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東浩紀で恨ミシュランin『動物化するポストモダン』

 

 

松本 晶


 

東浩紀氏の『動物化するポストモダン』については、その根拠の薄さなどによって(いきなりヒドイ言い方で申し訳ないのであるが)、既にネット等で様々なツッコミが成されていることと思う。例えを挙げればキリがなさそうであるが、それを改めて指摘してもあまり面白くない。「ポストモダン」や「オタク系文化」の定義からして紛糾しそうではあるが、彼はそれを知りつつ敢えて戦略的に曖昧にしたまま議論を進めていると思われる。というわけで、この文章では彼の著書の可能性の中心を取り上げながらも、その中心自体を批判して根拠なく自分の意見をチョッカント主義的(まるしー野矢茂樹)に述べてしまおうという、かなり思弁的であるだけなく底意地の悪い文章になりそうなのだが、これは実際に私の性格が悪いためなので半ば止むを得ないと謝らざるを得ないデス、はい、ごめんなさい(実生活でストレス多いので許してくだせえ)。で、本稿では東氏のこの著書からの引用を以下のように太字で示したのでご注意を。

 

 

 というわけで早速、本論が始まる「第二章 データベース的動物」から考えて見よう(第一章についてもイイタイコトが山ほどあるのだが原稿のワクがあれば後述)。彼の主張するポストモダンな世界における「データベース・モデル」については、他の部分の論理の飛躍に比べて一見地についた議論に思えるため、他のパートに比べ好意的な意見が多いようである(気がする)。だが、ワタシの結論を先に述べておくと、「データベース・モデル」(読み込みモデル)後にデータベース消費の理論は、論理の放棄でしかない。敢えて言おう、滓であると。

 東氏の話を超要約すると、オタク系文化における特徴のひとつである「二次創作」は、ボードリヤールの言う「シミュラークル」の概念が示すところに極めて近く、この哲学者がポストモダン的な世界において支配的になるのだと予想していたオリジナルでもコピーでもない中間形態であると。もうひとつのオタク系文化の特徴は「虚構重視」であり、オタクの人間関係は親族関係や職場の社会的現実よりも、アニメやゲームの虚構を中核とした別種の原理で決められていると。これらの特徴を得るに至った原因は、ポストモダンそのものであり、既存の社会的な価値規範がうまく機能せず、別の価値規範を作り上げる必要に迫られて、無数の小さな規範の林立するなかでオタクにとって「現実的」に人間関係を結べるものを選択した結果であると。すなわち「大きな物語」「イデオロギー」「共同幻想」の崩壊であるというわけであると。以上を更に超要約すると

 

 「オタク系文化はこのようにシミュラークルの全面化と大きな物語の機能不全という二点において、ポストモダンの社会構造をきれいに反映している」

 

というものである。確かに、東氏が言うように、近代は今の私たちから見ればあからさまに目に見える「大きな物語」で支配された時代であったが、それはあくまで西欧における事情であったに過ぎないのではなかったか。日本特殊論ではないが、日本の「近代」と呼ばれた時代は「近代」の真似事に過ぎなかったのではないのか? 以下は些か言い古された言説で、歴史を知らぬ私には真偽の定かではない話なのではあるが(ヲイヲイ)、西欧近代における「大きな物語」やイデオロギーと言ったものは、中世における「一神教的な神」への帰依の代替物という見方も出来る。もともと西欧にとっても外来宗教だったキリスト教(ローマ帝国時代くらいの話か)の神の威信を、再び科学なり論理なりを用いてヒトに取り返えそうとしたナルシズムの復権が、第一次「神の死」のドライブとしてある限り、それ(近代に始まる理性バンザイのイデオロギー)は必然的に一神教的で偏狭排他的なものになる(無理矢理帰依させられたキリスト教への憎悪の抑圧が、悪魔や原罪の思想とつながるのだろうか? それは本職の方に教えて欲スィっす)。であるからして? 近代国家が覇権主義、世界征服を目指す悪の結社的になるのは論理的必然である。したがってその悪弊を知りつつ第二次「神の死」を叫んだニーチェからポストモダンに通じる流れは(ホントかいな?)、一神教のアンチであるからして、過激な方針を取らざるを得ないと思われる(そうでなければ思想的にも実際的にも対抗できなかったのだろう)。それがポストモダニズムにおける、東氏の専攻とする?? ジャック・デリダやらドゥルーズ、ガダリあたりのフランス哲学なのだろうが、私はこれまたこれらを全く知らないので真偽は定かではない(こればっか)。

 要は中世だろうが近代だろうが、西欧においては長らくツリー・モデル(投射モデル・50頁より引用)、つまり深層(私たちの見えないどこかに真理があってそれが世界の原理になっている)とその不可知な一点が重要であるという思想が支配的であったと思われる(実は現在でもこの思考法と社会モデルが有効というか充分残存しているのではないかということについては後述)。ラカンの精神分析のキモもここにあるわけだが、それもまた後述する(かもしれない)。

 ただ、それと日本における近代の問題は同一には語れないのではないか、したがってオタクの問題も世界的なポストモダンの流れの日本における支流というのは、穿ち過ぎってゆーか謙遜しすぎぢゃないっすか? 東センセ? というのが私の主張である。日本特殊論への過剰な反動ではないかと。東氏が批判する「ニッポンマンセー」的な言説、すなわち近代をすっ飛ばしている未成熟な日本だからこそポストモダンには有利、などという二重にバカげた論理ではなく、多元主義や創発的秩序やイイカゲン主義(コレは私)ならば、それは日本にはその素質(笑)があるのは当然だという、別に劣等感の裏返しの優越感からくるような高揚感、夜郎自大精神とは別物の思考である。

 つまり、いわゆる近代以前の日本社会の原理は、もともと西欧の中世や近代のようなツリー・モデルではなく、家族制やムラ的な小さな共同体における各構成員が構成的、創発的に生み出しそれが半固定したオキテにより規定されていたと思われる(ホント?)。それは別に「前近代的」だとか遅れた文明の段階だというわけではない(そう言う人は単純進歩主義を単純に信仰しているだけのことである)。この方式は日本のように直接の外敵に囲まれていない共同体では内部構成の論理としては優れていたものだと思われる。しかし近代覇権国家的な外敵の諸外国を意識して始めて成り立つ「国」としての体裁を整えるためには、日本にも様々な装置が必要であったのだろう。しかし西欧のように一点に深層や不合理を集めて共同体をまとめる「神・GOD」の概念や「理念」の存在は、日本にはもとから存在していなかったと思われる。したがってそれをイキナリ持ってきても根無し草になることは当時の人達にも分かっていたのだろう(八百万の神はGODの概念とは全く別物である)。しかしペリー来訪等のイメージに代表される諸外国による開国という心的外傷が危機感となり、無理をしてブチ挙げたのが、一神教の神の代替ブツではないかと。すなわち個人レベルにおいては自立した個人という神の概念を省いた「強い個」の幻想であり、国のシステムレベルでは万世一系の天皇という幻想による近代国家の真似事であると思われる。特に前者は神を伴わないまま輸入されてしまったために、日本の近代とそれ以降における思想を無用に屈折したものにさせ(その残滓は第二次世界大戦後の60年代、学生運動まで残っていたと思われる)、今日に至っている、ただしオタクを除いてではあるのだが。後者に関してはウッカリ言えないのでパス。

 

 兎に角、日本でのポストモダン的な動きというものは、この流れの中で理解しないと、岩波文庫愛読者的インテリのアタマでっかちの議論にしかならない。その意味で、大塚英志の「物語消費論」も東氏の「データベース消費論」も基本的には同じ穴の狢、他人事のような空疎な論理に過ぎない。つまり日本におけるポストモダンの問題は超越論的な外部なんかではなくて、オタクにおける親子・家族幻想の崩壊と、それにとって代わるアニメ、マンガ等「オタク系文化」による自我形成の問題である、って以前の原稿(WWF26)でも述べた話なんすけど。結局はオタクの命名者である中森明夫氏がイチバン分かっていて、「オタクはメディアを親として育った」ということが基本であり、そこを押さえていないとダメである。このことを大塚氏の言説を否定的に引き合いに出しながらそれを示そう。

 大塚氏は「物語消費論」において、近代が終わり大きな物語の凋落、消失して規範がなくなってしまったために、その代替物として(第一世代の)オタクは商品としての物語を消費するようになったと主張する。大きな物語の喪失の原因のひとつとして、大塚氏は東氏と違い「異界」や「死」といった超越的なものが私たちの周囲から意図的に隠されてきたことを重要視しているように思われ、そこは私も賛成なのであるが、本稿の趣旨とは違う話なのでパス。とにかく、大塚氏の言う「物語消費」の方法としては、ゲームでもアニメでもマンガでも、その表層にある「小さな物語」を窓口として、その深層にある「大きな物語」にアクセスするというコトらしい。

 しかしもともと日本の近代以降における輸入モノの「大きな物語」は、西欧での使い方のように自我形成のために深層にあって不合理を一手に引き受ける投射の一点として用いられていたわけではなくて、「私」のなかに取り込み得る理性的、合理的で「自立した個人」の幻想を支える自己言及的な「表層」であり、それにより深層や外部や不可知を一見駆逐出来るように思えただけでなく、日本での個人を規定する最も大きな社会規範である「親子・家族幻想」からも自由になるための便利なツールであると考えれられてきたと思われる(西欧でも本当は不合理な一点を消滅させるために考えられたが後に結局は神の位置を占めるに至ったと思われる)。つまり西欧において「大きな物語」は外部に通じることで逆に共同体をまとめるのに対して、日本では個人の内部に取り込まれ共同体の鬱陶しさを駆逐して旧来の共同体からの脱出のためのツールに過ぎなかった。そこでは「大きな物語」は外部とはならず、主にナルシズムとその「物語」を介した日本古来の対幻想、結局は同じムラ的共同体内のヒトとヒトのネットワーク(間)から形成される場が、自我と共同体形成の支えとなっていたと思われる。同じ「大きな物語」を信仰したがってするもの同士が作る共同体は原理原則に則ったものにはならずに、結局家族的、仲良しサークル的であったことからも、その日本における意味が知れようというものだ。そして近代が終わり、これらイデオロギー等の「大きな物語」が壊れてみると、実は別にそのための物語は「大きく」ある必要はハナからなかったことに気付いてしまった、というのが日本における「神の死」だったのではないか。というわけで団塊で全共闘世代の勘違いとヘタレぶりを目撃していた我々オタク第一世代はそれを「実感」したわけである。

