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網状言論Fを巡る妄(耄)状幻論Z・簡易版

 

 

松本 晶


  

 

 東浩紀氏・編著『網状言論F改』においてはその著者たちがオタクや萌えに関する自らの主張とお互いのレビューを行っているわけですが、それを傍で見ながら何か仲良さげでイイよなぁなどと指をくわえつつ(暗い)、齢四十にして萌えキャラに惑いオタク現役組で読後爽やかな(ウソ)ワタシとしては、ついレビューしたくなってしまいました。ゼータはZガンダムとギャラクシーエンジェルZからデス(このオオバカもの!・光画部トサカさんのCVで)。で、だいたいこんな感じで「部外者」が各著者の総括とかをしていると、栗本慎一郎のように干されるか、呉智英のように酔狂扱いされ無視されるわけですな、言論界やサブカル界の作法を知らんというわけで。恐るべし同調圧力。

 

東浩紀氏 「動物化するオタク系文化」

 東氏の『動物化するポストモダン』については散々書いたので、鳥瞰的なまとめを。彼はオタクたちの消費行動を集団として捉えたときの分析が動物化だと主張していますが、結論から言えばこれは個人レベルと集団レベルの記述の都合のよいところだけを混同して言及しているための論理の混乱と、さらには動物化以前にユートピア的に捏造された「人間」像というような存在しない過去への郷愁の裏返しによる反動的言論であると思われます。

 まず彼は集団的にオタクが、ある傾向への萌えを一斉に生じるのに内在的な理由よりも情報や嗜好のコントロールという面で捉え、反射的に動物的に流行りの萌え要素に反応していることに興味があるというわけですが、これは昔からあるヒトの自由意志の問題や決定論を現在のオタクにおいて行っているものです。

 確かに巨視的にマスのレベルでオタクの嗜好を考えれば、各人の凸凹は統計的に均されて一定の嗜好しか持たないように捉えることが出来るような気がします。これは例えばボルツマンが「気体の温度や圧力などという巨視的な現象」(萌えやオタクの集団)を考えるのに「分子の運動という微視的な現象」(各人の萌えるシュミの対象の多様性)を統計学的に捉えることで細かな差異をツブして統計力学を打ち立てたことのアナロジーかもしれません。つまり大きな物語を失いデータベース的な世界観から想定されるヒトの姿がこの考え方の根底にあるのでしょう。しかしこれは気体分子どうし(オタクどうし)が運動量を交換しても分子自体には化学的変化がないことを前提にした理想化であり、オタク、否人間に関する考察を行うのであればそれらの間の相互作用がある系をアナロジーにしなければ全く意味がありません。そのような系の一つとしては複雑系カオスで有名なベローソフ・ジャボチンスキー反応(Belousov-Zhabotinsky reaction)などか織り成す複雑で美しい色模様を想起すべきでしょうし、それに匹敵するオタク的図像の集合は虹裏などの画像掲示板に代表される萌えとMADのカオスです。ここで勘のイイ人は巨視的レベルのエントロピー(シャノンの情報量)と微視的なそれの差が熱力学深度の定義であったことを思い出すかもしれません。それはもしかしたら集団のオタクの「意味」や情報の重要性のアナロジーになるかもしれません。妄想ならここまで行きたいものですが、今はまだよいアナロジーを私は見つけられません。

