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身体論という唯脳論、もしくは唯意識・唯情報論

 

 

松本 晶


  

 

 AN INNOCENT MAN

 

 いきなりワタクシごとで申し訳ないのですが、私が映像作品(とエラそうに書いてはみるが大抵はアニメである)を見て文章を書くとき、その作品がいいなぁスゴイなぁと思ったときほどコトバが全く浮かんできません。その言い訳をすると、映像と音声とその雰囲気にどっぷり浸かったシアワセで、言語でもって改めてそれを語るモチベーションがちっとも湧いてこないからです。ただそれでは原稿が書けなかったりして困るので、その作品に関する評論とかを色々と見ては、あれこれ参考にしようとか、何かイイネタあればパクろうとかセコイ考えを持って読んでみたりします。そして感心したり反発を覚えたりするわけですが、それらの言説との違いを自覚した途端に、意識の上にあがっていなかった自分の感想というか、作品に対して抱いていたモワモワとした感覚というか言語にならないとかの思考の断片が、そこで初めてコトバになって析出してきてきたりするわけです。いやまさに自己とは他者のコピーなんすね、などとパクルことへのしょうがない言い訳を考えつつ、それらの「断片」の集合をなるべく一つの整合性のあるストーリーに無理矢理に仕立ててハイ今回のコミケの原稿の一丁出来上がり〜という寸法になるわけです。

 ところが今回、『イノセンス』に限って言えば、作品をスゴイとは思ったものの、他の人たちの評論とかを見ても自分のなかに何か書くためのモチベーションというか勢いが出てきません。今までの押井作品のときみたいに力が全く沸いてこないのれす(脱力を表現したつもり)。それは今までに読んだ色々な『イノセンス』評の文章が、私の意識の下でもやもやしているものに何の作用も及ぼさなかったためなのか(それは此方の感受性低下の問題かもしれないし、それら商業誌上の評論の力がココロに届かなかったりするためかもしれませんので、今回この本の諸氏の原稿を読んだら書く気満々になるかも)、それとも『イノセンス』の内包する押井監督の意図が直接私の問題ではなくなっているかのどちらかではないのかしらん、などと悩みつつ、今回の文章を書いています。ちなみに後者の意図とは監督本人が述べている「身体論」についてなのかもしれません。

 

 以上の言い訳からもお分かりのように、『イノセンス』のDVDやビデオがこの原稿を書いている時点で出ていないこともあり、更にはこの作品も映画館で二回しか見てないし、最近頓に記憶力も低下していることもあり(フィルムブックも第二巻までしか出ていなくて>相変わらずカドカワ映画のフィルムブックよりデキが悪いので押井さんは文句を言ってもっとクールでオシャレなレイアウトに変えてもらうべきである>とにかく映像にマンガの擬音を入れるなっつーの!)、今回の文章も『イノセンス』評というよりも「『イノセンス』評」評になってしまうような気がします。まあ今回この原稿の話の筋を通そうという気が出ないというよりも、このバクゼンとした気分をまとめられそうもありません。で、手元にある『ユリイカ』の「特集*押井守 映像のイノセンス」を眺めながらの散発的散文的な評ですので、できればみんなで百合烏賊買って読もう! ってゆーか買って読んでからじゃないと私の今回の文章、非常に判りにくいですので、そこんとこヨロシク。

 

 いつもながら私の文章は冗長で要領を得ないことが多いので、まず話の風通しをよくするために、『イノセンス』という作品に対する現在の私なりの結論を明らかにしてから始めましょう。それは、押井監督がこの映画のテーマとして語っている「身体論」とは実は「唯脳論」に近い意味合いのモノじゃないかと言うオチです(当然ながらそれは映画自身の語るものとは別モノ)。つまりそれは「身体に対する意識の論」であって、「身体」という決して「到達」しえない外部やら現実やら自然としての「身体」をテーマにしているものではないということです。広義の「身体」まで勘定に入れると、途端に話しはミヤザキハヤオになってしまうからオレはその対極からアプローチするんだもんね、という押井監督の呟きが聞こえてくるような気がするわけです。その意気やよし、ではありますが、どうも取り巻きっぽい近代好き好きな人たちが勝手に自分たちの思想テツガクを外挿して御満悦、それで終わってしまっているように見えるのがどうも気になったりするわけです。

 ここでやや脱線しますが、「身体論」系の話しで、自分の身体が認識できないとか自由に出来ないとか言うことがよく語られたりするわけですが、それはとても不思議というか非常識なことを言ってるように思われる方も多いかもしれません。だって自分のカラダなんだから自分自身で全部コントロールできないにしても、隅から隅まで分かっているのが当たり前だと。しかし、それは「意識」出来る身体、カラダについてのことに過ぎないのではないか、というのが身体コントロールを専門にしている人たちからの素朴ながらも鋭い指摘だったり、精神分析で発見(発明)された無意識であったり、さらにそれ以外にも意識システムには認識出来ない脳を含めた身体の様々な機能であったり、さらには体に共生・寄生・感染している細菌だったりウイルスだったり、もっと広くは社会や環境の一部としての体だったりするわけです。しかし、そんなことをどこまで考え「意識」すればキチンとした身体論としてよいのか、などということは誰にも分かる筈もないような気がします。さらには機械やネットが身体の延長だと言われても、これまたどこまで?というカンジで、ハッキリした定義や結論はいかにも難しそうな話です。

 話しを戻すと、やはり以上のことから考えると『イノセンス』で評論家に語られるような「身体論」という「テーマ」?は実は最も「意識」の側のお話であって、正直私としては「近代という思想に捏造された狭義の身体論」じゃないかと思うわけで、それはすなわち養老孟司が自ら言い出し批判の対象としている「唯脳論」のことに近いのではないかと思ってしまうわけです。要するにハナシの中心はちっとも「身体」なんかではなくてやはり「意識」中心なのでは、と勘ぐるわけです。そんな広範囲な話ではなくとも、「意識」出来ない身体とは、ひとつは無意識の領域、さらには認識不可能な身体を含む社会や環境、そしてさらには生物としての個体、群体であり、当然のことながら一見親切そうに自らテーマを皆に解説する監督は確信犯的にこのことを判っていながら自らの覚悟を正直無垢に示すために『イノセンス』という作品を作った、そんなような気がして仕方ありません。その覚悟とは先ほども述べたように、「とにかく身体という意識の産物を意識の側からアプローチするんだ」という決意ではないでしょうか? その決意のもとはいったい何か?これは本人にインタビューしようが私の中の押井監督が意図しているそれについての「納得の行く」答えは出てこないかもしれない類の疑問なので、つまりそれは自分の中における他者の問題なので、唯我論に陥らないように気をつけながら考えてゆくしかない疑問ではあります。

 

 そこまで言っておきながらナニですが、身体論と言っても実はワタシ、よく分からないので、ググって(Googleで検索すること)みたりして調べてみました。しかしどうにもニューサイエンスっぽい怪しいサイトが多いなかに、ようやく、意識中心の西欧哲学の考えに対する身体の考察という意味であるならば、どうやらこんなカンジになるのかなぁ、というのが以下に示す身体論の説明として載っていました。ちなみにコレはウェブで拾ってきた池田光穂さんという方の「仮想医療人類学通信」というサイト(http://www.let.kumamoto-u.ac.jp/cs/cu/990217body.html)からです。『ユリイカ』の上野俊哉氏の身体論の項を読むにあたって参考になりましたので少し長いですが引用させていただきます(彼は以下のような意見を持っているのではなく、むしろこのような常識的な身体論を相対化するために以下のサマリを書いているようです)。

