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実体論的な、あまりに実体論的な

 

 ――萌えを巡る思想的壊乱・予告編――

 

 

松本 晶


  

 

 萌えに関してもう一つの文章ではなるべく実体論的にその現象? を扱う試みをしてみましたが、それで取りこぼされた部分が不可知な知、意識システムの外部につながるかと言えば、どうも上手くいかないようです。よく言われる逃走論だとか力の逃げてゆく場所など、「コトバ」でカッコつけて言う分には便利ではありますが、凡夫であるワタシには、いえ大体のひとたちにだってそんな芸当は無理じゃないかと思うわけですが、ならば逆に何か思わせぶりなことだけを、なるべくファジーに語ってみたらどんなモンかね? というのが本稿の動機です。というわけでそれがどんなに印象批評になろうが、如何に根拠がなかろうが、ひたすらアナロジーだけを頼りに、萌えについて私のなかにおける様々な人の思考パターンとの干渉模様を見てみたいと思います。

 その前にひとつだけ、分析紛いを。その昔(って言っても10年くらい以上)萌えは詩の雑誌の「MOE」とか「草木萌出る春の萌え」てな語感でしかなかった筈です、記憶によれば。それがアニメやゲームのキャラを「対象」として発見したオタクたちが、「何々萌え〜」という言葉を使った時点で、萌えは今のようなコトバへと階層がバタッと変化したと思われます。オタクは「世界」と関係を持たず自閉しているというような分析が蔓延っていた(今でも?)時点で、私たちオタクたち自身が萌えというような「対象」を必要としつつ自分をメタ的に観察しうるステージを表わすコトバを好んで使用するようになったということ、そしてこのようなデキゴトのキーワードがオタクやネクラという自己意識を中心とした形態から、対象を主にした心的構造に変化したという意味で、「萌えの発見」という事件は実は結構な事件だったりするとマジで思うわけです。これを自己を消し去る欺瞞だとか、象徴界に入る前の想像界における自他不可分の対象としての形態だとか言って酷評する人が多いと予想するわけですが、それは全て従来の倫理を基にした「意識心理学」への退行であると切り捨てましょう。大きく出ると、日本人に象徴界などというものが当てはまるのか、またそれ以上に想像界、象徴界だの言う精神分析的概念が本当に有効であるのか、ワタシとしては大いに疑問ですが、今は手持ちの武器が少ないのでラカン好き好き軍団に立ち向かうだけの蛮勇はありません。

 というわけで、オリジナルの存在しないワタシの思考形態は適当な本を依代(よりしろ・憑依する対象)にしないと水蛭子的な思考のモアレが消えてしまうので、今回は『現代思想を読む辞典』今村仁司・編を使ってみました。これを片手に対照しながら見ていただけると多少は面白いんではないかなと、講談社文庫の売り上げに貢献したんだから感謝しる! 的に購入を推薦しますです、ハイ。今回は予告編で、最終的にはコレを『悪魔の辞典』的にオタク的言説で換骨奪回したフリをしながらも、実はマジ思想モード的なものになるべく画策していますので、出来るか出来ないかは別にして、今回はその小手調べをしてみたいと思います。というわけで、ほぼアイウエオ順に思想のキーワードに沿ってオタクと萌えを用い従来の思想をなるべく批判的に考えて見たいと思います。

 

 アナグラム

 思想的よりもクイズや探偵モノで知っている人の方が多いんでしょ、多分。ソシュールが晩年研究しつつ未完に終わった、らしい。言葉の文字配列を変えて全く違う言葉や名前にする「遊戯」。だからそれがナニ? と思っていましたが、前の稿で書いたように、心的構造の意識以外の部分が多様なアトラクタであるため、とか様々なエネルギーの渦巻くエスだかイドだから、という説明からはとても納得できます。さらにラカンが言うところのシニフィエやシニフィアンの類似性から心的構造が影響を受けるというのもありそうな話です。でも、ミシェル・フーコーが「語るものは誰か、それは言葉である」をもってして「主体の壊乱」と訳するのは如何なものか? とか思うデスヨ。多分原語ではそうなってないと予想しまつ。だって語感が「主体がもともとある構造で、言葉によってそれが乱される」みたいなカンジがするもんで。意味的に別モノだったら単なるイチャモンですが、主体という「とりあえず」の共時態の「構造」(つまりアトラクタ)が「実体」であるが如き用語はいけないと思います。クリステヴァの「間テクスト性」をこの項で解説するのも何か違和感ありましたが、アナグラムを広く捉えて、例えばパクリだとかオマージュだとか引用だとかパロディとか、そーゆーのを行いつつもそのテクスト自体は一期一会のモノになるというように考えれば通底するかなと。それはさらに要素が総体を決定しないという還元主義の否定でもあり、要素のほんの些細なブレが非線形的に結果をカオスにするという複雑系的な思考と言ってもいいんですが、要するに庵野秀明のガイナックス作品だとか一部の秀逸な二次創作とか、そう捉えれば分かりやすくないデスカ? つまり無意識のカオスでも、様々なテクストでもよいのですが、そのカオスから多数の要素をブリコラージュして多重の意味を持ちつつ「意識システム」に分かり易いように組み合わせたものが言語であり、かつ作品と呼ばれるテクストではないかと、そう考えればアナグラムとの関連もあるかなと。