 ちょいと話がズレたようですが、丁度よいので自由意志や決定論についても考えてみましょう。例えば大気の動きによる天気のことを考えて見て下さい(奥田氏の指摘で考えてみたことです)。日本であれば春夏秋冬が来ることは予想できますし、数日以内の天気予報であれば結構あたったりします。しかしこれが中途半端に週間予報や月間予報や、もっとロングレンジでは時々来る異常気象の年(ではなくて単なるカオスかも)とかになると、これはもう当たるも八卦当たらぬも八卦の世界になってしまします。その理由は、別に観測システムが不十分なだけでもなく、予想プログラムの不出来でもコンピュータの能力が足りないせいでもなくて、大気運動のような非線形システムではバタフライ効果(北京で今日蝶が羽を動かして空気をそよがせたとすると、来月ニューヨークでの嵐に変化がおこる)というような初期値に対する鋭敏性があるため(その他にも要因は色々あるのでしょうが)、将来は決定論的であったとしても予想不可能なカオスになるわけです。ただしあるレンジや周期で見れば、それは漠然と傾向が予想はついたりするわけで、そのどのレンジでどの程度の精度の予想かということによって、予想可能性とか決定論性は決まってくるわけです。そこにはもはやラプラスの悪魔のようなデーモンの存在は見ることができません。

 集団というオタクの心理(集団心理でもかまいません)に対しても同様なことが言えると思われ、数ヶ月先から一年くらいの現路線に沿った萌えキャラの予想やオタクの消費動向はもしかしたら予想可能でコントロール出来うるかもしれませんが、数年先については全く予測不能である可能性は極めて高いと思われます(そうでなければ誰かそれを予想してみて下さい)。集団に対しては宮崎駿氏の言うような「手入れ」は出来ても、完全なコントロールなど出来はしません(国家でも無理なコントロールは60〜70年間が限界であることは歴史が示す通り)。個々人に対してそれが可能であるかのように見えても、それこそオタクのような実はヘテロな集団の中での相互作用がいつまでもヒトを洗脳状態におくのは無理でしょう。

 実際のところ、『宇宙戦艦ヤマト』『機動戦士ガンダム』『美少女戦士セーラームーン』『新世紀エヴァンゲリオン』によるオタク状況の劇的な相転移にも匹敵する変化を事前に予想出来た人が果たしていたのでしょうか? 後知恵では色々言えますけどね(ちなみにどの作品も私は予告編を見たわけですが、それだけでキターってカンジは分かりましたね・自慢ぢゃないよ)。これに対して構造主義的だか精神分析的だか人心操作だか洗脳だかロールプレイングだか薬物だとかに対する人の意志の不自由さや脆弱性などが明らかになってきたからというわけかもしれませんが、当然のことながら人の心などは比較的簡単に状況に応じて変化させられてしまうのは当たり前のことです。ではそこで、何にも左右されない古典的で啓蒙的な自我など所詮幻想なんだろうと分かったからと言って、ではそれは即・動物化だと主張してしまうのは、自由意志が制限されてショックを受けた人々の反動形成に過ぎません。ヤケになって「どうせ俺らに自由なんかありはしないさ」とカオスの中心にいながら不自由を叫んでみるだけのことです。決定論と自由意志双方のモデルのような二分法こそが人の心の作り出したフィクションであり、実態はもっとそれらのモザイクではないでしょうか。

 また個人レベルと集団レベルの混同ですが、これは彼の主張する世界認識のデータベースモデルについてのことです。これは比較的評判がヨイみたいですが、フロイドが社会心理学と個人のメタ心理学を同一レベルで語り成功したようにはいかないようです。彼は大きな物語が有効であったポストモダン以前(近代?)における人々の世界の認識方法はツリーモデルとして捉えられ、ポストモダンにおけるそれは恣意的なデータベースの選択による各人の深層の読み込みによる様々な世界観の並立であることを主張しています。しかしそれは清瀬氏が指摘するように、人の認識方法がモダン以降になり変わったとするロマン主義であり、私の考えでは人は世界をツリーモデル以外で捉える方法など今のところもち得ないと思われます。つまり本能が壊れてしまっているヒトが「世界」を認識するには文化、共同幻想、ゲシュタルト、言語、等々、なんでもヨイのですが(イクナイ)何らかの人工的なコードが必要であることは様々な人々が指摘しているヒトの条件です。そこではヒトは何らかのコードを通してしかモノゴトを認識できないと思われます。もしかしたら身分け構造によるダイレクトなクオリアが意識システム以外の心的過程に入力されている可能性は否定できませんが、ヒトは既に殆ど言分け構造の中に住んでいる生物であり、世界のデータベースと思っているものも既にコードにより選択された一つの構造の産物であると思われます。

