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美少女を攻略せよ

――  私の萌え談義 ――

 

 

鈴谷 了


 

 はじめに

 

 「萌え」である。ある意味これだけ「俗情」と結託したモチーフを特集としたことはWWFでも初めてかもしれない。なんで、とかく文章堅めで「筆者」なんていう一人称を日頃使ったりするこの私(とこの文では自称する)も、今回はソフトモードで行くことにしよう。

 で、さっそくなんだがタイトルにはあんまり意味はない。でも一応これは二十世紀の政治史に残る文書のタイトルの剽窃である(注1)。何、元ネタがわからない? じゃ、こういうのはどうだ。

 「白い猫耳でも黒い猫耳でも萌えられるのがよい猫耳だ」(注2)

 

 これでもよくわからない? そうかもしれない。

 今回、テキストとして編集者より指定された東浩紀氏の『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)の記述に基づけば、いわゆる「萌え」という現象は政治思想や国家的なイデオロギーという現実の「大きな物語」が衰滅し、さらにそれに代替されたサブカルチャーにおける「大きな物語」も不要になったあとのポストモダン状況に結びついているということだ。(この前提が正しいかどうかについて、もしかしたら語る機会があるかもしれないが)

 「文化大革命」とは「大きな物語」で国中を埋め尽くそうとした運動であり、そのあとにケ小平が行った「改革・開放政策」とはその「大きな物語」を事実上否定し、より即物的な利益への指向をあらわにしたものだった。

 そういう点から見れば、中国の政治史と「萌え」の歴史にはパラレルな関係がないとはいえない。(大袈裟な…)

 で、これから私が書こうというのは主に「萌え」の前史に当たる部分、つまり「大きな物語の代替物として設定が求められていた時代」において、次なる時代への動きがどのように起きていたか、という部分なので、その意味ではこのタイトルはあっているんじゃないかな、と思うわけである。その通りに進むかどうかわからないけど。

 いや、正直なところ『エヴァンゲリオン』以降ここ五年ほどは、私的な環境変化もあって、私はアニメ・ゲームの状況を半ば傍観者的に眺めていたに過ぎない。その中で、「かわいいキャラクターをそろえることを第一義とした作品」がこれだけ増え、しかもそれがメインストリームを形成しつつあることは何となく感じてきた。それらに対して、一昔前なら「そんなのはマニアに媚びた作品だ」という意見が必ず出てきたはずだが、そうした声もあまり聞かれない。「時代は変わったな」という感触はあった。

 ただ、そうしたムーブメントの起源は、もっと昔に遡ることができるはずである。ある日突然「萌え」を売りとした作品が出てきたのではなくて、それを用意した前提というのがある。そこらへんが私が書こうとしていることである。

 いわゆる「萌え」現象を東氏の文脈に沿って大ざっぱに構造化すると、

1.アニメやゲームのキャラクターに対して性的欲望を抱き、それが好きであることを包み隠さず消費行動(売買に止まらず、受容も含めた広い意味で)に直結させる。アニメ・ゲームキャラクターに対する性的な関心。

2.受け手が好みのキャラクターの存在を、消費する作品を選択する上でもっとも重視するようになり、作品の持つ物語への興味関心を低下させる。また、作り手側が、受け手が抱くキャラクターへの欲望がパターン化されることを認識し、そうしたパターンをバリエーション化したキャラクターを出すことを物語よりも優先させた作品を制作すること。なおかつそうした作品が広範な支持を得ること。「物語」の空洞化(下位規範化)。

 に分けることができるだろう。1は早くから存在していたが、90年代後半になって2が顕在化したことが「萌え」現象と呼ばれる形で浮上する大きな原因になっている、というところなのではないだろうか。

 その過程を私なりに整理して考えてみることにしよう。

 

    (注1)中国共産党主席だった毛沢東が一九六六年八月に「人民日報」に掲載した文章「司令部を砲撃せよ 私の大字報」のこと。(中国語のタイトルは「炮打司令部--我的一張大字報」。人によって「司令部を砲撃しよう」だったり、「大字報」を意訳して「私の壁新聞」だったり訳題にはバリエーションがある。)この文章は、毛沢東が当時中国の政権を支配していた「実権派」と呼ばれる勢力(その中にはケ小平も含まれる)の打倒を公然と呼びかけ、「文化大革命」を全面化する契機になった。

 

    (注2)毛沢東の死後、中国の指導者となったケ小平の言葉「白い猫でも黒い猫でもネズミを捕るのがよい猫だ」。ブルジョアかプロレタリアートかといった出身を問わず仕事ができる者、稼げる者が評価されるべきだという比喩で、政治原則より経済性を重んじたプラグマティックな思考とされる。ただしこの発言自体は文化大革命の前のものである。

 

 

 そもそもの発端

 