 

 西洋の生物医学の伝統においては、身体は複雑ではあるが、要素還元的理解が可能となる自動機械(automaton)として想定する。要素還元的であり分析可能な自動機械としての身体は、普遍的なモデルに還元できるのみならず、身体を操作する《主体》が身体の中に宿ることを可能にする。(中略)・・・生物医学的身体は、その意味では我々の主体のあり方についての極めて自然な身体観としてあるかのような印象を受ける。だが、これは肉体を嫌悪する西洋近代思想という大伝統のもとでは、比較的新しい部類に属する。

 というのは、西洋近代思想の中では、身体は主体の住処としては、不十分であるということが出発当初から認められられてきたからである。そのため、肉としての身体を憎悪し、真理としての意識を特権化する。唯物論的伝統は、肉なき主体を批判するのであるが、そこで前提としてされているのは、歴史的条件からは逃れることのできない身体の固有性についてである。(中略)・・・つまり、生物医学的な身体の成り立ちの普遍性とは、それに宿る主体の自由を保証するものではなく、身体の社会的拘束ということが逃れられないという事実にある。

 

 いつもの繰り返しになりますが、このような身体についての考え方というのは本当に私たちの思考の根底を流れているものなのか私としては疑わしいと思っていて、なぜならばイデアを崇高至高なものとして肉体を嫌悪することも、逆に主体が宿る生物学的身体という二元論も、西欧のひとたちのその時代の「特殊な」考え方であって、私たち日本人の「身体」の捉え方とは違うのではないかと思うからです。だって死んだヒトをただの物体として扱ったりできないでしょ、フツー私たちは。どうも西欧のヒトはそうじゃない傾向が強いらしいですが、逆にアメリカの軍隊とかはどんなことをしても死体を故国に持ち帰ろうとしたりしますし(アメリカはまた別の意味で国家が身体を無制限に保証するという幻想が必要だからか?)、西欧の人だってテツガクしてる人たち以外はそんなこと思ってやしないんじゃないかと。それは西欧の人々が言う「主体」などというような確実堅固な実体を私たちが本当に意識しているかということがホンマかいなっていう怪しいカンジがするためです。

 

 さらに自分の心も身体も世間のなかの関係で捉えることを当たり前としている日本人の社会のあり方と(過去の話で今は違う、かも?)、そんな「主体」なんて神との契約で成り立つ概念が、両立するのか私には非常に疑問です。さらに加えれば、よく分からないでワードマップ『現代フランス哲学』なんてゆーのを見ながらお手軽な学び方をして(本自体は力作ですが私の態度がお手軽)パラパラとめくって目に止まったように(ちゃんと調べろよオレ)メルロ・ポンティさんとやらが言うところの「知覚の主体は決して絶対主観性となることはない」みたいな相互主観的身体論というか身体論というかエヴァによく出てくる台詞のような「ボクのなかのキミ」みたいなことと同じかは分かりませんが、そういった近代の主体の概念からはみ出したものを「身体」などと名付けて、結局は意識中心の心理学に逆戻りしたかのような問題意識って、単なる問題の捏造じゃないかと、シロウトながらにそう考えてしますわけです。

 そのような身体の考え方からいっても、後に詳しく考えてみますが、上野氏が自ら言っているようにベルメールの球体関節人形は「近代の問題」として捉えれてしまったりするわけですが、それを「普遍的な近代の問題」などと言ってしまうところに上野氏の何か唯物論的進歩主義のシッポを感じてしまうわけで、どうにも信用できないわけです(さらに知ったかぶりして原作のトムリアンデがネコ型アンドロイドなんてドラエもんみたいなことを書いてますが、ネコ型だったのはトグサが確保したピンク色の髪の毛の個体だけで殿田大佐のメイド型は人間型デスヨ、ちゃんと読むように、念のため)。

 では押井さんの問題意識とか彼の作品が内包しているモノだとかが、ベルメールを用いてアニメを語る上野氏のような言説のようなモノに限定されているかというと、それは全然違うんではないかと思うわけです。しかし押井氏自身が言語として繰り出す作品論は、必ずしも作品が醸し出す映像言語とは同じものではない(と勝手に断言)ことも更に私を混乱させるのですが、それこそがこの作品をアンビバレントな魅力あるものにしているのではないかとも思っています。まるで宮崎駿氏がいつもそうであるように。このことを順を追ってお話しましょう。

 

 今のところ私にとって『イノセンス』は未だどんな内容を私自身のなかに残した作品なのかということについては、全然整理できていないこともあって、どうにもスッキリとしたコトバがでて来ません。現在の結論めいたものは以下のようなボンヤリとしたものです。つまり『イノセンス』は、作品を精緻に「対象」として作りこんでそれ自身におけるメタ的な構造を排除した結果、作品それ自体単体では「近代的」な問題意識としての「人形と犬」、すなわち「近代的な身体論を扱った作品」と勘違いされるようになったものの、作品を創る作家という構造、構図を含めて見たときには、その構図はまさに今までの押井作品のそれであって、無限階層の階梯の「次元」をひとつ製作者側に遡ったのではないかと思うわけです。ですから監督それ自身が『紅い眼鏡』で言えば都々目紅一の立場に立ったのだと。そしてその結果、作品自体はメタ的物語の風体を一見捨てて「マトモ」な「物語」に退行したように見えるのではないかと、そう思うわけです。紅一が唯一信じ、またそれに「殺された」対象とはプロテクトギアに象徴された「犬的な忠誠的理念」だったのかもしれませんが、押井監督が唯一確固とした対象として信じている(いた)のが、彼自ら語るように「確固とした現実は、映画のなかだけにある」というように映画がそうであったにもかかわらず、今回、上野氏との対談の最後で述べているように、こんなことを言っちゃってました。

 

「映画自体から疎外されているような気がするよね。映画になじめないところがある」

 

 自ら映画の理念を信じてその極北に位置するような作品を作り出した監督が言うには、あまりにも都々目紅一的ではないかと思うわけです。同時にその監督の姿は、素子を求めつつも犬を飼うしかないバトーでもあり、また未帰還者の行方を求めるアッシュにも重なるようでもあります。こう書いてみて気付くのは、どの押井作品でも、メインの登場人物が何かを探し求めるという構図は軒並み共通しているようですが、『機動警察パトレイバー2・The movie』より前の作品では、求める人たちが複数いてその対象や目的は様々で、対照的だったりバラバラだったり、もしモノトーンの対象でもその状況を突き放して鳥瞰的な物語として「メタ構造」を描いていたのに対して、『パト2』『アヴァロン』以降はモノローグに近い「主人公」の探し物映画になっているようで、画像は精緻になってゆくのに構造は主観的でフラットになってきているような気がするのですが、これまた監督の狙いなのでしょうか。

 

