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「萌え」の理論化を可能にする

複雑系心的システム仮説・精神分析版・試論

 

松本 晶


 文章の題名から予想されるわけはないだろうが? 私の興味は「萌え」の定義でもなく、「萌え」という現象が社会的に何を物語るかということでもない。知りたいことは、「萌え」なる言葉で表わされる、私と私と類似した指向の「オタク」たちが現在体験している感覚がどのようなものかという、本来は内省的で客観化できないことを言語化しようというのが本稿の試みである。その目的は無論、社会や現代の傾向を解明するためなどではなく、さらには学問的なことなどどうでもよくて、ただ自分のためだけに、自分の感情でありながらも移ろいやすく老いとともに忘れていってしまうであろうこの感覚を何とか文章として定着して保存させることであり、その一過程として、様々な言説を流用しているに過ぎない。このような極めて個人的に過ぎない動機のために、わざわざご大層な言説を捏ね繰り回すのは自慰行為以外の何物でもないことは初めに言っておいたほうがよいだろうが、それでも其の中に「私」というオタクの現状の記録という価値はあるかもしれず、もしかしたら万が一にも心的システムの「解明」の一助となれば、などと多少の己惚れを含んで文章を書いているのも、このような御大層な題名を付けてしまった以上、半ばやむを得ないであろう。

 ここでもし万が一、このような同人誌を読んでいるにも拘らず「萌え」なる用語を全く知らないか「体験」していない人は、やはり今をときめく東浩紀氏の『動物化するポストモダン』が最も適当な入門書となるであろう。また彼のウェッブサイトの文章「存在論的、広告的、キャラクター的」(http://www.t3.rim.or.jp/~hazuma/texts/character.html)などは、著書よりもむしろ面白い文章を書いておられるので、少々引用させていただこうかと思う。

 

 複製技術の時代が到来するまでは、世界はオリジナルなものに満ちていたわけです。オリジナルからはオーラがブンブン来てますから、それで安心して人は生きていけた。けれどいまや、世界はコピーだらけになってしまった。シミュラークルだらけになった。そういう認識が一気に広まったのは、日本では1980年代ですね。もはやすべてがニセモノなのだから、もう本物は探さないでいいんだ、ということになった。しかし、逆に1990年代は、そんなアイロニカルな態度では人は生きていけないということが、いろいろな社会矛盾を通して明らかになった時代だと思うんです。だから、ひとは、トロがコピーに過ぎないとわかっていても、それでも彼(?)にオーラを持たせなくてはならない。そういう切実な必要が、キャラクター文化の基礎にはある。

(中略)

 しかし実際には、すべてがオーラのない等価なものになったときにこそ、人はそこに自分なりの価値をつけなければ生きていけない。もはやオリジナルとコピーの境が壊れてしまったからこそ、目の前のシミュラークルのなかに、強引に「オリジナルっぽいもの」を見つけ、自分なりの感情の段差をつけていくしかない。だから、いまの私たちが直面しているのは、例えばつぎのような問題です。目の前に、手で触れられる肉親(現実)、テレビのなかのタレント(遠い現実)、コンピュータ画面のなかのゲームのキャラクター(虚構)がいたとして、その三者にどのような感情移入の差異をつけるのか。このような問題は、現実と虚構の境界がはっきりしていた時代にはありえなかった。そしてそのとき、ひとによっては、キャラクターが第一で、肉親は最後に来るひともいるのかもしれないわけです。それはもう、現実も虚構もすべて同じ平面のうえにおいて、別の基準で扱う別の世界観だと思います。そしてそのなかで、「キャラが立ってる」というのは、いわば、感情移入の順位を表す言葉なわけですね。家族でも「キャラが立って」いなければ、コンピュータのプログラムよりも感情移入度で劣位に来てしまう。つまりキャラクターとは、シミュラークルばかりの世界に感情移入のポイントを作るための、一種のフックなのです。トロやキティちゃんを手がかりにして、ひとははじめて世界と感情的な関係をもつことができる。「存在論的、広告的、キャラクター的」より引用

 

 なるほど、このような事態が一部の人たちに生じている可能性は否定しない。しかしそれは現代に限った話ではなく、所謂豊かな生を生きられない「実体論」者の認識そのもので、オタクや萌えの本質ではないとワタシは断言する。結論というか今回の文章のスタンスを明らかにすれば、もともと「オリジナル」などというものは初めから存在していない。ラカンの言う「現実界」よりも、また哲学者の言う「実体」よりも、もともとにおいて存在していない。例えば複製時代以前の絵画を考えてみよう。確かにそれはオリジナルのオーラに溢れているかもしれない。しかしそのオーラの元と何か?歴史的価値?唯一無二?金銭的価値?確かにそれらに「オーラ」を感じる人々は多いだろうし、そのお宝探偵団的価値観以外にはモノに何の価値をも見出せない人が殆どなのかもしれない。しかしその絵画の「本質」はそんなところにあるのだろうか?オリジナルとはそんな意味であるのか。実はオリジナルであることは、単に複製の精度が少しでも低い場合にはオーラが極端に、非線形的に減少してしまうというようなその「モノ」自体の精密さ微妙さ、実は後にこれが複雑系における初期値に対する鋭敏性と等価であることを示そうとおもうが、そのような意味でしかない。鑑賞者が受ける「刺激」が全く等しいときに、そこにはオリジナルもコピーも存在しない。これは唯我論ではない。その絵画から受ける一連の視覚刺激から始まり観る者の心的体制・自我体制に「揺さぶり」を与えることにこそ、その鑑賞物の「存在」はあるのではないか?それはたとえ複製が幾らでも可能な今日においても同様である。人はそんなに簡単には変われないのだよアムロ。これをロマンティシズムと笑うなら笑うがよい。しかし再び断言しよう。キャラクターは世界のフックなどではない。いや、初めからそれがコピーであろうがオリジナルであろうが、それにナイーブに揺れ動かされてしまう態度こそが、「萌え」の正反対にくる、実体論的な「弱さ」に過ぎないとワタシは「信じて」いるわけである。

 

 とにかく、この文章では「萌え」の詳細や定義を突き詰めるのは目的ではないのだが、様々な著書、文章、ネット上のコンテンツでも「萌え」について色々と定義の試みなが為されていて、一見説得力のありそうな話しが述べられていたりするのだが、しかしそれでもそこで語られているのは、萌えが単なるリビドーやエロスの現代的かつオタク的形態であるという説明が多いようである。そしてその論のキモは、先ほど挙げた東氏の言説を下手に「コピー」したような印象を受けるのだが、それらを総じて言えば、やはりシュミラークルを消費するために「仕方なく」萌えという感情を掻き立てている、という結論が多いのではないかと思われる。確かにそれは随分とベタなオチではあるが、実はもしかしたら大多数の人にとっては当たっている解釈なのかもしれない。世の中、意外と単純すぎることのほうが本質をついていることも多々ある。しかし繰り返すが、少なくとも私にとってそれは「萌え」に関する現象の一側面に過ぎず、そのような要約は還元主義的な本質の切り落としであり、またそれならば「萌え」を巡る現象にこれ以上付き合う必要もないだろう。そしてそれは萌えを単なるエロに転落させたくないという私の思い込みであるかもしれないが、それ以上の言説にワタシを掻き立てるのは次のような非論理的な確信である。つまり萌えとカワイサやエロとが直結するわけでないことは、幾分内省的にオタク的素養のある方々が自分の心を見てみればすぐに分かることなので(と言い切るが)、エロではなく「萌え」という用語を使用するわけなのだが、ではその差を生み出すものには何かがあるはずである。しかしそれを言葉で語ることは難しい。

 

 したがってまず「萌え」という用語がここまでオタクの人口に膾炙されているのは何故かということについて考えてみよう。それはこの用語が、未だ言葉では括りきれない或る現象をすっきりと「理解」させるだけの概念を含んでいるからであり、好きだの愛しいだのカワイイだのエロいだのという言語では括れない感覚が喉元まで出かかっていたのを見事に体現した用語だったからであろう。だがそんなことだけならば、既に様々な人たちによって指摘されているし、第一言われるまでもなく、我らオタクはその感覚をまさに実感しているのである。では「萌え」とは一体どんな感覚を体現しているのであろう?それまでは何か言語化できないような理由があったのであろうか?

 

 萌えに関して自説を初めに述べてしまってもよいのだが、それではあんまし面白くはならないので、まず最近のオタク論、萌え論の雄、論理の水準点として東浩紀氏の論を(誤解もあるかもしれないが)検証してみよう。彼の著書『動物化するポストモダン』で述べていることを簡単にまとめてしまうと、オタクは90年代に入ってからはそれ以前のように物語りを消費することすら必要としなくなり、様々な作品の映像や音声のデータベースから萌え的要素を参照することだけがその行動様式の大半になりつつあるというポストモダン的状況が生じていることを「動物化」と称して述べており(もう半分に形骸化した物語を反復する云々という「二重構造とか書いているが意味不明」)、その例として「デ・ジ・キャラット」、通称?「でじこ」などを挙げている。学の無い私は「動物化」という用語は東氏の創作だと思っていたのだが、実は正式な?哲学用語であるらしくて、そのことを心優しい清瀬氏が教えてくれたところによれば、「動物化」というのはコジェーヴという哲学者がヘーゲル哲学読解の中で持ち出した議論で、環境に違和感を感じて働きかけていくのが「人間」であり、環境に何の疑問も持たずに順応するのは「動物」だということだそうである。まあ定義上の問題とはいえ、正直バッカジャネーノ的な分類の仕方な上に、これ自体がかなりキリスト教文化圏的だと清瀬氏もおっしゃっている通りで、今思いついたのだが、前者はオタク的、後者はDQN的と命名したほうがイイのではないかというのは実はかなり本気なのであるが、へーげる奥田氏の命名、「昆虫化」がイチバンとは思うのだが、何だか本論と外れてくるのでパスしておこう。

 

 では東氏の言うところの「オタクは90年代に入り動物化してきた」ということの根拠なのだが、たとえば件のでじこであるが、彼の主張を平たく言ってしまうと、グリグリ目、ネコ耳、メイド服、等の既存の萌え的要素に溢れており、オタクはそれに「動物的」に反応している云々、ということである。しかしこれは果たして「正しくて」「有用な」状況論なのだろうか?

