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イノセンス私記

 

 

清瀬 六朗


  

 

 『イノセンス』についてまとまった議論を展開できるほど、この映画についての私の印象は十分に熟していない。たしかに、『Talking Head』に登場する編集「森田」の「二度観る必要があるんだ」という要請はクリアした。でも「何度でも、観る必要があるんだ」という律儀さはまだ十分に果たしていないと思う。

 そこで、今回は、私と『イノセンス』の関わりを中心に、体験談風にだらだらと語ってみたいと思う(文章がだらだらしているのはいつものことだけれど)。私の体験を追うことになど何の興味もないし何も意味も見いだせないという方は読み飛ばしていただきたい。

 

 

 1 序論のような事情説明

 

 映画が公開されるまえ、私は『イノセンス』にはいまひとつ関心が持てなかった。

 多忙で映画というもの全般から遠ざかっていたということはある。それよりも、いま思えば、自分で自分に『イノセンス』に関心を持つことを禁じていたようなところがあった。意地を張っていたのである。

 なぜそんな意地を張っていたか? 押井守作品を鈴木敏夫がプロデュースし、ジブリが製作(製作協力)し、ローソンでキャンペーンを張るという製作と宣伝のやり方に違和感を感じていた。もっとはっきり言えば反発を覚えていたからだ。

 私はジブリ作品が嫌いではない。とくに『天空の城ラピュタ』から『紅の豚』までの宮崎駿作品は私の大好きな映画だ。このころのジブリ作品とめぐり会わなかったら、私はいまアニメを観たりアニメについて論じたり自分で小説を書いたりはしていなかっただろう。ちなみに、『紅の豚』を観て映画館で何度か涙を流した日々のあと、「さすがにアニメからもそろそろ卒業かな。過去のアニメを回顧することはあってもこれから出会うアニメで感動することはないかも知れないな」と思っていたところで出会ったのが『赤ずきんチャチャ』だった。その思いはあっさり裏切られ、『チャチャ』と出会ったことのもろもろの効果で私はついに引き返し不能の未帰還者となり、今日に至っている。

 でもここは『チャチャ』について論じる場ではないので、その話をつづけるのは別の機会にしよう。

 ちなみに私はローソンにも何の恨みもない。私の自宅からいちばん早く着けるコンビニも、職場を出ていちばん近いコンビニもローソンだ。いつもお世話になっている。感謝こそすれ、ケチをつける理由なんかない。うちの近くのローソンは店員さんはみんなとても仕事ぶりが行き届いているし愛想もいいのだが、弁当の品揃えをもう少し……なんて話もここでしてもしょうがないのでやめる。最近はナチュラルローソンの豆乳花がけっこう好きだったり……。

 ただ、ジブリの作品のなかに非常に好きな作品があると言っても、私はジブリ作品の売りかたには違和感を抱いていた。

 一つには、ジブリ作品といっても監督ごと・スタッフごとにそれぞれ個性があり、それを一つの「ジブリ」ブランドにまとめてしまうことに違和感があった。

 でも、もっと大きな理由は意地である。

 世界的にはもちろん、日本の映画界でも、宮崎駿のアニメ作品に注目するのは特定の一部だけという時期から、私はジブリのアニメ作品を何度も何度も見てきた。その当時は、映画誌で宮崎駿特集が組まれても、「宮崎のアニメは動物がたくさん出てきて気もちわるいから嫌い」という、映画評論界の大御所評論家のばかばかしい批評なんかが平気で載っていた。作品をともかくもいちおうは観て評論していると感じられる批評はわずかだった。そのころから「日本の映画業界に宮崎アニメがわかられてたまるか!」という怨念が蓄積していたのである。

 それが、押井作品で言えば『攻殻機動隊』のころから、宮崎作品ではもちろん『もののけ姫』のころから、世間の気分が変わってきた。というより、評論界やマスコミの「アニメ」に対する態度ががらっと変わった。『Talking Head』の術語でいえば、「アニメを見る評論家」の比率が「アニメを見ない評論家」の比率と較べて相対的に増えてきたのだろう。

 でも世間の気分なんかほんとは変わっていないのかも知れないと思う。評論界やマスコミが注目するアニメは、膨大な作品数を誇る日本のアニメ作品のなかで、一部の監督の一部の作品に過ぎない。宮崎駿や大友克洋や庵野秀明は注目されても、『十兵衛ちゃん』の大地丙太郎とか『デ・ジ・キャラット』の桜井弘明とか『宇宙のステルヴィア』の佐藤竜雄とか、いやいま『ケロロ軍曹』の総監督をやっている古参の佐藤順一でさえ、マスコミ全体や評論界全体の水準で見れば注目されることはまずない。

