WWFNo.26のページへ戻る
 

GAで「動物化」論を読む

― または、「動物化」論でGAを読む ―

 

清瀬 六朗


 

「データベース消費」

 東浩紀氏の『動物化するポストモダン』の鍵となる重要な概念の一つに「データベース消費」というのがある。この「データベース消費」とは何か? 東氏の説明を要約してみよう。

 「データベース消費」とは、「物語」とは切り離して、キャラクターとかシチュエーションとかキャラクターの一要素とかにのみ「萌え」るというアニメやゲームの「消費」のしかたである。

 この概念は大塚英志氏が提唱した「物語消費」という概念に基づいている。大塚氏のたとえば『ガンダム』などのファンの行動を「物語消費」と呼んだ。『機動戦士ガンダム』にはいろいろなシリーズがある。通称「ファーストガンダム」から映画『逆襲のシャア』にいたる一連のストーリーに加えて、富野由悠季氏が直接にかかわったものもかかわっていないものも含めて多くのシリーズやエピソードがある。そのファンに共通しているのは、「一年戦争」を中心とする『ガンダム』世界の歴史設定であり、さまざまなメカニックに関する設定であり、それを貫く世界観である。『ガンダム』のファンは、その一つひとつのシリーズやエピソードのみを鑑賞するのではない。それらを通して背景にある世界観や設定を楽しんでいるのだ。大塚はこのような構図を「物語消費」と呼んだ。

 大塚の議論では、たとえば『ガンダム』の一つひとつのシリーズの背後に、やはり「物語」的なまとまりをなしているものとして世界観や設定があるということが想定されていた。また、『ガンダム』のファンには、メカニックのファンから『ガンダム』世界の政治思想みたいなものへのファンまで多様なファンがいたが、いずれもやはり具体的な世界観・設定へと関心が集中していたわけで、この大塚の概念には合致しやすい。大塚は、この個々のシリーズやエピソードを「小さな物語」、その背後の世界観や設定を「大きな物語」と呼んで区別した。

 ところが、東氏は、一九九〇年代後半以後、だいたい『新世紀エヴァンゲリオン』放送以後のアニメやゲームの「消費」のされ方は、もはや「物語消費」の枠組みでは十分に解釈できなくなったという。確かに東氏のいう「オタク」たちは「小さな物語」を「消費」しつつ、その背後にあるものを求めている。だが、それは、『ガンダム』のように物語的なまとまりを持った世界観とか設定とかではない。相互に関係がなく、しかも相互にリンクし合っている「データ」の集積体でしかない。そのリンクのしかたというのも、物語のつながりや設定上の必然でリンクしていることよりは、猫耳とかウサギ耳とか網タイツとか、髪の毛の跳ねっ返り(「触角」)とか、あるいは同じ声優によって演じられているとかいう、物語や設定とは関係ないリンクのしかたである。『エヴァンゲリオン』以後の「オタク」は、「小さな物語」を通して、そういう「データ」の集積体を「消費」しているのだ。これが東氏のいう「データベース消費」である。そして、「小さな物語」を入り口として自分の享受したい「データ」を引っぱり出して興奮するという行動が「萌え」だと東氏はいうのである。そういう「データベース消費」を行う「オタク」たちは、「人間」的な物語への接しかたをしているとはもはや言えず、その行動は「動物」的というしかない、というのが東氏の議論だ。ただし、この「動物」的という言いかたは、べつに「動物」化した「オタク」たちを直接に非難して使っているものではない。そうなってくるのが「ポストモダン」社会の必然で、それを「オタク」たちという集団の特殊な性格として非難していては現代社会を理解することはできないというのが、東氏の基本的な考えかたである。

 

『ギャラクシーエンジェル』

 そして、東氏がこの「データベース消費」の典型として挙げているのがブロッコリーの『デ・ジ・キャラット』である。東氏の『デ・ジ・キャラット』解釈はいろいろと誤解に基づいている面がある。たとえば、『デ・ジ・キャラット』は、制作会社から切り離された企業の「宣伝企画」に過ぎないというのが東氏の議論の一つのポイントなのだが、遅くとも『デ・ジ・キャラット』を作って最初のアニメ版を成功させたあたりからはブロッコリーは「制作会社」としての活動にも重点を置こうとしていた。