 アニメの受容史をひもとくと、アニメファンがキャラクターを性的な対象として認知したのは実は女性の方が早かった。中高生以上のファン活動が最初に行われたとされるのは、一九七二年に放映されたテレビアニメ『海のトリトン』(プロデューサー西崎義展・監督富野喜幸)である。その中心は主人公のトリトンに魅せられた女性ファンだった。この作品は「善悪の価値の相対化」や、「自分に負わされた使命になかなか従おうとしない主人公」など、内容面でアニメ史に残るものでもあった。そうした要素に加えて、子役だった塩屋翼の演じたトリトンの姿が女性ファンを魅了したわけである。このへん、当時私はまだ「普通のアニメの視聴者」つまり小学生だったので、後年アニメファンになってから眺めた印象とウェブ等の文献から拾った記述である。

 これに続き、一九七〇年代後半に長浜忠夫監督のロボットアニメ(『超電磁ロボコンバトラーV』『超電磁マシーンボルテスV』他)において、美形悪役と呼ばれるキャラクターが女性ファンの人気を博することになる。(その源流は一九七五年の『勇者ライディーン』〜当初富野喜幸が監督、中途で長浜忠夫に交代〜のプリンス・シャーキンとされる) じゃ男性はどうしていたのか、というと、興味関心はどちらかといえば設定やメカニックといった方面が中心で、性的な対象としてキャラクターが上がってくることは一歩遅れていた。(『コンバトラーV』の南原ちづるなどは当時の人気女性キャラだったが、それが単体でファンサイドを動かすということはなかった)この時代を代表した女性キャラクターは、アニメブームの発端である『宇宙戦艦ヤマト』以下の「松本(零士)キャラ」であった。「松本美女」はアニメブーム初期のヒロインとして広く人気を集めたが、のちの「萌え」キャラ的な要素は少ない。よく知られているように、松本キャラのイメージには「母性」が強く出ており、男性ファンにとって「愛玩する対象」として機能する面があまりなかったのである。

 

 

 宮崎駿の出現

 

 だが、一人の人物がここで大きな役割を果たすことになる。今やアカデミー賞作家となった宮崎駿その人だ。

 宮崎駿は一九七八年に初監督のテレビアニメ『未来少年コナン』を、翌年に初監督映画となる『ルパン三世・カリオストロの城』を発表する。当時のアニメファンの主流からはなかなか認知されなかったものの、いわゆる東映・名作系を愛好する(かなりまじめな)アニメファンからは高い支持を集めることになった。その過程で、この二つの作品に登場するヒロイン(ラナ・クラリス)が次第に男性ファンの性的な対象として認知されるようになっていく。

 それ以前から、東映の名作とされる『どうぶつ宝島』やその流れをくむ『パンダコパンダ』は、そうしたまじめなファンによって上映会が開かれ、「良心的な傑作」として評価されてきた側面はあった。それらの作品のヒロイン(その造形には宮崎駿も関わっている)もそれらのファンの間ではひそかに人気を集めてはいたものの、これまた単体でムーブメントを作るほどではなかった。ただ、そうした上映会で「まじめな作品鑑賞」として作品を見る過程で、それらの作品のヒロインにひかれていくファンも少なからず生み出されていたとはいえるんじゃないだろうか。ここら辺も「状況」からの推測なんだけど。それらの先に、ラナ・クラリスブームが起こったわけである。

 宮崎駿の側にすれば、自分の描きたい物語のヒロイン像を単に造り出したに過ぎない。当時37〜8歳(蛇足だが今の私とほぼ同年代。そう考えるとすごいなぁ)で初めて監督という立場につき、「冒険活劇」を作り、それにふさわしい主人公の連れ添いなり、お姫様なりというキャラクターを設定した以上のことはなかったはずなのだ。

 にもかかわらず、この二人のキャラクターは、宮崎駿に「男性ファンに人気の美少女キャラ生みの親」という、本人としては不本意な呼ばれ方をもたらしてしまった。当然、宮崎駿はそれに強く反発した。当時のインタビューでも、自身が若い頃旧ソ連のアニメ映画『雪の女王』のヒロインが好きだったということを披露しながら、「でもそれは今のファンがラナやクラリスが好きだというのは違うんです」と突き放している。このあたり、頭ごなしに「そんな愛情はおかしい」と否定するんじゃなくて「俺もアニメキャラに引かれたことはあるけど、今の連中のやっているのとは違うよ」というあたり、少々底意地が悪い。

 とはいえ、宮崎ヒロインが、ファンの間に眠っていた潜在的な願望を刺激する要素を伴っていたのもまた一面の事実である。「お姫様」であることは保護欲をくすぐり、同時に芯の強い面が母性を想起させることから、その両方を満たす存在として強くアピールしたということができる。

 宮崎駿は以降、クラリスやラナで男性ファンたちを引き寄せた要素を、少しずつ「裏切る」ようなキャラクターを描いていく。クラリスやラナを一部で「ウンチもオシッコもしない美少女」と評されたことがおそらく相当気になっていたのだろう。