 

 真正面から反論すると身も蓋も無いのだが、ではなぜそれのような「記号」の群れが萌え要素となるかを彼は全く説明してないので、萌え論関係のないこと(根拠はないからこそ動物的反応だというのかもしれないが)とも言ってしまえるのだが、その前にまずしょーもない事実から述べると、でじこが実際にオタクたちの萌えの対象なっているかは大いに疑問で、むしろ東氏の萌え理論の反例とすら成り得るキャラなのではないかと思われるからである。ちなみに私もでじこを萌えの対象として見ているかと言うと、全然そんなことはない。

 理由を述べよう。まずしょーもない傍証から。例えば「デジキャラット+萌え」を最もメジャーな検索エンジンのGoogleで検索してみると、2820件ヒットするのに対して、遥かにマイナーながらも?シナリオ萌えゲームとしての古典である「Kanon+萌え」ではその約10倍の27200件がヒットする(2003年6月現在)。まあこれは色々な要素が絡まった話だからあんまり参考にはならないが、データ好きな人のために念のために。傍証二つめ。東氏はでじこの誕生について、「「生意気でうかつ」という性格が加えられているが、この設定も最初から用意されていたものではなく、アニメ化に際して半ば自己パロディ的に加えられたものだ」と語っているが、これまた清瀬氏から指摘された事実として「『デ・ジ・キャラット』でのでじこの「生意気でうかつ」という性格は、(原作者の)コゲどんぼ先生が『げまげま』の連載を始めた初期から存在し、けっしてアニメ化に際してつけ加えられた性格ではない。」という「事実」が存在する。また東氏は『デ・ジ・キャラット』の展開は、「特定の作家や制作会社が制御しているものではない」としているが、『デ・ジ・キャラット』の主要キャラクターやその性格はコゲどんぼ先生が作り(他の「作家」がつけ加えたキャラクターとしては「ぶきみコンビ」や「あばれん坊」「甘えん坊」などがあるが)、基本的にブロッコリーがかなり厳密に二次創作が生じてこないように制御している。ブロッコリーの統制は他の版権モノよりも遥かにキビしくて、それは集英社のそれとタメを張るほどの意地悪さでパロディの氾濫を防ごうかとしている様に感じられる。

 

 このような「事実誤認」に関して、彼自身も濃いオタクではないからよく間違ってしまう、それどころかそのような瑣末にこだわるのは木を見て森を見ない議論だ、等のことを述べているのだが、ではこれも単に彼がでじこの細かい設定とかを知らない薄いオタクだからだと言うことだけで、論旨としては正しい、あるいは有用なのであろうか。私の考えでは、これには単なる事実誤認でも瑣末な議論でもなく、事実を無視してまで彼の自説を通そうとしている東氏の態度が見え隠れしているように思われる。その自説とはこの著書のその後に展開されるオタクの心性の「データベースと表層のシュミラークルの二層」理論である。その話題に入る前に、彼がオタク作品をどう考えているかを知る幾つかの対談がある。彼は大塚英志氏との対談でオタクの萌えについて、原作者を含めた作り手の「作家性」の存在を頑なに否定しようとする。要は萌えがある要素の組み合わせに過ぎない、ポストモダン的状況下におけるオタク的作品の作家性など幻想だと主張して憚らない。大塚氏はそれに対して否を主張し珍しく私と気が合うわけだが、その根拠を彼が主張できないでいるのは半ば止むを得ないだろう。

 

 早めに結論を言ってしまうと、東氏はオタクの跋扈する現代の日本のオタクの風景をポストモダン的状況と称しているが、ポストモダンてえのが何だかをウヤムヤにしつつ言えば、彼の言う内容は(私たちの現実がどうかはさておき)ポストモダン的ではなくむしろ還元主義的近代的言説、良く言っても構造主義的といえるのではないかと思っている。ボードリヤールだかベンヤミンだか知らないが、複製だのシュミラークルだのをやたらに言い立てるのはオリジナルに対する単なる郷愁であると断定してしまおう。いやもしかしたら私が勝手にポストモダンということに過剰な期待を抱いているだけなのかもしれないが、萌え要素のデータベースを、無根拠ない差異の戯れと重ね合わせて理解しようとしているようにも見える??東氏の試みは、哲学プロパーの用語で本当にそれをポストモダンと言うとすればその概念自体が古めかしいし、もし正しくても、少なくとも「萌え」とオタクを理解するツールとしては有用でなく実り多くもないと思う。

 例えば彼はポストモダンのひとつとして複雑系を口にするが、複雑系におけるカオスと萌えが関連するとすれば(私の理解もかなり怪しいが)その候補としては、この萌えデータベースという限局された決定論的システムから導かれる非決定性や、単純ながらも「非線形的」モデルにおける単純さが生み出す複雑さ、予想不能性であると考える。例えばベタに言ってしまえば次のような「事実」である。つまり萌えキャラの顔ひとつ描くのに東氏の指摘によれば萌え要素を用い合わせれば造作もないことのように思える。なんとなればその要素としては誰でも指摘できるようなグリグリ目、小っちゃい口、あるかないかの鼻と顎等、といったもので、その「文法」はほぼ決まりきってはいるのだそうだから、それを適当に(適正に?)組み合わせれば、あっという間に萌え絵の出来上がりとなりそうなものだろう。しかし現実を見るがよい、例えばCHINAMIとかゲームのキャラクターを見るが良い(でもオタク的素養の無い人には全て同じに見えるかもしれないが>実際に村生ミオの絵とかがカワイイと言う「フツーのおっさん」とかは意外に多い)。そのパーツそれ自体の僅かな差異や、それらパーツの位置関係の僅かな差が全体の萌えの雰囲気に如何に大きく寄与するか、その微妙な差異によっていかに萌えるか萌えないかが左右されることか。このような事態はしばしば悲喜劇をもたらすが、絵を少しでも描いたことがある者ならばこの精妙さをイタイ程知っているはずである。睫毛数本の入れ方、瞳へのハイライトの入れ方、目口鼻の位置関係、頬の微妙な曲線が、そんな極僅かな差が絵を輝かせたり台無しにしたりしてしまう。これはかなり飛躍してはいるが、そのような作用のイメージとしては、まるでその初期値への依存度の鋭敏性の高さを示すバタフライ効果を思わせるし(中国で起こった蝶の羽の舞がアメリカでの嵐を起こす等々)、単純な法則や規則から極めて複雑な現象が生じうる非線形効果を思い起こさせる。

 

 つまりこのような状況でポストモダン的ということを敢えて言うのならば、「データベース」に「動物的」に反応するオタクなどという鳥瞰的かつ分析主義的かつ構造主義的言説?ではなくて、限りなく「記号」に近く決して豊富もではない萌え絵要素から、これだけ様々な個々人のサイトの絵柄のような(その差異は微少であるのかもしれないが)バリエーションを生み出し(決定論的であるのに非線形式から生み出される予測不能性とか)、そのなかのほんの少数の「優れて萌え」な組み合わせを成し遂げた絵柄だけが寡占状況を生み出す(様々な振動数間の引き込み現象や安定な決定論的カオスのアトラクタを思わせる)ことにあるのではないだろうか。これは萌え文化を否定的あるいは肯定的に捉えるかの差だけではない。オタク的作品に限らず還元主義的に捉え論じることの限界を自覚するか否かの違いである。また更に言えば過去には優れて「オリジナル」な芸術があったとするユートピア思想を相対化出来るか否かの差である。

 東氏の著作については清瀬六郎氏の別稿に詳しいので、そちらを参照していただくこととして深入りはしない。では話しを戻して、なぜ萌えが注目すべき特殊な感情形態であるかを考えてゆこう。

 

 

