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「萌え」概念に対するブラックボックステスト

 

 

へーげる奥田


  

 

 

「萌え」の定義は、わからない

 

 最初におことわりしておきます。今回、なんとか「“萌え”論」を書いてみようといろいろ考えたのですが、結局「論」の段階までぜんぜん到達できませんでした。システム開発で言えば納期未達とかそういう事態でありまして、私はこの状況に対して「遺憾の意」を表明するものであります。

 いや、実際のところ、いろいろ考えてはみたんですよね。「萌え」とは何か。いろいろな「定義」を読んだり訊いたりしてみるかぎり、どうもきちんとした定義づけには誰も成功していないし、これを的確に説明し得た論も出ていないようです。

 私はどちらかといえば、「萌え」という言葉をずいぶん後になって知ったクチです。どこで最初に見聞きしたかもう覚えていませんが、最初は、「萌え系作品」などといった言い方から耳に入ったような気もします。私は当初、「萌え系作品」とは「ストーリーや演出などより、視聴者が抱く“キャラクターに対する愛着”を主たる売り要素とするような性格の作品」と理解していました。従って「萌え」という概念は、「視聴者が抱く“キャラクターに対する愛着”」という意味だと思っていたのです。特に女性のアニメファンは、ごく普通にこういった用法をとっていたように記憶しています。

 ただ、これは確か2000年前後ぐらいの比較的新しい記憶であり、WWFに参加されている松本晶氏に2003年夏の「WWFNo.26」制作の際に特に指摘されるまで、「萌え」うんぬんという問題自体にさしたる興味をもつこともなく(従ってこういう問題に関する評論等を読んだりすることもなく)、「萌え」という言葉はこの程度の意味……という知識を更新することもせずにいたわけです。

 「萌え」という語はしかし、今やもっと直接的な意味をもつ言葉として使われることか多いようです。人によってその意味するところはまだばらつきがありますが、それはしばしば、単なるキャラクターや作品世界への愛着というような意味とは別に、性的なニュアンスを主として語られるようになってきました。いや、「なってきた」のか、はたまた最初からそうだったのかもよくわかりません。

 ちなみに、言葉の意味や使われ方というものは、しばしばきわめて短期間のうちに変化してしまうものです。たとえば1980年代初頭当時、「アダルト」という言葉は(少なくとも日本では)「大人の」という意味しかありませんでした。当時放送開始した『魔法のプリンセスミンキーモモ』という作品において、主人公の魔法少女は「アダルトタッチで○○になれ」という呪文を詠唱していました。ところがこの放送が終了して数年が経過してみると、いつのまにかこの言葉は、もっぱら「成人指定の」「セックス産業がらみの」という意味で使われる言葉になってしまい、今この呪文を聞いてみると、なにやら怪しげな想像をかき立てられてしまうから困ったものであります。

 「萌え」という概念が、当初から性的な意味を内包して使われたか否かはさておき、この概念がいわゆる「オタク」というものと不可分な関係にあるものという認識に対しては、異論らしい異論は聞きません。では、「オタク」という概念を手がかりにして「萌え」の概念を調べてみるというのはどうでしょうか?

 しかし、そもそもこの「オタク」なる概念についても、どうも定義がはっきりしません。「オタク」と言われる系列に属する人びとのいろいろな行動様式や嗜好や思考習慣などを列挙してみても、そのパターンは多岐にわたっていて共通項があるのかないのか判然としません。なにか「共通項」らしきものを出してみても、必ず「おれは該当しない」という奴が出てくるものですし、ジャンルによって、あるいは世代によって、

相当に大きなずれがあり、これはという共通項すらなかなか提示できません。私が勉強不足なのかもしれませんが、「オタク」なる語を、誰でも納得する形で定義した論は皆無というのが現状です。そのため、この種の議論はやたらとメタレベルへ後退するといった様相を呈しているようにも思えます。

 そもそも「オタク」なる語自体、もとは差別用語と言いますか侮蔑用語ですから、私はふだんこの語は使いません。この同人誌においても何度かふれていますが、この語は確たる定義ができないということで、かなり苦しまぎれの言い換え語として「コミックマーケット的文化圏の構成者」、ぐらいの語で呼んでいます。「オタク」などと呼ばれるような人びとの共通項としては、コミックマーケットに集まるようなジャンルの文化に対して興味を持ち、それに関係する財に対して消費活動を行う傾向の強いこと、ぐらいではないかなどと思ったからなのですが、これはまあいわゆるトートロギーですね。トートロギーは何も説明しないのですが、名称なんていうものは別段論理的な説明なんかする必要はなく、言ってみれば概念というオブジェクトを操作するためのハンドルにすぎないのですから、おおむね指示できればOK、というのはどうでしょう。

