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Death and Rebirth

 

松本 晶


  

 

 押井守監督にとって『イノセンス』は死へのイニシエーションであり、まだ作品として出てはいない『PAX JAPONICA』がそこからの再生であるとともに原点への回帰、それも単なる懐古趣味ではなくて一つ上の階層への螺旋状の回帰になるであろう(とキボン)、というのが本稿の結論です。あとは水増し〜。

 てなわけでコレで終わればカッコイイ? かもしれませんが、それはウソ。だいたいもっと普通に言えば、オッシーはずっとジブンが見たい知りたいもののために同じスタンスでやってると、ずっと昔はシンクロしてたのが、ちょっと前までちょっとワタシのシュミと会わなかった、けどまたシュミが合ってきたよね、という身も蓋もない結論でしょうし。それと今回も何か納得の行くものが書けないので、養老孟司方式とか橋本治方式で何となくダラダラと徒然なるままを書いてみる予定だったのですが、結局吉本隆明@『重層的な非決定へ』方式の架空対話形式にしました許して。だってラクだし。というわけで何のヒネリもなくアニメオヤジのA君と(カズフサ@まるしー・田丸センセと思いねえ。ただしロリ抜き)、良心回路ジェミニィ、もとい抑制回路のB君にゆるゆるーっと語ってもらいましょう……ファインとレインの二役でもヨカタかなぁ(何言ってるんだオレ)

 

 

『イノセンス』は死への準備?

 

A で、まずはじめに、『イノセンス』はやっぱ実にイイね、最初は何だかピンと来なかったんだけど。

B なニソレいきなり。今回は『PAX JAPONICA』の話じゃなかったっけ?それに前回の押井学会本では、『イノセンス』よくわかんないとか、球体関節人形じゃ萌えないからボクもー帰ゆ、とか言ってなかったっけ?

A え〜っと、『イノセンス』と『PAX JAPONICA』をセットで考えるとオチがDeath and Rebirthになってエヴァとアイソモルフ(ウソ)だから、お後がヨロシイんではないかと。

B やはりオチ優先のデタラメかい……

A 無視無視……ピンと来なかった言い訳をすると、あれは初見の品川の巨大スクリーンで見たあとの感想で、映像自体は超がつく位にヨカタんだけど作品としては? だったんだよね。でもその後DVDが出てもっともっとしょぼいPCの画面で繰り返し観たあとにジワジワ良くなってきたんすよ、旦那。

B たしかに小さい画面だと、押井守監督がわざと残したというアニメの線画と緻密なCGとの違和感があまり見えないし、繰り返し観るコトで衒学迷彩(まるしー奥田氏)に惑わされなくなってくるのかねぇ? ちなみに押井監督一派は所謂CG・コンピュータグラフィックを、CGI・コンピュータグラフィカルイメージと言ってるみたいだけど、やっぱCGIっつーと普通はHTMLのアレになるので、今回はCGに統一するだよ。

A んー、正直言って絵柄設計とか音楽のシュミとかは私には生理的にまだダメで、別に萌え系じゃなくてもイイから、もっと絵の「色気」を出すことだけでも違っただろうし、前にも言ったけど、警察の鑑識で吊るされていた死体みたいな袋入りの義体の表情とかはナカナカ秀逸だったのに、アレで全編通せなかったのが惜しいよねぇ。それか今は某企業に悪用とゆーか搾取とゆーか利用されている○野さんの絵であの作品のリベンジとかすればヨカタのに……。あと感情移入を拒むような、あの挿入歌とかを何とかすれば、もっと説得力のある大作に化けたんだろうにという残念さはどうしても残るヨ(スタッフでもないのに、なにそれエラそう)。

  実際、『攻殻機動隊 2nd GIG S.A.C.』はアニメ絵のままかなりイイ線行って、また別の世界観を確立してるよね。けどそれは嗜好の問題だからしょうがないし、実際球体関節のアレがいいという人もいるわけだし。それよりも、ひょっとして『イノセンス』は大画面の初見で映画として成立する情報量、というより情報の質が、アニメのみならず映像作品の「お約束」を超えるようにわざと設計されていたからかもしれないかなぁと。

B たしかそれについては既に以前の「押井学会」本でもー言った話でしょ。例えばキャラの線画よりも背景のCGのほうが絵として「立って」しまっているというような主客転倒みたいな、押井監督の「人間の終焉」を地でいくような。それを設計させられるキャラクターデザインはたまったもんじゃないと思うんだけど。

A でもそーゆーところを差し引いてもこの作品の「感触」が良くなってきたのは、この作品の可聴域下、認識域下(今作った造語)に流れている死のイメージにワタシの意識だか下意識だか無意識だか暗黙知(コレは既に手垢のついたヤな言葉なので潜意識とか何かイイ言葉ないっすかね)だかに、何となくシンクロし始めたからなのかしらん……(ちょっとカッコつけてみてる)

B それはキミが歳くってあの世のお花畑が見えてきたからだろ。でも確かにイメージからだけで言うとこの作品では、死=幻想=女性的なるもの(男にとってのね・ユングぢゃないよ)=人形=ネコがまず一方にあって、それ対する二項対立物としてあるのが生=生物=身体=カミサマ=犬、となるわけかな? ちょっと無理がある二項対立で座りが悪いからもうちょっと考えれば、洗練したペア構造が出来そうだけど。

A まあ押井監督自身がこの映画は構造よりも情緒(その言葉を自分で勝手に補完すると、意識による自覚的イメージとかになるのか? 宮崎駿の『千と千尋』のクオリアのてんこ盛りに対抗して?)優先だと言ってことだし(ホント?)構造解析にこだわらなくてもイイんじゃない。まあそれは仮説としておいといて、とにかく、そこからはじき出されている概念、というより不要になってきた概念が「人間」ではないかというのが押井監督の最近の発言じゃなかったっけ?

