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東浩紀氏の「オタク」論をめぐる二つの雑感

 

 

清瀬 六朗


  一、「萌え」の発生

 

 東氏は、アニメなどのキャラ(キャラクター)に「萌える」という感情は、「実写」の映像を通して実在の女性や女優が好きになる場合とは、感情の起こりかたの構造のようなものがまったく違うという想定でその「オタク」論を組み立てているように見受けられる。「オタク」(ここではもっぱら男性の「オタク」のみを指す)が、実写映像を見て、映っている女性や女優が好きになるのは、それはカメラの向こうにその女性(女優も含む)が実在することを当然のこととして受け取るからである。しかし、「オタク」がアニメやゲームのキャラに「萌え」るときには、「オタク」は、それが描線や色塗りによって構成された図形だということを認識していて、それで「萌え」感情を抱く。つまり、その複合図形の構成要素を自分の「データベース」に照らし合わせて、そこから「萌え」られるものを拾い出すことで「萌え」るということであろう。

 アニメやゲームのキャラに対する場合と、実在の女性や女優と対する場合とで、感情の喚起のされ方が異なるとするこの想定は妥当なのだろうか。

 東氏がこのような議論を立てるのは、「オタク」が、アニメやゲームのキャラに対して「萌え」る場合と、実在の女性に対して性的関心を抱く場合とで、その態度に違いがあることの説明としてである。「オタク」は、アニメやゲームのキャラにどんなに「萌え」ても、実在の女性の性的魅力を軽んじるわけではない。アニメの「萌え」キャラと実在の彼女は別次元の存在であり、その両方に対して強い興味を抱き続けることは矛盾しない(『魔砲少女四号ちゃん』の四号ちゃんに「萌え」ることと、実在の七瀬成恵嬢を彼女にすることとは、「オタク」の飯塚和人氏にとっては何のふしぎもなく両立する!)。それが「オタク」の「セクシュアリティー」の特徴だと東氏は言う。

 また、「オタク」が映像や画像に対して示す好みと、実際の異性に対して示す好みとでは、まったく傾向が違うことが普通だということも東氏は強調する。東氏の議論によれば、たとえば、アニメキャラに対しては「幼女萌え」の「オタク」が、実際に幼女に対する変態性欲を持っているかというと、じつはそんなことはない。そういう例もあるだろうが、「オタク」の内部での変態性欲の持ち主の割合は、「オタク」以外の人たちのなかでの変態性欲の持ち主の割合とそんなに違わないはずである。このような議論は、たとえば斎藤環氏などとも共通の認識になっているようだ。

 このような事態は、「オタク」のばあい、映像や画像に対するセクシュアリティーの感覚と実在の異性に対するセクシュアリティーの感覚とでは違いがあるとしなければ説明がつかなくなる。それが東氏の「オタクの多重的セクシュアリティー」論とでも呼ぶべき議論が出てくる理由であろう。

 東氏がこのような議論を展開する背景には、児童ポルノ法をはじめとする画像・映像に対する国家的な規制の動きへの危機感がある。社会的に性的興味を持つべきでないとされる対象に性的興味を持たせるような画像までが禁圧の対象になれば、日本のコミックマーケット的文化は壊滅する。そのような危惧を抱きつつ、東氏は、「画像・映像に対するセクシュアリティー」と「実在の人間に対するセクシュアリティー」が同一とは見なせないことを強調しているわけである。ここに、「社会派」的な「情報自由論」の東氏と、「軟派」な「オタク」論者の東氏の接点がある。

 このような東氏の意図は理解できる。また、私も、東氏と同様に、映像・画像に描かれた異性の身体に抱く感情・感覚と、実在の異性の身体に抱く感情・感覚とがまったく同じだとは思わない。

 私たちは、画像・映像が人間のなかでどんな感覚・感情を呼び起こすかについて、どんな場合をも一律に考えるのでなく、場合分けをして考えたほうがいいだろう。人間が映像のなかに映っているのがあたりまえだという状態は、人類史的に見て比較的新しい事態である。絵画はあったけれど、絵画と写真は違う。写真も、フィルムの感度が低くて何分も動かずにいなければ撮影できなかった時代と現在のカメラ付きケータイの時代とでは背負っている意味が違うだろう。動いている人間の映像が映画館のなかでしか見られなかった時代と、テレビでいつでも見られる時代とでは、やはり感じかたが異なっていておかしくない。

 「実写」映像は、テレビカメラがあってそのカメラが実在の異性を撮影しており、そのことを了解して私たちはその映像を接する。そしてその対象に性的興味を抱くという過程をとる。それに対して、アニメの場合には、そういう「テレビカメラ」が存在しない。ある時代までは撮影台に「カメラ」は存在したのだが、その向こうに実在の異性がいない。それが普通になってくると、その時代には、実在しないことを前提にした性的興味の持ちかたを身につけた者たちがたくさん出てくるようになった。それが「オタク」だ。東氏の議論はそういう考えに基づいているようである。

 だが、一方で、私は、実在の女性や女優が好きになることと、アニメやゲームのキャラに「萌え」感情を抱くこととには、根底のところで共通する感覚があるように思うのだ。実在の女性や女優に対して関心を抱くときにその感情が生まれてくる経路と、アニメやゲームのキャラに「萌え」るときに感情が生まれてくる経路とは、たしかに大きく違っているのかもしれない。けれども、根底には同じ心の動きがあるのではないだろうか。

