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「萌え」のエクリチュール(笑)

 

清瀬 六朗


  

 

 日本は「萌え」の国だ。それも、一二〇〇年以上もまえ、日本で文字を使って日本語が書かれたときから日本は「萌え」の国だった。

 『古事記』の最初の部分、天と地ができて最初に高天原に三神(天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神)が現れる記述の次に、こんな記述がある。

 

 次に国稚く浮ける脂の如くして、海月なす漂へるとき、葦牙の如く萌え騰る物によりて成りし神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遅神。

 

 つぎに、生まれたばかりの国土がまだ浮いているアブラのようで、クラゲのようにぷわぷわ漂っているときに、葦の芽のように萌え上がるもの力によって成った神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遅神といった。

 

 この宇摩志阿斯訶備比古遅神という神様は、葦の芽のように「萌え」るものによって生まれたものだという。しろうとの読みかじり解釈で解説すれば、「うまし」は「美しい」という意味の美称で、「あしかび」は直前に出てくるように葦の芽、「ひこ」と「ち」はどちらも男性の称号である。この神様より前の三神は高天原に生まれた神ということだから、地上(「国」)のほうで最初に生まれたのはこの「萌え」の神様なのだ。

 これは日本が「萌え」の国になるはずだ。

 ……というのはまあ冗談である。神野志隆光氏が強調されるように(『古事記と日本書紀』講談社現代新書)、『古事記』は天皇家と天皇を中心とする国家の神話を記したものだ。大和地方や天皇家と関係の深かった各地の当時の日本人の考えかた・感じかたを反映してはいるのだろうけれど、いったん国家による編纂というフィルターを通していることは意識したほうがいい。そんなとこより、だいたいこの「萌え」というのは葦の芽が勢いよく成長するようすを表現したことばで、この本で話題にしている「萌え」とは違う。

 でも、『古事記』の記事との関連はともかく、この本で話題にしている意味の「萌え」と、植物が生長するようすを表現する「萌え」には関係がないのだろうか? 「もえ」ということばに「萌え」という文字があてられたのはただの偶然なのだろうか?

 

 「はてなダイアリー」http://d.hatena.ne.jp/のキーワードを見ると、「萌え」は一九九〇年ごろから使われ始めたことばで、名まえに「萌」の字が含まれているキャラクターや声優のファンが使い始めたという説が紹介されている。ちなみに、はてなキーワードの「主に幼女や美少女などといった、かわいらしいもの、いじらしいものを目にしたとき、心で判断するよりも早く、脊髄反射のような感覚で起こる、非常に原始的な感覚。魅了され、激しく心が動くこと」という解釈は「脊髄反応……」以下にやや違和感を感じるけれど、なかなかすぐれた解説だと思う。で、そのキャラがだれかというと、諸説あるということで、には、アニメ『恐竜惑星』のヒロイン「鷺沢萌」説、『美少女戦士セーラームーン』シリーズの「土萠ほたる」説、あゆみゆいの少女マンガ『太陽にスマッシュ!』の「高津萌」説が紹介されている。これと並んでササキバラ・ゴウ氏のいう「燃え」のミスタイプ説も紹介されている。

 固有名詞説をとれば、最初はいずれかの少女キャラを表現することばだったのがしだいに一般化したことになる。また、「燃え」のミスタイプまたはわざとやった誤変換説をとれば、「もえる」の漢字表記は現在のATOKやIMEでも「燃える」か「萌える」しか出てこないので、他に選択肢はなかったということになる。

 いずれにしても、植物の生長を意味する「萌え」との直接の関係はないことになる(なお、この考察では、男性から女性キャラへの「萌え」のみを問題にする)。

 