B 確かに近代になってはじめて成立した「人間」の概念を、まるで永劫不変のように考えることがイイこととは思えないけどね。ただそこで選択するべき対象が人形か犬か、女かカミサマか、みたいな二者択一は映画の構造としてはステキかもしれないけど、思想的には不毛だと思うヨ。つまりせっかく人間の概念というお荷物を捨てたのに、また二者択一でしか成り立たない近代的自我という狭い自我を保とうとしているみたいだから。結果、そーゆー鬱展開にしかならないけど。ここで、今回のホントのオチをバラしちゃうと、そーゆー不毛の選択じゃなくて全部いいとこどりなのが、メタ的自我構造を超えたオタク的萌えを心的安定装置にした人々による『PAX JAPONICA』なのだ、これでいいのだ、という結論。

A わけわかんねーよ(田中裕二の口調で)。まあ確かに押井監督自身の発言ではそういう選択の映画だと言ってるし、彼の意識的にはそうかもしれないけど、それは目くらましというか若しくは無意識的には「本当」の動機じゃないような気がするね。いつも通りズバリ山勘で言えば、例えば飼い猫の死で出来た自我の空洞などの自らはコントロールできない自我システムの一部の喪失を埋めようとする補完計画映画だったんではないかと。押井監督のネコが彼の「意識」ではない心的構造のどこか一部を担っていて、それの死だから「意識システム」ではコントロールできなくて、つまり自分で決して体験できないはずの死の疑似体験と丁度似た状況で、余計来るべき死を考えなきゃならないということで、それが素子失踪と重なるんじゃないかと。

B クドイ説明だな。でも確かに押井監督が意識的に「犬」的とか「鳥」的なものを作品に出して作品外でも言及しているのに対して、本当はネコも好きなハズなのにそれについて言及していることは殆どなくて、さらにその死を作品にはああいう形でしか出していない、つまりバトーが大立ち回りをした雑貨屋に現れた素子の「分身」がリュックのなかに背負っていたネコみたいに、ちらりと現れてドアの向こうに消えてゆくだけ。でも表層に現れてくる「動機」よりも片鱗だけしか見せない「症状」のほうが重要というのは、精神分析的には納得の行くところではあるわな。

A お互い台詞にしてはクドイな。まあよしとしよう。動機を云々するのは作品鑑賞では野暮というか正解探し的な古典的ダメ評論への逆行なんだけど、ここでは敢えて作品自体の精神分析というふうに考えなきゃダメだめなことを自戒しつつやってみようと思う。つまりそれは逆照射されるジブンの精神分析と作品の相互作用それ自体の精神分析……

B 何か更にアヤシイこと言ってマスんで、先にすすめましょ。

A さっきの話に戻るけど、『イノセンス』ではじめに感じた違和感のなかには、その緻密精密で魅力的な映像の仕掛けやイメージがある一方で、例えばワタシが感じた様々なシチュエーションによる「死のイメージ」みたいな言語的なメッセージ? がシンクロしていないっちゅーか、以前の作品に感じたような相互の緊密な関連性が感じ取れないってゆー気がしたんだよね。

B それは押井作品をメッセージ性の高いものだと勝手に解釈していた方の責任であって、現に今までキミは映像作品にそんなものを求めるような正解探し的評論を常に批判してたんじゃないの?

A それを言われるとイタイんだけど、でも例えば『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』のときなんかは、映像や映画の構造自体が思考的知的に面白いテーマを創出していたけど、『攻殻機動隊』や『アヴァロン』では監督本人が見たい映像と、そこでやりたい作品それ自体との齟齬が気になっていたんだよね。で、最近観た『イノセンス』もそうなのかなぁト考えていたところだったんだ。でも押井監督の発言とかを読んでると、そのデジタルの情報の洪水のなかでの違和感や齟齬自体を作品という身体的実践において見せていたのがこの作品だったんじゃないかという、いわば虚構の身体論を表わしうるデジタル映像を突き詰めることでその限界とその外にある余剰、過剰を明らかにしようとする彼の戦略じゃないかと、そして媒体を違えて色々発言するのも「作品だけに語らせる」という映像作品のドグマを自明のものとして受け入れないという試みだとか……

B えーっと、話しが斜め上すぎてよく分からないんデスガ。

A 確かにオレもよくわからん。落ち着いて考えよう。まず話の前提としてあると思うのが、まず押井監督の原点とゆーのは岸田秀言うところの唯幻論に近くて、後に洗練されて奥田氏の言うようなモナド論、唯情報論みたいな形だと思うわけで、それと映像や話の仕掛けが有機的というか不可分に結びついていたわけで、『うる星やつら2』や『紅い眼鏡』なんかがその典型だと思うわけ。

B わけわけ……当然のことながら、それ唯我論と勘違いされることも多くて、例えば押井監督が一番よく言及するのが宮崎駿に「(押井は)いまだに学生運動のバリケードのなかで叫んでる」みたいな言い方に対する反発、つまり「現実」だろうが「仮想体験」だろうが(ヒトという「幻想」を生きるしかない種にとっては)それらは等価であるんだ」というのが作品のスタンスとしてあるんだよね。

A そうそう、つまりスタンスだからこそ色々なタイプの作品がこれまで押井色を出しながら可能だったと思うんだ。だけど『紅い眼鏡』では逃亡から帰国後に「待っていたのは俺だけだ……」で因果の向こうに逝ってしまったような「純粋な」紅一であったのに対して、『機動警察パトレイバー2 the movie』の柘植は同じように剥き出しの「現実」から帰国して状況を演出した挙句に自決もせずに「この街の将来」を見たくておめおめと生き残ることを選んだり、しのぶさんに「目の前にいる私は幻じゃないわ」みたく女性と身体性というような、唯観念論とは対極にある台詞を力なく叫ばせたりして、都市論や戦争論を介してゆらぎを見せていたように見えたのかなぁ。だから「構造」としては、『うる星やつら2』や『紅い眼鏡』のようにスッキリしていないからイマイチどんよりした印象を受けてしまったんだと思うよ。

B そーゆー構造主義的というより形式主義的な作品の見方はさらにダメダメじゃん。これにそのような揺らぎはむしろ作品の幅といっていいんじゃないかな。それに『イノセンス』を観てからだと余計に、こういう流れでの押井守作品の系譜の必然性であのような作品が出来てきたというとかが分かるような気もするんだけど。

A 系譜の話は今回キチンと出来るほど分析やら資料集めをしていないし、感覚的とゆーかジブンに都合のいい記憶から郵便論的な誤配で意識にキてるから口からでまかせかもしんないんで、『イノセンス』に話を限定しましょ。で、はじめに結論を言っておかないと忘れちゃいそうなんで書いときますが(実際この文章は睡魔で途切れそうになる朧げな意識の切れ切れの自動筆記で書いてるので、こんな感じでメモ? しておかないとマジ忘れる)、この作品で押井守監督は人形というヒトの「死」の形とイメージを介在(依代)にして初めて、唯情報論と身体論をキレイに統合したのだと。