 したがってもともと誤解で取り入れた「大きな物語」は今では少々の知的郷愁を誘うという面でしか必要ないというしょーもないモノであるという事実に、私たちオタク世代は既に七十年代頃に「気付いた」だけのことであり、近代のイデオロギーに毒されていた世代が単に無理を重ねていたに過ぎないのである。従って「大きな物語」が「凋落」したなんてのは西欧の言説を鵜呑みにした早とちりであり、有態に言えばウソであり、それが「幻想」に過ぎなかったことがバレてしまっただけのことである。したがってそのような「大きな物語」が、大塚の言う意味ではない「小さな物語」にとって代わられているのは自明の理、必然なのである。というより日本では、対幻想を元にした「小さな物語」を寄せ集めながら(ブリコラージュ)創発的な仕組みを組み上げていったわけで、その意味でオタクがオタク系文化の要素を紡いで共同体を作っている様は、日本の文化の正統な後継者であるというに相応しく、東氏が言うような「日本的イメージ」という感覚はここからも出てくるのではないかと思われる(考えすぎか?)。

 

 では大塚氏の「物語消費」を一歩進めたと考えている東氏の「データベース理論」はどうなのか? 以上述べた私の批判を認めたとして、彼の理論は日本におけるオタク分析には役に立たないかもしれないが、ポストモダン全般の文化の傾向についえは有用なモデルなのではないかと思われる方もいるかもしれない。しかし結論を言えば同じくダメである。一見旧来のツリー・モデルへの対案として彼はそれを語っているのだろうが、それは所詮のところ、「大きな物語」がなければ、あとはデータベースの塊という無秩序な参照物があるだけという思考であり、それは神が死んだ後の西欧のヒトが思い描く自暴自棄に過ぎない。したがって深層というフィクションの場に、データベースという代わりをもってきただけで、一昔前の還元主義的、構造主義的、決定論的思考に逆戻りしているだけである。その特徴はそこに一対一の対応を見ないだけである。東氏はたぶん自分ではそれらを超えたところでオタク論を考えていると錯覚しているが、はっきり言って文系の(旧)理系的な知へのコンプレックスによる複雑系を誤解した過剰な単純モデル化に過ぎない。それを以下に示したいのだが、話はちょっと二転三転するので申し訳ないが彼の著書を引用しつつ思いつき通りに述べていってみよう。

 

 「ポストモダンの到来によって、そのツリー型の世界像は崩壊してしまった。(中略)ポストモダンの世界は(中略)データベースモデル(読み込みモデル)で捉えたほうが理解しやすい。」

 

 まずこれが東氏の認識の最も甘い部分であると思われる。確かに東氏の認識している以上に、現在、「世界」の見方は厳密な精密科学の分野においても決定論的な方向からは外れつつあって、一方に物理学における大統一理論への果て無き希求があっても、極微小世界では不確定性原理による位置と運動量の原理的な非決定があり、かたやヒトサイズクラスの大きさの現象であっても統計的な大規模効果で予想可能な系があるかと思えば、逆に数学的なカオスや決定論的非決定によって数学的に厳密に記述できるものでさえ予想不可能となることもあり、一番基本原理レベルからのツリーモデル的な、すなわち還元論的で決定論的な世界像は有り得ないことが示唆されてきているわけである。すなわち、いかなる現象であれ投射モデル的にその要素や基本原理から決定される部分と、その階層独自で決定される部分と、その上位の階層から制御される部分が不可分に絡み合って決定論的に非決定されているという「複雑さ」と「博物性」を備えているわけであり、それを素直に受け入れつつ数学化モデル化にトライし始めたのが現代の科学であり、リゾームやらデータベースやらが想像していた「単純な」世界像を遥かに超えた「システム」が「発明、開発」(発見ではない)されつつあるわけである。したがって東氏がポストモダンな今では事態が変化しているんだよという説明を、旧来の還元主義的な知にしがみ付いている「凡俗」に説いてみたくなるのも分からないでもない。

 しかしそれは少なくとも二つの理由でマズイ。まずひとつは、原理的なことを差し引いても、「思考は極端なるものによってのみ進み、中庸なるものによってのみ存続する。」とヴァレリーも言うように、そしてフランシス・フクヤマが「歴史の終焉」を述べた途端に「歴史」が動いて失笑を買っているのと同様に、ポストモダンな時代には死滅すると東氏が想定したツリー型の世界像は現在も強固に固められつつあるのではないか。それはアメリカや中東に代表されるように世界中がある意味原理主義に走っているという事態だけではなく、このポストモダンを具現化したのではないかと思われた日本においてさえも、オタク世代以降の、いわゆる「第三世代オタク」「団塊ジュニア」は深層に「真理」があることをまだまだ信仰しているのではないだろうか? 問題はこれらの混在とその摩擦である。特に団塊ジュニアのように「大きな物語」を必要としないと勝手に誤解され、世界を見とおす視線を必要としないだの、データベース的に世界を見ているなどという考えは完全に誤解と理想化の産物である。そう言われている世代こそ、実は無制限な自由とイデオロギーに過ぎない人権思想などの「進歩思想」のような「大きな物語」、もしくはデータ信仰を最も純粋に崇めている世代なのではないかと私は考えている(停滞していても進歩思想とはこれ如何にだが)。それがそう見えない人は自分自身がその物語に沿って生きているために、それを「事実」だと信じて疑わず、それらを「物語」だと気付いていないからである。

 その意味合いでも、東氏がしばしば引用する社会学者、大澤真幸氏のオタクに対する分析も全く的外れである(と言ってはみたものの原著にあたっていないのでホントはこんなエラそうなことは言えないのであった、スマン)。これは前回のWWF26の原稿でも触れたが、大澤氏は「オタク論」という文章のなかで、

 

 「オタクたちにおいては内在的な他者と超越的な他者の区別が失調しており、そのため彼らはオカルトや神秘思想に強く惹かれるのだ、と分析している。ここで「内在的な他者と超越的な他者の区別」というのは、平たく言えば、自分の身の回りにある他人の世界(経験的世界)と、それらを超えた神の世界(超越的世界)の区別を意味する。オタクたちはその両者を区別できず、その結果、サブカルチャーを題材とした擬似宗教にたやすく引っかかってしまう」

 

 と東氏が引用して敷衍されているが、マジで言ってるんですか? コレ。とすれば新興擬似宗教に入信してしまうオッチョコチョイの思春期のおバカさんやオバさんや老人たちは皆オタクですか? 擬似健康器具の似非科学効果を信じて高価で購入してしまう人はオタクですか? 土地価格が無限に上昇し続けると信仰して結局はじけちゃった人たちもオタクですか? また逆にこれらの「トンデモ」を楽しく鑑賞している「と学会」の人達はかなりオタクなんですけど、これはどう説明するんデスカ?

 てなわけで、ここにおける東氏と大澤氏の言説(原著に当たっていないで批判するのは心苦しい、ってよりかトンデモない言い掛かりかもしれないが)は、常識的なオタク観、すなわち「虚構と現実の区別がつかない」という唾棄すべき凡庸さをラカン流の韜晦で飾ったものに過ぎない。なんでこんなバカげた理屈がまかり通るかと言えば、「「大きな物語の崩壊」という物語」を信仰してその内実を熟考しないで西欧の事情を無制限に我々オタクな日本人に適用しようとしたからだと思われる。

 

 以上は単に「大きな物語自体への批判」めいたことを述べてきたように思われるかもしれない。しかし「大きな物語」や「深層にある真理」の思想は、ふたつの意味でヒトの心的構造発生の場から不可避的に必要であり、そこから「逃走」することなど、それ自体が信仰に近い幻想であると私は考える。ニーチェだかの古典を引くまでも無く「真理とは人が必要とせざるを得ない誤謬である」(何か違う言い回しだったよーな気がするがキニシナイ)なのであり、ポストモダンの時代なんて言っても、それはヒトの心理と真理の成り立ち上仕方ないと思われる。逆にそれを自覚的に引き受けたのがオタクにおける萌えであることはWWF26の拙稿で述べたので繰り返さない(買ってね)。まあ、そうであるからして

 

 「五十年代までの世界では近代の文化的論理が有力であり、世界はツリー型で捉えられていた。(中略)しかし時代は六十年代に大きく変わり、七十年代以降は、逆に急速にポストモダンの文化的論理が力を強める。そこではもはや、大きな物語は生産もされないし、欲望もされない」

 

 という東氏の記述は、文化が変わったという流れを西欧と日本で一緒くたにした雑でロマンチストな提言であり、確かに双方で「大きな物語」の凋落は起ったと言えないこともないが、その内実が実は全く異なっていることは先ほど述べたとおりである。であるから

 

 「日本のオタク系文化の台頭もまた、やはり同じ背景(七十年代のアメリカで高まったニューサイエンスや神秘思想への関心、世界的に生じた学生運動の過激化など:筆者引用)を共有している。第一世代のオタクにとって、コミックやアニメの知識や同人活動は、全共闘世代にとっての思想や左翼運動ときわめて近い役割を果たしていた」

