大学生との討論での「すれ違い」はおもしろかったけど)。引用に頼って北田さんの議論の展開の「詰め」がかえって甘くなっているように感じるのだ。

 もうひとつ感じたこと――さっき「異論がないわけではないけど」と書いたその「異論」――を書いておく。

 広告のばあい、「伝えたいものごとを表現するのが広告だ」という原則があった。だから、「伝えたいものごととは無関係なことばをぶつけることで伝えたいものごとを印象づける」という「ことば遊び」的なアイロニーの方法が時代を特徴づけるものとして議論できた。ところが、短歌というのはもともとことば遊び的な要素のある表現方式である。少なくとも広告に較べれば、ことば遊びの要素は短歌には最初からある程度は組みこまれていたのだ(たしかに近代短歌になってそういう要素は減らされてきたのかも知れないけど)。だから、いかにはやったからと言って、糸井重里の広告‐川崎徹の広告‐俵万智の短歌とまさに「ベタ」につづけてしまう方法が正しいかどうか。この点も私には疑問だ。

 

 「動物化したオタク」対「スノッブ化したゾンビ」

 ここで北田さんが「一九八〇年代後半的ゾンビ」の行動として描いているのは、東浩紀さんが「データベース消費」と名づけているのと同じ現象である。

 そのときどきで「萌える」対象を膨大なデータベース(猫耳データベース、メイド服データベース、眼鏡っ子データベース、病弱少女データベース……などをひとつに合わせた巨大萌え要素データベース)から引っぱってきてその組み合わせで萌えキャラを作り上げ、やはり物語要素のデータベースからいろんな要素を引っぱってきて物語を作り上げ、そのキャラに萌え、物語に泣く。それが東さんの言う「データベース消費」である(東さんの議論ではどうしてデータベース消費で「泣く」のかの説明が弱かった印象がある)。

 東さんの「動物化するオタク」と違うのは、北田さんの「一九八〇年代後半的ゾンビ」たちはそのデータベースから引っぱってきた要素をアイロニーの方法で組み立てると見る点だろう。「ギョーカイ」を目指すわけではなくても、「もっと上のレベル」を目指すという「形式」だけが残っていて、この「データベース的ゾンビ」たちはそれに従わなければならないからだ。

 この違いは、東さんと北田さんが同じようにヘーゲル学者のコジェーヴの議論に依拠しながら、一九八〇年代後半〜一九九〇年代の人間をどの類型にあてはめるかという点に違いがあることから起こっている。

 コジェーヴの議論とは、人間とは自分の生きる環境を否定しつつ進歩して生きてきたという見かたに基づくもので、そこから逸脱して自分の環境を否定しようともせず安住してしまう生きかたを「動物」とし、逆に否定する必要のないものをムダに否定することに懸命になる――否定する必要のないものを否定しても少しも進歩はしない――生きかたを「スノッブ」とした。

 東さんは一九九〇年代以後の人間を「動物」化したとみなし、北田さんは一九八〇年代後半の「ゾンビ」を「スノッブ」と見なす。だから、環境に疑問を持たない「動物化したオタク」と、アイロニーを用いる必要はないのにアイロニーの方法で「データ」を延々と加工しつづけなければならない「スノッブ的なゾンビ」という対立が生まれるのだ。

 どっちに同意できるかというと、どちらにもそれぞれ違和感があるのだけど、「データベース」みたいな話を出してくるのなら「動物化」論(何の疑問も持たずに環境から引っぱってきたものを享受する)に行くほうが自然だと思う。どうして北田さんの議論がここでどうして「スノッブ化」(否定する必要のないものをむやみに否定してみせる)につながるのかが私には理解できない。

 「動物化」ならば、「データベース」(北田さんが引用している浅田彰のことばだと「情報バンク」)から引っぱってきてそれを楽しむだけだから何の説明もいらないけど、「スノッブ」ならいちどそれを否定しなければならないわけで、「どうして否定するのか?」の説明が必要になるからだ。

 一九八〇年代の社会のアイロニーの方法が形式として呪縛しているからだ――というのがいちおうの説明だけど、この「形式主義」の強調はこの「スノッブ化するゾンビ」の議論を正当化するために出てきているように読める。もう少し傍証が必要だったのではないか。

 

 北田さんは二六三ページの註釈(終章(5))で東さんの「動物化」論と北田さん自身の「スノッブ化」論では内容の違いはなく、たんなる「呼称の違い」としているけれども……やっぱり内容も違うんじゃないかな? 東さんが北田さん(と笠井潔さんと大澤真幸さん……東さんと笠井さんとの衝突はそれ以前の段階で起こっているような気もするけど。『動物化する世界の中で』)を「メタゲームのその端的な欠如状態に、メタゲームを存在させない、という高度なメタゲームを読み込んでしまう」(東さんのブログ「渦状言論」の二〇〇五年三月一四日『嗤う日本の「ナショナリズム」』の項目)と批判しているのはこの点だろうと思う。ちなみに東さんのこの批評に出てくる秋元康論は(ごくかんたんにしか展開されていないが)なかなか興味深い。ただ、『あずきちゃん』はともかく、『ナースエンジェルりりかSOS』は、少なくともアニメに関しては実質的に何人かの「クリエイター」の共同作業で作られた作品なので、秋元康が「要」の位置にいた企画と直接に比較するのには不適当だと思う。

 

 ここまでの「総括」

 ここまで書いたように、第三章は最後のほうがよくわからないのだけれど、いちおう北田さんの議論の流れは理解できた。

 糸井重里にはあった「主体性を強いられることへの抵抗」が一九六〇年代を離れることで風化して消えてしまい、「抵抗」であったはずの「無反省」と、その方法としてのアイロニーが自立する。テレビや広告を通じて社会全体に「アイロニー的でなければならない」というあり方が植えつけられ、社会の仕組み自体にアイロニーの方法が組みこまれてしまう。その形式は、アイロニー的である必要も感じず、アイロニー的であることを目指しもしない人びとにまで及んだ。その結果、アイロニー的であることをまったく目指さない『サラダ記念日』にまでアイロニーの方法が組みこまれてしまった。アイロニー的であることなど目指さないのにアイロニー的な形式には忠実に従う一九八〇年代後半の消費社会の人びとも、「主体性」など確立できっこないのにその確立のために「総括」をつづけた一九六〇年代の連合赤軍の人びとと同じように「ゾンビ」になってしまったのだ。

 だいたいそういう流れである(と私は思う)。

 

 

 4  「泣きつつ嗤う」時代への「抵抗としての無反省」

    ―― 第四章と終章をめぐって ――

 

 ナンシー関が抵抗したもの

 第四章では、「消費社会のゾンビ」の時代が「2ちゃんねる時代」へと変化していく過程が描かれる。

 この章の第1節に私がこの文章の最初に採り上げたナンシー関の話が出てくる。

 ナンシー関に視点を据えつつ北田さんが書いているのは、一九八〇年代的テレビの変化の過程だ。

 テレビがはやらせれば何でもはやる、テレビが感動させれば何でも感動的なものになる――それを前提に番組が作られていくうちに、視聴者の側も、テレビに乗せられていると知りながら流行を追い、テレビに感動させられていると知りながら感動を求めるようになる。

 『元気が出るテレビ!!』や『オレたちひょうきん族』では、「テレビがはやらせれば何でもはやる」ことを前提とする方法はまだ冒険的なところと新しさを持っていた。

 けれども、一九九〇年代になると視聴者もそれに慣れて、そのテレビのやり方に積極的に反応しはじめる。テレビに「流行を作ってくれること」や「感動させてくれること」を追い求めることになるのだ。そして、たいして才能もなさそうなのにそのテレビの約束ごとに乗ってうまく立ち回るタレントが重宝され、評価されるべき実力があるのにテレビの約束ごとに乗るのを拒否するスポーツ選手が叩かれる。

 ナンシーが抵抗したのは、テレビと視聴者との共犯関係によって作られるこういう全体主義的な構造だった(と北田さんは言う)。

 

 「ギョーカイ」よりさらに「ひとつ上」のレベルへ

 一九八〇年代のテレビでは、「ギョーカイ」の立場に視聴者が自分の立場を移動させ、ともに笑い、ツッコミを入れ、感動するという楽しみかたが普通になった。それは「ギョーカイ」と視聴者が対等になったようにいちおう見える。

 だが、じっさいには、そこで主導権を握っていたのは「ギョーカイ」側だった。「ギョーカイ」はべつにアイロニーをやらなくても「ギョーカイ」だが、視聴者がアイロニー的態度で「ギョーカイ」に自分の立場を移動させるには、「ギョーカイ」の流す情報を集めるなどの努力が必要だった。しかも、「ひとつ上のレベル」で「下のレベル」を見下すのがアイロニーの方法だけれど、「ギョーカイ」は最初から「ひとつ上のレベル」の最高の場所にいるわけだから、アイロニーの方法を採っても「ギョーカイ」を上から見下すことはできなかった。最初から「上のレベル」にいる「ギョーカイ」が特別に「ギョーカイ」を視聴者に開放してやることで、視聴者は初めてアイロニー的な態度で「ギョーカイ」とともに笑い、ツッコミを入れ、感動することが許されていたのだ。

 だが、それに慣れてしまった視聴者は、まず「ギョーカイ」と対等の共犯関係に入る。「ギョーカイ」とともに笑い、ツッコミを入れ、感動するという流れを妨害せず、それを盛り上げてくれる無能な(ほんとうに無能なのかどうかは私は知らない)タレントを持ち上げ、有能なスポーツ選手でもその流れに逆らう者を叩くようになる。

 そして、その視聴者は、ついに「ギョーカイ」よりも「ひとつ上のレベル」を目指し始める。それが「2ちゃんねる時代」の幕開けだ。

 

 あらためて「嗤いつつ感動するナショナリズム」の謎

 2ちゃんねるでは、それまで主導権を握っていた「ギョーカイ」自体が笑い(というより「嗤い」)やツッコミの対象になる。その「ギョーカイ」は一九八〇年代を引っぱってきたテレビに限られない。そこでツッコミの対象になるとくに巨大な「ギョーカイ」は、戦後日本を引っぱってきた「進歩」派言論「ギョーカイ」――具体的に言えば『朝日新聞』や『朝日新聞』に自分の文章を載せる(あるいは『朝日新聞』に自分の文章が載ることをステイタスと考えているような)「進歩派」・「左翼」知識人集団である。