B さっき言った二項対立が止揚されているといいたいのかい?「生と死の弁証法」なんつーたら、あまりにも座りがイイ言葉なんでググってみたら出るわ出るわ。「自己の水脈・ヘーゲル『精神現象学』の方法と経験― 片山善博著」、とゆー本なんかはまだいいほうで……イヤ面白そうぢゃない、あと「唯物論と観念論―唯物論「改作」にたいする批判的覚書― 池田昌昭著」なんてえのはエルンスト・マッハ絡みで押井監督関連として読めそうな。あっ、でも大江健三郎,中村雄二郎,山口昌男・編集代表の岩波叢書の『生と死の弁証法』なんてのはオオエという綴りを見ただけでダメそうなカンジが伝わってくるような……とにかくそんな手垢の付いた言葉でこの作品を評論してイイと思う?

A それは知らなんだ……せっかく上手いオチだと思ったのに。デモ、だからというわけじゃないけど、押井監督に関してはこの「統合」はむしろ身体論を唯情報論に吸収したカンジかな。その意味では素直に初期作品の原典に戻ったとゆーか、ひとまわり汎用性の高い概念になってきたとゆーか。ここでワタシ的に強調したいのは、このような作品をもって素朴な身体論を言い立てることに関しては、押井監督を「混沌と観念の世界」から「理性的で清潔な世界」へ回収しようとする力学を感じるのでよくないと思います。

B なんかそーゆー機能的な表現ってのもイクナイと思います。もうちょっと具体的に『イノセンス』という作品自体にそって考えないかい。

A 賛成の反対なのだ(どっちだよ)。まず先ほど言った二項対立の構造は、気が付いたところから言うと、まずバトーとトグサのコンビ、動画と背景の画像的対立、静と動の時間の対比(特にヤクザの事務所の面々がでっかい魚囲んで食事してた静止画のような動画のギャグセンスは『ミニパト』より余程笑えたのです)、人形と人間の対立(「生死去来、棚頭傀儡、一線断時、落落磊磊」とか「その種の信仰は白が黒でないという意味において人間が機械でないというレベルの認識にすぎない」)、生命と社会(「生命の本質が遺伝子を介し伝播する情報とするなら、社会や文化もまた膨大な記憶システムに他ならない」)、等々、いくらでも出てきそうだね。

B それらは作品のテーマのように見えてモチーフに過ぎないというか、衒学迷彩の一種じゃないのか?

A ジブン的にはそうじゃないと思ってるけど、そう言われてみると分かんないや。まあそれを検証するために、ヒトと人形の二項対立をこの作品の台詞にそってもうちっと考えてみよっか。まずエトロフ特区の場面でよく出てきた「生死去来、棚頭傀儡、一線断時、落落磊磊」なんだけど、漢文を全く出来なかった私にとってはインターネットさまさまとゆーかGoogle大先生というか、サクッと検索出来ちゃうのがデジタル化された外部記憶の有難さ。で、「個人的な押井守監督のページ」(http://netwarp.ddo.jp/text/oshii/index.html、2005年6月現在。NETWARP様ありがとうございます。)から引用させていただくと、これは漢詩かと思ってたら実は世阿弥の書いた『花鏡』の第14条「万能綰一心事」からの引用だそうだ。士郎正宗の設定した旧ソ連領の電脳都市に押井監督の支那ゴチックの街のイメージを重ねた上に日本の南北朝時代のお能の人の論書の引用からの壁書きとは、書いてるだけでイメージの重層というか眩暈というかですな。

B んで、コレ読んでる人なんかはとっくに調べて知ってるんだろうけど、どーゆー意味なの?

A これまた引用の訳を勝手に改変してスマンが、「生と死が心に浮かんでは消える(もしくは実際に生と死が行きかう?)、棚から吊った操り人形が、その糸を切るやいなや、ガラガラと崩れ落ちるように」。もともとは能の芸事について語ったコトらしいけど(もしかしたらヒトの生死のことを言ってるとすればスゴっ)、たしかに『イノセンス』のために書いたような言葉だす。潜水艦の中でのバトーと「素子ソフト」がダウンロードされたハダリが大立ち回りした後で、素子が「じゃあ行くわね」と去っていったときのハダリ・人形の崩れ具合とかに。あれは確かに「死」の表現でありながらも、同時に守護天使への上部構造へのシフトの確認という新しい「生」への暗喩ではないかと思ふわけざんす。

B ふうん、なんか俗な解釈だね。上部構造へのシフトはニュータイプ的な逃げだから(士郎さんは違うと思うけど)、押井監督もそんなことしないんじゃないの。

A 情報の海へゴーストが開放されるというのは、将来的に電脳やネットの規模や質がヒトの脳の複雑さを超えればありうる話しかもしれないからSFとしては考えるべきことではあるよね。ただ現時点では、脳というデバイスのスゴさがあまりにも理解を超えているから、哲学的、論理学的な興味に暫くとどまるような気がするけどね。むしろ脳科学のほうが「ニンゲンって面白」という感じなのが現在の状況かと。

B 全然関係ないかもしれないけど、守護天使って「天使のページ」(http://www.angel-sphere.com/index.html、引用させていただき有難うございます)によれば、天使の階級の最下位の九番目に位置して、キリスト教徒ひとりに二人ついて、ひとりは右手にあって善を導き、ひとりは左手にあって悪に導くということらしくて……これまんまラブやんじゃないですか。素子ラブやん見たい!(この発言のどこがジェミニィかと)あとユダヤの法律と伝承の書『タルムード』では、ユダヤ人ひとりに一万一千(笑)の守護天使がついているらしいね、肩重くね?(背後霊と勘違いしています)ちなみに同ページで死を司る天使っつーのを見ると、ユダヤ教ではそれは大天使のガブリエルということになっているらしいけど、これが押井監督の飼い犬の名前なんで、やっぱここいらへんはかなり意識的なモチーフとして使ってるんだろうね。

A ったりまえじゃん(でも自信なし)。でもそこでは生と死のモチーフが入れ替わっているとなると、この二項対立は互いに反転可能というか表裏一体というか不可分というか、そんなところまで考えてるのかな。

