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『動物化するポストモダン』に関する私的対案

 

 

へーげる奥田


  

 「コミックマーケット的文化」に関する文化論のようなものを、いつか書いてみたいと思いつづけてずいぶん経ちますが、実のところまだその目処はたちません。今回、東浩紀氏の研究をとっかかりにして論じようとあれこれ考えてみました。しかし、やはりどうもまだまだきちんと論じられる段階ではないようです。仕方がないので、今回は、思いついたことをつらつらと書いて行くことにしましょう。

 

「オタク」という名辞について

 前回の同人誌のなかの「対談」で、私は「オタクという言葉はその語源から見てどうも承伏しかねる」と述べました。まずはそれについてちょっと説明しましょう。

 「オタク」という語は、ライターの中森明夫氏が、1983年に言い出したのが最初とされています。語源について諸説ありまして、中には「コミックマーケットが大田区で行われたので、大田区族という語からきた」などという人もいましたが、今では中森明夫説が定説とされているようです。私も当時このエッセイをマンガブリッコで読んだ記憶がありますね。要は、目の前にいる相手に「オタクさあ、」というように語りかける、というような特徴から名付けられた蔑称でした。

 この「蔑称」という点について特に強調しておきたいのですが、少なくとも当時、「オタク」という名辞は、「マンガやアニメなどに興味を持つ者」に対する一般社会からの蔑称というだけではなく、むしろ「マンガやアニメなどに興味を持つ者」からも疎んじられる、「人とのコミュニケーションに問題がある者」への蔑称という使われ方をしていたように記憶しています。たとえば当時「レモンピープル」に連載されていた谷口敬の『フリップフロップ』の中で描かれている「オタク」の扱いは少々偏っていますが、横柄で人にものを要求する一方のダメな人間というところは、当時の感覚を象徴しています。

 この「オタク」という名辞については、後付け的にいろいろな意味が付与されます。たとえば屋内にばかりいるので「お宅」族だとか、相手を呼称する際に「家」という、個人の関係でなく自己のテリトリー単位の呼称を使う(中島梓)とか、相手を呼称するのに「お宅」という二人称を使っていた裕福な中流家庭の母親の影響である(小谷真理)とか、まことしやかな話が論じられています。

 私はこれらの説には懐疑的です。当時、二人称としての「おたく」という言葉は、個々のテリトリーだの母親の影響だのというものではなく、当時の流行として、「えらそうな態度をとる場合」に使う場合の用語だったと思うのです。たとえば1980年ごろ、木曜深夜1時から放送されていたニッポン放送の『ビートたけしのオールナイトニッポン』において、相手にクルマをぶつけられた時、クルマを降りてぶつけた相手と交渉する段になるととつぜん「おたくさあ……」などとヤクザ風の口調になって虚勢を張るというギャグのネタが読まれていました。当時、この口の利き方は、「斜に構えたニヒルな人物が使う二人称」といった言葉だったのです。

 当時、たしかに「マンガやアニメなどに興味を持つ者」がこの二人称を好んで使ったことは間違いではないと思います。当時、私の周りにもこの二人称を使っている者がいました。その背景には、いろいろな場所でいろいろな人物が語っているとおり、平井和正の『ウルフガイ』シリーズの影響とか、アニメ『超時空要塞マクロス』の影響などがあったこともほぼ間違いないと思います。しかし私は、そういった状況にもまして、その用語の使用意図である、「相手に対峙する場合、えらそうな態度をとりたい」という心理こそ重要だと思っています。

 ところで「オタク」という言葉ですが、この言葉には、現在に至るまで誰一人として的確な定義を与えていません。岡田斗司夫氏の定義は必ずしも現実を正確に表したものではないように思えますし、『動物化するポストモダン』においても東浩紀氏は、「オタク系」という暫定的で大雑把な使用方法で明確な用語定義を避けるという方法をとっています。

 私自身、自分が「オタク」かそうでないのかわかりません。私はアニメ作品のいくつかは好きですが、そう多くのアニメ作品を見ていませんし、マンガやゲームについても同様です。ギャルゲーといったジャンルも、やったのはせいぜい『サクラ大戦』ぐらいで、それも最初はこれを戦略シミュレーションゲームだと思っていたという為体です。巷には、「東浩紀は本当のオタクではない」などという意見もあるようですが、そんなことを言うなら私などは全然オタクなどと名乗ることはできないでしょう。コミックマーケットには20年以上毎回行っていますけど。

 というような理由から、私の場合、ふだんはここで論じるような文化圏を「コミックマーケット的文化圏」と呼んでいます。これは、「コミックマーケットにおいて展示されるような文化集団」というような意味です。そして、これに興味をもつようなひとを「コミックマーケット的文化圏を構成する人びと」と呼称しています。少なくとも、「オタク」などという定義不能な名辞を使うよりましだと考えているのでふだんはこう呼んでいるのですが、とりあえずここでは「オタク」≒「コミックマーケット的文化圏を構成する人びと」という仮定で話をしましょう。