 でも、それは、2ちゃんねる参加者が「保守化」・「右傾化」しているから、とくに「進歩派」・「左翼」が叩かれるというわけではない。なぜ叩かれるかというと、「進歩派」・「左翼」が戦後日本の「巨大ギョーカイ」だったからだ。だから、必ずしも「左翼」でなくても、何か大きいツッコミどころのある「ギョーカイ」であれば、2ちゃんねる参加者のツッコミやバッシングの対象になりうる。

 ここで問題は北田さんが最初に提示したところに帰ってくる。つまり、その2ちゃんねる参加者がどうして『電車男』のような感動ものを作ってしまうのかという問題だ。

 どうしてシニカルなはずの2ちゃんねるの人たちが『電車男』のような感動物語を作り上げてしまうのか? 普通はシニカルな人は感動などしないはずで、仮に感動したとしてもそれをひた隠しにするはずなのに。

 また、シニカルなはずの2ちゃんねるの人たちがなぜこんなにもナショナリスティックなのか? 普通はシニカルな人はナショナリスティックな価値観すら嗤いものにしてまじめに信じたりしないはずなのに(なぜなら、ナショナリズムを基礎づけるものごとには神話などの合理的に説明のつけられないものも多いからだ)。

 

 2ちゃんねる時代のコミュニケーション

 北田さんは、それに答えるために、2ちゃんねる時代とそれより前とのコミュニケーションの枠組の違いをまず説明する。「ギョーカイ」がコミュニケーションの枠を支えなくなったことが2ちゃんねる時代とそれより前との違いだというのだ。

 連合赤軍では、「ギョーカイ」なのかどうか知らないけど、革命への情熱とか、自分たちの運動の目標とかがその枠を支えたのだろう。糸井重里の「抵抗としての無反省」を社会に広めたのは西武百貨店やPARCOの資本だった。川崎徹の広告や『元気が出るテレビ!!』を支えたのはテレビの「ギョーカイ」だった。しかし、2ちゃんねる時代のコミュニケーションでは、「ギョーカイ」は嗤いやツッコミのネタになってしまっている。

 では、2ちゃんねる時代のコミュニケーションの枠は何で支えられているのだろう?

 それは、端的に、自分に続く者が自分の書きこみに反応してくれることによって支えられている。自分の書きこみにだれも反応してくれなかったら――自分の書きこみにレスやコメントがつかなかったりトラックバックを打ってもらえなかったりしたらアウト(「出て行け!」、「退場せよ!」の意味)であり、反応があればコミュニケーションが成立したことになる(このコミュニケーションの特徴については、北田さんは『広告都市・東京』の第三章第二節「「脱出後」のトゥルーマン」でもう少し詳しく議論している)。

 これは「ギョーカイ」がコミュニケーションの枠を支えていた時代とは違って非常に不安定である。安定した「枠」はどこにも存在しないのだから。前に自分の書いたことにレスがついたからと言って、次の書きこみにもちゃんとレスがついてくれるかどうかわからない。もしかすると、次の書きこみからあと、ずっと自分の書きこみにはレスはつかないかもしれない!

 その不安をカバーするためには、できるだけ多くの人から反応をもらえるようなネタを出さざるを得ない。

 多くの人から反応を得られる題材は、感動するものやナショナリスティックな内容のものだ。反応はもしかすると「感動した」とか「たしかにそのとおり」とかいうものではないかも知れない。「どうせヤラセだろう?」とか、その他、辛辣な乾いた嘲笑しか返ってこないかも知れない。けれども、それでもだれもつながってくれないよりはずっとましだ――と2ちゃんねるの人たちは感じるのだと北田さんは考えているようだ。

 シニカルなのだけれど、ともかく「繋がり」を確保するために思いきりロマンチックになる――これを北田さんは「ロマン主義的シニシズム」と呼んでいる。なお、シニシズムとは、前に書いたように「アイロニーが仕組みとして組みこまれている状態」のことであり、「シニカルな」とはそれを前提としてとくにアイロニー的にふるまう必然性もないのにアイロニー的な言動を行うことを言う(らしい)。また、「ロマン主義」という表現には、感動志向とナショナリズム志向の両方が含まれている。

 自分はアイロニー的な態度を持ちつづける。しかし素材としては思いきり「ベタ」な――ツッコミどころ満載のロマンチックなものを採り上げ、それをネット上(掲示板でもブログでもいい)に残す。そして、それに接してくれるひとも、アイロニー的にそれに接してくれることを予期する。それに接してくれたひとが、「感動した」でもいいし「どうせヤラセだろう」でもいいから反応を返してくれることが重要なのだ。

 

 実存主義的不安と「ロマン主義的シニシズム」

 北田さんは、この「ロマン主義的シニシズム」の人たちの特徴を「人間になりたいゾンビ」だとする。この論理が私にはわかりにくかった。いまでも自分がちゃんと理解しているか自身がない。

 わかりにくかった理由は見当はつく。北田さんがここで使っている「実存主義」という概念がよくわからないからだ。

 私はキルケゴールもハイデッガーも途中まで読んで投げ出してしまったような人間だから、実存主義とはどういうものかがまずよくわかっていない。

 常識的に言えば、人間とは「なぜ存在するか?」などという問いより先に存在しているものだという人間観だろう……たぶん。

 ここでいう実存主義とは、「ギョーカイ」という枠組さえ自分の「下のレベル」に組みこんでしまった「2ちゃんねる時代の人たち」のあり方のことだろう。「ギョーカイ」すら「下のレベル」にしてしまった人たちは、自分の居場所を「〜〜という枠組のなか」に見つけ出すことができなくなる。

 「消費社会的シニシズム」(みんなが「もっと上のレベル」を目指すことが社会の仕組みに組みこまれてしまったような状態)のなかで「アイロニー」的な態度をとりつづけてきた人びとは、ともかくも「ギョーカイ」の枠のなかで動いていた。しかし「ギョーカイ」まで「下のレベル」に組みこんでしまった「ロマン主義的シニシズム」の人たちには、自分の居場所を説明するための枠組も素材もない。ともかく、自分は、何の説明も抜きに、「ギョーカイ」を「下のレベル」に見下す場所に最初からいるのだ。この気分を「実存主義」と呼んでいるのだろう(と思う)。

 その先は、ここまでで紹介したように、だからこそ他の人間との繋がりによって自分の存在を確認しなければならないと感じるようになる。存在を確認してもらえなければ自分は存在しないも同然だ。存在を確認してもらえて、はじめて自分が「人間」であるということを信じられるようになる。そのための「ネタ」として「ロマン主義」を採用する。そこで「ロマン主義的シニシズム」が登場する。

 ……ということなんだろうなぁ……私の理解している範囲で話をつないでみると。

 その「ロマン主義的シニシズム」の人たちが「人間になりたい」と北田さんが表現するとき、この「人間」とは何なのかがよくわからない。これは、コジェーヴの言うような、環境を否定しながら先へ進んでいくという「人間」像を指しているのか、それともそうではないのか? ここで北田さんはスローターダイクという学者のナチズム論を借りて議論を進めていて、「実存主義」という概念もそこから来ている。ところが、このスローターダイクの議論の引用が唐突で、それまでの議論との「繋がり」がよくわからないのだ。それがこの部分のわかりにくさの原因のように私は感じる。

 「2ちゃんねる時代の人びとは、ほかの人との繋がりによって自分の存在を確かめてもらう存在であり、その繋がりを確保するために思いきりロマン主義的な信念を(自分で信じているかどうかにかかわらず)表明したい欲求に駆られる。それが、2ちゃんねるにナショナリスティックな雰囲気が広がる理由であり、また、2ちゃんねるから『電車男』のような正真正銘の感動物語が生まれてくる理由でもある」というのがこの本の結論だと言ってよさそうだ。

 

 死んでも終わらない「総括」はやめるとして

 終章の前半は、先に(だいぶ前に)書いたように、ここまでの議論のまとめ(「総括」)である。まとめはここまで長々とやってきたが、ここでもう一点だけ「さらなる総括」をしておこう。

 北田さんの描くここ半世紀弱の日本社会は「主体性が動かす時代からアイロニーが動かす時代へ」とまとめることができる。

 一九六〇年代までの「主体性が動かす時代」は、その「主体性」を求めて泥沼に落ちこんだ連合赤軍事件にまで行ってしまう。その「主体性が動かす時代」への抵抗として始まったのが「アイロニー」だった。しかし、一九八〇年代になると、「主体性」にかわってこんどは「アイロニー」が時代を動かし始める。一九八〇年代には「主体性が動かす時代」が完全に終わり、それまで「主体性」がいた位置に「アイロニー」がすわってしまう。そして「アイロニーが動かす時代」が再び行くところまで行ってしまったのが「ロマン主義的シニシズム」の「2ちゃんねる時代」である。

 

 何でもムダに否定したがる「スノッブ」

 で、終章の後半(二三七〜二五〇ページ)は、北田さんによれば、「情況への処方箋」を作成するための覚書のようなものだという。

 北田さんは、まず、コジェーヴの「日本社会での形式主義の根強さ」という指摘を、留保をつけつつも(日本に一度だけ来て古典芸能に強い印象を受けたからって、それを「日本社会」全体の特徴にするな!――というようなこと)追認する。

 コジェーヴのいう日本的な「スノッブ」とは、否定する必要のないものをムダに否定しつづけるという存在だった。「否定する」ということが形式主義化してしまい、「否定する」ことの意味も意識しないでひたすら「否定する」ことを繰り返しているというのだ。

 北田さんの考える日本社会とは、「何のために主体的でなければならないか」とか「何のためにアイロニー的でなければならないか」という説明を抜きにして、「人間は主体的でなければならない」とか「人間はアイロニー的でなければならない」とかいうことがあらかじめ社会の基本的な仕組みとして組みこまれている社会だ。その社会に住む人間は、「何のために主体的でいなければならないか」とか「アイロニー的でいなければならないか」とかを考えるまえに、主体的であろうとしたり、アイロニー的であろうとしたりする。北田さんはコジェーヴの「スノビズム」についての指摘をそんなふうに読み替えているようだ。「主体的であることをめざす」とは「主体的でない自分を否定する」ということだし、「アイロニー的であることをめざす」とは「自分が受け取ったものをそのまま(ベタに)受け取ることを否定する」ということだから、コジェーヴの何でもやたらと否定する「スノッブ」の範囲に含まれるということだろう。

 

 しんどい「否定」と楽な「否定」

 北田さんは、また、コジェーヴのヘーゲル解釈を読み替えることで、「連合赤軍の時代」から「2ちゃんねる時代」への日本社会の流れを説明しようと試みる。

 与えられた環境を否定しつつ進歩するのがコジェーヴの「人間」であり、環境を否定せずに安住してしまうのが「動物」、否定してもしようがないものをムダに否定してみせるのが「スノッブ」である。

