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都市空間と神

 

 

清瀬 六朗


  

 

 押井守の作品に繰り返し登場するものに、水没した都市、水に浸されつつある都市、水上に浮いた都市がある。『うる星やつら 2 ビューティフル・ドリーマー』(『BD』)の水没した友引高校、プールに水没した戦車、『天使のたまご』の水没都市、『迷宮物件』の東京湾上の幻のアパート、『パトレイバー』の特車二課や「方舟」、『Stray Dog』(『ケルベロス地獄の番犬』)の養魚場に囲まれた家、『攻殻機動隊』のニューポートシティと水没して放棄された博物館、『イノセンス』のキムの館とロクス・ソルス社の工場船などだ。なお、ここでは「押井作品」としては『BD』以後に監督した劇場版映画作品を中心に考えることにする。

 『BD』では友引町全体が海亀の背に乗っている。海亀は海を潜って進むものだから、この友引町は全体が海に潜って進んでいると言ってもいい。実際、幕切れ近くで、あたるは「DNAの海」から飛び出し、海から「現実」世界に落ちてくる。

 『迷宮物件』のテーマ「ぐうたらな魚」の歌詞を引くまでもなく、この世界では海と空は同じものなのだ。

 上から落ちてくる水というと、雨も押井作品によく出てくる。『パトレイバー1』の「方舟」の戦いは台風の暴風雨の中で展開されるし、『紅い眼鏡』の紅一とプロテクトギアの対決の場面も雨のなかだ(DVDのオーディオコメンタリーによると、その前の紅一が迷宮都市をさまようところから雨という脚本だったらしい)。『攻殻機動隊』の戦いも雨のなかだし、『アヴァロン』では、雨が降り始めたところで、世界は、見たところは少しだけ、でもアッシュにとっては大きく姿を変えてしまう。『パトレイバー2』ではその雨は雪になっている。また、レイバー隊員は地下通路で天井から降ってきた海水で水没しかける。

 押井作品の雨は必ず都市に降る。というより、押井作品の舞台はほとんどが都市だ。『Stray Dog』の養魚場の家は、実際には都市とは言えない場所なのかも知れない。しかし、「田舎」を、人間たちが豊かな自然(それは人間にコントロールされた自然かも知れないが)と交流したり敵対したりしながら人間たちが暮らしている場所だとすれば、『Stray Dog』の養魚場の家も「田舎」的な場所とは言えないだろう。『Stray Dog』の「田舎」は、ただ通りすぎ、無関係なままに去っていく場所としてしか描かれない。

 その押井作品の都市には「外部」はあるのだろうか? そんな疑問にもとらわれる。

 押井作品の登場人物たちは、最初からその都市にいるか、空から都市に下りてくるかだ。地続きに都市にやって来たり、都市から出て行ったりはほとんどしないように思う。あ、『パトレイバー2』の治安部隊が地上づたいに東京にやって来るなぁ。しかし、映像に描かれているのは、多摩川を渡るところからで、まさに東京に入ったところからしか描かれていない。『パトレイバー2』では横浜も出てくるが、横浜から東京の湾岸地帯まではひと続きの都市である。

 もしかすると、押井作品の舞台は、友引町だけではなく、『迷宮物件』や『パトレイバー』の東京、『Stray Dog』の台湾(実際には銃撃戦の場面のロケ地には香港・沖縄・東京などが混じっているようだが)、『攻殻機動隊』・『イノセンス』の舞台になっている都市など、どの都市も亀の背中に乗って宇宙を飛んでいるのかも知れない。あるいは、『天使のたまご』のように、どの都市も方舟に乗って果てのない海を漂っているのかも知れない。

 押井作品の「宇宙」は、上と下に水があり、水のあいだにわずかに開いた空間に一つの都市だけが存在しているような場所だ。その都市にも宇宙から滲み出してくる水の湿気が充満しているし、ときには都市は雨に覆われ、都市に住む人の身体は水で満たされる。閉ざされた空間であり、しかも、その閉ざされた空間は天の上の水と地の下の海の水に覆われて滅びてしまうかも知れない。その都市で、人びとは、その都市から決して出られないままに生活している。しかし多くの人は都市の外に出たいとは考えもしない。というより、都市の外に世界があることを実感することもなく生きている。

 ときおり、その都市の宇宙を外から眺めて、その都市の「幻」のような危うさを警告しようとする者も現れる。劇場版『パトレイバー』第一作(『パトレイバー1』)の帆場や第二作の柘植のような者たちだ。『アヴァロン』のゲームマスターもそうかも知れない。

 けれどもそのような者が目的を達することはない。その警告の声が都市の中に響いても、その声に気づくのはごく少数の人間だけだし、そしてその少数の人間が警告に答えて破滅を阻止することで、けっきょく都市の人びとは警告があったことすら気づかない。『パトレイバー1』の原発の破壊を含む首都圏壊滅や『パトレイバー2』の米軍による日本占領という事態は起こらず、レイバーの相次ぐ暴走や大規模テロの続発という程度でとどまっている。これらの作品のなかの東京に住む人たちは、それを「宇宙の中にただ一つ存在する都市としての東京」の危うさとして感じることはけっしてないだろう。