 萌えとは既にオタクである我々には自覚され、また何度も様々な著作やサイト上の文章で言われているように、単一の感情を惹起するものではない。エロティシズム・劣情欲情・可愛さ・愛しさ・所有欲・審美・耽美・等々の混在である。いや、単なるそれら感情の入り混じりというだけでは感情のアマルガムというだけである。そのキモは複数の感情間の振動であり、一定の感情に落ち着かないこと、落ち着かないながらもそこには奇妙な安定が認められること等である。しかし複数の相反する、もしくは異なる感情の間で行きつ戻りつすることは、ヒトの心性として決して珍しいのもではない。男女間の対人関係に限っても、愛情と憎悪は相反し同居するものだし、近代の発明である恋愛純愛は愛情と性欲の間で揺れ動くものである。しかし一般的にそれらの感情の起伏は、アンビバレントで引き裂かれた一時的な精神の高揚状態であり、それを心の支えにまではすることは出来ても、決して心的安定をもたらすものではない。それに対して萌えという感情、心的構造は、単に萌えキャラを好きであるという静止状態にありながらもエロティシズムに行きつきはせず、しかしそこに引っ張られるベクトルを内包した準定常・準動的状態で、常に低く励起された感情のポテンシャル地図中の山岳間の盆地のなかの振動であり、もし外部との関係で見れば静止状態のようでも単なる倦怠にまで落ち込んでは行かないという特殊な心性なのではないかと考えている。ハッキリ言えばこれに根拠はなく、妄想、単なる内省から来る単なるアイディアに過ぎない。しかし近年、脳の作動機構を数学的な「カオス」で説明しようとする動きがあるのを知り、そこで私としては振動や心的ポテンシャル地図のアイディアと、この脳におけるカオスすなわち決定論的非決定とアトラクタ(かなりシロウトの誤読入っているのだろうが)が、丁度重なり合う部分が多いという妄想を語って(騙って)みたくなったわけである。これが今回のキモであり、それをここから述べてみたいと思う。

 

 そもそも感情を含めたヒトの心的構造を明らかにしようとしてきた学問の分野のひとつとしてあった精神分析において、もしくはその他様々な思想、哲学、学問において、感情というモノは様々なタイプに分類され、喜怒哀楽といった比較的単一の感情がその基本的要素であるかのようにア・プリオリに扱われてきたように思われる。そして精神分析においては、その基本感情を形作る「素粒子」もしくは動力源として、ナルシズムとリビドーという二大欲動を提唱したと思われる、後にそれらに加え「死の欲動:デストルドー」などがあるわけだが、それについても後述しよう。しかしそのような感情やエネルギー論的な市構造の理解の仕方に対して異を唱える契機が萌えという感情なのである、というのが今回のワタシの妄想である。

 

この誇大妄想をただ語りおろすだけでは誰も付いてきてくれそうもないので、この文章の論旨全体の見通しを良くするためにも、これ以下の文章の目次的な要約を箇条書きしてみようと思う。ただし、今回の原稿ではどこまで書ききれるか分かりません、スイマセン(多分2で終わりそう…続きはゼッタイ…やります、と思う)。

 

1 萌えを精神分析的に分析することで、逆にこの概念が精神分析自体の「公理」に書き換えを迫るものであるという妄想を語る。

2 その新たな「公理」は、「脳の解釈学的理論」という数学的な脳のカオス的解釈から援用されるという大言壮語を語る。

3 そのような視点からアニメ、マンガ等のオタク的世界におけるその言語的、非言語的な意義を逆に考えてゆくという好き勝手を語る。

4 そこから更にドゥルーズ的郵便誤配問題(複雑系のような決定論的手続きながらも予測不能性を生み出すのとは、また別の意味での予測不能性)、ソシュール的言語学の問題(アナグラムとアニメの理論的根拠)、クオリアの問題系(『千と千尋の神隠し』に代表される郷愁・デジャヴ的作品)、オートポイエーシスの問題(典型だけど押井守作品か?)を関連させるという哲学??についての知ったかぶりの調子に乗った牽強付会を行う。

 

 以上のコンテンツでお分かりだと思うが、多分今回もワタシのいつも文章のご多分に漏れずシロウトのトンデモ文になることは想像に難くないのであるが、かつて哲学に関しては決して造詣が深いと言えなかったトマス・クーンが科学哲学において本職の哲学者から見れば少々概念の曖昧でワキの甘い「パラダイムシフト」という用語を提唱し、それこそ哲学のみならず様々な分野のパラダイムシフトを生じさせたという「故事」にチョッピリ勇気をもらいながら進めているわけである。要するに「萌え」「カオス」と同じく定義されそうでされない微妙な状態にある用語ほど多くの現象への豊かな説明を可能にするのかもしえない(まあ何でも説明可能な理論は間違っているという経験則もあるわけだが)。

 ここでさらに、十川幸司氏が『精神分析への抵抗』で提示しているように、ラカンが「フロイトへの回帰」を標榜しつつ新たな「臨床経験」からラカン流の精神分析を展開したのと同じく、ここでも「フロイトへの回帰」という「自己否定的なベクトル>と言うより抵抗により隠されている公理的で全ての根拠になる空虚な一点を意識化させる」こそが精神分析という「体験」であるということを確認しながら、それを自己言及的に「精神分析」に「萌え」を適用することで新たな精神分析が提案できるかもしれない。

 

 2ではそれが全く生物学的な根拠のないものではなく、ある理論と通底するものだということを示す。すなわちワタシが勝手にココロの師(笑)とする岸田秀氏がかつて唯幻論の根拠として実体的な根拠が何かないモンかねぇ、と考えていたときに出会い「これだ」と思ったL・ボルグによるヒトのネオテニー説と同様に、この「萌え」ベースの精神分析とシンクロするココロや脳の作動理論として、津田一郎氏や金子邦彦氏が提唱し知見を積み重ねている数学的カオスによる「脳の解釈学理論」を(彼らにはまったく迷惑であろうが)換骨奪回しつつ紹介、援用させてもらう(かもしれない)。まあ大誤解でもかまわないのであるが。

 

 かつてジグムント・フロイドは、当時(今も)そのメカニズムがさっぱり分からなかった神経症という病気が、一体どのように生じてくるのかという臨床的な疑問から、精神分析という新たな分野を立ち上げたのだとされている。その正統な?後継者であると自称する(そう言う人達はいっぱいるが)ジャック・ラカンは、子供の心の発達の一時期の「鏡像段階」について考察することで彼自身の精神分析を作り上げていったとされている。以上の記述にはいろいろウソが多い気がするが、シロウトゆえに俗説や通説や解説本に従うのはなかば止むを得ないと思われるので(と開き直り)平にご容赦願いたい。ここで、フロイトの精神分析理論などカビの生えた博物館モノで臨床的には全く使い物にならないのに、それを用いて心的現象を語るのは無意味だ云々という批判が出るであろうことは必至なのだが、それに対する答えは既にテンプレートになるくらい世に出回っているであろうから、それは省略したい。まあ一言で言えば、ヒトの心理を個人的社会的に扱うに精神分析以上に有用で実りあるツールが現在までのところあまり見当たらないからである。

 

 フロイド以降、我こそは精神分析とフロイド理論の後継者であると主張する人々は、本家本元の精神分析が性的な論理に偏りすぎているとして、それを発展あるいは改良したと自称する精神分析理論を提唱してきたらしい。しかし岸田秀氏によれば、それらは、「つまるところ、フロイト理論の単純化、ある部分の誇張、言い換え、歪曲、わざわざ難解な表現への翻訳、無用な飾り立て」としか思えないものばかりだということであり、精神分析の「後継者」たちの著書をロクに読んだことの無い私にもなんとなく賛成できるのだが、よく知らないので当然断言は出来ない。まあ創始者があまりに偉大過ぎたということはあるのだろう。

 そこを自覚しつつも実は私は今回の文章で、そのフロイトの精神分析に「萌え」という現象から演繹される(帰納ではない)「新しい」部分を組み込もうというのだから大言壮語もいいところであり、更にそこで今この日本で、先に挙げた「フロイドによる神経症」や「ラカンによる鏡像段階」に匹敵する現象が「オタクにおける萌え」だというのが今回の原稿のキモであり、当然トンデモなハナシではある。この私の誇大妄想はここで俄に信じてもらおうというのが無理なことは承知しているが、まあ精神分析を同人野郎がパロディーにしたと思いながらお気楽に読んでいただければ幸いである( >当たり前だ)。

 

 

 「精神分析は認知科学や神経科学からは時代遅れの科学モデルという名のもとに何度も死刑宣告をされてきたわけである」という自虐の裏返しの自信たっぷりの一文が印象的な十川幸司の著書『精神分析への抵抗』は、私のラカン関係の少ない読書リストの中では最も明快な論旨の本である(寡聞にして他のどのラカン本を読んでも、言いたいことがさっぱり不明で実は読み通したことがなく、モノによっては神学的なラカンへの盲目的な崇拝に怒りすら覚える、と言うのは少し言い過ぎか)。しかし面白いことに、その認知科学や神経科学を新しいパラダイムで包み込もうとしている最近のカオス理論によるココロのモデルや心的体制の量子的説明(ロジャー・ペンローズのそれではなくて、最近KARCなんかで発表されたヤツ)は、萌え理論を付加した精神分析理論と奇妙な一致を認めるのではないかというのが、私のこの文章の趣旨であり主旨であるが、それはおいおい述べてゆこう。