 しかし、どうしてこの「スノッブ」というのが登場してくるのだろうか――否定てもムダなものを否定しても疲れるだけなのに?(北田さんはこういう問題の立てかたはしていないが、こうまとめてもそんなにはずれてはいないと思う)。

 それを解く鍵はその「環境を否定する」の「否定のしかた」にある。

 「否定のしかた」にも二種類ある。この本で紹介されている表現はもっと複雑だけど、不正確なのは承知のうえでかんたんに整理すると、「それは違うぞ!」と環境のあり方を変えるために自ら飛びこんでいくやり方と、「それは違うぞ!」と心で思って決めつけるやり方だ。

 「それは違うぞ!」と自ら変革のなかに飛びこんでいくのはしんどい。それに、それは下手をすると戦争とか内乱とか革命とかいう大騒ぎになってしまうかも知れない。

 だが、「それは違うぞ、バカめ!」と心のなかで思っているだけならば、べつにだれも傷つかないし苦しまない。なんか自分が偉くなったような気分がするだけである(こういう話題は本誌でへーげる奥田さんがより詳しく展開される……はずだ)。

 その「それは違うぞ、バカめ!」と思うだけで、自ら環境を変えるために飛びこんでいかないのが「スノッブ」だ。思うだけならば自分が偉くなったような気分がするだけでべつに何の損もしない。否定しなくてもいいものをムダに否定しても疲れない。だから何でも否定したがる。「否定」のしんどい部分を抜け落ちさせ、楽な「否定」ばかりを濫発する存在が「スノッブ」だというわけだ(しかし「スノビズム」がそんな楽なものなのならばべつに日本人だけじゃなくて世界じゅうの人間が「スノッブ」になっていておかしくない気がするんだけど……)。

 そういう考えかたの傾向は日本社会に根づいていると北田さんは言う。それが「主体性」や「アイロニー」をめぐる日本社会の「形式主義」だというのだ。そして、現在のところのその終着点が2ちゃんねるの人たちの「ロマン主義的シニシズム」だと位置づける。

 

 「スノッブ」を啓蒙することは可能か?

 そういう「2ちゃんねる化する社会」に対する一つの「啓蒙」の方法として北田さんが注目するのが宮台真司の方法である(二四四〜二五〇ページ)。

 「援交から天皇へ」(という本を宮台さんは書いていたと思う)――「日常」をさりげなくやり過ごす女子高生をたたえていた宮台真司から、「国民の天皇」・「亜細亜主義」を積極的に主張する宮台真司へという変化のなかに、「2ちゃんねる化する社会」への「啓蒙」の方法の可能性をいちおう見出しているのだ。

 それはアメリカ合衆国の哲学者リチャード・ローティのやり方の日本版だと北田さんは言う。

 ローティは、一般的理論として「リベラルな民主主義」を完全に正当化する論理が見出せないと考えられ始めたとき、その事実を認めたうえで、アメリカの伝統としてのリベラリズムと民主主義というのを基礎に「アメリカのリベラルな民主主義」を正当化したらしい。ローティは、リベラリズムを正当化するために「アメリカという共同体の伝統」というコミュニタリアン(共同体の伝統や共同体内の対話を重視する考えかた)な発想を裏口から輸入したというので、リベラリズム論者の井上達夫さんに酷評されていたのを覚えている(井上達夫『他者への自由』)。

 それの日本版ということで、宮台さんは「天皇制」とか「亜細亜主義」とかをあえて持ち上げて見せる。すでに「ロマン主義的シニシズム」によってネタにされているものを、自分がもっと良質の立場からネタにして返すことで、どこへ走っていくかわからない「ロマン主義的シニシズム」を方向づけようというのがその意図らしい。「ロマン主義的シニシズム」にあえてつき合って見せ、その「ロマン主義的シニシズム」を方向づけてあまりよろしくない方向に行くのを防止する。そこに宮台さんの「啓蒙」のためのぎりぎりの「戦略」を見る――それが北田さんの立場だ。

 だが、北田さんは、その「ローティ日本版戦略」について、「動物的アメリカ」と「スノッブ的日本」の違いを見過ごしていることを指摘し、危惧も表明している(二四八〜二四九ページ)。そして、その宮台真司の批判者として、「戦後民主主義」を掲げて(これも「あえて」だろう、たぶん)対抗している大塚英志を紹介して、最後の一段(形式的には段落三つぶん)を残して北田さんはこの「覚書」を終えている。

 私は宮台真司にも大塚英志にもあんまり関心がないので、この部分は私にはよくわからない。わかろうという気もちもあんまりない。ただ、宮台真司が天皇制やアジア主義を語り始めたからと言って、「宮台が右傾化したっ!!」みたいな大騒ぎをするつもりは私にはない。なぜそんな大騒ぎをしなければならないのかもわからない(それは私が最初から右傾化しているからかも知れないけれど)。他方で、私は「戦後民主主義」をのうてんきに全面肯定する気にはなれないけれど、「戦後民主主義」をあえて擁護するのも一つの立場だろうとは思う。

 ただ、「宮台右傾化への危惧」みたいなのとは別に、良質なものを提示すればシニシズムは方向づけができるのかという疑問はある。良質なものを提示しても、それはたんに「アイロニーの対象」として弄ばれ、飽きられるだけではないのか? 私が危惧を抱くとしたらその点だ。

 

 だれに対する「啓蒙」が必要なのか

 宮台真司と大塚英志を紹介したあとに残った最後の一段(二五〇ページ)に北田さんは何を書いているか?

 「2ちゃんねる時代」に思想を語ろうとする者にとっては、「2ちゃんねる時代」を病気と捉えてその「処方箋」を書くことより先に必要なことがあるのではないか。

 それは、自分自身に対して「処方箋」を書くこと――どんな思想を発信しても掲示板やブログでネタにされて叩かれてやがて忘れられていく時代のなかで、それでも思想を発信しつづけるとしたら、それはどうすればいいかを考えることだ。「2ちゃんねるの人たち」を「啓蒙」しようとする前に、「啓蒙」するには何が必要かをまず自分自身に対して「啓蒙」する必要がある。そのアジテーションを最後のことばとして、この本の本文は終わる。

 このあとに註と「あとがき」がついている。

 あとがきは、この本についての北田さん自身の評価(とくに「この本には何が書いてないか」の指摘)と北田さんの個人史と謝辞で、このうち北田さんの個人史と関連してナンシー関の話が出てくる。しかし一九八〇年代に下校途中にアニメイトがあったとは、なんというか……羨ましい。

 註で感心したのは、横文字の文献がほとんど引用されておらず(ゼロではないが)、註で言及されているのが日本の文献か日本語に翻訳されている文献に限られていることだ。東大の先生ともなれば自由に英文文献を(もしかすると独文文献や仏文文献も)読みこなせるだろうし、またじっさい読みこなしておられるだろう。けれども、北田さんが、そういう文献に頼るのではなく、できるだけ一九六〇年代〜二一世紀初頭の文献に寄り添いながら、自分の議論を組み立てておられることに私は敬意を表したい。

 

 また一人、隠れている重要登場人物

 「2ちゃんねる化する社会」をどう「啓蒙」すればいいのか?

 この問いについては、少なくとも私は答えを思いつかない。画期的に効果的な方法なんかいまのところないんじゃない?――というくらいしか答えようがない。

 ただ、それとは別に、この本をここまで読んできてずっと感じていたことを書いてみたい。

 それは「進歩派」を中心とする知識人のことだ。

 この知識人たちはこの本では一度も正面から論じられることはない。しかし、この本の叙述の背後につねに隠れていて、ときどき姿を現している。

 そこで、この本で姿を見せているところを拾うことで、「進歩派」知識人がこの社会の流れとどう関係してきたかを見てみよう。

 連合赤軍事件に知識人がどう関係したかはよく知らない。少なくともああいう殺人を肯定はしなかったんじゃないかとは思う。

 ただ、連合赤軍が凄惨な殺しをやるところまで「主体性」を追い求めた背後に、「進歩派」知識人による「主体性を持て」とか「主体的であれ」とかいう「煽り」があったことは容易に想像できる。

 もちろん連合赤軍の人びとが「進歩派」知識人の権威に従順であったということではない。

 むしろ、連合赤軍の人びとは、社会のなかで「進歩派」知識人のような「立ち位置」をとることを否定しようとした(これも北田さんの議論の流れではスノッブ的な「否定」ということになるのだろう)。

 北田さんも指摘するように(三九〜四三ページ)、「進歩派」であれ何であれ、当時、大学という場に身を置いていること自体が「特権」的なことだと思われていた。

 たしかに一九六〇年代には大学進学率は現在よりかなり低く、大学入学へのハードルは高かった。だから、その大学で学ぶのは特権的なことであった。連合赤軍のような極端な左翼集団はなおのことその「特権」性を重視しただろう。

 そこから見れば、「進歩派」の知識人は、口では進歩的なことを言いながら、じつは大学という特権的な場所に安住していると見える。そんな「立ち位置」に立ってしまいがちな自分を否定し、それとは違う自分として自分を確立すること――それが連合赤軍の人びとやその同時代の「七〇年安保闘争の人びと」が追い求めた「自己否定」だった(四四〜四五ページ)。

 

 ハシゴをはずされた人たち

 だが、それではどうなればいいのだ?

 「大学の権威」のようなものから離れて、自分を「主体」として確立するにはどうすればいいのだ?