 だが、個別の事項に関する誤解は別として、現代社会全体の把握のしかたについては「なるほどね」と感じるところも多い。

 東氏は「作家性」や作品にこめられたメッセージを読み解くことが無意味な作品の典型として『デ・ジ・キャラット』を挙げているのだが、同じブロッコリーが作った作品で、この特徴によりよく当てはまりやすそうな作品が、『動物化するポストモダン』が刊行された二〇〇一年にスタートしている。『ギャラクシーエンジェル』である。なお、『ギャラクシーエンジェル』は省略するときには「GA」と呼ぶようにというのが―というより最初は『プロジェクトGA』と呼ばれていた―ブロッコリーの要請であるので、省略するときには「GA」を使うことにしよう。

 ところで、ブロッコリーはこういう「データベース消費」的な作品ばかりを作っているわけではない。たとえば、ブロッコリーが製作したアニメ『ちっちゃな雪使いシュガー』は、たしかに「萌え」要素を適切に配したキャラクターがたくさん登場する物語だったが、古典的な名作志向と言ってもいい内容を持っていた。

 

「データベース消費」の典型としてのGA

 『ギャラクシーエンジェル』は、最初はむしろきちんとした「大きな物語」的なまとまりを持った作品を目指していたのだろうと思う。当初の企画意図は「『スターウォーズ』と『サクラ大戦』を同時に楽しめるような作品」ということだったという。その世界は、設定作り志向の作家である水野良先生を総監修に起用し、細かいところまで周到に設計されていた。トランスバール皇国や「白き月」、そこに従属する「エンジェル隊」という組織といった設定は、エンジェル隊とエオニア皇子のクーデターとの対決という、わりと古典説話的な物語を軸として組み立てられていた。現在、ゲーム版のGAとして実現しているのがこの物語に近いのだろう。楽天的な超ラッキー少女、人情家のカンフー少女、ちゃっかり者の知的な少女、ガンマニア、宗教少女という五人の「エンジェル」たちの設定も、その物語に合わせて展開されていったものと考えていいだろう。

 ところが、その設定の持っていたまとまりと、そのまとまりを作っていた「クーデターとの対決」というシリアスさを完膚無きまでにぶっ飛ばしたのが、アニメ版を担当した浅香守生・大橋誉志光両監督を中心とする制作会社マッドハウスのスタッフだった。マッドハウスは『デ・ジ・キャラット』世界のおバカさ加減を増幅してアニメ化したスタジオである。しかし、GAアニメ版のスタッフはどっちかというと心温まるアニメシリーズだった『カードキャプターさくら』のスタッフである。ところが、GAアニメ版は、知ってのとおり「お気楽ゴクラク」という表現を通り越したすさまじいおバカなギャグ作品になってしまった。

 二〇〇一年にCSで放映された第一シリーズでは、まだ物語的整合性にいちおうは配慮されていた。新入メンバーのミルフィーユ・桜葉がやってきて、いろいろな事件を巻き起こし、やがて去っていくと思わせると予感させるエピソードで終わっている。じつは、第一シリーズでも、やっぱりゲームやコミックスを含む「ギャラクシーエンジェル」シリーズのキャラクター紹介という性格をまだ持っていた。ところが、第七話で、それまで謎めいた雰囲気を残していたヴァニラがロケットの着ぐるみで転がったりしたことで、その性格はすっかり消されてしまい、このあたりからアニメ版はアニメ版として独自の世界を獲得したのだ。地上波での放映が始まった第二シリーズ以降は、第一シリーズの最後にどんでん返しをやってしまった以上、もう偽装は無意味だとばかりに開き直ったかのような暴走ぶりを発揮した。第一シリーズはCSでの放映だったため、見ていたファンは、CSを入れてアニメチャンネルを見ているか、DVDを買うかした層に限られていた。ところが、第二シリーズと第三シリーズは、お子さまを囲む家庭も見る日曜朝の時間帯の放映であった。その結果、この暴走を開始して以後の作品が『ギャラクシーエンジェル』として広く知られるようになってしまった。

 ブロッコリーがGAアニメ版を企画したのは、たぶん、ゲーム版が発表されるまでの「つなぎ」企画だったのだろう。じっさい、ゲーム版が発表された時点でアニメ版は終了している。今後は、ゲーム内のアニメムービーパートのスタッフとして、アニメ版スタッフを起用していく方向のようだ。しかし、たぶんブロッコリーが当初に意図した以上のポピュラリティーをアニメ版は獲得してしまったのである。