 

『動物化するポストモダン』の「ストーリー」

 東浩紀氏の『動物化するポストモダン』は、「オタク系」と呼ばれる人びとの行動様態についての「原理」のようなものを解明するといった体をなしています。そこにおいて氏の描く文化論は次のようなものと考えてよいでしょう。

 

    ・現在、「ポストモダン」と称される文化的状況が起こっている。

    ・基本的に「オタク系」文化も、そうでない文化も、根底は同一であり、ともにこの「ポストモダン」の状況を迎えつつあるが、「オタク」系の文化は特に象徴的にこの「ポストモダン」の状況を体現している。

    ・「ポストモダン」の時代においては、かつて人々の思考や行動様式を国家レベルで規定してきた「大きな物語」というシステム(イデオロギーなど)が失われてしまい(凋落)、それに代替させるためにしつらえられた「捏造(フェイク)された大きな物語」すら必要とされず、人々は、視聴者がそれぞれ勝手に感情移入し、それぞれに都合のよい物語を読み込むことのできる、物語なしの情報の集合体である「小さな非物語」と、世界観など背後にある「大きな非物語」とがバラバラに共存する、「解離的」なモデルを形成する。

    ・「ポストモダン」の時代の文化では、かつてあったような「オリジナル」と「コピー」の対立は意味を失い、オリジナルでもコピーでもない「シミュラークル」という中間形態が支配的となる。

    ・「大きな物語」が支配的だった近代では、表層的な世界と、その表層を規定している深層的存在である「大きな物語」の関係は木構造であったが、ポストモダンにおいては、その都度「読み込み」によって表層が構成される「データベース・モデル」という構造に取って代わられている。

    ・ポストモダンの世界において、人間の行動様式は、「萌え追求」などといった動物的な要素に還元される。

 

といったところでしょうか。

 詳細についての反論とかツッコミとかは、他の箇所でたくさんなされていますのでここでは積極的にはしません。ただ、所感のようなものを言えば、ずいぶんペシミスティックな人間観だなあ、というような気がします。

 私の、だいぶん断片的な「ポストモダン」のイメージは、やはり反人間的な、暗い世界観の思想といったところでしょうか。ただ、この手の「人間の人間的な部分はどんどん縮小されていく」といった警鐘を鳴らす思想(東浩紀氏は別に警鐘なんか鳴らしていないかもしれませんが)はけっこういろいろあるようにも思います。ハイデッガーなども、「現存在」としての人間が人間としてのあり方を忘れ、「頽落」して「ひと」となってしまう、みたいなことを言っているわけですし。

 

『ラブやん』的人間観

 まあ、直感的に言って、東浩紀氏の指摘―「萌え」だとかそういう要素ばっかり機械的に追求して動物みたいにハァハァやってるような「オタク」像としての―というのは、まあある意味ある部分当たっていると言えるでしょう。私の知ってる奴も何人かはそんな感じです。ただ、そういうミもフタもない物言いをされればされた方はどうも面白くない気がするでしょうし、だいたいどんなダメビトだって24時間365日萌え萌えハァハァ言ってる訳ではない。ちゃんと会社に行って業務進捗したり意思決定したり部下や上司とやりとりして摺り合わせしたり交渉したり責任取ったり悩んだりクジケたりストレスためて酒飲んでウサ晴らしたり、いろんな「実存的」なこともやっていて、たまにハァハァ言ったりしているだけなんじゃないのかな、とか思うわけです。どうも、東氏の論を読んでると、なんかもうね、27歳無職とかでつきあっている女性はおろかリアルな人間関係をもつ友人とかもおらず、やることといえば昼間っから自室にヒキコモってネットを徘徊してWinnyで集めた「萌え画像」とか「萌え動画」とか見てハァハァ言ったり自分であっちこっちから集めた素材を組み合わせてアイコラだとかフラッシュだとかマッドビデオだとか作って一人でウヘヘヘヘとか言ったりして、一応アニメとか観るけど「作品」としてというよりなんかいい「萌えキャラ探し」みたいな感覚で物語としての作品なんかどっちでもよくて……と、そういう世紀末的(もう世紀末越えたけど)な人間像って感じがするんですよねえ。

 たしかにそういう奴もいないとは言えません。どっかには必ずいるでしょう。田中浩史の『ラブやん』に描かれるロリオタプーの3拍子そろったカズフサ的状況の「だめだめ君」は、絶対数としてけっこうそれなりにいそうだし、部分的にカズフサ的要素のある者ならさらに多いと想像されます。