 しかし、それだったらべつだん「オタク」という語でいいじゃねえかというツッコミがありそうですが、それはたしかにその通りですねえ。なので以降、定義不能のままの暫定的な概念の呼称としての「オタク」でいいや、ということにしましょう。

 いや、まどろっこしいことを言うようですが、この問題について言及しようとする人は大抵、正確な定義はとりあえず措いて「オタク」と称される「ある特徴を持っているとされる人びと」について、その性的な傾向の一部に「萌え」というこれまた定義不能な嗜好もしくは行動傾向を据えて論じているように思えるのです。まあ、門外漢からみた印象批評というかイイガカリですが。

 

『戦闘美少女の精神分析』

 

 さて、こういった問題についてあまり関心がなかった(訳ではないですが他にもっとプライオリティの高い問題が多かったといいますか)ため、いままではほとんど一般の著作や言論などを見てきませんでした。で、前回と前々回の企画の際にはじめて東浩紀氏の著作を読み、なるほどプロの人はこういうことを論じているのかと感心したものです。

 そこで今回は、これまた大変泥縄式に、斎藤環氏の著作『戦闘美少女の精神分析』を読んでみました。なかなかに感心しましたが、ひとことで言えば「総論賛成、各論ギモン多し」といった案配でしょうか。

 『戦闘美少女の精神分析』は、「“オタク”とは何か」「現代においていかにして“オタク”は肯定されるか」という問題を論ずる労作です。その手法は、ミッシェル・フーコーを思わせるような表象としての文化論から、ラカン流の精神分析学やら何やらの恐ろしげな学術技法によって論じているように見えます。

 斉藤氏の主張には、それなりに頷ける部分があります。統計的な調査をした訳ではないので、自分自身の体験や自己認識に照らして判断するしかないのですが、あ〜あ〜なるほどそうかもしれん、と、ある程度は納得する感じでしょうか。

 この『戦闘美少女の精神分析』について、当WWFでいちはやく着目して論じたのはやはり松本氏でした。すでにウェブにあげてありますので適当に見ていただければわかりますが、WWFNo.22(2001年)の、『モノ言えば唇寒しオタク論』にて、非常に辛辣な『戦闘美少女の精神分析』批評を展開されています。たしかに斉藤氏の議論にはちょっと突っ込みたくなるような見当違いや強引さが散見されるように見受けられますが、松本氏はそういったところに容赦なくツッコミを入れています。

 私の場合、感覚的に、どちらかというと哲学に近い議論にはやや「親和性」があったようなのですが、話が精神分析学の方向に行くととたんにダメでした。ただ、この本はなんだか小難しいジャーゴンがたくさん使われていて読者を威嚇していますので、精神分析学や医学や哲学に関してある程度のきちんとした体系的な素養がないとなかなか反論できません。斉藤氏のスキルに遜色ない知識をお持ちの松本氏であるからこその批評であり、斎藤氏も東浩紀氏の編纂した『網状言論F改』において若干負け惜しみ的に「こんなに熱心に論じてくるとは、これは自分に対する愛だ」みたいなことを言っています(62ページ)。

 しかし実のところ、素人のこちらからみると「うわあ、レベル高いやぁ」と冬樹くんがギロロ伍長とポール氏の戦闘シーンに対して述べたみたいな間抜けなコメントしか出そうにありませんし、内容そのものに関する批評は松本氏にお任せすることにしましょう。

 と、傍観者を決め込んでいては話が進まないのでちょっと所感を出しますが、この『戦闘美少女の精神分析』では、「オタク」という概念を規定する要素として、単刀直入に「性的性向」をその中心的な部分に据えています。東浩紀氏の『動物化するポストモダン』でも、意識的な領域よりむしろ無意識的・性的性向をテコにして語っているようですから、「オタク論」を語るにあたってこういったフロイト式のアプローチが旬なのかもしれません(たまたま彼らがそういうのが得意技なだけかもしれませんが)。

 ともあれ、論考しようとしている「萌え」について、定義からしてよくわからない、そしてその土壌となっている「オタク」についても、やっぱり定義からしてわからないという状況では、とりあえず内容はペンディングとして措いておき、目に見えている現象自体にあたるしか手が思いつきません。システム開発の世界では、こういう手法をブラックボックステストとか表現したりします。

