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押井流「観ること」から「触ること」への転換点

 

 

甘崎庵


  

 

 この場では始めまして。の甘崎です。新参者とて拙く、慎みのない文章ですが、一文書かせていただくことになりました。どうぞよろしくお願いします。

 

 今回タイミング良く押井守監督の新作『イノセンス』が公開されましたので、それについて思うことを徒然に書かせていただきます(以下、箇条書きとさせていただきます)。

 

 

序文

 私は映画レビュー中心の弱小サイトを作っているが(某巨大掲示板の映画板に書かれていた拙サイトの印象は「けっこう論客ぞろいだが特撮やアニメの話ばかりで気持ち悪い。そして男ばかりでむさい」だそうだ)。そもそも私が映画そのものにはまるきっかけは中学生時分に劇場で『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』を観てからのこと。しかも現段階の私自身のレビューは押井守監督の影響を受けまくっていることを自覚している。それこそ『うる星やつら2』で衝撃を受けて以降、『天使のたまご』『紅い眼鏡』で映像そのものに興味持ち出し、大学時代は映画研究会で8mmカメラを回していたし、その後の『トーキング・ヘッド』で映画について語ることに興味を持ちだしたものだから。

 サイト運営から既に3年が経過して、レビューの数も千を超えた。映画を観て、そしてそのレビューを書き綴っている内に、気になりだしたのが《みる》という行為に関してだった。

 我々が通常目(『パト2』の遊馬流に言うとアイボールセンサー)に物象が映ることを『見る』と言っているが、日本語はまことに面白いことに、ひとこと「みる」と言っても、様々な漢字があてられている。手元の漢和辞典を繰ってみても、「?る」「見る」「看る」「相る」「眄る」「視る」「覗る」「診る」「睨る」「睹る」「監る」「瞰る」「瞥る」「覯る」「覧る」「瞻る」「観る」など(他に変換不能の外字がいくつか)。

 これだけ「みる」というのが多いのは、それだけ《みる》事に関心が強かったことの証左だと思われる。《みる》と言っても、内実は様々。普通に《見る》ことから、ちらりと《瞥る》、流し目で《眄る》、のぞき《覗る》、しらべて《覧る》等々。ほかにも手相を《相る》、病気を《診る》看病で《看る》と言った変わった使われ方もしている。

 その中で映画レビュー時に私は注意して《見る》と《観る》を区別して用いるようにしている。普通に《みる》場合、最も普遍的な《見る》という言葉を当てる。これは自分がその事象に参加している場合。《見て》いる場合、自分がそこに参加しているので、見る行為によって、自分が事象に干渉している。それに対し、映画を《みる》場合、「観る」と言う言葉を用いて区別している。この「観る」という言葉は、漢和辞典で意味を調べてみると、(1)よく見る。細やかに見る。(2)広く見る。見渡す。はるかに見る(3)眺めて見る。と言う意味を持ち、「観劇」という言葉もあるように、自分は参加せず、長め渡しつつ、色々考える。と言う意味で用いている。

 そしてこの原稿を書くに当たり、もう一つの《みる》という言葉が必要だと思うに至った。つまり《視る》という言葉である。この場合、「視点」という言葉もあるように、自分の脳内において目で見たものを恣意的に自分の考えに持っていく場合である。

 それで今回の原稿に当たり、この視ると言う事を一つのキー・ワードにして話を展開していきたい。

 

 そしてもう一つのキー・ワードとして、「動物」を考えてみた。この二つを用いて、『イノセンス』と言う作品を、就中押井守という映像作家の今についてを考えてみたい。

 

1.イノセンス

 まず、二〇〇四年に公開された『イノセンス』と言う映画だが、言うまでもなくこれは一九九五年に製作された『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』の続編である。日本国内ではさほどニュースになることが無かったが、一九九七年にインターナショナルバージョンが公開されるや、そのビデオソフトの売り上げでアメリカのビルボードトップに立ったことで、急に注目されるようになった。映画『マトリックス』のヴィジュアルイメージとなったことでも有名になり、押井守監督自身が「ディジタルの旗手」等という通り名をいただいている。