 けれども、「燃え」とは違って、植物の生長の意味に使われる「萌え」という文字が使われることには、やはり文字の意味が反映していると私は思う。

 たとえば、「さくら萌え」(『カードキャプターさくら』の木之本桜)とか「美紗緒萌え」(『魔法少女プリティサミー』)とか「ミント萌え」(『ギャラクシーエンジェル』)とかいうことばを、「さくら燃え」とか「美紗緒燃え」とか「ミント燃え」とか表現したらどうだろうか? いま私たちが使っている「萌え」の感じはあまり出ないのではないか。それはたしかに私たちが「萌え」の表記に慣れてしまっているからという理由もあるだろう。けれども私にはそれだけとは思えないのだ。「燃える」という表現は、何か懸命になりすぎていて、ぎらついた感じやあまりに強い熱気を感じさせ、「萌え」感情にそぐわない。美紗緒ちゃんや、語源の有力説の一つであるほたほた(土萠ほたる)などの病弱キャラは、「燃え」で表現するとぜんぜん感じが違ってしまうように思う。「萌え」が病弱キャラ萌えから始まったのならば、「燃え」のぎらついた強いイメージを避けるために「萌え」の表記が使われるようになったという推定も可能かも知れない。

 「燃え」という表記を回避するために「萌え」が使われるようになったというこの推定には一定の現実味があるように思う(まあ、自分で考えついたことだから、そう思うのもあたりまえだが)。「萌え」キャラには、まぶしさや熱気を感じさせる要素はあるにしても、それは「燃え」のような烈しいものではない。せいぜい太陽の光を浴びた反射光のような「間接照明」的なまぶしさであり、激しい運動をしたときや興奮したとき、病気のときに感じられる体温のような熱である。

 燃える炎はものを焼きつくすことでものごとを終わらせるような破滅的な烈しさをも感じさせる。人間が炎に接すれば激しく傷つき、火傷の程度によっては死んでしまうかも知れない。でも「キャラ萌え」の「萌え」にはそういう感覚はない。もっと生物的なもの、「生きている人間」を感じさせるものが「萌え」感覚の重要な点ではないか。

 「萌え」キャラに接した「オタク」が「萌え死ぬ」ことはあるかも知れないけど、「萌え」キャラ自身が「萌え」によって傷ついたり死んだりすることはない。「萌え」に破滅や死の感覚がないわけではないが(この点については『網状言論F改』の一九七〜二〇〇頁の東浩紀氏の『Air』論が参考になるかも知れない)、それは即座に烈しいものとして訪れるわけではなく、予感や運命のようなものとして裏に潜んでいる。そんな感覚には縁のないまま「萌え」て通り過ぎることだって多いだろう。

 「萌え」の本質にはやはり生命感があるのではないかと思う。生きているものが持つ感覚である。もちろん、細胞分裂で生きる単細胞生物はともかく、有性生殖している生きものはいつかは死ぬわけで、だから「萌え」感覚には「死の予感」がその生命感に潜んでいたりもするのだろう。でも、そのことも含めて、「生きている」こと、そして「生命力を持って生きている」ことが「萌え」感覚の本質的な部分ではないかと感じるのだ。

 そう考えていくと、「萌え」の文字が使われるのには、「燃え」の烈しさを回避するという以上の積極的な理由があるようにも感じる。「萌え」の感じさせる生命感である。

 「萌え」という表記は新芽や若葉が生長するようすを表現するときに使われる。最初に挙げた『古事記』の例もそうだ。葦の芽が勢いよく伸びる生命力を表現している。『古事記』では、この神の誕生が『古事記』に特徴的な「むすび」(何かを生み出す霊的な力)の概念につながっていくらしい。

 「萌え」キャラは、そういう、生まれたばかりの新芽や若葉が生長するような勢いのよい生命力を感じさせる存在ではないだろうか? もちろん病弱萌えやおとなしい子萌えも存在するわけだが、病弱美少女というのは病気と闘わざるを得ないところで生命力を感じさせるし、「おとなしい子」(眼鏡っ子の優等生とか)のばあいは、そういう生命力を自ら表面に出ないように封じているところにかえって惹かれ、それが「萌え」を感じさせるのではないか。

 しかし、「萌え」出る新芽や若葉から感じる要素というのは生命力だけではない。未完成さや弱さも感じることがある。未完成さの感覚は幼女萌えとかにつながるだろうし、弱さは病弱少女萌えにつながるだろう。また、生命感と同時に感じられる未完成さ・弱さは「それでも生きていこうとする」というけなげさの感覚にもつながっていく。

