WWFNo.29のページへ戻る
 

【書評】ササキバラ・ゴウ〈美少女〉の現代史

―― 「萌え」とキャラクター ――

 講談社現代新書、二〇〇四年

 

清瀬 六朗


  

 注意! この文章は「ネタバレ」についての配慮は基本的にせずに書かれています。

 

 この本は、まんが・アニメ・ゲームなどの「美少女」キャラクターに「萌え」るという現象を、「萌え」の主体である男性の問題を中心に据えて解き明かそうとした本である。「男性論」であるということが著者が強調するこの本の特色のようだ。

 たとえば、東浩紀氏の『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)では、「萌え」の問題を「動物化」というキーワードで捉え、また、「オタク」というキーワードを通して「萌え」を現代社会全体の変化と結びつけて把握していた。このササキバラ氏の本は、その「オタク」のかわりに「男性」を置き、「萌え」論→「現代社会のなかの男性」論→現代社会論と議論をつなげていくものだ。著者の意図はそこにあるといちおう理解すればいいだろう。

 なお、ここでいう「男性」は「美少女」キャラに「萌え」を感じるような男性のことである。男性であってもまんがやアニメやゲームの美少女キャラに何の興味も感じないような男性は議論の主たる対象ではない。また、それに対応して、この本で「美少女」と呼んでいるのは、たんなる「美しい少女」ではなく、男性の「萌え」の対象としての美少女キャラクターのことである。

 

 なおこの本はタイトルと内容にややズレがあるように感じる。タイトルはなぜか〈美少女〉となっているが、〈〉つきの「美少女」ということばは本文には出てこない。カギカッコつきの「美少女」か、カッコなしの美少女かである。また、この本にはたしかに「萌え」や「キャラクター」という概念が出てくるけれども、それが中心テーマというわけではない。「キャラクターに萌える男性」論である。なぜこの本がこんなタイトルになっているのか、私にはよくわからない。

 

 「萌え」とは何かについての説明

 ところで、本号やWWFの「萌え」学会シリーズ(そんなシリーズ名がいつ決まった?)既刊をお読みになればわかるように、どんな現象を「萌え」と呼ぶかは論者によってまちまちである。ではササキバラ氏は「萌え」をどう把握しているのだろうか? この点について、本書の二〇頁でササキバラ氏は次のような説明をしている。

 

 一 人物やキャラクターに対して強い愛着を感じることを「萌え」という。

 二 子どもの行動ではなく、思春期以上の人間の行動である。

 三 対象は、アイドル歌手や芸能人などのほか、まんが・アニメ・ゲームのキャラクターにも広がっている。

 四 ただし、このことばは使う人によってニュアンスが違う。

 

 ここでの定義によると、アイドル歌手や芸能人・タレントについても「萌え」は存在するわけだが、この本ではほぼまんが・アニメ・ゲームのキャラクターに対する「萌え」だけが対象になっている。したがって、この本で分析される「萌え」とは、まんが・アニメ・ゲームなどのキャラクターに対して「強い愛着」を感じることだと言いきってよい。

 また、この本での語られかたを見ると、「強い愛着」ということばは、たんなる愛着ではなく、多かれ少なかれ性的な意味での愛着を意味するようだ。こういう書きかたをすると、こんどは何を「性的な」というかがまた問題になるだろう。この本の「萌え」ということばのニュアンスから考えると、必ずしもその相手とセックスしたいという自覚的な願望だけではなく、「そのキャラクターのことをかわいいと感じる」程度までを含む広い意味と捉えていいようだ。ただし、幼児に対する性愛感情や同性愛、両性具有願望などの「変態」的な性愛については触れていない。

 なお、この本では「萌え」は一九八〇年代に生まれたことばだとしているが、私は一九九〇年代後半までこのことばに接したことがなかった。いずれにしても、まんが・アニメ・ゲームのキャラクターに対する性的な意味を帯びた「愛着」は、その時代に「萌え」ということばが使われていたかどうかは別として、この本では「萌え」として説明している。

 