 ただ、私自身はどうだかというと、実はこの作品をあまり評価していない。ヴィジュアルは確かに素晴らしかったが、それ以外では、どうも原作と押井らしさと言うのが折衷になってる気がしたから。難解極まりない士郎正宗氏の原作を極めてスマートに表してくれた、程度で、士郎正宗氏の伝えようとしたことを押井守監督がヴィジュアル的に代弁しただけだろう。と言う思いでしかなかった(確かに押井監督だからこそ出来たことかもしれないけど)。

 評価する部分があるとすれば、よく監督がここまで自分を抑えて作ることができたもんだ。と言う部分くらいで、むしろ内的表現者としての押井守監督が、単にヴィジュアルだけの監督に成り下がったのではないのか。と危惧したくらいだった。内的なものを出さず、見た目重視になってしまったとしたら、ちょっと寂しい。その後、「ディジタルの旗手」としてちょくちょくインタビュー記事を読んだり見たりする機会を得たが、事実監督の語っている事は、ヴィジュアル的なものばかり。すわ、本当にこうなってしまうのだろうか? と言う所で、二年前に本作のニュースを知った。

 いくら売れたからと言って、そこまで迎合するかな? と冷ややかに思っていたが、やはり周りに影響されて、公開近くなると、身体はそわそわしたし、六本木ヒルズの試写にかなりの数の知り合いが行っていたことを知り、地団駄踏んだのも事実。

 ただ、それから漏れ聞く情報は、決して良いものではなかった。曰く、「ヴィジュアルは凄いけど、単純すぎる」「訳分からん」「引用が表層的すぎる」「観客を置いてけぼりにした映画だ」「盛り上がりが感じられない」「人形がキモい」「犬が鬱陶しい」などなど…あながち的はずれでないのは事実だが。

 それで公開当日に観に行き、得た感想。それはまことに申し訳ないが、「なんだこりゃ?」だった。これは何も私だけではなかろう。ネットを回遊してみると、特にコアな押井ファンは相当な戸惑いを持って本作品を受け止めていたようだった。

 本作の中心となるストーリーは士郎正宗による漫画「攻殻機動隊」第1巻の第6話「ROBOT RONDO」を元ネタとし、それ以外に1巻や1.5巻からいくつもの小ネタをちりばめたもの。元ネタは本来素子が人形使いと接触する前の話で、話自体は前作『攻殻機動隊』ほどの盛り上がりは無い作品だった。私が「なんだ? 」と思ったのはまずはその点で、あれだけ前作で盛り上げておいて、又えらく渋いのを選択したもんだ。大体、人間と電脳の融合なんてとんでもないものを映像化してしまってから、なんでこんな当たり前(と言っちゃ悪いけど)の話にしたんだ? 人間と機械のこれからの世界を見据えるオリジナリティ溢れる作品になることを期待していたのに。更に物語自体がストーリー的にぬるく、盛り上げ方が中途半端。数多く存在する伏線も唐突すぎ。後にならないとあれが伏線だとは分からないのが多すぎる。実に単純な物語に色々変なものをくっつけただけのものに思えた。

 だが、不思議な話、観た直後にあれだけ駄作だと思えてきたのに、時間が経つに従い、徐々に脳内を侵食してきた。それで何故こんなに気にかかるのか考えてみた。

 はっきりしたのは、『イノセンス』はこれまでの押井作品とは毛色が随分と異なる作品だと言うこと。何か根本的に考え方を改めねばならない部分があるのではないか? そのように思えてきた。

 以下、2つのキー・ワードに従って書かせていただく。

 

2.視点論

 押井守監督はとにかく視る事に長けた人物だ。

 視るとは目的を持って物事を見ることであり、そこには自分の意見というのが多分に含まれる。自分というフィルターを通して見ることと言っても良い。これにより、物事は恣意的に見られることになる。偏見という言葉はそのまま視ると言う言葉に置き換えられる。