 

 という東氏の指摘は、私たちはポストモダン世代はそんな「大きな物語」を共有していた世代とは一線を画しているのですよ、とも言いたげな文化的流れの捏造である。ズバリ無根拠に言えば、全共闘世代、団塊の世代とそのジュニアたち(ポストモダン世代?)の方が似通っていて、自らの身の丈に合わない身体論的に無責任な幻想を生きているという点で文化的思想的に極めて近く、その間に挟まれているオタク世代が「燃え」と「萌え」という身体論的な「敗北」を素直に受け取りつつ比較的「古風」な秩序好き(みんなアニメから教わった)であることからして、そこから「オタクこそが日本文化の正統な伝承者」であるという感覚も生まれてきていると思われる。従って文化的根無し草ではないオタク文化だけが世界に流通しているのは当然なのであるが、東氏のような「脱オタク」の「普通」のヒトにはそれが面白くないのかもしれない。『動物化するポストモンダン』の第一章の批判で述べたように(って本稿では割愛したので完全版をウェッブに載せる予定)、東氏自身がいみじくも陰画的に言ったように「Jポップのような国民的広がりをもつ」国辱的(笑)アメリカサルマネ「文化」の劣等感を社会的弱者に投射したのが、東氏の言うところの「オタク文化の源流はアメリカ」(起源だけをことさら問題にして価値判断をしようとするのは某民族のようである)だとか「擬似的な日本への複雑な欲望」とかいう言説であり、単なるレッテリング、それプラス「劣等感の投射=擦り付け」である。

 

 というように悪口(笑)を書いていると筆? が滑らかでラクなのだが、飽きた。次に行こう。先ほど述べたデータベースモデルがマズイ、という理由の二番目を、東氏がそこに見る二重構造とか言うものについて絡めて考えてみよう。

 実は初め『動物化するポストモダン』を読んで、私はこれについても東氏が何の根拠をもってポストモダンにおける世界像が、見せかけと情報の二重構造として捉えられると思いついたかさっぱりわからなかった。そしてその具体例がHTML言語で規定されるウェッブ構造と対応されるのかも何かしっくりといかなかった。確かにこれはツリー・モデルと比べれば主体の存在が世界の見え方に大きな影響を及ぼしている、つまり表層を決定する審級が深層ではなくて見る側のユーザーサイドにあるというのであれば、それは面白い発想の展開ではある。つまり「見え」がユーザーにも依存した出来事で、読み込み方次第で様々な表情を見せるというのには私も大賛成であるが、それならば見せかけと情報の区別は一体何かということが私には理解できない、と言うより東氏のアイディアは再び旧来のツリーモデルへと逆行しているように私には思える。

 そのへんの抽象的なイメージを言えば、それは丁度ソシュールの言語学におけるシニフィエ(意味されるもの:概念)とそれを指し示すシニフィアン(意味するもの:音のイメージ)という「二重構造」を、シーニュを形成する二つの実体的要素と勘違いして理解しているのと同型である。これも故・丸山圭三朗大先生からの受け売りなのであるが、旧来の西欧形而上学的な現前の記号学なり情報理論におけるシーニュあるいは記号・情報とは「自ら外存する事物か概念を指し示す標識」としてあり、それに対してソシュールの言うところのシーニュとは「シニフィエとシニフィアンから成る双面かつ不可分の言語的本質体であり、この本において奥田氏が提出する「唯情報論」における「情報」の概念に近い(と思う)。そこには上手く主体の概念が繰り込まれている。それに対して東氏の提案する二層構造の具体例は

 

 「オタク系の消費者たちは、ポストモダンの二層構造にきわめて敏感であり、作品というシミュラークルが宿る表層と設定というデータベースが宿る深層を明確に区別しているのだ」

 

 というのは、結局はツリーモデルの深層と表層の対応を、ひとつ階層をずらしただけの旧来のモデルに過ぎない。そこでは確かに設定と作品(シミュラークルだと彼は言い張るが)、すなわち深層と表層が一対一で対応しておらず、鑑賞者の恣意的な読みに多分に依存しているという新たな指摘はあるかもしれない(WWFでは解釈学的作品鑑賞として既に奥田氏などによりかなり以前から指摘されているが)。しかしそれに対して私が提唱するのは、「表層」が創発的に権利的な「深層」を読み込みうるという、アニメの鑑賞から得られる複雑系的でカオス的世界像である。例えばアニメやマンガ等のオタク系文化において私たちがそれを鑑賞するときのことを素直に考えてみよう。東氏はその深層における設定というものをやたらと実体視するが、はじめ私たちが作品を鑑賞するときには、作品そのものと世界観、設定などを区別したりはしない。作品そのもの=表層が全てである。設定は表層から事後的に想定される権利的な存在に過ぎないのですらなく、それは表層と不可分である。設定や世界観はそこから帰納されるものではなく(今でこそ少なくなったが原作至上主義者が陥りやすいのがコレ)、はたまた作品の裏に隠れていて全てを参照しうる実体(コレが東氏のデータベース理論)でもなく、表層である作品そのものと鑑賞者の「間」から創発的に結実してくる「関係」である。それが後に物化したものが、いわゆる「設定」であり、ここいらへんはソシュールの言語理論からのアナロジーであることをバラしておこう。

 確かにアニメ誌なんかで、事前に製作サイドから公開されるある程度の情報を得たりしていたり、メディアミックスとかでゲームや小説やマンガの関連作品から雰囲気を想像したりするのだが、それは作品世界とはピッタリと重なるものではない。そのようなものにデータベースという正解など有り得ない。過激な立場で言えば、製作サイドの提出する設定という正解=深層は、私たちが作品を鑑賞して得た「作品世界」とは本来何の関係もない。もともとオタク第一世代、第二世代は、作品そのものから設定を「創作」(自分たちでは設定=深層を探求していたつもりだったが、それは表層も深層も「虚構」であることを意識しつつ行っていたからこそポストモダン的ではあった)していたわけで、それが当時のアニメの「設定」の甘いところゆえに様々な読みを可能のしたという面はあるにせよ、「世界」の読み方関り方からすれば、こちらの方が余程「脱・近代的態度」ではあった。

 それに対して、確かにオタク第三世代と呼ばれるなかの大多数を占めるような印象の「純粋消費者」たちが、作品世界の物語を求めずに、ただ参照するだけなのだというならば、これは実のところ東氏の指摘は当たっているのかもしれない。しかしそれは既にオタク的でもポストモダンでもない。単なる団塊ジュニアたちの先祖返りであり、その先祖とは言うまでもなく団塊の世代の身体論的裏づけのない空疎な深層への信仰であり、ジュニアたちは親たちが信じていた理想の代わりに、データベースという一見揺るぎの無い「事実」を「信仰」しようとしているだけのことである。当然、その「事実」たるものは「正解」でも「真理」でもない、相対的なものにすぎないのだが彼らには究極の真理に思えるのだろう(ソースを示せ、と言いすぎ)。もしかしたら、ポストモダンなオタクの時代はとうに終わったのかもしれない。再びツリーモデルが台頭しているのである。

 

 「近代からポストモダンの流れは、進むにつれて、そのような捏造(「大きな物語」の消失に伴う新たな虚構・サブカルチャーによる物語の代替:筆者注)の必要性を薄れさせていくように思える。というのもポストモダンの世界像のなかで育った新たな世代は、はじめから世界をデータベースとしてイメージし、その全体を見渡す視線を必要としない、すなわち、サブカルチャーとしてすら捏造する必要がないからだ。」

 

 という東氏の指摘は、実は私も自信を持っていえないが、若いオタクたちに薄々感じていた印象であった。しかし新たな世代とやらの心理など、オタク第一世代の私には分かりようもなく、その消費行動からその真理を推察するという大変に大雑把で信頼性の薄い作業を経なければ不可能だからで、それを敢えて行うなら、その行為を蛮勇と言うのだと思う。しかし、まあ私よりも若い東氏もそう言っていることだし、私の印象も大体同じなので、その印象は「正しい」のかもしれない。ただ、もしそうならば、結論は東氏とは異なる。すなわち、先ほどからの繰り返しになるが、そのようなそのような世界との接し方はちっとも「ポストモダン」ではなくて近代そのものの精神である。また「物語」を必要としない心的発達など有り得ないというのが精神分析の教えるところであり、データベースと言う「「非物語」的物語」は一見ポストモダンちっくに見えるために誤解されるが、捩れや自己懐疑がないぶんだけオタク的精神とは程遠いものである。後にも述べるが、東氏は新しい世代の特徴やら、新しいポストモダン的な世界の解釈の仕方を全部オタクに投影しているだけで、それはセンセーショナルで意識的戦略的にそうしているのかもしれないにしても、結局は風通しの良い議論の場を作るためという東氏自らが語るこの著書の希望とはまったく逆に、従来の制度を存続させるためだけの装置に成り下がった議論になってしまっていることを私は恐れるものである。

 ここで改めてオタクの世代について印象的に述べれば、六十年代から七十年代までがオタク第一世代、七十年代から八十年代が第二世代、そして九十年代以降が第三世代といえるであろうが、世代論は好まないにしても以下のような東氏の指摘にはレスポンスしておかねばならないだろう。

 

 「九十年代のオタクたちは一般に、八十年代に比べ、作品世界のデータそのものには固執するものの、それが伝えるメッセージや意味に対してきわめて無関心である。逆に九十年代には、原作の物語とは無関係に、その断片であるイラストや設定だけが単独に消費され、その断片に向けて消費者が自分で勝手に感情移入を強めていく、という別のタイプの消費行動が台頭してきた。この新たな消費行動は、オタクたち自身によって「キャラ萌え」と呼ばれている。後述のように、そこではオタクたちは、物語やメッセージなどほとんど関係なしに、作品の背後にある情報だけを淡々と消費している。」