 水を多く含んだみずみずしさ、太陽の光を多く反射するまぶしさや明るさという感覚もある。こういう感覚は世のけがれを知らない純粋さにつながる。あと、新芽や若葉に感じる「柔らかさ」の感覚も「萌え」感覚に通じる。肌に触れたときに感じるであろう柔らかさ、みずみずしさ、くすぐったさの感覚も「萌え」感覚の要素の一つだろうと思う。

 「未成熟さ」を「萌え」要素の本質にしてしまうと「巨乳」キャラ「萌え」の対象から外れてしまいそうな気がするけれど、どうなのかな? 「巨乳」は、成熟の証しというよりは、みずみずしさや生命力や、もしかすると触れたときに感じるであろうやわらかさやくすぐったさが「巨乳」萌えにとって本質的な感覚なのではないだろうか?

 もう一ついうと、植物が新芽や若葉を生長させるのは、多くの植物では春から初夏にかけてである。冬が終わり、日も長くなり、身体に血がめぐる感覚が復活してきて、気分が浮き立つ時期だ(花粉症でなければ、だけど)。複数の「萌え」キャラが「さくら」という名を持っているのも偶然ではないと思う。桜が咲く時期に身体に感じる感覚が「萌え」感覚につながっている一面があるのではないかと感じる。

 私の「感じ」以外に根拠はない。しかし、私は「萌え」には「未成熟な生命が感じさせる生命感」が欠かせない本質のように思うのだ。その点で、「萌え」という表記は、たんに起源となったキャラ名や「燃え」の誤変換という以上の意味を持っているように私は感じる。

 もうひとつ、「萌え」表記で重要だと思う点がある。それは、「萌え」は草や木などの植物について言うことで、動物や人間にはここで問題にしている意味以外では使わないということだ。

 未成熟な生命力ということで言えば、動物や人間の赤ちゃんでも同じことを感じるはずである。けれども「萌え」は植物についての表現だ。これは「もえ」の発音にあたる感じがたまたま植物の生長を意味する「萌え」しかなかったからだろうか?

 私はそうではないと思う。やはり人間の赤ちゃんが感じさせるような強烈な存在感を避けるという要素が「萌え」感情にはあるように思うのだ。生命感は感じたいが、それは実在の人間が感じさせてくれる生命感ではない。実在の人間や動物が持っている存在感のない、たぶん別の種類の存在感を持った「生命感」が「萌え」の生命感なのである。それは人間や動物の存在感よりは新芽や若葉が感じさせる「生物の存在感」に近いのだろう。

 もちろん人間としての存在感がないというのは言い過ぎだ。やっぱり体温を持っているという感覚や身体を動かしている感覚は「萌え」には不可欠だと思う。それは植物からは直接に感じられないことだ。

 では、人間としての存在感のどこが「萌え」と相性が悪いかというと、あまりに人間くさい生々しさとか、つき合うのに自分の側も身体を動かさなければならない手間や労力ということがまず考えられる。それに、もうひとつ問題なのは、人間は育ってしまうということだ。

 もちろん新芽や若葉だって育って普通のさえない葉っぱになってしまうのだから、これは「植物に使われる表現だから」という関連づけはできない。そうではなく、植物についての「萌え」は、それが新芽や若葉である時期にしか使えないことばだということだ。

 「萌え」キャラは、生まれてから年月を経て育ってきたキャラクターなのだろうか。もちろんそういう設定になっているに違いない。しかし、「萌え」キャラが私たちに接するばあい、最初から何歳かの少女として現れる。そこまでの成長の過程は意識されない。アニメやゲームのエピソードとしてもっと幼い時代の姿が描かれることもあるが、そこに出てくるキャラは「幼〜〜ちゃん」とか「幼〜〜たん」とか呼ばれて、「萌え」るお兄さんたちには別キャラ扱いされる。『プリンセスメーカー』のような例もあるから、成長の過程が描かれる例はないとは言えないけれど、『プリンセスメーカー』の少女だって生まれてからずっとの過程を描くわけではない。

