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「ポストモダン」の憂鬱

――  東浩紀氏の「オタク」論の感覚 ――

 

 

清瀬 六朗


 「現代思想」の批評家 東浩紀氏が「オタク」や「オタク系文化」について書いた批評を読んでいる。新書版一冊だからかんたんに読めるかと思ったが、最初に予期したよりも長期戦になりそうだ。

 私自身はたぶんこの批評で議論の対象になっている「オタク」の一人になるのだろう。ハイエナがハイエナの観察記録を読んで喜ぶかというとあんまり喜びそうじゃない。同じように、「オタク」が「オタク」について書かれたものを読んでも、はっきり言ってあんまりうれしくはない。無断で自分の秘密をのぞき見られて、ごちゃごちゃといろんなものが入って自分でも整理のつかなくなっているカバンの中を引っかき回されているような気がするのだ。

 しかし、この東氏の「オタク」論は、「オタク」を外から一方的に決めつけるのではなく、その実態を追いつつ自らの「現代思想」の枠組みで説明しようとしている。この姿勢は私は基本的に評価しているつもりである。

 

「オタク系文化」の特徴

 東氏は、「オタク系文化」を、一九六〇〜七〇年ごろに始まった新しい時代の特徴がよく現れたものだとして説明している。その動きを私が読みとった範囲でまとめてみよう。

 一九六〇〜七〇年ごろの産業先進国諸国では、資本主義の高度化とともに、人びとの欲望のあり方や消費行動が多様化し、文化のあり方に変化が見られるようになった。その新しい文化のあり方は「オタク系文化」によく現れている。

 では、東氏の言う「オタク系文化」とはどんな特徴を持っているものなのか?

 「オタク」たちは、たとえばアニメやゲームを一つのまとまった物語として受け取り、楽しんでいるわけではない。アニメやゲームが提供するいろんな「データ」のセットから、自分が望む要素を思うままに抜き出して、感動したり楽しんだりしているのである。

 その「要素」とは、「頭に猫耳のついた女の子のキャラクター」とか、「病弱な少女がけなげに生きるエピソード」とかいうものである。「オタク」たちが楽しむアニメやゲームには、ほかにも、「メイド服の少女」とか「無表情美少女」とか、「勝ち気なスポーツ少女のエピソード」とか「陰のある孤独な優等生のエピソード」とかいう「データ」も収録されている。「オタク」たちは、そういうたくさんの「データ」を「収録」したアニメやゲームから、自分の望む要素を勝手に引っぱり出しては楽しみ、ばあいによってはそれをもとに同人誌を作ったりする。この行動を東氏は「データベース消費」といい、それが「オタク系文化」の特徴だと東氏はいうのだ。そして、「オタク」的な方向への社会の変化を東氏は「動物化」と表現する。なお、それは東氏はもっぱら男性の「オタク」を分析対象としているために、ここに例として引いたようなジェンダー的な偏りがある。

 東氏は、このような「文化」が生まれたことについての経済や技術の関わりを無視しているわけではない。しかし、東氏は、より文化や「現代思想」それ自体の流れのなかでこのような「文化」を位置づけようとしているようだ。

 だが、私は、東氏の見通しのよい整理を読んで、東氏が指摘している「文化」の変化は、経済と技術の発展それ自体によって生み出されたという説明ができるのではないかという思いを抱いた。

 そこで、経済と技術の状況から、東氏の論じた「オタク系文化」の出現までの過程を解釈しなおしてみようという意地悪なことを考えてみた。それで書いたのがこの文章である。

 

生産力が制約していた世界

 一九六〇〜七〇年ごろ以後の産業先進国で人びとの欲望が多様化したのは、東氏のいうように資本主義が「高度化」して、人びとの多様な欲望に応じて、多様な商品を生産し、多様なサービスを提供できるようになったからだ。

 それより前は、生産力が十分ではなかったので、何を市場に出すかということは生産する段階で選択しなければならなかった。そうでないと人びとの生活に必要なものが生産できなくなってしまう可能性があったからだ。もちろん社会のなかの人びとをいちおう餓えさせないだけのモノは供給できたが、そういう必需品レベル以上のモノを、今日から見て十分に豊かに生産できる生産力があったわけではなかった。

 これは文化面についても言える。そのころの出版物はいちいち活字を組んで作っていた。写真製版もいまよりずっと特別な技術だった。だから、出版物に載せる文章や写真は編集の段階で厳選しなければならなかった。

