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アニメーション映画「イノセンス」

 

 

鈴谷 了 


  

 

 今回のイノセンス本に原稿を書くつもりで、引っ越しのどさくさで時間は過ぎるわ、〆切を勘違いするわといったアクシデントもあって、へーげる奥田氏の温情がなければ、原稿を書くなんてとてもできないところだった。

 正直なところ、『イノセンス』についての意見とか感想といったものはまだきっちりとまとめられているわけではない。第一、ソフトがまだリリースされていないので、劇場で3回見たとはいえ、そのすべてを咀嚼して出せる段階に達しているとは言い難いものがある。

 ただ、劇場で見たときからいろいろ感じていることはある。そこで、今回はそれを雑談風に出してみよう。それが何らかの問題提起ができるかどうかはわからないけれど。

 

 

 押井アニメ『イノセンス』

 

 スタジオジブリと鈴木敏夫プロデューサーは、この作品をできるだけ従来の押井作品からは切り離して売ろうとした。作中の設定上最低限知識が必要とされる『攻殻機動隊』を別にすれば、それ以外の押井作品は「ないもの」として売り込もうとしたのである。その売り方については賛否両論あるだろうが、それについての深入りはここでは避ける。

 しかし、肝心の『イノセンス』の中には、それに抵抗するかのように、過去の押井作品にかかわる場面などがいっぱい出てきた。バトーの「避けたさ、可能な限り」とか、ぞろぞろガイノイドが沸いてくるあたりは劇場版『パトレイバー』だし、紅塵会の場面は『紅い眼鏡』や『灰色の貴婦人』を連想させる。何より、主人公が何かを探してあちこち動き回りその果てに「異界」に渡って戻ってくる、という構成は多くの押井作品で見られるものだ。

 こうした描写のうちどの程度までが「確信犯」で、どの程度までが自然と出てくる「習い性」なのかはわからない。こういう場面が出るたびに喜んでいると「だから押井ファンは……」という声が、そうではない人たちから出てくるのだろうなとは思う。けれども、それは同時に、「世界的な監督」と祭り上げようとする人たちに、日本のアニメという、どこか貧乏くさくて家内制手工業で……という「出自」の痕跡を残しておきたい、という欲望のようにも見える。ちょうど宮崎駿がどんなに世間から持ち上げられても、少女を出すことをやめないことにも通じる。

 カンヌで賞を逃したことで、多少そがれたけれど、この『イノセンス』を日本のアニメから切り離してしまおうという雰囲気が公開の頃には少なからずあった。いわばそれに対して作中でちゃんと押井守は「答えて」いるようにも思える。

 

 

 ゴーストハック?

 

 電脳社会・人体のサイボーグ化……そうしたキーワードから『イノセンス』を見れば、非常に先端的な、もうすぐ来る「未来」を捉えた作品であるかのように感じるだろう。さしあたってそれは決して間違いというわけではない。士郎正宗の『攻殻機動隊』にしてからが、さまざまな生命工学などにまつわる蘊蓄を作中のみならず欄外で語っていることはよく知られている。しかし、だからといって、それが自分たちから遠くかけ離れた未知の世界を描いていると考えるのも正しいとは言えない。

 バトーとトグサがキムの館で強烈なゴーストハックを受ける描写がある。さっき入ったはずの館にもう一度入り、同じ会話をしながらどこかが少しずつ違っている。けれども、さっきの記憶と今の記憶がどこで切り離されるのかは最後まで見ないとわからない。

「なんだ、『ビューティフルドリーマー』といっしょじゃないか」という向きもあるかもしれないが、そうした声はさておくとして、この場面、初めて劇場で見た観客もトグサたちと同じようなとまどいを少なからず体験したはずである。少なくとも筆者はそうだった。それはトグサとバトーの体験を通して、ということになるだろう。しかし、ことはそう単純ではない。映画撮影のテクニックとして、観客の見ているものは必ずしも劇中の人物と同じではない。劇中の人物と同じ視点で展開される場面もあるが、劇中の人物を見下ろす別の視点の方が映画には多い。そして、この一連のゴーストハックの場面は、この二つが巧妙にない合わされてできている。つまり、トグサやバトーがゴーストハックされているときに、私たちもまた映画の作り手によって「ゴーストハック」されているというわけだ。

 この見方は突飛なものだろうか? 実のところ、映画というシステムは人類が初めて手に入れた、「外界から隔絶した視覚を連続的に与えることによって疑似体験を味わわせる」という仕掛けなのである。

 単なる「バーチャルリアル」というならば、その起源は人類史の中でもかなり古い時代に遡ることができる。一〇円玉の表面に刻まれておなじみの宇治平等院は、当時信じられていた「極楽」の世界を現世で体験できる「浄土庭園」というバーチャル施設だった。ただ、その浄土庭園が本当の極楽かどうかは誰も知らないわけであるから、「ここは極楽だ」と受け止めるには、かなりの部分で個人の「思いこみ」に頼らざるを得ない。

