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イノセンスのための弁明

 

 

へーげる奥田


  

 

 みなさん『イノセンス』観てムカつきますか?

 

 もうご覧になったでしょうか、押井監督の『イノセンス』。おそらく、こういった同人誌をお買い求めになるような方はすでに何度か観ている確率が高いようにも思いますが、基本的に「すでに『イノセンス』を観ている方」を対象に文章を書くつもりでおりますので、もし観ていない方におかれましてはネタバレ的な状況があるかもしれません。そのあたり、ご注意下さい。

 

 ところで『イノセンス』は、2004年5月12日に南フランスのカンヌで開幕する第57回カンヌ国際映画祭のコンペティション部門にノミネートされ、みごとに落っこちました。そのとき、イギリスの記者がウェブサイトに評を書いていましたが、思わず笑いがでるほど天晴れ見事な悪口評でしたね。

 この他にもいくつかのサイトで『イノセンス』を酷評している記述を見ましたが、特徴として「世界観や設定が何だかよくわからない」「古典の引用がたくさんでてきてくどい」というような内容が共通していたように記憶しています。

 わかるような気もします。実は私も、最初に観たとき、かなり違和感を感じたのを記憶しています。それはなんといいますか、座り心地の悪さといいますか、脳の疲労感と言いますか、洗練されすぎで嫌味っぽいといいますか、ちょっと食べ過ぎちゃってうぇ〜キモチ悪い、というような感じでしょうか。

 さて、あなたは『イノセンス』を何度ご覧になったでしょうか? 自分の経験でも、また他の複数の評者の意見を参照してもこの結論を得るのですが、この作品に対する評は、鑑賞者がその作品を観た回数によってかなり異なるように思われます。

 まだ観ていない方は、できれば観た方がよいでしょう。今となっては難しいことではありますが、可能ならば劇場で、少し前の方の席で観ることをお奨めします。この映画は、そんなに大それた作品では必ずしもないし、観なくても何かトラブルが生じるという性格のものではありませんが、この文章を読むような方にとっては、この映画を観ないでいるのは人生において若干の損をしていると私は思います。

 大半の方は、この映画を一度だけご覧になっていると思います。どうですか? なんだか不愉快ではありませんでしたか? CGスゴイって前評判があったけど、あの手の映像はファイナルファンタジーとかで既出という感じだし、むしろフル3Dと違って従来アニメっぽいキャラクターと背景との違和感が目立つし(それすら『青の6号』とかで観た記憶があるし)、何だか難しい名言引用のセリフがこれでもかと続くもんだから、何を言ってるのか、その言葉が今のシーンとどういう水準の意味において関係するのか、どんな隠喩や示唆が隠されているのか、脳内の語彙データベースエンジンをフル稼動して考え、一方ではストーリーを追い、さらに脳のグラフィック領域では極めて情報量の多い画面情報を解析しなくてはならなくて、どうも脳が疲れてきて、そのうちいいかげん腹立ってくる。と、そんな感じではありますまいか。私、実際「あれは、少なくとも大ヒットはしないだろう」と思ったものです。

 私が最初に観たのは、WWFのメンバーである雨読氏からもらったチケットで、配偶者と一緒に観に行った試写会でした。試写会の場合、会場の客はほとんど100%が、この映画を初めて観る客です。そして周囲の客の反応は、自分と似た感想を持った者が少なからずいたことを裏付けていました。映画が終わったあと、客席のあちこちから、「わからない」「むずかしい」というような声を聞いたのです。『攻殻機動隊』という作品自体を全然知らないひとが、今回の大がかりな宣伝に騙されて映画館に入ってしまったとしたら、こういう反応が出るのは無理もないと思いますね。   

 二度観た方はおられるでしょうか? どうだったでしょうか?

 まあ、この映画を二度観るような方は、だいたいにおいて押井守ファンかマニアかシンパか信者か原理主義者と相場が決まっていますから、否定的なところは無理矢理にでも目をそむけて肯定的な話しかしないということもあるかもしれません。しかし、そのへんをさっ引いて考えてみても、一度目よりもずっと肯定的な感想を持ったのではないではないでしょうか。少なくとも私はそうでした。

 前回よりは落ち着いた気分で作品世界に浸り、楽しむ余裕ができた気がします。インターネットなどでも、同様の意見を何例か見ましたし、この傾向はどうやらこの映画のひとつの特徴なのかもしれません。

 さらに三回目に観た時は、品川アイマックスシアターの大型スクリーンの効果もあるでしょうが、なんていい映画なんだと思ってしまいました。もう衒学的な台詞廻しに惑わされることもなく、CGの技術にも過剰な期待もせず、改めてその美しさを純粋に味わうことができたように思いました。カンヌの場においても、審査員が2回以上この映画を観ることができたのであれば、その評価はかなり違ったものになったかもしれません。

 

彼らはなぜ『イノセンス』が嫌だったのか?