 『精神分析への抵抗』を私が理解した限りの狭い範囲でまとめると、精神分析とは社会であれ個人であれ国家であれ、それらのシステムを見た目では合理的に存続させるために必要な公理=すなわち隠されている第一原理の非合理さ、というより無根拠さを指摘する働きなのであり(公理なんだから根拠がないのが当たり前だが、どんなものでもいいというわけではなくて、心的な安定感を与えるテンプレートになるという意味では何らかの「根拠」があるはずだと思われることから不可避的に人の心的構造との関連が見出される筈である)、それは当然そのシステムの「正当性」を危うくさせるために、それを存続させようとする者(構成員)或いはモノ(構成要素)からの「抵抗」を不可避的に引き起こす、ということである。というようりも本当は事態は逆ではないかと思われ、つまり抵抗のある場所を目印としてその公理を探索する行為、学問でもなければ芸術でも文学でも哲学でもないその行為こそが、「精神分析」としか名付けようのないフロイトにより創始された方法、いや「体験」なのだということに尽きるのかもしれない。したがって、十川が述べているように、精神分析に対する様々な分野からの批判があるということ自体、精神分析がまだ「生きている」ことの証拠になるというわけである。一見まともそうなロジックだが、これは「精神分析」自身への批判が逆に正当性の理由となるのだ、これでいいのだ、という意味でちょっとズルイ。というよりも、カール・ポパーの言うところの科学であるための条件の一つ、反証可能性を欠いているという意味では、厳密な科学とはなれないだろう。しかし精神分析がこれを満たす義理はなく、またそれを目指す必要もなかろうとも十川氏は語っているし、私もそれには賛成である。

 

 しかし、敢えてその懐疑のベクトルを自己言及的に精神分析そのものへ向けられたときに何が起きるか、というのがこの本のスリリングな面白さを生み出している。すなわち精神分析というシステムを存続させる第一原理、フロイトの体験とは何であり、それに対する抵抗とは如何なるものかというわけである。それは十川によれば「表象不可能なある直接性あるいは絶対的内在性の否定」という精神分析の公理への抵抗であるということだが、要するにヒトが世界を認識し理解するには「はじめにコトバありき」で、コトバを飛ばして直接ヒトは環境、世界、外部とはコンタクト出来ないのだ、コレでイイのだ、と宣言するという意味である(厳密には違うが)。これは実際にはヒトの心的体制の説明的「真実」なのか、原初的な内在性や情動を言葉や表象に「還元、換言」しようとしたフロイトに始まる精神分析の「欲望」であるのかは議論が必要だとしても、後に萌えを語るときに変更される精神分析の公理系でも問題になる部分なので詳細は後回しとしよう。

 とにかくそこで、フロイト・ラカンは精神分析の公理として人の心のシステムが「言語と表象という限定された場所」で語られるべきであるという決断をしたと十川は述べる。そして現在、それらの公理に変更を迫り新たな「精神分析」を形成する契機になりうる概念が、いまここで私が問題にしたい「萌え」であると言っても、あまりにもオタクの我田引水的で誇大妄想的な飛躍なので、まずはここで信じてもらえそうにもないだろうから、遠回りではあるが順を追ってこの妄想を説明してゆこうと思う。しかし既にその萌芽に気付いている人もいるようである。それは例えば茂木健一郎氏の『脳とクオリア』で語るな何か(クオリア、と名付けた時点でもう目指す内容から零れ落ちるものがあったりする)だったりするかもしれないが、それについても後ほど触れようと思う(忘れそう)。

 

精神分析の公理とはシロウト的に言ってしまえば「自己保存衝動」すなわちナルシズムと、「性衝動」リビドーのふたつである。三つ目の「死への衝動」タナトスというものがその「公理」に加えられることがあるかもしれないが、私の結論を先取すれば、これは無駄な「定理」である、と言うよりアナクロに言えば、ユークリッド幾何学における平行線「定理」と丁度相同なのだと私は考える。つまり恣意的なものであり、他の公理でも体系は成り立ちうるのである。

 もともとタナトスは外傷後神経症や反復強迫という症状、症例、現象をナルシズムとリビドーの二つの「公理」で説明しきれなかったフロイトが仕方なく提唱したものであり、これはナルシズムと決定的に相反する「公理」であることから様々な議論を巻き起こしながらも、この用語はそれなりに定着してきたものだと思われる(エヴァのセリフにもあったデストルドーとか>笑)。しかしこれは大した抵抗とは言えない。精神分析に対する抵抗には、実は萌え理論の萌芽(笑)ともいうような軌跡も認められるようである。

 そのひとつは、ボルグ・ヤコブセンによる精神分析の主体概念とその存在論である、らしい。本当だかどうなのか原著にあたっていないので知らないので無責任であるが、この著書(あるいは一般的なフロイトの理解)によれば、フロイドの主体は単一で同一性を保った表象の主体であり、またその後継者?であるラカンの理論によれば「主体は自らの消失の中で生じるという一見パラドクサルな構造のなかにある」そうで、これは岸田秀による、自我(主体と自我の区別の厳密な論議はさておいて)とは他人のそれのコピーであるという表現のほうがスッキリしていて分かりやすくて、無用な神秘性を除いた分だけオッカムの剃刀による「科学的」な立場からは優れた説明だと私は思っている。しかしそのために岸田氏の話しはラカン的な神秘性、衒学性、排他性が好きな人々にはウケが悪いわけだが、それはまた別の話しである。まあそれはさておいても、このような主体や自我の考え方に反対するのが、ボルグ・ヤコブセンによる「根源的情動関係」による模倣するだけの主体という同一性を持たない生の根源的様式だというものらしい。しかし私がこれから提出する萌えの精神分析から導かれる考え方はこれをも包含し、主体の精神分析であるフロイド・ラカン・岸田秀の精神分析の発展形であると考えている。

 ちなみにボルグ・ヤコブセンが自説の説明のために取り上げたのはフロイトの精神分析への欲望により打ち捨てられた催眠現象であり、また精神分析の最初の症例となるアンナ・O嬢を巡る物語が抑圧の論理ではなく多重人格として扱いうるという精神分析理論への異議申し立てであるらしいのだが、十川はこのような理論に対して慎重ではあるがかなりアンビバレントであり、その評価を保留しているように思われる。すなわち彼によれば、ボルグ・ヤコブセンらの方法論は、「表象の主体批判は、精神分析に対する批判の一つのパラダイムを提示して」おり「表象の主体あるいは超越的主体を絶対的内在性の立場において批判する場合、その絶対内在性はそれ自体を論じることが原理上困難なので、その現れをある具体的な臨床体験に求め・・・中略・・・(それを)媒介にして精神分析の独断性を告発する」というものであるが、「その理論的背景となっているのは、ババンスキーやタルドの素朴な模倣理論」であるということで、精神分析の専門家としての立場からは噴飯モノ、ということなのであろう。しかし精神分析神学や臨床的観点から彼の批判を退けてしまうのも・・・中略・・・非生産的な議論であろう」であり、その批判の有用性をある一定の場で認めているように思われる。しかしそれでも十川は精神分析の立場に戻り、こう言い放つわけである。

 

 「しかし自由連想法以外のいかなる方法で、私たちはどのようにして自分の欲望に触れることが出来るだろうか」

 たしかに、暗黙知やら野生の思考やら外部やら?と意味不明な言語以外の手段やら「外部」とやらがあることを思想家はしきりに喧伝するが、それを今まで私たちは、いや少なくとも私は見たことも体験したこともない。むしろそれが出来ないからこそ外部なのだが、では誰がその息吹や気配すら感じたことがあったというのであろうか。実際にコギトの哲学を否定しても尚、私たちヒトには自己とコトバを基本とする思考以外の手段など無いように思える。だからまずはこの精神分析の立場を、少なくとも一度は取るべき、いや取らざるを得ないのではないだろうか。

 

 しかし、そのような疑問に対してであるが、実際最近、私たちはそのあまりに見事な反例を観てしまった。それが『千と千尋の神隠し』であり、表象と言葉だけを用いただけではなく、それと同時にそれらを介さずに情動を惹起するクオリアの洪水で観客を魅了した稀有な実例である(映画人はこれに対して今までも様々な「映画」がそれを成し遂げてきたと主張することだろうがあえて無視)。この作品については、まだ問題の所在が自分でもわからないうちに前回のWWFの原稿として書かせてもらったわけだが、この体験が「萌え」を生じさせる中心的メディアであるアニメから生み出されたこと、萌えアニメとは全く違うジャンルにもかかわらず、同じアニメという表現方式からロゴスを超えて感情を直接揺さぶるクオリアの映画が生み出されたのは、決して偶然ではないと私は信じている。

 ヒトは「リアル」を認識しているのではない。リアルが無いとはいえないが権利的に存在するということ以上は言えないと思われる。押井守はかつて「映画とはすべてアニメである」と言い切ったが、私はさらに敢えて言おう、「カスであるとbyギレン・ザビ」・・・じゃなかった、人が認識している世界は「アニメ」なのだ、と。したがって「ヒトは誰もが神経症者なのだ」というようなカッコイイ表現ではなく「ヒトは本質的に誰でもオタク」なのである。それは宅八郎や誤解されたオタキング氏的な反動的誇大妄想の産物ではない(少なくとも私はそう信じる)。またオタク的な現象を過小評価するサブカル的評論家への反動でもない(かどうかは分からないが)。アニメや萌えという「体験」を梃子にした新たな精神分析的思考の帰結なのである(大言壮語お許しを >笑)。

 

 と、まあこれ以上精神分析の外部へとお題を発散させるのは本稿の目的ではないので、与太話はこれくらいにして、とにかく精神分析にはそのような異論が存在する上に、その外部への窓口の適当な例もオタク的産物であることを確認しつつも、権利的にしか存在しえない外部ではなく、内在的に話を進めるにはまずは精神分析的なものを語らざるを得ないという立場を確認しつつ、次に萌えを語るための、精神分析と言語の関連について話題を戻そう。