 もっともね、注目してもらったら困る――って気もあるんですけどね。たとえば黒田洋介さんの作品は、私はやっぱり世間的には極少数派の人たちがこよなく愛する作品に留めておきたいという気がするのですよ。だってですよ、メシ食いながらNHKのニュースを見ていて、「イラクのサマーワで自爆テロがありました」みたいなニュースの次にいきなりまおちゃんの映像が大写しで流れたりしたら、ほんとどう対応したらいいか、自分で想像もできないじゃないですか。

 ――話をもとに戻そう。

 ところが、そのスタジオジブリが、『天空の城ラピュタ』のころから作品を見つづけているファンではなく、「世間一般」のほうに顔を向けてしまった。ずっとアニメを観てきたファンを弊履のごとくうち捨てて、「ジャパニメーション」ブームに乗って日本のアニメにはじめて注目したような人びとに照準を合わせたのだ。

 私は、違和感というより嫉妬とか失望感とかむなしさとか、ようするに「失恋」に近い感じを覚えていた。昔からアニメを見てきたファンと、ついこのあいだまでアニメを子どもだまし程度にしか思っていなかったような人びとと、どちらがずっとアニメを愛し、アニメを観る目を養ってきたと思っているんだ! しかも鈴木敏夫は『アニメージュ』の編集長をしていたひとである。そういうアニメファンの気もちはよく知っているはずなのに。

 私は『もののけ姫』以後の作品を観てはじめてジブリ作品のファンになった人たちのことを問題にしようというのではない。ジブリが「従来のアニメファン」や「従来のジブリファン」にこだわらないセールスを展開したから、この新しいファンの人たちの少なくない部分は自分の好きな作品にめぐり会えたのである。

 で、それはいいことだと思うのだ。ジブリ美術館を訪ねると、三階にあるネコバス(の遊具)では子どもたちが遊び、若い親たちがそれを見守りながらたがいに話をしているのに出会う。たぶんその親たちの何人かはここに来るまでたがいに見知らぬどうしだったろう。ジブリ作品のこういう受け入れられかたは、少数のジブリ作品ファン・宮崎作品ファンだけを対象にした売りかたをしていてはありえなかった。ジブリ美術館まで来て「ここの前のバス停で祥子さまと祐巳が……」などということを考えている私のような「ファン」は少数のほうがもしかすると作品としては幸せなのかも知れない。

 それに、私だって東映動画時代や『カリオストロの城』から宮崎駿作品のファンだった人たちと較べればずっと新参者だ。

 宮崎駿の作品はまあそれでいい。でも、ジブリはその宮崎駿作品でやってきたことを、こんどはよりにもよって押井守でやろうというのか!

 押井守の作品を、ずっと押井守作品を見てきたファンから引きはがして、これまで押井作品になんか何も関心のなかった人びとをターゲットに売り捌こうというのか!

 そうやって作られた作品なんかだれが見てやるか。

 私はそんなふうに意地を張っていたのだろう。『イノセンス』の宣伝や関連商品にはなるたけ近づかないように、関心を持たないように自分の行動を制約していたのかも知れない。忙しかったのも確かだけど。

 それに、私には、『イノセンス』の次の企画として押井守が考えている『Pax Japonica』のほうがよほど気になっていた。二〇〇三年二月二六日の「二・二六」イベントに参加して『Pax Japonica』の構想を聴き、軍事オタクの感性で「分裂(分断)国家日本」を空想するという仕掛けが気に入ってしまったからだ。『イノセンス』は観なくてもいいや、それより『Pax Japonica』が具体的なかたちになるのを待とうというのが私の気もちだった。

 しかし、『イノセンス』が実際に公開されてみたらやっぱり無視するわけにもいかず、実際に劇場に足を運んだ。家を出る前と劇場から出てきたあとでは世界観がコペルニクス的に変わっていた。まったく、へんな意地を張って『イノセンス』を観なかったとしたら私は人生にどれくらいの損失をこうむっていたことだろう! 私はたちまちそんなふうに変説していた。

 いっしょに行ったWWFの奥田さんには私はあまり感動しなかったように見えたらしいが、ほんとうはそんなことはない。帰りの電車におとなしく乗っているのに耐えられなくなって、途中の駅で下り、少し離れた別の鉄道会社のほかの駅まで歩くという意味のない行動をとってしまうほど私は感動していた。とにかくまだ寒い街を歩いて高ぶった気もちをクールダウンする必要があったのだ。

 それからというもの、『イノセンス』を観るために劇場に入るたびに、客の入りが気になるようになってしまった。『イノセンス』を自分の目で見て、「ジブリ流」の売りかたがおよそ不似合いな作品だということがわかってしまったからだ。どこをどう見ればこの映画がファミリーや女性に受けるというのだ?