 「イノセンス創作ノート」の養老孟司氏との対談で押井氏は視る事について(ここでは《見る》という表現を用いているが)事細かく語っていた。ここで押井氏はこのようなことを語っている。「自分自身の視覚とか聴覚とかもそうだと思うんですけど、人間は自分の感覚みたいなものを疑って生きてるってことができないじゃないですか。それを疑っちゃうと、そもそも何も信じるものがなくなってしまうわけだから。そうすると、自分が見ている現実というのは、最終的にどこか、かなり自分の都合のいいようなものになっていると思うんですよ。受け止める段階でもそうだし、記憶する段階でもそうですけど」と。これはデカルトの「方法序説」からの引用部分も感じられるが、押井氏は何事であれ、見るということは恣意的に解釈する事が当然だと思っている。ここから読み取れるのは、押井氏の視点とは最初から《視る》事に特化していたと言うことになる。

 視ること。それが押井のこれまでの実写であれ、アニメであれ、中心となっていたことだった。自分の見ているものを内的土俵に持ち込んでしまい、そこから極めて恣意的な解釈を与えた後にそれを観客の目の前に出そうとする。

 それは映像作家たるもの、当然の行為だとも言えるが、それを確信犯的に用いているのが押井守監督の持ち味であり、それこそが押井作品の根底に流れている重要な要素であろう(映像作家と呼ばれる映画監督達が何故あれだけ退屈な作品を生み出しつつ、マニアを生じさせるのかは結局この視点がはっきりしているのが理由の一つだと思う)。

 押井監督が常に新しい物語を産み出し、様々なジャンルに渡る作品を、以前とは違ったアプローチで描いているにもかかわらず、間違いなく押井印の作品を観客全員に認めさせることが出来たのは、視点が押井オリジナルに溢れていたから(これを小手先の技術として捉えてしまったのが『踊る大捜査線』の本広克行監督だった。本広監督は「押井監督は私の師」と言っており、確かに押井らしさの演出が嫌味なほどに展開するが、むしろ押井流演出の真似よりも彼自身のオリジナリティの方が面白いのは皮肉な話。彼は彼流の視点をしっかり持った映像作家だ。本広監督の捉える押井的演出は技術的に留まっている)。それが押井流の視点と言うフィルターの役割なのだろう。彼の撮るものはたとえどのようなものであったとしても、彼の頭の中を常に正確に捉え、その反映となっている。だからこそ、「押井らしさ」とは、押井の考え、そのものとなる。

 視ることに長けるとは、自分の見たものを人に伝えることが出来るという意味をも併せ持つ。この人はそう言う作品しか作らない。世の職人アニメ監督とはどこか一線を画するのは映像作家としてのその視点をしっかり捉えているからだろう。

 彼の視線で一定しているのは、それが娯楽に結びつかどうかはともかく、自分の視たものそのものを伝えようとしていること。アニメーション監督では珍しい資質だ。

 このような作品の傾向として、容易に内面化しがちなのだが、それをしっかり防いでいるのは、押井監督が視ているものが常に普遍的なものに向けられているから。それは我々が日常何気なく見ている町の風景だったり、社会であったり、制度であったりする(前述の「イノセンス創作ノート」によれば、押井監督は「人間の存在そのものや人間とそれをとりまく世界―要するに「人間という状況」には深甚な興味を抱いています」と書いているが、まさにそれが普遍的現実として我々の前に現れることになる)。

 大多数の人間の目に映る当たり前の事象が、一人の頭の中を通ることで、観ている我々に全く違った印象を与える。その映像が提示されるや、これまで見慣れた世界が全く違った世界として捉えられる。押井作品にマニアが多いのは、この点も重要なファクターであろう。

 

 つまり、押井氏は自分の視点を形にして、我々の眼前に出してくれる。個人の思考の中にある歪んだ事象は、我々自身の持つ世界認識に抵触してくる。マニアが増えるわけだ。

 

 ただ、後述するが、『イノセンス』はそれだけでは無かったと思われる。

 

 そして、その押井流演出において重要なものとして「記号」というものがある。『イノセンス』を語る上で、その記号からのアプローチも面白かろう。それをとりあえず動物に取ってみる(本来だったらもう一つ《人形》についても語るべきなのだろうが、人形に関しては私には語れる部分が少ない。正直球体関節人形展にも足を運んだのだが、そこで感じられたのは、強いて言えば「何故人間は人形を作るのか? 」という、押井の一番最初のモチベーションを感じるのがやっと。未だに整理がつかないでいる)

