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世界のゆくえ

 ― アニメ『成恵の世界』について ―

 

清瀬 六朗


 

『成恵の世界』

スタッフ 原作 丸川トモヒロ(角川書店)/総監督 芦田豊雄/監督 森田浩光/キャラクターデザイン・総作画監督 平山貴章/シリーズ構成・脚本 杉谷 祐/脚本 江夏由結/色彩設計 佐野ひとみ/美術監督 宮前光春/音響監督 小林克良/音楽 根岸貴幸/アニメーション制作 スタジオライブ

キャスト 七瀬成恵 能登麻美子/飯塚和人 阪口大助/七瀬香奈花 皆川純子/バチスカーフ 小菅真美/八木はじめ 千葉紗子(アニメ化以後)/丸尾正樹 福山潤/テイルメッサー 西村知道/七瀬正(現在) 菅原淳一/睦月成美 川村万梨阿  他

 

 

 

  『成恵の世界』

 わざと古く作った作品だと思う。

 演出技法でも、第七話をやや例外として、「漫画的な符号」(「汗」など)や「間」の強調、絵の一部としてのテキストの強調などといった一九九〇年代から広く使われるようになった方法をほとんど使っていない。物語を着実に逐い、絵を見せることを演出の主目的にはっきりと据えている。場面に合わせて伴奏音楽をきちんとつけていっている。

 もちろん単純な八〇年代以前の作品への回帰ではない。CGは多用しているし、八〇年代までの作品ならば、「気弱な男」を主人公にした作品はあっても、明確に「オタク」を主人公に据えた作品はあり得なかっただろうと思う。現在の制作環境を前提に、八〇年代まではふつうに行われていた正統の演出法で作品をまとめるにはどうしたらいいか。この作品は、総監督芦田豊雄を中心とする制作陣のその課題への回答なのだろう。コメンタリーによると、この作品ではアフレコ時にすべて絵が完成していたという。このことからも制作陣の意気込みが強く感じられる。

 テーマも古いと言えば古い。この作品では、女と男が出会い、その二人が結婚し、家庭を作ることがヒロイン七瀬成恵の夢である。「お嫁さんになること」にストレートにあこがれるヒロインを私は久しぶりに見たように思う。第六話の鈴ちゃん登場の回を別にして、三角関係が発生したりもしない。みんなが自分の好きになった相手と仲よくなることができている。この物語は基本的に古典的な家族のドラマなのである。

 けれどもこの作品の「世界」はけっして単純に古典的で平明なものではない。あえて言えば、その「世界」は現代的なものだ。もちろん私は何でも現代的ならばよいと言いたいのではない。たんに、この作品が懐古趣味で八〇年代以前的な作りかたをされているのではないということを言いたいだけである。

 では、この『成恵の世界』の「世界」はどのような仕組みを持っているのだろうか。また、アニメ版全一二話の物語が進むにつれてそれはどのように変容していくのだろうか。その一端を解き明かしてみたいと思う。

 

 七瀬成恵

 成恵は厳しく孤独な世界にいる。

 たんに一四歳ですでに母親を亡くしているというだけではない。

 成恵は、銀河系人の父と地球人の母とのあいだに、後進地域である地球で生まれたために、独特のどうしようもない孤独を背負って生きている。

 この作品に描かれた「銀河系連盟」の世界が現在の日本を原型に描かれていることは、「オタク系文化」の「擬似日本」的性格を強調する論者にとっては恰好の材料だろう。しかし、『成恵の世界』で重要なのは、銀河系人が地球人とほとんど変わらない姿をしているということである。外見からは見分けがつかないのに、成恵はほかのだれとも違って「宇宙人」である。外見が同じであることがかえって成恵を孤立させている。同じ姿をしているのに自分は「宇宙人」だと名のりつづけるから友だちもできない。しかも、おそらく、成恵は先に自分が「宇宙人」だと名のることで友だちができることをわざと避けている。