 『ユリイカ』でのこの特集に寄稿した東浩紀氏の『追憶のビューティフルドリーマー』も、以上のように今回の作品のあまりの「マトモ」さにガッカリ?したために奥ゆかしく『イノセンス』批判をしていた文章ではないかと考えます。ちなみに対照的に齋藤環氏はこの雑誌への原稿で「メタ物語のフレームには、実は押井は関心がない」とか相変わらず根拠なく断言しており、なんとなれば「彼は、この日常もまた一種の虚構であり、唯一絶対の現実がどこかにある、といった発想の危険性を警戒している」からだそうですが、メタフィクションを経てそんなお気軽な発想をするのはおそらく大塚英志氏とか佐藤ナントカ氏(すいません下の名前忘れた>痴呆なもんで)くらいのもんで、これまた批判する対象の捏造とゆーか、わざわざレベルの低い議論を選んで批判しているというか、なんか意地悪いカンジがします。彼の展開する『イノセンス』の精神分析的解釈はラカン派の常で、隠されたラカン的フレームを見つけ出し(無理矢理な外挿にも見えるくらいの)、そのフレームのなかでしか議論を行わないという印象があり、どうもイヤーンなカンジがするわけです。つまり本来フロイドが精神分析で目指したように、「症状」を生じるに至った無意識の領域に追いやられた構造と力動的なメカニズムを抉り出すという態度ではないですよね。ただそれも「隠された真実」を明らかにすると勘違いされると困るわけで、あくまで問題は主観的かつ内在的な「動機」のメカニズムであります(軍曹的語尾)。外在的に見た心のフレームではありません。

 

 で、ストレートに行きますが(小学生みたいな感想文でスマナイです)一見メタ的な広がりがないこの作品を私は以下のように鑑賞しました(当然誤解曲解思い込み勘違いを含めたひとつの鑑賞態度ですので正解とか不正解とかじゃないですよ、念のため)。ジェンダー云々というヒトたちがキーと怒るのを承知で書けば、『イノセンス』の世界とは、もともと「女性」という最も身体的な対象のようにみえてその逆に最も男性にとっては幻想の中、すなわち「意識」の産物を投射しているアンビバレンツな生き物が、『イノセンス』でのバトーにとっては草薙素子というナイスバディの女性体型であるにもかかわらず実は脳以外全てサイボーグという肉体から最も遠い女性の上官であり、その彼女が更にネットの更に上部構造かもしれないというような身体とは最も遠いイデアの世界かとも見紛う?処に去ってしまったあとに取り残されたオトコの足掻きという話であって、彼女との再会を待ち焦がれ自らのサイボーグの体を失踪前の素子と同様に酷使しその限界による身体という「現実」を求めようと足掻くことを模倣するというハードボイルドなようで最もセンチなダンナの話であり、そのダンナがその対極として身体と「現実」に最も近い「環境世界」に棲む犬を飼うという話で(オッシーは犬は神に近いなんて到底納得できないことを言うし、アニミズムのように見せかけて実はそうじゃないと評論家に言われ、でも実は汎神論的だったりと)、しかしその犬ですらも何代もの交配を経た人の手が遺伝子レベルにまで入れられた犬種だったりするわけで、どちらに転んでも「身体」に行き着きそうで、その実、「意識」の牢獄に閉じ込められざるを得ない相手を選択しなければならないオトコの話だったりするのかなと、思うわけです。さらにその対比でトグサ君とかが描かれているけれど、その娘だって人形使い?だったりするわけで何とも行き場が落ち着かない話だなぁ、そうボンヤリと思うわけです。以上わけの分からない文体で示したように、今回の作品の要素ほとんど全てが一見身体のハナシのようであって、その実人形という意識の産物であるみたいな両義性?から、『新世紀エヴァンゲリオン』に続いて鑑賞者の心を映す鏡のような作品にもなっているわけで、「自分のツラが曲がっているに鏡を責めて何になる」を地で行ってるわけで、相変わらず作品評へのメタ批評をも作品内で皮肉っている?あたり押井監督未だ健在なりとは思ったりしました。

 

 しかし繰り返しになりますが、やはりここで混乱させられるのは、この作品が実は評論家の言うところの「身体論」(意識の身体論=唯脳論)という枠組みを超えていそうなところにもかかわらず、押井監督本人も近代における身体論という枠組みでしか自らの作品を語っていないような気がするわけです。『イノセンス』に関する全ての発言を見たわけじゃないので迂闊なことは言えませんが、テキトーにそれら評論家に合せているのか、それとも戦略的に「近代的意識」の問題を取り上げつつ、jコソーリとそれを超えたところで考えているのか、マジで近代を自らの問題として感じているのか、実のところ判然としないところです。勿論、別に監督本人がそれらをどう意識しようと体で感じていようと私には関係なないわけで、要は作品を見ただけで私という鑑賞者が果たしてそこまで思いが至るかということですが、ちょっとそれ無理みたいなんで繰り返し鑑賞してみたい作品ではあります。出来れば5.1chのホームシアターとかで延々と。というか、この作品は単純に映画館で数回見ることではなく新しい鑑賞形態も考えに入れたものではないかなとまで勘ぐってしまうくらい、情報量のコントロールを敢えて行っていない作品のように見えました。『超時空要塞マクロス』の板野サーカスや異常に精密な書き込みとはまた違った意味での、ですが。

 

 ではなぜ「意識化された身体」という問題の立て方が問題なのか(ヘンな文章)?ということについて考えてみましょう。当然のことながら、人に限らず生物全ては自ら認識した「世界」が本当に世界の全てであって、物理現実というのは権利的に存在しているに過ぎないわけです(ホント?)。ただヒトのような狭い意味での「意識」をもった生物にとってはそれが更に「狭い」わけです(科学のチカラとかでもっと広い世界を展望できるというのも宗教ちっくな考え方です)。その狭い窓から認識した世界と意識は、自らの体すべてさえ「認識」できるわけがないのですが、それ以上のことは認識できない=存在しないということであり、本来はそのような限界のある意識をもって「認識」出来ないものを論としようとするものだからです。またお手軽にそれが可能だと思うならば、その身体とは既に意識の一部であって「身体」論とは自己矛盾したコトバであるように思えるからです。しかしだからこそ押井監督は敢えてまず最初はその不可能な地点に留まる決意をしたのだと、それは単に対象としての作品内だけでなく、映画作成という身体的な実践としてそれを行おうとしたのが今回の作品ではないかと、そう思うわけです。それはタイヘンに素晴らしくてダンディな制作態度なのではありますが、その「実践」に付き合わされる私たちですが、「映画」という範疇での「快楽」を一度の鑑賞で受け取るという作法をもこの作品は一部否定しているために、何か映画的な快楽から考えしっくり来ないのではないかと。すなわちコピーされ反復される映像と音楽を反芻すること自体の構図がこの作品の構造として内在されていて、それを反復することで初めて作品自体を快楽として鑑賞することが出来るのではないかと思ったりします。つまりマルチシナリオのゲームならばゲーム側がフラグの有無で変化していくのに対して、『イノセンス』では同じ作品を鑑賞者の側のフラグの立ち方でマルチシナリオとする試みだったのではないかと思うわけです。それは難しい作品を解読するというような旧来の「熟読モデル」や「正解発見」モデルとは違った世界を目指したのかもしれません。例えば私に限って言えば、押井監督初期作品の最もエポックメーキングな『うる星やつら2・ビューティフルドリーマー』や宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』(なぜこの作品を唐突に比較対照としてあげるかは後で詳しく)はどんな画面で見ても、極端な話、大画面だろうがノートパソコンの液晶画面だろうが見応えがあまり変わらないですし、なんか訳が分からなくて繰り返し見たときもその度ごとに背筋がぞくりとするような感覚に満ちていたのとは対照的な印象があります。画面に対する依存度という面もあるかもしれないのですが、例えばの話『スターウォーズ』なんかの大画面への依存性とも違う印象がありました。