 ササキバラ氏の描く「萌え」史・「美少女」史

 それでは、まず、ササキバラ氏が「萌え」史・「美少女」史をどう整理しているかを見てみよう。

 「萌え」感情を持ち、それを行動で表現したのは、この本では、一九七二年、『海のトリトン』のファンの女性たちがファンクラブ活動を始めたのが最初だとしている。つまり「萌え」行動では女性の動きが先行したというのがこの本の主張である。この「萌え」行動は、一九七九年の吾妻ひでおの『不条理日記』、同年の宮崎駿監督の『ルパン三世 カリオストロの城』、一九七八年に始まった高橋留美子の『うる星やつら』を契機に、男性のものになり、独特の展開を遂げ始める。その対象として、この本でいう「美少女」像が成立してくる。

 一九八〇年代前半には、ここで成立した「美少女」像を前提として、あだち充の『みゆき』・『タッチ』に代表される「ラブコメ」のブームが到来し、同時に島本和彦らのパロディ的作風が隆盛を迎える。アニメでは、メカものに美少女が何の違和感もなく登場するようになる。その典型としてササキバラ氏が挙げているのは一九八二〜八三年『超時空要塞マクロス』である。このような流れの上に、宮崎駿の『風の谷のナウシカ』と富野由悠季の『機動戦士ガンダム』のブームが到来する(『ガンダム』は『マクロス』より前の作品なので、ここでの叙述の順番にはやや違和感を感じる)。松田聖子やおニャン子クラブのブーム、村上春樹の小説のヒットも、この「美少女」像を根源としたブームとしてササキバラ氏は位置づける。

 この一九八〇年代前半の「美少女」像は、男性にとってセックスの相手となりうる「女性」性を排除した、男性によって傷つけられやすい弱さだけを持ったキャラクターだったとササキバラ氏は言う。しかし、一九八〇年代後半になると、その「美少女」像のなかに、セックスの相手となりうる成熟した「女性」像が入りこんでくる。「美少女」は、男性によって一方的に傷つけられる脆弱な存在ではなく、内面を持った、男性によって理解しなれけばならない存在に成長する。いってみれば「自立した少女」像が「美少女」の典型となったのである。それはたとえば美少女フィギュアの登場などにも見られる(たしかにフィギュアは「自立」はしてるような気はする)。それが決定的な方向となったのは『美少女戦士セーラームーン』以降である。『セーラームーン』は、女性の作者が少女たちを想定読者として描いた作品であり(ただし、アニメとして見るなら、監督を務めた佐藤順一も幾原邦彦も男性である)、男性から一方的に傷つけられるだけの少女たちではないのに、男性ファンから熱狂的に支持された。また、一九九〇年代になると、パソコンの美少女ゲーム(ギャルゲー)が隆盛を迎える。この美少女ゲームに登場する美少女たちは、プレイする男性に対して選択を迫り、その選択に応じて自分の言動や生きかたを変える「内面」を持った存在である。その動きが行き着いた時点が現在の状況だというのが、ササキバラ氏の「美少女」史像だ。

 なお、女性による「萌え」行動については、男性の「萌え」行動の契機として描かれた後はまったく触れられていない。だから、「やおい」ブームも出て来ないし、たとえばギャルゲーの同人誌を女性が作るという動きについても触れていない。

 

 ひとまず整理

 ササキバラ氏の議論をここでひとまず整理しよう。

 一九七〇年代後半に女性の「萌え」行動に追随するかたちで始まった男性の「萌え」行動は、個々の作品やまんがかアニメかという垣根を超えた「美少女」という共通の対象を見出すことで独自の展開を始め、一九八〇年代前半には「男性によって一方的に傷つけられる弱さを持つだけの存在」として「萌え」の対象になってきたが、一九八〇年代後半以来、徐々に「女性」としての自立性を持つ美少女が登場してきた。現在、男性はそのような「美少女」に対しても「萌え」行動を起こすようになっている。これがササキバラ氏の考える「萌え」史の流れである。

 ここからわかるように、ササキバラ氏はまんが・アニメの流れをいちおうきちんと押さえて議論を展開している。もちろん別の整理のしかたはいくらでもあるし、異論もたくさん出るだろう。