 成恵は、父の正が、勤務先の科学技術後進地域で現地人の女性と知り合い、結婚して生まれた子どもだ(『ペリーヌ物語』のペリーヌと同じ立場である)。しかも、正の故郷は銀河系なので、夜空を見上げればその故郷の姿が見える。『成恵の世界』の夜空には天の川が描かれている。現実にはいまの日本の都会で天の川が空に見える場所など珍しいはずなのに。成恵にとっては、その天の川、つまり銀河は父の故国であり、成恵にとっても祖国なのである。成恵は夜空を見上げるたびにその祖国の姿に向かい合わなければならない。

 その祖国は成恵や正の行動を詳細に監視している。祖国は天にあり、昼夜を分かたず、成恵たちを監視しているのだ。成恵たちは厳しい「全方位監視装置」の下にいつも置かれているのである。「全方位監視装置」とは監獄を管理するためのいちばん効率的な方法として案出されたものである(ミシェル・フーコー『監獄の誕生』)。

 しかも、その祖国は、成恵と正が惑星地球に住みつづけることを認めてはいない。祖国は、成恵に、自分の生まれた星を捨てて、自分たちの国に帰ることを常に要求しつづけている。ただ、正の行動を黙認しているテイルメッサー監察官の判断で、成恵は自分のまったく知りもしない祖国に連れ戻されることを免れているだけだ。

 だが、一方で、成恵はその祖国との関係を断ち切ることができない。成恵がテレポートできるのも、その祖国の「星船」が惑星地球の周囲の軌道に常に存在するからだ。成恵はその便利さを捨てるつもりはない。それどころか、テレポートできることを利用して、朝っぱらからまだベッドで眠っている和人のところにやってきたりしている。これでは和人が成恵の「全方位監視装置」の下に置かれているようなものである。

 祖国のテクノロジーで一挙一動を監視されながら、その小さな見返りとしてそのテクノロジーの一部を活用して生きている。その状況を成恵はどうすることもできない。テレポートを利用しないことにしても、祖国がその監視をやめてくれるわけでもない。

 だから、成恵は、たった一人で、満天の星空の下で目を閉じて自分の身体で地球を感じる。成恵にとって、触れることのできる地球だけが自分にとって親しい存在である。天上に見える天体、つまり自分の祖国は、成恵にとって遠い場所であり、岩のかたまりのようなものに過ぎない。成恵にとってはじかにふれ合うことが飛び抜けてたいせつなことなのである。その成恵にとっては、見えるだけで触れることのできない星空には何の親近感も抱くことができない。そこが自分の祖国であると名のればそれだけかえってその祖国への反発を強めることになる。

 おそらく一惑星一文化というあり方があたりまえの銀河系連盟にとって、地球は、生命にあふれた星であり、さまざまな生命が共存しあっているふしぎな星である。だからこそ銀河系連盟は惑星地球を聖域として保存しようとする。テイルメッサー監察官が七瀬正の行動を容認しているのも、たんに「大人の決めたこと」だからという理由ではなく、正がそこから銀河系連盟内部の恒常的な戦争状態を解決する方法を見つけてくることを期待しているからだ。

 だが成恵はまだそのことに気づいていない。生命の共存の場で、ひたすら成恵は自分を孤立させようとしている。それが飯塚和人と出会うまでの成恵の姿だった。

 