 押井作品の中の「神」というのが想定できるとすれば、それは、その世界に住む者に声や意思を届けることはできても、その世界を変えることはできない存在だ。その世界に降りてしまうと、そこに住む人びとと同じように、いや、もしかするとその都市の平均的な住人よりはるかに無力な存在にならざるを得ない。だから、「神」は、もしその街に姿を見せたとしても、すぐに姿を消して去っていかなければならない。

 世界に声や意思を届けることができても、世界を変えることのできない存在とは、つまりアニメ映画の監督である。『Talking Head』では監督はその声をスタッフに届けることはできても、スタッフの行動を変えることはできなかった。スタッフは監督に向かって語りたいことを思う存分語り、ときには監督に戦いを挑み、そして語りたいことを語り尽くしたり戦いに自ら敗れたりして舞台を去っていく。監督は勝ってはいるようではあるが、スタッフを自分の意思に従わせることもできていない。

 押井作品のなかでも神は絶対者だ。ただ、普通に神が絶対者だと言ったばあい、人は神の意志を変えることはできないとか、神の配慮は人智を超えていてまったく予想もつかないとかいう意味でのみ使われる。たしかに押井作品の神はそういう意味での絶対者ではある。けれどもそれだけではないのだ。神がそういう存在である結果として、神は人間を自らの意思に従わせることはできない。神の意志を人間が理解しなかったとしても、いや、そこに神の意志が存在していることにすら人間が気づかなかったとしても、それを理解させる手段も気づかせる手段も持たない。神に戦いを挑んだ人間を破滅させることはできるが、人間を思いどおりに動かすことはできない。思いどおりに動いてくれるのは、帆場にとっての後藤など、神の声を聞き分けることのできたごく限られた人間たちだけだ。しかも、その限られた人間たちが人間の社会のなかで尊敬されるかというと、そういうわけでもない。

 しかも、『Talking Head』の監督「私」は、異形の神としてスタッフたちを見下ろしているだけではない。スタッフたちは、前任者の計画どおりに映画を完成させなければならないという宿命を負わされた後任監督「私」に前任者のことばを伝える預言者たちでもある。前任監督という別の「神」が存在する場では、スタッフと「私」の関係は逆転する。スタッフたちのほうが前任監督を知っているだけ神に近い。後任監督「私」は、けっして脱出できないアニメスタジオをうろつきまわり、スタジオを脱出したいなどとは考えつきもしないまま、ただひたすら前任監督の意思を知ろうとする「犬」のような存在だ(GodとDogの対称性がここに現れる)。

 だが、後任監督「私」には、前任監督のことばは伝えられても、どんな作品を作ろうとしたかは十分には伝えられない。連続殺人事件を題材にしながら、連続殺人自体がほんとうに存在したかどうかすらわからないような映画というのがいちおうの答えだが、この答えだって、前任監督が残した断片を後任監督の「私」が組み立て直して到達した結論にすぎない。もしかすると後任監督「私」が勝手に考えて作り出した結論で、前任監督の考えとは違っているかも知れないのだ。それを確かめる方法はない。

 さらに、前任監督とはだれで、その意思とはいったい何なのかということが、じつは『Talking Head』でははっきりしない(映画の中ではいちおう種明かしはあるけれど、観ていない方にはネタバレになるのであまりはっきりとは書かない)。少なくとも人智を超えた天才的な監督ではないようだ。前任監督「丸輪零」の演出家としての水準は、渡り演出家から後任監督になった「私」と似たような程度のように見える。「丸輪零」・「前任者」・「(前任の)監督」いうことばは何度も出てくるし、そういう演出家は存在したのだろう。けれども、ではそれが具体的にどんな人物だったかというと、それは何も伝わってこない。伝わってくるのはその前任監督がアニメ映画について何を考えたかという思いだけで、しかも伝わってくるのは問題だけだ。結論めいたことはなにも伝わってこない。けっきょく後任監督「私」が考えるしかないのだ。

 この映画『Talking Head』の構造がアニメ『迷宮物件』に似ているのは、『Talking Head』の構想が『迷宮物件』の現場で思いつかれたということから考えると当然かも知れない。

 『迷宮物件』には、後任者に申し送りをする前任者以外に「神」と名指される登場人物が出てくる。前任者が世話をしていた幼女だ。この幼女は何のために何をしているかが人間にはまったく理解できない。というより、何かのために何かをするという考えかたにあてはまるような行動を最初からとらない。その幼女を存在させるために世界は存在している。そういうやっかいな存在がこの世界の神様だ。この幼女と同じ位置に存在するのが『Talking Head』では「お客さん」だ(ちなみにキャストはどちらも兵藤まこ)。この「お客さん」的な性格を持つのは、『紅い眼鏡』の「紅い少女」もそうだし、『アヴァロン』の「ゴースト」も同じような存在なのだろう。もしかすると、『BD』であたるが一瞬だけ出会う「責任、とってね!」の少女もそうかも知れない。