B 意味の重層性だと思うんだけど、生物と無生物の対立とか、人間と人形の対立とか、非決定論(機械的人間論)と自由意志論とか、色々な思考を喚起する仕掛けなんだろうね。だからその仕掛けにハマって色々論じるのも一興だというくらいでイイんじゃないかな。それをモチーフとテーマの不可分ということに拘るのは、結局正解探しとさして変わりないわけだし、自分の妄想を進めていくしかないでしょ。

A そうだね。でもその妄想というのが既に押井監督自身によって語られていたりするから更に怪しいんだよね。繰り返すけど、押井監督の作品は身体論云々って話があるけれど、押井監督のはむそんな古典的な意味での身体はもうないんだとする「身体論」であって、全然健康でも倫理的でもなくて、むしろ神経症的、病的なのが当たり前というスタンスだと思う、って別に不健康自慢という逆の意味でのヒト特権意識とは違うヤツだけど。つまりさっき言った身体論を吸収して換骨奪回した唯情報論(史的唯幻論といいたいとこだけど、それは後で『PAX JAPONICA』のパンフで押井監督と岸田秀の対談の話しで)になると思うんだ。ちょっと長いけど日本テレビ編『押井守論』の「身体と記憶の彼岸に」から押井監督自身の言葉を引用してみようか。

 

  身体も記憶もあてにならないとすれば人間って何なんだろうか、そういう気分からこの作品は出発したというか、その行き着く先が見たいなと思ったわけです。(中略)僕は、これは誰かの置かれている状況だと、けっこう確信をもって始めたんですよ(笑)。(中略)病期になる可能性としての身体しかもっていないんじゃないか。だから、健康であることに過剰に神経質になっているし、それはすでに身体がない証拠なんじゃないかと思いはじめた。

  そういうことをどうやって表現したらいいのかというときに、人形とか犬とかといった存在に思い至ったわけです。(中略)「冷たい身体」って僕は呼んでますが。人形っていうのは、もちろん象徴としていってるわけで(中略)人工的な身体、言葉で作られた身体、人間にとって外部である身体。

  その一方で、考える前にそこにある存在としての身体っていうのがあります。僕は「匂う身体」、犬とか動物の世界だと(中略)自意識がない(中略)でも、人間はたぶんそっちには行けない。(中略)人間だけが自分の身体を含めた自分の存在を外部化するように生きてきたわけで、それは止められない。その行き着く先は人形になるしかないということなんだ。

  僕はそれを悲観的に捉えたいとは思わない。それはそれでしかたがないし、そういうあり方として生きるしかないんじゃないかと思う。

 

B なんか全部言われちゃってて、何も付け加えることなんてナイじゃん。蛇足で言えば押井監督の「匂う身体」「冷たい身体」ってのは、故・丸山圭三郎センセの言う「身分け構造」「言分け構造」とほぼ同義だろうし、キミとしては押井監督にここまで言ってもらえれば満足だろうて。

A いんや、クリエーターの言うことをマトモに聞いていると痛い目をみるというのが、ワタシの持論。たしかに少なくとも押井監督の表層意識での「動機」はその通りなのかもしれないけど、まだまだ掘り下げれば掘り下げるほど何か出てきそうな……

B そりゃそうかもしれないけど、キリがないだろ、特に押井守作品なら。でも、そのあとに押井監督が「人形をとった方に生きるのか、犬と生きるのか。そういう選択を迫られている……・というよりは、もう決まっているんですよ。」というように決定論的な立場に立つようなフリをして、すぐにその舌も乾かぬうちに「決まっているんだけど、残る思いというものはきっとあるはずだと思うんですよ。(中略)そういう思いの部分っていうのが「恨み」であり、今回のテーマです。」というように、その二者択一からの余剰というか過剰というか、そこに収まらないもの、例えば歴史だろうし揺らぎやカオスだろうし不可知な領域だろうし、そういうモノを含めてヒトのゴーストと命名しているならば、それはコピー不可能なものだろうし、イイんじゃないかな。

A うーん、なんかキレイすぎて納得いかないんだけど。ひっかかる要因のもうひとつは、押井監督がそんな感じで語る場面よりも、この作品で記憶に残っているのは、押井監督自身が「好きなことしか描きたくない」と語るようにシュミというか、コレはこの映像が描きたくてという気持ち優先で作ったんじゃないかと思うところのほうで、それら薀蓄的画面ほうが魅力的で私の心にはよく残っているわけ。それは映画のしょっぱなの狗ビルとヘリと煙る街の遠景であり、警察鑑識の義体の「死体」であり、雑貨屋の佇まいであり、エトロフの卒塔婆の群れであり、キムの館の仕掛けであるわけで、ちょうど物語の骨格ではない部分のほうが魅力的だからなんだな。でもお祭りの行進はちょっと萎え。理由はチャイニーズゴチックがムカつくから。それが余剰なのか過剰なのかデジタルの蕩尽なのかカオスなのかは分からないけど……まあ次の話に移りましょ。

B 逃げたな……

 

 

別位相の余剰 『攻殻機動隊 S.A.C.』

 

A 次に行く前にちょっとだけ『攻殻機動隊 S.A.C.』について。ちょうど『イノセンス』と『PAX JAPONICA』の関連を語るのに便利なんで。

B 押井さんも参加しているってゆーか、何か企画のときに色々言ったくらいだとか何だとからしいんだけど、例の六本木ヒルズでの226イベント(後述)のときにも出てた話のことかい?

A そーそー。2005年の今回はとても面白い話も聞けたし、会場からの質問も冴えてたんで、さっそくパクろうかと。

B 堂々とパクる前に『攻殻機動隊 S.A.C.』についてまずキミの考えを言ったらどうだい。

A えー、この作品の素子は年増キャラだけどちょっとおねーさま萌えなんでイイと思いましたゲフウ。

B グーで殴られるようなレスポンスだな。それが余剰かい?