 たとえば、この本では『新世紀エヴァンゲリオン』に出てきた美少女はほとんど分析の対象になっていない。また、『アルプスの少女ハイジ』・『フランダースの犬』・『ペリーヌ物語』などから『ロミオの青い空』・『家なき子レミ』までの名作劇場の話も出てこない。それでいいのかという議論もあると思う。だが、たとえば、枠組を先に作っておいて、まんが・アニメ・ゲーム史の流れとの関係を満足に説明しないまま、自分の議論に都合のいい作品を強引に引用して例証にするというやり方で書かれたような安易な評論とはこの本は一線を画している。そのことはまず評価すべきだと思う。

 

 一九八〇年代前半まで――男性の「困難」

 次に、この本のテーマである「男性」論を、ササキバラ氏がこの「萌え」論・「美少女」論とどう関連づけながら展開しているかを整理してみる。

 「萌え」の対象としての「美少女」というあり方が成立し、女性主体の「萌え」行動から自立した男性は、まず「美少女」を、セックスの対象にするのが不可能で、非常に傷つきやすい脆いキャラクターとして意識した。それは、逆に、自分自身を美少女を傷つけてしまう暴力的な存在であることを意識させてしまう。そのため、男性は、自分が触れることで美少女が傷つくことを恐れるあまり、美少女に触れることすらできなくなってしまう。

 著者が象徴的だとして挙げているのは『ルパン三世 カリオストロの城』の終幕の場面である。この物語は、「泥棒さん」で「おじさま」のルパンが、カリオストロ公国のお姫様クラリスを救うために奮闘するという物語だ。ところが、ルパンは最後にせっかく救出したクラリスを抱きしめることなく去ってしまう。この場面を、ササキバラ氏は、ルパンは「美少女」クラリスの傷つきやすさと自分の暴力性を自覚していたから、抱きしめずに去ってしまったのだと解釈する。

 しかし、「美少女」は、一方では男性にとってなくてはならない存在なのだともササキバラ氏は言う。

 一九七〇年代までは、男性には「戦う根拠」がいくらでも存在した。学生運動の主義主張とか、あるいは豊かな生活を手に入れるための出世とか、そういうものである。学生運動はそれぞれの主張を実現するために機動隊と体を張って戦ったのだし、モーレツ社員たちは自分の出世を夢見て会社にすべてを賭けて戦った。ところが、この「萌え」の対象としての「美少女」の発見の時代には、男性にとって「そのために戦わなければならないもの」は失われてしまった。男性にとって「戦う根拠」はいまや「女性」だけになってしまった。

 「美少女」に「萌え」る男性にとって、「美少女」とはそういう「女性」の代表でもある。男性は「美少女」のために戦わなければならない―というより、(「萌え」感情を抱くような)男性が何かのために戦うとしたら、それは「美少女」のためでしかなくなってしまった。美少女は男性が「戦う」ための唯一の根拠になったのだ。

 ササキバラ氏はこれも『カリオストロの城』で説明する。『カリオストロの城』のルパンは「泥棒」として財宝を手に入れるために戦っているのではない(「クラリスの心」は財宝ではないとして―ということだろう)。クラリスのために戦っているのである。

 しかし、戦いが終わって、その戦いの目的が手に入りそうになったとたん、ルパンはクラリスの前から姿を消す。ルパンは自分がクラリスを傷つけてしまう存在だと気づいたからだ。

 これまでルパンはクラリスに暴力をふるう者たちからクラリスを守るために生命の危険を何度も冒して戦ってきた。ルパンが戦うための根拠はクラリスにあった。だが、その「敵」がいなくなったとたん、自分自身がまさにクラリスを暴力によって傷つけうる存在だということに気づいた。自分がクラリスを暴力によって傷つける存在なのなら、自分も消えなければならない。だからルパンは去ることを選ぶ(クラリスがついて行きたいと言うのを拒んでクラリスを置いて行ってしまうのである)。そういう説明になるのだろう。

 「美少女」のために戦わなければならないのに、その「美少女」が自分の手の届く存在になったても、「美少女」には手を触れることすらできない。男性が自分の暴力性を認識してしまうためだ。それが一九八〇年代前半の男性が抱いていた「困難」であり、そこで行き詰まった男性の「後退」が始まるとササキバラ氏は言う。