 私の理解の範囲内で簡単に言えば、ヒトの心の構造のうち、意識できる領域で私たちは理性的な論理、例えば物事の同一性と不変性、及び時間の流れの一方向性や原因と結果のような因果律をOSとして思考して行動しているように見える。しかしその下部?根底?に広がる無意識の部分では、そのような理性的な論理が通じない心的世界が広がっているらしいのである。そこではむしろ言語の音韻の相同性や連想といった言葉遊び的な心的活動の断片が蠢き続ける振動、運動がその本質であり、それが意識への検閲を破り、あるいは誤魔化し、または別の形ですり抜け、意識の領域に噴出そうとしているというものである。

 つまり物事の道筋、過去から未来へ行儀よく流れる時間や、物事の同一性という物事の常識と私たちが考えているのは「意識」の狭い領域だけのことであり、無意識の領域では意味的や音韻的に共鳴することで様々な心的現象が行われているということを精神分析の理論は述べている、のだと思う。これはかなり根拠のない文学的かつ恣意的な説明のように思われるし、私もそう思っていた。しかし最近の心的構造のモデルであるカオスによる解釈学的脳モデルがこれとかなり近いことを述べているように思えるのだが、それは後ほど述べる結論なので、ここでは雰囲気だけを伝えておきたい。

 無意識におけるカオス的振動のような言語構造だけがうごめいていることを喝破したフロイドは、「例えば鼠男」の分析例に代表されるような反復脅迫、言説の転移などでその無意識の働きを述べている(らしい)。そこではフロイドも未だにコギトの哲学やロゴス中心主義の残滓をどうしても消し去ることが出来ない思考(それでも観察と血肉から成るその思惟から結果的に非ロゴスを導き出すフロイトのスゴイところだが)をベースとしてこのような無意識を含めた心的装置を首尾一貫したものとして説明しているようで、そのために同一化や転移という説明方法(思考のサブルーチン)が必要であったことはよく理解できるし、今でもその思考フォーマットが有用であることに異論はない。余談だが?このようなフロイトの説明方法が科学としてはいまいちダサい、時代遅れだと感じたラカンが(私はそう思っているのだが、違うの?)、ソシュールの言語学やら怪しげな数式やらシェーマを用いて?心的構造を記号化しようとしたことにも通じているのだろうが、これも後で述べるようにラカンの後期の理論における妙チクリンな数式やら黄金数やらナントカ図を用いた説明のほうがフロイドの「定性的」な説明よりも、その成否を別としても、時代が経ってみると遥かにダサダサであることは、別に数学の知識を知らなくとも、また『知の欺瞞』などを読まなくとも分かろうというものだが、ラカンにはそうする切実な動機があっただろうからそれを現代の我々が無闇に批判は出来ないとしても、だからと言ってそれを今でも不磨の大典、金科玉条の如く唱える人たちがいるほうが遥かに驚きである。ってよりか権威主義か受験勉強的理解だろうけど。

 

 まあ悪口はこれくらいにして、要するに精神分析のひとつの肝は、このような無意識における作動原理は、正常な論理に則らない言語構造やら音韻構造といったものに主に依存していて、人の自己決定を行うのは意識ではなくてそのような「構造」であり、理性や悟性を超えたところに人を動かす装置の一つがあるということであり(何かこれじゃ構造主義みたいだけど、ホントそれでイイのかな?)、意識がそれを否認しようとすればするほど、その力は大きくなり神経症やらの原因となるというわけである。したがってこのロゴス中心主義を壊す契機こそが、精神分析の破壊力の源であったわけで、その創始期のヴィクトリア王朝時代にはエラい破壊力のある言説だったのだと思う。しかし逆に様々な欲動を抑圧しないでよい状況になれば、その力は散逸してしまうことになるだろうことから、表面状は様々な物語を認める、大きな物語の失墜した現代では半ばこれは「常識」、知的嗜みの部類に入ってきているのではないかと思う。十川氏の言うように「抵抗」のない場、「フーン」で済んでしまう場においては精神分析の出番はないかもしれない。

 その意味で、オタクが「動物化」していると言う東氏にとっては、精神分析的なオタク論ということ自体が、ポストモダン的な状況に不似合いであると考えているのかもしれない。しかしヒトには物理的制約からどうしてもそこに残る「抑圧」は存在するはずである。さらに私の考えを言えば、オタクを含めたヒトは、現在においてもちっとも「動物化」などしていないと思っている。それはこのコトバの定義にもよるのだろうが、動物とヒトを分け隔てるものが文化=物語であるという視点から考えても、これはあまり適当な表現方法ではないと思われる。オタクの性癖に物語を見ないのは、単にそのコードが見えないからだけではないのか?または、オタクの拠って立つコード自体が旧来で言うところの「物語」とは違っているのかもしれないが、だからと言ってヒトをヒトたらしめている根本的な状況に異常や新奇な状況が生じているとはとても思えない。

 ただし、もしここで新たな「状況」が生じているとすれば、この「萌え」を巡るオタクの「萌え」から「解明」または「発明」される心的構造における新たな理論である、というのが私の本稿の妄想である。また私は岸田秀氏のヒトと動物の違いは本能が壊れていることだというフレーズが好きなのだが、このドグマとの関連を考えても「動物化」が実りの多い記述可能なキーワードとは思えない。むしろオタクは限りなく純粋な「ヒト」に近づきつつあるし、失われた幼児期の全能感を取り戻そうと物理的限界や身体的限界を超えようとする人類の本質は基本的にオタク的であることから言えば、むしろオタクはよりプロのヒト化しているというのが、別に煽りでも戦略的な議論でもなく、物事の筋道から言えば整合的であると思われる。

 では、このことはまた後に触れることにして、では精神分析で考えられているこのような無意識の構造と萌えとの間にどんな関係があるのだろうか?実のところこれはちょっと直接の結びつきというわけにはいかない。話がややこしくなるのだが、まず心的構造における新たなモデルである「解釈学的なカオス脳モデル」について、萌え理論と関連しながら述べてゆきたいと思う。

 

 遥か昔から哲学でも科学でも、世界の仕組みだけではなくて、ヒトの心の構造について様々な理論が語られてきた、のだと思うのだが、私にはそれを語れるだけの教養がないのにもかかわらず偏見で言い切ってしまうと、主にヒトの感情や思考について語る心理学という分野において、フロイドが精神分析という分野を開いて一応な「科学的」と言うか反証可能な形で(本当は違うらしいが)心的構造についてメタ心理学的な考察を始めるまでは、誰でも分かるような心についての常識を衒学的にした「意識」の表層&カタログ心理学のような、あまり碌なものしか無かった、らしい、のだと思う(本能の理論とか)。そのため、ここで心的機構を考えるツールとして現在もっとも妥当なものとして精神分析的な思考方法を「萌え」に関するリトマス試験紙として選びたいと思う。ここでもっと「現代的」な心的機構の理論として、最新の脳科学や神経生理学等をなぜ無視するのかと思う向きもあるかもしれないが、正直、少なくとも今の段階でそれらの大勢を占める研究の成果ではてんで使い物にはならないと思う。その理由を述べるのは本稿の目的ではないし、そのような私の考えがその業界の常識でもなければ、シロウトにありがちな単なる勘違いであるかもしれないが、一応の言い訳として言えることは次のような理由からくる。すなわち、現在これらを研究する人達の大半の思考方法は、セントラルドグマで成功した、一遺伝子一タンパクを無批判に脳という複雑な系に外挿することに疑問を持たず未だに「精神分裂病(統合失調症)の原因遺伝子」だとか言う「ナイーブ」な研究が多く見られることや、もしくは目的に特化したニューロンというレベルで心的機構の説明がつくと考えている人達多いことから、その昔?ネズミの行動実験からヒトの精神が解明できると信じて実験を繰り返していた(利根川進とか今でも?)愚考、敢えて言おう、愚挙であると、を行っている限りは、ヒトの心的機構の妙にとてもまだまだ近づけるものではないと(もしかしたら原理的にすら不可能かもしれないと)思うからである。しかし更にそれを超えて現在進行している複雑系をも射程に入れた脳科学は、今だその主張は広くは認められていないとは思うが、着々とその成果を挙げているようであり、そのなかは今回私が「萌え理論」の背景として取り入れたいと考えているものもあり、一概に「精密科学的思考」がダメだと言っているわけではない。

 まあ、それはさておき、ではフロイドの精神分析が現在のところでは使える「優れモノ」であるとして、そこに何らかの実体的裏付けがあったかというと、(異論は山ほどあれど)それは神経症の臨床体験から、その治療のために心的構造を考え、生物学的な心的構造よりも、むしろ社会心理学からのアナロジーで局所論的心的構造を発明(発見ではない)したとされている、らしい。その後、精神分析理論はヒルベルト・プログラムに憧れた?ラカンによって言語学や数学?などを導入され脱生物学、脱心理学的なものに改変されたとのことである。

 これらはヒトの心の仕組みについて様々な示唆を与えてくれる実り多い思考フォーマットであると思われるが、その業績についてこれまた私は語るだけの素養は当然のことながら、無い。そのようなバックボーンしかないところで恐縮至極なのだが、では「萌え」に関するオタクの心的機構は精神分析によって説明あるいは解釈可能であろうか?