 

 

3.動物論

 動物を考えるに当たり、押井監督の過去の作品を考えてみると、多くの動物が登場していた。それらはほとんどが記号として登場している。特に猫、犬、鳥、魚の4つの動物が極端に多いことからもそれが窺える。どの作品においても、必ずこの4つの動物のどれかが登場しているのだ。そ以下にそれらの動物が登場した作品を挙げてみる。

・猫 『オンリー・ユー』『ビューティフル・ドリーマー』『紅い眼鏡』

・犬 『オンリー・ユー』『ビューティフル・ドリーマー』『紅い眼鏡』『ケルベロス』『御先祖様万々歳!』『パトレイバー2』『攻殻機動隊』『Avalon』

・魚 『ビューティフル・ドリーマー』『迷宮物件』『天使のたまご』『パトレイバー2』『攻殻機動隊』

・鳥 『ビューティフル・ドリーマー』『天使のたまご』『パトレイバー』『御先祖様万々歳』『パトレイバー2』『攻殻機動隊』『Avalon』

 特に鳥に関しては劇中への露出度が極めて高い。ヴィジュアル的な使いやすさもあったのだろうが、物事を俯瞰して観る存在として登場していたように思える。又、それに対比するように魚もよく登場する。鳥が空から俯瞰して人間及び人間の行為を観ているが、魚の場合は下から眺める存在として、そして水族館のガラス越しに人間に見られる存在として登場している。水族館のモティーフがやたらに多いのは、人間が魚を見ているのではなく、魚によって人間が観られていると言う記号的な意味があったのかも知れない。更に『迷宮物件』のエンディング・ソングには「鳥と魚は知らんぷり仲良くなれたら良かったね」という歌詞もあり、この二つの対比は特に際だっていた。

 魚と鳥の対比とは、『天使のたまご』では特に顕著だったが、『イノセンス』においてもその対比はよく表されている。『イノセンス』に関しては、劇中のバトーは魚を象徴し、素子は鳥を象徴するという意見もあり。

 「それこそ均一なるマトリクスの裂け目の向こうに」行ってしまった素子は、その本体(脳髄)は何処かの地上に置かれているのだろうが、本作に登場するのは、全てを俯瞰して観ている目でしかない。ガイノイドという器の中にあるのは所詮データのダウンロードという形による虚ろな存在でしかなかった。キムの館にしつこく登場する少女義体よりも、その天井に置かれていたオブジェ(鳥と首のない天使)の方がそれを表しているようで面白い。対するバトーは地面をかけずり回り、象徴的に水の中にも入っている(潜水するのは前作『攻殻機動隊』の素子自身の行為でもあった)。魚としての視点で物事を見ている存在として考えても確かに良かろうと思える。

 

 この鳥と魚の関係に関しては従来通りの押井の形式に則っている。記号として用いられているから分かりやすい。

 

 ただ、本作の場合、その記号論に当てはまらない存在が登場する。

 

 他でもない。犬の存在である。

 

 『イノセンス』の情報がネットに流れ始まると、何故か極端に露出していたバセットハウンド。押井監督自身が飼っている愛犬ガブリエルを模したと思しきその犬は、明らかに記号ではなかった。バトーに甘え、顔を引っ張られ、匂いを嗅がれ、ウンコまでする。それまでの押井監督の描いてきた記号論的動物とは全く違うアプローチで描かれていたのだ。

 尤もこれは『イノセンス』が最初ではない。その前の作品である『Avalon』でもやはりバセットハウンドが登場し、そこでもやはり生きた存在として描かれていた。『Avalon』ではゲームの世界に入り込んでしまったアッシュという女性が主人公だが、彼女は当初自分の存在そのものさえも重要視していない存在として描かれていた。ほとんど全てについて無関心となっていたアッシュが、愛犬のためにはどんな労力も惜しまなかった。ただ、『Avalon』ではアッシュはクラスSAに入り、自分の肉体を意識した瞬間、犬の存在が彼女の頭から消えてしまった。一体そのどちらが代替だったのかは明らかにされないが、自分にとっての生の感触と言うものは、自分の肉体を生のものとして意識するか、犬という生きものを感じるかどちらをより「リアル」と感じるのかは別として、ここで人間の存在と犬を感じることは等価として描かれていた。