 この「困難」を象徴しているのが宮崎駿と富野由悠季の一連の作品だというのがササキバラ氏の位置づけである。

 宮崎駿は、「美少女」を至上の存在と位置づけたために、たんに「男性に傷つけられる脆弱な存在」と描くのに耐えられなくなり、そうではない「美少女」を描き始めた。ところが、その結果、『風の谷のナウシカ』(ササキバラ氏が言及しているのはアニメ版のほうだけである)以降の作品では、男性キャラクターにはせいぜい「美少女」を支える補助役としての役割しか与えられなくなり、どんどん影が薄くなっていってしまう。他方の富野由悠季は、逆に「戦う根拠」としての「美少女」を描かないことにしたために、男性の「戦う根拠」を描けなくなってしまった。そのためアムロは戦場から逃亡しなければならなくなる。富野由悠季は、そこで、その「戦う根拠」としてニュータイプという概念を創造しなければならなかったが、そのために『ガンダム』シリーズの物語は自縄自縛に陥っていく。

 私はどちらもむちゃな作品解釈だと思う。あたっている点がないとは言わないけれど、少なくともこう言い切るために検討しなければならない多くの点をすっ飛ばしすぎている。たとえば『ガンダム』シリーズの話は『Ζガンダム』からいきなり『Vガンダム』に飛ぶ。「戦う根拠」としてアムロとシャアがいささか唐突に女性の存在に言及した『逆襲のシャア』についてはササキバラ氏は一言も触れていない。だがその議論は後回しにしよう。

 なお、ササキバラ氏がここで「一九七〇年代の転換」を重視している点は、東浩紀氏の「ポストモダン」的「オタク」論とも共通するものがあって興味深い。どうやら、「現代思想」や現代社会論の方面から「萌え」に接近したい論者にとって、「萌え」は学生運動のつづきとして意識されているようだ。

 

 一九八〇年代後半以後の突破と新たな「後退」

 さて、このような男性の困難は、「美少女」も内面を持っており、男性とセックスすることが可能だという一九八〇年代後半の展開によって突破される。「美少女」はもはや傷つきやすいだけの存在ではない。「美少女」の内面を理解して接するならば、「美少女」は傷つかず、かえって「美少女」の側から男性に深く接してくれるようになるかも知れない。

 一九八〇年代前半までの「美少女」は、一方的に男性を愛することはあったけれども、それは神の恩寵やきまぐれみたいなものであり、男性側の働きかけによるものではなかった。一九八〇年代までの「美少女」は男性が働きかければ傷つき壊れてしまうだけの存在だったのだ。しかし、一九八〇年代後半以降の「美少女」は、男性の働きかけによって男性を愛してくれるかも知れない存在になった。それを象徴するのがギャルゲーである。ギャルゲーでは、プレイする男性が、提示される選択肢のうち一つを選択しないと先へ進めない。ほうっておいても勝手に男性を愛してくれたりはしない。男性の選択の結果として、「美少女」は男性を好きになったり嫌いになったりするわけだ。

 ところがここに新たな「後退」の芽がある。男性は「美少女」によって提示される選択肢を選ぶだけの存在になってしまい、男性自身が無個性になってしまう。男性は、「美少女」が何を望んでいるかを推測し、その推測の結果にしたがって行動を選択するだけの存在になってしまう。男性と「美少女」との関係のなかで、男性は「美少女」の「内面」のままに行動するキャラクターに成り下がり、自分の存在を希薄なものとしてしか感じられなくなってしまうのだ。

 だが、男性は言うまでもなく無力な存在ではない。やはり「美少女」を傷つけうる存在なのだ。一九八〇年代前半の段階では、男性は「美少女」を傷つけうるということが、男性は「美少女」に触れれば絶対に傷つけてしまうものだと意識されたために、男性の「後退」が起こった。だから、男性は「美少女」に触れることのできないまま、ラブコメやパロディに逃げなければならなかった。だが、一九九〇年代以後に起こっているのは逆の現象だ。男性は自分が「美少女」に従属する希薄な存在だと認識してしまうばっかりに、今度は自分が「美少女」を傷つけるという可能性に気がつけなくなってしまっている。この危険な「後退」が起こっているのが現在の状況だとササキバラ氏は言う。

 