A んーっと、本当に義体というものをリアルに考えれば、「人体の理想を模した」結果はハダリみたく気持ち悪い(言っちゃったよ)人形(ドール)ではなくて、いわゆるフィギュアのような姿態になるだろうし(静的な瞬間の美を凍結させるのがフィギュアとドールの違いだという意見にワタシは与しない)、そこには性的なもの、萌え要素等々が出てくるに決まっていると思うからなので、SFとしてはこっちのほうがずっと説得力があって「正しい」とは思うし、その性的なものは「匂う身体」と「冷たい身体」の双方どちらにも一部属して、一部はみ出ているわけで、二項対立の外に出てくる可能性があると思うわけ。そこが余剰だと。でも逆に考えると、押井監督の描く女性的なものというのが性的なものより「死」のイメージと被ることが多いのはなんでなんだろうなと、考えさせられるわけよ、こっちの押井監督版攻殻機動隊を見ると。

B 確かに、ラムちゃんとかは絶対違うだろうけど、その他押井監督の女性キャラを考えてみると『紅い眼鏡』の紅い少女、『天使のたまご』の少女、『パトレイバー2』のしのぶさん(柘植と一緒にヘリで護送してるときの表情は情婦+死人みたい)とか、『アヴァロン』のアッシュ(後に灰色の貴婦人?)とか、みんな死のイメージを纏ってるよなぁ……そーだ、『うる星やつら2』の最後の方で夢邪気の夢の無限回廊であたるが延々とたどるシチュエーションのなかで、ボツになったシークエンスを含めてラムちゃんが死んじゃう夢とかがふたつばかりあったよねぇ……やっぱ女性を亡き者にしちゃたいたかったのかな、押井さんは?

A かなり出たとトコ任せで言ってみたけど、何かそーでしょ。これは作品横断的に押井守と女性的なるものと死について分析したいとことですな。

B また絶対ヤらないくせに言ってみるわけか……

A いや誰か本でも作ってくれるなら原稿書きまふ(他力本願)。あと、もうひとつの余剰は、免疫的な自己のことかな。これまた話せば長くなるんではしょるけど、この第一シリーズで話の肝になったのが電脳硬化症(Cybernetical Sclerosis。Production IGのHPに載ってた)というわけで、明らかに免疫系の病気っぽい設定だと思う(一応原因不明ってことになっているんで老化とか感染症とかもアリだけど)。つまり意識や社会や身体それ自体とは異なる定義付けをされた自己のひとつとして(当然もっと色々な次元の自己があると思う)「免疫的システム」が定義する自己の範疇と、義体によって再定義された自己に齟齬が生じればどーなる? みたいな話、つまり身体論の新しい地平をSFする試みと理解したんだけど。もし丸山ワクチンやHIV問題というような社会派的な射程の俗な話が裏にあるんだったら幻滅だけどね。あとStand alone complexとゆーのは2nd GIGの方になったら何か謎めいた雰囲気なくなっちゃって、結局ウイルスなんかで伝播される実態的なモンだったの? みたいなカンジだったんだけど。

B 別に医療問題を考えてもイイじゃないか。「ブラよろ」みたいなんだったら勘弁だけどね。確かに自己の迷宮に行く前に、別の物理的制約の自己が主体を制限するとういのは面白い展開だよね。それは押井監督とはまた別の次元での自己の定義の範疇だけど、あって然るべき話ではあるよね。2nd GIGではまた別の方向の作品だったと思うんだけど、それについて226イベントのときに出た話ってのは?

A このシリーズについて会場から押井監督に質問があって、2nd GIGで登場した「個別の11人」のうちのレンジャー崩れの白服サイボーグの革命家さんが、三島由紀夫を意識してるのかという、ぽんっと手を叩きたくなるような質問があったわけよ。押井監督もそこはキモの一つだと答えたけど、「危険」な傾向ではないかと、確かそんな言い方をしてた記憶があるですよ。つまりあとで詳しく考えてみるけど、いまちょっとだけ敷衍というか補完すると、三島由紀夫のエピゴーネンが隔世遺伝? してこの若い世代の作ったアニメに登場するというのは面白いが危険な現象だと、このこと自体が一種のStand alone complexというか集団の記憶というか神経症的症状ではないかと思うわけよ。

B ネットウヨとかプチナショナリズム批判?

A いやいや、そんな旧態依然なサヨ的文化人が危惧してるような底の浅いもんじゃないデスヨ。彼らは文壇やら論壇によるトップダウン的な言説形成が更に弱体化しつつあるなかで、ネット的、もっと言うと2ちゃんねる的な世論形成に「お客さん」を取られたことを薄々感じてるから色々と文句を言いたいだけで、ネットでの進化論的アルゴリズム(ブラインド・ウォッチ・メーカーだわな)に近い言説形成のメカニズムに対して嫉妬と焦りを感じているんでしょ。射程はそこでようやく『PAX JAPONICA』の話に至るわけなんで、次いこか。

 

 

『PAX JAPONICA』という攻性な構想は強いのか弱いのか

 

B まだ作品の中身も分からないのに語ろうというのが無茶な話なんだが。

A と言うわけでこの章で頼りなのは、頼りないワタシの記憶の彼方にある押井トークと、226イベント・正式名称「Howling in the Night PAX JAPONICA Project 押井守戦争を語る」の2004年と2005年のパンフレットだけです。この時点でもう何を書いても記憶違いで済まされるから、言いたい放題と。

B もう今回は(も)ホントにヌルイ文章なんで、ゆるゆるの極致で進めようと開き直ったわけだ。

A いや我ながらマジだめっす。キチンとした論旨があってモノローグでいけるならそうしたかったんだけど、正直下駄履の生活者として擦り切れかけてるのよ。というわけでなんか随想みたく行こかと思うわけですが。

B 確かにこのダイアローグ形式だと論旨の矛盾を宙吊りにしたまま話を進められるからね。知的怠慢だな。

A でもその代わりに、単眼的、白か黒か方式からは逃れられるという意味では押井監督作品のようなポリフォニックなものを扱うにはイイんだけどね。マ、それも言い訳だと自覚しつついきましょか。んで、攻性な構想としての『PAX JAPONICA』というような話を初めて聞いたのは、2003年の2月26日、『イノセンス』公開より前の年かな。六本木の森ビルで野田真外氏の『東京静脈』のBGVが流れてイイ感じにだったっけな。

B そこで押井監督御大が、この企画は都市論としての『PAX JAPONICA』であり云々、みたいなことをこの時は言ってたきがするんだけど、記憶曖昧なんでアレだけど、今年2005年のプレゼンとはかなり毛色が違ったものだったよね。