 飯塚和人

 和人は「オタク」である。和人は原作第一二〜一三話で猫に、第二七〜二八話でねずみになる。これが「オタクの動物化」のよい実例である。

 ……いや、こんなネタ、この本以外では振れないもので……。

 冗談はさておき、この和人のあり方は、「オタクの動物化」論者や「戦闘美少女の精神分析」家にとっては、これまた自分の理論のみごとな例証になるだろう。

 和人は、現実の世界で成恵とつきあい、虚構の世界で「魔砲少女」四号ちゃんに「萌え」ることに何の矛盾も感じていない。それどころか、四号ちゃんに「萌え」る自分を、自分の彼女はごく自然に受け入れてくれると思っている。だから、成恵に『魔砲少女四号ちゃん』のビデオを見せ、その見せ場に「オタク」的解説を加えて得意でいる。母や姉が心配するようにそれが彼女を失うきっかけになる可能性に和人はまったく気づいていない。しかも、成恵が、パソコンでDVDが見られることや、和人がアニメ好きなことに感動していて、『四号ちゃん』の内容はまるで見ていない(のちに第一〇話で作品の内容を見たときには、一瞬、あっけにとられている)のに、和人は作品の内容の解説を延々とつづけている。そのすれ違いぶりと、すれ違いぶりに気がつかない和人の徹底した「オタク」ぶりが印象的である。「印象的」というのは外から見た醒めた言いかたで、「オタク」自身としていうと痛いことこの上ない。「こんなの何度も見てるの? ほんとに好きなんだね!」(第三話)という成恵のセリフで、ほかならぬ『成恵の世界』のDVDを何度も見ていた私は、一瞬だけ逃げ出したくなった。しかし、和人はそういう気もちをほとんど持たない。ほんとうに「純粋」な「オタク」である。

 この『成恵の世界』では、「オタク」であることは、少年が純粋であり、優しいことを表現する手段として使われている。

 その世間知らずな「オタク」が、成恵が「宇宙人でも」つき合ってくれるのかと聞いたとき、嬉しそうに勢いよく「うん」と頷いた。それが成恵とつきあい始めたきっかけである。これはハプニングと言えば言えないこともない。その前の「女性週刊誌の立ち読み」で少し引いた反動で勢いがついてしまっただけで、成恵が先に「宇宙人でも?」ときいていればこの関係は成り立たなかったかも知れない。けれども、成恵がテレポートしてアバロン人を倒し、「宇宙人」であることが嘘でないとわかった後でも、和人は「女性週刊誌」のほうを気にしている。和人は成恵がなぜ「宇宙人」なのか、なぜ「宇宙人」なのに地球にいるのかを自分からは問いつめない。和人はそれを「気弱なだけ」(第六話)と言っているけれど、そうではないだろう。「オタク」である和人は「現実」の世のなかをどう見てどう考えていいかを知らない。だから「宇宙人」にも優しくできる。鈴ちゃんが心理操作を誤ったのは和人のこの「オタク」特性を考慮に入れなかったからに違いない。

 一方の成恵も「オタク」に対する偏見を何も持っていないほどにも純粋である。和人が救われているのは、成恵が「オタク」であることを一つの個性ぐらいにしか考えていないからだ。その成恵の純粋さは、それまで一人も友だちがいなかったことから来ている。

 「宇宙人」であることで世のなかから自分を隔てつづけてきた成恵と、「オタク」であるために世のなかから排除されかねない立場にいる和人が出会う。和人が出会ったのが「宇宙人」でなければ和人は成恵に『四号ちゃん』を見せた段階で(もしかするとさそった映画が『サバラ』だった段階で)愛想を尽かされていただろう。成恵が出会ったのが和人でなければ成恵は最初からその相手の彼女になることはなかっただろう。

 「オタク」と「宇宙人」の世界が出会うことで、成恵の世界は変わりはじめる。

 

 八木はじめ

 八木はじめと成恵は対蹠的な場所にいる。

 成恵の大嫌いな夜空と銀河がはじめは大好きである。それは二人が「どんなものに親しみを感じるか」の違いの表れである。ただの好みの違いではない。

 成恵は銀河の世界が遠いからこそ嫌いだった。見えはするけれども触れることがけっしてできない世界だからだ。しかもそこは祖国だと称して成恵に一方的な親しさを示し、成恵が親しみを感じている惑星地球から成恵を引き離そうとしている。そのことに成恵はまた反発する。

 はじめは逆である。はじめは銀河の世界が遠いからこそ好きなのだ。はじめにとって自分がじかに触れている身のまわりの世界にはいやなことしか存在しない。家に帰れば一人きりだし、学校に行けばいじめられる。両親が離婚し、自分と同居している母親もいつも遠くにいるという環境で、はじめは遠いものにしか親しみを感じられなくなってしまった。あえて道化を演じることでそのはじめに接近する方法を身につけている丸尾を除いてだが。