 「『イノセンス』は二度観ればだいぶ印象が違う」というのが奥田さんのご意見である。それはまことにそう思うのだが、私たちのような者はともかく、大多数の観客に「二度めを観よう」という気を起こさせる映画かというと、ちょっとそうは思えなかった。

 でも、一週間もしないうちに映画館はガラガラになるかもしれないという危惧は現実にはならなかった。公開から一か月以上も経った、それも場末っぽい場所の映画館でも私の予想以上に観客は入っていた。映画の内容が十分にわからないうちにローソンで前売りで爆発的に売って逃げ切ったのか? それだけとも思えない。

 ただ、子どもにいいアニメを見せてやろうという気もちで来たらしい親子連れの親御さんの困惑した顔とか見ると、やっぱり気の毒にはなったけどね。せめて劇場でバセットハウンドのぬいぐるみとか売ってればよかったのに……ってようするに自分が欲しかっただけだけど。だってさ、『クイール』のぬいぐるみがあったんだから(あれ売り物じゃなかったのかな?)、同じ犬映画として『イノセンス』が不戦敗ってのはよくないでしょ?

 押井守は、たぶん、即座に評価され、初公開時の興行収入で投資を回収できるような作品を目指してはいないだろう。一〇年後ぐらいにはいい作品だと理解されるような作品を目指したのだろうし、それを作り抜いたという自負は持っているだろうと思う。

 スタジオジブリにとってもやはり『イノセンス』を作ったことはプラスになったのではないか。まあよけいなお世話だけれど。

 それより早く『猫の恩返し2』を作ってください。『ハウル』の次の年は『猫2』が見られるものと思って待ってますからね。

 

 

 2 ひたすら浪費される情報と文化

 

 『イノセンス』の映画が始まって最初に目を引きつけられたのは「狗」・「祿」などと書いた夜の超高層ビルの映像だ。映像より漢字のほうに先に興味を奪われた。「ああ、ここも漢字世界なんだ」と思ったのだ。

 私は『攻殻機動隊』(劇場版)は漢字世界だからこそ成り立ち得た作品だと思っている。1バイト文字(「半角」の英数文字)から2バイト文字(漢字やカナなど「全角」文字)へとバイト数が数字のうえで二倍(実際には二五六倍?)になっただけで、コンピューター上の文字が表現できる情報世界は飛躍的に豊かになった。漢字がデジタル的に表記できるようになったことで真の「情報の海」が生まれたのだ。「人形使い」は「情報の海」で生まれた生命体だ。少なくともそう自称していた。ということは、「人形使い」は漢字がデジタル的に表記できるようになった世界だからこそ登場することができたということだ。

 ――『攻殻機動隊』が公開されたとき、私はそんな感想を書いた(「『攻殻機動隊』速攻感想」。この文章を掲載したコピー誌は品切れになってしまったが、改訂を加えて「アトリエそねっと」のホームページに掲載する予定である)。

 同じように『イノセンス』でも漢字やハングルの氾濫する東アジア的な世界の感覚が作品を支えている。

 最初は、警察署に「警」と書いてあったり、監視装置に「觀」と書いてあったりする直截さにかえって違和感を持った。けれども物語が進んでいくうちに気にならなくなった。

 それは、一つには、バトーとトグサが択捉に渡るに及んで、孫悟空とか三国志の英雄たちとか、漢字よりもさらに中華文化圏的なものが画面にあふれだしたからという理由もあるだろう。そのあまりに中華文化圏的なものの溢れかえりの前に、漢字がたくさん使われていてもそんなことはどうでもよくなってしまった。まさに「小さな嘘をさらに大きな状況を創り出すことで無効化する」という押井守お得意のやり方である。

 しかも、その中華文化圏的なものは、キムの館に突入する場面からキムの部屋に入るまで姿を消し、そしてキムの部屋でとつぜん復活する。これも意味ありげな感じはするのだけれど、そのことをどう解釈していいか、私はまだ考えていない。

 この映画に溢れかえっている中華文化圏的なものとは、無政府的で、頽廃していて、しかも考えられるかぎり華美で見得を切りまくった文化だ。あの択捉の姿は実在の中華文化圏のある極限的なあり方なのかも知れない。

 しかし、一方で、汚い街にアヘンの煙が渦巻くという、一九世紀のヨーロッパの作家たちが考えた「東洋的なもの」のイメージも反映されているように思う。それは、たぶん、むしろ現実の中華文化圏のありようではなく、ヨーロッパの都市のアヘン窟街のイメージに直接につながるものなのだろうと思う。

 文字の話を続けよう。

 漢字はアルファベットと違って表意文字である。漢字は基本的に一文字単独で一つ以上の意味を担う文字だ。漢字は一文字でも何かの情報を伝える。ローマ字は、何か特別な背景や約束ごと――たとえば「A」が「優」で「D」が「不可」とか――がないかぎり、一文字では何の情報も伝えられない。ハングルは表意文字とは言えないが、中国語と朝鮮語の音節構造の関係から、ハングルひとまとまりで漢字一字に対応するようにできているので、漢字の知識をもって読めばある程度は背後に漢字をすかし見ることができる。

 ところが、『イノセンス』のばあい、その中華文化圏的な表意文字がみごとに浪費されている!