 

 話を戻しましょう。押井監督の発言がどうも作品と一致しないような気がする理由をさらに具体的に述べてゆきましょう。以下はヤフームービーでのインタビューからの抜粋です。

 

「これまで僕の作品に登場する犬は、ただなんとなく尻尾を振っているだけの存在だった。でも今回は違うんだよ。彼らがどうして必要なのかということの答えが見つかったから、主人公と同格で描くことができたんだ。人間はもう限りなくロボットに近づいている。でも犬や猫は人格を持たないし、言葉を話さない分、純粋で《神》に近い存在なんじゃないかと思うんだ。これまで人間の観点から見た犬の本や映画はたくさんあった。でもそれは人間がカタルシスを得るための自己満足的作品にすぎないんだ。だからいつか自分で、犬の視点から見た“犬の映画”を作るのが長年の夢なんだよ」

 

 以上のように言われてしまうと、犬が嫌いなオタクの私としては更に『イノセンス』に馴染めないカンジがしてしまいます。ただ実際の監督はネコも好きみたいで、と言うかバトーが電脳ハックされて大立ち回りを演じた雑貨屋で、ネコをリュックに入れていた謎の少女(素子のゴーストをダウンロードした「人形」なんだろうけど)のようにネコ好きでバトー=押井守に「キルゾーンにいる」ことを指摘してくれる猫的人間の存在を監督自らが期待しているのではないかと思ったりしてしまいます。ですから余計に一鑑賞者の私としては違和感を正直に発っしてゆくしかないかなと現時点では思っています(しょってら)。今まで私は押井氏にとっての犬の表象って、理念に忠実な悲劇的で破滅的な印象を抱いていたのですが、それがイキナリ言語のない世界の住人だから(住犬)イイというのは到底受入れ難い身体的には違和感イッパイのオハナシで(ゴーストが違うと囁くのよ)、言語世界の住人が劣等というところまでは分かりますが、だからと言って動物を持ち上げるのは、これまたいかにも言語的な人間の作法ではないでしょうか?彼らは人と接しなければ「ありのまま」なわけですから。

 

 で、犬話はキライなので、萌えキャラ愛好家の私としては、ワタシ的に興味のある人形の話にしましょう。今回何よりもこの作品で違和感を覚えたのは、セクサロイドであるトムリアンデが士郎正宗氏の原作のように普通の美少女的なアンドロイドではなくて、特殊な趣味のヒト以外にはエロティックな感情を生じせしめないであろう球体関節人形にという渋沢龍彦的に高踏的な?設定に何でしたかということです。というより監督自身も色々言ってはいますが、なぜあれだけCGIを使いまくって精緻極まりない映像を作り出しているのに、あんな原始的人形を使ったのでしょうか? 人体そのものに近い義体では絵的にインパクトが弱いとしても、ナノテクを前面に押し出せばメカである人体という描写を出来たでしょうに、それを何故やらなかったのか? そこんところが今回の作品の引っかかりというか取っ掛かりになりました。実際にオープニングでは卵に受精して卵割して何らかのマシン(多分眼球?)が形成されてくる部分を見たりすると、途中までは「おお、メカニックで人体が出来てきとるワイ、すんごいデスネ」ってカンジだったのに、何故か途中から幾何学的なブロックが合体よろしく出てきてあれれれー、となったわけです。というようにのっけっからなぜわざわざ「リアル」な人体とは程遠い古風な球体関節アンドロイドにしたのかという違和感がますます強くなりました。とても「人体の理想を模して」どころの話ではありません。機械論的な身体の理念の単なる投影を映像で表現したような気持ち悪さがありますが、それは私にとってはちっともエロティックではなくて、意識の側のタブーを侵犯したときのきわめて強迫的近代のニセエロスだと思っています。当然、それをタナトスなどの死の本能のような形で理解することも私としては非常に怪しい考え方に思えます。理由は省略、また萌本で行う議論デス。

 とにかく、それにもかかわらず、あっさりとその趣向を理解してしまう(ような口ぶりで気持ち悪い)ドール話が上野俊哉氏との対談で成されているわけですが、もしかしたらこういう意識領域が下意識や無意識や身体の領域との整合性も考えもせず、どっぷり近代という体制に浸ってしまっている人たちも確かにいるのかもしれないということも最近考えたりするわけですが、それは真の意味で私たちの精神的な歴史に沿った議論ではないと思いますが、それは余談デス。ドールとフィギュアを語るんだったら最近のドルフィーについて言及しなければ身体と萌えの意味には迫れないと私は思っていますが、これも萌本で詳しく議論しましょう(冬コミに出たらね)。

 ともかくそのような違和感を無視したまま、近代とか身体論とか精神分析とかでテツガク的「解釈」で自分の領域で納得してしまい自己完結している評論が多かったりするわけで、これは監督の罠にまんまとハマッているのではないかと、私はそう思っています。まるで『うる星やつら2・ビューティフルドリーマー』(以下BDと略)や『新世紀エヴァンゲリオン』(以下エヴァと略)の時のように、各自がそれら作品要素の都合のよい部分だけに反応して全てを語ってしまうと。まあテツガクの人ならば作品なんて所詮はテクストであって自分の関心事だけを読み込めばそれでもよいかもしれませんが、私はアニメのヒトなのでそれでは困る?わけです。私の結論は分裂していて、この作品が様々な評論家や思想家やら哲学のヒトが絶賛するような形で近代と身体の物語であるとすれば思想的アニメ的な後退としか言いようが無いと思いますが、実はそのような評論のされ方を含めた作品を創る製作者たちと(勿論監督がその代表)その状況自体まで含めた超メタ作品であれば、これは監督の決意のカタマリみたいな作品だと思ったりしてます。好き嫌いはあるでしょうが。前者の考えを今回の『ユリイカ』で唯一していたように思えたのは東浩紀さんだけで、流石スルドイというかオレと同じアニメ好きだなぁと思ってしまいましたよ(余談ですが前回の萌本で散々批判した東浩紀氏の『動物化するポストモダン』ですが、彼の議論はオタクに関する外在的な説明を試みたものであり、それに対して私は内在的な説明が自分にとっては大事だと主張したわけですが、齋藤環氏とかは本来内在的な議論に用いるべき精神分析を外在的なものと勘違いして使用しているために、それに対する反発を方向違いで東氏に行ってしまったわけで、今考えると申し訳ないことをしました)。

 