 正直、『Avalon』を観た時は、なんでこんなに犬が露出しているのかが分からなかった。当時の感想としては、単純に「趣味に溢れてるよな」程度の感想でしかない。だが、本作『イノセンス』を繰り返し観て、犬の存在というのを自分なりに解釈してみると、その共通性に思い至る。

 従来であれば記号として用いられていたはずの犬がここまで自己主張するのは不思議、と言うか、今までの押井監督のアプローチからすると、異質だ。

 前述した「視点論」において、私は「押井氏は自分の視点を形にして、我々の眼前に出してくれる」と書いたが、これは、同時に押井氏の今まで持っていた自分の考えのみならず、今考えている事をそのまま画面にしていることにもなる。

 つまり押井守の頭の中は犬で一杯なのだ…

 …と言うのは冗談としておき、「押井守論」という作品の中で、インタビューに答える形で押井監督は「自分が生きてるのはどういう事なんだっていう。抽象的に聞こえるかもしれないけど、そうじゃなくて、自分が生きてるって感覚、それをどうやって伝えればいいんだろう」と発言している。

 さすがに押井監督、自分の身体に老いを感じたか。興味が自分の身体へとシフトしているのではないかと思える。

 このような不完全な肉体を持ち生きているとはどういう事か、そのことについて考え始めたのだろう。

 それで『攻殻機動隊』の世界というのは、それを考えるにはうってつけの世界観だった。この世界で登場する人間の大部分は身体を人工物に置き換えたサイボーグか、あるいはロボット…押井流の言い方をすれば「人形」なのだ。

 自分自身を含めて人形ばかりであるこの世界で、一体どうやって身体を感じるのか。そのテーマが犬という形を取っていた。

 考えてみると、『イノセンス』の主人公であるバトーはまさにそんな存在だった。彼は全身がサイボーグであり、人間と人形との境目が極めて曖昧な存在として描かれる。彼は前作で素子を愛する存在として描かれていたが、その素子自体が既に電脳の彼方に行っている。言わば、バトーが接触する端末全てが素子の《匂い》を感じさせられるものであったとしても、そこに《リアルな感触》というものがない。彼の接触する大抵のものは人の匂いがする《人形》でしかない。人間と接していても、その人間自体がほぼ《人形》と化してるのだから。

 そんな彼が《生》の感触として持っているのは、自分の愛犬バセットハウンド(ガブリエルと言う名称なのかどうかは語られておらず)。動物は人を裏切らないから…正確に言えば、犬は自分の欲望を満足させるため、そして飼い主を愛するが故にそこにいられる。そこには何のまやかしもない。確かに手間がかかるペットだが、手間がかかるからこそ、《自分は自分として生きている》という感触を強く持つことができる。

 バトーにとって、自分が自分でいられるためには、どうしてもそのバセットが必要だった。これは劇中に描かれる彼の行動様式を見ても明らか。九課の仲間であるイシカワに対してさえ、決して自宅近くまで一緒に連れて行かない。(おそらく)何台も所有している自分の車の近くに来させるだけ、しかもそれでさえ隠れるようにして。そんな彼がガブリエルのためには、決まった店でフレッシュタイプのドッグフードを購入する。彼の立場で、いつも決まった場所に立ち寄ると言うのは、あまりにも危険なことなのに、それを敢えてするのは、それが《彼のアイデンティティ》だから。イシカワが吐き捨てるように「ドライタイプにしろ」と言う言葉も、頭ではそれが分かっているだろう。だが、彼には自分をたとえ危険にさらしても、守らねばならないものがあった。それが《自分が自分である》事だから。

 更にこれを進んで考えてみると、バトーは《死にたくない》という思いを自らに課すため。とも考えられる。前作で《人形としての自分》を捨てることに成功した素子のように、望みさえすれば自分もそうなれる。それは一種の願望であったかも知れない。そうすれば素子と常に一緒にいられるのだ。だが、それはまだだ。ガブリエルのために、今は殻を脱ぎ捨てる訳にはいかない。