 ふたたびひとまず整理

 「戦う根拠」を失ったときに男性は「萌え」という行動に走り、その対象として「美少女」を発見した。そして男性にとって「美少女」は唯一の「戦う根拠」になった。その男性たちの前にまず「美少女」は「傷つきやすい存在」として現れ、男性は「美少女を傷つけてしまう自分」を自覚するために、その「美少女」に触れることができなかった。これが第一の「後退」であり、宮崎駿と富野由悠季はみごとにその罠に引っかかってしまった。その後、「美少女」の「内面」を持ち出すことでこの「後退」は克服された。だが、今度は、男性たちが「美少女」に対してあまりに自分を無力だと認識しすぎたために、男性自身の「暴力」に気づくことができず、「責任」を取ることのできない存在になってしまった。ササキバラ氏の男性論をまとめるとこんなふうになるだろう。

 

 一つの男性論としてはあり得るだろうが……

 ササキバラ氏の男性論は、一つの男性論としてはあり得るだろうなとは思う。

 ただし、残念ながら、私自身は、自分のこととしても、自分の周囲の男性のこととしても、この議論を正しいと実感することはできない。私自身は、一九八〇年代には自分の暴力性を意識しすぎて優柔不断になり、一九九〇年代には自分の無力さを感じすぎるために暴力的になっているような男性ではないと思う。しかも私の周囲にもそんな男性はいない……と思う。

 もしかすると、一九八〇年代には「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言われて気恥ずかしがっていた日本人が、一九九〇年代以降には『プロジェクトX』的な日本のすごさを信じたがっているという日本社会の気分の変化がササキバラ氏の意識にはあるのかも知れない。あるいは、まだ日本が再び少しでも戦争に関わることに強烈な拒否感を持っていた一九八〇年代前半の日本人から、テロや近隣の核武装国家の脅威におびえて「対テロ戦争」体制への参加を認める二一世紀初頭の日本人という転換を説明したかったのかも知れない。そして、その説明としてこの「萌え」から見た男性像の変化という考えかたを提示している知れない。

 けれども、おそらく「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と持ち上げられるのをいやがり、アメリカの攻撃潜水艦へのトマホークの配備に反対していた日本人の多数は、「美少女」に「萌え」を感じたりはしていなかっただろう。現在、『プロジェクトX』的な日本のすごさを信じようとし、対テロ戦争への参加を正当化しようとする日本人の多くが「美少女」に「萌え」を感じてもいないだろう。たしかに重なる部分は存在する。その重なる部分に本質がよく表れているという議論もあり得るだろう(東浩紀氏はそういう方向で考えているようだ)。だが、そのためには論証が―少なくとも立場表明が必要である。

 

 ササキバラ氏の『カリオストロの城』論

 また、ササキバラ氏がまんが・アニメ・ゲームの歴史についてはきちんと目配りして議論を進めていることはよく理解できる。ササキバラ氏の男性論が、私の実感に一致するかどうかは別として、一つの流れとして描かれていることも理解できる。

 だが、「萌え」・「美少女」論と男性論のつながりはと問うと、やっぱり牽強附会な議論運びがあちこちに見られる。

 たとえば、一九八〇年代の「美少女」像の典型として持ち出されている『カリオストロの城』である。

 ササキバラ氏は、ここでルパンがクラリスを救う根拠は、クラリスが「美少女」だからという以外にないという。また、クラリスがルパンを愛しているのにも何かの理由があるわけではなく、神の恩寵のようにクラリスはルパンという卑小な存在を一方的に愛してくれる存在だという。それが、「美少女」戦う根拠でありながら、「美少女」に手を触れることができないという一九八〇年代の男性論へとつながっていく。

 ところで、ササキバラ氏は、『カリオストロの城』が『ルパン三世』シリーズのなかで異端的な存在だと認めて議論を進めている。それならば、『カリオストロの城』のルパン像も不二子像もこの二人の関係も(美少女論とはあまり関係がないが、五右ヱ門との関係も、銭形との関係も)、シリーズとはいちおう切り離して議論しなければならない。『カリオストロの城』でルパンが「泥棒」であるとはどういう意味なのか、『カリオストロの城』での不二子とルパンの関係はどういうものなのかという点を先に押さえておく必要がある。

 ところが、ササキバラ氏は、派手な大財宝を狙うルパンと、そのルパンを妖艶な容姿で誘惑しつづける不二子という図式を『カリオストロの城』にもあてはめてこの議論を展開している。そして、女性的な特徴を隠そうとしない不二子ではなく、「地味な外見」のクラリスばかりを追うルパンと観客の男性たちのあり方を、一九八〇年代男性の特徴として指摘しているのだ。