しかし、そういう奴だって別に一生そういう生活とは限らない。そもそも、東氏の言う「オタク」というのは、現実には別にそういう人種というもんじゃないでしょう。私は実例をいくつも見ていますが、「萌え」とかそういった要素だけを追い求める「オタクな生活」に飽きて、そういった世界から去っていった者も多くいます。

 私は、「オタク」なる人種がいるというものではなく(別に東氏は「オタクという人種」がいるなんて言ってませんけど)、「オタク」なる「財の消費行動の手法」があるだけではないか、そしてヒトはそれを一時的に利用するだけ(一生どっぷり利用し続けるヒトも当然いますが)なのではないかなどと思うんですな。

 

「古典的モデル」の例

 東浩紀氏の提示する「データベース型消費」についての記述を読んでいるとき、私はなんとなくこの実例を昔から知っているような気がしました。

まあもったいぶってもしょうがないし恥ずかしがるトシでもないので単刀直入に言いますが、それはアレですよアレ。「ポルノ」。最近ポルノっていう言い方しませんか? でもこういう助平本とか助平ビデオなんかを一元的に呼称する名辞が他に思いつかないんですけど。

 まあともあれ、エロ本であれエロビデオであれ、その「鑑賞者」は物語なんか必要としません。鑑賞者っていうか、「利用者」ですかね。利用者としては、物語性なんか完全にどっちでもよくって、とにかく「使える」画像とか動画のパートとかに用があるわけですが、そういう「萌え部品」(ここで「萌え」という言葉は妥当ではないと思いますが便宜上)というものは2〜3回も「消費」すればすぐに陳腐化してしまい、要求される「効用」を失いますから、「利用者」は自分の好みの「自分萌えデータベース」を自分検索して「ヨ〜シ今回はいっちょバニガいってみようかナ」とか何とか言って必要なモノを購入・消費するというのがその典型的なライフサイクルプロセスだったりします。正式な調査を行ったわけではありませんが、体験的に 知り合いから聴取したところによると、たぶんこういったモデルは「ポルノ」の世界ではごく一般的なのではないかと思うんですな。私は東氏の「動物化」というフレーズにはいろいろと異論を差し挟みたい部分もあるんですが、たしかに、こういう消費モデルにおけるユーザーを称して「動物」というなら、なるほどそうかとも思います。「オトコは下半身は別人格」とか「下半身に理性なし」とか言いますけど、「動物化」っていうより、人間の下半身的部分なんてのは「はじめっから動物」と表現してよいのかもしれません。

 結局、学がない私みたいな者としては、東浩紀氏の萌え消費モデルというのは、「オタク」という属性を持った人間が、何かポストモダンという新奇な生存形態に変貌したというより、単に「コミックマーケット的文化」を、「ポルノ的消費財」として利用するといった手法を用いるユーザーがやたら増えただけなんじゃないの? とかミもフタもないことを考えたりする訳なんですけどね。いままでは「非本来的な使用目的」ということで意識的に無視されてきたこのチャンネルが、研究する側の対象範囲の拡大・精緻化によってガンガン網にかかってきた……な〜んていう事情とか、利用する側がいいかげん開き直ってきて「そういう用途に使ってますが何か?」とか偉そうに言い放つ「偉そうな言い放ち方」の手法が社会的に確立してきた、なんていうこともあるかもしれません。

 ともかく、助平な絵とかビデオとか見ながらハァハァしている動物化したエロス人なんつったらアナタ、ポストモダンどころか大昔からいるんじゃないでしょうか。まあそれも、恒常的に「動物化」してる訳ではけっしてなく、無事コトが終わればスッキリさっぱり、タチドコロに普通の理性的・人間的・本来的な「現存在」とか何かそんな感じのアレに立ち戻ったりしちゃうですな。

 

「没個人」の人間像

 しかしさりとて、それ東浩紀の説はぜんぶマチガイだ、などと大はしゃぎで言う気はありません。そもそもさすが東氏ぐらい賢い人だと、簡単には反論を許さないようなロジックとかレトリックとかが張り巡らされています。さすがはインターネット世代のリアルタイム的バトルを年中やってる論客だけあって、ちょっとした反論など言われる前から排除する自動防御システムみたいな文言があっちこっちにセットされているし、それで網羅されていないものについても、他の著作であらかじめ再反論したり補完されていたりする。「あなたはろくに僕の本を読んでもいない」というセリフも、東浩紀氏ぐらいのビッグネームだったら「あり」ですな。

 それに、ちょうど先日「Winnyで初のタイーホ者」の報道があったんですが。それに対するユーザーたちの反応など見るにつけ、いやもうこいつら、マクロ的な視点が全然ないというか要するに集めたエロファイルでハァハァいうこと以外なんも考えてねえな、とかつい思ってしまう部分がありまして、そういう状況を見ていると、なるほど東氏の言いたいこともわかる気がいたします。