A たしか2003年くらいまでの初めの頃は「空爆に耐えうる都市の構想」みたいな感じの「都市論」というような問題の立て方で、それは正直言って押井氏の今まで扱ってきた題材からすると何か芯を「外して」いるのではないかという違和感があったことは覚えてるよ。つまり例えば「都市」とは養老孟司的に言えば「脳化」の産物の最たるものだろうし、それを受身として「防衛」することに何か思想的な意味があるのか、また押井氏自身が『攻殻機動隊』で電脳の陰画として示した身体論から再び概念の空虚に退行するような、そんな印象があったわけだよね(印象デスヨ)。大体その頃押井監督はその養老翁と対談してるんじゃなかったっけ? 関係ないけどときどき養老さんと宮崎駿の区別がつかなくなる。なんとなく似て蝶なんだよね。

  話しを戻すと、というわけで当時の私は押井氏のこの企画に関しては「構造解析」的に押井氏とその作品を分析するぞーというような気力が湧かず食指をそそらないモノとして惰性で流して聞いていたような気がするなぁ。

B まあ、今思えばそれは単に単純なキミのオツムには押井氏の意図を受け取る感受性が欠けていただけだろ。

A たーしかに。まあとにかくピンと来ないまま、2004の226イベントを一回飛ばして(平日で行けなかった)、今年2005年の226イベントに何となく参加と相成ったわけで、相変わらず2月のビル風とかでちょーサムかったと思いねえ。そこで色々と私の大きな誤解? が明らかになって、久々に押井守作品について何か書こうという気にさせるお話だったと記憶している……はずなんだけどマジ忘れた。

B もー忘れたか! でもちょうどイイんじゃない。だってこのイベントのお約束で、そこでの発言をストレートに記載することはご法度ということだし、キミの記憶力の無さによる郵便論的誤配とアルツハイマーで心配ないくらいもとの発言とは異なっているのだろうから。

A てなわけで、そのときメモった断片的な言葉から考えるしかないんだけど、それが「日本人論 分裂病国家としての日本 当事者になれるか 国も人間も幻想なわけだが 個人の内面と社会の構造は一緒 幻想と付き合いながら手入れをする……」なんじゃコレ。

B こんなキーワードから考え直すのか。アタマイタイな。

A まあもちつけ(おまえがだ)。たしか今回の226イベントは福井晴敏氏原作の『終戦のローレライ』を映画化した、樋口真嗣監督『ローレライ』についての押井守氏のトークが前半だったよな。そーだ、そこで押井監督の印象に残る言葉というのは確か「なぜ日本人は戦争に勝てないのか(過去形ではなく一般論として)」、「空爆に耐え得る防衛都市というような以前の『PAX JAPONICA』の企画の考え方自体がもう既に負ける側、攻められる側の発想である」、「そこから私たち日本人は戦争に勝てる、もとい戦争が出来る人種になりうるのか」というような発言じゃなかったっけ?

B 映画の『ローレライ』はどうか知らないけど(見てない)、原作のほうはまさに「覇権国家で構成された世界、それは第二次世界大戦当時だけではなくて、現在でも近代国家の残滓を引きずるどころか国家至上主義をソフトにカモフラージュした貴族の国・西欧&アメリカ帝国と、その一方でムンマ共和国的な狂信の狭間のなか、つまり岸田秀が言うところの医者のいない精神病棟という世界のなかで、ヒッキーと大阪商人的DQNに精神分裂している日本人が日本人のままで生きてゆけるのか」という問いであり(ホンマかいな)、権謀術数的サバイバルvs負ける側の美学という対立のうち、結局は後者を選び取った作品だと思うわけだ。まさに構造は『PAX JAPONICA』の企画そのものなんだけど(むしろマネされたのでは?)、別にそれに話しを合わせたとか引きずられたとか言うカンジではないにしても、今まで通俗的に言われていたように、押井監督の以前の難解だと言われていた作風、つまり哲学的高踏的キリスト教的西欧的なことを語るものとは180度違って、今ここにおける私たち日本人を直接対象にした発言に思えるよな。

A でもそこが押井監督の食えないとこで、少なくとも今までの発言や作品のモチーフはいつも対立する二つの側面とそれを相対化して上部構造へシフトする構造を持っているような気がするんだ。たとえば、演出家vs登場人物、唯我論vs唯物的数学的構造、学生運動vs首都警特機隊、アナログvsデジタル、電脳vs身体論、都市vs鳥魚、というように、常に対になった両義性のものをもってくる。だから押井監督の作品で高踏的哲学的と見えたものは、実は極めて私的でルサンチマンの源をもっていると思うんだ。だから逆に今回の企画で、防衛都市から空爆都市への変換とか戦後日本の欺瞞を考えるみたいな、社会的身体論的な作風に変化してきたように見える最近の押井監督の作品の傾向とかは、実はむしろ個人の心理的側面と幻想もしくはミームの問題にその源泉があるんじゃないかと、いつものように妄想してるんだが。

B そしてさらにここにきて初期の表の相貌と最近の作品の裏の顔が奇妙な相補関係を見せてリングが繋がった感じがするとうのが、今回のオチというわけだろう。キミの得意な弁証法的な予定調和にしか聞こえないんだが(弁証法が予定調和に堕してしまう危険性の高い倫理的な方法論であることを誰かが言ってたよな……)。

A ギクッ、それはあるかも。ただそう思うのは、映画『うる星やつら2』でエッシャーとか時間と空間とかエルンスト・マッハとか、そういう思想的哲学的知的な要素(マッハ軒が哲学的かどうかはさておき)を散りばめていた作品の頃から、それらは決して高踏的なモノを目指していたわけじゃなくて、それが真の意味での「哲学」、つまり自ら生きるのに必要な世界の認識方法、すなわち自我形成のモチーフ探しであることを色濃く打ち出しているというワタシの妄想がようやく実証(ではなくて発狂?)されてきたような気がするからなんだけど。

B それは賛成、でもちょっと気になるのは、そのような二項対立が同時平衡励起されている力学系的アトラクタのようなイメージのうちはいいのだけれど、防衛都市から空爆都市への路線変更が、極端から極端へ走る精神分裂ニッポンの発狂と寛解の繰り返しをなぞるだけの、精神的な弱さを露呈しているだけなんじゃないか、という危惧はあるんだけど。まあ日露戦争に負けた日本という架空戦記であるならば、その症状の一部はかなり「治療」されたあとのニッポンという設定になると思うけどね。でもこれまた『5分後の世界』に堕さなきゃいいけど。しっかしこんな前提をはしょった話でイイのか。あとブンレツブンレツ言うと、統合失調ざますっ! て怒る人たちがいると思うけど、チビクロサンボ的に、有害図書狩り的に。