 「萌え少女」たちは、生まれてから何年とか十何年とか(ばあいによっては二十何年とか)経った後の姿でいきなり現れる。そして、しばらくいっしょの時間を過ごした後、「その後」については明確にされないまま、その関係は終わったか続いているかわからない状態に置かれていく。

 今回、『赤ずきんチャチャ』を特集した『WWFNo.13』の改訂版を出し(買ってください! 『チャチャ』のDVDも再版されたことだし―と宣伝をする)、その際に従来版に一話だけ欠けていたOVAの第二話の評を新たに書き下ろした。この第二話というのは、百歳を超える老人スナイパーが主人公の友だちを殺しにやってくるというエピソードである。この話をどう論じようかとあれこれ考えていたときに、「子どもにとって老人は最初から老人として現れる」ということを思いついた。

 それをもっと拡張すると、「萌え少女」も私たちの前に最初からある年齢の少女として現れ、そこまで生まれて成長してきた過程を持たないのではないかという感覚が生まれる。これは実在の女性に最初に出会うときもたぶんそうで、実在の女性を好きになるときに「このひとは子どものころはこんな容姿でこんな性格で……」なんて出会ったときから考えたりはしないのが普通ではないだろうか。ただ、実在の女性とつき合えばだいたいは時間とともに成長したり変化したりということをどこかで意識しなければならない。しかし「萌え少女」のばあい、過去はまったく気にせずにすむし、もしかすると家庭的な背景も最初から考えの外に置いてしまうこともできるし、将来どうするかをあいまいにしておいても何の不都合も生じない(というよりアニメやゲームの「萌え少女」と結婚したいなどと本気で考えてしまうとけっこう不都合が生じるように思う)。

 そういう意味で「萌えキャラ」は私たちと同じ時間を生きてはいない。生きたいと願うのに生きられないということもあるかも知れない。けれども、もしかすると、「萌え」感情を抱くような人たちは、最初から「萌えキャラ」と同じ時間を生きることを目指してなどいないのではないか? もちろんまったく同じ時間を生きたくないというわけではない。アニメやゲームに描かれている時間は共有したいと願う。けれども、その外にはみ出た時間については、必ずしも同じ時間を生きたいとは思わない。そのキャラの昔の話とか後日の話とかを同人誌や同人サイトで発表するひともいるわけだから、アニメやゲーム外の時間をともに生きたくないとまで言ってしまえば言いすぎだろうけど、ともに仲むつまじく年老いていくことまでを具体的に願望するひとはそんなに多くないと思う。そうではなく、自分が二〇歳のときでも、三〇歳のときでも、四〇歳のときでも、相手の「萌え少女」はその少女が何歳とか十何歳とかいうそのままの時間にいることを願うのが普通なのだ(アニメの美少女キャラの「老い」を考えるうえで『ハウル』は観ておくべきなのかなぁ……本稿執筆時点でまだ観ていないのでよくわからないです)。

 「萌え」の対象となるキャラと「萌え」る私たち(この文章を読んでいる貴方が「萌え」るひとでないとしたら失礼いたしました!)のあいだには、空間的にも時間的にも微妙な距離感がある。空間的には、体温やまぶしさなどの生命感を感じられるぐらいの近さにはいたいけれど、動物的な生命の存在感を感じるほど近くにいたいというわけではない。時間的にも、ずっと末永くおつきあいしたいわけではなく、アニメやゲームで設定された時間やそれと連続する時間だけをともに生きたいと願う。そういう距離感をむしろ積極的に引き受けるところに「萌え」が成立するのではないかと私はいま考えているのだ。

 生命感に惹かれつつも、その生命の強烈な存在感からは一定の距離を置いていたい。同じ空間のなかで体温やまぶしさやもしかすると息づかいを感じ、ともにいたいと思いながら、しかし完全に同じ時間・空間を共有することからは距離を置く。その生命感と距離感のバランス、または、生命感を感じさせるものに接近したいという感覚とあまり接近したくないという感覚、そういったバランスのうえに成り立っているのが「萌え」の感覚なのだと思う。