 せっかく一つひとつの文字がそれぞれ何かの意味を持っている文字なのだ。それが何の意味も見出されることなく映像のなかをただ流れていく。それは「目立たせるための浪費」ですらない。ただ浪費され、目立ちもせず、流れていくだけなのだ。それも大量に。

 情報とは、何かの「意味」を伝えるためのものなのに、それが何を伝えるかにはこの作品のなかでは何の関心も払われない。ただ溢れかえるように存在し、流れて消えていくだけだ。強いていえば、溢れかえるように存在して流れて消えていくことにだけ意味のある。『イノセンス』世界で中華文化圏的な表意文字で担われる情報は、「あってもなくてもたいして変わらないけれど、ないとなんとなく物足りない装飾」である。そして、それに過ぎない。

 『イノセンス』に出てくる中華文化圏的な意匠も同じである。それはたしかに一時的には人目をひくかも知れない。けれども、それを見たからと言って相手が何かの情報を受け取るでもなく、その華美さ派手さにくらべてさっさと忘れられてしまう。

 それは、一時的に愛玩されてすぐに捨てられていく人形たちの姿にも重ね合わせることができるかも知れない。

 そして、この作品では人形と人間のはっきりした区別をつけていない。だとすると、人間自身だってたんなる「あってもなくてもたいして変わらないけど、ないとなんとなく物足りない装飾」に過ぎないことになる。

 情報の海に覆われるとはたぶんそういうことなのだ。

 意味を伝えるはずの情報が、ただ存在してしかも流れてすぐに見えなくなってしまうことにだけ意味がある。何の情報か、何を伝えようとする情報か、だれがどんな意図で流した情報か――そんなことは何も気にされない。

 『攻殻機動隊』(劇場版)のドラマはまだ情報に秩序のある世界で展開されたドラマだったように思う。だから「情報の海」で生まれた生命体の登場が衝撃的であり得たのだ。しかし『イノセンス』では世界の全部がその「情報の海」に浸かってしまっている。

 これは『イノセンス』世界だけの話ではない。私たちが日常的に接しているインターネットの世界がそうなのだ。

 私たちは電子メールをやりとりしたりホームページを閲覧したりして、意味のある情報をインターネットから取り出している。だが、インターネット上を流れているのは情報の断片だけなのだ。それが大量に流れている。そのほとんどの情報は、何の意味を担っているかを考えてもらうこともなく、だれがどこへ届けようとしているのかも関心を持たれず、ただ流れては消え去っていく。

 そのなかから、一定の情報を一定のやり方(プロトコル)で取り出したときにのみ、それは意味のある情報として私たちのところに届く。私たちはメーラーやブラウザでその部分しか見ていないから、そういうインターネットの実態に気づくことはない。だが、インターネットでの情報の流れのありさまがじかに私たちの目に見えるところに現れたら? そこで見せる姿があの『イノセンス』の猥雑な世界なのだ。

 大量の情報が溢れかえるように流れていて、それぞれの情報が何かの意味を担いつつ、でも全体としては何の意味も表現しない、また全体として何を表現しているかということなどだれも気にも留めない。

 それが、バトーのいう「均一なマトリクス(行列式)」というものなのかも知れないと思う。

 その向こうからバトーに情報を伝えてくれるのが、バトーの「守護天使」である。バトーは一度も「守護天使」は草薙素子だと言ってはいないのだけれど、とりあえず素子と考えておいていいだろう。

 でも、その素子というのはいったい何者だ?