 

 ええっと、コレに対しては本当は反例だけ挙げておけば事足りる。東氏自身もこれらの例として挙げている『新世紀エヴァンゲリオン』と、『ONE』、『Kannon』、『Air』というキャラ萌え・データベース理論では説明出来ないヒット作を例に出して検証してみよう。特に後者では「シナリオ萌え」について語り、東氏の論拠の薄さの原因として最も指摘されるべきは、作品には近代的言説で説明出来ないものが増えてきたことを指摘しておきながら、それを鑑賞するユーザーに対しては近代的鑑賞主体の概念を正統と疑わないゆえに、オタクに動物性を捏造するという仕草にあることを明らかにしよう。だがこれだけでは何のこっちゃわからないという方に説明しよう(実は私にもこれだけじゃ分からん、自動筆記みたく出てきた)。

 ではまずエヴァであるが、東氏はこの作品に対してのファンの動向を

 

 「とりわけ若い世代(第三世代)は、ブームの絶頂期でさえ、エヴァンゲリオン世界の全体にはあまり関心をむけなかったように思われる。むしろ彼らは最初から、二次創作的な過剰な読み込みやキャラ萌えの対象として、キャラクターのデザインや設定ばかりに関心を集中させていた」

 

 と宣っているのだが、これは事実だろうか? 確かにそのような人達がエヴァブームの頃から目立ったように思えるのかもしれないが、私たちロートルなオタクにとって、これはお慣れ染みの光景、いつか通った道に過ぎない。お若い東氏には信じられないのだろうが『宇宙戦艦ヤマト』や『機動戦士ガンダム』と言ったメガ・ブームを巻き起こした作品には昔からそういった一部のファンはいたわけで、何となればファン層が広がれば裾野も広がり、様々なタイプのファンが目立つようになるからである。東氏が取り上げるとすれば素直に『うる星やつら』とか、『美少女戦士セーラームーン』でも挙げておけばよかったのであろうが、多分あまりにも分析の俎上に載せるのにはアレ過ぎて止めたのだろう。萌え分析に貴重なこの作品を挙げないことはたいへん残念なことである。

 とにかく、そのような行動が特に若い層に目立ったのは事実だとしても、エヴァの他の部分に向ける関心、すなわち様々な過去の作品からの引用のコラージュだとか、謎解きの類だとか、精神分析的な興味だとかにまで気が回らないのがゆえの若さ故の過ち、じゃなくてオタク系知識不足から来るとすれば説明できる話である。むしろエヴァにおいては、謎を散りばめてエヴァの世界観への強烈な空腹感を惹起させてファンを惹き付けていたことは明らかで、その様子は大塚英志氏に当初はメディア戦略的すぎると云わしめたほどである(当然ながら庵野秀明氏の目論見はそれを超えていたわけだが、大塚氏にはそれを「読め」ないために周囲の熱狂の理由が理解出来ずに苛立ち、仕舞には啓発セミナー的だとかいう暴言まで吐かざるを得なくなっていたまで追い詰められていたのは痛ましかった、合掌)。エヴァファンにエヴァ世界(大きな物語)への希求が無かったというのは重大な事実誤認であり、多分東氏はエヴァの第一次ブームを知らなかったのだと見える。エヴァは初回放映時に既に知る人ぞ知るみたいな感じの作品として既にオタクの間では知れ渡っていて、オタクであれば一回見れば即、十年に一度来る作品だと分かった。その当時、エヴァの謎を巡ってはネット上の掲示板では夜ごとアツい議論が、そして薀蓄と韜晦と神学&生物学物理学的論議が繰り返されていた。当の庵野氏は作品のオブジェクトレベルでしか自作品が語られないことを悲観して、オタク的なファンに見切りを着けたほどである。

 その後、キャラ萌えのオタクが増え始めたのは、浅いファンとアニメファン以外の視聴者も含めた大ヒットが来てからである。しかしそこでも、キャラクターとしてアスカは比較的「典型的な陽気なヒロインキャラ」ではあったが、東氏の萌えデータベース理論では、綾波レイのキャラ萌えは説明できない。なぜならば、当時、レイを参照しうるようなデータなど全くなかった。ヒロインとしては強烈に「新鮮」であったのではないか。無理矢理を言えば、ロボットものには脇役キャラで初め悪約の回し者だったりして結局主人公に恋して改心して一話で死んじゃって主人公を泣かせるようなゲストキャラという感じでは、各作品に一人くらいはいたかもしれない。セラムンの土萌ほたるちゃんあたりはキャラ的にかぶるかもしれない。しかしもし当時萌え要素のデータベースがあったとしても、そこには綾波の水色の髪の毛、赤い眼、無口で素っ気無い消え入りそうな印象、儚げな様子などがあったとでもいうのだろうか? それまでのオタクウケする要素としては存在していなかったのではないか? もし存在しているとしても、データベース理論では萌え要素の「起源」を説明できない。つまり諸要素となるべきキャラの最初の萌えはどこから来たのか? 当初は萌え要素ではなかったが集積されるうちに萌え要素に転換したとでも言うのか? ではその転換点とは何か? と疑問は尽きない。ってよりか、はじめからこの理論は破綻しているのである。萌えに関して既に私の考えは述べたのでWWF26を参照して欲しい(買ってね、ってコレばっか)。後で抄録を載せた。

 また東氏はエヴァの劇場版『EVANGERION DEATH』を評して、テレビ版の映像が

 

 「リミックスの素材に変えられ統一した物語なしに断片として示されている(中略)この作品でガイナックスが提供していたものは、決してTVシリーズを入口としたひとつの「大きな物語」などではなく、むしろ、視聴者のだれもが勝手に感情移入し、それぞれ都合のよい物語を読み込むことのできる、物語なしの情報の集合体だったのである」

 

と述べているが、ここにこそ東氏の理論の限界が見える。表層の裏側に全てを統一し照射するすっきりした原理、深層がないからといって、スグに「大きな非物語」というものを想定し逃避するのは、表層の非徹底である。少々話しはズレるのだが、実際には劇場版エヴァの最終話『The End of Evangelion』において、庵野氏とガイナックススタッフたちは岡田斗司夫氏の揶揄を撥ね退けて物語の風呂敷を閉じたわけである。またこの会社の方針は徹底して一部のバカなオタクから吸い取れるだけ吸い取ろうという気持ちのよい徹底ぶりである。結果、ゲーム化とかで消費されつくした作品へのオタクのドライブは薄れ、またそのような関連商品を買い後悔した者達と、それを買って喜んでいるような東理論にばっちり当てはまるような動物的オタクがバカにされるような状況を敢えて自ら作り出しているように見えるのは、意識的ではなく単に関西商人的なだけかもしれないが、これぞポストモダン的と言わないでどーするのか、という印象である(印象デスヨ)。

 話が逸れた。東氏は作品を特別視せず、TV作品のような「物語」と関連グッズ、例えばマグカップが同列に扱われるのがオタク系文化のポストモダン的である所以だと語るが、表層におけるネットワークが既にある構造を析出しているのであり、当然そのなかでは複雑ではあるが階層構造もありうるし、物語とマグカップは同等の位置を占めることはない。物語とマグカップが同列であるという煽りは効果的かもしれないが、無用な「データベースという深層」を想定している時点で、還元主義者の尻尾にすぎない(大体、この同等性をあとで東氏自ら否定しているのに・・・)。

 

 次に東氏は「萌え要素」の文章において、データベース理論を展開しているわけだが、それが如何に貧しい理論であるかを前回の原稿(WWF26)で書き散らしたので詳しくは繰り返さないが、思いつきで繰り返せば東氏のデータベースとシミュラークルの二層の理論にはそのバックボーンとなる生物学的、心理学的、社会学的根拠が希薄であるだけでなく、近代のツリーモデルへのアンチという形でしかモデルを考えていないために、深層が消失したからそれに代わる「大きな非物語」とかデータベースを持ってきたに過ぎない。そこには萌え要素を消費し参照するためだけの動物的なオタクがいるという考えがあるが、そこには何が萌えるのか萌えないのかというダイナミズムなどは無いと決め付けられているかのようである。

 それに対して私が提唱する「複雑系的萌え理論・カオス風味」(まるしーGA)では(以下はWWF26原稿の抄録)、脳の活動が自己組織化されたニューラルネットワークから生まれる弱カオスであると考えるところから始まる、迂遠すぎるんだけど(「証拠」は色々あるがパス)。そして決定論的カオスのうちアトラクタと呼ばれる安定平衡点、リミットサイクル、トーラス、ストレンジアトラクタ等を用いて無意識や感情を解釈出来ないかというのが私のアイディアであり、それによって精神分析的な概念に単純ながらも新たな生物学的なバックグラウンドを持ち込ませつつ、従来の言語学的な要素で説明していたラカン的なそれも満たせるのではないかというおなか一杯のご都合主義を考えているわけである。これの説明例になるのが「萌え」という感情である。従来の精神分析における心的モデルは従来は、いかに様々な改変や精密化が為されていても基本的にはエネルギー論的なもので、心的エネルギーが最も低くなる状態が安定しているという位置エネルギー的なものを考えていたのではないかと思われる。つまり二大欲動であるナルシズムとリビドーが最も適切で安定した先に備給されることで心的な安定が得られるという考え方が基本になっており、そこから局所論的な様々な細かい議論がなされるわけである。しかしこの考え方では、無意識の性質や、反復脅迫や、心的外傷後ストレス障害(PTSD)におけるフラッシュバック等、そして本稿で最も問題にしている「萌え」という感情や、その基礎となているオタクの心的構造について、科学経済論的にスッキリした説明をするのが相当困難であると思われる。無理矢理それを組み込もうとすると「死の本能」などというトンデモが出てきてしまう。