 しかし、いかにササキバラ氏にとって「意味不明な展開の連続」であっても、この映画の物語上は、なぜルパンがクラリスを救おうとするか、またクラリスがどうしてルパンを愛するのかということはいちおう説明されている(私にとってはここのササキバラ氏の文章のほうがよほど「意味不明な展開の連続」である)。クラリスは最初はルパンから逃げようとするし、そのすぐ後でもルパンに指輪を託して逃げたりする。このときのクラリスはたぶんルパンが指輪を持って公国外に逃げてくれるだろうというぐらいにしか考えていない。そのあと、外から救出することが不可能に近い塔の上までルパンが救いに来たから、クラリスにとってルパンは体を張ってまで救いたい相手になるのだ。他方のルパンにとっても、クラリスはずっと昔に瀕死の自分を救ってくれた優しいお姫様である。女ならばだれでもいいわけではないとルパンは映画のなかではっきり言っている。

 それを「説明にならない」という立場もあり得るだろう。だが、そのためにはそう言うための根拠を明示することが必要だ。ササキバラ氏はそれをやっていない。

 ついでにいうと、『カリオストロの城』だけを見るかぎり、不二子はほとんど女性としてのセックスアピールを強調する服装をしていない。だから、この作品についてだけ見るかぎり、クラリスが一方的に「地味な外見」をしているとも思えないのだが。

 

 ササキバラ氏の『ガンダム』シリーズ論

 富野由悠季と宮崎駿という対比も、それ自体はわからないではない。

 だが、『ガンダム』シリーズに「美少女」は登場しないのだろうか? 私には『ガンダム』には多数の「美少女」キャラクターが登場し、それが男性キャラの「戦う」理由づけに多少なりとも絡んでいるように思えるのだけれど、それは私の観かたがおかしいからなのだろうか?

 さらに、ササキバラ氏は最初の『ガンダム』でアムロが軍を脱走する場面を大きく取り上げている。しかし、この脱走のエピソードの後には、アムロが自ら戦うことを選択し、軍に戻って行くするエピソードがあったはずだ。

 『ガンダム』の女性キャラやその女性キャラに「萌え」た男性たちの存在を無視するならいい。『逆襲のシャア』でのアムロとシャアのやりとりを無視するのもかまわない。最初の『ガンダム』でアムロが脱走することだけを大きく取り上げ、けっきょく軍に自分の選択で戻っていくことを無視するならそれでもいい。けれども、この作品をそういうふうに観るならば、そう観ることの根拠が必要だ。

 

 結びつけかたに難があるのでは?

 もういちど繰り返す。この本は、一九七〇年代〜九〇年代のまんが・アニメ・ゲームの流れをまとめた本としても一つの整理のしかたをわかりやすく示している。また、それと同じ時代の男性論としても、私自身は実感できないにしても、一つの仮説をきちんと提示しているとは思う。ただその結びつけかたには多少の難があるのではないだろうか―というのが現時点での私の評価である。

 

 男性論の仮定―「根拠」は何か?

 さらにもう少しだけ議論を進めてみたい。

 ササキバラ氏の男性論は一つの仮定に基づいて成り立っている。男とは戦うものであり、そして戦うためには根拠が必要だという仮定だ。

 だが、男に根拠が必要だと、いったいだれが決めたのだ?

 人間は行動するのにいちいち根拠が必要なものなのだろうか? 少なくとも私にはそんなものは実感できない。もちろん自分の行動を決めるときにいろんな根拠を見つけ出すことはできる。でも、人間が生活のなかでそれぞれの行動に「根拠」を見出すとすれば、そのほとんどは自分の生存を維持するためであり、せいぜい自分のいまの生活を続けるために必要だからであろう。少しぐらいは「この仕事は自分の天職だと思うから」とか「興味があるから」とかいう根拠も出てくるかも知れない。あとはたんに「それが習慣になってしまったから」というのがけっこう多くの部分を占めている。たしかに「愛する女性のため」というのもあるかも知れない。だが、それが、一九七〇年代が終わったあとの日本社会で特権的に「男が戦う唯一の根拠」になっているとは私はとうてい思えない。

 ここでササキバラ氏が言っている根拠というのは相対的で一時的なものではない。絶対的なものであり、よほど大きな挫折がないかぎり、男性が一生抱きつづけるような大きなものである。

 そんなものがあるのか?