 『ナウシカ』では激情に駆られて人を傷つけることも厭わない主人公を出し、『ラピュタ』では自己犠牲的な結末(死なないけど)を選択させ、『魔女の宅急便』では用便をするシーン(便所から出てくるだけだが)を描いた。『となりのトトロ』の場合は「ごく普通の女の子」以上でも以下でもない少女がヒロイン(といっていいのか?)である。「愛玩される要素の切り捨て」は『もののけ姫』のサンに至って頂点に達したともいえる。ここでは男性どころか人間にすら妥協しない少女が出てくる。

 しかし、その一方で「少女」を登場させることをやめない宮崎駿がいる。「国際線に乗る中年ビジネスマン」をもともとのターゲットとして作られ、「大人の作品」であるはずの『紅の豚』にまで少女は出てくるのである。前述したサンや『千と千尋の神隠し』の主人公である千尋を「萌え」の対象とするファンはあまり多くはいないだろう。ただ、千尋の描き方は、明らかに過去の宮崎作品の描写からエッセンスを受け継いでおり、なおかつそれを「一般大衆」(いわゆるアニメファンでない層)が見て、セクシャルだと思わせない程度にアレンジしているように思われる。

 変な話だが、今日「萌え」ファンたちが安心して「萌え」キャラたちに没入していられるのは、一方で(現在の)宮崎作品がアニメの社会的評価というものの担保になってくれているから、ということもできるのではないだろうか。なおかつ、それがまったく「異質」なアニメーション作家ではなくて、その昔そうしたムーブメントの一端を担った人物の作品であれば、なおのことである。

 宮崎駿が「萌え」ムーブメントにもたらした影響はそれに止まらない。その当時、今の「萌え」に当たる言葉は「コン」だった。「コンプレックス」の略で、キャラクターの名前のあとに「コン」を付けて使われていた。ラナなら「ラナコン」である。そのおおもとは「ロリコン」であり、この言葉をアニメファンの間に広める一端を担ったのは、ほかならぬ『カリオストロの城』であった。(注3)

 

    (注3)クライマックスのカリオストロ伯爵とルパンの対決で、ルパンが「妬かない、妬かない、ロリコン伯爵!」と叫ぶセリフがある。

 

 

  DAICONオープニングアニメ

 

 こうした宮崎キャラの「発見」と、吾妻ひでおの一連の作品の出現が「アニメ顔の美少女」が性的欲望を喚起しうるということを、広く男性アニメファンに認識づけることになった。かくしていわゆる「ロリコンブーム」が一九八一年に起こる。この余波として、たとえば4年も前に放映されたごく普通の少女アニメだった『女王陛下のプティアンジェ』(一九七七年)が、吾妻ひでおが繰り返し取り上げて描いた結果、突如として人気が出る、などというような現象も起きた。やがてはロリコンマンガの専門雑誌として『レモンピープル』が創刊(一九八二年)されるに至る。

 その同じ一九八一年のSF大会(DAICONV)で制作された「オープニングアニメ」についても語る必要があろう。この「DAICONV オープニングアニメ」が与えた衝撃は、近年の作品にたとえれば『ほしのこえ』に匹敵する、いやそれ以上だったといってもいいかもしれない。それは、大学生を中心としたアマチュア集団がここまでの作品を作るという驚きと、漠然と多くの若いSFファンが見たいと思っていた映像をためらいなく作ってみせた潔さへの賞賛だった。

 さて、この作品において「萌え」と関わる重要なポイントが一つある。それは、この作品の主人公が「小学生の女の子」とされていたことだ。男性比率の多いSF大会であるから主人公が女性というのはおかしなことではない。しかし、「小学生の女の子」が主人公である必然性も、おそらくない。別に成人女性でも少年でも、「水を運んで届ける」というこの作品のストーリーを成立させる上で支障はなかったはずである。

 オープニングアニメという性格上「物語」と呼べるものがほとんどなかったのは無理からぬこととはいえ、「物語がなくてもキャラクターとメカ描写だけでフィルムを作ることができる」ということを、実作をもって示してみせたことも指摘しておいていいかもしれない。

 ほぼ同じスタッフによって2年後のSF大会で、さらにグレードアップされたオープニングアニメが制作される。主人公の少女は発育したバニーガールへと成長していた。

 このあと、これらの作品のメインスタッフによってガイナックスが設立され、アニメ界にさまざまな足跡を記していくことになるが、その初期の2つの作品に、東氏が指摘するような「萌え」現象と関わる事象を見いだすことができる。