 かつて同様の試みとして齊藤環氏は『戦闘美少女の精神分析』という著書で、オタクの心性をラカン的精神分析で語ろうとしたわけだが、遠慮なく言ってしまえば、この本は実際のアニメ、マンガ等のオタク的作品をあまりしっかりと鑑賞、分析しないでラカン的韜晦によるオタク分析を行ったものとしか思えず、「戦闘美少女」というハズしたキーワードは「萌え」の概念が出てきた時点で、その無効性が更にはっきりとしてしまったと私は考える。だって、萌えに「戦闘」は必須のものじゃないのは明かだしね。というわけで、私は以前以下のような文を以前WWF誌上で綴ったわけである。

 

 (齊藤環氏は)現実の女性が外傷性という不可視な本質を捏造され「恋愛」の対象とされているのに対して、虚構の美少女は丁度それと鏡像的に反転された姿、すなわち外傷の無さという不可視的な本質とか深層とかいうことが全くないことをもって魅了すると言うが、それは現実と虚構を問わず双方で生じていることではないのか?齋藤氏の言い分と丁度逆転というか交差する例を挙げれば、テレビのアイドルのファンと現実のコスプレ少女とか声優とかの追っかけオタクたちが面白い分析の対象になることだろうに(『パーフェクトブルー』とかはその意味でまた興味深い)。またここで敢えて無視されているのが、「恋愛」「プラトニックラブ」等の性交を抜きにした男女間の物語との関係で、それは別に昔からあったものではなく近代の発明した産物であって、ヒトの心的体制の原理的なものとはレベルが異なるものであるかもしれないことについて齊藤氏がどう考えているかということである。

 すなわち「現実の女性が外傷性という不可視な本質を捏造」と齊藤氏は言うが、このような事態は近代の産物で、それ以前のヒトの対幻想が必ずしもそのような「物語」で規定されていたわけではなかったのではないかという疑問である。娼婦が人類の最も古い商売の一つであり性の商品化は文化の前提であるという面からすれば、根元的問題であるという認識も成り立つかもしれないけどね。だから齋藤氏の言説は、最近のPCゲームとかで日常の女の子(戦闘もしなければ外傷性のカタマリみたいなコたち)が「萌え」の対象として登場してくる事態を説明しきれていない。別にそこでは女性が「現実」とか「虚構」とかいった区別をもって我々を魅了しているわけではなくて、我々オタクは現実の女性もTVやグラビアのアイドルもコスプレ少女も「虚構」のギャルゲー少女も、実際に我々の性欲動の備給先になるという「現実」にリアリティを感じる故に、そこに抑圧を持ち込まない振る舞いを選択する。なぜなら、むしろその区別を言い立てようとしたり逆に虚構少女の「貞操」を守ろうとしたりするのは、虚構に惹き付けられる自分の恐怖をコントロール出来ていないということの言明であることを知っているから、「萌え」という身体からの敗北を受け取りつつ、その自我のメタ的コントロール感を感じているんじゃないのかな。つまり敢えて理解していないラカン流に言えば、原理的に両者の判別不可能な他人の欲望のコピーや認知不可能な現実界からの身体論的な欲動を生じさせるの性欲動に対して「現実」の女性だけに欲望し「虚構」の女性を虚構の側に押し込める身振りを象徴界からの恐怖に負け抑圧したと認識し、それを解放しているフリをして自我のコントロール感を得ているというメタ的象徴界を想定した気になっているのがオタクなんじゃないかな。

 

 以上にベタなリビドーやナルシズムの供給というエネルギー論的な話を付け加えれば、オタク(少なくとも第一期と呼ばれる昭和30〜40年代生まれ)は幼少の頃、テレビ、マンガを文字通り親として育ったということが全ての始まりであったように思える。実際、私は以前フロイドによる心的発達段階のメタ心理学をオタクの生成ということに外挿した文章を書いたことがある。恥ずかしいから公開できないが。

 しかし、これも以前自戒を込めて書いたように、心的機構におけるエネルギー論的な議論や(リビドーやナルチドーがどうのこうの)、局所論的な説明(超自我がどうの、想像界やら象徴界がどうのこうの>ラカン派は局所論ではないと言うかもしれないがフロイドの局所論よりも不明瞭という意味でダメダメと思う)は、もしそれらが正しくて現在のオタクやら萌えの状況を説明できるものだとしても、また現在の状況を語ることや社会学的に新たな状況を記述することには有用だとしても、「萌え」に関する真に新たな地平を開くものではなく、過去の知的財産をオタクという分野に流用しているに過ぎないと思われる。いや、「過ぎない」というのは言いすぎではあるが、オタクはメディアを親として育った、という初期条件に発達精神分析を外挿すればほぼ原理的には記述可能な事態だと思われることから、正直私にはあまり面白みのある議論にならないと思う。

 

 また東浩紀氏がよく例として挙げる、大澤真幸氏の「オタク論」における記述、「内在的な他者と超越的な他者の区別が失調している」のがオタクだという説明も如何なものかと思われるのだが、つまり今時そのような区別が「失調」していない者などいるのだろうか。いや、もともと超越的他者などという存在が私たち日本人にあったのか、それが本当の心的構造のキモになっているのか、単なる言論人やら知識人の捏造ではないのか、などの歴史的及び内省的な考察がここにはまるでない。「超越的他者」などは明治以降だかに持ちこまれた西欧の思考であり、それをマトモに信じている者など岩波文庫の愛読者や奇特な者達に限られていたのではなかったか。古い説明で申し訳無いが、日本における一般的な自我体制の支えとは擬似家族的な対幻想であり(諸外国に対抗してやっと作り上げた天皇性ですら擬似家族的、空虚な中心でしかなかった)、また一神教ではなく八百万のカミサマ的な思考方法であり、超越的な他者を頂きに置いて、そこに他者性や公理性や不可知性を一点に吸収させる「GOD」を介した自我の安定などいうものは、西欧で「捏造」された彼の地でしか通用しないフィクションであり(強迫神経症的という意味で感染力のあるミームではあるが)、日本ではそれをマトモに信じて思い悩むなどは「知的進歩人」たちの幻想、フェイクに過ぎないのではないか。従ってそれが無いんだか失調しているんだか?ということをもって、そこからオタク的な心的構造を語りおろすのはあまりに雑な議論ではないかと私は考える。大文字の他者による心的構造の安定を説くラカンが言ったように、日本人には精神分析は適用できないというのは意外と核心を捉えた発言なのかもしれない。

 

 それでは、以前に私が行ったようなフロイド的なメタ心理学的なオタクすなわち萌えの説明方法が有用かと言えば、それがもしも精神分析的に「正しい」説明であったとしても、これはアタマの悪い学生のマトメ的な駄文に過ぎないと我ながら思う。論理の一貫性や妥当性の話をしているのではない。小さくまとまっただけで何も思考の新天地を開くようなものではないからである。それではせっかくオタクだの萌えだのを持ち出したのに面白い展開が見られない。よって以下述べる話は「論理的正しさ」や「有用」かどうかを全く無視した単なるファンタジー、「面白さ」優先の与太話で、あまり妥当性やら整合性やらは気にせずに自動筆記したアイディアに過ぎない、というのは厳密な論理形成が出来ない言い訳ではあるのだが許していただきたい。今回は時間がないので、もし次回があれば以下の荒削りなアイディアをもうちっと分かりやすくはするつもりであるので、今回はその妄想を是非聞いて頂きたい。

 

 で、その前振りとして、いきなり話が飛んでしまうようで恐縮だが、最近の脳科学のドグマであるニューラルネットワークについて少々話を聞いて欲しい。つまり脳の仕組みがシナプス間の化学伝達物質のやり取りで駆動されるニューラルネットワークであることは現在殆ど自明の理とされており、それを用いた数学的、コンピュータ的なモデルを用いた脳理論が様々に提唱されている、らしい。しかしそれが正しいとしても、その上で走っている「OS」がどんなものかということについては現在のところ事実上全く不明である(らしい)。今までは測定デバイスの関係だかで、そのモデルの合理性や説明力を実際の脳ではなくて数学的モデルでしか確かめられなかった(らしい)のだが、近年「ネイチャー」誌に発表された、嗅いの判別をする際に使用されているとされる嗅覚神経細胞群の電位位相空間図がカオスを示すという論文が掲載された。それはカオスや複雑系の数学を用いて脳のメカニズムを解明しようとしている人たちにとっては、予想していたかもしれないが、脳でカオスの存在が「実証された」という意味で極めてエポックメーキングな事件であったと思われる。脳の作動原理がカオスであるというのは人口知能における様々な問題を上手く説明し回避しうるツールであるようだが、「全てを説明出来る理論は怪しい」かもしれないとしても、「萌え理論」を考えるにあたり最も都合のよいカオスによる脳理論、津田一郎氏が『ダイナミックな脳』で述べている、カオスによる「解釈学的脳理論」を換骨奪回して階層の違う話を無理やりくっつけることにしよう。

 