 さらに世界を単なるデータベースとして並列化する視線は実はヒトのものではなく、近代までに捏造された神の視点であり、それがヒトにも可能だとする意識中心主義的な錯覚、ポストモダンの研究者にあるまじき誤解にすぎません。つまり大きな物語という意識レベルのツリーモデルが消失したところで、ヒトは不可避的に意識レベル以外でのツリーモデルに支配されているのであり、データベースは既に選択されキレイに整った心的システム上に広がる意識システムによる世界の姿に過ぎません。そのなかでどのデータ(データのふりをした物語)を選ぼうかとするからといって、個人の心的システムというレベルで見れば取り立てて新たな事態は何も起こっていないに等しいと思われます。

 ただ東氏が指摘するように、社会のマスのレベルから見れば変化は生じたとも言えなくもないでしょう。つまりすでに共同幻想の安全な枠のなかでの選択とは言え、さらにそのなかで人々が選択するデータと不可分なツリー・共同幻想は、大きな物語が無いために、それを共有する人たちの集団がどれも小さくならざるを得ず安定を得ることが困難になり(より多くの他者に支えられているからこそ幻想はヒトを支える制度となり得るわけですから)、したがって共同幻想を保つためには自らの幻想に固執し閉じこもり引篭るか、他集団を無視するか、不必要に攻撃的になるか、などというような余裕の無い症状を呈することとなるかもしれません。したがってむしろ新たな事態はマスのレベルで生じうるわけで東氏がそれを指摘したいのならば理解できますが、だからと言ってそれを直接個人のレベルに落とすのは論理的に飛躍があると思われます。

 それは社会一般の現象なので私のようなオタクがこれ以上言及することでもありませんが、ではオタクにおいては、このような世界の認識の事態は何をもたらしたのかについては同じく興味があります。そこでオタクは様々な要素をサンプリングしてデータとして受け取るというところまでは賛成してもよいかもしれません(しつこく繰り返しますがデータベースとは擬似的に意味的に中性だと錯覚させるデータ・ソースを信仰する物語であり、物語消費が終わったと考えるのはナイーブの極みで、決して物語から自由になったわけでも何でもないと私は考えます)。ただしその結果生じる個々人のなかでの心的過程は、東氏のようにデータから深層を読み込むということではなくて(解釈学的な深層であっても擬似的に過渡的な「真理」やドグマとして働くゆえに、その支配力は以前の物語と同じくうっかりバカにできない)、まさにポストモダンを地で行くような、差異との戯れ、シニフィエやシニフィアンの類似相同性や反転、意味の脱臼を用いた図像やシチュエーションの創造と消費を繰り返しているかのようです。そこで「構造」があるとすれば、それは要素から創発的に出現する階層を上に(上部構造ぢゃないよ)登ったものであり、深層の構造を意識意図しての世界の解釈はほんの一つの方法論として、他の異化作用と並列され用いられているようです(ひとつの深層発見モデルを無視したり拒否したりするアンチの方法は別の深層発見モデルに過ぎないことをよく体得しているため)。つまり東氏の予想を超える形で、オタクたちは既に異なった世界認識方法を用いているわけで、それをポストモダンと言うか甚だ疑問ではありますが、何らかの新しい形態である可能性は十分にあると思われます。まあ2ちゃんねると虹裏ですかね、つまるところ(それでいいのか?)。