 一つはガイナックスのまさにデビュー作となった『王立宇宙軍』(一九八七年)である。

 見たところ『王立宇宙軍』は「萌え」要素を極力排除して作られた作品のように見える。ヒロインの造形一つとっても、同じ人物(貞本義行)がデザインした『ふしぎの海のナディア』と比べるとその違いは明らかであろう。小さめの目、団子鼻、ボディラインの見えない衣装。おまけに宗教に深く帰依するあまり、他人の価値観を受け入れようとしない性格の持ち主である。シロツグによる強姦未遂シーン(上半身裸の姿が描かれる)も、彼女のセクシャルな側面よりは、シロツグの持つ(青年らしい)欲望を描くことが主眼であった。大体、ガイナックスのメンバーが、DAICON オープニングアニメの女の子を主人公にした商業作品を作れば受けることはわかっていながら、それでは何も新しいものがない、という理由で却下し、あえて選んだ企画が『王立』なのだ。

 しかし、もう一つの「物語」のレベルにおいては、東氏が指摘する「ポストモダン」的な特徴を、この『王立宇宙軍』はすでに備えていた。

 東氏はこう書いている。

    「(「大きな物語」を持つ近代小説に)対してポストモダンのノベルゲームにおいては、主人公の小さな物語は意味づけられることがない。それぞれの物語はデータベースから抽出された有限の要素が偶然の選択で選ばれ、組み合わされて作られたシミュラークルにすぎない。したがって、それはいくらでも再現可能だが、見方を変えれば、ひと振りのサイコロの結果が偶然かつ必然であるという意味において、やはり必然であり、再現不可能だと言うこともできる」(『動物化するポストモダン』124ページ)

 

 正直なところ、私はこの部分を読んだときに昔自分が書いた文章を思い出していた。もうずいぶん前に私はこのWWF(No12)に『王立宇宙軍という映画』という文章を発表した。その中で、私はこう書いた。

    「つまり、シロツグが志願しなくても別の誰かによる有人宇宙飛行はありえたかもしれない。ただし、その場合シロツグを飛行士(=主人公)とした「物語」は存在しなかったし、われわれが今見ているこの『王立宇宙軍』という映画もまた別の映画になっていたはずである。」

「詳細な設定と、細密な描写がもたらした「自我」の氾濫は、「物語」がなくとも自立してしまうほどの「世界」を生み出した。そこでは「物語」が「世界」を語るのではなく、「世界」から「物語」が出てくる。それは一つとは限らない。その一つが「宇宙軍がロケットを作り、シロツグが飛行士になって宇宙に行く」という「物語」なのだ。シロツグ以外の誰かでも主人公になり得る。つまり、「物語」はここでは絶対的なものではない。しかし「シロツグが主人公の物語」は一つしかなく、それはまぎれもなく「物語」である。」

 ゲームと違い映画には基本的に一つのプロットしか用意されていない。したがって、「シロツグが主人公ではない『王立宇宙軍』」というものはあくまで視聴者の想像上の産物に止まる。とはいえ、『王立宇宙軍』という作品が、それまでの多くのアニメ作品に比べて主人公のアイデンティティーがはるかに希薄であり、「別のプロット」の存在を予感させるような性格を備えていたことは確かである。この点については上記拙文にも書いたので繰り返さない。同時に、『王立宇宙軍』はシロツグが主人公であるというその点に、物語としてのオリジナリティの大半を負った構造の作品でもあった。

 『王立宇宙軍』は映画であり。映画的表現の一環として、「物語」のありように修正を加えた作品だった、というのが拙文での立場である。その意味では、ノベルゲームのありようを「大きな物語の消滅」と捉えた東氏とは必ずしも同じではない。ただ、それが偶然にも?のちのノベルゲームに通じるような構造を持っていたことは何を意味するのだろうか。

 映像の持つ本来の力によって「物語」が希薄化し、映画のスタイルにあった「物語」が作られていく。その可能性がやがてはキャラクターに小さな物語を付与して感情移入の材料とする作品を産むに至った、と仮に考えてみることにしよう。

 ガイナックス初のテレビアニメ『ふしぎの海のナディア』(一九九〇年)は『王立宇宙軍』とは対照的にいわゆる「萌え」要素をふんだんに盛り込んだ作品だった。主人公であるナディアは露出の大きな衣装を身にまとい、あきらかな美少女キャラクターとして設定された。(ちなみに初期設定ではナディアはあからさまに黒人の特徴を持っており、一部制作陣が意図した「人種差別」へのこだわりが出たデザインだった)彼女のエキセントリックな性格は、実は監督である庵野秀明の個人的な側面と密接なつながりを持つことがのちに明らかになるが、そうした側面すらも人気を盛り上げる機能を果たした。

 その一方で庵野秀明以下のガイナックスのスタッフは、『ナディア』にまじめなメッセージとストーリーを入れることに腐心した。たとえば人の生と死にまつわる描写であったり、「大人」と「子ども」の世界の違い、文明の価値といったテーマにまつわる描写である。