 「進歩派」知識人ご推奨の「主体」的な生きかたをしようと模索し、大学という「特権」的な場に安住している当の「進歩派」よりも先に進もうとした結果、連合赤軍の人びとは自滅への道を突進してしまった。

 「進歩派」の先生方はけっして連合赤軍事件のような殺しを勧めたのではないだろう。「主体性」を求めて異常で凄惨な殺しに到達した責任は連合赤軍自体にある。だいたい「人の要素第一≠フ原則」(五一ページ)とやらを追い求めて殺しに到達すること自体がおかしい。それに気がつかないというのがまず異常だ。そのことは確認しておきたい。

 そのうえで、なお連合赤軍の人びとの立場に立ったとしたら、その「進歩派」の先生方はどう見えるだろうということを考えてみよう。「進歩派」の「先生」たちに言われて「主体性」へのハシゴを上りはじめ、じつは大学という「特権」に安住している当の「先生」たちより上まで昇ったらハシゴをはずされた――と連合赤軍の人びとが感じたとしても、私はけっしておかしくないと思う(私は同じようなことを押井守について書いたことがある)。

 

 一九七〇年代から2ちゃんねる時代までの「進歩派」

 次に登場する「進歩派」知識人は、「抵抗としての無反省」の人 津村喬のマンガ論を頑として受け入れなかった稲葉三千男だろう。

 北田さんの整理によれば、津村の立場とは、メディアはそれが表現するものからは自立した存在で、メディアはメディアとしてまず論じられなければならないというものだったという(「コピーライターの思想」。九五ページ)。

 それに対する稲葉の論理は、この本では十分に紹介されていないのだが、要するに、どの作品がどうという議論に行く以前に、「マンガ」全体に社会学的に低い位置づけを与えて全面否定してしまうというもののようだ(九一ページ。ちなみにこのページで触れられている少女マンガの話はもっと読みたかった)。

 「社会学」というのが、分析対象になっているもの――このばあいはマンガ――を系統的に調べもしないで、ただ自分がちょっと読んでみた印象だけで論じて成立するものなのかどうかは、私にはちょっとわからない。違うんじゃないかという気はして、だから、このときの稲葉という東大の先生の言っていることはやっぱり「社会学」とは無縁の情緒的な印象批評みたいに思えるんだけど……どうでもいいや、関心ないから。それに、ご自身が社会学者の(しかもかつて稲葉先生がおられた大学で研究しておられる)北田さんが「社会学」だと断定しているのだから、やっぱり「社会学」的だと言っていいのだろう。

 ここに出てくる「進歩派」知識人の稲葉は、固定した「あるものごとと、それを表現することば」という関係(シニフィアン‐シニフィエの関係)からどんな表現様式も逃れられないという発想しかできない人である。稲葉は、津村が自分に向かって「表現には表現固有の論理がある」と主張しても、それが正しいかどうかを検証しようとすらしなかった(らしい)。

 日本社会は、この津村と方向性を共有する(と北田さんが主張する)糸井重里を受け入れる方向へと進む。さらに、糸井重里の「抵抗としての無反省」から「抵抗を棚上げした無反省」へと進んで津村を完全に時代遅れの言論人にしてしまい、ついには「ただの無反省」へと進んで、「主体性の追求」ではなく「アイロニー」が自己目的化する社会へと変わっていく。

 この間、「進歩派」知識人はまったく登場しない(浅田彰や柄谷行人は「進歩派」ではないとして)。次に登場するのは、「2ちゃんねる時代」になってからである。この本でははっきり書かれてはいないものの、「進歩派」は、「2ちゃんねる」で嘲笑の対象になっている「戦後民主主義」や『朝日新聞』的なものの同行者として、やはり嗤われる立場にある。

 

 たんなる「無反省」としての「進歩派」

 ここまでの過程を見てみると、「進歩派」知識人の人たちは、その「進歩」という名に反して、一九六〇年代の「立ち位置」から少しもその「立ち位置」を変化させていないように見える(自分で自分を「進歩派」と名のる知識人はそんなに多くないと思うが、それでも「進歩」という概念を肯定的な価値観として捉えている知識人は多いだろうと思う。「西洋だけを進歩のモデルと考えてはならない」とかの何らかの留保つけてであっても)。

 社会の側が、「主体性」が自己目的化することに抵抗して「アイロニー」という方法を身につけ、いつの間にかその「アイロニー」が自己目的化して行くところまで行ってしまうという七転八倒の大変化を遂げているあいだに、この「進歩派」知識人の人たちは、「主体性の確立こそ重要だ」という最初の「立ち位置」から一歩も踏み出していないように見えるのだ。北田さんはそんなことは書いていないけれど、でも、このめまぐるしい「大衆社会」の変化に対して、「進歩派」の知的エリートが何か変化したようにはこの本からは読みとれないのだ。しかも北田さんが大きな見落としをしているとも思えない。

 もちろん、そう見えるのは、この「進歩派」のなかから、柄谷行人も浅田彰も、一九九〇年代から大々的な活躍を始めた大塚英志も宮台真司も、また二〇〇〇年代に入ってから活躍が目立つようになる東浩紀さんや北田さんご本人もはずしてしまったからだ。「進歩派」の人びとから東さんや北田さんまで系譜関係を見つけて論じればまた違った結論が出て来るかも知れない。少なくとも北田さんは戦後「進歩派」‐柄谷・浅田‐大塚・宮台‐北田・東という系譜が論じられるのを期待しているようではある。

 しかし、「2ちゃんねる化する社会」に向き合おうとする東さんや北田さんのような知識人がいる一方で、そういう社会の変化に対応しようとしない、いやその変化の重要性に気づきもしない「進歩派」の後継知識人もまた多いのではないか。そうでなければ「戦後民主主義」が「2ちゃんねる化する社会」で「嗤う」対象になり得るはずがない(まあ東さんや北田さんが「嗤」われないというわけでもないだろうけど)。「2ちゃんねる化する社会」にまったく対応していない「戦後民主主義ギョーカイ」が巨大だからこそ、「ロマン主義的シニシズム」で嘲笑われるための恰好の「ネタ」として通用するのだ。

 もちろん「進歩派」知識人の世界からは反論があるだろう。

 世のなかがどう変わろうと、「主体性を確立することがたいせつだ」という真理は変わらない。だから自分たちは変わる必要がなかったし、これからも変わる必要はないのだ、というのが予想される反論である。

 だが、もしそういう反論があるとしたら、それはあまりに「無反省」なのではないかと思う。べつにそれでもかまわない――「進歩派」知識人の人たちが「ロマン主義的シニシズム」のネタにされつづけ、もしかするとそのうちに飽きられてネタにもされなくなることで満足するのであれば。

 でもそれはあからさまな頽落だろう。「ロマン主義的シニシズム」の人たちは「主体性を確立せよ」などという「進歩派」知識人のことばをなかなかまじめに実践しようとはしないだろう。それを理解せずに主張をつづけるならば、自分の「立ち位置」や影響力について何も考えようとしない「ただの無反省」、わかっていて主張しつづけるならば「シニシズム」へのおつきあいに過ぎない。

 

 新たな「抵抗としての無反省」へ?

 もしかすると、北田さんはこの「無反省」に意味を与えたいのかも知れないと私は妄想する。

 日本社会が七転八倒して「アイロニー」の果てにまで行き着くあいだ、ひたすら愚直に「無反省」を貫いた「進歩派」知識ギョーカイの方法「無反省」に、北田さんは「抵抗としての」をくっつけたいのではないか。

 北田さんは、「アイロニーが自己目的化した社会」に対して「あえて」の方法で方向つけを試みる宮台真司に強く共感しつつも、その方法には十分に賛成していない。北田さんが見出したい方法とは、その「アイロニーが自己目的化した社会」に「抵抗」するためにあえて「無反省」でいることではないのだろうか(だから、北田さんは「アイロニー」が自己目的化することに「抵抗としての無反省」を貫いた人としてのナンシー関に共感するのだろう)。

 連合赤軍と同時代を「過激派」として生きた糸井重里が、その「主体性の押しつけ」に疑問を抱いてその戦列を離れたとき、その「抵抗としての無反省」の方法について何か強い確信があったかというと、私はそうでもないと思う。PARCO資本と結んでその「コピーライターの思想」を成功させるまでにはいろんな模索があったのではないだろうか。

 北田さんは、たぶん、いま同じような模索のなかにいるのではないか。そして、その模索途中の一「総括」として、この本を書いてみたのではないだろうか。

 

 

 5  感動とアイロニーの共存をもう少し考える

    ―― この本全体への私のコメント ――

 

 この本の時代像は私の実感に近い

 この本に書かれている一九八〇年代以後の時代像は私の実感に近い。

 東浩紀さんに「一九九五年からは完全に動物化した時代だよ」と言われても、また、ササキバラ・ゴウさんに「一九九〇年代には男性が自分の無力さを意識しすぎて暴力的になっている時代だ」と指摘されても、そうかも知れないなとは思いはしたけど、どうも自分の実感には合わないように感じていた。しかし、北田さんの描く時代像は、私が生きてきたそれぞれの時代の感覚を手際よく表現したものだと感じた。

 北田さんのこの本の眼目は、「2ちゃんねる時代」を、一九七〇年代後半から一九八〇年代初頭の「抵抗としての無反省」時代から連続するものとして説明している点にある。

 「抵抗としての無反省」時代に、主体性を強要することへの「抵抗」として生み出された「アイロニー」という方法が、『ビックリハウス』やPARCOなど西武百貨店資本に支えられつつ日本社会全体に受け入れられていく。そのアイロニーが「抵抗」の意味を失い、アイロニー自体が「反省」(自分や自分たちについてよ〜く考え直すこと)の形式として広がり、日本社会を覆いつくす。日本社会を覆うその「アイロニーの共同体」が、背後でそのアイロニーを支えてきた「ギョーカイ」の枠組すら超えてしまったのが「2ちゃんねる時代」だ。

 それが北田さんの描いた時代像だ。一九八〇年代以後、私がそれぞれの時代に持ちつづけた違和感に、この本は具体的な名まえ(「抵抗としての無反省」とか)とイメージを与えてくれたように思う。ちなみに私は北田さんより五歳ほど歳上だ。

 

 時には昔の話を

 一九七〇年代後半、当時の「若者」たちは、当時の「良識」的な大人たちから「シラケ世代」と呼ばれていた。当時の「若者」たちが政治的関心を急速に失って行ったことへのいら立ちと違和感がその表現には表れていた。しかも、当時の「若者」たちや、その「若者」文化を煽っていた「イデオローグ」たちは、その「シラケ」を非難として受け取らず、半ば自嘲のことばとして、しかし半ば抵抗のことばとして、自分たちを表現する(アイデンティファイする)ために自ら肯定した。

 この「シラケ前世代」と「シラケ世代」の違いの断層を、そのころ中学生や高校生であった私は何度か実感として体験している。

 何かの用事で一つ上の学年の教室に行ったとき、その教室には、政治的な内容のビラとか、「文学」の新しい動向についての記事の切り抜きとかが貼ってあった。私たちの教室にはそんなものはカケラもなかったので、「なんだこれは?」と驚いた記憶がある。私たちよりも上の学年の学園祭での出し物は、展示にしても演劇にしても非常にまじめなもので、「文学」性や社会批判性を前面に出したものだった。しかし私たちの学年でその気風は大きく変わった。私の同級生は、学園祭で、タイトルとはほとんど関係のないパロディーだらけの出し物をやったらしい。企画の責任者はあとで先生に呼び出されて怒られたという話をあとできいた(私は関係者ではなかったので正確なところは知らない)。