 

 先にご紹介したイギリスの記者の場合、まず「『ゴースト』など、説明されていない専門用語が多くてよくわからない」というような内容を、かなりエキサイトした雰囲気の文章で書いていました。

 ごもっともです。『イノセンス』は、実は『攻殻機動隊2』ですから、『攻殻機動隊』という作品を知らない、観たことがない、といった方には不親切と言わざるを得ません。昔の作品の場合、知識のない視聴者を対象に、いろいろなフォローを入れることもよく行われていました。それが正しい知識であるかどうかはさておき、たとえば白土三平の各種の忍者ものの作品には、「忍術」や用語などの解説にページが割かれていましたし、読者に理解できない専門用語についてはそれとなく解説している作品もよくありました。今でもありますか。藤田和日郎氏の作品なんかもそうですしね。

 例えばテレビアニメーションを例に言えば、「テレビシリーズの進行上、ある用語や概念などについて、その言葉がはじめて登場するつど説明することをわざとせず、もっと後のサブタイトルになってから改めて説明することにより、作品の世界観に奥行きを持たせる」という演出手法があります。私が知る限り、これを最初に見たのは『宇宙戦艦ヤマト』(第一回放送時)でした。作中に、「カンシュハドウホウのみ出力不足」というセリフがありましたが、この言葉ははじめて聞くものであるにもかかわらずそれに対する説明がなく、なんだか斬新というか、今までのテレビアニメとはちょっと違うな、という感じを覚えた記憶があります。

 この手法は、適度な頻度で使用すれば、それなりの効果があると思います。しかし、過剰な頻度で使用すると、おそらくはある割合で、観る者に「なんだかよくわからない感」「何言ってるんだかわかんないのでついて行けない感」「もったいぶっていてムカつく感」というような、消化不良的な不快感や物語に入り込めない疎外感などを味わわせてしまうことになりかねません。これは、『新世紀エヴァンゲリオン』などにおいて顕著に現れた状況でした。

  また、『イノセンス』は、相当にソフィスティケイテッドな作品と言っていいでしょう。sophisticatedという言葉は、「洗練された」といったよい意味もありますが、反面あまりよくない意味もあります。洗練もあまり突出すると、イヤミというか、とりつきにくくなってしまうということでしょうが、『イノセンス』では古典の引用やセリフ回しのジャーゴン多用などで、かなりこの傾向が強かったと思います。これは、嫌うひとは大いに嫌いそうですね。

 ただ、こういったわかりやすい要素なら、比較的たやすく克服できそうに思えます。私自身のケースでいえば、難解な古典の引用や情報量の大きい画面が一種の「迷彩」もしくは「障壁」になってしまい、作品の全体的な流れがうまく頭に入ってこなかったことが「座り心地の悪さ」につながったらしいのですが、この「障壁」は、二度以上観ることによって回避できる可能性があることは、実験的に立証しました。

 問題は、押井守作品の作風自体が嫌いな場合です。

 「と学会」の唐沢俊一氏は、ウェブサイトの日記に『イノセンス』について記述しています。氏は、『イノセンス』は面白かったが、押井守独特の作風は評価できないというような意味のことを述べています。ちょっと引用してみましょう。

 

 ただし、その面白さというのは何に起因するかというと、私個人の非常に好む世界 であるところのB級ハードボイルドものの世界を、非常に原則に忠実に映像化してく れた、ということによって、である。この満足感はアニメ作家・押井守の、いわゆる アルチザンとしての巧さに対する満足であり、決して押井マニアの褒め称えるところ の芸術性に対するものでもなければ観念性に対するものでもない。ハードボイルド刑 事もののストーリィの描き方としては、ルーティンというよりも、むしろ先行作品群 のパスティッシュではないかと思えるほど、“どこかで見たような設定”ばかりを散 りばめてある。(略)

 