 しかし、同人誌即売会にあふれた『ナディア』同人誌は結局そうしたテーマにはほとんど反応せず、もっぱら「萌えキャラ」としてのナディアを「料理」することに精力を注いでいた。(いわゆる「健全本」でも)そして、『ナディア』終了後一年と経たずに同人誌は激減した。そのことを(『ナディア』のテーマ面に強く反応した)私などはいぶかる思いで眺めていたのだけれど、東氏の言うような「物語」に反応せずもっぱらキャラクターを味わうための媒介としてしか作品を見ない、というファンがすでに存在していたと考えれば納得も行く。東氏は『エヴァンゲリオン』を使ってそういうファンの存在を説明しているけれど、その前の『ナディア』の段階からその傾向はあったのだ。

 もっともそういう傾向を生んだ別の背景としては、『ナディア』が「まじめなテーマ」とほぼ同じくらいの割合で先行作品へのオマージュやパロディを含んでいたという事情がある。さらに、制作体制への配慮から、いわゆる「島編」と呼ばれるパートを挟んだことで、ストーリーの流れがいささかいびつな形となり、ファンの間に「ストーリーやテーマを語ってもしょうがない」という意識を生じさせたという側面も指摘できる。

 ある意味、ガイナックスという制作会社はアニメファンの意識と添い寝するような形で事業を展開してきたともいえるので、アニメ界全体の動きを先取りするように『ナディア』においてそうした現象が出たといえるかもしれない。

 

 

 ガンダムの変容

 

 『動物化するポストモダン』の中で東氏は『エヴァンゲリオン』を『ガンダム』と対比させて、「物語」というものの持つ意味が両者で異なる(『エヴァンゲリオン』のそれが「ポストモダン」的な特徴ということになるのだろう)ことを指摘している。(『動物化するポストモダン』54ページ以下)

 年代から見て東氏は『ガンダム』シリーズをある程度まではリアルタイムで視聴したと思しいし、『Zガンダム』『ガンダムZZ』『逆襲のシャア』(本文中での東氏が、年代順とは異なる『Z』『逆シャア』『ZZ』という順番で列記しているのが少し気になるが、それはおいといて)と具体的なタイトルをあげて書いていることからも、これらの作品について知識を持った上でこの比較を行っていると考えられる。東氏が主に『ガンダム』として想定しているのがいわゆる「ファーストガンダム」であることもある程度読みとれる。それを承知した上で、少し私なりの追加を施しておきたい。

 『ガンダム』という作品へのファンの関心が、作中の世界観や歴史(「偽史」と東氏は書くが)に大きく向かっていたという指摘は大筋では間違ってはいないだろう。『ガンダム』には後のアニメに見られるような「キャラ萌え」的な設定のキャラクターはいない。『ガンダム』でもっとも人気のあった女性キャラクターはセイラ・マスであった。彼女は「お姫様」と呼ぶべき位置にいたが、男性に媚びるタイプのキャラクターではなかった。主人公の「幼なじみ」そのものといってよいフラウ・ボウにしろ、宝塚の男役的な性格をまとったマチルダ・アジャンにしてもそうである。これは総監督である富野喜幸(由悠季)がいわゆる「オタク」な視聴者をずっと嫌い続けてきたことや、同じく彼のいささか時代錯誤な面もある男女観(すでにいくつかの論者の指摘がある)とも関わっているといえよう。実際、(制作会社・サンライズで彼が監督をした)『無敵超人ザンボット3』(一九七七年)から『重戦機エルガイム』(一九八四年)に至る作品の中で、ローティーンの少女をメインキャラに据えた作品は、最初の『ザンボット3』(神北恵子)くらいで、あとはほぼハイティーンかそれ以上なのである。『伝説巨神イデオン』(一九八〇年)のイムホフ・カーシャもローティーンか……と思ったら17歳らしい。もう一人(というよりこの作品も『ガンダム』同様「ヒロイン」がいっぱいいるのだが)のヒロインであるカララ・アジバに至っては作中で妊娠までしてしまう。

 しかし、『ガンダム』の続編である『Zガンダム』『ガンダムZZ』(一九八五〜八七年)においては事情が少し異なるようにみえる。これらの作品も女性キャラクターが非常に多いのだけれど、その中にいる「強化人間」という種類のメンバーが問題である。この「強化人間」というのは、ファーストガンダムで語られた「ニュータイプ」と関係がある。ファーストガンダムでのニュータイプはさまざまな可能性を持った曖昧な存在として描かれた。卑近な言い方をすれば、本来は「なぜただの少年であるアムロがガンダムを操って職業軍人を打ち負かすことができるのか」という説明のためのギミックなのだが、それだけでは実も蓋もないので、そうした不明確かつテーマとつながる部分を残すことで作品の中に無理なく埋め込もうとした設定といえる。ただ、作中におけるその描写は(アムロとララァやシャアとの間での対話とラストでのアムロの「脱出」を除けば)、シャアが語った通りほとんど「戦争の道具」でしかない。そして、生粋のニュータイプを見つけ出す手間を省くために、素質のある人間を人工的な手段(薬物や心理操作)によって疑似ニュータイプに仕立てたものが「強化人間」というわけである。