 

 

エディプスコンプレックス

 母と父と子の三すくみ状態。母親に対するリビドーが父親という存在(ナルシズムの投影先)によって阻害されまた罰せられる恐れを抱く云々。それは確かにフロイドという個人や時代やその継承者たちの西欧の人々には共通の問題意識であることは、まあ良しとしましょう。歴史的時代的によく分からないコトだからです。ただし、そのような心的発達のドラマが「いまここ」の日本においても共通であるかのように語ることには非常に疑問があり、さらには現代のオタクと萌えを語るに至っては本当に該当し使える概念は疑問に思われます。というよりか逆にオタクの萌えの存在が、エディプスコンプレックスが決して人類共通の発達過程システムではないことを示していると思います。以前も書いたように、またオタクの命名者である中森一郎が喝破したように「オタクはテレビ(番組のキャラ)を親として育った」というように、母や父の位置にアニメキャラや特撮ヒーローを持ってきた心的システムの分析を行わないといけないとマジで思うわけです。萌えがこのようにロバストなシステムとなるためには、原体験がアニメキャラであることが予想されますが・・・って、コレは結構自明。母が性的対象になるという(小児性欲・別に性交に結びつくというよりも、不能のリビドーの備給先になりつつも、それを隠蔽するための父の名や象徴界的システムによる抑圧という物語が必要)荒唐無稽な物語よりも、私たちオタクにしっくり来るのは、小児期のアニメキャラが初恋の対象となる方が余程整合性に満ちています。相手は架空のキャラであるため、不能の性を意識する必要もなく、その結果としてそのようなアトラクタが強固な心的水路付けをするのではないかと、凡庸な結論に落ち着くわけです。例えば『勇者ライディーン』などに見る母モノと呼ばれるジャンルの隆盛は、その当時のオタクにアニメキャラを親代わりにさせる要素にも満ちていたことを伺わせますが、エディプスコンプレックスと異なるのは、そこでの母への慕情は父との葛藤などに巻き込まれることなく霧散消失してゆき、リビドーの備給先はヒロインに向かう水路付けがいつの間にか成されている(テレビシリーズという継続の魔力です)ところなどにあるわけですが、これについての検証は別原稿にしなければならないほどの分量になるので、今回はパスです。マジでDVD BOX買って分析しよっかな。

 つまり心的システムは「本能」が壊れているがゆえに、内在的にある一定の方向が決まっているわけではなくて、ヒトが生存と生殖による種の維持をかけて文化や共同幻想を造りあげていったものであるというわけです。ただ、このように岸田秀理論を(誤解しているかもしれませんが郵便論的誤配でキニシナイ)当てはめるのは、身分け構造と言分け構造をごっちゃにする言い方なので語弊を招くことでしょうし、奥田氏とかにキビシイ指摘をされてしまうわけです。確かに現在進化的に淘汰されていない種の行動様式をもって「壊れている」というのは、場合によっては逆の人間優越論になりかねないわけではありますが、ではその一方で例えば絶滅種が絶滅するまでは、その過剰適応した様式(例えばサーベルタイガーにおける定方向進化による牙の巨大化に伴う絶滅)は、どんなに非合目的的になっても、種の最後の一匹が途絶えるまでその進化の結果による身体的特徴を「壊れている」とか「合理的でない進化」とかは言えないのでしょうか? 究極は結果論なのでしょうが、やはり「これはダメ方向なのだコレでいいのだ」みたいな決定はある程度判断しないことには不可知論に陥ってしまうことでしょう。

 ちなみに『新世紀エヴァンゲリオン』は一部で語られていたようにエディプスコンプレックスをそのまんまトレースした物語云々ということですが、むしろそれは反動形式であり、エヴァという母にまつわる阿闍世コンプレックスのほうが科学経済論的には説明しやすいものでした。これは批評家や俄アニメファンの心理学オタクよりも、製作スタッフが語っていたことです(『スキゾ・エヴァンゲリオン』と(『パラノ・エヴァンゲリオン』より。必読!)。

 

 

エロス・タナトス

 エロスはいいとしてタナトスなどという死の欲動などトンデモだと私は言っていましたが、よく考えるとアトラクタ的な心的システムの理解を自然言語で高級言語的に表わせばこうなるかなと、最近思ったりしています。すなわちフロイドはタナトスを「生以前の分離離散した無機状態へ立ち戻ろうとする傾向」の欲動というわけですから、ナルシズムやリビドーに対する強烈なカウンターが生じた際のアトラクタの軌道が無意識システムのカオスに残存していれば、それが再びエネルギーの備給を受ければ、周囲の軌道を引き込むことによって「以前の状態へ立ち戻ろう」とするのも不思議ではないでしょうし、反復強迫やフラッシュバックなども説明が比較的容易に可能となります。やはりフロイドはエラかったということで。