 ではそこに何を見るのか?とうわけですが、これは単なるオタク排除のためだけではなく、押井守の「復讐」もしくは「乾坤一擲」が込められているんじゃないかと、今回もそう妄想してみたわけです。何に対してか、は分かりようがありませんが。で、以下は本来別稿だったのですが、勢いで合体させちゃいました。話がダブったり文体が違うのはご容赦を。

 

 

逆襲の押井守 「ならば今すぐ愚民どもに英知を授けてみせろ!」

 

 饒舌に哲学的な台詞を散りばめながら、合わせ鏡の無限のような奇妙で懐かしい「状況」を登場人物に語らせつつ物語を展開し、さらにはそれが退屈なモノローグに陥らないために私たちと彼自身の分身を作品世界に登場させるという一見サービスサービスを行いながらも、それで更に「メタフィクション」的にその「状況」を深化させ鳥瞰的に見てゆく、そう言った知的な快楽を綴った押井守という監督がいたと思いねえ(江戸っ子のつもり)。それがたぶん初期の彼の作風であることは誰もが感じていることでしょう。でも最近の作品を見ていると、そのような泥臭く汗をかきかき悪戦苦闘奮闘する状況を描く監督はもういなくなったのだなと感じる人もかなりいるのではないでしょうか。雑誌『ユリイカ』の『イノセンス』特集で東浩紀氏は「押井監督のことを何も分かっていなかった」という慎み深い言葉を用いながらも、本当のところは郷愁を交えてそう語っているように見えました。実際、『機動警察パトレイバー2 the movie』あたりを境に押井作品は根本的にその「戦略」が変わったのではないか?という印象を様々な人が抱いているかもしれませんが(私だけ?)、それが表面的なスタイルの変化なのか内的な変革なのかということは、一人のオタクとして(笑)長年アニメを見続けてきた私にとっては「身体論」だとかよりよっぽど興味深く面白い問題です。

 

 この監督の変化はかつて『うる星やつら』を描いていた高橋留美子が、その初期作品の「面妖」な作風のみを支持する熱狂的ながらも偏狭な一部旧ファン層を切り捨て?自らの新たに選択したスタイルを貫き、それがたとえ『犬夜叉』のような毒が抜けたお話を紡ぐ「拙い」ストーリーテラーと敢て化したとしても、新しいファンを取り込み商業的にも生き残っていることに自信をもって活動していることを彷彿とさせるようにも思えます。つまり押井氏はメタフィクションや「哲学的」テーマなどという哲学プロパーだけが喜ぶような作品を語らないで、映像を作り作品をプレゼンし商業的に生き残る「職人芸」を評価されることを渇望しているかのようなことを自らは発言しているのかもしれません。ただしそのための「目くらまし」が逆に哲学的テーマというわけですから、相変わらず一筋縄では行かないお人ではあって、さらに「目くらまし」を「実行」すること自体が身体論的実践的に「哲学」しているという逆説というか重層性があるのではないか、そして身体論とはあくまでも意識のレベルで敢えて語ろうと押井監督は試みているのではないか?と言うのが、この文章の結論です。我ながら分かりにくい文章でスイマセン。つまりぶっちゃけ言えば、押井監督はいまや自分自身が都々目紅一と化して映画という虚構を身体的に実践して創造していると思うわけです。

 

 いやそんなことはない、実際彼は特に最近自分の作品の「哲学的テーマ・モチーフ」について饒舌に語っているではないかと反論する人もいることでしょう。しかし私は彼が自分の最も映画にしたがっている「動機」を易々と語るようなイノセンスな人間ではないと思います。と言うよりも、言語で語りえないことこそが、もしくは言語という意識レベルに上げない(彼の場合はそこを意識していても敢えてプレゼンテーションしない)部分にこそ、映画表現というモノを作る本当の「動機」があるのではないか?というのはよく言われることですが、押井カントクはそれを否定したくてしょうがない素振りを見せつつもやっぱりそうなんじゃないかと。これは別に精神分析的に下司の勘繰りをしようと言うわけではありません。例えば『イノセンス』で言えば自らネタバレするかのように監督自らが言い続ける哲学的なテーマ、その一つは「身体論」なのでしょうが(雑誌「ユリイカ」の特集で上野俊哉氏との対談で自らそーゆってるので素直に信用)、それ自体はとても面白そうなモチーフ・話題であるわけですし、後に述べるようにメタ的には彼自身の問題ともリンクしているのでしょうが、それを含めて考えても、そのような問題は「単発」で作品から切り取ってきてみたところで、彼にとっては「副産物」に過ぎないのではないかと。というよりも、彼の身体と彼の作品と彼の作品を創る行動とが入れ子構造的に織り成す階層のなかでは作品を形作る要素であると同時にそれら全体の縮図ではないかと、そー思うわけです。

 

 つまり以前に私が『うる星やつら2・ビューティフルドリーマー』や『紅い眼鏡』の構造解析(笑>フチコマかオレは?)で明らかにした(デッチあげた)ように、物語の入れ子構造(メタフィクション)は物語世界だけに留まるものではなくて、鑑賞者や製作者までをも巻き込むことで、その無限の階層を完成させようとしているのではないかと、そういう図式をまさにカントクが身をもって映画制作そのもので行ってしまうということです。ですから泥臭い部分、すなわち己のルサンチマンとパトスを、作品内で「メガネ」や「あたる」や「紅一」に演じさせることで「階層」が完結させないように、敢てその「役割」を自ら実践しているというわけです。だいたい滔々と妄想を絶叫する「素子」なんて絵にならないでしょうしね(観て見たい気もしますがソレは4コマまんがに相応しいかと)。

 

 自分でもよく分からない理屈だったので、もう少し具体的にいきましょう。『イノセンス』という作品の世界がプレゼンテーションする「テーマ」、例えば身体論でも魂の問題でも脳とコピーとゴーストも問題でもよいわけですが(実はよくなくてモチーフは「階層構造」を意識して厳選されているわけですが)、それらを「まともに」もしくは「真正面から」だけ語ることとは一体どんなモンでしょうか? テーマが今までのいわゆる「アニメ」と比べて如何に高尚で現代的で哲学的で現実的なものだったとしても、それではまるで昔に『宇宙戦艦ヤマト』を見ていた「若者たち」がアニメ雑誌で戦争を語ろうとしたり、その語り手たちをオッサンたちが「若者」の右傾化だとか戦争体験の風化だとかと危惧することと似ていないでしょうか? もっと最近では(って既に十年前?)『新世紀エヴァンゲリオン』を観て神学論争や自己啓発セミナーやアダルトチルドレンの問題を語ってしまうくらい「ナイーブ」なことではないでしょうか? 実はそのような「酔狂」で「趣味的」な活動は、同人誌野郎な私としては実は最も好きなのですが、酔狂とシュミをあまり真顔だけで語られると面食らってしまうわけです。というよりそれらは語ることではなくて、自分自身の人生と生活における「身体的な実践」を伴わなければ(別に運動をしろといってるわけではありません)、そんなに力瘤を入れて語るだけのリアリティがホントにあるんですか?と聞いてみたくなるわけです。私にとってリアルな問題とは、やはり空虚なものながらも惹かれてしまう萌えと燃えのアニメだったりするわけですので、アニオタ論議こそがわが道ではあります。

 