 そこで従来心的に安定といわれる心的状態はアトラクタのなかの安定平衡点かリミットサイクルに相当し、心的な相空間、状態空間の一定の場に留まるものと決め付けよう。つまりナルシズムやリビドーが満たされて充足した状態とは、平衡安定点のようにその安定点から動かないでいる状態や、ある一定の軌道をぐるぐる回っているリミットサイクルというイメージである。従来の精神分析はこの平衡点かリミットサイクルを目標とした心的システム、局所論的発想しかなかったために、幾つかの無理があったのだと思われる。「無意識システム」の基本はトーラスやストレンジアトラクタと、アトラクタになりきれない? 弱カオスの集合体であり、そこでは言語的な転移、同一化、鏡像反転常に行われている場として考えられる。ここで言語学的な要素が感情や認識におけるそのような無意識的な異化作用を受けることを定型化するためには、実はそれら全ての心的活動が「同様な」レベルにあるアトラクタであることを想定したうえで、アトラクタの性質に伴う何らかの数学的な変換として表わせなければならないが、これはアトラクタにおける要素間の引き込みが生じれば、転移、同一化、鏡像反転に上手く説明が付けられると思う。

 以上のアイディアを敷衍すると、萌えはストレンジアトラクタのうちローレンツアトラクタの位相空間における図式化からイメージされるように、異なったふたつの中心の周囲を行ったり来たりしながらも一種安定した軌道を通る感情の弱カオスではないかと思われる。ふたつの中心とは、リビドーを満足させる「感情軌道」とカワイイという感情、すなわち対象に投影されたナルシズムを満足させる「感情軌道」である。「萌え」はこの二大欲動を同時に満足させるだけでなく、双方どちらかの「感情軌道」にも落ち着かないので、どちらかに満足しきって平衡安定点に落ち込んでしまい、その心的弱点である倦怠と飽きることを避けられるという画期的な利点がある(笑)。これが「萌え」という心的状態の最も素晴らしい?? ところであり、従来どんな充足の感情も免れ得なかった「退屈」からくる更なる衝動の充足の必要、強迫的な次の衝動を探さなければならない必要のない感情である。それがどのようにオタク的文化において「発明」され育ってきたかは面白い今後の課題である。

 しかしアトラクタとは言え不安定で意識の安定性を脅かしかねない「萌え」は無意識の領域になりそうなものだが、当然のことながら「萌え」は意識に上る感情である。したがって「萌え」は意識に上るために従来とは異なった方法で検閲のフィルタリングを通るのか、それとも意識システムが従来の平衡安定点的な感情と認識しか許さないものではなくなってきたかの何れかであると考えられる。前者ならば説明は簡単である。つまり一般にリビドーを充足させる感情や認識は意識化の検閲を受けやすいので、リビドー充足という相貌ではなく、カワイイという実は変形ナルシズムだが一見慈愛的感情に偽装して意識システムに上ると考えられる。萌えに非自覚的な場合はこれが考えられやすい。後者は以前ワタシの精神分析的な考察(笑)から導かれた結論と同じになる。つまり繰り返して言えば、精神分析的な知の方法が一般的となってきた現代ではじめて可能になるわけだが、我々オタクは現実の女性もTVやグラビアのアイドルもコスプレ少女も「虚構」のギャルゲー少女も、実際に我々の性欲動の備給先になるという萌えという「現実」を抑圧せず虚構に惹き付けられる身体(我々にとって最も身近な「自然」である)からの敗北を受け取りつつ自我のメタ的コントロールによって自我の安定を図っていると思われる。これを無意識の心的カオスに沿って翻訳すれば、意識システムが無意識を含めた心的システム全体を一つのアトラクタの集合として安定させるために、一部の無意識をもメタ的にコントロールする方法を見つけたのが「萌え」であるということになる。ここからむしろ演繹的に想定されるのは、このように心的システムをアトラクタの集合として、階層的なアトラクタが更に存在し、それぞれの階層において安定を得るための心的構造の再構成が不断に行われているという、これまた現代の脳科学の主流? の階層的モジュール説ではなく、解釈学的カオス的脳モデルにおける機能的アッセンブルを思わせる。

 これらの説明は東氏の提唱するモデルとはあまり関係のない話ではないかと思われるヒトも多いかもしれない。私も実はそう思っていた。だが以下の文章で私がモヤモヤと東氏のデータベース理論に違和感を抱いていた理由がはっきりした。

 

 「この社会を満たしているシミュラークルとは決して無秩序に増殖したものではなく、データベースの水準の裏打ちがあって初めて有効に機能しているのだ(中略)オタク系文化は二次創作に満たされている(中略)しかし、それら二次創作のすべてが同じ価値であるわけではない。(中略)実際にはそれらシミュラークルの下に、良いシミュラークルと悪いシミュラークルを選別する装置=データベースがあり、常に二次創作の流れを制御しているのだ。」

 

 ナルホド、データベースの話はこっから出てきたわけだというのがオラにも分かっただよ、ようやく。すなわち東氏もシミュラークルの乱立やオタク的要素の羅列だけでは、物語・シミュラークルの「優劣」やら「淘汰」がどのようなメカニズムに沿って成されるかが不明で心配になったのだろう。そこで、萌え要素などの発想と併せて、シミュラークルを裏打ちする=深層志向の復活なわけだが、データベースというものを想定したのだろう。しかしこれはひとつの階層、ここではシミュラークルでも作品でもよいのだが、その階層においては裏打ちも深層もなくても、構造や淘汰のメカニズムは発生しカオス的な秩序が創出される、というのが私が勝手に解釈している複雑系的な思考である。そこには深層など存在せず、審級としてあるのは身体性を持った私たち鑑賞者そのものである。否、深層、というかそれらを「規定」するもっと基本階層はあるとも言えるのだが、それは作品や鑑賞者を一意に決めてしまうものではなく、単なる物理的、身体的、歴史的な制約であり基礎条件、初期値である。古典的、近代的還元主義者はそれら要素で全てが決定論的に決まってしまうというラプラスの悪魔を信仰していたわけだが、それが崩れた以上、初期値に鋭敏な複雑系的な系ならばあまりキニシナイ、でいいのではないだろうか。したがってポストモダンがその後に来るものという定義ならば、東氏のデータベースというものはそれには当てはまらず、単に要素と物語のランダムな対応が「存在しうる」と言っているだけであり、その間の関係は恣意的かつ動物的に過ぎないと述べているように思える。しかしそれでは単に理論を途中で放り出してしまっただけのことであり、それがポストモダンと名乗るのは如何なものであろう。私の萌え理論で敢えて二重構造を言うならば、表層の物語と鑑賞者だけと、ごく常識的かつシンプルで、無駄な仮定を必要としないのである。必要とするのは自己組織化、オートポイエーシスの理論やクオリアの「論理」であろう。これ以上は今回もまた私の手に余る問題というわけで、オチを発散させて誤魔化してしまったわけだが、多少ウヤムヤのまま次に移ろう。そこでは東氏の展開にそってゲームにおける「シナリオ萌え」の話をしよう。

 

 

 「スノビズムと虚構の時代」の章において東氏は以下のようなギモンで始めている。

 

 「ポストモダンでは超越性の概念が凋落するとして、ではそこで人間性はどうなってしまうのか」

 

 と東氏はと問うているわけだが、これは既に私なりの答えは述べてしまったとおりである。もともとそんな問いは私たち日本人のオタクには関係のない問いであると。まあこれが世界的ポストモダンな流れとして重要な問いであるか否かは私には分からない。しかしここでは東氏が引用しているコジェーヴを批判しつつ(こりゃまた大きく出るが)ポストモダンの条件として東氏の提示する姿は果たして本当に「新しい」のか、コジェーヴさんとやらの思想が果たして本当にポストモダンだかを分析するにあたって有用なツール足りうるのか、検証してみよう。

 

 「コジェーヴは、戦後のアメリカで台頭してきた消費者の姿を「動物」と呼ぶ。このような強い表現が使われるのは、ヘーゲル哲学独特の「人間」の規定と関係している。ヘーゲルによれば(中略)ホモ・サピエンスはそのままで人間的なわけではない。人間が人間的であるためには、与えられた環境を否定する行動がなければならない。言い換えれば、自然との闘争がなければならない。対して動物は、常に自然と調和して生きている。したがって、消費者の「ニーズ」をそのまま満たす商品に囲まれ、またメディアが要求するままにモードが変わっていく戦後アメリカの消費社会は、彼の用語では、人間的というよりむしろ「動物的」と呼ばれることになる。」

 

 与えられた環境を否定するんじゃなくて、その心的発生の機序から不可避的に「自然」に否定されてしまうのが人間であるというのが精神分析の教えであるからして、このヘーゲルだかコジェーヴだかの問題の立て方は実に不遜、あるいは誇大妄想的、そして近代西欧の人間像をちっとも疑わない独断である(その他のこの哲学者の動物化に関する引用97〜98頁を見たんですがね、もうアホかと、バカかと。動物のことも知らないで発言してるんでしょーけど、キチンと物事を見てから言えよなと)。原著を知らないが(コラコラ)、私はコジェーヴって単なる懐古趣味の、薄口ヘーゲル風味なんじゃないかと思っちゃいますよ。それを過激な言説で水増ししてるんじゃないかという印象を持ちましたデスヨ。またヒトの社会を「自然」であると捉えるのは用語の定義が全く違うにしても、単に古風な倫理的を保とうとするためだけの無理矢理っぽい理論で、論理的一貫性を欠いている。もしこのようなアメリカ的な人間像を「動物化」と言うならば、東氏の論理において日本のおけるスノビズムの洗練がなぜオタク系文化であり、なおかつスノビズムの極致が最終的には「動物化」しているという論理になるのだろうか? まず東氏示すところのコジェーヴ版スノビズムについて考えて見よう。