 はじめは天体観測が趣味のようだが、おそらく天体観測の基礎知識すらない。部屋の明かりが漏れてきているところで天体観測をしたり、いきなり望遠レンズで天体(UFOだが)を狙ったりと、天体観測をし慣れている人ならばまずやらないことを平気でやっている。せっかくの望遠鏡ではじめはたんに恒星を眺めているようだ。恒星像は望遠鏡を通しても点にしか見えない。だがはじめにとってはそれでいいのだ。宇宙が遠いことを確認できればいいのだから。

 はじめが遠いものに親しみを感じるのは、自分の触れることのできないものならば勝手に「自分一人のもの」と思いこむことができるからだ。自分がじかに触れることのできる相手をはじめは「自分一人のもの」と思うことができない。

 はじめは宇宙人と出会うことを夢見ている。しかしそれは現実には出会えないことを知っているからでもある。はじめが認めている宇宙人は外国に出現した例ばかりだ。しかもまずあり得ないようないかにも嘘っぽい例ばかりである。では、ほんとうにそういう奇怪な宇宙人がはじめの前に現れたらはじめはどうするだろう? 第七話の「プール」で古代生物や怪「ウサギ?」に出会ったときの反応から考えて、とてもすんなり受け入れるとは思えない。このエピソードで、目の前で展開していることに最初から最後まで違和感を持ちつづけていたのははじめだけだった。

 だから成恵が「宇宙人」と名のると、成恵が予期した以上のパニックを引き起こして躍起になってそのことを否定しようとする(しかし「宇宙人ならばどんなにボールをぶつけられても避けられるはず」という理論はすごい)。そんなものが自分の触れられる範囲に存在するはずがないからだ。成恵にはそのことがわからないから、成恵もはじめを嫌う。

 だが、バチスカーフが注意するまでもなく、成恵とはじめは最初から近い場所にいるし、互いに連帯感で結ばれてもいるのだ。第一話で杏子たちがはじめをからかっていたときに、成恵は怒って部屋を出て行った。はじめも和人に自分が成恵と仲が悪いわけではないと言っている。

 ところで、アニメのはじめは、原作よりはるかにエキセントリックなキャラクターとして描かれている。原作では、成恵がなぜ年下の香奈花を「お姉ちゃん」と呼ぶかをいったんたずねるが、成恵が答えを濁すとそれ以上は追及しない。けれどもアニメではしつこくそのことを問いただしている。さらに、第一〇話では、はじめのほうから成恵にコスプレすることを勧めている。普通に考えれば和人に文句を言いに行くほうが先のはずで、それが正統な学園ラブコメディーというものだろう。いきなり成恵にコスプレをさせようとするとはかなりヘンである。

 カール・セーガンの本と、と学会も相手にしないような宇宙人トンデモ本とを同時に借りてくるあたりも、あっぱれなトンデモ少女ぶりである(それにしてもあの中学校の図書館はあんなトンデモ本を置いているのか?)。かと思ったら、第一一話では優等生ぶりを発揮している。

 アニメのはじめは要するに「ヒマな少女」なのだ。学校でも友だちはいないし、家に帰っても一人なので、ありあまる時間を自分で自分の好きなように使わなければならない。だから学校の勉強も熱心にするかわりに、学校で習ったこととは相容れないようなトンデモ本も熱心に読む。成恵のように家事に時間を使わないのでよけいにそのヒマが増える。

 それにしても、はじめちゃん、栄養だいじょうぶかなぁ? はじめちゃんの食生活、なんか私の食生活に酷似してるんだけど……。

 私が『成恵の世界』でいちばん好きな登場人物はこのはじめちゃんである。しかし、登場人物のなかでいちばん「萌え」を感じるキャラは成恵だ。だから、私は、「オタク」は「萌え要素」にしか反応しないというような極端な議論には、自分自身の実感としてついていくことができない。