 まあ実際には知的な論評というのも実り多くオモシロイ試みでありましょう。実際に「身体論」「魂の生成」「精神分析的解釈」等々、様々な美味しそうなテーマを異なった角度から語り「思想」を膨らましている『ユリイカ』の『イノセンス』特集はたいへんに示唆に富む本になっていることですし、押井監督自身もそれを対談上で「真剣に」行って「祭り」に参加しているように見えます。ただし「半分」だけは、という印象です。別に「マトモに」この作品を語ることを揶揄しているわけでも貶めているわけでも、ましてやそれが単なるカモフラージュであるとか言っているわけではありません。ただ私は映画作品ではないくて所謂「アニメ作品」としてまっとうに『イノセンス』を語スタイルも必要な気がするだけです。言うなれば押井氏の作品への内在的なモチベーションと外在的なモチーフとの差みたいなもんなのでしょうかねぇ(無責任・・・)。

 

 では押井監督がCGIを駆使した映像の果てに求めるものは何なのでしょう? 意識的に究極まで計算しつくした映像の設計が示すものは、すなわち全てを意識的に作り込まなければ成立しないアニメという映像世界の設計は、彼自身が何度も言及しているように、そこは殆ど純粋に作り手の意識だけが投影される世界であり、様々な思想・思考・嗜好を盛り込める一種の言語のようなものかもしれません。そのような確固とした意志のもとに作り上げた意識の産物の究極の一つの形が『アヴァロン』や『イノセンス』であるように思えますが、これは監督の(無意識を含めた)意識、思想をダイレクトに表現できるという長所の背中合わせに、決定的な「身体論的」な短所があるように思えます。

 つまりアニメが出来上がるなかで関わる多くのスタッフ、つまり監督だけではなく、脚本や演出、作画、背景、動画、音響、音楽、声優など様々なヒトたちが関わるゆえに生じる揺らぎは、その作品の伝えうる「意識」をストレートには反映せず、時には台無しにしたりするかもしれません。しかしあるときには監督の意識が及ばないほど、それらを逆に増強させたり、全く異なった意図を盛り込むことさえあるのかもしれません。そのような偶発的なアクシデントから来る画面の力というものですし、過去にそのような作品が幾つもあったことをアニメオタクな私は色々と見てきました。これは監督の持つ作品に対する意図やモチーフを監督の「意識」の産物とすれば、それら偶発的?要素は作品の意識の外にあるもの、すなわち身体であり他者であるという比喩も可能かと思われます。

 だから私は余計混乱するわけで、なんとなれば『イノセンス』において押井監督は自らコトバとして「身体論」を唱えつつ、その一方で作品に対しては「意識」を隅々まで巡らせるのはまあ良しとして(それはデキル監督なら誰でもそうするものでしょうし)、ただそれを意識のもとで絶対的にコントロールしなければないというような強迫観念に陥っているかのようだからです。それはレイアウトだったり美術だったり(最後の最後でデジタルに画面をいじり倒したとのことですし)、さらにはキャラクターの魅力さえも希薄な作画監督を登用したりと(名監督のもとでは名スタッフは育たない?)、様々な彼の「行動」に表れているのではないでしょうか? それはまるで、映画の「身体」を悉く意識化して身体を消滅させイデアの世界を現出させようとする不可能を運命として受け入れようとする試みにも見えます。あたかもそれは、あたるが『うる星やつら』の世界から脱出しようとしても結局閉じ込められてしまったように、紅一がプトテクトギアの理念を信じながら裏切られシャワー室で夢を見つつその生涯を閉じたように、卵を割られてしまった少女が成熟した自分と水面の鏡で出会い銅像に固定化されてしまったように、帆場暎一が自らの勝利を確信しつつ真意も明らかでないまま自殺してしまったように、柘植行人がクーデターを偽装した思想的犯罪で首都圏一帯を混乱させながらもおめおめと生き残り状況の行く末を見守りたいと思ったかのように、です。

 ここで気付くのは、それ以降の作品では、草薙素子にしてもアッシュにしてもバトーにしても、そのような運命的悲劇に向かい堕ちて行くのではなく、未来に開かれた運命を待っているかのようなエンディングに思えますが、その悲劇性は既に物語のキャラクターから監督に逆照射、逆投影されているかのように思われます。これは単なる偶然でしょうか?

 

 作品そのものとして、という意味からは外れた邪道な問いではありますが、押井監督はそれらのことに意識的かどうかということは、アニメスタッフの人間ウォッチングとしては大変に興味あることですが、これがまた微妙ではないかと。なぜならば押井監督は雑誌『ユリイカ』の『イノセンス』特集において上野俊哉氏との対談のなかで「監督の無意識を否定して、映画なんてできるんだろうかと思うよね」というように、「意識」中心の考えを持っているわけではないようです。しかしその「無意識」とは身体感覚をも含んだ「無意識」のことなのか、それとも「下意識」とも言うべき言語化しようと思えば可能な「意識」の領域であるのか、そこをどのように考えているのかは彼の発言からは読み取れません。というよりも、言語化された彼の発言からは、「意識中心主義」としか思えないものばかりではあります。

 

 それとは対照的に、宮崎駿がその身体からくる直感とスタッフの偶発的な力をも駆使してたどり着いたクオリアの精妙なブリコラージュである『千と千尋の神隠し』という作品ですが(当然、意識中心主義の人はどう評論するべきか判らずヒットの原因が分からないのだと思いますが)、果たして意識化の極限がそれに対抗しうるのか? それが押井氏が身体的に実践として行いたかった隠された「動機」なんぼではないか? というのが本作品のメタ的なキモとではないかと私は考えています。と言うよりここで初めて『イノセンス』のモチーフと作品の製作意図が重なり合うように思えるわけで、押井氏の言う「欠落こそ身体である」という言説が西欧的な意識の産物の裏返し、身体を一度意識で消し去ってから身体を求めるという矛盾を背負いつつ、それを自覚して作品を創ってゆけるか、それが今後の彼の作品の肝になってゆくと思います。重ねて言いますが、押井監督は今自らが都々目紅一となって映画監督を「身体的」に実践しているのではないか? そこにおいて初めて、「身体論」が映画作成自体のテーマと入れ子構造を見せるのだとは思いますが、正直今回それが観客をも巻き込んだ形で上手くいったかどうか、何度もこの作品を繰り返し見てみないと分かりません。これはそれだけ手のかかる鑑賞を要求する作品だと思いますから、従来の映画の枠だけでの評だけでは語れないと思います。現時点では私の感想は辛口にならざるを得ず、つまりこの作品を鑑賞者が自らの問題として、すなわちかつて『うる星やつら2ビューティフルドリーマー』で見せたような「観客」をもメタ構造として巻き込んだ作品としてはボンヤリとしたものになっている気がします。自分のツラの曲がっているのを鏡のせいにしているだけかもしれませんが。ただ正直に言えばこれらの評は『ユリイカ』への回りくどい悪口であることをバラしてしましますが、人から指摘されるまえに言ってしまおうと思います。

 