 だからあくまで総括的(大雑把とも言いますが)に言うこととなるんですが、東氏の人間性の概念は、いくらなんでも没個人にすぎ、また少々悲観論的・退廃的にすぎるんじゃないか、などと思っています。

 「コミックマーケット的文化圏」に遊ぶ人びとにも、当然それなりの「人のつながり」というものがありますが、『動物化するポストモダン』において述べられているところによると、「オタク」の人間関係というのは「特定の情報への関心のみで支えられて」おり、「自分にとって有益な情報が得られるかぎりでは社交性を十分に発揮するのだが、同時に、そのコミュニケーションから離れる自由もまた常に留保している」。それは「ただ個人の自発性にのみ基づいている」ので、「それらは本質的にまねごとであり、いつでも『降りる』ことが可能でしかないのだ」ということで、形骸化したものでしかないと断じています。そんなの別に「オタク」だけじゃないじゃん、普通の夫婦だっていつでも離婚する自由を留保してるんだし……とか反論してもムダです。ちゃんと「このような傾向は、九〇年代においてはもはやオタクたちに限られたものではなかった」と書いてありますから。

 「世界全体はただ即物的に、だれの生にも意味を与えることなく漂っている」というあたりの記述は、なんか後期のハイデッガーみたいで、別にむきになって反対しようとは思いません。ただやはり私としては、「ポストモダンの人間は、『意味』への渇望を社交性を通しては満たすことができず、むしろ動物的な欲求に還元することで孤独に満たしている」とか、「意味の動物性への還元」と「人間性の無意味化」と、「シミュラークルの水準での動物性とデータベースの水準での人間性の解離的な共存」という人間性に対する見方をする東浩紀氏の現代観(「オタク」観?)にはちょっと同調しかねる、といったところですね。

 先に書いたとおり、私はもう20年以上この「コミックマーケット的文化」にあそんでいます。しかし、もし私がたった一人で黙々とその「シミュラークル」とか「萌え」とかを追求するような「消費形態」としてこの世界にかかわっていたとしたら、とっくに飽きてよそへいっていたことでしょう。私がいまでも、そしてこれからもこの文化圏に関わろうという最も大きな動機は、いろいろなレベル―2ちゃんねるとかでバトルをする際の匿名的なレベルから、仲間と一緒に温泉に行ったりして馬鹿話からジンセイについてまでいろいろ語っちゃうレベルまで―やはり人間関係あればこそだと思っています。

 私は精神分析学の本とかは全然読んでいないし読もうと思ったら字がいっぱい書いてあって即座にクジケたもので、やれ他者の欲望を欲望するとかなんとかよく知りません。なので以降口から出任せになるんですが、ちょっと己流人間論とかぶったみたいと思います。

 

ふたつの「動機」

 「オタク」におけるスタンドアローン的・内面的な人間観察は東浩紀氏がさんざんやってくれているので、それではこっちはまずはネットワーク的・外面的な部分でのふるまいから述べてみようと思います。まあ、文化論にしろ人間学にしろ、結局は論者の主観を憑代にして論を操ることになりますんで、開き直って主観的に言っちゃいますけど。

 よく指摘される「オタク」と称される人びとの特徴に、なんかを収集するという部分があげられますよね。私自身もご多分にもれず、いろんな「なんか」を集めたりしたもんですが、ものを集める性癖をほとんど持たない配偶者などから見ると、やはり奇異に映るようです。

 ではなぜものを集めるのか。「〜だから」という明確な目的を自覚しつつ集めているわけではないし、集めること自体が自己完結的な目的だったり、純然たる自分的世界だけのコレクションだったりするケースだってけっこうあるので直接的な回答とは言えないんですが、少なくとも集めたモノの使い道のひとつが「ウケるため」であることは確かだと思います。「受け」って書くとなんかこう、「攻め」とかそっちの感じがして嫌なのでわざとカタカナが書くんですが。まあ要は、自分以外の誰かにそれを見せて、相手が驚愕したり呆れたり激しくワラったりするところを見たいという強烈な欲求ですな。ネットの海にあふれるフラッシュやらマッドビデオやら妙なアイコラやらが日々生み出されるその原動力のひとつは、この「ウケたいと望む力」にほかならず、それはなんかどっかのデータベースから萌え要素の組み合わせでシミュラークルを……とかいった弱々しい動機なんかよりずっと説得力がある、というのは単に私の脳内での話なんですけどね(弱腰)。