 

 七瀬香奈花と睦月成美

 家族は幻想の仕組みである。子どもに幻想を与えつづけることで成り立っている。

 家族のそれぞれのメンバーは「自分の時間」を生きている。勤め先や学校での時間に従って生きているし、結婚して家庭を作るまでに生きてきた時間も別々だ。しかし、子どもに対するときには、家族はみんな同じ時間を生きているように、いかにもほんとうらしく演じてみせる。それが家族の役割である。

 だが、それが演技に過ぎないことはいつかは子どもにバレる。香奈花はそれに気づいた子どもである。

 しかし、香奈花は最初はその現実を受け入れることができない。家族は同じ時間を生きているはずのもので、ぜんぜん別の時間を生きているという家族の姿は本来のあり方からはずれているのだと信じようとする。そのことを証明するために香奈花は貨物船に密航してしまう(船のなかでどうやって生活していたのだろう?)。しかし、香奈花にとっては数週間の旅行に過ぎなかったとしたら、そりゃ数週間後に再会して父親が勝手に再婚してたら怒りますわなぁ……。

 貨物船で密航し、ウラシマ効果を経験したことで逆に香奈花はだれも自分と同じ時間を生きていないという現実に直面してしまう。「わたしたちがいるじゃない」となぐさめようとした成恵を傷つけることで、ようやく香奈花は自分がだれとも同じ時間を生きていないことを受け入れる。それで、はじめて、同じ時間を生きていると信じていたそれまでの家族と自分とも、じつは違った時間を生きていたことに気づくのだ。

 それに気づいた後の子どもにとって、家族の情景は大きく変わる。違う時間を生きている者どうしがいっしょに生きていく方法やその意味を探りながらいっしょに生きていかなければならない。距離を取りながら、それでも親しくしていくことが必要になるのだ。香奈花はそういう生きかたを身につけはじめる。それで第九話の「とっても大人」な香奈花の発言が出てくるのだ。ただ、アニメでは、第七話のお子さま香奈花と第九話の香奈花の落差が大きすぎる気はする。

 成恵も、まったく別の時間を生きてきた人を家族として受け入れなければならなかった。まだ家族とは言えない和人を除いて、それは成恵にとってはじめての経験だ。

 では、これまで成恵はどんな時間を生きてきたのか?

 成恵が生きてきた時間は母の成美から受け継いだものそのままである。

 成美は早くに亡くなってしまったので、成恵は成美と「違う時間」を生きているという感覚を持つ機会がなかった。成美が亡くなると、成恵はたぶん自然にその役割を継いで、主婦として家の生活を支えはじめた。成美がいないからこそ、成恵は成美と同じ時間をいまも生きつづけているのだ。

 成恵が自分がじかに触れているものにだけ親しみを感じるのも、成美から受け継いだ感覚だろう。成美は成恵に抱きつくくせがあったという。その感じを成恵も受け継いでいる。だから、第四話で、成恵は和人に背中から抱きつき、香奈花にも抱きついている。

 成恵にとって、和人と出会うまで、ほかの人との接触はゼロか百パーセントかのどちらかだった。母親には愛情を一身に注がれて育ってきた。そのかわり友だちは一人もいなかった。女性週刊誌を愛読していながら嫉妬という感情が理解できなかったというのはふしぎだけれど、成恵はたぶん身をもって嫉妬を感じたことがこれまでなかったのだろう。愛情を奪い合うという状況は、鈴ちゃんが現れるまで成恵には無縁のものだったのだ。

 香奈花を家族として受け入れ、鈴ちゃんの出現で与えられた試練を乗り切ることで、成恵の世界は、和人やはじめや香奈花の世界とつながりを持つことになった。その世界を攻撃することで、いわば否定的な面から結びつける役割を果たしていたのは、工藤杏子をはじめとするクラスメートたちである(杏子はアニメ化でいちばん損をしているキャラクターかも知れない。アニメに登場しなかった人物は別として、だが)。何の屈託もなく「友だち」の関係を先に持つことのできた者たちの「世界」が、それができなかった者たちの「世界」を圧迫することで結果的に結びつけていく。そして、それが結びついたところで、第六話を最後に姿を消す。