 あるいは、各種の演劇の「約束事」にしてもそうである。「これは……ということになっている」という予備知識を持った上で見なければ意味を持たない。

 しかし、映画は違った。そうした予備知識がなくても、「よく知っている現実」がそこに立ち現れて人々に否応なく体験させることが可能になった。映画の草創期に、スクリーンの中を走ってくる汽車の映像に観客が驚いて逃げようとしたというエピソードがある。今ではそれは笑い話のように語られるけれど、時間が経って人々が映画というシステムの「約束事」を知識として持つようになったからに過ぎない。

 『イノセンス』がお客を「ゴーストハック」しようとしたことは、言い換えれば、バーチャルリアル施設としての映画の原点に返る描写だったのかもしれない。このあたりは『トーキングヘッド』の中でさんざん語ってきたことであるが、実は『イノセンス』だって映画論映画でないという保証はどこにもない。

 

 

 アニメーション映画の中の「実存」

 

 人間の身体感覚が空疎化する中で、「外の体」としての犬が実存だ、というようなことを押井守は公開前に結構語っていたように思う。サイボーグ化が進めば、人間と人形あるいは機械との境界はどこにあるのか?という問題意識が今以上に浮上するという観点で、『イノセンス』の「人間=人形」論は語られているように見える。しかし、たとえサイボーグ化が進んだとしても、個体と種族の維持のためにヒトは必要とされる行動を取り、そのたびに「実存性」を感じるに違いない、という迷信に近い考えが私たちにはある。感覚の力によって、個体や種族の維持行為を発生させる衝動が「欲望」という形で立ち現れてくると信じているからだ。

 しかし、この映画の中で種族の維持、すなわち生殖という行動が「神の摂理」として行われているという考えに対する異論が語られる。ご覧になった方には言うまでもないが、ハラウェイは「ヒトが子どもを欲するのは、似姿としての人形をほしがるという動機に基づくものだ」という持論を述べる。では、もう一つの「欲望」、つまり個体維持に関わる行動はどうだろうか?

 空腹というシステムが、満腹中枢という器官による反応であるという事実を知っていても、私たちは食べ物を取り込むことによって、満足感とともに自分が生存しているという感情を意識する。まあ、食べたものがまずい場合には必ずしもそうではないかもしれないが、それは例外というものだ。

 で、実は『イノセンス』においてまともに「食事」をするキャラクターは、実のところバトーの飼い犬であるバセットハウンドしかいない。ほかには、帰宅したバトーが缶入り飲料を口にする場面があるに過ぎない。紅塵会に殴り込んだときには、向こうの面々は豪華な晩餐? に入ろうかというところだったが、実際に食べている場面はなかった。あ、あとキムの館で出されたコーヒーがあったな。でもこれも飲んでいる描写は出てこなかったと思う、けど違っていたらごめん。仮に飲んでいたとしても、「食べる」という行為とはちょっと違う。

 これはずいぶんと禁欲的な描写ではないか、というのが私の印象だ。実際のところ、押井守は食べるという描写が好きな作家である。特に実写映画ではカップラーメンやエビをやたらと食べたりするし、(『トーキングヘッド』にはなかったかも)『アヴァロン』でもアッシュはゲームの「外」の日常でまずそうな夕食を食べる場面があった。(犬に餌をやる、という描写はここからの引用でもある)アニメだって、あまりにも有名な牛丼を筆頭に、『ビューティフルドリーマー』では巨大焼きそばとかお好み焼きとかを集団で食べ、『迷宮物件』ではそうめんすすっていたし、『御先祖様万々歳!』でもすき焼き食べる場面とか立ち食いそば屋の場面とか出てきた。劇場版『パトレイバー』では遊馬と野明がピザ屋に行く場面があった。(もっとも食べる部分はなかったような気がする)

 小説でも『TOKYO WAR』だと荒川の一味が狭い立ち食いそば屋で揃ってそばを食べているという、映像化したら抱腹絶倒な描写があり、『灰色の貴婦人』には紅塵会を彷彿とさせる、ホテルでの満貫全席なパーティーの場面があった。

 しかし、『イノセンス』では人はものを食べない。アニメーションでものを食べる描写をやっても意味はない、という意図で抜いたのではないことは、ここまであげた過去の作品を見ればわかる。こうした傾向は『パトレイバー2』あたりから出てきたものだろうか。小説版の『TOKYO WAR』には前にも書いた通り、食事をする場面が出てくるにもかかわらず、もとになった映画(『パトレイバー2』)の方でものを食べる場面といえば、せいぜい警備の任務に渋々就いた後藤がコンビニおにぎりをほおばる場面くらいなものだろうか。あと、『天使のたまご』も少女が水を飲む場面くらいしかなかったような気がする。