 ということで、「セクシュアリティ」の観点を中心っぽく考えつつ、オタクと称される者がどういった描写をされているかについて考察してみましょう。

 

「オタク」の描かれ方

 

 いろんな作品に、「オタク」は登場します。その多くはステレオタイプの描写ですが、時代の表象に投影された「オタク」像をあらわしているのではないかと思ったんですがどうでしょう。安直でしょうか。

 で、いま必死になって「最初に描かれたオタク」を思い出そうとしているのですが、どうも確定的なものが思い出せません。おぼろげな記憶を頼りに書きますが、少なくとも私が知る限りにおいて作品上に描かれた「オタク」は、谷口敬の『フリップ・フロップ』だったと思います。このとき描かれた「オタク」は、デブだったりガリガリに痩せぎすだったりして「紙袋」「キャラクターTシャツ」「メガネ」「カメラ」といった決まり切ったアイテムによって脚色され、「ダビングしてくれよー」とか何とか「ダメなセリフ」を口にするダメ人間として描かれていました。まあ、1980年代当時「オタク」といえば、アニメファンやマンガファンの中でも、著しく対人スキルや社会的常識に欠けたダメ人間を限定的に指した言葉という捉え方もありましたので、当時のこういった描写はある意味仕方ないとも思います。

 当時の同人誌などでも、こういった典型的な「オタク像」は描かれていて、このイメージは2004年現在もある程度残存しています(たとえば『デ・ジ・キャラット』ワンダフル版のキャラクターなど)。

 1985年ごろ、当時ビッグコミック・スピリッツに掲載されていた細野不二彦『あどりぶシネ倶楽部』の第7話に、対比的に描かれた二人の「オタク」が登場します。このとき、コスプレなどの「オタク現象」が紹介風に描写されていますが、全体のトーンとしては「オタク」の特性を肯定的に描いている、数少ない作品と言えます(細野不二彦氏の「オタク観」は以降もおおむね一貫して肯定的のようです)。

 ただ、基本的に「オタク像」は、全体としてかなり否定的なものでした。特に1989年の「宮崎勤事件」は、その行動、特に性的嗜好の異常さが過剰にクローズアップされ、「意思疎通の不可能性」ばかりが強調される風潮に拍車がかかることとなります。当時、「オタク」におけるセクシュアリティの問題は、今まではそのイタさゆえにか暗黙のうちに不問に付されることが多かったように思います。先行して一部に流行した用語に「面妖本」なる言葉があり、結局これは助平同人誌を指して言う呼称なのですが、一般にはさほど知られず、今ではほとんど誰も知らないといった状況です。そんな時代、宮崎勤という「特異なオタク」の出現によって、「オタク」のセクシュアリティという面が一部あらわになったというような事件だったとも言えるでしょう。

 「宮崎勤事件」をビジネスチャンスとみた宅八郎が「オタク評論家」を名乗るのもこの頃(1990年)です。2004年現在、この「宅八郎」をまっとうなオタク(?)と見なす人は皆無と思いますが、少なくともこの時代、「オタク評論家」を名乗る者はおそらくは彼唯一人だったため、汚らしい長髪に銀縁眼鏡の奥の澱んだ不健康な眼、紙袋と意味不明のマジックハンド、ときおり人形を持ちだしてウケをとる彼の芸風は、「オタクという人種」のイメージとして、負の影響を一般に強く与えたものと思います。

 当時のコミックマーケットにおける同人誌でも、「オタク」に関して自己言及するようなものがいくつか見られるようになってきますが、たとえば「EV.EV.」(EV.EV.編集部刊)に掲載された小説『かめい』などは、「オタク」に対する憎しみともとれるほどの激しい嫌悪を綴った作品です。ただ、これにおいてもその憎悪の対象は「オタク」のコミュニケーション不全性、現実に対する認識の不全性などに対するものであり、セクシュアリティの問題にはさほど踏み込んでいなかったと記憶しています。

 このころ、『1982 おたくのビデオ』(1991年)が出ましたが、これも決して快い描写ではなかったと思えます。私などはちょうどこの世代に近いもので、なんとも身につまされる思いをしたものです(もっともこれは、一般人の観る作品ではありませんでしたが)。この作品においても、「オタク」の行動の特異性などばかりが強調され、セクシュアリティなどにはそれほど触れられていなかったようにも思います。