 本筋からははずれますが、どうもこの文章にもやたらと外来語の単語が混入していて意味がわからず往生しました。たとえば「アルチザン」や「パスティッシュ」など、まあ私の語彙が乏しいのが悪いんでしょうが、わざわざ調べなくてはなりませんでした。ちなみにこういう場合、原語ならそのまま辞書を引けますのでわからなくても調べられますが、カタカナ書きにしてしまうと正しい綴りがわからず、またものによっては発音が劣化してよくわからなくなり、直接辞書をひけないので大変困ります。で、「artisan」はフランス語で、「工匠。職人。職人的芸術家。芸術性よりも技術性に優れた人にいう語」のことだそうです。また「pastiche」は、「模倣作、混成画、合作メドレー《他人のいろいろな作品から借りたり模倣したりしたものの寄せ集め》」を意味するフランス語だそうです。こんなの、ただ「職人としての巧さ」とか「先行作品の模倣作」と言えばすむのではないかと思うのですが、ここはわざわざフランス語をカタカナ表記にした単語を使った方が、いかにも現代思想の素養か何かありそうで、より洗練された、あたかも頭の良さそうな文章に見えるであろうという効果を狙った文章作成上の高等技術なのでしょう。なお、ところどころに半角スペースが入っているのはなぜなのか不明ですが、たぶん何か高度な考えがあってのことかもしれないので、読みにくいけどそのまま転記しました。

 この文章をざっと読んだ限りでは、まあ早い話、『イノセンス』なんか大騒ぎするほどのもんじゃなくてただのありがちなコテコテB級ハードボイルドの作品にすぎないってことに俺様はちゃ〜んと気づいているのだが、そんなことにも気づかないで押井守を神格化しているような馬鹿なくそマニアどもの目はフシアナなのであって、俺様はおフランスのいろんな難しい単語を知っているのでそれを使った批評が書けるので俺様はすばらしく頭がいいのでたいへん誇らしいのでおまえら俺様を尊敬しる!! というのが大意です。これはまあ確かにある程度妥当な意見と言えるでしょう。

 ただ、この『イノセンス』について言えば、原作からして「サイバーパンク」といわれるジャンルとはいえ、それこそB級の「サイバーコップもの」といった作品です。セリフなども(古典の引用などを除けば)多くは原作にあるものを拾い集めて使っていますし、原作をベースにする限り、その路線から離れることは難しいかもしれません。唐沢氏は、「とはいえ、ここらはハードボイルドものの定番設定の持つ、完成された魅力を押井 守がついに壊し(再構成し)得なかったという、作家としての失点になるのではない かと思う」と述べていますが、押井守はこと原作モノに対しては、ブリコラージュ(ありあわせからの再構築、ぐらいの意)的に原作を再構築するタイプのまじめな演出家であり、原作モノに限っては比較的ちゃんとしたわかりやすい物語で仕上げるというのがいつもの仕事のしかたですから、それでダメだダメだ言われたのではちょっと可哀想であるような気がします。

 さらに続けて唐沢氏は、次のように述べています。

 

近未来描写は圧巻だが、ここらはすでに『ブレードランナー』という先行 作品があり、押井守の手柄にはならない。SFとして、主人公を含めた刑事たちがみ なサイボーグ、それもすでに元の人間の部分がどれだけ残っているか自分でも認識で きないほどに機械化された存在で、同じ捜査に関わる者の電脳同士を回線で結ぶこと により通信で会話し(やたら本からの引用を彼らが口ずさむのも、脳内に“検索エン ジン”があるからなのである)、またそれ故に逆に人格をハックされてしまう弱点を も持っているという設定が、絵面だけのもので終わっており、当然のことながら、そ れらの条件により彼らが抱いているであろう、観客であるわれわれとは異なった地平 にあるはずの人生観や生死感、哀しみや怒りがストーリィの上に表現出来ていない。 ビジュアルにただ、おざなりの定番ストーリィがついて回っているだけ、ととられても仕方ないだろう。逆に言えば、定番を忠実になぞったことで、作品に非常な安定感 が得られているという皮肉なのかもしれない。(以下略)

 

 これが正しい認識であるのか、そうでないのか、『ブレードランナー』を観たことがなく、『イノセンス』を現在三回しか観ていない私にはよくわかりません。『ブレードランナー』はレーザーディスクを持っているのですが、なんかどいつもこいつもブレードランナーブレードランナー言うので(押井監督もよく観るそうです)、なんか意固地になってもう5年以上もしまったままです。余談ですが。