 しかし実のところ、この文化圏的世界においてヒトを「オタク現象」的行動へと駆り立てる強烈な動機はもうひとつあるのです。

 またまた主観的脳内議論としていきなり結論を言っちゃうんですが、「オタク」の本質とはつまるところ「偉そうな態度への欲求」にあると思うんですよね。私の場合はもっぱらインターネットの掲示板などでバトルしたりするのが好きなんですが、こういうことさら相手を言い負かしたり蔑んだり罵倒したり自分をより賢しく見せたりすることがあたりまえの場は言うにおよばず、それ以外のいろいろな局面においても、―たとえばなんかの作品に対する論評とか、はたまた単なる日記とかに至るまで―なんか偉そうなんですよねこの種の人たちって。偉いんじゃありません。「偉そう」なんです。

 たぶん東氏にしたって、あっちこっちで「東浩紀はイタい」とかなんとか言われたりしてるみたいですが、何言ってやがんだ馬鹿野郎コノヤロウお前らみてーな有象無象にンナ事言われたかァねえや、とか言いたいと思いますよご本人は。いや実際の話。そういう「有象無象クン」でも、たとえばインターネットの書き込みとかメーリングリストのアーティクルとか、勝手なことが言える同人誌とかウェブページとか、はたまたコミックマーケットの会場とかオフ会の席とか、そういった場所ではなんか過剰に偉そうなんですね。おまえら、そんなに「偉そうな態度」が嬉しいですか? とか訊いてやりたくなりますが、どうも嬉しいみたいですよ、観察してると。

 なんて言いながら、直ちに自分で言ってることを否定しちゃうような感じですが、これらの動機って、別に「この世界」に特有ではないといえば確かにそうなんですよね。阪神優勝に際して道頓堀から飛び降りるヤツの行為の動機には、やはり「ウケたい」という欲求が強力に作用しているのだろうし、街でたむろしているヤンキーの連中にしろなんにしろ、偉そうなヤツはとにかく偉そうです。もっともこういう、物理的に手が届く距離を前提とした関係の場合、あんまり根拠もなく偉そうにしていると物理的なツッコミが来る可能性がある分、インターネットとかの世界のほうが偉そうにふるまいやすいかもしれませんが。

 偉そうな態度というものは、他の有象無象の連中から自分だけは一段高いところにいることを誇示したいという衝動です。一方、ウケたいという欲求は、自分の思考や存在を見て、評価してくれたり共感してくれたりする衝動です。どちらも「自分以外の誰か」に対するリクエストなんですけど、その方向性は正反対ですね。人間の行動原理ってのは、昔っからそういう、ネットワーク前提の仕様なのではないかと思います。

 そして、結局こういった文化現象とは、その「場」においての最適な「ウケの狙い方」とか「偉そうな態度の取り方」などといった、原・動機の発露のしかた、「手法」の差に還元されちゃうのかもしれません。

 

偉そうな行動の経済学

 などとまとめてしまうと話が終わってしまいますんで、もうちっと述べてみようと思います。

 さて、私はもともとが経済部の出ですから(といっても経済学の勉強はあまり……)それ風に偉そうなことを言ってみるテストを実施しようと思うんですが、人間の人間たる特徴的な行動様式というのは、つまるところ「経済活動」だと思っています。そんなこと言うんだったら蟻とかだって経済活動するじゃんかようとか言われちゃいそうですが、経済活動というものはたとえば共生なんかと違って、措定的な(つまりはじめっから決まっている訳ではなくあとから誰かが決めた)「規約」によって規定された他者との価値の交換だったりするわけで、まあ確かにそういう行為を猿なんかもしますけど、だいたい人間と人間でないものの差なんかそんなに明確じゃないっスよ。なんの話か不明確で申し訳ないんですが、要するに動物化動物化って言うけどじゃあどうすりゃ人間なんですか? ということが言いたいわけでして、それが経済行為なのかもしれないなあ、ということなんですよ。

 で、先ほどの「ウケ」にしろ「偉そう」にしろ、あらゆる面で経済学的現象としての行為だとこじつけることができます。たとえば「偉そう」で言いますと、最小限たる自己の力量をもって最大の「偉そう」を演じるという、これ実に思惟経済学的行為とかそういう感じの行動原理ではないですか(ウソです。思惟経済学ってホントはそういうものじゃありません)。

 そんなことはない、俺はそんな偉そうにしていないし、第一俺はほとんどROMで書き込み自体しないし、という人もいるかもしれません。しかしそれはアレですよ、行為者の脳内にはなんかこう「偉そう損益分岐点」みたいなものがありましてですね、偉そうな態度によって得られる快感と、偉そうな態度を取ることで冒さなくてはならないリスクとの関係曲線みたいなものを勘案しましてですね、やっぱちょっと自信ないからROM、みたいな経済学的意思決定をしているというのはどうでしょう? 外に向かって積極的に意見を発信して偉そうな態度をとるには、ある程度のネタと精神的な踏ん切り―テイクオフみたいなものが必要なのかもしれません。