 この「格差」の意図がどこにあるか、もともと意図を持ってやっているかどうか、それはここで詮索しても始まらないことだろう。ただ、一つ言えることは、キャラクターたちがものを食べないことによって、その「実存」に向き合う機会を(私たちが見ることのできる画面に置いては)奪われている、ということである。(そう考えると、逆説的な意味において、排泄行為もまた「実存」に向き合う機会ということができるだろう。もっともこれはあえて映画、とりわけアニメーション映画で描くべき性質のものではない。まあ『魔女の宅急便』のような例外もあるが)

 「実存」と向き合う機会が減ることは、人間であるかどうかを確かめる術が狭められることにつながる。お人形のようなアニメキャラを形容するのに「ウンチもオシッコもしない」という言葉が揶揄的に使われたことがあるが、いわばこの映画はそれを間接的に追認している、といったら言い過ぎだろうか。

 もともとアニメーションというメディアはデフォルメをするところからスタートした。だから、本質的でないと思われる部分は徹底的に排除もしくは簡略化されたのである。そこでは「実存」性などということは問題にもならなかっただろう。ものを食べるという描写があったとしても、それは現実の人間が食べるのを記号化して描いているに過ぎない、という例が圧倒的に多かったはずである。

 だが、ある時代から日本のアニメが(物理的な絵としての)描写の細密化という方向に進み出し、その描写をベースとしてキャラクターの自意識を描くようになり始める。ここで初めてキャラクターの「実存」性が問われる段階がやってきた。『イノセンス』はそうした流れの延長にあるにもかかわらず、「実存」のありようをどんどん希薄にするような演出と作品内容を伴っているのだ。

 そうした傾向は『パトレイバー2』においてもすでに萌芽が見えていた。劇場版『パトレイバー』と同じ世界設定であるのに、キャラクターの設定ははるかに細密でリアルになっていた。けれども、それとは裏腹にこの映画はキャラクターの持つ「自我」のありようが、それとは正反対に前作よりも見えにくくなっている。帆場の「悪意」はある意味できわめて明瞭である。しかし、柘植の意図がどこにあるのかは帆場に比べるとずっとわかりにくい。不倫という過去を白日の下に晒されるしのぶにしても、今の職を擲つことを覚悟で後藤のもとに集まった元第二小隊の面々にしても、そこから想像されるドロドロした葛藤はこの映画でほとんど描かれることはなかった。反対にアニメーション的な感情のオーバーな表現もなかったが。『パトレイバー』を語ることが本稿の目的ではないのでこれ以上の深入りは避ける。

 だが、そもそもアニメーションのキャラクターが「実存」を持つということがおかしいのではないのか?

 

 

 アニメーションキャラクターの比喩としての「人形」

 

 『攻殻機動隊』『イノセンス』と続く一連のシリーズでは、ほとんど擬体化・電脳化してしまった人間にとっての「アイデンティティ」のありようは何か、という問いが語られる。そこに残るものは「ゴースト」であって、それはネットという仮想空間の中に遍在しながら偏在もできる(字を間違っているわけではない)、個体という呪縛を解き放たれた存在ということになる。この考えは霊魂と体は分けられる、という世界観につながっている。逆に擬体というのは、主体を持たない器にすぎないというわけだ。(生身の体でも同じことであるが。ちなみに『西遊記』の世界では、世俗の人間の体を「凡骨凡体」と呼び、玄奘三蔵が孫悟空のように雲に乗れない理由として説明される。聖なる体になることで雲に乗ってはるか遠方に行けたり、自らの分身を作ることができる、という世界観は、この『攻殻』シリーズを想起させる)

 異なる擬体に入っても、ゴーストが同じならばそれは同じ「人間」として認識される、という描写は、前作『攻殻機動隊』のラストシーンに代表される。「人形使い」との融合を果たした素子のゴーストは、少女型の擬体の中に納められている、という下りだ。(この描写自体は原作からの引用)さて、この場面で素子の声を担当したのは田中敦子ではなくて、当時中学生だった坂本真綾だった。いわば、「声」は擬体に付属する「属性」の一つに過ぎず、「ゴースト」に固有のものではない、という考えをあらわした演出だった。 それに対して、すでにネットの中にしか存在しない『イノセンス』の「少佐」の声を演じたのは田中敦子だった。パンフレットなどを見ると、前作と同じキャストを起用するかどうかについてはスタッフの間でも議論があって、すんなりと前作と同じキャストに収まったわけではないようだ。おそらくその中でもっとも「キャストを変える」ことの意味が切実だったのは「少佐」であろう。すでに擬体から離れてしまった「少佐」の声は別に田中敦子でなくてもよかったはずだし、今や歌手・声優として活躍中の坂本真綾を起用するという手もあったであろう。あるいは全く別の声を使ってもかまわなかった。