 でも、マジでがんばれ東浩紀! 知的評論空間におけるオタクの地位はキミの双肩にかかっているのだ! 二つの世界の越境者は双方の世界から迫害されるのは世の常であり、それがキミの勲章なのだから、だからワタシの悪口も許してね(慣れ慣れしいぞ・オレ)、ってっカンジで応援したいです。実はこの文章の最後のほうで指摘しているオタクの二重性についてはとっても賛成しています。すなわち小さな物語を個人的に消費することと、大きなデータベースをブリコラージュしてネットワークを形成しているという二つの相反する(ような気がするだけの)性向がオタクのなかに矛盾も葛藤もせず存在するという指摘は、とっても私たちオタクの「現実」に近い姿ではないかと思われます。ただし、その大きなデータベースとはあくまで錯覚であり、それら要素から創発した「構造」がその要素を入力段階で既に規定あるいは統括している「不可視の物語」を越境できるか侵犯できるか脱構築できるかは、これからのオタクの動向にかかっているのであり、オタクが世界の構造やシステムを易々と超えてデータを生で認識してゆけるなどというような、お気楽なファンタジーをワタシは考えているわけではありませんし、東氏もきっとそうだといいなと思います(何かちょっとイイ終わり方じゃない? 我ながら)。

 

 

斎藤環 「「萌え」の象徴的分身」

 えーっと、引用されました、このヒトに、この文章で。ちょっとウレしい気もしたのですが、ワタシのようなパラノイア(粘着厨)的文章を「読後爽やか」というように「いなす」のは言論人としては上手い、座布団一丁!としか言いようがありません。メジャーどころが狂犬同人野郎に対処するその運動神経の巧みさは感動的ですらあります。そこを分かっていながら申し訳ないのですが、ラカンのドグマを解体するまでは、まあ粘着させていただきます。彼が言う「ラカンのロジックの強さ」というのは、ワタシとしては西欧の唯一神に対する信仰と同じ構造であると考えており、日本人には舶来ですからその御威光も薄れますよ、別の物語を考えねばなりませんよ、という主張です。

 というわけで、以前に『戦闘美少女の精神分析』については散々書いたので、今回は彼の主張の中心部分に絞っていきましょう(はじめからそうしろ)。オタクに関する個人のなかでの問題の中心は、なぜオタクは虚構の少女に惹き付けられるのか、ということでしょう。彼の主張は以下の通りであり、それ以上還元や分析や説明のないものです。

 

 一般的に「戦闘美少女」のリアリティは、それが徹底して虚構的存在であることに依拠しています。当然ながら、彼女たちは「現実」において、いかなる実体的な対応物も持たないのです。言い換えるなら、欠如態であることによって、はじめてそこに孕まれるような、きわめて特異なリアリティがある。それはまさに否定神学的な図式にほかなりませんが、「欲求」ならぬ「欲望」が否定神学的に解釈されてしまうことは、ほとんど必然的ななりゆきです。ここで注意していただきたいのは、私はまるで見てきたように「欲望の構造は否定神学的である」と主張したいわけではないということです。ただ、ある不可解な欲望が存在するとして、それを分析=解釈しようとする試みなら、そこに否定神学的な形式が要請されることが避けがたい。「解釈」という行為そのものが、欲望を隠喩的に捉えることを前提としており、隠喩の連鎖は究極的には、否定神学的な構造に行き着くほかはないからです。

 

 これに対する批評だけなら簡単で、ラカン的精神分析のロジックを無制限に導入しすぎー、に尽きます。よく考えると矛盾というか穴だらけです。ラカンの言う穴は一つしかないはずですが、まあそれは関係ありません。つまり欲望の行き着く先、心的システムのその「根拠」が空虚な一点に集約されるとしても、オタクの萌えやセクシャリティがなぜそのような欲望の根幹の構造と一致しなければならないのか、また対象が空虚で虚構で欠如しているというだけならば、別にそれは少女の姿である必要はないはずでその理由がハッキリしない上に、また「リアリティ」と虚構度が比例関係にないことも(実例は割愛)彼の主張の薄さを際立たせます。つまり否定神学はラカンの精神分析の構造であり、それの投影が彼の言うところの「戦闘美少女」の欠如態というわけです。たしかに空虚な穴、欠如の一点を媒介にして象徴界的システムを構築する心的方法はひとつの方法としてはアリだと思います。ただし、それが万人に通用するというのはラカン理論の適用限界を超えるものであり、だいたいにしてラカン本人が日本語の構造を見抜いて「日本人に精神分析は適用できない」と言わしめたほどですから(コレどこで読んだか忘れたけどホント?)、日本特殊論をブチ挙げる気はありませんが、ラカンがもし正しければ、日本人の心的構造は日本語の言語システムのように構造化されているわけで、それに西欧の理論を無制限に導入するのは自己矛盾としか言いようがありません。