 で、なぜかこの強化人間は女性、それも少女の方が多い。その強化人間たちは「人工的な手段」の副作用として、記憶喪失や性格の不安定さを持つ(『ガンダムZZ』では必ずしもあてはまらないようだが)。「あいつを倒せ」と命じられることで主人公を殺そうともする。つまり主体性を制限されたキャラクターとして「操られて」戦争をしているのだ。このあたりはファーストガンダムでのララァが自らの信念に従ってアムロを倒そうとしたこととは対照的である。

 『Zガンダム』の「強化人間」の一人であるフォウ・ムラサメはそうした特徴をもっともよくあらわしている。主人公であるカミーユ(一応ニュータイプらしい)は敵であるこのフォウと精神的に交感し、その一方で自分に敵対することにとまどう。最終的に彼女はカミーユを守るために犠牲となって死ぬ。ストーリー上は彼女の死はララァの悲劇の再生産でしかない。しかし、キャラクターとしての描かれ方という面では両者は大きく違っていた。ちなみにフォウ・ムラサメという名前は、彼女が強化人間にされた研究所(ムラサメ研究所)の4番目の強化人間という「識別番号」でしかなく、この点でも彼女は人格を制限された存在として扱われている。

 それでもフォウはまだ「少女」とはいってもハイティーンの範疇(作中の設定では年齢も不詳)に入るキャラクターだった。しかし続く『ガンダムZZ』に登場する強化人間であるエルピー・プルはローティーン、もしくは幼女と言い切ってもよいデザインとメンタリティの持ち主として登場する。その名前が前出の「レモンピープル」(Lピープルと略称された)から取られた、という憶測までささやかれたものである。

 彼女のエピソードにはフォウのような心理的なぶれはない。しかし、途中で彼女のクローンのキャラクター(プルツーという名前)が出現し、彼女はその自らのクローンと対決するが敗北して命を絶たれてしまう。

 特筆すべきは、フォウやプルはいずれもシリーズの中盤で姿を消してしまったにもかかわらず、作中でもっとも人気を集めるキャラクターとなり、当時のアニメ誌には彼女たちのエロチックなポスターが付録に付いたりもした事実である。(ファーストガンダムのセイラにもそういう企画があったが、その方向性には微妙な違いがある)

 人格の制限やクローンといった要素は、ずっと後のゲームやアニメに登場する「萌えキャラ」にも頻出する設定である。『エヴァンゲリオン』の綾波レイにすら結びつけることは不可能ではない。ここで私はそうした設定の源流がこれらのガンダムシリーズにあったと言いたいわけではないし、そのための材料も持ち合わせていない。またこれらのキャラクターがどこまで富野由悠季のイニシアティブによって設定されたのか、という点は(東氏が例にひいている『機動戦艦ナデシコ』同様)明確にされていないといえる。

 ただ、これらのキャラクターが後の「萌え」につながる要素を含んでいたこと(それはファーストガンダムには見られないものだった)と、それが実際に当時の(男性)アニメファンに高い人気を得た事実は指摘しておいてよいだろう。

 つまり、「萌え」ムーブメントとは対照的な作品とされている『ガンダム』シリーズにおいても、この時期にはそうした要素にかかわるキャラクターが出ており、なおかつそれに反応するファンがいたということである。ガンダムファンには確かに作品の世界観や歴史に執着するファンが少なくないにせよ、そうしたファンだけで構成されているわけではない、ということも事実である。

 ちなみにずっと後に、富野由悠季による一連のシリーズとは別系統の作品として作られた『新機動戦記ガンダムW(ウィング)』(一九九五年)では、逆に女性ファンの「やおい」を誘発するようなキャラクター設定がなされていたことも付記しておこう。

 

 

 物語のない受容とは

 

 十分な検証とは言い難いが、九〇年代に入る以前からアニメファンの少なからぬ層に、キャラクターを性的な欲望の対象とする傾向があり、それが徐々に浸透していった過程をいくつかの作品をキーに眺めてきた。

 概括的に言えば、「萌え」という言葉の有無は別にして、アニメのキャラクターに性的な欲望を感じるファンがそれなりに昔からいた、ということではある。が、「物語やテーマ(世界観)を追うこと」と「キャラクターに萌えること」が相互流通的な関係にあり、多くの場合はそれを自分の中で何とか両立させていた、ということになるだろうか。

(「物語」に比重が置かれないギャグ系のアニメの場合は、早い時期からある程度後者にバイアスがかかる傾向があった。それが顕著になったのは『うる星やつら』(テレビシリーズは一九八一〜八六年)の出現以降だろう(女性キャラクターの場合は))