A たしかに村上龍のような「1945年に無条件降伏をせずに戦った勇猛果敢な日本」という設定とどこが違うかを明らかにしないと、通俗の架空戦記もののようなルサンチマンを糊塗するだけのオナヌーになるだす。さっき言った三島由紀夫のエピゴーネンだか亡霊だかの話しもそうだけど、彼のようにジブンの空虚さと国家としての空虚さが重なると、双方の弱さが許せない、その結果革命だとか切腹だとか純粋だとか、とにかくこれまた非現実的な方向に逆に突っ走ってしまうと。これはちっとも戦後の平和民主主義的な欺瞞と変わらない、表裏一体の行動なんで、『攻殻機動隊SAC 2nd GIG』のように白装束のサイボーグの彼を悲劇的人物として仕立てるのはイカンと、押井監督はそう言いたかったんじゃないかな。とうわけでそれを語るには岸田秀の著作とか、彼と押井監督の対談とかを見てないとよく分からない記述があるんで、自分の考えの整理のためにもキチンと説明してみよっか。(簡単には2004年の226イベントのパンフ巻末の押井監督と岸田秀の対談やそのもとになっている雑誌ニュータイプの記事を一読されることをオススメします、オレは読んでないけど)

 

 

閉じたリングの外へ

 

A ではそれについて、例によって忘れないうちにジブンの結論から〜。日本が戦争を主体的に出来る民族、社会、個人であったかといえば、地政学的、心理学的な観点からすれば架空戦記モノとしても無理ありすぎなんで、そこをどう押井監督がウルトラCをするかが最大の興味になるんだよね。つまり岸田秀が言うように 「七、八世紀の始めごろ(中略)外敵の脅威にさらされて、その真似をして国家を作ったのが日本という国のはじまりで」(2004年の226イベントのパンフより抜粋)あることからしてダメだと。そのあとも鎖国後にペリーの黒船ショックが輪をかけて精神分裂国家ニッポンの素地を作ったということかな。

B もともと島国のヒッキーが無理矢理世界史の渦中に巻き込まれる(受身)にあたって、「仲良きことは良きことかな」方式の日本は精神分析で言うところの攻撃者との同一化のメカニズムによって(お化けを怖がる子供は自分がお化けになったフリをする、または『デビルマン』の悪魔特捜隊の拷問官)しか「国家」という形態をとれなかったというわけだよね。

A それと西欧のキリスト教的信仰に見られるように唯一「神」とか「原理原則」とかを自我形成の支柱として原理原則で動けないのは、軍隊として規律正しく戦争をするには極めて不適ということもある。人の気分を害さないように、人とぶつからないようにするというような、対人関係が自我の支えの大きな部分を占める日本人では外交ひとつ満足に出来ないし、そしてその究極の形態のひとつである戦争を「理性的に」「合理的に」行うのは無理じゃないかということだよね。

B 主体的に振舞うということ自体がダメなんだろね。それは現代の現実の外交という現実的かつ国際的レベルに始まって、架空の作品を個人に提供するというマンガやアニメの作品のレベルに至るまで、よく現れてるよね。前者はアメリカ・中国・韓国への土下座外交、後者はラブコメの黄金パターンの優柔不断で主体的に行動しない主人公というわけだろ。中間のレベルで言えば、会社で出世できるのは(少なくとも今までは)当たり障りのない調整役のヒトだし。

A キミが出世できないからって僻むなよ。まあ、その反動形成的というか「ヤケのやんぱち」的な、つまり内的自己の発狂とされるモノが前者では第二次世界大戦末期での非現実的な戦略から特攻だし(中国での騒乱は止むを得なかったのだろうが勝てないアメリカと開戦したり、原爆落とされるまで降伏できなかったこととか)、後者の代表はロボットアニメくらいしかないでしょ、戦後の大衆向け映像作品としては。

B しかしそこでも主体性拒否の呪縛は強いために、歪んだなりの「合理的行動」が出来ないというのが輪をかけて困ったもんで、第二次世界大戦での軍部の各セクションでの擬似家族的な内輪の構造が如何に戦局を誤らせて末端の兵士を殺してきたか、それが勇猛果敢な特攻精神からではなくて、単に運営側の精神的な脆弱さから来たことを自覚しないとね。

A だから今度の『PAX JAPONICA』において、日露戦争には負けたけど、太平洋戦争には運良く間違って勝ってしまい世界のなかで主体的に振舞わざるを得なくなり、そこで困り果てている日本人という構造はシリアスゆえにその構図自体が何故か可笑しいというシチュエーションギャグっぽいモノになる予感がするけど、押井監督が架空の歴史だけでなく心的構造のIFを如何様に描いていくのかは大変に心配なんだよね。

B キミが心配するなんてぇのは奢りだよ。大体、まず世界観や歴史的な流れや戦略戦術における「リアル」を緻密に構想して外堀を強固に固める必要があることは押井監督が一番よく分かってるだろ。言うまでもないんだけど、そのことを考えることはすなわち精神分裂ニッポンの処方箋そのものであると同時に、現在の状況を考えること自体になるんだろうけどね。

A それはなんかヤな感じだなぁ。そのイヤさは主体的になることへのイヤさかもしれないんだけど、そんな感じの「理性的」な対応ってえのは、単に西欧的な理性信仰に染まるだけの話で、主体性を持つと同時に、理性からの余剰を狂気として認識した結果がどんな悲劇を引き起こしてきたか知らないわけじゃないだろ。「現実的」な戦争をプラグマティックに信仰すれば、別の「狂気」を呼び込むだけじゃないのかな? それに西欧の「近代的自我」という幻想を再び追い求めるという明治以降の愚を繰り返すことになりそうだし。

B 戦争が現実的であったためしはないけど、「現実的」にならなきゃ勝てない、ってことかな。つまりここで言うふたつの現実的という言葉は違うものじゃないか?