 虚構の少女の存在に対する私の考えを繰り返せば、オタクの萌えの対象は虚構も実在も問いません。それは日本人の今までの心的システムが、空虚な一点の父の名のもとに吸い上げられて契約により世界とつながっているわけではなくて、むしろ小さな集団のなかでの人々の互いのネットワークで形成されることからの違いかもしれません。あらゆる心の琴線に触れるモノ(リビドーとナルシズムを上手く流れさせる構造)を取り込みますが、それは心的構造がアトラクタの集合であり、様々な入力に増幅されるセットを幾つも持っているような心的構造を予想させます。しかしこれはまさにソシュールの用語を換骨奪回というより都合よくパクったラカンが言うところのシニフィアンの連鎖(隠喩や換喩も)という「言語化された無意識」を思い出させるようです。ではその琴線のコードは生得的なものなのか形成されてゆくものなのか、後者だとしたら大文字の他者に代表されるような法としての言語がそれを規定するのか(ラカン的?)、それとも感覚的クオリアを受けながら創発的に生じてくる心的構造のセットなのか(日本的??)、その両方の絡み合いなのか、そして萌えキャラの図像はその情報処理琴線のステップを飛び超えて心的システムに消化されやすい情報なのか、それとも言語と図像の中間形態であるが故に振動の引き込みを生じやすいのか、などの疑問を巡る妄想が私の今回のメイン文章『萌えから妄想する心の構造』でした。

 以上のようなエセでもかまわないですから、とりあえずの「実体論」的な心的構造のモデルのスクラッチ&ビルドを詰めないで、いきなり否定神学を無批判に受け入れるラカン派と呼ばれる人たちは、きっとラカン教に帰依しているのでしょう。そのような人たちはラカンの批判を、例えば毎年装いを変えて出てくる相対性理論は間違っていたと妄想するトンデモな人たちと同じくらいに考えているのでしょうが、それはまさに宗教です。まあこれは本稿の趣旨ではありませんでした。では私の意見が斎藤氏と全く異なるのかと言えば、実は今回妙に賛同してしまう部分がこの文章の最後の方にありましたが、それは以下のような部分です。

 

 「戦闘美少女」問題の要である「なぜ少女なのか」という疑問については、精神分析だけで語り尽くすことは困難です。そして、これがやはり私の言うところの「情報化幻想」、東さんの言い方を借りればデータベース消費といった表現に対して、一番抵抗を感じる部分です。私は「萌え」こそが、「ポストモダン」における情報化幻想への性的な抵抗であると思うんですね。(中略)いかに「データベース化」を徹底しようとしても、必ず「仮想化しきれない残余」(ジジェク)が残ってしまう。

 

 あれま、ここらへんは何かロマン主義的なフロイドを思い出させるような感じで私のシュミと合う発言でつね。「情報化幻想」を私が東氏の項で批評した「データベースというファンタジー」と同じ意味かどうかわかりませんが、これは意識システム以外の外部や不可知な部分や暗黙知への興味と理解してよろしいですかね。ですからポストモダンの旗手である東氏が暗黙知的な意識システム以外の存在を消去するような、意識中心主義的データベース論を持ってくるほうが不思議だと思っているのですが、ここらへんの事情を是非知りたいところです。また少女であることの必要性については、むしろ古典的な精神分析的な考察ではもっともらしい説明が出来そうではありますが(例えば失われた全体性の欠如として=自分の丁度ネガにあたる人格を求める結果それが少女という性的にも概念的な年齢的にも相補する人格が必要とされる云々)、それはあまりにも意識心理学的にスッキリ説明しきれるような気がするぶんだけアヤしいのではないかと思っています。ではそれを検証するためにはどうしたらよいのでしょうか? それにはフーコーのような「考古学的アプローチ」も同時に必要なのですが、今回私はそれをパスしました、というよりも私にはとても出来ませんでした。それを行っているのが、例えば次の人たちの文章であると思います。