 ただ、なんだか捉え方によっては180度違った意見も出そうだな、と思ったことは確かです。

 

サイバーパンクの寂しい世界

 

 私は普段、こういった作品をいくつかの目で観ています。たとえば、作品はある意味ではシステムでありソフトウェアですから、ある意図に基づいた予定調和的プログラムという観点から観ることも可能です。

 また同時に、作品は業務によって作成された成果物であるという見方もあります。人間が有限の予算と有限の納期と有限の技術と有限の人材によって作成した商業的成果物ですから、それは必ずしも「理想環境」で制作されるわけではありません。当然それは、制作時点でのさまざまな状況や技術的制約などによって影響を受け、作者の意図を確実に表現した理想的な作品になるとはかぎらないのです。そういったスタンスから「作る側の都合」などを類推したり、技術的な手法からの視点で作品を解析するというのもひとつの視点です。

 昨今はこうした物の見方がひとつの大きな流行のようで、多くの論者の方が、あたかもプログラムの実行モジュールを逆コンパイルしてそのコーディングの癖を類推するかのような感覚で作品にアプローチしているようです。

 正直、私はあまりこういった手法が好きではありません。私が好むのは、作品をもっと動態的に、人間の眼前に展開する唯一無二の「できごと」として捉え、受け取る側の環境によって作品はその姿を変えるのだ、というような立場、いわゆる「解釈学」という視点です。

 ただ、私は原理主義者ではありませんので、時と場合によっては好きでない方法だっていいとこ取りで採用します。要は、自分の許容範囲で、より合理的にものごとを説明できる方法ならOK、という考え方です。

 で、『イノセンス』をちょっとそれらのいろんな目で捉えてみましょう。

 『イノセンス』が、「何を言いたい映画なのか」という部分は「?」です。これは物語全体の解釈の範疇に入るので、確定的ではありません。人それぞれ勝手に解釈すべきです。

 ただ、作中に出てくる「人形」や「犬」、それらが「ひと」との関係の上でどういった位置を占めるのかという部分が、作品に深みをもたらすとても大きなファクターとなるように構成されていることは確かであるように見えます。が、これも確たることはまだわかりません。

 確実な点をひとつあげるとすれば、この作品の主要な登場人物は、そのほとんどが冷静で、口数が少なく、あまり笑わないタイプです。

 まあ、命のやりとりをする場に勤務するような人たちの話ですから、ある意味あたりまえといえばあたりまえなんですけど、ここでちょっと考えてみましょう。もしここで、主人公がたいへん人間味にあふれた、特に悩みもなくよく笑い、軽口などを叩きながら普通に仕事をこなすようなタイプの人だったらどうでしょう。

 実際、原作のバトーという人は、アニメ作品の『イノセンス』のバトーとはだいぶ違った性格です。レンジャー上がりの凄腕戦闘サイボーグという設定は同じですが、そもそも彼は全身サイボーグではありません(原作に、草薙素子にマグカップをぶつけられてコブをつくり、「俺も全身サイボーグ化すっかな」とぼやくシーンが出てきます)。素子に対してデリカシーのない冗談をよくぶつけ、そのたびにかなり激しく殴られて文句を言ったりしていますが、彼女に仕事仲間以上の特別な感情を持っているようには見えません。

 原作の素子にしても、性に関しては比較的開けっぴろげで、恋人などもかなり頻繁にとっかえひっかえにしているタイプのようです。一課の恋人と七ヶ月も関係を持続できたことを、「記録更新だぜ!!」とバトーにからかわれたりしています。どうやら彼らの恋愛観は、ひとりの相手を何年もじっと想い続けるなどという殊勝なものではないようです。

 と、こういう登場人物たちでは、あまり深く特定のテーマについて考えるという感じではないかもしれません。犬を飼っていたって、普通に犬と遊んで終わりでしょう。

 ところで、SFというジャンルは、大昔は「Science Fiction」の略でしたが、最近は「Speculative Fantasy」(思弁的なファンタジー)を当てることが増えてきたようです。思弁的な、という語にあるとおり、それは思考実験による驚異の念を引き出す論理装置という機能を要求されるケースが多いようです。