 『エヴァンゲリオン』の最終話で「綾波の日常」が出てきたことについて、東氏は「同人誌などで流通していたイメージの再生産」であると書いている。そのこと自体は事実だが、同時にこの話を含めたテレビシリーズの最終2話をめぐっては激烈な賛否両論(というよりは否の方が上回る)の反応が放映当時は巻き起こった。それは明らかに、ストーリー上での「大団円」を期待していたファンが、それとはまったく結びつかないコラージュのような作りと、キャラクター個人の心理的なトラウマの解消という次元でなされた「解決」に納得しなかったからにほかならない。つまり、そうしたファンにとって『エヴァンゲリオン』の物語は決して「萌えキャラ」に接するための入口ではなく、求められるべき対象だったということである。

 と書くと、読者の中には「ちょっと待て!」という人がいるはずだ。おまえはさっき『ナディア』の段階で「キャラ萌え」な作品受容をするファンがいたと書いたばかりではないか。なのに、それよりあとの『エヴァンゲリオン』では逆に「物語」を欲するファンが少なからずいたというのは矛盾するのではないか?

 これについては次のような説明が可能だろう。『ナディア』という作品はいびつな構成とはいえ、いわゆる「冒険活劇」という枠の中に収まる構造であり、ストーリー上の「謎」というものが視聴者の想像の範囲内で回収できるものであった。のちの『エヴァンゲリオン』では描写のメインともなる登場人物の内面にまつわる話は本編から離れた「島編」の中で完結させて、クライマックスにはほとんどつながっていないという「わかりやすい」手法も取られた。

 一方、『エヴァンゲリオン』は「わからない」こと自体をメインの柱に据えた。一つヒントを与えてはその一方で謎を増やしていくような描写を取ることで、多くの視聴者が「本当のところ」を知りたがることになった。

 たぶんこれが小説などの活字メディアだったとしたら、このような作品はできなかったろう。『エヴァンゲリオン』にしても、提示される画面の絵は決して難解な抽象画ではない。いわゆるテレビアニメの手法で構成された、わかりやすい絵である。だが、そうした「絵」をつなげてストーリーを作るという段階において、意図的にか偶然かはともかく、説明や描写を欠落させる(それもまた手法の一つである)ことによって、「謎」と呼べるものを増やしていった。「絵そのものは単純明快」という、アニメというメディアの持つ両義性は、謎だらけで難解な作品を美少女キャラを用いて描くこともまた一方で可能にしたわけである。

 また、放映終了当時にネットなどを通じて非難を行った視聴者は、パソコンなどを使える比較的高い年齢層のファンだったという点も指摘しておいていいだろう。東氏は「オタク」の「世代」による区分をある程度意識して説明をしているが、それに従えば、まだ「世界観」や「物語」の消費に執着を持つ世代が多かったということになる。

 やがて『エヴァンゲリオン』が世間的な話題を集めてからこの作品に接し始めた層には最初からいろんな情報がいわばすでにセットされた状態で与えられることになった。ストーリーや設定を通り越して、キャラクターそのものへと直に入り込むことが容易になった、ということもできる。

 東氏の言う「ポストモダン的な消費」のスタイルとしての「萌え」というのは、ある程度作品固有のファクターに左右されるのではないか?というのが私のいささか大雑把な印象だが、総体として「萌え」を明確な消費対象として認識した作品がこれ以降増えてきたことは私も否定はしない。そうした作品における「物語」とは詰まるところ「萌え」データベースを構成するための一要素に過ぎず、マグカップなどのキャラクターグッズともはや同列の存在である、というのが東氏の所論である。

 それだったらわざわざ「物語」などというものなんていらないじゃないか、とつっこみたくなるところだが、「物語」もまたそうした「要素」として不可欠なのだということになるのだろう。この辺、東氏の議論を相当私なりにアレンジしているので、ひょっとしたらはずれているのかもしれないが。

 このあたりの感覚は、アニメであろうと、どうしても「物語」を介してしか作品に入り込めない私にはなかなか実感しづらいのは確かである。この文章で検証しようと考えていて、時間の関係でやめにしたけど、私自身がキャラクターに入れ込んだ過去のケースというのは、並べてみるとやはり作中での位置づけとか感情移入とかなしには成り立たなかった。デザインの良さだけでキャラクターを好きになるという経験はついぞない。

 現在流通する「物語」がそうしたシミュラークルの一つとしてだけ受容されているのかどうか、私にはもう一つ判然としない。やはり私のように「物語」を媒介として作品に向き合うという層も(相対的に減ったとはいえ)まだ少なからずいるのではあるまいか。