 つまり私の考えでは『イノセンス』ごときでは?押井監督はまだその「到達点」になどには達してはいないと思います。この作品を彼の作品のひとつの頂点と考えることは、かつて『宮崎駿の到達点』などというムックで勝手に『もののけ姫』を彼の到達点だと決め付けそれを酷評していたアニメ評論家たちの愚行を彷彿とはさせます。私たちはまだまだその先の極みが見られるはずで、『イノセンス』を宮崎駿の作品系列で言えば、それは『もののけ姫』に相当する作品であると感じています(根拠ない思い付き)。つまり監督が思ったとおりのことを『真っ正直に』描いた苦闘の痕であり、映像を用いた意識と言う檻への復讐と決別を映画制作という自らの身体による実践で示したモノではないだろうかと考えるわけです。それは彼の通過点のはずであり、その意味ではこの作品を手放しでベタ褒めしたり、逆にこれをもって彼を見限るのは早急というものです。以上が私のなかでの『イノセンス』への感想であり、分析でも評論でもなんでもないのでスイマセン。

 

 というように、以上のような感覚的なだけの評を書いてみたのですが、何か実証的でも何でもないので、もう少し人形の話に戻って具体的にいきましょう。

 

 

ちいとハダリ、もしくは紅の守護天使

 

 んで、とにかく言いたいのは、近代の意識が認識する狭い意味での「身体」の産物である球体関節人形というモチーフを選んだのかということは、もし「哲学的」なモチーフを展開するのに有利だったとしても、逆にもっと広い意味での「身体論」を展開するに必要不可欠な性と萌えの概念を省略して捨ててしまうという意味において、「近代」という古風な自我と身体の問題に話を限定してしまうデメリットとなっていたのではないでしょうか? というのがとりあえずの私の結論です。

 近代の頂点の人造人間の機械論的な観念の表象するものが結局は球体関節人形にすぎず、しかしなおそれでもそこには守護天使が降臨しうるわけで、それは結局人形に魂を吹き込むというアニミズムと図らずも一致した構図を見せてしまうにもかかわらず、バトーは犬という主人に忠実な「人工的な自然、飼い犬」を選び、かたやトグサは家族と娘と人形という汎神論的を選びながら、その構造は一緒であると言わんばかりの構図ではあるものの、それは本当に「リアルワールド」でも通用するテツガクなのでしょうか? また双方を満たす「方法論」(真実や事実ではない)のひとつとしてカオスやら複雑系があるのかもしれませんが、それを知りながら敢えて取り込まないのは、やはり都々目紅一的ルサンチマンがあるために近代という意識と理念に忠実な時代精神に固執するのでしょうか。それともそれらを全て飲み込む何らかのフレームを押井監督は手に入れたのでしょうか?

 具体的描写にさらに移ってみましょう。たしかにいくつも光る「絵」はありました。というよりそこでの描写が全編を通してなされればもっと素晴らしい作品になったのでしょうが、これは監督の絵の管理の問題なのかアニメーターの力量の問題なのかは一鑑賞者という無知で傲慢な消費者には分かりようもありません。例えばオープニングでアンドロイドが形成されてゆくシーンの貌。瞳の美しさとそれに映りこむ「人形」自身の姿の不気味さのコントラストが見事でしたけど、一度見た時には全然気がつきませんでした。また所轄警察の鑑識に幾つも吊り下げられている袋のなかの本当の死体のような黄色のアンドロイドの表情。できればこの死体っぽいながらも恍惚の表情が、少佐のそれと一致しつつ実は人形たちの苦悩の表れとして表現されうるならば、どんなに素晴らしかったことでしょう。それに反して最初バトーと戦闘したトムリアンデ、ハダリは正直全くいただけないかと。これはまるでオタクが萌えるデザインにしたくなかったことを最優先とするあまりに、人形のベルメール的な魅力までも削ぎ落としてしまったダメ絵だと私は思います。この作品のそれは正直気持ち悪いだけです。いえ、気持ち悪さすらも中途半端で、恐怖映画的な人形の怖さも、無機質からくる逆説的な魅力も表現できたとは言えないと正直思います。だいたい現実の球体人形のほうがまだエロティシズムを惹起させ、その無機質さに対し生じる生身の感情が自我体制を揺さぶることでインパクトを与えるくらいで、そんな描写が今回の映画では出来ていないことにはちょっとガッカリさせられました。

 

 ではそのご本家の球体関節人形はどんなもんじゃらほい、と言うことで検索してみると「ハンス・ベルメール:日本への紹介と影響――球体関節人形を中心に――」(http://bluecat.web.infoseek.co.jp/bellmer/link.html)という便利なサイトがあったりします(以下ググッタら出てきたサイト・検索ってスバラスィ)。たしかにこれに載ってるだけの数少ない作品を見ただけでも、イメージ喚起力というか衝撃は結構なものだとは思います。でもたったこれっぽちを観ただけで非道い話ですが、感想を似非知識で言ってしまうと、押井さんの今回のハダリのイメージってハンス・ベルメールさんの作品のなかでも、巨乳好きしそうな球体間接人形というメジャーどころの作品よりは、ポンピドゥセンターとかのサイトにあった枯れた味わいの(笑)作品とかからイメージをとってきた印象です。つまり『イノセンス』オープニングで使われた脚とオナカしかない人形の合わせ鏡図みたいな(水面のイメージからも来る?)シャム双生児を彷彿とさせる作品(http://www.centrepompidou.fr/Pompidou/Musee.nsf/DocsAcquis/IDD28B1940EF59989FC1256B680042981E?OpenDocument#top)のほうだったりする印象です。あとはそのまんまというカンジではありますが、日本の伽井丹彌氏(http://www.tokachi.com/kai/)のイメージの方が似ていたりするかもしれません。実はどれに似ているということはどうでもよくて(押井さんは引用についてイメージの喚起力があればどんなもんでもひっぱってくる、オリジナルがどうとかキニシナイ、というような発言もしていますし、私もそれに賛成ですが)、むしろ問題はせっかくベルメールとかを持ってきたのに、それに相当するだけの「不気味なもの」という煌きに、抑圧というか抑制をかけてしまっているのではないか、イメージを雲らせてしまっているのではないかと思うわけです。それはこの作品の絵柄の特性で、性的で死のイメージを欠如しているためではないいかと思っています、根拠ないですが。そしてそれは意識中心主義と全く変わらない「身体論」という「近代の観念」というフィルターが実写やドールで表現されたときには魅力的だが、アニメのそれでは思ったような効果を生じないかと思うわけで、そこらいへんが初めこの作品を見たときの最も大きな不満でした。それについて更に印象というか絵柄のことから述べてみましょう。

 それはつまり、私があまり好きではない(申し訳ないですがアニオタの私にはキッツイ作画なもんで・・・)沖浦啓之さんのキャラクターデザインとか作画監督の黄瀬和哉さんとかそれをよしとする監督の感覚だったりするのでしょうが、ハッキリ言って物語最後の潜水艦内でワラワラとハダリが湧いて来る場面の表情は単なるお顔の不自由な女性のそれであって、全然人形でもアンドロイドでも戦闘用でもないダメダメでお笑いな印象でした。それが如何に非人間的な動きをしようと、作画力の限界とかの前にキャラ設計の限界がきてしまって、別の意味の怖さ(楳図かずお作品を実写にしたような)を感じてしまい、ワタシ的にはちっともシリアスになれませんでした。例えばハダリが『天使のたまご』の少女、若しくはその成長した女性版(最後の方で水面に映るおねーさん)のような天野キャラだったら、作品の質がどんなにか飛躍的に上がっていたことでかと製作者には残酷な物言いですが、そう思うわけです。そうなれば評論家が近代の「身体論」なんかでお茶を濁されるようなこともなく踏み込めないくらいの「危険」で触れ難い作品になったのではないかと残念に思います(いつも無いものねだりのオタクの暴言ですが)。