 プログラムなどの論理的な実験を行う場合、そのシチュエーションは、なるべく論理分岐の生じる限界値に近いパターンに設定したほうが合理的です。思考実験の場合も、はっきりと状況の意味がわかる程度に極端な設定のほうが、視聴者の思考をある意図のもとに誘導しやすいと考えられます。そのため、作品の舞台となる世界は、少なくとも観ている者にとっては意味ある程度に居心地の悪い要素を含んでいたほうが好都合だというところがある、従って多くの「サイバーパンク」などと呼ばれるようなジャンルの近未来SF作品の作品世界は暗く、居心地が悪く、なんとなく寂しい世界として描かれるのだ――などと断定するとトンデモロジックなんですけど、少なくともこの『イノセンス』の美しい世界は、科学技術によって快適になった輝かしい未来の都市というよりも、暗い、寂しい、敵意に満ちた街として描かれているように、私には観えたのです。

 

最適化された世界の不安

 

 人間は、未完成なもの、非合理的なもの、冗長なものに対してシンパシーを抱く傾向があります。たとえば初期のシナリオ型ロールプレイングゲームというジャンルの面白さは、初めは脆弱だったキャラクターが次第に能力を身につけていくプロセスにあります。もしそうでないのなら、最初から最強の状態となったロールプレイングゲームばかりになっているはずでしょう。

 キャラクターが育っていき、一定の目的を達成するタイプのロールプレイングゲームも、ゲームが終盤になり、あらゆるイベントがクリアされ、キャラクターが修得するべき能力を可能な限り修得し、最終的な目的を果たすだけの条件がそろってしまうと、ゲームの状態は経験値などが量的に増加するだけの、一種の平衡状態となります。こうなるとゲームの世界はこれ以上変化しません。ゲームの世界は「最適化」されたと言えます。

 プレイヤーは、この状態をめざしてゲームを進めてきたわけですが、この状態にはプレイヤーの興味を喚起する魅力はもはやほとんどありません。なぜなら、ゲームクリエイターの準備したシナリオの演し物はもう尽きているからです。最強のキャラクターによる空っぽの世界という構図は、初期のロールプレイングゲームをいくつかプレイした方なら覚えがあるかと思います。同じ感覚を、私は『イノセンス』から感じたような気がするのです。

 『イノセンス』に登場するキャラクターの所作は、基本的にたいへん無駄がなく、専門化された行動に見えます。あまりに無駄を排除しすぎた先輩バトーの仕事ぶりに困惑し翻弄されるトグサの苦悩は、ドラマを「典型的なハードボイルドもの」にするための押井監督の演出でしょう。私は昔、推理小説はよく読んだもののハードボイルドはほとんど読んでないのでわかりませんけど。

 少なくとも原作のトグサは、同じ新米ではありながら、『イノセンス』のトグサほどは先輩に振り回される一方ではないようです。たとえば原作において、トムリアンデ捕獲の際、バトーに「スカ」の力仕事をやらせといて自分はちゃっかりターゲットを捕獲していたトグサは、バトーに胸ぐら掴まれて凄まれます。『イノセンス』において、トグサはわれわれ観客の感覚の代理としてバトーの行動に対するリアクション役に徹していましたが、原作においてはトグサとのコンビでフラストレーションをためているのはむしろバトーの側のようですらあります。

 元来、公安九課のメンバーは、徹底的な訓練を受けたプロの捜査官ですから、彼らの行動が無駄なく、ある種スレた態度で仕事を進めるのも当然といえば当然です。しかし、彼らがあまり生き生きと、なんの不安もなく、観ている者が単に満足するような活躍だけしていたのでは、『イノセンス』に語られるような問題意識に話を持って行くのが面倒になることでしょう。話をよりヤヤコシい問題へと誘導するためには、何らかの形で「座り心地の悪さ」、そしてそこからくる「不安」の概念を演出してやる必要が……必ずしもある訳ではありませんが、押井流というのはそういう手法だと思うんですね。

 『攻殻機動隊』においては、自身のアイデンティティに対する主人公草薙素子の抱く不安が、鑑賞者の心理状態を不安へと導くための論理的スイッチになっていました。原作においてはパフェつつきながらの単なる雑談、しかも即座に回答がでてしまっている問題を、押井流のふくらませ方で作品全体を覆い尽くす不安という域にまで持って行ったわけですね。