って、実のところ私の標榜する解釈学的な世界認識とかそういう立場では必ずしもそういう行動原理ばっかりじゃないんですけど、まあ細かいところはいいじゃないですか。

 最も安全に偉そうな態度をとるには、その態度を裏打ちする何かの根拠が必要なんですが、パンチやキックが物理的に届くような距離でのつきあいの場合、なんか格闘技とか習ったりするのはまあ才能とかもありますしけっこう大変です。その点こういう、特に「知識」の量を競うことができるような世界では、誰でも時間と手間をかければ「偉そう」のネタを手にすることができます。ホラよくBBSのバトルなんかで「もっと勉強してこい」とか「そんな知識レベルでこの話題に首を突っ込まないでもらいたいものだ」とか偉そうに言ってるヤツっているじゃないですか。

 ではその知識とは何かと言いますと、たいていの場合、高度で複雑な前言語的情報なんてことはまずなくて、せいぜいテキストで記述できる程度の単純な情報にすぎないわけですね。そういうわかりやすい知識のほうが誇示しやすい上に身につけやすいですから、当然みんなそういう知識を身につける手法を選択するんですよやっぱり。

 で、そういう量的な知識というのは、結局のところ「時間とカネの関数」にすぎません。そしてまたカネってのも結局は二次的な「時間の関数」ですね。結局、人間ってのは有史以前から、時間とカネ、つまり「俺はこんなにヒマなんだぞ」という誇示を行うことに快感を覚える本能みたいなのがあるのかもしれません。偉そうな態度ってのはその文化的変形を経た現象なんでしょうね。「動物」は、そんな「偉そうな態度」なんて取りますか? 取りますか。いやまあそういうこともあるかもしれませんけど。

 

「ウケ」の開発手法

 一方、「ウケたい」という欲求は、また別な形で人の行動に影響します。

 何か「ウケ」るための「ネタ」というのは、まあある意味「それを受け取った者の脳内で実行され、受け取った者にある意図した反応をもたらすためのプログラム」と考えられなくもありません。

 ところで、プログラムの開発ってのは、……まあ私がプログラム書いていたのはもう10年以上前なので最近の事情は全然ダメなんですが、ともかく、ある機能(たとえば入ってきたデータがちゃんとした数字かどうかチェックするとか、コンピュータから今の時刻を読み出して来るとか)ごとにバラバラに作っておいて、必要な処理を行うときにはそれを必要な回数ぶん「呼び出す」といった感じで組んでいくのが楽なんですね。だいたいにおいてプログラム書きってのはナマケモノですから、ラクな手法、手を抜ける手法があったらもうそれはすごい努力で手を抜こうとします。こういった、特定の機能をもつ小さな部分的プログラムを作っておいて必要な時に利用するという手法は、特にあとでプログラムをいろいろ手直ししたり、似たような別のプログラムを作るときにずいぶんとラクができるものですんで、かなり広く行われるやりかただと思います。

 さて「ウケ」の場合も、結構似たような事情ではないかと思うんですよ。ある特定の心理的状況を作り出すための機能を持った最小限の「部分的プログラム」をどっかから拾ってきて、それを必要な場所で必要な形式に組み合わせて呼び出してやる、という開発手法がラク、もちっとちゃんと言えば合理的、あるいは経済的なんですね。たとえば、「近々死ななくてはならない美少女」なんていうシチュエーションは、「泣き」という機能だけを持った部分的プログラムを呼び出して使っているようなもの、という見方もできるわけだし、「ネコ耳」だの「羽根」だの「触覚状髪」だのなんてのも、「萌え」という効果を導く部分的プログラムモジュールだと考えたほうがわかりやすいんじゃないかと思うんですよね。

 この説明なら、「萌え」以外のほとんどあらゆる「見る者に何らかの心理的変化をもたらすための要素」をラクに説明できます。この部分的プログラムモジュールの名称なんですが、ちょっと適当なものを思いつかなかったんで、とりあえず「単子」と呼ぶことにしました。オブジェクト指向なんて考え方があるので「オブジェクト」って言おうかと思ったんですが、なんだかマイクロソフトどっぷりみたいでイヤだし、適当な日本語の訳語がわかんなかったもんで。ちなみに「単子」って、モナドという言葉が元ネタです。ちょうどいいじゃないですか、「萌えの単子」とか、「泣きの単子」とか。「偉そうな態度の単子」とか「相手をバカにする単子」とか、あるいはまた押井守が『METHOD』に書いたようなさまざまな「演出的効果の単子」なんてのもあるはずです。こういう高度なものになると、一般ピープルは簡単に活用できないかもしれませんが。