 そういう存在は、その意思を人間に伝えられないとか、人間から見ればどういう原理で行動しているか理解できないとかいう点で、『パトレイバー』の帆場や柘植や『Talking Head』の丸輪零に似ているかも知れない。だが、そういう神とはぜんぜん違うところもあるように感じる。帆場や柘植や丸輪零は自分の声を都市(アニメスタジオも一つの「都市」だとして)に伝えるためには自ら消えなければならなかった。「お客さん」としての神たちは消える必要がない。というより、どこに存在しているかもわからない。『迷宮物件』のアパートが地図上には存在しなかったように、じつはどこにもいないかも知れない。しかし逆にあらゆる場所にいて、だれもが日々遭遇しているのかも知れない。

 あらゆる場所にいて、だれもが日々遭遇し、しかし何もしない存在とは、『パトレイバー2』での後藤との対話で荒川が語ったことばによれば、それは東京の住人そのものの姿だ。

 『パトレイバー2』では都市の人びとは物語にほとんど絡まない。絡まないだけではない。ただ存在し、動いているだけで、何もしないのだ。『イノセンス』でもそうだ。都市の人びとはやたらとたくさんいて、やたらと動き回るのだけれど、何もしない。それを荒川は「神」と表現する。

 学術論文風に分析するとすれば、押井守作品の神には三種類あるということになるのだろう。第一は、少女の姿で現れ、どこに存在するかもわからず、何のために何をやっているかも理解できないけれど、ともかくその少女の存在を中心に世界が動いていることだけはたしかな存在だ。人間世界に現れてもつかみどころがないので神自身は何の影響も受けない。第二は、何の特徴もない多数の一般人の姿をして現れ、ただ存在し、動き回るけれど、何もしないような神だ。第三は、声を届かせることはできるけれど、それを理解させることのできない孤高の神で、この神は人間世界に姿を見せると無力な存在になってしまうので、姿を消さなければならない。また、この第三の神は、別の神が存在する場では、ひたすら預言者のことばを集めて回る、神から遠い「罰せられた民」・「さまよえるオランダ人」のような存在になってしまうこともある。聖なる者と賎なる者がその中間を跳び越えて繋がり、それが時と場合に応じて転化し合うという、中世までの社会によく見られた構造がここにも見える。

 だが、私はそういう学術論文風の分類にそんなに意味があるとは思えない。たぶん、押井作品の中の神とは、こういういろんな像を見せる立体のようなもので、レンズの焦点をどこに合わせるかとか、露出をどのくらいに設定するかとかで、さまざまな見えかたをする。そういうものだろうと思う。一見透明に見えて、どの方向からどういう光を当てるかによって見えかたが千変万化に変化し、そのためにいまの水準から見れば無限の量の情報を蓄えることのできるホログラムメモリのようなものだ。

 しかし、どうして都市社会には「神」が存在してしまうのだろう?

 天上の水と地の下の水にはさまれ、雨に身体を冒され、海に土地を浸され、そのなかにただ一つ存在するだけの都市で、その都市の外部に脱出することを考えつくこともできず、自然を相手にすることもなく、人間と人間の関係のなかだけで生きていく人間には「神」が必要なのかも知れない。

 何のために?

 都市に住む人間は、じつはその都市空間を「異常な空間」だとつねに感じつづけ、そうでない空間の存在を感知している、というより願望しているからではないか。

 そうだ。私はここまで押井作品に出てくる都市の空間を異常な空間として描いた。水の中に浮かぶわずかな空間で、いつ水に冒され浸されて消滅してしまうかわからない場所なのに、だれもそこからの脱出を考えないような場所、脱出を試みても『BD』のハリアーのエピソードのように引き戻されてしまうような場所だ。しかし、それは実際は異様な空間ではないのではないか? 破滅の原因を水に限定するのは非現実的だけれども、何によって破滅するかわからない状態に置かれながら、だれもそこから脱出しようとしないし、脱出しても引き戻されてしまうような場所というのが、むしろ私たちがいつも暮らしている現実の都市の姿なのではないか?

 そういう都市の中で、自分のところに理解できることばを届けてくれる者は、じつは根本的な救いをもたらしてはくれない。自分に理解できることばを届けてくれるということは、その「異常な空間」にともに騙されている存在かも知れないからだ。自分のところに何か声らしきものを届けてくれる者、しかしその声を理解することはできない者に、都市空間の住人は一瞬の「正常な空間」からの届け物を期待するのかも知れない。けれどもそれは理解できないのだから、「正常な空間」がどんな場所なのかは知ることはできない。けれども、知ることはできないからこそ、理解のできない声らしき者を届けてくれる存在はいつまでも神である可能性を失わない。

 いまは痕跡だけを残して宗教としては滅びたグノーシスの教えは、この世は自分がにせものであることにすら気づかない偽造物主によって作られたどうしようもない世界だとして、その外の真の神の支配する光明の世界を待望する宗教だった。私たちがいま住んでいる都市空間もそういうグノーシス的な空間なのかも知れない。

 グノーシスの信徒に較べて私たちが不幸なのは、私たちは外部の光明の世界を信じることもできないのに、なおそれを熱心に待望しなければならないというやりきれなさのせいだ、たぶん。

 

(終)

 

 


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