 『イノセンス』では、観客の心理状態を、「行くところまで行ってしまった極限的世界」というセンで操作しているのではないか。最適化された世界の息苦しさ、虚しさで視聴者の意識を覆い尽くし、意図する方向に意識の方向を誘導しているのではないか。などという見方はハッキリ言って私の個人的妄想なのですが、妄想なら妄想でどんどん暴走します。

 

最適化されたヒト

 

 宣伝用キャッチフレーズなどにもあるとおり、どうやら『イノセンス』におけるバトーは全身サイボーグです。部分的サイボーグは人体の補完という性質のものだが全身サイボーグは「人間以上のものを創る」といった性質である……と、『攻殻機動隊』の原作コミックスでは定義しています。より最適化された作品世界を演出するためには、ベースが人間で、部分的に機械で補完しているだけの、陽気な好漢の原作バトーより、人間を超越した全身サイボーグの悲しげなバトーのほうが話を進めやすいでしょう。

 『イノセンス』のバトーの動きは、相当に合理的で、冗長な点がほとんどありません。彼の仕事ぶりは、(やや乱暴すぎるきらいはありまらすが)まるで機械のようです。最初の殺人現場に踏み込んだ際のバトーの「視覚」の描写なども、彼の「非人間さ」の度合いを観客に対して強力にアピールします。

 彼の私生活も、セキュリティの観点から非常に合理的です。彼は帰宅の途上でも、暗殺等の脅威低減のため十分に注意した行動をとっています。これは、彼のような職業の者にとっては珍しいことではありませんが、ひとつ間違えれば生命にかかわる世界、心の疲れる生活という印象を演出しています。

 彼らの会話も同様です。批評で攻撃されがちな「名言引用」ですが、これも「最適化された所作」のひとつの極地なのではないかと思います。

 人類の歴史上、教養主義は、自分を偉く見せようとする人びとにとっては重要なツールでした。いろいろな知識をたくさん知っていて、それをここ一番の見せ場で周囲の者に披露すれば、自分をその辺の有象無象の連中とは違った偉い人間という形に演出することができます。そこで古今の「知識人」たちは、過去のさまざまな書物をあさり、示威目的の知識をたくさん覚えて、ここぞという場でそれをひけらかし、自分はこんなにいろんな知識をもっているんだぞ、だから自分はものすごく大した人物なのだぞ、とアピールしたわけです。

 このアピールは、結局は金銭的実力の誇示の一形態に還元されます。要するに、「自分はたくさん知識を持っている」→「自分はたくさん本を読んだ」→「自分はそれだけ労働をしなくてもよいヒマな時間をたくさん持っている」→「自分は経済的な余裕がある」→「だから自分は偉いのだ」→「おまえら、尊敬しる!!」ということです。これは、カッコいいクルマを何台も持っていたり、綺麗な宝石をいっぱい持っていたりするのと、本質的には変わりません。要は、他の人びとと自分は、はっきり明確に異なっている(自分の方が偉い)のだ、という主張ができれば何でもいいのです。ただし、やはり知識というものはただお金を出せばいいだけでなく、ある程度の才能なども関係する分、グレードがワンランク高い自慢ということにはなるでしょう。

 何かことあるごとに、昔の賢人の名言などをぱっと引用して格好良く会話を進めるというのは、知性を他との差別化のツールに選んだ人にとっては、究極の「あるべき姿」と言えるでしょう。『イノセンス』の登場人物たちは、この究極の所作を実現してしまっているのです。

 しかし、誰もがお気づきのとおり、この「知識」は、ネットワークにアクセスしたキャラクターたちが、独自のデータベースを瞬時に検索して口にしている言葉にすぎません。それは、表層的には従来そうであったような「通」の所作ですが、実際はたんなるデータ検索の結果の提示のし合いにすぎないのです。

 この傾向は、実はもうすでに現代のインターネット上のやりとりなどに現れています。特にBBSのような、タイムラグにあまり厳密でない場の討論などにおいて、その都度Google検索などで知識を検索し、調べた知識を並べあっているという状況は、そこここに散見されるところです。「おまえはこんなことも知らないのか」「お前の無知には呆れかえる」「もっと勉強してからこういう話をするべきだ」などなど、要するに自分のコレクションのほうが偉いと自慢しあっているのと何ら変わりはありませんが、なんのことはない、その知識もつい5分前にGoogleで調べたものにすぎなかったりするのです。