 東氏が「オタク」と呼ぶ層に対してアンケートなどの調査を行い、サンプリングして意識を拾ったかどうかはわからない。本の中にそうしたデータが出てこない以上、おそらくそうではないのだろう。そしてまた私自身も自らと自分が見たことのあるコミックマーケットの参加者とか、過去のアニメ雑誌の読者などを想定しながらでしかものが言えない。これだけ大きな(十万単位)集団であるにもかかわらず(いやだからこそか)、おそらく「オタク」に対して社会科学的な統計調査が大規模に行われたことは、未だかつてないのではあるまいか。もちろん、自分の見ることのできる人々もサンプリングの対象にはなりうる。だが、アニメ好きにしろゲーム好きにしろ、その内部で細分化がこれだけ進み(それこそ「データベース化」の結果でもあるが)、そこから行動を最大公約数として取り出すということは、かなり難しいだろう。

 したがって、個人的には「物語」が喪失したことと、アニメ・ゲームファンの行動の相関を結論づけるにはまだ材料が不足しているような印象を受ける。もちろん、東氏がそうした問題意識を持って仮説を提示したこと自体は、(浅学な私にはとてもできることではない)大いに敬意を表したいと思う。

 

 

 データベースとシミュラークルの起源

 

 「物語」に代わって作品と消費者の関係を媒介するものがデータベースであり、そのアレンジメントであるシミュラークルだというのが東氏の論だ。確かにある要素を持ったキャラクターを作品横断的に見つけ出して欲望を満たすという行動様式には、合致する説明である。

 ただし私には一つ素朴な疑問がある。それは、誰がその「データベース」を決めるのか?という点が曖昧にされていることだ。その点について東氏はどのようなモデルを考えているのだろうか。一つ考えられるのは、多くの種類のデータが提示され、その中で多数の支持を勝ち得たデータだけが「萌え要素」としてデータベースに蓄積されていく、という「自然淘汰型」のスタイルである。確かに今日アニメやゲーム、コミックに登場するキャラクターは数多い。いろんな可能性を模索してその中から人気のあるものがその追従者を産み、データベースに付け加えられる、というのは一見わかりやすい説明ではある。

 しかし、それならばもっとそのデータが多様であってもよいのではないか、という疑問が起きる。同じようなアニメ顔のキャラクターや、幾種類かのパターンに収斂してしまうのでは「自然淘汰」と言い切れない部分が大きい。

 もう一つのモデルは「獲得形質遺伝型」のスタイルである。もちろん生物学的な遺伝がそうであるように、あとの世代が先天的にデータベースを知っていてアニメやゲームなどに接するなどということはありえない。どういうことかといえば、前の世代が作り手の側に回り、自らが蓄積したデータベースの引照によって次の作品を作ることによって、その受け手である次の世代が、自覚しないうちにそうしたデータベースを引き継いでいくというスタイルである。

 テレビアニメの放映が始まって40年、その半分くらいの段階からおそらくテレビアニメを見て育った層がアニメを作る側に回り始めた。(それがちょうど一九八〇年代のことである)その最も早い世代に属する庵野秀明も「自分たちの世代にはオリジナルというものがない」といった発言をしている。

 東氏は二次創作とオリジナルが区別が付かない状態をシミュラークルと捉え、それが「ポストモダン」な状況に合致していると説く。ここ数年にそれが加速したのは、同人誌印刷の進歩と価格破壊、さらにパソコンの普及とその機能の急速な向上したことが背景にあることはおそらく間違いないだろう。

 ただ、ファンが「作り手」に回るという段階に入ったときに、アニメ界にはすでにシミュラークル的な手法が導入されていたといってもよいのではないだろうか。その典型はガイナックスだが、もちろん彼らだけがそうした手法を使ったわけではない。

 こうしたいわば「感覚の伝承」によって、「萌え要素」などのデータベースが次の世代に受け継がれていくと考えた方がわかりやすい。加えて近年はCS放送の普及や、過去の作品の安価なパッケージ化(DVDなど)により、今の若い世代が自分が生まれるより前の作品に接することも決して難しくなくなっているという事情がある。ゲームの場合はその媒体としての特徴から、その流通や古い作品との接触はアニメ以上に容易である。

 それでも残る疑問はある。データベースを個々人が持つことは上のような説明ができるけれども、では新しい要素がデータベースに加わる場合、それは誰によって作られるものなのか。東氏は一例として綾波レイというキャラクターが「萌え要素」の規則そのものを変えてしまった、と書いている。だとすれば、従来そうしたキャラクター(の要素)は誰のデータベースにも存在しない、誰かのオリジナルなものとして存在したと考えなければ説明がつかないのではないだろうか。その部分の原理を知りたい、というのが私の正直な希望である。

 

 時間がもうなくなってしまった。

 

 最初に予定していた論旨の進め方からは相当にずれてしまったけれど、こうした問題意識自体は大事にしていきたいと私は思っている。「俗情」を「俗情」のレベルで語りながら、なおかつ抽象的な議論が入った論考というのはなかなかに難しい。しかし「萌え」という題材を扱うのであれば、なおのことそうしたアプローチに挑むべきだと私は思う。私の企ては残念ながらうまくいかなかったけれど。

(了)

 2003/08

 


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