 私は、そのころ、生徒雑誌の編集をやっていた(ついでに言うと、そのころから私の書く文章には「長すぎる」という苦情が寄せられていた。私はその苦情に対してたんなる「無反省」を貫いて、いまも私の書く文章は長い。すみません)。

 一学年上が編集した生徒雑誌までは、社会批判が載っていたり、純文学的なまじめな小説が載っていたりした。「まともなものを読んだぞ」という充実感があるかわりに、読むとけっこう疲れる本だった。

 ところが、私たちの学年が中心になって編集した号からは、エンターテインメント小説(のような小説)が増えた。また、かならずしも「保守的」ではないけれど、「良識」的な教育内容とは対立するような、これまでは出なかったような傾向の(上の世代から見ると「稚拙な」ということになるのだろう)評論が寄稿されたりした。それをぜんぶ無批判に載っけたため、ここでも私たちはけっこうクレームやお叱りをいただいた。とくに、私の身近な友人から寄せられた「分厚いわりに読んでもぜんぜん読んだ気がしない」という批判が私にはこたえたものだ。

 まあ、編集者のマナーが悪くて印刷会社に迷惑をかけまくったことは認めるけどね……ごめんなさい! > 印刷所の人。ともかく会社というところが珍しかったもので、校正のためにおじゃましていた会議室の前の廊下とか走り回ってましたからね。ちゃんとした役員のひとがまじめな会議している横でしょーもないネタで大笑いとかしてたし。でも、おかげさまで、いまも同人誌を作るたびに締切に間に合わなくなって印刷会社さんに泣きつく日々を過ごしています……ってダメじゃん! あ、ちなみにこれはアトリエそねっとでオフセ本を作ったときの話で、WWFは締切数日前にはちゃんと入稿しているという優等生サークルなんですよ。これもプロジェクト管理のへーげる奥田さんの人徳の致すところです。

 

 「抵抗としての無反省」と「良識的無反省」のすれ違い

 ともかく、私より少し上の学年と較べて、私たちは、政治意識も社会批評の意識も「文学性」も、信じられないくらい低い世代と見られてきたのだ。同じような「世代の断絶」は、学校帰りにアニメイトに寄り道できたような都会では(まだ言ってる……)もっと早い時期に訪れたのではないだろうか。

 この「シラケ」の一部に北田さんのいう「抵抗としての無反省」が含まれていたのだろう――「シラケ」=「抵抗としての無反省」とは言えないとしても。その「抵抗として」の部分を理解できない歳上の世代が、ぜんぶ合わせて「ただの無反省」と見なして非難したことばが「シラケ」だったのだろうと思う。

 だが、「抵抗としての無反省」の人たちも「無反省」なら、当時の「良識」的文化だって「無反省」じゃないか。この本を読むとそう思えてくる。それが北田さんの意図ではないとしてもだ。

 連合赤軍事件のような展開を受けとめて「抵抗として無反省」に走った人たちに対して、「良識」的文化の人たちは、「政治意識を持て」とか「社会に対して批判意識を持て」と叱咤しつづけた。しかし自分たちの「良識」が凄惨な連合赤軍事件へとつながっていったことについてまるで「無反省」だったように見える。まったく無関係な暴力事件として自分たちの世界から切り離してしまった。でなければ、自分も暴力事件の被害者だとしての立場だけを強調した(大学の研究者はこの時代には学生運動の攻撃対象になったからだ)。もちろん例外的に自分の問題として受けとめたひとはいただろうけれど、それが大勢だったようには私には思えない――残念ながら。

 「抵抗としての無反省」がまだ少し前までの自分たちの思想の暗黒面について自覚的だったのに対して、「良識的無反省」はまるでその自覚がなかった。当然、「抵抗としての無反省」と「良識的無反省」とのあいだには対話は成り立たなかった。この本の事例で言うと、それを象徴するのが稲葉‐津村論争ということになるのだろう。

 「抵抗としての無反省」は、「アイロニー」で「一つ上のレベル」に立つことによって「良識的無反省」との対話を回避し、「良識的無反省」もその「抵抗としての無反省」を説得するために強いて対話しようとはしなかった。「良識的無反省」の側は「抵抗としての無反省」を「下のレベル」に押しこむこともせず、「相手にする値打ちもないもの」と「なかったこと」にしてしまった。だから、一九七〇年代の末から一九八〇年代初頭には「良識」と「シラケ」のあいだに対話の成り立たないまま存在した。たぶんそうなんだろうなと思う。

 

 北田さん、ありがとう!

 私自身は、「抵抗としての無反省」時代のなかで、学校の先生たちに教えられたとおりに「良識」的になろうと努めていた。努めてはいたけれど、とても学校の先生たちの求めるような「良識」人にはなれなかった。とくに「純文学」らしい文学はずっと読まずに来た。いまもほとんど読まない。でも、そうやって無理をして「良識」的になろうとたおかげでいまの私がある。それで損をしたと思うこともあるが、得をしていることも確かにたくさんある。だから当時の「良識」的な人を責めることはできない。

 ともかく、強いて「良識」的であろうとした私は、糸井重里的な広告から、当時の「面白くなければテレビじゃない」というフジテレビの番組、漫才ブームといった「抵抗としての無反省」や「無反省」にずっと違和感を感じてきた。違和感というより、「これをおもしろがったら終わりなんだ」という意識というか意地がずっとあったように思う。

 それは、たぶん「良識」的であろうとした者が、「アイロニー」の図式で上から見下されることに対して感じていた抵抗感だったのだろう。私が感じてきたその感じを「良識」対「アイロニー」という図式でこの北田さんの本はすっきり整理してくれた。そういう意味で、私にとってのこの本は「癒し」の本であった。

 北田さん、ありがとう!

 

 疑問に思う点

 だが、この本の図式に私は疑問がないわけではない。

 その一つは、一九六〇年代の連合赤軍、一九七〇年代の糸井重里と津村喬、一九八〇年代の田中康夫と川崎徹という「代表的人物」の選定と、それを結びつける論理についてだ。

 連合赤軍は一九六〇年代から一九七〇年代の初めの日本社会では非常に特異な集団に過ぎなかった。その連合赤軍をほんとうにこの時代の日本社会を代表する存在と見ることができるのか? 連合赤軍の「裾野」として「七〇年安保闘争の人びと」まで含めても、この時代のある世代集団の代表とは言えても、ほんとうにこの時代を代表する存在と言えるだろうか?

 また、糸井重里は一九七〇年代後半から一九八〇年代初頭の日本の大衆社会に広く受け入れられていた。こちらはその時代の「代表的人物」と見てもおかしくない。けれども、その糸井が「もと過激派」だったからといって、連合赤軍とつなげて論じることが妥当なのかどうか?

 時代をだれか人物に代表させて語るばあい、その人物にだれを選ぶかによって、時代像には非常に大きな違いが出てしまう。これは、人物だけでなく、文学作品とかアニメとかゲームとかで語るばあいでも同じだ。

 もちろん、だからといって時代を「代表的人物」で語るという方法が意味がないとは言わない。ただ、自分の議論の進めかたが先にあって、それに都合のいい人物を選んでいるのではないことをいちおうは示す必要がある。たぶん北田さんは根拠があって「代表的人物」を選定しているのだろう。でもそれが十分にわかるように説明されているかというと、それが十分でないばあいもあるように感じる。

 糸井重里や田中康夫などの主要登場人物は、作家の田中康夫と、CM作家の川崎徹と、歌人の俵万智を「ベタ」でつづける例のように違和感を感じるところもあるけれど、それもそれほど強い違和感ではなかった。しかし、時代を解釈するための枠組に援用されている浅田彰・柄谷行人などの知識人(ここに名を挙げた二人については登場人物でもあるわけだが)については、なぜその人の議論を援用するのかの説明が少なく、「なぜこのひとが引用されるのだろう?」と感じることも多かったように思う。

 ただこのことについてはあまり深く追及しても意味がないと思う。私自身は、いま書いたように、自分の実感からいうと「連合赤軍‐糸井・津村‐田中・川崎‐電車男・窪塚洋介」という「系譜」での説明は成功を収めていると思う。もしこの「系譜」に納得がいかないのであれば、自分で納得のいく系譜を見つけ出して自分の「二〇世紀後半〜二一世紀初頭」論を組み立ててみればよいのではないかと思う。北田さんと違う素材も、また北田さんと違う組み立てかたも、いくらでもあるのではないだろうか。

 

 「感動」と「アイロニー」の共存は異常か?

 それよりも強く感じる疑問は、「感動」と「アイロニー」が共存するというのがそんなに異常な事態だろうかという疑問である。

 私の実感は違う。「感動」と「アイロニー」はむしろ同時に起こるのが普通ではないだろうか。

 アニメの最終回とかでいやが上にも感動する場面に出会ったとき、むしろ「この回の作画監督ってだれだっけ?」とか「こんな場面は昔の○○という作品にあった、したがってこれはパクリだ」とかいうよけいなことを考えてしまうのではないだろうか。少なくとも私はそうだ。そんなことをやっているうちにだんだん感動できなくなってくるので……困ったものなんだけど。

 こういう例は、アニメや音楽に接したときだけではなく、日々の生活のなかでもいろいろ経験するのではないだろうか。特別に嬉しいことや悲しいことがあったときのことは、その場の情景までけっこう細かく覚えている。日付は忘れても、それどころか何年のできごととか何歳のときのこととかいうことまで忘れても、あの日は雨が降っていたとか、そのことを告げられたときの部屋の壁紙の模様はどうだったとか、映像や音声の情報はいっしょに記憶に残っていたりする。

 感動すると、自分に感動を与えてくれているもの以外のものごとにまでかえって気がつくものだ(というのが私の実感だ)。

 それは、一つには、感動して心の活動が活発になることで、自分に感動を与えてくれているもの以外の情報まで拾ってしまうからだろうと思う。

 また、感動すると、その感動を与えてくれているものによって自分の存在が奪い去られそうになる。これまで長い時間をかけてできあがった自分が、外からいきなり自分のなかに入ってきた物語なり風景なり音楽なり映像なりに乗っ取られそうになるのだ。それに対する自分の防衛反応として、その「感動を与えてくれたもの」以外にわざと関心を向けようとするのだろう。