 ここでちょいと自己解説。「階層が違う話」と言ったのは、脳理論は脳というハードが如何に基本的な脳の活動(認知、視覚、判断など)を可能とするかという理論であるのに対して、今回私が述べるのは思考や感情という基本ソフトもしくはOSの上で思考や感情がどのような仕組みや構造で動いているのかという推測、もしくは収まりの良い説明を出来るかということなので、そもそも対象のレベル、階層が違っていると考えられる。それを同じヒトの心の問題だからと言って十把一絡げにして良いのかというと、実はヨイのではないかとかなり希望的観測で甘く考えている。その理由だが、ヒトの思考や感情がどこまでハード(神経伝達物質の多寡からニューラルネットワークのシナプスの重み付け)で説明するべきで、どこまでがソフト(心理学や精神分析的な説明)で出来るのか、というのはリサーチをしている人間たちには特に気になることだろうが、実はそれは意味の無いというか的外れな疑問なのかもしれない。卑近な例ではあるが、やはりコンピュータ。例えば画像処理をするのはハードでもソフトでも可能だし、双方重要。また例えばエミュレータでソフトで別のハードをシミュレーション可能であること等々。ワタシ流の「解釈学的脳理論」は、そのような区別を曖昧に出来るという利点と、もしかしたらヒトの脳の活動はそのようなソフトとハードという二元論的な思考の仕方とは別のベクトルに族しているのではないかという希望を抱かせる(先送りできる)という「利点」がある。したがって更にそれを飛躍させると、心的過程を行うOSのそのまた上で走っているソフトにもカオス的なものがその作動原理となっていてもヨイのではないかというのが、この妄想の飛躍点である。

 

 というわけで根拠を述べる前にこのアイディアだけを先に言えば、すなわちヒト(に限らず)の心的活動の知覚、認識、および感情の「要素」(例えば臭いいの知覚で言えば様々な臭いの種類に対応し、感情なら喜怒哀楽等の「要素」)は全てニューロンを素子としてシナプス間でやり取りされる化学物質とその総体の結果である各細胞群等の局所電位などで構成されるリミットサイクル(非線形の周期振動状態)に近い弱カオス状態の分類として「表現」されうるのであり、その各「知覚認識要素」の決定や「感情要素」の落ち着きどころに決まるまでの過程は様々な要素間の弱カオスの間を行ったり着たりする振動、カオス的遍歴(chaotic itinerancy)として理解し得るというものである。知覚やその決定におけるこの理論の利点は環境の認識を解釈学的に行い心的活動とは「外部より情報を取り入れつつ不断にリアリティを自ら作りだし環境を解釈し認識とする」ことにより、人口知能による「認識」の研究等におけるボトルネックである不完全情報問題やフレーム問題に突破口を作り出すことが出来る、ことらしいのである。その分野における詳細や正確な論点をワタシは知らない(無責任)。しかし一方、さらにヒトの高次機能?である感情を含む知覚認識行動についても、このようなアイディアを盛り込むことにより、新しい精神分析的な考察が可能になり、ひいてはオタクの萌えについて整合性のある分析と統合が可能になる、ってよりか萌えがそのモデルの良い例になり得るということを主張したいと思う。

 

 荒唐無稽ではあるが、これが全くのトンデモかと言うと、希望的観測的なら状況証拠が精神分析や言語学の側からも多少ならばある。ひとつは無意識の性質である。これはフロイドからソシュールを経てラカンに至るまで言われているように、無意識における作動原理は、「正常な論理」に則らない原初的思考やら言語構造やら音韻構造といったものに主に依存しているというもので、これは神経症やヒトの発達段階の力動的解釈による説明を合理的に行えるという「実績」や、晩年のソシュールや丸山圭三郎のアナグラムの研究においても結構な説得力を持つ論理であった。しかしその「生物学的実体」についてはどうにも不安になるような説明しか存在せず、ラカンに至っては脱生物学的な精神分析を目指すという始末であったらしい。

 しかし脳の活動が自己組織化されたニューラルネットワークから生まれる弱カオスであるとすると幾つか面白いアイディアが浮かぶ(実は既に語られている陳腐なものかもしれないが)。数学的に詳しいことは知らないのだが、ブルーバックス的知識によると、決定論的カオスのうちアトラクタと呼ばれるものは、状態空間において周囲の軌道をひきつける性質を持つ安定な解の総称で、アトラクタの形状によって安定平衡点、リミットサイクル、トーラス、ストレンジアトラクタの4種類が現在のところ知られている(らしい)。要は無意識や感情をこれらのアトラクタに擬えて解釈出来ないかというのが私のアイディアであり、それによって精神分析的な概念に単純ながらも新たな生物学的なバックグラウンドを持ち込ませつつ、従来の言語学的な要素で説明していたラカン的なそれも満たせるのではないかというおなか一杯のご都合主義を考えているわけである。これの説明例になるのが「萌え」という感情である。

 

 まず無意識をニューラルネットワークで生成される弱カオスと仮定する。つまり無意識は意識の下部に広がる領域とされるが、私は意識こそが心的活動のなかでは特異なものであり、それはむしろ心的なOS上で動くひとつの「理性・論理ソフト」ではないかと言う解釈が可能となる。基本は様々な心的活動の弱カオスであり、何らかの形をもちある一定の時間内に安定なものが「心的アトラクタ」を形成していて、それの総体が心的活動ではないかと思っている。アトラクタで説明するメリットは、ニューラルネットワークから電位のカオスが生成されるモデル(ホジキン・ハックスレーモデルから最近の回帰型ニューラルネット等)が数学的に可能と思われること(多分)、実際に(「感情」ではなく嗅覚という「感覚」に関してではあるが)カオスが脳内で検出されていること、そして精神分析的な無意識の重要な性質である転移、同一化等がアトラクタにより適切なモデル化が可能である(と思われる)こと、以上の3点にある。

 

 しかし、ここが肝心なのだが、従来の精神分析における心的モデルは従来は、いかに様々な改変や精密化が為されていても基本的にはエネルギー論的なもので、心的エネルギーが最も低くなる状態が安定しているという位置エネルギー的なものを考えていたのではないかと思われる。つまり二大欲動であるナルシズムとリビドーが最も適切で安定した先に備給されることで心的な安定が得られるという考え方が基本になっており(位置エネルギー的に一番低い位置のアナロジーか)、そこから局所論的な様々な細かい議論がなされるわけである。しかし以上のような考え方では、無意識の性質や、反復脅迫や、心的外傷後ストレス障害(PTSD)におけるフラッシュバック等、そして本稿で最も問題にしている「萌え」という感情や、その基礎となているオタクの心的構造について、科学経済論的にスッキリした説明をするのが相当困難であると思われる。無理矢理それを組み込もうとすると「死の本能」などというトンデモが出てきてしまうのではないかと思われる。そこで先ほどからしつこく述べている心のモジュールをアトラクタに擬えることでこれらの問題を上手く解決できると思うのである。

これは全くの視覚的な直感と決め付けに過ぎないのだが、従来心的に安定といわれる心的状態はアトラクタのなかの安定平衡点かリミットサイクルに相当し、心的な相空間、状態空間の一定の場に留まるものと決め付けよう。つまりナルシズムやリビドーが満たされな充足した状態、平衡安定点のようにその安定点から動かないでいる状態や、ある一定の軌道をぐるぐる回っているリミットサイクルというイメージである(あくまでイメージであり、これを定式化するためには数学的な理想化を行ったうえでのモデル化が必要かもしれないが、かつてそれを行った晩年のラカンがしょーもない方向にしか行かなかったことを考えると・・・)。従来の精神分析はこの平衡点かリミットサイクルを目標とした心的システム、局所論的発想しかなかったために、幾つかの無理があったのだと思われる。その例が「死への本能:デストルドー」や反復強迫といったナルシズムを満たす方向とは逆の心的ベクトルである。そして「萌え」という心的に励起しつつ安定しているという二重で一見矛盾した心的状態を「機能不全」的にしか上手く説明することが出来ない。唐突だが「意識システム」とはこのように安定した弱カオスを無意識からフィルタリングして検閲を通った感情の総称であると思われる(フロイドのメタ心理学の理論そのまま)。

 それに対して「無意識システム」の基本はトーラスやストレンジアトラクタと、アトラクタになりきれない?弱カオスの集合体であり、そこでは言語的な転移、同一化、鏡像反転常に行われている場として想定しうると考えられる。これはかつて丸山圭三郎氏が生の混沌として語っていたことを強く連想させる。ここで言語学的な要素が感情や認識におけるそのような無意識的な異化作用を受けることを定型化するためには、実はそれら全ての心的活動が「同様な」レベルにあるアトラクタであることを想定したうえで、アトラクタの性質に伴う何らかの数学的な変換として表わせなければならないが、実際の数学に疎い私は、現在のところ適切なアナロジーを知らない。しかしこれはかなり容易ではないかと実は楽観的に高をくくっている。要はアトラクタにおける要素間の引き込みが生じれば、転移、同一化、鏡像反転に上手く説明が付けられると思う。これは私の今後の宿題ではある。話を進めよう。

 萌えはストレンジアトラクタのうちローレンツアトラクタのように位相空間における図式化からイメージされるように、異なったふたつの中心の周囲を行ったり来たりしながらも一種安定した軌道を通る感情の弱カオスではないかと思われる。ふたつの中心とは、リビドーを満足させる「感情軌道」とカワイイという感情、すなわち対象に投影されたナルシズムを満足させる「感情軌道」である。「萌え」はこの二大欲動を同時に満足させるだけでなく、双方どちらかの「感情軌道」にも落ち着かないので、どちらかに満足しきって平衡安定点に落ち込んでしまい、その心的弱点である倦怠と飽きることを避けられるという画期的な利点がある(笑)。これが「萌え」という心的状態の最も素晴らしい??ところであり、従来どんな充足の感情も免れ得なかった「退屈」からくる更なる衝動の充足の必要、強迫的な次の衝動を探さなければならない必要のない感情である。それがどのようにオタク的文化において「発明」され育ってきたかは面白い今後の課題である。