 

 「「スノビズム」とは、与えられた環境を否定する理由が何もないにもかかわらず、「形式化された価値に基づいて」それを否定する行動様式である。スノッブは環境と調和しない。たとえそこに否定の契機が何もなかったとしても、スノッブはそれをあえて否定し、形式的な対立を作り出し、その対立を楽しみ愛でる。コジェーヴがその例に挙げているのは切腹である。切腹においては、実質的には死ぬ理由が何もないにもかかわらず、名誉や規律といった形式的価値に基づいて自殺が行われる。これが究極のスノビズムだ。」

 

 なんか2ちゃんねるの掲示板とかだったら、スグに回線切って首吊って氏ねとか、引き篭もりのリア厨(プッ(小文字)とか言われちゃいそうな自己中心的で偏狭な思想である。そりゃ確かに現代の私達から見れば切腹には「実質的には死ぬ理由がない」といえるが、じゃあ彼らの言う「人間」的な否定の契機であると断言するであろう理想のために革命のために死ぬとか、殉教とか、そういうのだって充分に実質的ではない。またハラキリと言っても、名誉が穢れた鬱だ氏のうという場合から、自殺したくなくても「家」のシステムに無理やり殺されているような場合もあっただろうし、当時のシステム内では「実質的に死ぬ理由がない」どころの話ではない。西欧の唯一神GODや、その後釜の理念理想を介した世界との関わり方(深層にある真理)をスタンダードとする発想から、他文化を「形式的価値」と断ずるのは西欧中心主義以外の何物でもない。この哲学者だかの言う「歴史」だの「人間」という概念は、岸田秀氏が言うところの悪性の西欧文化の伝染病、すなわち否定を契機とした無限の進歩主義を絶対価値のあるものと考え、安定したシステムを憎むキリスト教的強迫神経症的な文明の在り方である。従ってコジェーヴだとかいうブランドに従ってこれ以上考えることもバカらしいのだが、面白い指摘はある。スノッブは環境と調和しないと、そしてそれは東氏が言うには日本のオタク的であるというわけだが、私の考えでは事態は丁度逆である。

 

 「日本社会の中核にはスノビズムがあり、今後はその精神が文化的な世界を制していくだろうというその直感は、いまから振り返るとおそろしく的確だったとも言える。(中略)日本ではオタク系文化が出現し、江戸文化の後継者を自認しつつ新たなスノビズムを洗練させていったからである。幾度か参照している『オタク学入門』によれば、オタク的感性の柱をなすのは「騙されているのを承知の上で、本気で感動したりもする」距離感である。オタクたちは「『子供騙し』の番組を大人になってからあえて見る、というのも相当無意味な行為」であることを知っている。たとえば彼らに根強い人気のある戦隊特撮ドラマやロボットアニメは、どれもこれも似たような物語を展開しており、そのかぎりで個々の作品はまったく無意味だと言える。しかし岡田斗司夫が説明するようなオタク的感性は、まさに、その実質的な無意味から、形式的な価値、「趣向」を切り離すことで成功している。このような切り離しは、コジェーヴが記したスノビズムの特徴そのものである。」

 

 的確と言えない。ヒトにとって最も身近な「自然」は自らの「身体」である。オタクの萌え理論において既に述べたように、例えば「萌え」や「燃え」においては、身体=自然からのリビドー的、ナルシズム的な欲求への負けを認め、自我と共存せず否定されてしまうことを全て引き受ける代わりに、メタ的自我におけるコントロール感を得て、心的位相空間における心的エネルギーを保ったままアトラクタを描き続けているのである(ちょっと逝っちゃった解説デスガ、我ながら)。もしオタク的態度がポストモダンというならば、本来はこのような記述が成されるべきであり、東氏のデータベース理論は静的で平面的過ぎるのは今まで述べた通りである。

 また上記のオタキング氏の説明を私の考えに引き付けて言えば、「本気で感動したりもする」が一方で醒めているというように、唯一点に収束しない自我の在り方、アトラクタを認め、それをメタ的コントロールしている状況を「距離感」と記していると思われる。この心的体制を感覚的に捉えられない者達から見れば、まさに無意味で形式的な価値に従って行動しているように見えるのかもしれないが、それは先ほども言った通り、単なる自己中に過ぎない。

 東氏の思考パターンで最もまずいのは、上記のように似たような物語の繰り返し自体を無意味だ言い切ってしまう鈍感さである。もしくは近代的進歩主義を無意識に信仰している似非ポストモダンでしかない。もし似たような物語が無意味ならば、ローマ時代から同じようにあるヒトのドラマ、悲喜劇ずべてが無意味ということになるだろう。彼はこのあとジジェクのシニシズムとやらを批判しつつ「生は無意味だが、無意味であるがゆえに生きる、という逆説は、いまはもう重みを失ってしまった」と断じているが、ポストモダンになればヒトはこのような問いから脱することが出来るとでも思っているのだろうか? ヒトが「意味」を求めるのは別に高尚な精神のためではなく、その心的発生のメカニズムからして絶対的ナルシズムに回帰したいというドライブがある限り、不可避である。もしもポストモダンでそのようなことが生じないように見えたならば、それは別の「深層」を無意識に信仰しているか、メタ的立場に立っているつもりになってその欲望を冷静にコントロールしているつもりか、忘れたフリをしているかの何れかであろう。同じコントロール感でも、これら似非ポストモダン主義者とオタクとの違いは、身体的感情的なドライブにひとまずは「敗北」を認めるか否かの違いである。東氏は再び大澤真幸氏を引用して

 

 「オタクたちにおいては本来の(一次的な)大きな物語が崩壊し、その前提のもとでフェイクの大きな物語(二次的な投射)が作られている。そして彼らはそのフェイクを手放すことができない」

 

 としているが、やはり大きな物語を本来的だと思っていたり、フェイクだから手放さなければならないという西欧的進歩主義者の強迫観念に彩られた価値観で物事を判断しているとしか思えない。これは近代の視線である。「萌える」対象や「燃える」展開は、実体論的な立場ならば無意味と断ぜられるかもしれないが、たとえそれらがフェイクであっても心的には重要だからこそ手放す必要性を我々オタクは感じないのである。

 もう大体言いたいことは言ってしまったような気がする。同人原稿としては長くなりすぎた。あとは多少のレスで締めくくりたい。

 

 「しかし大澤氏も強調するように、私たちはもはや「虚構の時代」には生きていない。シニシズム=スノビズムの精神はすでに世界的にも有効性を失い、いまや新たな主体形成のモデルが台頭しつつある。」

 

 「虚構の時代」に生きていない変わりにデータベース消費という新しい心的構造に変わったのではない。そこにはデータベース信仰が巧みに神の位置に滑り込んだまでのことである。私には真偽の程は分からないが、東氏が言うようにそれが第三世代のオタクの姿なのかもしれないとすれば、第一、第二世代のオタクは、シニシズムでもスノビズムでもない真にポストモダン的な過渡期の世代であったのかもしれない。

 

 「『Air』では(中略)萌え要素が組み合わされて作られた、極めて類型的で抽象的な物語である。(中略)彼ら(ゲームプレーヤーのオタク・筆者注)が「深い」とか「泣ける」とか言うときにも、たいていの場合、それら萌え要素の組み合わせの妙が判断されているに過ぎない。九十年代におけるドラマへの関心の高まりは、この点で猫耳やメイド服への関心の高まりと本質的に変わらない。」

 

これもまた「旧来の物語的迫力」という過去に真実を見るユートピア思想だが、いかなる古典的作品であっても過去の様々な作品に影響されそれらを参照し組み合わせて作られているのであり、厳密な「オリジナル」などは存在しない。また物語の価値はそのオリジナル性にあるのではなくて、東氏がいみじくも否定的に述べているように、いかに「効率よく感情が動かされる」のかという部分にある。それが否定的に語られるのは、単に自分たちが感動している物語はもっと高尚でオリジナリティに溢れているのだという根拠の無い自負に過ぎない。また物語の価値が深層の価値に裏付けられたモノでないと安心出来ないのかもしれないが、それも先ほどからしつこく述べている近代的主体による鑑賞態度を疑わない、とてもポストモダンとは言い難いものである。「シナリオ萌え」における組み合わせの妙こそが構造と感情の複雑系的アトラクタを作り出すのである。またそのようなゲームの殆どが抒情詩的でしかないという意味で批判しているというならば、それに対する叙事詩的な作品として私たちはガンダムシリーズや『ファイブスター物語』という人気作品があることも知っている。

 

 「ノベルゲームの表層的な消費は萌え要素の組み合わせで満たされ、オタクたちはそこで泣きと萌えの戯れを存分に享受している。(中略)しかし、より詳細に観察すると、まあ別種の欲望の存在が見えてくる。それは具体的には、ノベルゲームのシステムそのものに侵入し、プレイ画面に構成される前の情報をナマのままで取り出し、その材料を使って別の作品を再構成しようとする欲望である。」

 