 そして、その「感動」が生み出す「よけいなこと」への関心一つ、または、「感動を与えてくれるもの」からの自分の防衛反応が、「感動している自分」を「下のレベル」に置いたまま、「上のレベル」に「自分はなぜ感動しているかをなんとか説明しようとする自分」を生み出すという方法ではないだろうか。本気で感動しているからこそ、なぜ自分が本気で感動しているかを懸命に説明しようとするのだ。これは、「自分を一つ上のレベルに置いて相手を見下す」という、北田さんの言う「アイロニー」の方法へとつながる。

 だから「感動させられていることを知りつつ、本気で感動する」ということ自体は、私はそんなに奇妙な現象ではないと思うのだ。

 

 「逃げ」としての「アイロニー」

 「アイロニー」には別の働きもある。他の人に自分を説明するときの「逃げ」としての働きだ。

 自分が何かに感動したとき、下手に「感動したぁ!」とかすなおに伝えると、「そう?」とかいう冷たい反応を返されて自分が傷ついてしまうかも知れない。「あんなの○○のまねだよ」とか「あんなのに感動するなんて幼稚だね」とか言い返され、自分を感動させてくれた作品(とか風景とか)と「感動している自分」の両方を否定されてしまうかも知れない。いつも「アイロニー」の素材を探している者にとって、こういう「ベタな感動」(「一つ上のレベル」を持たない感動)ほどいい「カモ」はない。

 いや、相手も同じものに心の底から感動しているかも知れないのだ。だが、その相手は、自分では、すなおに感動したことを認めずに「自分がなぜ感動したか」を説明しようと懸命になっているかも知れない。そんな相手は、他のひとに「自分も感動した」と伝えるのをためらう。自分は感動していないように装おうとする。そのときに「感動した」とすなおに伝えても、冷たくあしらわれてしまうだろう。

 そんなばあいに備えて、自分のほうであらかじめ「感動した自分」を「一つ上のレベル」に立って相対化し、相手に否定されたばあいに備えておく。「あれはたしかに○○という作品のまねなんだけど、それでも感動した」というふうに、相手からの攻撃を先取りし、相手を牽制する。「あれは○○という作品のまねだけど、それでも感動した。あんたは感動できなかったの?」(それは、つまり「○○という作品のまねだというぐらいで感動できないほど、あんたの感受性は鈍いわけ?」ということだ)と、相手より「一つ上のレベル」に立って反撃を加えることもできる。

 感動したときには感覚の鋭さが高まり、ほかのものごとにも注意が行き、意識しないでも多くの情報を集めてしまう。それが「アイロニー」の素材になる。あまりに強い感動でそれまでの自分のあり方が崩れるのを防ぐために、「一つ上のレベル」から「感動している自分」を見下ろそうと努めることから、「アイロニー」が発生する。また、感動を人に伝えようとするときに、こんどは「感動している自分」を守るために、また「アイロニー」は発生する。それが「感動」から「アイロニー」が生まれる道筋だ。それはいつの時代でも存在する道筋だと思う。

 だから、私は、「感動」と「アイロニー」が共存している事態を、一九九〇年代に起こった特別なできごととは考えない。自分が感動していることを自分でバカにしつつ、それでも涙が止まらないということは、私はそんなに特異なこととは思わない。いつでも、どんな条件の下でも起こることだ。

 

 シニシズム時代とは何と民主的な時代だろう!

 でも、私は、「人類始まって以来ずっと2ちゃんねる時代だった」などというむちゃくちゃな議論をする気はない。

 「アイロニー」の方法が社会の仕組みとして組みこまれ、その意図がなくても「アイロニー」の方法を採ることがあたりまえとされるような「シニシズム」の社会を前提とすれば、「2ちゃんねる時代」になって「感動とアイロニーの共存(それも極端な共存)」が社会の表面に出てきたことはわりとかんたんに説明できる。

 「シニシズム」の下では、「こんなものに私は感動なんかしない」と発言すること自体が、本人がどんなにほんとうに感動していなくても「あ、感動してるんですね」と解釈されてしまう。「抵抗としての無反省」のところで糸井重里の広告に絡めて書いたように、どうもかわいくない人の横に「かわいい人」というキャッチコピーがつけてあるのに反応して「こんなのかわいくないよ」と言ったとしたら、それもコピーライターの罠に落ちたことを意味する。それと同じである。

 でも、それは、「コピーライター」が特権的な地位を持って、すべての商品を「横並び」にしてしまった「抵抗としての無反省」時代のことだ。そんな時代は終わったのではないだろうか?

 たしかに「コピーライターが特権を持ち、その下ですべての商品は横並び」という時代は終わった。「シニシズム」の時代はだれもが「一つ上のレベル」を目指す。しかし、それは、みんなが「一つ上のレベル」を目指すという点で「横並び」の仕組みができるということだ。また、それは、ほかのだれかが「一つ上」に到達していれば、自分の言ったことが「下のレベル」(「ベタ」のレベル)の位置に置かれてしまうという危険をつねに抱えているということでもある。

 「シニシズム」の時代とは、みんなが「コピーライター」のように「一つ上のレベル」に立とうとし、同時にみんなが「コピーライターの下の商品」のように「下のレベル」に横並びにされてしまう危険から逃れられない時代なのだ。なんと民主的な時代であることか! 民主主義とは「みんなが支配者であり、みんながみんなの支配を受ける」仕組みなのだから。

 

 「感動+アイロニー」か沈黙かの二者択一

 北田さんの言っている「2ちゃんねる時代」の「繋がりの社会性の上昇」はそこから起こったのではないか。

 自分の発言に接続してくれる(レスやコメントをつけてくれる、トラックバックを打ってくれる)者がいなかったということは、自分の発言に感動してくれる者がいなかったと解釈される。

 逆に、嘲りであっても罵倒であっても、自分の発言に接続してくれる者がいれば、それは自分の発言に感動したものとして解釈される。

 それは自分の発言が社会のなかで影響力を持ったことの証になる。その「影響力」の大きさは異なっても、「発言が社会で影響力を持つ」という点で、その発言者はたとえば『朝日新聞』と同列に立つことができるのだ。また、じっさい、ネットの掲示板やウェブログでは、『朝日新聞』の一面トップの記事よりも多くのコメントを集める発言はいくらでも存在しうるのではないだろうか。

 他方で、その「シニシズム」の下では、何かについて発言することが、それに「感動した」ということの表明になってしまう。だから「感動しない」ことの表明の方法は無視すること以外にない。

 しかも、無視することは積極的に「感動しない」ことの表明にはならない。沈黙していたのではネット上ではなぜ沈黙しているのかが伝わらないからだ。ネット上では、ただ何も書かないだけでは、だれかがその対象を無視していることすら伝わらない。一つの発言にたとえば一日で一千件のコメントが集まった(またはトラックバックが打たれた)としても、ネットにアクセスしている全体の人数と較べれば、コメントをつけたのは絶対的に少数で、コメントをつけない者が絶対多数なのだ。だから、「コメントをつけない」という対応では、単にコメントをつけない名もない(名を知ろうとも思ってもらえない)絶対的多数にただ埋没するだけだ。

 名も知られないままに絶対的多数に埋没しないためには、非難や不快感の表明であっても、ともかく「感動」したことを表現するしかない。しかも、ただ(「ベタ」な)「感動」を表明しただけでは、他の人に「一つ上のレベル」から見下され(アイロニーの対象にされ、「ネタ」にされ)て終わってしまう可能性が大きい。その予防策として、「感動」の表明に加えて、「自分は感動している自分をも見下せる一つ上のレベルにいるんですよ」ということを表明しておく必要がある。

 「2ちゃんねる時代」には、「感動+アイロニー」を表明するか、名も知られない絶対多数に埋没するかのどちらかの対応しかない。もちろん、「ベタ」な感動を表明して嘲笑われて傷ついてももかまわないのならそれでもいいのだが、そういう人は、名も知られない絶対多数に戻っていくか、自分もアイロニー的な態度を身につけるかのどちらかに向かうことが多いだろう。

 だから、「2ちゃんねる時代」には、ネット上のウェブログや掲示板などをすべて含めた「メディア」に表れる部分を見るかぎり、そこには「感動+アイロニー」の共存がごく普通に見出されることになる。

 しかも、ある一つのものごとに多数のコメントがつくようなばあいには、ただの「感動+アイロニー」を目指すだけではやっぱり埋没してしまう。そこで目立つためには、思いきり気の利いたアイロニーを示すか、それとも多くのアイロニーを誘い出すほどの感動モノを書くかしかない。だから、「2ちゃんねる時代」には、アイロニーのユニークな技法が考案されると同時に、感動を誘い出す技法もまた磨かれる。強烈で独創的な皮肉と感動物語が併存する「2ちゃんねる文化」はそうやって成り立ったものなのだろう。

 

 技術的要素からの説明

 では、なぜ「2ちゃんねる時代」より前はそうではなかったのか?

 それは、やっぱりインターネットが普及しておらず、多くの人がインターネットにアクセスしなかったからだろう(実際には、インターネット時代の前に、大型パソコン通信上で、顔を知らない者どうしのコミュニケーションが行われていた中間的な時期があった)。

 インターネットが普及していなかった時代でも、テレビ番組や文学には「アイロニー」的なものが溢れはじめていたと北田さんは言う。これはそのとおりだろう。しかし、それはメディアに載るものに限った話で、大衆的メディアに接する以外の生活の場面では必ずしも「アイロニー」的な態度が貫かれたとは言えない。テレビを「アイロニー」的に楽しんでいる人も、その同じテレビ番組を見ている家族や友だちに対していつも「アイロニー」的に接していたら愛想をつかされただろう。そのかわり、感動したことを表現するのにさしてその表現の技法を身につける必要もなかった。テレビを見て目を潤ませていれば、その場にいる人たちには感動していることは伝わるし、いっしょに見ていない相手でも、ふだんからよく知っている相手であれば「よかったねー、泣いちゃった」程度のことばで伝えることができた。この時期には、無名のまま絶対多数に埋没するか、「感動+アイロニー」を表明するかの二者択一にはならない部分がまだ大きかった。

 インターネットは双方向性のメディアである。いや、「双方向」というより、どっちに向いて情報を出すこともできれば、逆にどこから情報が飛んでくるかわからない、極端な「多方向」性のメディアだ。いま自分が受け取った情報がどこのどんな人のものかを確定するのは、不可能ではないにしても非常な労力が必要だし、受け取る情報のすべてについてそんなことはやっていられない。逆に、相手にはどこのどんな人が送った情報かを探知されないで情報を送りつけることができる。その超多方向性と匿名性が現在のインターネット上のコミュニケーションの特徴だ(東浩紀・大澤真幸『自由を考える』六五〜六六ページで論じられているように、インターネットは単純に「匿名」のメディアではない。アクセスログがすべて残るのだから。しかし、ここでは「インターネットは匿名」ということにして先へ進もう)。「多方向」であり「匿名」であり、ことば(アスキーアートとかそんなに容量の大きくない画像や映像も含む)によってのみつながっていることが「2ちゃんねる文化」にとっては重要だ。