 昔は、そういう格好いいセリフで相手を一喝する人物を演じるためには、それなりの知識を会得するための努力が必要でした。その努力を経た一部の者だけが、こういう勇ましい恫喝の言葉を口にする権利を有したのです。しかし現代では、その努力は必ずしも必須ではなくなりつつあります。インターネットが出現して以来、情報の運用に関する「速度」は圧倒的な早さをもつようになったからです。

 ある情報の必要が生じてから、それを検索し、取得し、解釈し、利用可能な形に生成し、開示するというプロセスは、コンピュータとネットワークの出現により、比較のしようがないほど大きな速度を得ることとなりました。そのため、かつてのような苦行を経なくても、だれでも簡単に必要な知識を検索して引き出し、あたかもそれが元々持っていた自分の知識であるかのように語ることができるようになったのです。

 『イノセンス』の世界においては、この「速度」は、日常会話に不便を感じさせないくらいの速度を獲得しているようです。それは、人間の生活にとって最適化された速度と言えるでしょう。

 では、こういう状態は、ヒトの住まう世界の在り方として、「あるべき姿」なのでしょうか? 20世紀生まれの旧人類である私には、どうもこれが理想の世界であるようには思えません。ハイデッガーは、実のない「くだらないおしゃべり」のことを「空談」といい、非本来的な様態だとかなんとか言ってましたが、自分の脳の外側にある知識を検索して提示しあうという「会話」よりは、ヒトとしてはるかに「本来的」なもののように、私には思えます。これもまた、空虚な生活世界を演出する押井流の手法なのかもしれません。

 

犬とモトコ

 

 最適化された彼らの立ち振る舞いに、うっすらとまとわりつく「空虚」は、ある一点を強調するためのコントラストを演出します。言うまでもなく、それはバトーの犬です。

 バトーの犬「ガブリエルC」は、押井監督の愛犬ガブリエルのクローンという設定らしいですが、彼女(メスです)の行動は、どう見ても合理的とは呼べません。ヨタヨタと走り、生産的なことは何もせず、ちっとも帰ってこない主人に対する面当てに玄関先にウンチをしておく以外、あとはひたすら喰って寝ることしかしません。非人間的と言えるほど合理的な印象を蓄積してきた『イノセンス』の世界において、この犬の存在は、ひどく対照的な特異点といったように観えます。

 彼女はバセットハウンドという犬です。この犬が押井監督のトーテム(精神的祖先、ぐらいの意味でしょうか)であることはファンならたいてい知っていることと思いますが、私の場合はビーグルというちょっとバセットに似た犬がトーテムなものですから、その感覚はかなりリアルに想像できます。バセットハウンドは、何だかグニャグニャしています。ビーグルの場合もそうですが、おそらくこの犬はくさいです。部屋のあっちこっちに毛が落ちます。「カシャカシャカシャ」(ユカを歩くツメの音)「ヒーヒー」(甘える声)「シャシャシャ」(どっか掻いてる音)「ブルブルブル」(身震い)「ヘッヘッヘッ」(舌出して息)「プショイ!!」(くしゃみ)などと、四六時中いろんな音をたてます。頭はいいらしいのですがなまけ者だし、足が短くて耳が長く、自分の耳を踏んづけたりすることすらあるそうです。外見が似ているビーグルも相当まぬけな、非合理的な動きをする犬ですが、バセットほどではありません。バセットハウンドという犬は、奇妙な観てくれを演出するために徹底的な品種改良によって生み出された人工的な要素の大きい犬種なのです。

 ヒトという種の在りようを合理の極限まで延長したバトーは、一個の生物として問題があるくらいにまぬけな生物であるバセットハウンドを、相当なコストを負担し、セキュリティレベルを下げてまでなお、なぜ飼っているのか? バトーの、合理的にきわまった所作や生活習慣に比べて、それはまったくの非合理的な趣味と言わざるを得ません。

 バトーらサイボーグとなった者の、デザインとしての相貌はほとんど原作通りですが、彼らの姿とその立ち振る舞いは、無言のままでさまざまなことを語ります。たとえば、同じ全身サイボーグでも外見は生身のままに見えるモトコのそれとは異なり、バトーの目はレンズの鏡筒が剥き出しになっています。おそらく彼は、外見という対外的なサインとなる要素よりも、視覚情報入力デバイスとしての性能を優先したのでしょう。これは彼らの世界観のひとつのあらわれです。