 東氏はシミュラークルとデータベースの二層構造の説明において、著書のはじめにおいては後者が前者の裏打ちとなるということで、この説を提唱したわけだが、ここに挙げた文章を読んで分かるように、いつのまにか二層構造が混在して並列化さた欲望として記述されている。もしも東氏が自らの説に忠実であるならば、「情報をナマで取り出す」というデータベースに関する欲望が「泣きと萌えの戯れ」であるシミュラークルの裏打ちになる根拠を示さなければならない。しかし結局はそのような実体論的な筋道が見つかろう筈もなく、後にそれを今度は「小さな物語と大きな非物語が混在している」としており、じゃあさっきまでの話は何だったの? みたいな、まさに混乱した議論を展開している。科学経済論的に無駄な仮定の多いダメな議論である。結局、ここで私が先に述べたように、まずはこのレベルにおける議論では「表層しかない」ことを東氏は素直に認めるべきである。その表層の中に創発的な構造が析出されてくるのであり、その構造と私たちの心的仕組みとの関わりの分析は、これまた別のレベルの話をしなければならないと思われる。

 

 このように、東氏に理論は徐々になし崩し的に自らの理論を骨抜きにしているように感じられる。初めは近代主義者と素朴実体論者に迎合し、後にポストモダン的な言説に擦り寄っているようにも見えなくも無い。大きく見ると、丁度東氏の論理展開は私の逆というか裏というか(オレが逆で裏か)、整理すれば、東氏はシミュラークルとデータベースの二層構造だかがあると言ったとたんに、実は両者の混在(ここらが混乱しているが)だかがあって、実はその基礎の上に「超平面性・スーパーフラット」があると。結局は表層の物語やキャラクターだけがある(当然それらも心理的、物理的、歴史的制約を受ける)という話に収束するわけである。しかし東氏はそこに「構造」も価値も見出せないために、近代の深層理論から類推した無理なメカニズムを想定したに過ぎない。私はそのような場にも複雑系的でカオスな構造が創発してくることを主張してきたが、それが物化し制度化したものが強いて言えば東氏の指摘するデータベースに当たるのかもしれない(かなり好意的に見てですが)。では、そのような表層だけからシミュラークルだか物語だかキャラクターだかの選択淘汰のための構造がどのように生じてくるのかという具体的なことについて、今回私は踏み込んでいないことを正直に白状せねばならないだろう。これは前回の原稿で述べた萌えのコード等とも関わってくる問題であり、今は迂闊に言及できない。請うご期待次回の原稿(誰も期待してなくてもキニシナイ)。

 

 最後に肝心の動物化について、これまたコジェーヴを引用しつつエライ勘違いな「オタク動物化」論を展開している東氏論を批評して本稿を閉じようと思う。この批判はしばしばラカンの言説を形式的に援用して悦に入っている多くのラカン主義者への批判にもなりうるので、これだけで一稿出来てしまいそうだが、なるべく簡潔に行こう。まず東氏の引用から。

 

 「動物化とは何か。(中略)その鍵となるのは、欲望と欲求の差である。コジェーヴによれば人間は欲望をもつ。対して動物は欲求しか持たない。「欲求」とは、特定の対象をもち、それとの関係で満たされる単純な渇望を意味する。(中略)しかし人間はまた別種の渇望を持っている。それが「欲望」である。欲望は欲求と異なり、望む対象が与えられ、欠乏が満たされても消えることがない。(中略)フランスの思想家たちが好んで挙げたのは、男性の女性に対する性的な欲望である。(中略)性的な欲望は、生理的な絶頂感で満たされるような単純なものではなく、他者の欲望を欲望するという複雑な構造を内側に抱えているからだ。人間が動物と異なり、自己意識をもち、社会関係を作ることができるのは、まさにこのような間主観的な欲望があるからにほかならない。動物の欲求は他者なしに満たされるが、人間の欲望は他者を必要とする(中略)この区別はじつは、ヘーゲルからラカンまで、近代の哲学や思想の根幹をなしているきわめて大きな前提である。コジェーヴもまたそれらを踏襲している。」

 

 あはは、なるほど。これを早く言ってくださいよ、東センセ。話の混乱の訳が合点いきまつたヨ。せっかく「欲望」と「欲求」の違いについて解説してくれたのに何なのだが、コジェーヴを語る東氏や、ラカンを援用する斎藤環氏や香山リカ女史がなぜにこうも思想を受験勉強的な理解で終わらせて、その心的なメカニズムについて突っ込めないでいるのが。この「人間の欲望は他者を必要とする」ということが思想の根幹になっているのは何故なのか、またその思想のおおもとは何なのかという前提について考察せず西欧の言説を垂れ流しにしているからなのだろう(うっわ、こんなキツイこと言っていいのか >オレ)。

 もともとはこの思想の根幹には、フロイドの精神分析がある、っていうかフロイドの理論を更に首尾一貫させた岸田秀氏の史的唯幻論を引用したほうが話が早い。これは多分思想家と精神分析の本職のヒトたちにはエライ評判が悪そうだし、岸田氏も最近の言説には歴史問題を含めコクとキレが無くなってきた気もするのだが、それはまた別の話。簡単に言えば、なぜヒトが他者の欲望をコピーするかに至ったかという理由は、ヒトの本能=動物における欲求等に相当するものが「壊れて」しまっているからであると岸田氏は説く(さらにこの理由として岸田氏のようにネオテニー・胎児化仮説によるもよし、私が妄想している脳の容量プラス構造上の問題からニューラルネットワークの閾値突破による心的アトラクタの暴走が生じたとも考えてもよいが、今は物的証拠はない)。壊れてしまっているが故に、その乳幼児期において全くの無能にもかかわらず心的には無限のナルシズム的欲望に頼っていることがヒトの心的体制の原点になる。そこでは空間の区別や自他の区別すらない。結果、その欲望は不可避的に挫折し、ヒトはその辛い挫折感を抑圧するために、過去にあった偽りの全能感を永遠に求める存在にならざるを得ない。しかしそのままでは生存や生殖すらままならないヒトがここまで来れたのは、それらを無理矢理に生存させ異性との交接に向かわせるための文化的観念や規律を編み出すことが出来たからであろうと思われる。そのような全能感の壊れた断片と現実的要求を繋げるためには、すなわちヒトの「欲望」の道筋を決めるための文化・規律は、以上の理由から現実的基盤を欠いた「幻想」としてしか存在できないことになる(片方が快楽原則、もう一方が現実原則に従わなきゃならないわけだから)。従ってそのための一番上手くて手っ取り早い方法は、文化的に律せられその社会で既に適応している「他者の欲望」をコピーして自らに取り込むことである。「他者の欲望」は初めのうちこそ便利ではあるが、所詮は借りものであるという感覚は消えず、とりあえずの「目標」を達しても満足を永久に得られないことが多い。またこの渇望間の持続が西欧文明の無限遡及のドライブのひとつになっているのかもしれない。この「方法・プロトコル」が今まで多く用いられたというのが、先に東氏が引用したドグマ「人間の欲望は他者を必要とする」ということになるわけである。またヒトの文化基盤には言語があるわけで(言語の発生のほうがヒトの本能の崩壊に先立つと主張するヒトたちもいる)、言語という他者がヒトの心的体制、特に無意識の領域にあるというのが、ラカンのテーゼ、「無意識は言語のように構造化されている」につながってくるわけで、これもまた心的体制が間主観的になっているもう一つの要因でもあるし、両者は同じことの両側面である。

 以上の仮説が正しいとすれば、「人間の欲望が他者を必要とする」というのは、ヒトの幻想システムの一つの方法に過ぎず、別にたった一つの「真実」ではない。そしてヒトは最近になって、それとは異なる方法で心的体制を作り上げ安定させる方法=幻想を「発明」した。それが「オタクシステム」である。それが従来の方法とは異なり? 如何なる対象からも得られる身体的欲望をも否定的な契機とせず、敗北を認めた代わりに? メタ的にコントロールするという仕組みであることは先に述べたとおりである。

 というわけで、様々な近代の哲学者とやらの原著は知らないので何とも言えないが、東氏がそれらを引用しつつ好んで挙げる「人間」の概念とは、彼らが信じたがったようにヒトの絶対条件ではなくて、たかだか一つの在り方に過ぎない。文化規律の幻想を幻想と分かった上で、なおかつ身体論的な敗北を認め従うオタク的な心的体制に比べ、従来の「人間」という心的体制は以上の幻想や敗北を認めない硬い自我体制しか作り出せないし、自らを正当化することでしか存在し得ないある意味適応力の少ない方法である。そのような「人間」の概念が如何なる害毒と不幸を作り出してきたかについては今回は述べないが、その自意識過剰で他者を認めない特権意識的な性質から、他の心的システムであるオタクをおなじ穴の狢と認めないのは、まあ自己中心的で了見が狭いといえよう。

 従ってオタクはちっとも動物化とは言えない。ヒトの心的システムの限界を知りつつ柔軟に対応するきわめてヒトらしい一つの方法に過ぎない。それが果たして近代の「人間」の概念の後に来るもの・ポストモダンなのかどうかについて考えるのはあまり面白くない。そのような一般普遍を是とする思考法こそ近代的なそれそのものであり、ヒトでも生物でも、局所において適応するかしないかが問題なのである。日本の「いま、ここで」という局所において少なくとも「適応」しているという「現実」を見据えつつ、そこからようやく東氏が目指した「風通しのよい議論が出来る状況」が作られるのである。以上私の示したのは、そのための前提だったに過ぎない。実際の考察はこれから始められるのである。

 

 というわけで、今見ると私もよく分からない記述があって、今回はこれらを洗練する時間などないのでパス。次はもうちっとガンバロー! おしまい。

 

 

 

長い蛇足の追加

 

 第一章の「オタクたちの擬似日本」についてどうしてもイチャモンつけたいんで、も少しヨロシク。ああ、蛇足。

 

 「「オタク」という言葉を知らないひとはいないだろう。それはひとことで言えば、コミック、アニメ、ゲーム、パーソナル・コンピュータに耽溺する人々の総称である。」

 