 そこでは、ある「アイロニー」を送り出す人間からは、「そのアイロニーの送り手」という以外のどんな属性も――本名もどこで何をやっているどんな人かも――伝えられない。その人間を特定して「アイロニー」を仕返すこともできない。そうなると、アイロニーで一方的に傷つかないためには、全員が「アイロニー」の送り手になるのがいちばんいい解決法だろう。そこで、インターネット上では「アイロニー」が共通の表現法になる。

 超多方向性の匿名のメディアが人びとに普及し、しかも日々の生活のどんな時間にでもそのメディアにアクセスできるようになったことが、人間がもともと持っていた「感動+アイロニー」の表現法を表面に押し出すことになった。「2ちゃんねる時代」の到来にはその技術的要素がやはり決定的だったと思う。

 なお、インターネットが存在するだけでは多くの人がインターネットに接続するとは限らない。インターネットへの接続が容易であり、しかも安価であることが、インターネットへの接続を飛躍的に進めた。常時接続サービスが普及していなければ、ちょっとしたアイロニーを書きこむためにインターネットに電話代を払って接続するのはやっぱりためらわれただろうし、掲示板やウェブログに書きこむ人数はある程度は限定されただろう。また、二〇〇〇年ごろまでのパソコンは、ネットに接続するまでにかなりややこしい設定をクリアしなければならなかったし、携帯電話(PHSも含む)のネット接続能力も限定されたものだった。接続に手間がかからなくなり、さらに無線LANが普及したことが「2ちゃんねる時代」の文化をさらに普及させたという面も大きいと思う。

 

 なぜ「ナショナリズム」なのか?

 ナショナリズムがその「2ちゃんねる時代」に共有される(怒り、抗議、糾弾なども含む広い意味での)「感動」の大きなネタになるのも、ある程度は技術的な事情から説明ができる。

 インターネットでは世界じゅうにつながることができる。しかし、日本にいながら英語を使って世界じゅうの人びととコミュニケーションをとろうという人は、現在の日本のインターネットユーザーの全体と較べれば非常に少数だろう。多くの人が日本語を使ってネット上でコミュニケーションをとろうとする。

 ところで、日本語は、現在の日本の領域で通用し、また海外在住であっても日本人のあいだで通用する。他方で、他の国では「母国語」としては通用しない。海外在住の日本人以外では、日本語をよく学んだ人以外は日本語のサイトはあまり見ないだろうし、見てもわからないだろう(もちろんサイトの中味は見ないでサイバー攻撃をかけるとかいうことはあり得るわけだけど)。国のなかに二つの言語が存在するとか、一つの言語が二つ以上の国で使われているとかいうことがないのだ。

 そうなると「日本語でインターネットに接続するユーザー」の範囲は、ほぼ日本人のコミュニティー全体に重なってくる(国籍上の日本人とは限らず、外国籍でも日本語を自在に使いこなす人も含むが)。その範囲で「感動」を共有できるネタとして、日本の国に関係することが浮上してくるのは自然だと私は思う。

 だから、国のなかで複数の言語が使われている国や、他の国と同じ言語を使っている国で、もし「ロマン主義的シニシズム」が登場したとしても、それが「嗤う「ナショナリズム」」へと展開するかどうかはよくわからない。

 

 6  「日本のナショナリズム」について少しだけ

 

 最後に「思想としてのナショナリズム」について

 さて、最後に、そのナショナリズムについて少しだけ触れておこう。

 この本はけっしてナショナリズムを思想として問題にすることを否定していない。ただ、その前に、「シニカルなナショナリスト」という、「2ちゃんねる時代」のナショナリストのあり方を問題として採り上げようというのがこの本の姿勢である。そのあり方を検討しないでいきなり「思想としてのナショナリズム」を扱っても、「若い世代の右傾化」のような、事実かも知れないけれども無力な認識しか出てこない。だから、北田さんは「2ちゃんねる時代」の「反省」の仕組みを懸命に解き明かそうとしているのだ。

 その指摘は正しいと思うし、北田さんの方法も成功していると思う。

 だが、「2ちゃんねる時代」の「ナショナリスト」のあり方だけを明らかにして「日本のナショナリズム論はこれで終わりだ」と考えるのであれば、それはそれで別の問題を抱えこむことになると思う。つまり、「2ちゃんねる時代のナショナリズム」は「繋がる」ことだけを目標にしているのだから、その思想内容が世のなかに影響を与えることはないなどと考えてしまうならば、それはそれで問題を見過ごすことになってしまうのではないか(もちろん、最初から思想内容には関心がないから問題にしないという態度はあっていいと思うが)。

 

 国際環境の大きな変化

 この本での北田さんの説明では、現在の日本のナショナリズムは「ロマン主義的シニシズム」の「ネタ」として登場したということになっている。たぶんそのとおりだろう。しかし、それが唯一の理由ではない。その背景には、まず、日本を取り巻く国際環境の大きい変化がある。

 一九九〇年代初めごろまでの中国は、「社会主義から脱却しようとする圧倒的に貧しい国」だった。日本は圧倒的な経済力の優位を背景にその発展を見守っていればよかった。中国はこのころから核武装した軍事大国だったし、インドやベトナムに対して力を背景とした外交政策を展開する覇権国家でもあった。けれども、国民に経済的にまあまあ満足できる程度の生活さえ送らせることのできない国にそんなに脅威を感じる必要は感じられなかった。心の底からでも、また、心の底で「中国が経済的に日本に追いつくにはかなり長い時間がかかるだろう――もし追いつけるとしても」と思いながらでも、安心して声援を送っていればよかった。

 しかし、その中国は、もともと軍事大国であったのに加えて、一九九〇年代後半から経済大国としての存在感を強めてきた。中国の指導部もそのことを国際社会での中国の影響力の向上に利用しようとしている。それとともに、中国にとって、近隣の産業・経済先進国としての日本の位置づけは低下してくる。

 同じく、一九九〇年代初めごろまでの韓国は、軍事独裁国家から脱皮を図る国家だった。日本はその「民主化」の動きを見守っていればよかった。しかも、政治体制の民主化が達成できた後には、日本に続いて経済的先進国の仲間入りかと思われていた経済力の脆弱さが露呈する。時代遅れになった財閥経済、過去の手抜き工事がたたって発生した大事故が相次ぎ、ついに一九九七年からのアジア通貨・経済危機で韓国は大きな経済的打撃を受けた。一九九〇年代後半の韓国はその復活に懸命になっていた。しかし、現在の韓国は、民主化とともにナショナリズムへの動きを強めている。

 北朝鮮は「工作船」を送りこみ、日本人を拉致したことを認めながら、それらの事件の真相を十分に明らかにしないまま早急に問題を解決済みにしようとし、それにクレームをつける日本への非難を強めている。しかも核開発疑惑を指摘され、自ら核兵器を保有していることまで宣言している。

 さらに、一九九〇年前後のアメリカ合衆国は、民主主義とアメリカン・ドリームの国で、「東側」社会主義独裁体制を変革する上で大きな役割を果たし(「じつは果たさなかった」という見解もあるようだが、事実としてどうだったかはここでは問題にしない)、無法に隣国を侵略したイラクの独裁者サッダーム・フセインと戦った。その直前までアメリカはサッダーム・フセインを支援していたとかいうこともここでは問題にしないことにしよう。一九八〇年代末から一九九〇年代初めにかけてのアメリカは、世界の「民主化」をリードする国家と見られていたのだ。

 ところが、そのアメリカは、国際組織の容認をも取得せずに、本国から遠く離れた地域で戦争を行い、また、地球温暖化防止のための国際的合意から離脱するなど、「巨大わがまま国家」の性格を隠そうとしなくなっている。日本は、国内でその「対テロ戦争」の「大義」への共感が高まらないまま、その「巨大わがまま」におつきあいせざるを得ない。

 

 なお、この本を読むと、北田さんが「ナショナリストはイラク派兵に反対しないはず」という想定を持っているように読める部分がある(二一五ページ、二二四〜二二五ページ)。しかし、伝統的な右翼の論理でも「イラク派兵を強要するアメリカ」や「アメリカ追従の政治家」を非難することは可能である。右翼が一九三〇年代から一九四〇年代前半の「日本を盟主とする東亜の連盟」や「大東亜」共同体の考えかたを継承するのであれば、それがアメリカ批判に向くのは自然である(「東亜」と表現すれば右翼で「東アジア」と表現すれば左翼――というような単純で情緒的なものではない)。現在の「日本のナショナリスト」が「アメリカ追従保守」を批判するからと言って、従来の「右‐左」図式が無力だということは言えないと思う。「右」はアメリカを支持するはずという「右‐左」図式は、冷戦の「米‐ソ」図式を単純に国内版に移したものだが、それで日本の実際の「右‐左」の図式を十分に読み解くことはできないだろう。ただし、現在の「日本のナショナリズム」なり「日本の「ナショナリズム」」を読み解くには「右‐左」図式だけでは不十分だという北田さんの考えそのものには反対ではない。

 

 「進歩」的・「良識」的言論の場当たり主義

 しかも「進歩」的・「良識」的言論(その代表はやっぱり『朝日新聞』だろう)が、その一九九〇年代半ば以降の情勢の展開を先取りできず、それどころか情勢の展開に十分についていくこともできなかった。

 「冷戦」構造が崩れて、世界じゅうで民族と宗教と国家とが複雑に絡まり合い、各地で暴力を使った衝突や紛争が起こる。いったん起こるとなかなか治まらない。世界じゅうで人びとの相互不信が高まる。しかも、情報化が進んだことで、これまでは表に出ることのなかった対立や不信感が世界じゅうに伝わってしまう。

 一九八〇年代までは、世界が平和でないのは「冷戦」構造のせいだと「進歩的」な人びとは考えていた。「冷戦」構造がなくなればすぐに平和な世界ができると単純に考えていたかどうかは知らない。けれども、少なくとも「冷戦」構造がなくなってかえって紛争が多発し、しかもそれが解決できなくなるなどとは考えていなかったはずだ。