A つまり動機の非現実性と、実際の戦略戦術戦闘における現実性の違いだけなのかなぁ? なんか見落としてる気がするけど、最終的に標的にすべきラスボスは理性信仰の誇大妄想的な近代そのものだと思うんだけど。もっと掘り下げれば、超越的なものがないと自我の安定が出来ないヒトの限界とか。まあこれ以上は『PAX JAPONICA』を見ないで語ったところで、どんどん押井守論とは離れていっちゃいそうだから止めとこか。でも最後にこれだけという蛇足を。自らの余剰や狂気を対象化、相対化しつつ楽しみながら現実的に振舞う方法というのは、実はオタク的な生き方ではないかと、それがまさにポストモダンを超えて……

B それはもーイイよ。冬コミの萌え本のネタでやっただろ。

A それじゃあ、こうだ。押井監督が戦後日本というお題に来ることは半ば論理的、心理的に必然だったと思うんだよね。

B イキナリ何を言い出すかと思えば。

A 自慢じゃないけど(といってジマンしたいのミエミエ)、『うる星やつら2』という物語の無限階層の入れ子構造は、史的唯幻論の帰結であるとワタシは言い張っていたわけで(そうか?)、それは史的唯物論というマルクス的左がかっちゃった学生運動的革命理論という幻想を招いたワタシたち日本人の社会的精神分裂を叩き潰すツールとなり、返す刀でそんな理論を信じざるを得なかった「弱さ」を持った日本という国家、社会の精神分裂の歴史に対する分析や洞察にも「使える」もんだったから、その結果として第二次世界大戦に至った内的自己の暴発が……

B ちょっと待った〜。基地外みたいな論理展開で全然ついていけません。それに「弱い」なんて言うと、近代的自我をもった者の自立的・自律的強さのことを言ってると勘違いされるぞ。

A おお、失敬失敬。最近脳内配線がすっかりショートしてるんで。もう誰もが知ってることだろうけど、押井監督は遅れてきた学生運動家というか、明日にも革命が起きて世の中が変わると思っていた人たちの尻尾みたく「現場」の「状況」に到着した途端に、それは無責任に崩壊してしまったと。そんな崇高な革命理念という主人を求める負け犬であることが初期作品のルサンチマンとして漂っていたらしいヨ。だから古傷を舐めあっていたようなかつての「同業者」の団塊には裏切りとしか見えず、新人類と言われていた第一オタク世代の私たちは怨念より一般化された概念であることに気付いていたからこそ『うる星やつら2』は熱狂的に受け入れられたんだと記憶してる。そのような概念を対象化する過程で一般化された「現実と夢」の相対性という気分はずっと押井作品の底流に流れているけど、ではその革命なんてものに飛びつかざるを得なかった当時のワカモノの言論空間を支配していたのは何かといえば、敗戦とそれを終戦という解放だと偽らざるを得なかった欺瞞的精神の脆弱さであり、また抑圧されたアメリカへの屈辱であったのだろうね。で、その源をたどればペリーショックから始まるわが国の近代史、純粋性とナルシズム的な精神的安定を目指す内的自己と、対外関係を最も重要視する外的自己の分裂であることは論理的帰結なわけだ。

B それでもかなり話をトばしてるから何かスッキリしないな。でももうキミにキレイな論理展開は期待しないから(岸田秀や押井守監督の著作を読んでくらはい)、じゃあその調子で行くと『うる星やつら2』と『イノセンス』の間の作品をキミはどう位置づけるんだい?

A よくぞワタシの妄想を聞いてくれますた、と言いたいとこだったんだけど、日本テレビ編『押井守論』を読んだら恥ずかしくて出来なくなりました。つきましては第七章、固有戦略論、押井守作品ファイルをご参考くらさいませ(脱力の表現)。みんなイイんだけど特に杉江松恋氏の解説は秀逸。こーゆーふうにちゃんと書かなくちゃねオレ。

B マジでアリセプトとかアスピリン飲み始めるか……

 

  

リングは閉じつつメビウスの輪とかクラインの壺とか

 

A んじゃ話を拡散させまくったんで、最後のまとめに入ろっか。押井守の主題は一貫しているんだけど、力学的アトラクタのように螺旋状に隠された中心を回っているので、周期的に様々な部門に手を出しているように見えるし、実際に本人の弁でも、アニメの監督は技術的に新たなシステムやスタイルをいつも求めていかないとやっていけないという発言をしていることからしても、迷彩を張っているわけだが、モノの作り手が自分の「動機」をあからさまに述べるような正直者であるわけがなくて、否、もし自覚的にそうであったとしても人の行動、この場合は作品であるが、そのドライブのおおもとは「意識していない」部分にあるんじゃないかと。で、『イノセンス』自体の構造はどうか知らないけれど、押井守監督の作品群の中ではたぶん『うる星やつら2』と位相的に相同の作品で、そこでは何らかの死を暗示しているような気がすると。

B ここまで来て「気がする」ですかい。まあ更に都合よく考えれば『うる星やつら2』はテレビアニメ脚本家としての押井守の死と映画監督としての再生であり、その道連れに『うる星やつら』という作品自体を終わらせてしまったんじゃないかと(その後はホントに死屍累々と相成りますた、『ラム・ザ・フォーエバー』は悲しくてヨカタけどね)。それと相同の状況が『イノセンス』であり(なにが死と再生なのかは各人が考えるべきこと)、彼の作品群の螺旋を一周したところだと根拠なく思うわけ。新生押井守がどんな作品を次に引っさげてくるかは分からないけど。あと今回道連れにしたのはジブリだか某Sプロデューサーだか知らないけどね。

A だから次に来るであろう『PAX JAPONICA』は本当の意味でオッシーの新たな地平が見られるんじゃないかと、押井守の主題でありながらオッシー節でありながら、全く違う作品がね。

B この歳までアニメファンやっててよかったと思うようなものが、またきっと出てくると、そーいうことでオシマイにしますか。何か松任谷正隆のエンディングテーマが流れるカーグラ的な終わり方だけど。

A でも最後にちょっとだけ毒をひとつ。エヴァの映画版『DEATH & REBIRTH』のあとの『Air』『まごころを、君に』で名監督と褒めちぎられた庵野秀明監督がそのあとすっかり出がらしになって、実写『キューティーハニー』が単に微笑ましい程度の作品で終わってしまったことに対してみんなはもっと酷評すべきだったと思うのデスヨ。彼の創造のドライブを打ち消してどうするのよ、って感じ。修羅場をくぐり抜けた百戦錬磨の押井監督には関係ない話でしょうけど。でわでわ〜(きわきわ〜・意味不明)

 

〈了〉

 

 


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