 その結果として、GAは『デ・ジ・キャラット』以上に「データベース」的な性格を強めてしまった。ゲームのクーデター後のエピソードが「本編」で、アニメ版はそのクーデターが起こるまでを描いたサイドストーリーだという位置づけも、第一シリーズの途中でエンジェル隊基地が墜落する描写のあたりから意味をもたなくなった。第二シリーズ以降はアニメは「サイドストーリー」などではない独自の物語展開を進めるようになってしまった。第三シリーズになると、主人公たちが別の宇宙に行ってしまって帰ってこなかったり、死んでしまったり、クーデターが起こるという展開とは違う将来が予定されていたり、どう考えてもゲーム版やコミック版とは整合しない物語が平気でたくさん出てきた。番組自身が「オチがない」と認めていたほどだ。現在のところアニメ版全体の締めくくりとなっている第三期の最終話は、GAの基本設定も、それまでアニメシリーズが築き上げてきた番組の雰囲気ともほとんど関係を持たない独立した物語だった。GAのアニメをずっと見てきたファンの多くがこのアニメ版最終話には強い違和感を感じたほどだった。あれだけ「オチのない」物語に翻弄されつづけ、シリーズとしての一貫性などもう期待していなかったはずのファンにもそれだけの衝撃をもって受け取られたのだ。こうなると統一された「大きな物語」などもう存在のしようがない。「大きな物語」への幻想を徹底して解体して、東氏なら「データベース」と呼ぶであろう次元へと引き戻して見せたのがアニメ版GAだったのだ。「物語の解体」なんてテツガク書を読むよりもアニメのGAを見たほうがよほどよく実感できるのではないかと私は思う。

 

GAの統一性を保持しているものは?

 では、逆に――と考えてみよう。

 それだけ「解体」された『ギャラクシーエンジェル』が、それでも、ゲーム、コミックスを含む一つのシリーズとして認識されているのはどうしてなのだろう? 「データベース消費」が主流になっているのに、それでも一つのシリーズや作品が一つのものとして認識されつづけているのはなぜなのだろうか。東氏の議論であまり深く議論されていないのが、この「何が作品の統一性を担保しているのか」という部分である。東氏の議論は「データベースへの解体」の方向を基本に組み立てられていて、その「解体」のなかで何が作品の統一性を守っているのかという方向性はほとんど意識されない。

 これだけ、たぶん当初の意図を超えて引っかき回された『ギャラクシーエンジェル』で、最後まで守られてきたのは何だっただろうか。どの版でも、多少の違いを含みつつも基本的に受け継がれてきたのが、エンジェル隊のキャラクター像だった。エンジェル隊周辺人物はアニメ版とゲーム版、コミック版で大幅に異なりながら(このあたりには、たとえばアニメ版のキャラであるノーマッドがコミック版には出せないなど版権関係から来る事情もあるようだ)、エンジェル隊のキャラクターだけは基本的に継承されてきたのである。

 たしかにコミック版のミルフィーユはアニメ版のようなバカはやらないだろうし、アニメ版以外のミントは他のエンジェル隊員を笑って謀殺するようなキャラクターではないだろう。そんなことしたらクーデター軍と戦う前に味方戦線が崩壊してしまうし、ゲーム版の主人公(まじめで誠実な若い司令官タクト・マイヤーズ)は危なくてそんな娘に近づきたがらないに違いない。じっさい、「銀河の平和を取り戻す」というゲーム版の宣伝が第三期テレビシリーズのなかで流れたとき、「エンジェル隊のほうがエオニア軍なんかよりずっと銀河の平和をかき乱すんじゃないか」というツッコミを入れたくなったひとは多いのではないだろうか。

 けれども、アニメ版のキャラクターもゲーム版やコミック版のキャラクターと根本的に違うというわけではない。アニメ版以外で設定されていたキャラクターを極端にしたのがアニメ版のキャラクターである。

 その『ギャラクシーエンジェル』のキャラクターは、性格的なものから容姿にいたるまで周到に設定されている。性格については、一つの方向からではなく、「武闘派だけれども人情家」とか、「お嬢様のくせにジャンクフード大好き」とか、二つ以上の方向から設定することで、キャラクターに謎めいた部分と深みをもたせているようだ。「宗教少女という以外は謎」という、東氏の表現でいえば綾波レイ系統の「シミュラークル」的性格の強かったヴァニラは、アニメ版でヘンなお笑い趣味をもっているという性格をつけ加えられてしまい、それが後のシリーズへと継承されている。アニメ版のヴァニラは、第二シリーズになると、ポップコーンを食べるとかヒゲをつけるとかいう自分のやりたいことをやるのに宗教を口実に利用しているだけではないかという疑念を抱かせるようなキャラクターになり、最後までそれが継承されてしまった。第三シリーズの最終話で「お墓あけるの?」と宗教少女らしいことを言ったのがかえって違和感があったぐらいである。

