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知と知識に関する覚書

 

 

岩田 憲明


 すべての知はその背景に何らかの関心(Sorge)を持っている。たとえ、それが他から強いられたものであれ、人は何らかの関心とともに何かを知るようになる。また、知識は何らかの形でそれを得た人の行為に影響を及ぼす可能性を持っている。何かを知ってしまった人は、まだそれを知らなかった自己とは別の存在である。何かを知ることによって生じた何らかの感情の起伏、そのことだけでも人の行為は変わりうるものなのである。

 そもそも知識は何かのための知識であることが多い。必ずしもそうであるとは限らないが、わざわざ何かを知っているというときは、その何かに対する知識が特定の目的と結びついている場合が多い。病気の治療、コンピューターの操作などは仕事にかかわる知識であり、時として緊急の必要を持つことがある。そこまで行かなくても、「裏技」と呼ばれる便利な知識もある。知識とは、その限りで、単純にそれを知っているか否かがその価値を決定するものだといえるだろう。しかし、「知」一般となると事はこのように単純には行かなくなる。

 例として、ここに2つの歴史的事実を掲げてみよう。

 

  1192年 源頼朝、征夷大将軍就任(鎌倉幕府成立)

  1185年 守護・地頭設置

 

一般的に鎌倉幕府がいつ出来たかという問いに対しては1192年というのが正解であろう。しかし、実質的に鎌倉政権が成立したのは1185年だという見方がある。この年は壇ノ浦の戦いで平氏が滅びた年であり、守護・地頭の設置が認められたことは鎌倉の武家政権が京都の朝廷から独立して武力だけではなく、統治に必要な財政的基盤を新たな政権が獲得したことを意味している。もし日本史のテストで鎌倉幕府の成立の年を単純に問われたならば、「1192年」という知識をそのまま当てはめれば良いだろう。しかし、鎌倉幕府の成立について論述せよという問題が出されたならば「1192年に源頼朝が幕府を開いた」という答えだけでは不十分である。前者の問題は機械的に知識を当てはめれば答えることが出来るが、後者の場合は歴史的な因果関係を理解していなくてはならないのである。

 歴史の問題は過去の事象に対する問いである限りにおいては現在とは直接には結びつかない。守護・地頭がいつ設置されたか、鎌倉幕府がいつ開かれたかは、たとえ客観的な事実であっても現代人には直接は関係のない話である。たいていの人にとってそれは日本史のテストで良い成績を得るためにのみ必要なものであり、歴史について語る人たちが自らの話題を楽しむために必要な彼ら共通の知識に過ぎないという人もいるかもしれない。確かに病気の対処法やコンピューターの操作の知識と比べると、歴史的な知識にはこれらの知識が持っている現実との直接のかかわりはない。しかし、歴史は過去の事象を通して物事のあり方を指し示すものであるのだから、そのあり方を知るための前提条件として知識が必要であるという見方も出来る。しかし、その「あり方を知る」とはそもそもどういうことなのか。

 何らかの組織が機能するためにはその財政基盤が必要である。鎌倉時代においてそれは農業生産によるのであり、守護・地頭は鎌倉幕府の成立にとって最も重要な要素であったということが出来る。しかし、これはこれで過去の事実であることには変わりはない。単に年号を問う単純な問題に答えることに比べれば複雑だが、現在に生きる人たちにとっては試験で問われることがなければ、そのままでは役に立たない知識である。そもそも何故このような知識が試験を通してわざわざ問われるのであろうか。歴史を暗記科目と考えている受験生にはこのような問いを考えることすらナンセンスかもしれない。

 先に述べたように、知識は関心をその背景に持ち、同時に何らかの形で自らの行為とかかわりを持っている。鎌倉時代の成立を知ることはどのような形で行為にかかわりうるのか。そう考えるならば、鎌倉時代に限らず歴史を知ることの意味が少しは見えてくるかもしれない。別に知識として細かい年号を覚えなくても、ある程度歴史から教訓というものを人は学ぶことが出来る。当時の社会状況、それに対処した過去の人々の行為は現在にそのまま当てはめられなくても、現在と何らかの共通の側面を持っている。現実の仕事の中で、いわゆる現場と格闘している人間にとっては、物事が単純に知識だけで解決できるものではないことを身を以って知っている。そういう人は、状況を的確に判断し問題を解決するためには、直接知識を当てはめるだけではなく、あり方のレベルで何らかの「知」が必要なこともよく理解している。過去と全く同じ事象が起こることがありえない以上、過去と現在との間にある差異と共通性とをより分け、過去の事例から現在の事例の解決を見出す知恵が求められているのである。知識はその知恵を得るための前提条件に過ぎない。歴史について知識が問われるにしても、現在に生かせる知恵が求められていることがまず最初にあっての話である。