 

 しかし今までの説明からすると、アトラクタとは言え不安定で意識の安定性を脅かしかねない「萌え」は無意識の領域になりそうなものだが、当然のことながら「萌え」は意識に上る感情である。したがって「萌え」は意識に上るために従来とは異なった方法で検閲のフィルタリングを通るのか、それとも意識システムが従来の平衡安定点的な感情と認識しか許さないものではなくなってきたかの何れかであると考えられる。前者ならば説明は簡単である。つまり一般にリビドーを充足させる感情や認識は意識化の検閲を受けやすいので、リビドー充足という相貌ではなく、カワイイという実は変形ナルシズムだが一見慈愛的感情に偽装して意識システムに上ると考えられる。萌えに非自覚的な場合はこれが考えられやすい。後者は以前ワタシの精神分析的な考察(笑)から導かれた結論と同じになる。

 つまり繰り返して言えば、精神分析的な知の方法が一般的となってきた現代で可能になるわけだが、我々オタクは現実の女性もTVやグラビアのアイドルもコスプレ少女も「虚構」のギャルゲー少女も、実際に我々の性欲動の備給先になるという萌えという「現実」を抑圧せず虚構に惹き付けられる身体からの敗北を受け取りつつ自我のメタ的コントロールによって自我の安定を図っていると思われる。これを無意識の心的カオスに沿って翻訳すれば、意識システムが無意識を含めた心的システム全体を一つのアトラクタの集合として安定させるために、一部の無意識をもメタ的にコントロールする方法を見つけたのが「萌え」であるということになる。ここからむしろ演繹的に想定されるのは、このように心的システムをアトラクタの集合として、階層的なアトラクタが更に存在し、それぞれの階層において安定を得るための心的構造の再構成が不断に行われているという、これまた現代の脳科学の主流?の階層的モジュール説ではなく、解釈学的カオス的脳モデルにおける機能的アッセンブルを思わせる。これには多分数学的なバックボーンがあると思われ、これまた心的システムを精神分析的にカオスを用いて再構築するための私の宿題である。

 面白いことに(と勝手に面白がるが)、以前私が過去に『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』においてそのマトリョーシカ的な階層構造がなぜ鑑賞者を惹き付けるのかという問題が残っていたわけだが、もしかしたらこのような心的な階層構造に共鳴、振動の引き込みするようなことが生じていたのかもしれないが、それはかなり話が飛躍しているので、まあそんなこともあるかもしれない、と言ったところである。

 

 

さて、今まで萌える心的構造にだけに話を限局してきたわけだが、当然のことながら萌えの対象となる作品やキャラクターなどについてはどう考えるかが問題となる。

 萌える要素がデータベース的に存在して、オタクはそれに反応して萌え萌えになるんだね実に動物的じゃんっていう東氏のデータベースとシュミラークルの二重層の理論とか(ちょっと意地悪な誇張あり)、養老孟司氏が『バカの壁』とかで述べている脳の入出力の一次方程式モデル(第二章、第六章)とかは、いかにも旧来の「線形方程式」的思考の目先を変えただけというか、モデルとしてもシロウト向けのざっくばらんな話としても面白くないし雑すぎるように思われる。双方に共通する難点は、ココロにおける「個性」や微妙さや思いもよらない反応や行動に対する説明が全くできないか、説明に要する要素を無限に増やすことで場当たり的対応の説明をするという点である。その意味では昔の本能説と変わりが無いと考えられるし、要素を新たな現象に幾らでも加えられるという意味で検証不能=科学の成り立ちをしてないしね(驚くべきことにワタシのいい加減な「カオス的萌え理論」は検証可能であり実験系も「簡単」に出来る、筈)。例えば前者では、なぜ微妙な入力(キャラやその目鼻立ち性格等々)の差が、例えば萌えキャラならばほんのわずかな絵の差が萌えと非萌えを分け隔てるのとかに関する説明を放棄しているし、後者なら様々な入力要素に対応する出力の一次方程式の定数がどのように決まってくるのかということに対する説明を放棄していることである。東氏は自分はアニメに詳しくないから知んもんねと言い、養老氏はきっとそんな細かいことまでは知らもんね、と言いたげなのがダメダメである。ワタシは別に還元学的な思考しか認めていないわけでもなく、博物学的思考を否定するものではない。さらに養老氏の昆虫的博物学的思考が現在のDNA万能主義的生物学におけるアンチテーゼとしての有用性は理解しているつもりであるが、ヴィトゲンシュタインもヒルベルトもそうであったように、理論の限界までを突き詰め自ら限界を体現しないうちは、その限界の外にあるものも生まれてこないと思われる。

 それに対してワタシの主張する、未だいい加減なアイディアに過ぎない「カオス的萌え理論」は、確かにこのままの定性的な議論であれば、上記したデータベース理論と大した違いはないのだが(アトラクタの種類を任意の感情に当てはめるという意味で幾らでも理論の範疇を拡大・捏造できる)、もしそれを数学的モデルをシュミレートして萌えモデルを作ってみたり、または実際のヒトの萌え感情を脳の局所電位位相図等で計測することで検証可能であり、驚くべきことに「科学」の範疇に入れられるのではないかと思っているのだが、実はそれはあまりたいした利点ではないかもしれない。

 

 では、話を戻し、萌えに独自のコードが存在するのかという疑問であるが、オタク的直感で言えば、これは脳におけるヒトの顔、相貌の認識と関係して、ある程度、一部先天的、一部後天的な萌えコードが存在してもよいのではないかと思われる。その理由というかイメージとしては体性感覚入力の体性局在を図式化したペンフィールドのホムンクルスである。これは体性感覚に対応する大脳皮質に応じて描かれた「きんどーさん」みたいな変形した人体図で、一度くらいは見たことがあると思うのだが、重要な部位が不釣り合いに大きな場所を占めるように描かれており、口唇や手指がヤケに大きい。これは雑に言えば触覚に対応する皮質コラムが作り出すヒトの像である(このような脳の局所的機能論はカオス的、解釈学的脳理論で言えばフィクションではあるのだが)。では視覚においてこれに対応するようなモノがあるのではないのかと思われる(ただしそれは皮質野に対応しているものでも、相空間に何らかの形で「暗号化」されている状態でもかまわないわけではあるが)。そしてそれは、いわゆる萌え絵に相当しているのではないだろうか?それはどこまでが遺伝的コードでどこまでが学習環境要因で成立しているかは、さして問題にならない。とにかくそのような萌え要素に共鳴するコードが脳内に生得的にあるか、鳥の学習くらいには半分遺伝子半分学習なのか、それも思弁的にしか語れない。しかしこのアイディアの背景や根拠は結構心理学的な実験にあったりするような気がするが、例えば顔の認識における瞳の「心理的比率」が萌え絵における瞳の大きさのアナロジーになっているような気がするという程度のものである、今のところは。これについても更なる検討が必要だろうが、少なくともデータベース理論のように「内在的」感覚を置き去りにした説明になっていない説明には陥らないであろうことは予想できる。

 

 

 とうわけで、実に残念なのだが、これ以上今回の原稿を書く時間がない。クオリアの問題にまで話を広げようかとしたがこれで精一杯である。以上の話を簡単に要約して、次回(があればだが)の予告としておこう。

 ヒトの心的活動は弱カオスの集合として解釈学的に「理解」することで、精神分析的な思考に新しい視点を持ち込み得る。それが心的活動のアトラクタとしての理解であり、オタク的文化における「萌え」という感情処理の「発明」はそのなかでもローレンツアトラクタ的な心的活動の代表として考え得る興味深いものである。すなわち二つの中心を決して交わらずに動きつつ安定しながらも止まらない。そしてまた言語を介さずクオリアや心的構造の共鳴、すなわちアトラクタの引き込みを操るものを「映像作品」のなかに探せば、それはまた『千と千尋の神隠し』や『うる星やつら2ビューティフルドリーマー』のような作品がそれぞれ考えられる。言語がそこにどう関わるかを分析することで、人の無意識は本当に言語のように構造化されているのか否かを判定するツールになりうるかもしれない。このようにアニメ等のオタク的作品にヒトの認識や思考の問題に根本的な改変を迫るものが多々あるということだけでも、オタク的文化を育ててきた(笑)私たちの環境は「面白い」のではないのか、まさに「ポストモダン的」ならぬ「カオス(混沌+数学的カオス)的状況」であることを認識してもよいのではないかと思われる。だからそれを敢えて卑下することもなかろう >誰に言ってるかはナイショ。

 

 

 しまった最後にふたつ言い忘れ。「萌え」やオタクの社会との関わり方。自閉的だとかもう聞き飽きた。ガイナックスの武田氏の言葉で十分である。「世界人類が皆オタクになりますように」、と(八紘一宇でも宗教でもないぞ)。

 ふたつめ。私は最近の「萌えだけ」アニメ、ゲーム等の萌え萌え作品を手放しでヨイと思っているかとそうではない。燃える展開の作品が、アニメを活性化してきたのである。多言を弄さず言おう。「萌え」なき「燃え」は無力なり!「燃え」なき「萌え」は無能なり!!、と(島本和彦・談 >ウソです)。

 

(終)

2003/08

 


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