 

 

 3 霊魂/身体二元論をめぐって

 

 中国の伝統文化の発想では、人間の身体は「仮の宿」だという。

 どこかから魂がやって来て「仮の宿」である身体に入ると、人間は生きる。魂がその「宿」を引き払ってしまえば人間は死ぬ。霊魂不滅論に基づいた素朴な死生観である。

 私がこういう中国伝統文化の死生観に出会ったのは、『捜神記』や唐代の伝奇小説を読んでいたときだった。このような死生観が中国伝統文化のなかでどれくらいの広がりをもっていたのか、いつの時代もそういう死生観を持ちつづけていたのかはわからない。そのことの探索はまた気が向いたらやってみることにして、ここではこれが中国の伝統文化の発想だということにしておこう。

 『イノセンス』を見ていて、その中華文化圏的な装飾に心を奪われていた私は、自然とその中国の伝統文化の発想を思い起こした。

 それは、この大時代な「霊魂/肉体二元論」が、『イノセンス』世界での「人形」の仕組みや、ハダリの暴走、「少佐」の出現などによくあてはまるように感じたからだ。

 機械部品で組み立てられたガイノイドはただ身体だけの存在だ。そこにプログラムや「ゴースト」を注入することで、ガイノイドは人間の少女のように動く。正規のプログラムではないプログラムが注入されると、暴走して人間を殺したり侵入者を攻撃したりする。

 ここではハードウェアとしての身体とソフトウェアとしてのプログラムや「ゴースト」ははっきりと分かれている。しかも、機械身体のほうは一個体ずつ別々に作られているが、プログラムやゴーストは外から注ぎこむことが可能になっている。外から注ぎこむことを前提に技術が成り立っていると言ってもいい。また、その技術によって大量生産ができるからこそ、ガイノイドが商品として成り立っている。『イノセンス』の世界とはそういう世界だ。

 機械身体はプログラムや「ゴースト」にとって「仮の宿」だ。外からプログラムや「ゴースト」が身体にやってきたときに、ガイノイドは生命を得る。プログラムや「ゴースト」が身体から引き上げられてしまうと生命を失う。中国伝統文化での人間の死生観はガイノイドの生死によくあてはまる。

 ところで、人形以外でこの「死生観」がよくあてはまるものがある。コンピューターである。

 コンピューターはプログラムがなければ何の役にも立たないただの機械だ。プログラムが注ぎこまれることで、コンピューターは、人間なら何日もかかる計算を一瞬でやったり、人間が手で描くことのできないほど複雑な画像を緻密に描いたりして、人間の能力をはるかに超える仕事をやってくれたりする。また、プログラムが注ぎこまれることで、同じ規格で作られたコンピューター一つひとつが別々の個性を備える。

 押井守がかつて描いた『機動警察パトレイバー』のロボット「レイバー」も同じだった。劇場版『パトレイバー』(第一作)のレイバーは、ウィルスを仕組んだプログラムによって暴走を開始し、「方舟」を破壊するために来た警察官の一隊を襲撃した。警察官が不正規活動で海上のプラットホームや工場に海から侵入し、セキュリティーシステムを破りつつ内部に突入する。途中でシステムが暴走を開始し、人型の機械が警察官を襲撃する。警察官はその妨害と戦いながらシステム中枢に到達し、破壊する。そういう流れは『パトレイバー』劇場版(第一作)と『イノセンス』で共通している。

 『イノセンス』の「人形」と、中国伝統文化の人間の死生観と、コンピューターや『パトレイバー』の「レイバー」は、いずれも「霊魂/身体二元論」で説明されるという点で共通していた。要するに、「人形」をあいだにはさんで、人間も機械も「霊魂/身体二元論」で説明できるという点で同じということだ。

 『イノセンス』の世界では人間の身体は大幅に機械化されている。バトーなどどこまで自分自身の身体か自分でもわからない状態だ。『イノセンス』世界では、人間のように見えている存在が「人形」かも知れず、身体のほとんどが機械になっていても人間かも知れない。択捉に出てくる異形の者たちのうち――いや普通の人間に見える者たちまで含めて――、どれが人間でどれが人形なのかはわからない。そして、だれもそのことを気に留めていないのだ。「人間か、人間でないか」という情報すら、気に留められることもなく、ただ大量に流れ、そしてすぐにどこかに消えていく世界なのである。

 「霊魂/身体二元論」が生まれた一つの契機は人間が人間の死に直面したことではないかと思う。死者の身体はたしかに死んでいる。しかし、世界のそれ以外の部分は、つい先日までその死者が生きていたときとほとんど変わっていない。世界はその人が生きていたときと同じように動きつづける。その人が死んだという大きな変化が起こったとは思えない。だったら、じつはその人の存在はどこかで継続していて、死滅したのは身体だけなのではないか。そういう感覚が「霊魂/身体二元論」を生み出した一つの契機で、それがその時代の宗教や世界観と結びついて定着していったのではないかと私は思う。

 ただ、伝統的な「霊魂/身体二元論」では、たとえ身体は規格品であり、だれのどんな身体でもたいして変わりがないとしても、「霊魂」のほうにそのひとの個性や尊厳が備わっているとされていたと思う。「霊魂」のほうにその人以外では代替がきかない唯一性が宿っているとか、「身体」は土と同じ物質でできているけれども「霊魂」は神に由来するから人間は尊いとか、そういう議論がなされていたと思う。