 しかし問題はエロスとタナトスが不可分の場合とは如何なる心的状態なのかですが、萌えにおけるエロス、タナトス、ナルシズム、慈しむ目などが虹裏のFLASHの画像の如くお互いに引用しあうテクストのカオスにある場合などを考えれば不思議でも何でもないような気さえしてきますが、結局は意識システム以外の部分の心的アトラクタへのエネルギーの備給はある程度しか方向が定まっていなくて、一つのアトラクタへのそれは、力学的位相空間における周囲のアトラクタへ、シニフィエ・シニフィアンの連鎖的に備給されるのではないかと、そんなイメージがありますが、それは単なる予想(妄想)でした。

 

 

シニフィエ・シニフィアン・シーニュ

 おフランスの言語学者、フェルディナン・ド・ソシュールが使用した用語。萌えを語るのに敢えて実体論的にこの用語と複雑系的心的システムを絡ませて妄想すると以下のようになります。つまり、萌えとはシニフィアンやシニフィエに分化(というよりも固定化し実体化)する前のシーニュを比較的ナマの状態に近く「感じさせる」用語ではないかと。それは萌えがまだ意味を獲得して新しい言葉であるということや、もともと感情をコトバ(嬉しい悲しい怒り等々)で表わす場合は、そのシニフィエ(意味されるもの=音声も言語も指標も象徴も図像も)は物質や人物に固定せず機能的なものや仕草を想起させるだけの漠としたイメージしか湧かないこともあるでしょうが、それに加えて萌えはシニフィアン(意味するもの=とりあえずはその記号・シーニュの概念・内容と考えると分かり易い)自体が意識、言語的了解・理性として理解困難な概念であることから、萌えという音声や言語が直接シーニュとして心的システムに感受されていると「理解」したほうが分かり易いからです(「理解」はすなわち意識システムの側の納得)。従って表層の言語によって萌えの概念を語ろうとすれば、「双面かつ不可分離の言語的本質体」であるシーニュを無理矢理「意識システム」のコトバに置き換えようとすることになるわけだから上手くいかないですよね。では自己解説すると、一見実体論的に心的システムだの言うヨタ話を敢えて萌えに関して持ってきたのは、オタクの言説で語られている自然言語でのもどかしさを敢えてハズしてみようという試みだったわけですが(脱臼という言葉はイタそうでヤだ)、何かあんまし上手くいかなかったカンジですね。

 この用語で当然出てくるのがラカンの言うシニフィアン・シニフィエですが、ソシュールの用語を使っているのに勝手に意味をずらしているのは流石傲慢なラカン大先生(ラカン自身が言ってるそうです)。解説は丸山圭三郎氏のものが一番分かり易いのですが(ってゆーかそれ以外のラカン派の言葉は不明瞭すぎー)、著書『言葉・狂気・エロス』からの引用によれば(よく考えるとこの三つの単語ってまんま「2ちゃんねる」ってカンジでつね)以下の通りです。

 

 ラカンが用いる右の述語(シニフィアン・シニフィエのこと・俺注)は、ソシュールというよりはむしろギリシアのストア学派とそれを継承した聖アウグスティヌスから借りた概念(=<語の音形態>と<意味>)であることを確認しておこう。(中略)言葉とは、ある生体験が区切られるとともに生じ、それまで存在していなかった音のイメージと意味が共起する。(中略)安定した信号体系をもたないヒトという動物が、カオスのような生のエネルギー(=欲動)を言分ける、意味発生の現場の出来事としての言葉なのである。ソシュールは、これを表層意識で使われる記号(シーニュ)と区別して、<セーム>と呼んだ。(中略)<セーム>とは私たちの身と意識の深層に動く言葉のことであり、既成の<意味>をもたない語や言葉のことなのだから、ラカンのいう<シニフィアン>そのものであると思ってよい。

 

 明確ですね。確かにこの用語で心的システムや心的ドラマについて語ろうとすれば、ラカンの用語の方が便利かもしれません。また萌えに関して言えば上記の解説はそのまんま「萌え」が固定化される以前の<セーム>あるいはラカン的<シニフィアン>であることが分かると思います。ただし、言葉は動くものであり、以上の事態は丸山氏が自ら言うように固定化された言葉では生じにくい現象です。萌えのように新たな「用語」もいずれ固定化され制度化されてくるものではありますが(現にそうなりかかっている)、かつてPOEMのイメージが強かった萌えがそうであったように、いつまた流動的なものへと変化してゆかないとも限りません。

 

 

 というように思想との接点をダラダラと書いてゆきたかったし、考えてみたかったわけですが、これは次回の原稿にとっておきましょう。では本稿はコレでオシマイ。

 

(2004/12)

 


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