 

 例えばハダリのあの髪の毛の濡れ具合的な描写が上手く行っていたのは、先ほども述べた鑑識の透明なバックに釣り下げられていた絵くらいのもので、それには胎児とや死体の顔や般若とかも混じっていることでイイかんじでした。既に誰かがきっと指摘していることなんでしょうが、球体関節人形のオナカとかオシリってこれは赤ちゃんのそれによく似ているわけで、イロっぽいおねーさまと少女と幼児と死体とのイメージの混交がイイわけです(ゴスロリとかもそうか)。その半面、今回の作品のように単一のイメージに収束しているくような作画では、萌え絵に見られるような「単一の感情に収束しない心の震え」に欠けていたりするわけで、これは全く個人的なシュミの問題なんだろうとは思いますが、その意味で和服着て百合の花を髪にさした日本的に淡白な印象の球体関節人形というのはイメージとか情念の喚起力が弱いので映像作品としてはいかがなものかと思われるわけです。繰り返しますが、そのような安全な近代の身体論のイメージだから「ユリイカ」の『イノセンス』特集に集められた安全な評論しか出てこないのではないかとメジャー?どころに対する嫉妬を交えた嫌味の一つも言ってみたくなるわけです。

 

 ですから上野俊哉さんが日本のアニメをベルメール的な感覚で、という件はやっぱり萌えを理解できておらぬわこの未熟者メ、ってカンジで(笑)、自分たちの感覚で「痙攣的な美、強迫的な美」とか「不気味なもの」(オッシー談)だという外挿的なハナシになってしまい、人形と肉の話にはちっとも響いてくるものがありません。ベルメールじゃなくてフル可動等身大フィギュア「まりんちゃん」とか綾波のドルフィーかを評論の俎上に上げられないならば、あえてオタク系を引用することもないだろうに、というのが私の感想です。

 

 蛇足になるかもしれませんが、これと対照的な作品として考えられるのはCLAMPの『ちょびっツ』でしょうか。この稿を読んでいる人で知らない人はいないと思いますが、この作品にでてくる「パソコン」と総称されるアンドロイドはまさに萌え萌えのカワイイニンゲンそのものの姿であり真に「人体の理想形を模して造られた」ということが絵やストーリーからも強迫的に迫ってきます。つまり、ちいがホントにいたら欲しいなぁ、という具合です。セクサロイドであってもハダリを欲しいとはちっとも思いません。ちいは何の前提もなくパソコンという機械人形が人格を持ちそれに答える主人公がいて、確かに単なるファンタジーでしかありません。しかし心身二元論も哲学的ゾンビもフレーム問題も超えて、アンドロイドにあっさり人格を認めてしまう女性的な身体的感覚のこの作品は、実は世界認識問題に悩んで演繹的に二足歩行が出来なかったロボットに対して帰納的機械的にそれを実現してしまったホンダのASIMOくらいインパクトのある話だったと思います。まあTV版の最後は脱力系でしたが。

 『ちょびっツ』は作品自体は近代の自我や身体の概念を超えた何かを読み込めるテクスト・作品であるのに対して、『イノセンス』は逆に作品自体は近代の身体論という古臭くて制限された「身体」すなわち近代的な意識の産物にこだわってしまった作品だと思えます。しかしここで大逆転なのですが、そうすることにより、作品を読み込む鑑賞者とその製作者を含めた「状況」が無限の階層構造を形成することで、その「身体性」を作品の外に、それこそ製作者や鑑賞者の側に担保したのではないかというのが私の備考欄にでも書くべき感想ですが、でも本当にそれでイイのでしょうかという気持ちもあります。

 私は『イノセンス』という作品を近代の目で見て手放しに賞賛する人たちに賛同する気にはなれませんし、かと言ってその作品の製作、鑑賞、評論の状況も含めたときに得られるポストモダン性を見出した(捏造した)からといって以前押井作品に「構造」を見出したときのようにその解析に興じる気にもなれません。要するに果たしてそれが映画作品として好きになれるかというと、これまた疑問には思いますが、それは単に映画の形態に拘っていて新たなメディアの鑑賞方法に戸惑っているだけかもしれません。例えば大画面で個人で繰り返し何度も見るという殆どの人にとっては不可能な状況できっと様々な表情と反復がもたらす映像の快楽が生じてくるかもしれませんが、それはもう旧来の映画の鑑賞方法の範疇を越えてきてしまっているのではないかと。すなわち押井監督が庵野秀明の言葉を引用して自ら語るように「アニメ>映画は情報量のコントロールが全てだ」と。それならなば過剰な情報量を投入することで得られる映画的な快楽がどのようなものかを教えてくれるだけの作品になっていたか現時点で私には評価できませんが、ひょっとして曽田正人の『昴』に出てきたのプリシラ・ロバーツのように終劇のあとにも延々を尾を引くステージを目指した作品だたのではないかと、オタク的にはそう考えてもみたい気がします。しかし監督自らが言うように映画文法を逸脱して映画という形態からも疎外され、たどり着きたい場所は一体何処なのかという疑問は依然として感じざるを得ないわけです。そこに観るのはやはり都々目紅一とダブる押井監督の姿です。「待っていたのはオレだけだ」と。

 

 身体性をクオリアの嵐のなかで析出させた『千と千尋の神隠し』や、あらゆるものを擬人化し萌えの対象に捏造してしまうオタク的感性などは、『イノセンス』のように近代の極致を極めたそれを超えた時に見えてくるもの、辿り着くものというように気張らなくても、「身体論」的な全体性の匂いを残してくれたような気がします。また情報を画面に詰め込むのは『超時空要塞マクロス』で既に試みられている方法ですが、そこでは複数のオタクたちの過剰な「意識」のカタマリが感じられることから、意識の産物に過ぎない作画からも複数性から生じるカオスの手触りを感じました。しかし『イノセンス』という作品には、鋭いながらも監督のモノローグのカタマリしか感じられません。宮崎駿ですらも、スタッフの複数の意思が介在する偶然やカオスや複雑系的な構造の創出を狙っており、ただ単にそれらを「制御」するのではなく「手入れ」するのに対して、押井監督は自らの意思を繰り返し塗りこ込むことによって近代的な構造を徹底させて脱臼させ脱構築するつもりなのかもしれません。それが一筋縄ではいかないこの作品の困惑点です。しかしその狙いは今回は果たせなかったのではないでしょうか? まるで正直に自らの考えをカミングアウトした『もののけ姫』が力余って思わぬ方向を向いてしまったときのように。繰り返しますが、この作品だけでは押井監督の底はまだ見えていないのだと私は思っています。今回の方法論を徹底させたときにどんなものが見えてくるのか、何かまた新たな手管を使い身体論的に映画を作る彼の次回作を私はとても楽しみにしています。

 

 

(2004/07)

 

 


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