 田中敦子の声を使ったことについては、一応作中の論理でも説明はできる。すなわち、バトーにとってもっとも馴染みのある素子の声を、「少佐」のゴーストは選んで使ったのだという解釈だ。(キムの強烈なゴーストハックのところで、前作の最後に素子が収まった擬体がバトーたちにヒントを指し示すという描写がある。これもつまり「少佐」のゴーストがハッキングをかいくぐってバトーたちに手がかりを与えようとした行動ということになる)これは不自然ではない。しかし、少女型のガイノイドに入ってもやはり田中敦子の声というのは、前作での描写とは合わない。

 そうした作品の整合性(まあ「前作をほとんど意識しない売り方」をしたのは前に述べた通りだが)を無視してまで、『イノセンス』がこだわったのは、アニメーションのキャラクターが「ゴースト・(擬)体」の関係ときわめてよく似ているという事実、もっと簡単に言えば、キャラクターにとっての声優が、身体にとってのゴーストとパラレルな関係にあるという点ではないだろうか。紙に書かれたキャラクターはそれだけではただの絵に過ぎない。観客にとってキャラクターの「実体」を担保してくれるのは声優によって演じられる声である。その声優は生身の人間であり、独立した一つの個人だ。そして声優は多くの場合いろんなキャラクターの「ゴースト」となりうる。が、逆に同じキャラクターであっても声優が変わると、多くの観客はそこに違和を感じ、場合によっては別のキャラクターのようにみなしてしまうことも少なくない。

 かつて押井守は『トーキングヘッド』の中で、動きと声を付ければあらゆるものがキャラクターとなる一方で、観客のイメージによって補強されたイメージのみで実体を持たないのがアニメーションのキャラクターではないか、と(作中の登場人物を通じて)語ったことがある。その「実体」を仮にも与えてくれるものが声優であろう。

 声を持たないキャラクターは、まさに「人形」でしかない。声優によってキャラクターはキャラクターたり得る。しかし、その存在の危うさは、人間・サイボーグ・人形という関係よりもさらに切実である。

 この『イノセンス』においては、殺人自壊事件を起こすガイノイドの「向こう側」に生身の少女の人格がセットされており、その少女の「抵抗」として殺人自壊事件が起きていたという顛末が語られる。このガイノイドが「メイド型」と呼ばれ、性的利用に応じたセクサロイドというものも存在する……というのは単なる偶然なんだろうか。キャラクターの向こう側に、観客が実体を(普通なら)見ることのできない声優がいて、その声優が

キャラクターの「個性」を作り上げているというという事実の相似形として見ることは、『トーキングヘッド』の影響のせいだろうか。

 庵野秀明もかつて『エヴァンゲリオン』において、綾波レイのキャラクターを、実体に欠けるものとして描いたことがある。感動的な自己犠牲を遂げたあとで、奇跡的な生還かと思えば実は「三人目」にすぎず、さらには、大量の「器」が用意されていて、それレイの素材になっているという事実を暴露する描写は、アニメーションのキャラクターが持つ「約束事」を露悪的にえぐり出すようにも見えるものだった。さらに劇場版では、各キャラクターの声優が、そのキャラクターのコスプレをして歩く実写のパートまで含まれていた。

 押井守と庵野秀明の問題意識はたぶん完全には一致しないだろう。(あたりまえだが)しかし、作風と世代に違いのある両人が、ともにキャラクターの不確かさを描くのは、アニメーションに携わるうちに、アニメーションキャラクターが持つ奇妙な属性を意識せざるを得なくなったからではないか、と思いたくなる。

 なぜ人は人形を愛するか、という問いは、なぜ(一部の)人は紙に書かれたアニメーションキャラクターを愛するか、という変換することもできるかもしれない。もちろん、人形の持つ「不気味さ」がその物理的実体が持つ「なまめかしさ」に由来する部分があるのに対し、アニメーションキャラクターにはないという違いがあるにしても、である。

 押井守が球体関節人形展などを通じて語った「人形」についての話は問題意識としてははっきりあるのだろう。それが『イノセンス』のキーになっていることも否定しない。けれども、どこかでそれを隠れ蓑にアニメーションについて語ろうとしていたのではないか、という疑念を筆者は抱いている。

 

 もっといろいろと語りたいところであるが、すでに時間がない。

 DVDを見ればまた新しい発見ができるかもしれない。『イノセンス』というのはそういう作品である。

 でも、あのキムの館での「ゴーストハック」の体験は、映画館で最初に見るのと、テレビで最初に見るのではずいぶんインパクトが違うように思うなぁ……。

 

 (2004/07)

 

 


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