 ところが『イノセンス』世界ではそうではない。「霊魂」のほうも外からインストールしたりダビングしたりすることができる。唯一性などというものの幻想性は明らかだ。

 その感覚は私たちの住む現実のネット社会でも同じだ。

 ネット社会はあんがい「霊魂/身体二元論」と相性がいいのではないかと思う。インターネットの最先端技術を身につけた超エリート技術者がへんな宗教を信じていたり、インターネットを使いこなす人物が来世とか最後の審判を信じて自爆して「殉教」したりする。それは不可解なものでもなんでもない。ソフトをダウンロードしてPCにインストールする感覚からすると、霊魂が天から下ってきて身体に宿るという感覚はむしろすんなり受け入れられるものではないか。その感覚が、まったく違う情報通信環境で育った人びとの倫理観にあわないからと言って、「ネット社会は闇だ」などと一方的に決めつけるのは身勝手である。そんな決めつけだけでは何も解決しない。

 小さいころにPCやネットに接したことのない人に、周囲の人間がメールの送受信からホームページ閲覧ソフトの設定まで何からなにまでお膳立てしてやる。だから、その人たちは「無意味な情報で溢れかえり、そのほとんどの情報は意味を伝えることもなくただ流れて消えていく」というインターネットの本質に接することができない。しかも、そういうひとは、「メールで仕事をしている」とか、ばあいによっては「メールの送受信ができる」とかいう理由で自分はネット社会の「達人」だと無邪気に思いこんだりする。そして、ある日、何かの拍子で、自分向けにあつらえられたネット環境とは違う「ネット社会」の一面に直面してしまうと、いきなり「ネット社会は闇だ」などと騒ぎ出すのだ。

 「霊魂/身体二元論」の支配する世界で、身体は規格品の機械に過ぎず、霊魂は個性も尊厳も保証してくれない。そんな世界の「人間らしさ」というのはいったい何なのだろうか?

 ひとつは「人間の姿をしていること」ではないか。

 先に『パトレイバー』劇場版(第一作)の「方舟」破壊の場面と『イノセンス』のロクス・ソルス社海上工場での戦いの場面とが同じような流れで組み立てられているということを書いた。だが、その両方で大きな違いもある。一つは『パトレイバー』で英語だったシステム言語が『イノセンス』では中国語(普通話?)だったことだ。これは中華文化圏の文化で組み立てられた世界という世界観につながる。『攻殻機動隊』(劇場版)には残っていたアメリカと英語世界は『イノセンス』ではまったく姿を消している。

 だが、それよりもっと大きな違いは、『パトレイバー』のレイバーが明らかに機械だったのに対して、『イノセンス』のハダリは少女の肢体を持った「人形」だったということだ。画面で見ていて登場したときに感じる感情がぜんぜん違う。レイバーは、何か人間みたいでかわいさを感じたりもするけれど、まず機械である。しかしハダリの肢体は即座に人間の少女の身体から感じるようななまめかしさを感じさせる。いや、たぶんじつは違う。少女に似ているのに何かぜんぜん違うものがあって、それがかえって異様ななまめかしさを醸し出すのだ。ともかくそれが人間の姿をした身体を持っていることがこの感覚の本質にかかわっている。破壊されたときに感じる情動も違う。レイバーは「壊れた」と思うだけだが、少女の姿をしていた「人形」がとつぜん機械の姿をあらわにしながら斃れるときには、哀れさとともに底知れない不気味さを感じる。

 だから、「人間の姿をしていること」が感じさせる「人間らしさ」は、その「人間らしさ」の持ち主が人間であることをまったく保証しない。

 そうすると、やっぱり動物というのはまったく違うものになってしまう。人間と人形と機械が似通ってしまい、ばあいによっては境界があいまいになっているのに、生物的には機械よりずっと人間に近い動物が全く異なる存在になる。

 だが、人間はだからといって人形と動物では人形のほうに親しさを感じるのだろうか? 人間が人形に感じる親しさの感覚と動物に感じる親しさの感覚は違うのではないか?