 たとえば、映像を通して見た女優でもいいし、直接に身近に知り合っている女性でもいい。その人が好きになったとしよう。しかし、そのひとのことを考えるとき、私たちは、その女性の完全な映像を思い浮かべているだろうか? これは心のなかの動きなので、私には私以外の人の心の動きを捉えるのは不可能なのだけれど、私の実感から言えば違う。関心を持ちつづけている相手なのに、じつはその顔かたちさえはっきり覚えていないということが私にはあるからだ。自分の好きな女優の顔かたちについて、自分が好きな特徴は覚えていても、そうではない部分はまるっきり思い出せないというほうが普通ではないだろうか。あるいは「AはBに似ている」と覚えていて、さてではAさんとBさんの「似ている」部分はどこなのかと問われると、答えられなかったりする。ばくぜんと「なんとなく雰囲気が……」としか答えられない。そんなことはないだろうか。人間は、異性を認知するとき、印象に残った部分だけを認知していて、そうでない部分は認知していないのではないか。これはべつに異性に限ったことではない。風景や情景でも同じことだ。何かを思い出すときには、印象に残っているところを、その他の一般的な情景とか一般的な顔かたちとかに載せて思い出している。だから、三か月前の会社で起こったことを映像として思い出すときに、背景に五年前に通っていた学校の教室が浮かんでしまうなどということもある。細面の女優だと思っていて、実際に写真を見たら頬がふっくらしていたということも起こる。もしかしてそういう変な思い出しかたをするのって私だけ?

 ともかくここは私の感覚に沿ってしか議論できないので、そうやって議論を進めるとしよう。

 人間が印象に残るところだけをとくに深く記憶しているのだとしたら、それは、実在の人間を記憶していようが、最初から絵で描かれたものを記憶していようが、その記憶している部分では違いがないことになる。むしろ、その印象に残る部分を強調して描いたのがアニメやゲームのキャラだということができるのではないか。

 もしそうだとして、なお実在の異性とアニメやゲームのキャラとの間で性的興味の起こりかたが違うのだったら、それはなぜなのか?

 そういう観点から考察してみることも必要かもしれない。

 

 二、シミュラークル化する言論

 

 東氏は、「ポストモダン」社会では「オリジナル」と「コピー」との区別が曖昧になり、すべてが「似たようなもの」である「シミュラークル」があふれるとしている。そして、その「シミュラークル」は、「データベース」から適当な要素を拾ってきて組み合わせることで構成されるとする。

 もし「ポストモダン」とされる現代社会でそんな動態があるのだったら―。

 思想や言論がその動態から自由であると考えるのは不自然だ。そういう「シミュラークル/データベース」モデルを提唱している言論自体が、そのモデルの下に構成されていると考えるほうが自然だろう。

 つまり、「ポストモダン」と化した現代社会では、思想や言論それ自体が「シミュラークル」化してオリジナリティーを失うのではないか?

 いや、オリジナリティーを失うぐらいどうでも構わないとしても、もはや現代社会の思想は「データベース」から拾ってこられた要素を適当に組み合わせることでしか語られ得ないのではないか? だれでも現代思想家になれると同時に、だれもがオリジナルな思想を持ち得ない。それが「現代思想」の凋落の根本的な要因なのではないか?

 こう考えれば、『動物化する世界の中で』で東氏が問題にしているポストモダニズムの凋落の理由も理解できる。あくまで東氏の議論の枠組に沿って考えるとすると、八〇年代から九〇年代前半までは、日本は完全な「ポストモダン」社会にはなっていなかった。「大きな物語」がフェイクとしてであれ存在して、それが社会を方向づけていた。この時代には、たとえば柄谷行人の湾岸戦争反戦運動が一定のインパクトを与え得た。しかし、九〇年代後半から日本は完全に「シミュラークル/データベース」モデルの時代に入ってしまった。そこでは、どんな新奇な思想も言論も、また社会運動も、「データベース」から拾ってきた要素を組み合わせただけの「どれも似たようなもの」にしかなり得ず、そのことが一瞬で看破されてしまう。それがたとえば東氏の言う「柄谷行人の衰弱」の意味するものではないのだろうか?

 だとすると、そういう「動物化する世界の中で」の思想や言論はどうしたら有効性を持ちうるのだろう? それとも有効性など持たなくていいのだろうか? ただ「動物」的に与えられた状況に対してある言論を返していればそれで普通だ、それ以外のあり方にはなりようがないということになるのだろうか? 「戦争」という要素が与えられれば「動物」的に「平和」を返し、「規制」という要素が与えられれば「動物」的に「規制反対」を返していればいいのだろうか? 私はそう思わないし、東氏だってそうは考えていないだろう。

 東氏はそういう「動物化」的な言論の閉塞状況から何かの脱出路を見出そうとしているはずである。それは、たとえば、「郵便的」という概念の提唱などに表れているのかもしれない。あるいは、デリダのことば遊びに満ちたテキストの作りかたに出口の方向を見出しているのかも知れない。

 しかし、「ポストモダン」社会で思想や言論や社会運動が「動物」的にならずにすむ道があるのなら、「オタク」だって「動物」的にならない方向性があるはずだ。

 そういうふうに考えてみるのもおもしろいかも知れないと思う。

 

 

(終)

2003/12

 


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