 もし劇中にガブリエルが存在しなかったら、物語は成立しない。荒巻が言ったようにバトーはどんどん「失踪する前の少佐を思い出す」存在へと変貌して行っているのだ。そのバトーを未だ人間としてつなぎ止めているのは、犬を飼ってると言う事実だけ。

 人間であろうとしている人形の物語こそが『イノセンス』の中枢をなしていた。

 劇中のバセットは、確かに生身で生きている存在、臭いを発散する存在、そしてそれによって人形を人間につなぎ止める役割を果たしていたのだ。

 

 ここにおいて、《視る》のではなく、《触る》事を希求する姿勢が見えてくる。

 

 これは私の暴走意見だが、人が人であろうとするならば、それは視る事では不十分であり、触ることによって得られる生の感触こそが重要だと、そう言うことになるのではないか?

 

 強いてこの作品のメッセージ性を探してみるならば、それは《本当にあなたの見てる世界》は、確実ではない。あなたはそんな不確かな存在でしかない。 だったら、あなた自身が《存在する》事を求めなさい。と言うことになるのではないか。

 劇中のバトーの台詞。「自分が生きた証を求めたいなら、その道はゴーストの数だけある」。これは「あなた自身の《存在する》方法を求める方法があるはずだ」。と言うメッセージとして受け止められるはずだ。

 押井守監督はそれを『イノセンス』では文字通りイノセンス(無垢)なるものを《触る》事として提示した。

 

 

4.「視る」から「触る」へ。

 今回の製作協力がスタジオジブリと言うこともあったのだろうが、『イノセンス』に先行し、押井守監督は本当に様々なインタビュー記事に答えていた。まるで何か伝えようとしていることがあるかのようにも匂わせもしていた。

 ただし、本作において押井監督はやはり従来の自分自身の映画の作り方そのものを変えてたわけではなかった。否、徹頭徹尾押井守は自分のやり方を崩してはいない。ただ単純に押井氏自身の興味の範疇がこれまでとは違った位置にシフトしていたため、それに作品が引きずられていたに過ぎない。

 では、押井監督が興味の範疇に至ったもの。それは何かというと、肉体というものを通して感じることが出来るもの。触れるという行為を通して《生(なま)の感触》を得るとも言えるのではなかろうか。

 《生の感触》とは、それこそジブリ、特に最近の宮崎駿監督が口を酸っぱくして言っている事なのだが、近年の宮崎作品ではその《生の感触》というものを描くことが真に成功しているようには思えない。それは宮崎監督の考える《生》というのがたんなる《生存》に関するものに限定しすぎている感じがしてならないから。いわゆる、食べること、寝ること、病気を癒すこと。それらは確かに生きるために最低限必要なことには違いないが、果たしてそれが本当に《生》の全てなのか?

 人間は生きているのだから、あらゆるものに接触することで《生》の実感を得ることが出来るはず。それを限定してしまうと、逆に意味を限定してしまうことになっていたのでは?

 一方、押井氏はかつて生の感触を《立ち食い》という形で既に映像化はしていた。食べることは宮崎流でもあるが、とことんそれを立ち食いにこだわったのが押井監督の特色だった。ただその特徴であった《食べる》という行為を敢えて『イノセンス』では外した。その代わりとして犬に触れることで《生の実感》というものを可能としていた。

 押井監督は『イノセンス』公開前のインタビューで嫌と言うほど「現代は体の無い時代である」と強調して語っていた。基本的欲求があったとしても、それが「生きている」という実感につながっていないと言うこと。

 その生きる実感を求める。と言う点において、これまでの《視る》視点に加え、《触る》事によるものを考えていたのかも知れない。

 

 その意味では、本作『イノセンス』は、徹頭徹尾これまでの押井守の作り方に則っており、同時に新しいものを提示しようとした押井守という人物そのものの模索の結果であったのかもしれない。これから首の上だけで勝負してきた押井氏が初めて首には下があることを明示してきた。と言うことなのかも知れない。

 

 以降の監督の作品がどのように展開していくか、興味深く見守らせてもらいたい。

 

(2004/07)

 

 


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