 容姿も確信犯的な複数の「萌え要素」の組み合わせでデザインされていて、それはアニメ版、ゲーム版、コミック版で必ず守られていた。地上波での放映で、おそらく放映局の要請でコスチュームのデザインが一部変更になったぐらいである。当初は、エンジェルたちが乗る「紋章機」という宇宙戦闘艇のデザインもヴァージョンを超えて保持される予定だったようで、またじっさいにそのお約束は守られているけれども、アニメ版では紋章機は基本的に移動手段としてしか登場しなかったので、この意図は少しはずされてしまったかも知れない。

 ともかく、GAのキャラクターは、絵的な面でも性格面でもゲーム版、アニメ版、コミック版を通じて基本的に守られており、それが物語の統一性を確保しているのである。

 

「データベース」状況とキャラクターの役割

 GAのゲーム版とアニメ版は、ぜんぜん違うキャラクターを使えば、たぶん「スターウォーズ+サクラ大戦」的なゲームと、スペースドタバタコメディのアニメとでぜんぜん別の作品として展開されただろう。だが、ミルフィーユ以下のキャラクターが共通していることで(アニメ版とゲーム版では声優も共通していることで)、それは一つの『ギャラクシーエンジェル』として、多少の違和感を伴いつつも受け入れられていった。しかも、媒体が変わって違和感があるというのは、べつに「データベース消費」時代になって始まったことでもない。

 キャラクターは、むしろ「物語」そのものよりもよりも強固に「物語」的性格をまとめる力を持っている。このことは、東氏が参照している大塚英志氏もあちこちで言っていることである。

 「物語」そのものは、始まりがあって、展開があって、一つの終わりに向かっていくという形式の制約がなくなり、マルチエンディング(GAの新ゲームではスタートのほうもマルチスタートらしい)が普通になることによって、解体してしまった。だが、その解体した「物語」を、「物語」そのものにかわって担保している有力な要素にキャラクターはなお力を保っている。

 もっとも、これはキャラクターが商品として売るときに売りやすいという経営的な事情も関係している。単独の「萌え要素」では商品として売れないが、それをともかくもキャラクターというかたちにすれば、キャラクターしだいでは無限のビジネスの可能性が生まれてくる。しかも、この「ビジネスチャンス」欠乏状態の日本である。経営の論理から「キャラクター」に高い位置が与えられているのは、べつに「オタク」的消費の世界だけの話ではない。

 とはいえ、逆に、キャラクターというものに、「物語」自体以上に「物語」を統合する強固な力がなければ、ビジネスとしても成り立たないだろう。

 「物語のなかにキャラクターが設定されている」というのは、企画上の制約から来る思いこみに過ぎない。それは近代的な「文学」的伝統の要請によるのかも知れない。たとえば、夏目漱石の『こころ』の「先生」が、『こころ』という小説の外で何をやっているかということを探っても、あまり意味がない。それが近代的な「文学」の要請であった。

 しかし、じつは、キャラクターが「物語」の都合で設定されているのではなく、キャラクターそれぞれが「物語」の集合体として成り立っていて、そのキャラクターそれぞれの「物語」が集合するところに、「始まりがあって、展開があって、終わりがある」という形式で語りうる「物語」が成立するのである。そのほうが私たちの生活の実態にも近い。私たちは、学校や職場での人間関係、同居している家族との人間関係、近くに住んでいる友だちとの人間関係などの複数の「物語」を背負っている。『水滸伝』や『三国演義』(小説版『三国志』)、『忠臣蔵』などの「近代」的文学が入ってくる前の「物語」も、各キャラクターにそれぞれの物語が想定されていて、それがそれぞれの「大きな物語」のなかに位置づけられていた。その関係を無理やり逆転させたのが近代的な「文学」の制度だったと思っている。

 私は、「データベース消費」段階になっても、キャラクターが「萌え要素」の集合体にまで解体されてしまうということは言えないと思う。いつかはそうなるのかも知れない。けれども、現在の段階では、もう少し「キャラクター」という存在に関心を払って分析してみてもいいんじゃないかと私は思っている。

 私は東氏の「動物化」論や「データベース消費」論をひっくり返したくてこんな議論を書いているわけではない。むしろ、「データベース」の世界の中に「キャラクター」というものが生き残り、力を持ちつづけているのだったら、そのことが「データベース」化した社会のある一面をよく表現しているのではないかという興味を持っているのである。つまり、その「キャラクター」が、どうして個別のデータのあいだに本質的な価値の差がない「超平面」的な「データベース」の世界で特権的な地位をもちうるのかという問題設定を一度はしてみたほうが現代の社会を読み解くにも有効な気がするのだ。

(終)

2003/08

 


WWFNo.26のページへ戻る