 それは、じつは、キリスト教的な「神」に対してヨーロッパ人が古くから抱きつづけた感情を置き換えただけの仮想的な存在なのではあるまいか?

 ヨーロッパ現代思想を語るうえではそういう意味での根拠は重要なのだろう。ヨーロッパ思想は、キリスト教的な「神」の存在が絶対のものだという前提が疑われもしなかった時代に作られた体系を基礎にして成り立っているのだから。ヨーロッパ現代思想は、そこからさまざまな概念やことばを借用し、またキリスト教的な「神」とは無縁のはずのさまざまな概念やことばを作り出して、それによって「神」の必要のない体系を作り上げようと苦闘している。しかし、「神」の存在を否定しようとも、また「神」とは関係のないところから議論を始めようとも、どこかに「神」が絶対的な中心として存在したころの名残りが出てきてしまう。それを考えるとヨーロッパで「神」を排除して思想体系を組み立てる困難が理解できるだろう。しかし、キリスト教原理主義者やキリスト教信仰を政治的に利用しようとする政治家は別として、二〇世紀以後の現代思想家は、「神」を中心として議論を組み立てることはもうできない。だからこそ、「神」ではなく、しかも「神」に対抗できる絶対的な根拠が必要なのだ。ヨーロッパの一般民衆の人びとがそこまで律儀に「神」の存在を気にしているかどうかは知らないが、少なくとも思想家にとっては「神」は避けて通れない仕組みなのである。

 しかし日本社会にはそういう心性は存在していない。民衆のなかにだけではなく、思想家の伝統のなかにも存在していない。もしかすると一向一揆や法華一揆が起こったような時代にはそんな心性はあったかも知れない。だが、江戸時代に入って幕府が宗教統制を強めるとそのような心性は消滅してしまった。

 そういう社会の男性が、自分のことを戦わなければならない存在だと規定し、しかも戦うためには絶対的な根拠を必要としており、その根拠になるものは「女性」でしかなくなってしまったという仮定の下に、ササキバラ氏の「男性論」は展開される。しかし、それは、やっぱり日本社会の現実の説明としては成り立たないのではないかと私は思っている。

 私から見ればササキバラ氏はあまりに根拠なく「根拠」というキーワードを使いすぎているように見える。

 むしろ、日本社会では、「女性を唯一の絶対的な根拠として生きる」などという立場の表明はマチズム(マッチョ気取り)やダンディズムの一つとして受け取られるのがふつうではないだろうか? 好きな女の子のために戦う、リングに上がる、甲子園へ行く―などと言ったり行動で示したりすれば、本人がいくらまじめにそう思っていても、ほかに根拠はいくらでも見つけられそうなのにあえて「女」を挙げる心理的余裕、カッコよさの表現だと解釈されるのではないだろうか? そうでなければたんなる冗談として笑い飛ばされるかも知れない。いずれにしても、それが「他に絶対的な根拠を見つけられない男性の宿命」などと解釈されることなどめったにないと思う。

 ササキバラ氏の男性論はやっぱり強引だと私は思う。それは、「萌え」論自体の牽強附会さを別にしても、その「萌え」論をほとんど何の検証もないままに「日本社会の男性」論に拡げているからだ。このような議論が成り立つためには、一九七〇年代までの「戦う男性」が一九八〇年代以後の「萌える男性」に相当することを根拠を挙げて十分に論証しなければならないだろう。また、七〇年代までの「戦う男性」がその時代の「日本社会の男性」一般を代表し、八〇年代以後の「萌える男性」がこれまたその時代の「日本社会の男性」一般を代表することについて、やはり根拠を挙げて論証することが必要だと思う。

 だから私はササキバラ氏に問いたい―その根拠は何なのだ、と。

 

 ※ この文章はホームページ「さんごのくに」http://www.kt.rim.or.jp/~r_kiyose/上に二〇〇四年九月に発表した書評http://www.kt.rim.or.jp/~r_kiyose/review/rv0410.htmに手を加えたものです。

 

 

 

(2004/12)

 

 


WWFNo.29のページへ戻る