 翌年に発表された映画『七人のおたく』も基本的に扱いの路線は変わりませんが、この年(1992年)にヒットしたドラマ『ずっとあなたが好きだった』における「冬彦さん」の描写は、性的嗜好の異常性をともなったもので、少々斬新でした。ただ、そもそも冬彦さんは別に「オタク」じゃありませんし、ちょっとFetishismの傾向が強くて偏執的な気質だったぐらいで別にそんな異常な人じゃないんですが、「オタクっぽい」人というニアイコールでイメージが喧伝された、と考えるのは被害妄想でしょうか。

 と、このような案配でだいたい「オタク」のイメージはろくでもないものとして継続的に描写されつづけるのですが、セクシュアリティについて突っ込んだ描写の作品というのはさほど見あたらないように思います。1998年〜2004年の『勝手に改蔵』などにしても、ある意味たいへん過激な描写を含んでいましたし、主要キャラクターの現実からの乖離性、精神病理性などがたいへんドラマチックなラストをもたらした作品でしたが、やはり少年漫画の範疇にある以上あまり性的な記述は許されず、オタクやそれに類する者のイタさを自虐的に開示するにとどまる内容だったといっていいでしょう。

 

「萌え」の機能

 

 時代はちょっと遡りますが、1995年から1998年ごろ、「萌え」なる用語が出現します。語源は諸説あり、「セーラームーンのほたるに燃え」から転じた説(斎藤環氏はこの説をとるようです)、パソコン通信における変換ミス説、NHK教育テレビのアニメ『恐竜惑星』のキャラクター「鷺沢萌」由来説などさまざまではありますが、厳密な意味するところのニュアンスなどはさておき、現在この言葉は急速に一般に知られつつあります。少なくとも2004年12月現在、この「萌え」なる言葉は、過去の「オタクおよびその周辺概念」よりはるかに「中立」(肯定的ほどではないけどさほど否定的でもない、といったところ)の概念として扱われているように思えます。

 この状況の背景には、日経新聞など経済関係メディアが、アニメーションや漫画などのコンテンツ産業を、将来の日本のコア・コンピタンスに成長する可能性をもった分野として肯定的に評価し、他の一般メディアもこれに追随する動きをとったこと、『エヴァンゲリオン』のヒットや宮崎アニメのアカデミー賞受賞など実績としての成果がマイナスイメージとは別に評価される社会的な意識の変化があったこと、また岡田斗司夫氏などの論者が地道に通念の書き換え作業を行ったことなどがあげられるでしょう。相変わらず「ろくなもんじゃない」的評価が主流であることに代わりはありませんが、今までのように「肯定的評価のチャンネルがほとんど皆無」で、「社会にメイワクをかけないからそっとしておいてくれ」程度の論拠でしか擁護できなかった状況に比べれば隔世の感があります。そしてこのころから、「オタク現象」に内在するセクシュアリティに関係した諸現象も、イタがられながらも語られはじめたように思います。

 たとえば『エヴァンゲリオン』の劇場版(1997年)において、それまではなされなかった直接的な性的描写(シンジ君のマスターベーション)がなされますが、この後ガイナックスは、『エヴァンゲリオン』のキャラクターを、何か堰が切れたかのようにSexyなキャラクター商品としての扱いも含めた形で商品展開してゆきます(これは、かつては「同人誌」という、オタク側のローカルセグメント内だけにあるメディアで行われてきた方法です)。

 思うに「萌え」という概念は、「オタク現象」にまつわる性的衝動、セクシュアリティを語る場に際して、そのあまりに生々しいイタさをオブラートに包む論理的緩衝装置としての役割をもった概念だったのではないか、と私は考えています。

 そもそも、20年以上も前から、「オタク現象」の根底を支える重要なモチベーションのひとつとして、「リビドー」といいますか、セクシュアリティに関する要素があったことは、誰も否定はすまいと思います。しかし当初、ただでさえ社会的にイタい「オタク現象」に、セクシュアリティの問題までからめて語ることは、意識的なのか無意識的なのか社会的に避けられてきたような印象を受けます。ところが1990年代末あたりから、「萌え」という概念が提出され、なかば自虐ないしはノリツッコミ的ネタのような用法でセクシュアリティ問題に不可分の生臭さを緩和しつつ、自らのセクシュアリティを「存在するもの」として認知しはじめた「オタク現象」の当事者たちは、やがて「オタク」の行動の強力なモチベーションとしてのセクシュアリティ問題を公然と語り始めます。