 一九九〇年代初頭には、民主化が社会問題や紛争を解決できると考えられていた。ソ連と東欧圏の民主化がその証拠であるように思われた。世界じゅうの国が民主国家になれば、紛争も暴力もなくなるという楽観的な期待があった。

 けれどもその期待はすぐに裏切られた。湾岸戦争で、西側先進国とアラブ諸国の連合軍にこてんぱんにやられたはずのイラクで、非民主的なサッダーム・フセイン政権は生き残った。内戦で政府が崩壊したソマリアは無法状態に陥った。西側諸国から非難を浴び、制裁を受けても、セルビアのミロシェヴィッチ政権は生き延びた。民主化は平和をもたらさない。いや、平和をもたらす以前に、民主主義は暴力の前に無力だということが暴露されてしまった。

 民主主義と平和は、相互不信と対立が紛争に発展する世界では無力である。もちろん、相互不信と対立が紛争を生みやすい世のなかだからこそ民主主義や平和という価値観は貴重だということは言える。しかし、その世界でどうやって民主主義と平和を実現していくのか? 少なくともどうやって民主主義と平和を守ればいいのか? 自分たちがたとえ民主主義や平和を信じていても、その自分たちに敵意を持つ人びとや、民主主義や平和を信じない人びとが自分たちを攻撃してきたとき、その民主主義と平和を信じる自分たちを守れないのでは何の意味もないではないか。

 そういう問いに、「進歩」的・「良識」的な言論は十分に答えることができなかった。暴力に対しては暴力で対抗するしかないという単純明快な論理に対抗する論理を、「進歩」的・「良識」的な人びとは十分に用意することができなかったのだ。

 たとえば「進歩」派・「良識」派は国連中心の解決を主張する。だが、現状では国連は必ずしも十分に平和維持の機能を果たせていない。それ以前に、「進歩」派・「良識」派は日本の国連の平和維持活動への参加に否定的だったではないか。

 「進歩」派・「良識」派は、アメリカ合衆国の独走を強く批判し、大国の協調に期待するという。だが、大国が協調してアメリカの暴走を抑える可能性があると同時に、大国が協調して武力行使に踏み切ることもあり得る。アメリカ単独の武力行使は悪で、大国が協調して武力行使するならいいのだろうか? げんに、一九九一年の湾岸戦争では、「進歩」的・「良識」的言論は大国協調による武力行使を強く非難していたではないか。

 一九九〇年代から二一世紀初頭の世界情勢に対する「進歩」派・「良識」派の言論を追っていくと、場当たり主義的なところが目についてしまう。少なくとも「進歩」派・「良識」派の主張に賛成しない人たちからはそう見えるはずだ。もちろん、「進歩」派・「良識」派のなかでその主張を一貫させようと努力している人たちはいる。だが、それが「進歩」派・「良識」派の全体に共有されるまでにはいたっていない。

 そのような状況も、現在の日本のナショナリズムの抬頭の背景となっているのであって、「2ちゃんねる化する社会」だけをその背景だと考えてしまうとしたら(北田さんはそんなことは言っていないが)、それは正しくないと思う。

 

 「思想としてのナショナリズム」は「戦前回帰」ではない

 この現在の「日本のナショナリズム」(「日本の「ナショナリズム」」ではなく)を論じるのは、この評の目的ではないし、それを全般的に論じるような準備はとてもいまの私にはない。

 ただ、この「日本のナショナリズム」を、「戦前」への回帰をもくろむ一部の老人たちの思想と理解するのはまちがいであると思う。まして「軍国主義の復活」と見なすことには同意できない。

 私は、現在の「日本のナショナリズム」は明らかに「戦後」に基盤を持っていると考えている。

 日本は、戦後ほぼ六十年の長いあいだ、「平和国家」としてともかく戦争の当事者にならずにやってきた。ところが、それだけ「平和国家」をやってきたのに、中国も韓国も北朝鮮もそれをまったく評価せず、「軍国主義」の影を(さらにはその実体を)現在の日本に見出そうとし、しかもそれを外交的に日本への圧力として利用しようとしている。日本は核兵器の被害の悲惨さを世界に訴えてきたのに、近隣の国のなかに核武装を公に宣言した国が出現した(それに中国は早い時期から核保有国である)。さらには、国際紛争解決の手段としての戦争の放棄を日本に強く求めたはずのアメリカが、いま自分のかかわる国際紛争解決のために日本の軍事力を(いまのところ非軍事的に、だけど)利用しようとしている。

 この「現実」に直面して、「平和主義の日本」は二一世紀初頭の国際情勢に裏切られたのだという認識が出てくる。そうなれば、従来の「平和主義の日本」というあり方をやめて、日本のあり方をもういちど考えようという思想が出てくる。これが思想としての現在の「日本のナショナリズム」だというのが私の現時点での考えだ。

 その思想自体が正しいかどうか、それが出てくるのが良いことか悪いことかの判断は別として、そういう思想が出てくること自体は、現在の日本が置かれた国際環境を見れば私はそんなに不自然なことではないと思っている。

 だから現在の「日本のナショナリスト」には自分が「右翼」だと見られることに対する強い違和感がある(ように私は感じる)。自分は国際協調主義者であり、平和主義者であるが、国際環境を顧みないで従来どおりの「国際協調」・「平和主義」を唱えていても、日本が損するばかりで、しかも問題は何も解決しない。だから自分はナショナリスト的立場を採るのだという「戦略」論が、いまの「日本のナショナリスト」には強いように思う(自分が「右翼」とは違うと思っているからこそ、「ウヨ」という罵倒が成立しうるのだ。二〇九ページなど)。

 もう一つ、現在の「日本のナショナリズム」が「戦後」思想から引き継いでいるのは「無力な日本」という想定だろう。「戦後」思想ではその「無力さ」を「平和」と置き換えて基本的に肯定していた。しかし現在のナショナリストはその「無力さ」を否定的にとらえている。だから現在の日本のナショナリストは日本が「毅然たる態度」を採ることを強く求める。その一方で、現在の日本が、現状のままで世界に与えている影響力の「強さ」について十分に認識しているかというと、その意識はあまり強くないのではないかと感じる。

 このように、現在の思想としての「日本のナショナリズム」を問題にするのであれば、「戦後」思想を引き継ぎ、また「戦後」日本のありようを「反省」した上で出てきているということをまず認識する必要があるだろうと私は思う。

 

 「平和国家日本」の失敗

 こう考えると、この本の一五〜一八ページで紹介されている窪塚洋介の発言が「思想としてのナショナリズム」として理解し得ないとは私には思えない。「日本のことを知らない」、「日本人なのに日本の愛しかたがわからない」といういら立ちは、「平和国家日本の失敗」という認識を背景に置けば、十分に理解できると思う。

 「平和国家日本」が「失敗」していなければ、「日本は平和国家だ、日本は平和国家であることを世界に誇るべきだ、もし日本が真に平和国家でないのなら(「左翼」や「進歩派」の多くはそう考えたわけだが)、日本を真の平和国家として確立することこそ日本人の誇るべきつとめなのだ」で「日本のことを知る、日本の愛しかたを知る」という問題は解決した。それで解決しなくなった(と「日本のナショナリスト」たちが認識している)からこそ、「日本のこと」、「日本人としての日本の愛しかた」がわからなくなったのだ。

 「失敗平和国家」の人のアイデンティティー意識では、コリアン・ジャパニーズの人たちのアイデンティティーをめぐる苦悩を理解する点まではとても到達できない――そういう負い目を窪塚洋介という人が感じたとしても、それは不思議でも何でもないと思う(もちろん窪塚がほんとうに何をどう考えたのかは知らないけど)。

 もちろん、「知らない」・「わからない」ならば、まず知ろうとし、わかろうとすべきで、「知らない」・「わからない」とことさらにひとに向かって言うべきものではない。

 だが、一方で、この窪塚の発言に思想として共感を感じるひとは多いのではないだろうか。その感覚はなぜ生まれてきたか。その一つの理由は、「戦後」思想が描く「日本」像が「平和国家」という面のみに限定されてきてしまったことがあると思う。

 

 「2ちゃんねる時代」批判という困難に挑む

 何度も繰り返すように、北田さんの『嗤う日本の「ナショナリズム」』は、思想として「日本のナショナリズム」を問題にするものことを否定してはいない。だから、ここに書いた思想としての「日本のナショナリズム」試論は、けっして北田さんの議論の値打ちを貶めるためのものではないことを、もういちどお断りしておきたい。

 北田さんは、「アイロニー」が仕組みとして社会に組みこまれ、それが「ロマン主義的シニシズム」をもたらしていると言う。そして、自らも「ロマン主義的シニシズム」の人であることを認めつつ、それでも北田さんはその「ロマン主義的シニシズム」の社会に対して「抵抗としての無反省」を方法として立ち向かおうとしている。私はそう見ている。

 この見かたが正しいのかどうか、また、それが正しいとして、北田さんはどんな画期的な「抵抗としての無反省」の方法を見出すのだろうか? それは、糸井重里のように日本社会全体を巻きこむようなものになるのだろうか、それともナンシー関のように孤独な闘いになるのだろうか?

 北田さんの「抵抗」がこれからどうなるかに、私は注目していたいと思う。それも、「アイロニー」的に上から見下すのではなく、共感しながら見ていくことができれば嬉しいといま私は思っている。

 

 

 《本文で参照した文献》

 

 井上達夫『他者への自由』創文社(現代自由学芸叢書)、一九九九年

 大澤真幸『戦後の思想空間』ちくま新書、一九九八年

 大澤真幸『文明の内なる衝突 ―― テロ後の世界を考える』日本放送出版協会(NHKライブラリー)、二〇〇二年

 大澤真幸・東浩紀『自由を考える ―― 9・11以降の現代思想』日本放送出版協会(NHKライブラリー)、二〇〇三年

 笠井潔・東浩紀『動物化する世界の中で』集英社新書、二〇〇三年

 北田暁大『広告都市・東京 ―― その誕生と死』廣済堂出版(廣済堂ライブラリー)、二〇〇二年

 北田暁大・鈴木謙介・東浩紀(鼎談)「リベラリズムと動物化のあいだで」(hirokiazuma.com(東浩紀)『波状言論』(メールマガジン)05〜06号、二〇〇四年)

 小林尽『School Rumble』講談社、二〇〇三年〜(連載開始は二〇〇二年)

 東浩紀「渦状言論」http://www.hirokiazuma.com/blog/

 福本勝清『中国革命を駆け抜けたアウトローたち』中公新書、一九九八年

 

(2005/12)

 

 


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