 人間機械論と「霊魂/身体二元論」がいちばんよくあてはまる『イノセンス』の世界で、しかし人間の身体が機械であることが暴露されることの恐ろしさの感覚は繰り返し描かれていた。人間身体の機械化が進んでいる世界なのにだ。人間は自分自身の内部に機械が組みこまれていることを知っている。持って生まれた生身の身体も、その機械とうまく協働している以上、やっぱり機械なのだということも感じている。それなのに、それが機械であることを暴露されることを恐れ、拒絶しようとする。そういう感覚を持ちながら、機械である人形といっしょに暮らしているのだ。

 ハラウェイが非難するように、この世界では人間が人形を捨てる。飽きたから――なのだろう。しかし、その「飽き」の根底には人形が機械であることへの恐れや嫌悪があるのではないか。人形に関心を抱けなくなったとき、その人形が機械である実態を暴露してしまうに出会うのがいやだから、捨ててしまうのではないか。

 この世界では人間と人形が截然と区別されていない。だから、この世界では、人間どうしがやはり相手の身体が機械であることへの恐怖と嫌悪をたがいに抱きあっているのではないかと思う。

 それに対して動物への感覚はずいぶん違う。動物は人間の姿はしていない。でも、動物は機械ではない身体を持っていて、人形になったり人形的な部分を自分のなかに持ったりせずに完結して生きている。人間はもはや身体のなかに少しは人形の部分を導入しないと生きられない世界なのだ。人間と動物の距離は私たちの世界よりもずっと開いている。

 私たちがいま「人間らしさ」として感じていることは、『イノセンス』の世界で「人形への感情」と「動物への感情」の二つに分けられる別々の感情がない交ぜになったものではないのか?

 

 

 4 どうして人間になりたくないのか?

 

 素子はハダリの気もちを代弁して、人形は人間にはなりたくなかったはずだと言う。人間と人形を同列の存在として扱う『イノセンス』の立場から言えば、当然のことのようにも思える。

 だが、「人間が人形になりたくないと思うように、人形は人間になりたくないと願う」という単純な立場の入れ替えは成立するだろうか? 人間は人形を作る前から人間の姿をしているが、人形は人間ができる以前には存在しなかった。たがいに立場を交換できるような関係ではない。だとしたら、どうして、人形は人間になりたくないと願うのか?

 この問いに答える一つの方法は、「人間の姿は人間ができる以前から存在した」と言ってしまうことだ。「人間の姿」は、生物としての人間が現れる前から存在しており、それが人間にも人形にも共有されている。そう考えるのだ。今日のものの考えかたからするとけっこう奇異な考えかたである。だが、世のなかには最初に「定まった形」というのがあり、この世のなかでは物質がその「形」を目指して組み立てられていくのだという考えかたは、古代から中世にかけてキリスト教世界・イスラム教世界に大きな影響を与えたアリストテレスの世界観の基本でった。

 また、人間は子どものころはみんな人形と区別がつかない存在であり、子育ては人形遊びと同じ行いで、したがって大人の人間は人形であった時期を経てできあがった生物なのだと考えることもできる。ハラウェイが示唆していたのがこの考えかたである。こう考えれば、人間が自分の姿に似せてあとから作り出したのが人形だという考えは逆転する。生物としての人間は、まず「人形遊び」と同じ行いである「子育て」によって人形として育てられる。そこから逸脱することで人間は社会での人間――つまり「大人」になる。

 さらに、キムのことばによれば、中途半端な人間にとって、完全な存在になる方法が神になることか人形になることだった。これは「霊魂/身体二元論」に通じる。「霊魂」の方向に純化すれば「神」になり、「身体」に純化すれば「人形」になる。ハダリの身体に入った素子は、まさに「神」と「人形」が結合した存在だった。人間の中途半端な身体と不完全な霊魂ではそういう存在にはけっしてなれない。人間はいくら電脳化してもネットからアクセスしてくる「神」にその身体を完全に委ねることはできない。むしろ人間はそういう存在になることを恐れる。完全になりうる人形と、完全になり得ない人間ならば、人形を選ぶ。そういう価値観はたしかに存在していい。

 

 

 5 アイデンティティーと愛情

 

 先に「その素子というのはいったい何者だ?」という問いを出してそのままにしていた。

 『攻殻機動隊』で素子は「人形使い」と融合し、バトーの部屋から消え、行方不明になった。そして『イノセンス』で再開を果たす。

 でも、その素子というのは同一人物なのか?

 これが考えてみると私にとっては意外と難問だった。

 素子は「人形使い」と融合した後、「人形使い」の一部をネットに流しつづけている。「人形使い」から素子を経てばら撒かれた子プログラムがネット上に無数に存在しているわけだ。それは現在でも草薙素子の一部分なのか? 「人形使い」と素子からばら撒かれたプログラムが、自分の出自が素子だということを忘れていたり、いや最初から知らなかったり、素子とは違う自意識を持っていることはないのだろうか? あるいは、『御先祖様万々歳!』の麿子のように、たんに素子を詐称しているだけの詐欺師プログラムだったりしたら?

 バトーが素子に与えた身体とは別の身体に、素子に由来するプログラムの一部が衛星回線を経由して入っていただけだとしても、それを素子と認めていいのか?