 じつは、この距離感の問題をどう考えるかはいろいろと迷っているところであり、この文章と「続・東浩紀氏のオタク論を読む」とでは考えが違っている。「続・東浩紀氏のオタク論を読む」を先に書いて、あとからこちらの文章を書いているわけで、そのあいだに考えが変わったのだ。またすぐに考えが変わるかも知れない。まあ、私にとって「萌え」が現在進行形であることの証しでもあり……ってそんな証しが立ってもべつに嬉しくないよね。

 

 現在のようなアニメが成立する前に書かれた小説の登場人物で、ここに描いた「萌え」感覚に非常に近い感情を感じさせてくれた少女がいる。中勘助(夏目漱石の弟子)の自伝的小説『銀の匙』に登場するお宸ソゃんという女の子だ。主人公の前にとつぜん現れ、同じ時間を過ごし、そしてすぐに姿を消してしまう。『銀の匙』の内容は他の部分はほとんど覚えていないけれど、このお宸ソゃんのエピソードだけはいまでも印象に残っている。同じ時間を過ごして、少女のまま姿を消すことで、かえって印象に残っているのだ。

 私が『銀の匙』を読んだのは私が「萌え」ということばを知るずっと前のことだから、その当時から「お宸ソゃん萌え」と自覚していたのではない。ただ、いま考えると、そのお宸ソゃんの印象の残りかたは、他の「萌え」アニメキャラと同じ性格のもののように私には感じられるのだ。

 

 また、私は、ウェブ上でササキバラ・ゴウ氏の『〈美少女〉の現代史』の評を書いたとき、「萌え」を変奏曲の変奏にたとえた。いま考えるとかなり強引な議論で、まちがっているとはいわないまでももっと論証が必要だろうと感じている。だからこの本に投稿したときにはその部分を削った(ウェブにはそのまま載せています。すぐ後に出てくるブラームスの話にも触れています)。

 ここではその議論をさらに展開するつもりはない。そうではなく、ただ、そう感じたことの背景を少し説明しておきたいと思う。

 こんなことを考えたのは、ウェブ用にササキバラ氏の本の評を書いていたときに、ブラームスの「ハイドンの主題による変奏曲」という曲を聴いていたという偶発的な事情が発端になっている。

 ブラームスは変奏曲を得意とする作曲家で、オーケストラ作品ではこの「ハイドン変奏曲」があり、他にも交響曲の一部分に変奏曲を導入したりもしている。ピアノ曲としても変奏曲をいくつか作っている(「ハイドン変奏曲」にもピアノ版がある)。

 で、このブラームスは、その生涯を片思いを繰り返しながら独身で終わったひとだった。片思いの相手として有名なのは、師匠の未亡人のクララ・シューマンや、弦楽六重奏曲にその名を織りこんだといわれるアガーテという女性(幕末の日本に来た医師シーボルトの縁者らしい)だろう。クララの娘が自分以外の男と結婚したと聞いて怒って歌曲を作ってクララに送ったとかいう話もある。でもべつに自分で求婚して振られたというわけではない。というより、自分の気もちを伝えることすらしたかどうか不明である。

 ブラームスには、そういう「惚れっぽさ」と、それでも相手から距離を保っていたいという強固な気もちとの両方があった。これはけっこう「萌え」る人びとの心性に近いように思う。

 だとすると、「萌え」の感覚や心性はロマンティシズムの時代からあった、というより、「萌え」自体がロマンチックな心性の一種なのではないかという気もしてくる。ただし、これはたんなる思いつきで、仮説として立てるにしてももっと論証が必要だと思う。

 

 私は、「萌え」感情や「萌え」感覚について、現在のところ、ここまで書いてきたような考えをもっている。だから、「萌え」の本質は「要素萌え」であり、しかもそれが支配的になったのは一九九〇年代以後だという議論には二重に違和感を持つ。一つには、「萌え」的な心性はもっと昔からあったと考えるからであり、また、「萌え」は一つひとつの要素に還元できるものではないと感じるからである。もちろん「萌え要素」というのが存在することは否定しない。だから「萌え要素」論や「データベース」論を全面否定するつもりはない。けれど、「要素」だけで「萌え」を起こせるかどうかについては私はけっこう懐疑的である。

 

(2004/12)

 

 


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