 たとえば、田丸浩史『ラブやん』(初出はよくわかんないですがたぶん2001年)においては、やたら珍々握ったりしてばっかりいるロリオタプーの三拍子(ヒッキーとかNEETとかなんて言葉も浸透しましたし、実際多いと思いますねえこういうヤカラ)のカズフサ(当時25歳)がこれでもかと描写されており、その邪な欲望をかなえるべくキューピッドの少女ラブやん(ある程度常識人)が活躍する、みたいな話が描かれていますが、この物語において提示される「萌え」という概念はもはや、主人公(およびその周辺のキャラクター)のセクシュアリティを定義する主要な概念としてはずっと後退しているように見えます(とゆーか、そんな生やさしいモノじゃないっつーか)。でも一応、主人公のターゲットの相手の名は「萌」チャンで、初期のころは「今日もモエモエ〜」とか言ってましたけど。むしろカズフサは、二次元キャラに愛情を抱くライバル・ヒデヒコについて、「オレ 息をするのと同じく二次元キャラで抜けるけど 愛が芽生えるまでにはなったことないぞ!?」と困惑しています。そういった反応は、ある程度「一般的」であって、「萌え概念」の範疇外ではないでしょうか。

 2002年に連載開始した『げんしけん』の場合、「萌え」という概念はもはやほとんど提示されません。登場人物たちはごく自然に「オタク現象」の一部としてセクシュアリティの問題を語り、行為します。かれらは、「匠の眼がどうのこうの」などと気取った理屈をこねまわすことなどせず、同人誌即売会をストレートに「マスターベーション用の具材を調達する場」として堂々と語ってはばかりません(実際はちょっと恥ずかしそうな感じですけど)。

 あからさまなセクシュアリティの描写は、それが「オタクがらみ」であろうとなかろうとイタいものですが、この作品においては「オタク現象」はすでに相対化され、文化様式のひとつというような形で描かれているように思えます。

 「萌え」という概念がその出現当時に要求された「緩衝システム」としての社会的な役割は、そろそろ終わりつつあるのかもしれません。

 

意味変換システムとしての「萌え」

 

 「萌え」という言葉は、その意味するところがかなり曖昧で、使う人によってもばらつきがありますが、こういった時代において、現代の「オタク現象」のセクシュアリティに関連する部分の一例として紹介されるケースが多いようです。たとえば経済アナリストの森永卓郎氏(私は、「香ばしい馬鹿左翼」っぽくてけっこう好きです、この人)は、「伝統的な性的嗜好商品はコストが高く、これからの時代に生きる庶民には荷が重いので、「萌え」という手法を活用してなんにでも発情し、代替的に性欲等を満足させて生活全般のコストダウンにつなげよう」というような、ややもって貧乏くさい説を唱えています。この人の使う「萌え」という概念は、何しろモデルガン萌えだとか言うぐらいですから相当に意味が拡散してしまっているといってよいでしょう。ただ、少なくともそれは「セクシュアリティを中心とする概念である」という点は留保しているようであり、一般人の素朴かつ直接的な性的嗜好にくらべ、経済的な優位性をもっている概念として肯定的に評価しているように見えます。つまり、高度な「妄想力」をもって特定の唯我的嗜好に「注目」し、これに対して強力に「執着」しつつ、眼前的表象を「カスタマイズ」する一方、高コストの従来的な価値体系の中で成功し我欲を満たすルートは早々に「断念」して、内省的な享楽を追求するという「萌え」のテクニックこそが、コストダウン時代の現代に生きるためのテクニックである、という論理展開です。

 少なくとも私の周囲で使っている「萌え」という語のニュアンスから言えば「かなり違う」という気がしますが、かくいう私自身「萌え」という概念の定義に成功していないのでなんとも言えません。しかし、少なくとも森永氏は、こういう説明で日経新聞などに連載記事を書いていますから、一般的な社会に表象する「萌え」の概念は、こういうものであると理解されていくことになるのかもしれません。この説明も、「萌え」という概念の現象としての側面、社会的認知システムとしての「萌え」の概念を考えれば、ある程度の妥当性のある議論なのかもしれません。