 この「単子」という考え方は、別にパラダイムがどうとかエピステーメーがどうとかといった大それた話ではなく、単に「経済的・合理的な開発手法のひとつ」の話にすぎません。というか、人間のものの考え方はある程度洗練されてくると、「もの」や「行為」をある程度「思考の取り扱い」において扱いやすい程度のモジュールにする傾向があるのかもしれませんね。ダイクストラが構造化の概念を提唱するはるか以前から、こういった「単子」は人間の思考空間のありとあらゆる場面に点在していたはずです。

 「開発手法のひとつにすぎない」といった形にいったん還元してクールに考えれば、たとえば『エヴァンゲリオン』という作品はそんなに時代のエピステーメーを揺るがしちゃったりとかそういうものではなく(もちろん面白かったし好きな作品ですけど)、単に開発手法がやや斬新だったという言い方である程度説明できます。

 たとえば、ちょっと前よく話題にのぼったシステム開発手法のひとつに、エクストリーム・プログラミングというのがあります。この手法においては、昔のウォーターフォールの「基本設計」→「詳細設計」→「コーディング」→「単体テスト」→「結合テスト」→「総合テスト」……という順番コの感じではなく、まず最小単位の単体プログラムに対する単体テストをパスさせることを最初に考えるのだそうです。これを繰り返し、積み上げていくことで全体を構成する、「テスト駆動開発」とか呼ばれているそうですね。

 『エヴァンゲリオン』は、「大きな物語」を欠いた作品だと言うより、「単子」レベルの単体プログラムのテストを積み上げて全体をある程度構成する考え方でいたのだが、ペンディングにしていた総合テストがコケたもんだからさあ大変。でも劇場版でちゃんとパッチ当てたのでヨカッタネ……という案配の作品と考えることができるんではないでしょうか。

 「データベース」という考え方、たいへん画期的かとも思うんですが、私はそういうちゃんとした一元的な情報の集結点があるというのはちょっとどうかな、とか思っています。コンピュータの、ダイナミックリンクを呼んでくるプログラムと同じように、ある人間は自分用の、「単子を呼んでくる経路」―パス(path)みたいなものを持っていて、ものを考えるときに無意識に、あるいは意識的にそれを参照していると考えた方が現実的ではないでしょうか。「経路」は自分のかつて読んだ本の中や観た映画の中など、いろんな部分に通っています。人によっては、世間からはすっかり忘れられた、または知られていないディレクトリに経路を張っている人もいます。こういった人の成果物は「独創的」と評価されるかもしれません。逆にアクセスしやすいディレクトリにパスを張っている人たちの成果物は、似たような「単子」を利用しているので、動作が似通ってくることもあるでしょう。たとえばついこの間まで、日本文化を「解放」していなかった韓国のドラマやアニメ作品は、「知られていない」日本にこっそり(笑)経路を張っていたもんで、解放されるといろんなモジュールを勝手にリンクして持って来ちゃってたことがバレちゃうので哀号、という案配みたいですよ?

 『エヴァンゲリオン』で言えば、この作品で使われた秀逸な演出のひとつに、綾波レイがシンジの献身的な友情に対して極限的な状況でにっこりと微笑む、なんてのがありますね。このプログラムを最高の環境で稼働させるには、「無口」「感情を表に出さない」などの要素が必須であるわけで、これがのちに『エヴァンゲリオン』を「経路」とする数々の作品に呼び出されることとなる「綾波の単子」、といったところでしょうか。ちなみにこの綾波さんのモチーフは、1991年に発表された藤田和日郎『うしおととら』外伝『妖今昔物語』に触発されたものではないか、などと思っています。根拠のない私見ですんで、庵野氏がこの作品を直接自分の「パス」に設定していたかどうかはわかりません。

 まあ、人間が情報を交換する動物である以上、そして経済性をよしとする世界解釈をする以上、必然的に採用される思考の手法ではないかと思うんですがどうでしょう。

 

ウケの流通の経済学

 もうちっと補足します。ウケたいという欲求の話なんですけど。

 ウケるネタというのは、まず最初に自分自身を観客としてウケるところから始めるわけですが、『動物化するポストモダン』の世界では、どうもここで止まっている感じがするんですね。

 自分だけウケるネタで一人で満足したり、自分独自の萌えネタで一人でハァハァ言ってるだけだったら別にこういう自分の脳内世界で止まってていいんですが、ウケるネタを、ほかの人にもウケさせたいと考えたとき、他者の「環境」についても考えなくてはならなくなります。