 このようなことはわざわざ説明しなくてもよいようにも思える。恐らくこれは常識と呼ばれる部類に属する考えであろう。しかし、その常識のすべてを我々が理解し、それに基づいて行動しているとは限らない。アニメの世界ではオタクの知識が問題とされるが、学術の世界であれ、一般の人々の間でさえ、知識が一人歩きして人間を評価する基準になっていることはよくある。そもそも歴史の試験のために年号を覚えなくてはならないということそのものがそのことを物語っているのではないか。また、知識はそれを共有する人たちの間に連帯感をもたらすこともある。中国の古典や聖書などの教養は知識として先人たちのコミュニケーションの前提となったが、現在では知識の有無がそのまま特定のグループを識別する指標となっている。アカデミズムの特定の分野での知識、オタクたちが共有する知識、これらはかつての古典的知識が持っていた何かを考えるための共通の前提としてよりも、自分たちを他から区別するための壁の役割を果たしている。共有する知識を特殊化することによって他からの批判を無効とし、限られたコミュニケーションの場の中でのみ競争を繰り返す。そのような中では知識の量が他者への優越を示す分かりやすい指標となるが、それは知識が客観的事実との合致という形で容易にその是非が決められるからである。

  "真理の基準は客観的な事実との合致である"  、このことは現代人の多くが暗黙のうちに受け入れている考えである。しかし、そもそも「客観的事実」とは何なのか、それはどの程度の確かさで認めることが出来るのか。結局、事実を事実とするのは人間の感覚である。科学の世界ではこの感覚の恣意性を払拭するために、万人に共通の基準を求めようとする。しかし、それらは自然科学のように個別の事象を云々することについては有効であっても、社会のような捉えどころのない不確定な対象に関しては必ずしも有効とは限らない。「客観的事実」は知識としてすぐに人々に共有されるが、二度と同じことが起こらない現実に対してはその場に生きる現場の知恵を抜きにしては役に立たないといえるだろう。自然科学では理想的な状況を人為的に作りだして、再現可能な実験を繰り返すことができるが、現実に生きる人間の知はそれだけでは不十分である。

 このような現実が人の関心を常に広げてきたといえる。教育は常に新しい教育を求めるという言葉を聞いたことがあるが、それは何らかの知識を通じて喚起された関心は常に新しい知識を欲するからであろう。古今東西の先哲たちが書物を通じて多くの知識を持っていたのも、その関心の広がりによるものである。しかし、現代人にとって事態は必ずしもそうではない。それは科学技術の発展、社会の異常なまでの進展に伴って「知っていなくてはならないこと」が増えたからだともいえるだろう。しかし、それ以上に「客観的事実」に関する信仰がその背景にあるように思えてならない。

 現実は鎌倉幕府がいつ成立したかどうかを問うような単純な知識で満たされているわけではない。むしろビジネスの世界などでは、守護・地頭が鎌倉幕府の経済的基盤を確立した程度の知が求められていることが多い。しかし、この後者の知とて一般に知れ渡ればただの知識となってしまう。知の中には個別の事実についての知識とそのあり方についての知恵とがあるが、その区別は案外相対的なものである。同じ数学の問題でも、独力で解いて得た解法はその人に数学的な「知恵」をもたらすかもしれないが、単に人から学んだ解き方はあくまで「知識」の範囲内である。客観的とされる数学でさえそうなのであるから、宗教や哲学の世界では、「知識」か「知恵」か、その知の意義はそう単純には決められない。

 禅宗の僧として有名な白隠という人は子供の頃、観音様の名前を唱えれば高いところから落ちても身に害を及ぼすことがないという観音経の言葉を試すために、実際に崖から飛び降りて怪我をしたそうである。宗教的な言葉の多くは暗喩に満ちており、文字通りの解釈を受け付けないものであるが、白隠はその言葉をそのまま信じて怪我をしたわけである。しかし、白隠自身が後に高僧になったことを思えば、彼は観音経の文句に何らかの真実を見出したに違いない。それは彼の人生を通じて納得された知恵とも言うべきものであって、現代人が「知識」として文字通りの形で受け入れているものではないであろう。

 私たちが生きる現場では「知」と「現実」とは単純につながっているわけではない。何らかの「知」を持っていたとしても、それを現場で生かすためにはそれまでの関心の広がり、他の知と行為の蓄積を必要とする。それが深い意味での「経験」と呼ばれるものであるが、現代人の多くはより多くの知識を他から仕入れることによって、その「経験」を省こうとする傾向があるように思えてならない。しかし、この「経験」にこそ自己を介して自らの知と自らの取り組むべき対象とを一つにする【現場】ともいうべきものがあるのである。

 アニメの世界に関して言えば、私はオタクたちのすべてがそうだとも思わないし、この傾向がオタクたちに限ったこととは思わないのだが、一般的に見られるオタクたちの知に対する態度があまりにもこの【現場】から乖離しているように思える。彼らは常に「観客」であるのだが、その一方で何か創造的な現場に立ち会っているような感覚を持っているように思える。しかし、本当にそこに創造的な現場があるとするならば、彼らの関心はかつての先哲たちと同じように自らの対象の外へと広がっていくであろう。しかし、実際は知識そのものに価値が属性として付加されているかのように、彼らは知識を求め、その量の多さに満足するのである。