 というわけで、オタクの定義が不可能だ不毛だと東氏が自ら後に述べているにもかかわらず、イキナリ多分「一般」読者向けに、分かりやすい「耽溺」というコトバが述べられています。つまり生活実用上に無用なことに不健康に熱中するという意味合いは当然のことだというわけなのでしょう。確かにオタクは一見社会的に役に立たないことばかりに熱中しているようでもあり、また社会からの引き篭もりや逃避にも見えないことも無いのでしょう。しかしここからしてオタクを自称する私としてはギモンだらけになってしまうわけです。これは本稿の目的ではないので、ここについて長々と論じる気はありませんが、岸田秀的「史的唯幻論」にかぶれている私としては、東氏のこの断言は「普通」の生き方を「正常」とする極めてオールドタイプかつ無根拠なモノとしか言いようがないと思われます。でも、ここからこんなに引っかかっていたのでは原稿が終わりませんので、先を急ぎましょう。

 

 「オタク系文化はいまや日本社会のなかにしっかりと根を下ろしている。(中略)いま、日本文化の現状についてまじめに考えようとするならば、オタク系文化の検討は避けてとおることが出来ない。」

 

 ここいらへんが、最も本書が評価されて然るべき部分でしょう。まあその根拠として、それが既に若者だけの文化ではないとか、その担い手の広さとか世界への広がりとかを持って論じるのは、まあプレゼンテーションの基本なので仕方ないとして、それよりももっと重要な意義があることを東氏が理解しているか否かがキモなのですが、それをここだけからは読み取ることが出来ません。私の結論を先に言ってしまえば、オタク系文化を語るのに重要な理由の最も大きな要因は、その心的レベルでの汎用性と、それがもたらす意識的なカオス的心的体制の認知とコントロールという利点からです(我ながらムツカシイ表現なので後述しまつ)。それが現在、オタク的文化の産物であるアニメ、ゲームが世界中に広がり認知されている最も根本的な原因であることに気付いているヒトは極めて少ないと思われます。まあオタク特有の大言壮語だと思ってもらってもよいのですが、私たちの手で今のうちにオタク系文化について理論付けをしておかないと、将来コンテンツ産業からの利益という実利的に最も大切な部分において多くの禍根を残すことが明白なわけですが、ここいらへんの危機感は東氏にもあるようです。まあ、経済産業省と同じくらい、ちょっとズレている気がしますが・・・

 

 「一方で権威あるマスメディアや言論界ではいまだにオタク的な行動様式に対する嫌悪感が強く、オタク系文化についての議論は、内容以前にそのレベルで抵抗にあうことが多い。(中略)他方で、どちらかと言えば反権威の空気が強いオタクたちには、オタク的な手法以外のものに対する不信感があり、アニメやゲームについてオタク以外の者が論じることそのものを歓迎しない。」

 

 言論界だとか論壇だとか、はっきり言って世界的レベルでは相手にもされていないような閉鎖的共同体からどう見られようとどーでもイイんですけどね、と軽くかわすテもありますし、自然科学系の論文とかと違って世界的な淘汰圧に曝されていないヒトタチの井の中の蛙はお気楽でいいよねぇでもいいんですが、まあ日本で社会科学系の世界に生きていかなければならない東氏としては切実な問題ではありましょう。そのような状況論は色々と世間話的&酒の肴的には面白いのですが、まあそれはどうでもヨロシかと思われます。

 むしろ問題は後半部分、オタクの反権威的な云々というのは、これはいただけないッス。一体いつどこの話をしているのか、もしかしたら70年代やらのヒッピー文化やらと混同していやしませんか? ってカンジの誤解ではあります。最近の2ちゃんねるの掲示板とかを見れば分かるように、反権威などという旧来の「アンチ」的方法は、かえって権威や体制の安定や持続に手を貸してしまう補完的行為であるということが殆どのオタクには無意識的かもしれませんが分かってきていて、むしろオタクたちの態度は日本的な「ネット世間」や「ネット秩序」を重視し、権威や体制に対してはむしろ健全な愛国心のような態度さえ示します。まあそれに問題がないわけじゃありませんが、これをまた「プチ・ナショナリズム」などと囃し立てる香山リカのような勘違いな方もおりますので、それに対しても一言くらい言いたいわけなのですが、話しが逸れるのでパスしましょう。

 要するに、オタクたちがそれら「権威」を歓迎しない理由は、ただ単に的を外れた言説をバカにしているだけです。つまりオタク以外の者たちがアニメやゲームを知ろうともせずに本当は気持ち悪がっているのにサブカルの軍門下に下ったかのごとく思い込み安易にそれらを語り下ろそうとするその半可通な態度と、まるで的を射ていないのにエラそうに上から還元的かつ外在的に理解したつもりになっている態度に辟易しているというのが正しいと思われます。例えば宮台真司とかがエラそうにエヴァとか押井作品とかを極めて表面的かつ的外れな理解で一般人に講釈を垂れているところとかは、まあなんて浅薄なヤツと放っておけばいいのかもしれませんが、ハナに付くのは半ば止むを得ないと言えましょう。東氏の場合はそんな「奢り」や「悪意」はないのでしょうが、キツイ言い方で申し訳ないのですが、彼の言説にもオタクを納得させるだけのモノがないだけなのです。しかし彼はこう続けます。

 

 「本書の企画は(中略)オタク系文化について、そしてひいては日本の現在の文化状況一般について、当たり前のことを当たり前に分析し批評できる風通しのよい状況を作り出すことにある。」

 

 という宣言にはマジメに同意致しますし、敬意すら表したいものです。まあ某与党の総理みたいな立場のよーな気もしますのでご同情申し上げるわけですが・・・

 

 「オタク系文化が持つ日本的なイメージへの親和性はだれでも簡単に見て取ることができる。」

 

 これについて、初め何か言いたいのか、何を根拠にそんな牽強付会なことを言っているのか理解に苦しみました。日本的イメージの例として高橋留美子の『うる星やつら』の鬼娘ラムちゃんやら弁天サマやら雪女のお雪さんやらクラマさまやら巫女のサクラさんを挙げていますが(実は勝手に追加)、だから何? ってカンジなわけです。だってそれではランちゃん、龍之介ちゃん、しのぶ、等々はどうなるんデスカという疑問もさることながら、このことをもってして何故ソレが「オタクの幻想が日本的な意匠に囲まれてはじめて成立することをよく表わしている」証拠になるのかが分かりません。理論的に破綻しています。例えばですよ、この作品には温泉マーク先生とかチェリー錯乱坊とか校長先生とかあたるのオヤジとかの変わり者のオヤジたちが沢山出てきますが、「オタクの幻想が変わり者のオヤジたちに囲まれてはじめて成立する」という結論がここから導き出されますか?(実は成り立つのだが話しがややこしくなるのでここでは敢えてNOと言っておきましょう)。つまり作品の要素を恣意的に抜き出してきたところで何の根拠にもなりはしないのだよ、アムロ、てなカンジの反論が出てきてしまうわけです。

 百歩譲って日本的意匠が重要だとして、それとオタク的なものとの関連を言うことは難しいと思われます。なぜなら日本的意匠が日本における優れた作品共通に存在するのであれば、それは単にオタクに関する特殊な事情とは言えなくなってしまうからです。

 以上のように何でこんな話が出てくるのかなぁ、と悩んでいましたところ、その前の東氏の記述「Jポップのような国民的広がりを持つ文化」という一文を見て合点したことがあります。つまり後に述べるようにオタク系文化がアメリカに対して恐怖を抱いて日本的なものに執着するという図式は、実は「Jポップのようなアメリカ猿真似の超恥ずかしい文化(藁」&ムラ社会的横並び的差異に汲々とする程度の文化しか国民的広がりを持つモノはなくて、そんな状況に対する無意識的な(笑)羞恥心と恐怖を、ムラ社会のアウトサイダー的に思われているオタクに投影したものではないかと。つまりオタク系文化なんかかっちょいいポップなオレらの音楽に比べりゃダセーぜ、などと思っていたら、実は海外で認められている(一部尊敬、一部HENTAIとして危険視)のはオタク系文化くらいで、サルマネ君たちのプチな世界観を揺るがしかねない事実の抑圧の結果、そのような「オタク系文化によるアメリカへの恐怖」を見取るのではないかと思います。これが単なる私たちオタクの心性の逆投影である可能性も否定しきれませんが、証拠はこれだけではありません。

 東氏は「オタクの日本的意匠への依存」を語ったうえで、以下のような主張も展開しています。

 

 「従来の議論では(中略)オタク系文化が日本独自のサブカルチャーであることが繰り返し強調されてきた。しかし実際には、オタク系文化の影響はいまや広く国外に及んでいる。(中略)オタク的な感性が日本独自なものであるという主張は、もはや以前ほどの説得力を持たなくなっている。」

 

 確かにニッポンチャチャチャ的・ウリナラマンセー的オタク擁護論を説くような輩はバカバカしいので、ついこんなことを言ってしまった東センセなのかもしれませんが、国外でオタク系文化が認知され消費され始めていることをもってして、日本の独自性をわざわざ否定するような自虐的態度も逆にサヨ的だと思ってしますわけです。なぜならどう贔屓目に見ても?オタク的で萌え的なモノを産出しうるのは一部の例外を除いて現在のところ日本しかないからです。消費と創造の間には大きな隔たりがあることは認めてもよいのではないでしょうか。

 

 東氏には更に事実誤認? があります。それがディズニーや手塚治虫アニメ的なものとオタク系文化の関連、というよりもその断絶についてです。(手塚マンガはまた別の話)。しかし今回は時間も気力も尽きた。これでホントにオシマイ、ゴメンナサイの尻切れトンボ〜。

 

(終)

2003/12

 


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