 しかし他方、宮崎勤時代の「オタク」という概念がそうであったような、伝統的で情緒的な「萌え」に対する反応も依然として残っています。たとえば、日刊スポーツ・大阪エリア版2004年11月23日の「大谷昭宏フラッシュアップ」

http://homepage2.nifty.com/otani-office/nikkan/n041123.html 

は、先に起こった奈良市の有山楓ちゃん(7)誘拐殺人事件について述べていますが、この記事で大谷昭宏氏は、犯人を「フィギュア」に「萌え」る者だと断定(まあ、断定じゃなく「思い起こし」ているだけだという言い訳ができる逃げ道とか作ってますけどね)しています。引用してみましょう。

 

     (略)もちろんいまの段階で犯人の動機は不明である。だが、私はこれらの状況からどうしても最近気になっていた「萌え」という現象を思い起こしてしまう。

     なぜ萌えというのかは、諸説あって不明だが、要は若者たちが生身の人間ではなく、パソコンの中に出てくる美少女たちとだけ架空の恋愛をして行くというのだ。そこにある特徴は人間の対話と感情をまったく拒絶しているということである。少女に無垢であってほしいのなら「キスしたい」という呼びかけに「ワタシ、男の人とキスしたことがないから、どうしていいのかわからない」と答えさせ、その答えに満足するのだ。自分の意に沿わない答えや、気に入らない少女の心の動きは完全に拒否する。

     パソコンの中で、それぞれ名前をつけられた少女たちのフィギュアショップがアキバと彼らが呼ぶ秋葉原に次々にオープン、遠くから若者たちが自分の好みのコスチュームをつけた少女のフィギュアを求めて買出しにやって来る。

     もちろんまだ犯人像が絞れないいまの段階で、今度の事件の犯人を直接、この萌え現象と結びつけることはできない。ただ、解剖結果から誘拐直後に殺害しているということは、犯人は一刻も早く少女をモノを言わないフィギュアにしたかったことは間違いない。その上でフィギュアになった少女の写真を母親に送りつけ、ここでもまるでモノをやり取りするかのように「娘はもらった」という言葉を使っている。これまでの誘拐犯なら「娘はあずかった」だ。

     もう一点、犯人は少女を浴槽のような水を張ったところで水死させている。この殺害方法だと、少女をまったく傷のつかないフィギュアにできる。いや、少女の体には無数の傷があったではないか、という反論があるかも知れないが、それこそが犯人の異常性。少女を水死させることで無傷の状態でフィギュア化し、思いのまま傷つけるのは、自分でなければ気がすまなかったはずなのだ。

     まさにそこには、人間としての対話も心の動きもまったくない、無機質なモノしか存在しない。(後略)

 

 まあ、大変に想像力のたくましい方でいらっしゃるようで、イマジネーションはふくらむばかりですねえ。私のような凡庸な想像力しかもたない者は、この事件に関して現在与えられている情報のかぎりでは、犯人像として、「ネクロフィリア嗜好をもったペドファイルの可能性が高い」ぐらいとしか断言できないのですが、こういう優れた想像力の持ち主なら、大地震が起これば朝鮮人が井戸に毒とかを投げ込んだに決まっている、みたいな連想をあたかも見てきたみたいに「思い起こし」ちゃうんでしょうし、自爆テロルの映像を見ただけで自動的にイラクに大量破壊兵器がしこたま備蓄されてるっぽいイメージを「思い起こし」ちゃったりするんでしょう。で、その「思い起こし」た連想を片っ端から新聞とかに書いちゃうわけですね。

 感情失禁的に無節操な言を弄するジャーナリストなんかせいぜいこの程度なんでしょうが、少なくとも言論に携わる者でもこの為体ですから一般の反応は推して知るべし、あくまで「肯定的なチャンネルも皆無ではない」程度であって、まだまだ「翻訳不可能性をもつ異様な価値観」としての偏見や差別的意識は存在しつづけています。特にセクシュアリティに関連する規制が世界レベルで厳しくなっている現在、近い将来にこの文化が壊滅的な「攻撃」を受けることは容易に想像することができます。

 ただ、「萌え」という概念は、成立当時から「ローカルエリア」として在り続けた「おたく的文化圏」の価値観を、あたかもローカルのIPアドレスをグローバルIPアドレスに変換するNATのように、多対一の形で外の世界に変換することによる翻訳可能性の確保につながるものになりうるかもしれない、と、とりあえず肯定的に評価してみるテストというのはどうでしょう。

 以上、内容のわからないものは機能だけに着目しよう的態度による「萌え」考察の一席でありました。

 

(2004/12)

 

 


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