 

 

永山薫 「セクシュアリティの変容」

 というわけで、自ら語るようにエロ漫画の現状分析を軽やかに巧みにまとめられています。雑誌「ばんがいち」に触れるなどおぬしデキるな(笑)ってカンジのレビューですね。創成期の「レモンピープル」くらいからエロ雑誌(昔はロリコン誌などと言われてましたっけ?)のレビューとかをしてくれると、これは歴史的資料として価値のあるものが出来そうですから、是非今後のお仕事として勝手に期待したりしてます。特にオタクが実は「女の子になりたいんじゃない」という指摘は、斎藤氏の項で述べたように、全体性回復のための相補的人格の要請というようにも読めるわけで、このような「事実」を積み重ねたところからの帰納的なオタク論、萌え論が期待されます(って誰にだ)。これ以上ゴチャゴチャ評論するものではなく、ホンモノ一読をオススメします。批評はなしです。

 

 

伊藤剛 「Pity, Sympathy, and People discussing Me」

 まず東氏と斎藤氏の対立軸を表現のレベルで見るか、主体のレベルで見るかという整理をされており、私が東氏の項で述べた「巨視的VS微視的」な対立と近い分析をされていますところからしてイキナリ納得です。

 さらに彼はオタクの図像萌えに関して「萌え」「感情移入」「フェティッシュ」をとりあえず分けて分析をという指摘をされており、これも私が考えている「萌え」=複数の心的アトラクタの同時励起(今勝手に命名)と近い考え方ではないかと思っています。ソシュールが不可分なシーニュをとりあえずシニフィアンとシニフィエと分けて考えるのと同じく、これは歴史的分析的な萌えの考察には結構有用な方法論だと感心させられました。例えば「AIR」におけるシチュ萌えの内実はコミュニケーションの齟齬という萌え的心的アトラクタにふれることの反復自体が重要だということで、何か挙げてゆくと私のトンデモ妄想に色々と肉付けをしてくれているようで、今後色々パクらせて戴きたいと思います。

 

 

竹熊健太郎 「オタク第一世代の自己分析」

小谷真理 「おたクイーンはおたクィアの夢を見たワ」

 すいません、竹熊健太郎さんの文章は自分のことを語られているみたいで、嬉し恥ずかしってカンジで対象化して語れません。文章は大好きです。小谷真理さんの文書については、「やおい」の問題はうっかり書けないなという印象を受けました。今のところ私はそこまで考えを広げられずパスです。これが政治的や偽善的なジェンダーの問題とかに陥らないようにするにはかなりの手管が必要そうですね。

 

 あと対談とか最後の方の伊藤氏、永山氏の文章はまだよく読みこんでいないです。東氏と斎藤氏に対しては批評ばかりしているみたいでしたが、状況を広く説明するための大局的な「論」に対しては、それがお互いの価値観の反映である以上、どうしても対立が明らかになりやすいという面があるからなのでしょう。しかしオタク的な状況の検討が多方面から行われるという面からはむしろこれは良きことだと勝手に思っています、ご迷惑でしょうが。他の著者の方々も歴史的アプローチとともに是非驚天動地なオタクに関する「仮説」をどんどん出していって下さると、オタクに関する言説の消費者としてはとても有難いなどと思っております。はい、これでオシマイ。

 

(2004/12)

 


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