 だが、このことは別にオタクたちに限ったことではない。私はむしろオタクたちが自らの関心を広げられない社会のあり方にこそ問題の眼差しを向けるべきだと思う。確かにオタクは趣味の分野に生息し、観客としてのまた評論家としての態度をとりやすい分野に生きているわけであるが、それだからこそ自由に対象についての考えをめぐらし、自分なりの作品を作る機会が与えられている。実際に、アニメ業界を志望する若者は多いと私も聞いている。問題なのは、彼らの一部が知識の展覧会に明け暮れていることではなく、何らかの創作意欲を持ちつつも、自らの意識をアニメの世界の外に広げる機会がないという現実である。どの世界にも昔から「通」とか「物知り」とか呼ばれる人々はいた。実害を考えれば、現在においてオタク的な弊害が深刻化しているのは、アニメの世界というよりは、細分化が進み「タコツボ化」とまで称されるようになったアカデミズムの方である。人々は知の探求を一部の専門家に任せることで、自ら考えることを人に委ねてきた。頭の良い人たちが世の中にはいる、彼らが仕事をしている以上、私たちは彼らの出す答えに従っていればいい。人々の多くはテレビに出る専門家たちに冷ややかな視線を向けつつも、どこかで完全な答えが用意されているのではないかと期待している節がある。真理が客観的事実との合致とみなされるようになって、人々は自分の外のどこかに答えがあるという感覚に安住してきたのではないのだろうか。

 世の人はオタクを特別な人種と見る向きもあるが、特定の対象や言葉に「萌え」、異常な反応を示してきた人々は多くいる。かつてのマルクス主義者にしても、今のカルト信者にしてもそうである。アカデミズムの世界も特定の専門分野に自らの関心とその知識を封じ込めている限りそうである。彼らは独自に言葉の壁を作り、仲間内だけの知識を共有することで他者との壁を作っている。結果として、この壁は関心の壁となり、行為の限界を形づくるのであるが、このことに敢えて異議を唱えるものはそう多くない。だが、問題はまさにその一点にあるのである。一定の枠の中に自らの関心を押さえ込むことが容認されているのは、社会に真の意味で知を生かす【現場】が失われているからではないか。人は知識を持ち、それを以って働きかけるべき対象を目の前にしてはいるが、自分自身の居場所がそこにはない。知と関心と行為の場には、そこに自らが生きる【現場】がなくてはならないのである。

 

  ----- 補遺 -----

 今年の10月に新たに立命館アジア太平洋大学大学院の博士課程(後期)に入学した。この大学は約半数が外国からの留学生で占められていることで有名であるが、大学院の場合、授業は全て英語、学生も大部分は海外から来ている。私が入った学部は「アジア太平洋学部」というのであるが、もともと哲学科出身である私にとって、この学際的学部への参入は知についての多くの問題を浮き彫りにさせるきっかけとなった。たまたま、オタクについての考察をする機会を得たので、社会全体の知のあり方に絡めて考えてみたのであるが、その際に以前から私がかかわっていた地域活動の場が大きな示唆を与えてくれた。今回は参考までにその2つをご紹介したい。

 ひとつは、大分県竹田市で開かれている「夏期哲学講座」である。これは、以前、大阪大学の先生をされていた茅野良男先生が郷土である竹田市で一般の人々を対象に開いている講座である。今年は日本人が翻訳などを通じていかに西洋文化を受容してきたかを南蛮文化の時代から明治期に至るまで、西田幾多郎の話も交えてなされたのであるが、このことを通じて、先人の知的現場というものを垣間見ることが出来た。かつての日本人にとって、海外の知的文化の受容とは単なる知識の受け入れではなく、知的他者との格闘と和解の努力に他ならなかった。今日、我々が漢字を通して多くの学術・専門用語を理解することが出来るのは、これら先人たちのおかげである。

 いまひとつは、大分県中津市出身の久恒啓一先生(現宮城大学教授)との出会いである。たまたま、中津市の地域通貨fuku に関わっていたことがきっかけで知り合ったのであるが、久恒先生の「勉強をするな」という著書は真に「知」について考える際に大いに助けとなった。【現場】という概念もこの書によっている。久恒先生については、図解に関する本を多く出しているので、知っておられる方も多いであろう。ちなみに、中津市は江戸時代、蘭学の前野良沢を輩出し、幕末に福沢諭吉が少年期を過ごした地として有名である。

 竹田にせよ中津にせよ、大分県の地方都市ではあるが、最近では経済的に多くの問題を抱えている。特に、竹田は人口の減少著しく、滝廉太郎の「荒城の月」を以ってようやくその名を知られているのが現状である。だが、このような地域に日本の知的伝統がまだ微かでも残っていることは希望である。大分の地で海外の学生たちと学んで感じているのは、日本の知の伝統と、その力である。

 

 

 

(終)

2003/12

 


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