 プログラムを作る場合、そのプログラムを実行することになるいろいろなコンピュータひとつひとつの細かい実行環境の違いなんてのをいろいろと考慮しなくてはなりませんが、実行環境が「人間の脳」の場合もけっこう似たような問題があります。ある人間にせっかくおもしろいネタを見せても、その人間の脳の中に、最低限の「作り手と共通する常識」とか「ネタにしている対象のモノに対する知識」とか「ネタを解釈する思考能力」とかがないと、何がおもしろいのかぜんぜん理解してもらえません。たとえばWWFのメンバーの一人が以前アメリカのとある都市に住んでいたんですが、インターネットで見た『ゴノレゴシリーズ』(あの、ゴルゴ13似の殺し屋が、吉野家で牛丼喰ったり、2ちゃんねるに「1の家臣でございます」とか書き込んだりする動画ね)のおかしさを、職場の同僚(もちろんアメリカ人)にどうしても説明できなかったという状況がありました。アメリカ人は、日本の「そういう趣味のヤツ」なら当然知っている、特定の作品とか、ある領域だけに通じる用語とかをまるきり知らない訳ですから、これはなかなか難しいと思いますよね。つまり、その作品が構造上呼び出しているいくつかの「おかしさの単子」の呼び出しに必要な「経路」を彼らは持っていないので、プログラムが要求仕様どおりに動かないという状況が起こるわけですね。

 まあアメリカはちょっと極端ですけど、少なくとも自分以外の誰かに「ウケ」たいのであれば、そのへんのことも考えなくてはダメです。これは別にウケだけではなく、「泣き」だろうと「笑い」だろうと「感動」だろうと似たようなものでしょう。

 リリースしたプログラムが、リリース先の環境になると何だか知らないけどうまく動かない……という状況は実際のソフトウェア開発でもよくあることで、この種の危険をできるだけ回避するためには、「標準的なモジュール」を多用することが有効だと、誰でも考えがちです。最小の機能レベルでは実績のある、誰かが過去にリリースした「単子」を使えば、リスクを最小限にとどめることができる。これは、リスク管理をして投資効率を上げようとするプロジェクト管理者なら当然考えることであって、こういうのはソフトウェア開発でもコンテンツ制作でも状況は似たようなものでしょう。これもまた単なる合理性追求の結果到達した「手法」の問題であって、別に「人間の性質や社会の構造が変貌した」せいではないんじゃないかな〜、などと私は考えています。

 

ちょっとしたまとめ

 と、全体的にコンピュータやインターネットなどの比喩みたいな感じで論じてみました。人間はコンピュータやなんかとは違うという考え方も当然あるでしょうけど、コンピュータというものは人間の思考の形式を、脳の外部に再現したシステムなので、けっこう部分的にはよい例だと思うんですけどね。インターネットのシステムだって似たようなものです。人間の意識や記憶、世界に対する認識なんていうものは、けっこう粗雑な「情報」だけによって成立しているものですから、「情報」のみでひとつの世界を再構築できないはずはありません。データベースというものにしても、

人間がデータベースに似ているのではなく、データベースが人間の脳の動きを真似ているのです。

 『動物化するポストモダン』に描かれた人間は、なんだかとても寂しい印象を受けます。そういう時代になったんだと言えばそれもそうでして、「萌え」の要素だけ追求してハァハァ言ってる動物化というのは、たしかに社会全体で散見する状況ですね。

 ただ、人間が人間性を発揮できない(しない?)状況になるのならないのという議論は、昔の環境決定論と環境可能論の喧嘩みたいな気もします。つまり、ある環境でそこに住む人間の文化は決定するのだ、いやそうとは限らない同じ環境でも別の文化を構築するのだ、といった議論です。

 これまた私見ですが、この種の議論は結局のところ、同じことを別の角度から言っているのではないかと思います。人間というものは、観測する際の視座の取り方によって、さまざまな「観え方」をします。古典的な哲学に描かれる人間の人間性というものは、ひとりの人間を照明する視座からのものが中心となっています。しかし人間は、ひとりひとりの単位では古典的哲学の言うような「人間性」を発揮しますが、非常に多数の人びとという単位では、観測する際の視座の母数が多くなればなるほど、統計学的な、決定論的なふるまいをし、自由な思考や言説や行動をすることがなくなって来ます。逆にミクロ的に、ひとりの人間の体細胞などのレベルに観測の視座を置けば、これまた機械的・化学的な、決定論的なふるまいをするようになります。

 結局のところ現代という時代が、人間が自由な人間性を失って決定論的な「機械」や「動物」や「昆虫」のようにふるまう局面が増えた時代であることは全否定しませんが、むしろ観測者の「手法」が多様になり、その観測の視座がさまざまなレベルに置かれることで人間のもつ決定論的な側面がクローズアップされてきたことが大きいのではないか、などと希望的観測を述べてみたいのですがどうでしょう。

 以上で私の話を終わります。どっとはらい。

 

(終)

2003/12

 


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