 別の問題から考えてみよう。

 バトーが素子を想いつづけていなかったとしたら、この『イノセンス』の世界に草薙素子の存在する余地はあったのだろうか?

 だれかが死んだとき、その死者をだれかが覚えているかぎりはその死はまだ完全なものではなく、死者を覚えているひとがいなくなったときにその死者は完全に死んだことになる――そんな感じかたをする社会があると何度か読んだことがある。

 この世界での草薙素子の存在は、バトーが素子を想いつづけ、そのバトーをイシカワやトグサや課長が気づかうことで保持されている。素子が記憶のなかにあり、とりわけバトーが素子を身近な存在として感じつづけていることが、素子を生かしつづけている。身体を持った存在としての素子を見失ったあと、身体の生死は問題にならず、素子の生死は他の生者の記憶に完全に依存している。そうは考えられないだろうか?

 インターネット上の情報は、ある手順に従って取り出さなければ意味をなさない。逆に言えば、意味も持たないままただ大量に流れて消えていくだけのデータに対して、ある手順に従って取捨選択し並べ直し置き換えるという操作を加えた情報が、意味を持つものとして私たちの手もとに届くのである。インターネットに対して、自分からある手順で働きかけるということをしなければ、自分にとって意味のある情報は届かない。

 つまり、インターネット上の情報に意味を与えているのは、その情報の送り手であるともに、受け手なのだ。受け手が、ある種の情報が欲しいと思って、手順を守って働きかけることが、無秩序でそれ自体は意味を持たない情報の断片を意味ある情報に変えるのだ。

 バトーから素子への想いは、無秩序で膨大なネットから素子の存在を引き出す「プロトコル」の役割を果たしているのではないかと思うのである。バトーと素子の関係は、身体の生死よりも、記憶されているかどうか、どんな感情を持って記憶されているかが人間の生死にとって重要な関係なのではないか。『イノセンス』の世界であっても、それがどこまで一般化できるかはわからないけれど。

 「人形使い」と融合し、バトーから与えられた身体を行方不明にしながら、素子はネット上にさまざまなプログラムとして存在している。そのどこからどこまでを素子と認めるか? 回答は、たぶん、バトーの「プロトコル」が素子として受け取ることのできる範囲が素子なのだ。素子はバトーの気がつかない――バトーの「プロトコル」では素子として再構成できないさまざまな方法でバトーに接触しているのだろう。だから素子は別れ際にそのことに注意を促して去っていくのだろう。

 ネットにアクセスせずには生きていけない世界で、ネットにアクセスするたびに恋人に見られているというのは、普通に考えればすさまじくうっとうしい社会だ。バトーと素子はそういう普通の関係を超えた「純愛」関係なのかも知れず、『イノセンス』というのはそういう純愛映画なのかも知れないけど……。

 でも、恋には、自分のすべてを自分の恋人に見ていてほしいと願い、見ていてくれなければ不安に感じるような瞬間が、やっぱりあるのではないだろうか?

 押井守は『うる星やつら』を欲望解放空間だと言ったことがあるらしい。もしかすると、『イノセンス』も意外にもじつは欲望解放空間なのかも知れない――と思うことにはさすがに無理があるかな?

 

 6 Pax Japonicaへ

 

 押井守は自分の昔の作品を忘れない映画監督だ。

 『うる星やつら 2 ビューティフル・ドリーマー』の夜の街は『天使のたまご』に引き継がれ、コンビニのなかの愚劇は二〇年を経て『イノセンス』に引き継がれた。『迷宮物件』の東京湾の埋め立て地は『機動警察パトレイバー』に受け継がれ、また『攻殻機動隊』の水没した博物館に受け継がれた。『Stray Dog』(『ケルベロス地獄の番犬』)の台湾の情景は『攻殻機動隊』と『イノセンス』に引き継がれている。

 さて、『イノセンス』で、択捉近海のプラント船のシステムを破壊した草薙素子は、船は近隣の国に向かっているという。そのときに素子は「某国」という表現をしている。

 択捉に近いのだから、ロシアという可能性もなくはないが、普通に考えれば日本である。日本だということにしておこう。では、なぜ、択捉という固有名詞を出しておきながら、ここで日本といわないのか?

 「日本」ではないのではないか? この『イノセンス』世界では、「日本」は存在せず、日本列島は複数の国に分裂してしまっているのではないか? そして、ロクス・ソルス社のプラント船を押さえにやってくるのは、日本に存在するうちの一国に過ぎないのではないか。

 というわけで、「日本が分裂(分断)国家だったら?」という『Pax Japonica』の世界観と『イノセンス』の世界観はつながっているのではないか――と私は勝手に空想していたりする。

 

(2004/07)

 

 


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