 『600万ドルの男』などに登場する「バイオニック」と呼ばれるサイボーグは、事故によってやむを得ず身体の一部を機械化しましたが、どうやら『イノセンス』の世界では、道具としては劣った機能しかない本来の肉体を切り捨て、機能を補強・拡張するために「義体」化するようです。つまり、彼らにとって身体とは、要求仕様を満足させるための単なる道具にすぎないように観えます。

 そのせいか、彼らは一様に、自分の身体に対してあまり頓着しないようです。必要なら肉体の限界を超え、破壊してしまうほどの負荷をかけることになんら躊躇しないモトコほどではありませんが、バトーの強引な殴り込み的捜査などは、命が惜しい(すなわち自分の身体が破壊されてしまうことを怖れる)者にはなかなかできることではありません。

 ただし、自分の死の可能性すら他人事のように平然と語る原作の草薙素子やバトーらのすっきりとした諦めのよい死生観にくらべ、『イノセンス』のバトーには微妙な心の変化が起こっているように観えます。医師(技師?)に「俺のオリジナルの残りはどこだったかな」とやや寂しげに問いかけるバトーには、「自分の身体」が、単なる道具のひとつ以上の意味を持ち始めているのかもしれません。

 そのバトーが、犬を飼っている。これがどういう意味なのか、本当のところはわかりません。従って以下は(以上もですが)ひとつの個人的解釈にすぎませんが続けます。

 『イノセンス』において、バトーはものを食べません。この作品で何かものを食べるのは、犬と、比較的義体化が進んでいない者だけです。原作では、草薙素子も(合成品かもしれないが)パフェなんか食べていましたが、映画『攻殻機動隊』および『イノセンス』では、ビールを飲んだだけです。

 自分の身の安全をないがしろにしてまで調達した餌を食べるバセット犬は、モノ喰わぬバトーの憑代よりしろとしての役を担っているではないか、というのが私の妄想です。それまで身体を外部デバイスとしてしか認識してこなかったバトーは、失ってしまった「オリジナルの身体」のための憑代が欲しかったのかもしれません。そして、その「憑代」は、外見として「ヒトの形をした」、もの言う他者であるモトコであり、また生あったかい体温と、毛とグニャグニャした皮下脂肪の手触りと騒々しい音とヨダレといやに懐かしいニオイをもった存在である「犬」、だったのかもしれません。

 『イノセンス』は、複雑なサインとシンボルが交錯する作品です。

 ラストのシーン。限りなく機械に近い全身サイボーグであるバトーの抱く、彼自身の切り捨ててきた身体の憑代としての生身を持った人工的な動物であるバセット犬と、ヒトの身体形状を模して作られながら精神を持たぬ「人形」を抱いた、ヒトの形状を持ちながら未だヒトになっていない動物である「子供」を抱きあげる半機械のヒトであるトグサ。この論理の迷宮は、丁寧に意味の流れを紡ぎ上げてきたこの作品のラストシーンだからこそ、さまざまに多義的な意味の構造を構築することができたという点で、まさに監督の手柄だと言えるでしょう。

 最後に、「均一なるマトリックスの裂け目の向こう」へ行ってしまったというモトコについてちょっとだけ。

 どうも、どの評を読んでも、押井監督のコメントにおいてすら、何だかモトコは実体を棄てて完全な情報システムかなにかになってネットワーク上に偏在しているような言われ方をされていますが、私は疑問を持っています。「彼女」は、単なる情報システムの集積であって物理的身体を持たず、そのため生命体としての揺らぎと、死の可能性を得て、「流れる雲のようにうつろう不確実で多様な世界の一部」になることを望んだ「人形使い」と融合したわけですから、完全に肉体を捨て去ってしまっては何もなりません。むしろモトコのオリジナルの脳殻をもった物理的ボディはどこかにあって、その模倣子を帯びた「変種」をせっせとネットに流したり、あるいは身体に残った遺伝子を使って生物学的子供を作り、物理的子育てをしている可能性だって否定できないと思います。バトーに接触したモトコは、オリジナルのモトコがネットに流した、比較的オリジナルに近い模倣子を帯びたモトコαとかβとかだったのかもしれないのです。

 人形に関しては、きっといろんな論者がいろんなことを論じるでしょうから、わざと全然触れませんでした。あんまり好きじゃないんです、球体関節人形って。なんか奇をてらってるっぽくて。

 以上で、本講を終わります。

 

(2004/07)

 

 


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