 正は、惑星地球の人たちは「いい人」ばかりだという。だが、一四歳になるまで娘に一人も友だちができないような土地の人たちが「みんないい人」と言えるのだろうか。だいいち、正自身が、必ずしも成美の姉一家から親切にされてはいなかった。

 だが、正の発見した惑星地球の秘密とは、そういう、いわば表面に表れる関係のことを言っているのではないようだ。

 地球の生命どうしだってけっして平和に共存しているわけではない。激しい生存競争を生きながら共存しているのだ。クラスのなかですこしほかの子と違っていればすぐにいじめの対象になる。惑星地球の世界とはそういうシビアな世界なのである。

 しかし、それでも惑星地球では人びとが共存できる。成恵とはじめのように対立しあっていたって、いつかはうち解けあい、親友になることができるかも知れない。人間どうしは事実としてはみんなが仲よく共存することはできない。けれども、仲の悪いどうしでも人間関係のなかで何かの役割は果たしているものだ。そしていつかは仲よくなれるかも知れない。その可能性を留保しているからこそ人間はまったく違う文化を持っていても共存していける。そのことを正は「この星の人たちはいい人ばかり」と表現したのだろう。

 それにしても、川村万梨阿の母と能登麻美子の娘というのはなかなか強烈な組み合わせである。これではお父さんの影が薄くなってしまってもしかたあるまい。

 

 永遠の夏の世界

 アニメ『成恵の世界』の季節感は奇妙である。第一話は春先のまだ寒い時期の情景だった。しかし、第二話では、キャラクターはもう夏服を着ている。そして、夏が終わり、二学期の中間試験の季節になっても、みんな夏の服装のままである(第一一話)。第一二話は、第一一話のあとの話なので季節は秋なのだろうが、あのお祭りの雰囲気は秋祭りというより夏祭りである(第一一話と第一二話のあいだで年が明けていて、第一二話は翌年の夏の話かも知れないが)。しかも、正と成美が出会う回想の場面も夏である。成恵が和人と出会って以来、季節はずっと夏のままなのだ。

 どうしてそうなったのかは私にはわからない。あるいは、放映されたのが二〇〇三年の春から初夏にかけてだったので、その時期の季節感に合わせたのかも知れないし、秋や冬の服のデザインを起こす手間を省略したせいなのかも知れない。

 だが、『新世紀エヴァンゲリオン』の世界がそうだったように、「成恵の世界」はいつも夏の時間が流れている世界であると考えてみてもおもしろい。エンディングの「アイスクリイム」も夏の歌だ。「成恵の世界」では、過ぎ去ってほしくない、明るい、そしてどことなくけだるい季節がずっと続いていく。

 では、それは夢のような理想の時間なのだろうか。

 そうではない。

 惑星地球の上で「成恵の世界」がどんな変容を遂げようが、それが宇宙から監視されていることには何の変わりもない。しかも、そこには、何の目的があるわけでもないのに「テロリスト」が襲ってくる。それがいつ襲ってくるかもわからない。

 成恵の永遠の夏の世界は、いつそれが失われるかわからないという不安から自由になることのできない世界なのである。夏が永遠でなければ、夏には終わる時期があるし、そのかわり夏が終わってもべつに異常な事態ではない。しかし、永遠の夏の世界では、夏が終わることは普通ではない。だからこそ、逆に、その夏が失われることの恐怖が、そこに住む者を捉えて放さないのである。

 いま、私たちはどんな世界に住んでいるのだろうか?

 その問いに対する答えは、人によって、その人の住んでいる世界によって、違うだろうと思う。そのなかで、私は、いま、成恵と祈りをともにしたいと思っている。

 

 

(終)

2003/12

 


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