 また、生産力の制約から、世のなかに出回るモノの量はまだ限られていた。だから、そのモノを配分する権限を持っている者には権威があった。会社だと社長とか部長とか、家庭では稼ぎ手である父親とその稼ぎ手を支える母親だった。こういう権威者が定める「規範」に従わなければ生きにくい社会だった。子どもが親に反発して家を飛び出したところで、生活に必要なモノはとりあえずなんでもコンビニで手に入るような社会ではなかったのだ。けっきょく、ある程度の生活力が身につくまでは親の権威に従わざるを得なかった。また、会社に個人で反抗することはほとんど不可能で、会社に対抗するためには、会社と同様に大きな力と権威を持った労働組合組織に頼る必要があった。

 親とか会社とか、労働組合とか、そういう大きな権威の決めた「規範」が、この時代には社会のなかで強い力を持っていた。

 生産力そのものの制約と、社会の生産力に十分に余裕がないことが社会のなかの規範の力を支えていたことから、この時代の社会は、社会全体の共通の規範によってまとめられていた。人びとに多様な欲望があっても、社会の側がそれに対応できず、結果的にその多様な欲望のうち、規範が認めうるものだけが社会のなかで実現されていったのである。その規範からはずれるものは、社会のなかで無視されるか、「裏」や「地下(アングラ)」の存在として密かに流通するかどちらかしかなかった。

 

一九六〇〜七〇年代の変化

 しかし、一九六〇〜七〇年代に、資本主義社会の生産力が上がり、資本主義は多様な欲望に応じることのできる余裕を持つようになった。

 資本主義社会がその多様な欲望に応じはじめると、多様な欲望を持った人びとはそれぞれの欲望をその資本主義社会のなかでかなえようとする。それによって多様なモノやサービスが売れるようになると、資本主義社会の側もなるだけその多様化に対応しようとする。

 資本主義にとって多様化というのは本来は望ましいことなのだ。

 売ったり買ったりする商品が一つの種類しかなければ、その一つの商品が売れなくなったり、何かの事情でその商品が作れなくなったりした段階で、経済は動きを止めてしまう。逆に、たくさんの種類の多様な商品を手広く扱う経済は、どれか一種類の商品が売れなくなったり作れなくなったりしても、他の分野の商品でその問題をカバーして、打撃を小さくとどめることができる。

 たとえばパソコンしか売っていない店は、その社会でパソコンが売れなくなったら壊滅的打撃を受けるだろう。パソコンと携帯電話を売っている店だったら、パソコンが売れなくなっても携帯電話が売れるかもしれないので、パソコンが売れなくなったときの打撃は小さい。それでもパソコンと携帯電話は同じデジタル機器だから、デジタル機器全体が売れなくなったらやっぱりこの店は危ない。ところが、もう一つ、減農薬野菜を売っていたら、パソコンと携帯電話が売れなくなっても野菜の売り上げで店を支えることができる。逆に、日照不足などで野菜が入荷しなくなってもパソコンや携帯電話の売り上げで店をつづけられる。減農薬野菜とパソコン・携帯電話とはぜんぜん別の種類の商品だから、同時に売れなくなったり、同時に品物が入らなくなったりすることは、あまり起こらない事態である。

 このように、資本主義にとって、その市場で扱う商品が多様化することは望ましいことであり、資本主義はその方向に向かって発展する。ただ、生産力に余裕がない社会では、その資本主義の生産力を必需品に向けざるを得ず、その多様化の方向性が犠牲になるのだ。

 この生産力にものすごく余裕がないばあいにはどうなるか。生産力を食糧などの必需品の生産に振り向けるために、政治の力で、ばあいによっては軍事力や経済力も動員しながら、資本主義のあり方を無理やりにでも決めていかなければならない。20世紀の「共産圏」の「社会主義」体制とは、じつはそうやって政治力と軍事力で生産をコントロールするための体制だったのだ。貧しい国にばかり「社会主義」の体制が生まれたのはそういう必然性があったからである。

 べつに社会主義国だけに限らない。反共産主義の立場で独裁を行っていた「第三世界」の国ぐにがやったことも同じようなことである。日本も韓国もある段階までは同じように政治の力でその国の社会全体の生産のあり方をかなり強力にコントロールしていた。

 一九六〇〜七〇年代の先進国というのは、社会の必需品は一通り供給できるようになり、生産力に余裕ができた時代だった。

 生産力に余裕が出てくれば、資本主義は人びとの多様な欲望にしたがってなるだけ多様な商品(モノやサービス)を資本主義のなかに取りこんでいこうとする。それがさらに「多様なもの(モノやサービス)を消費したい」という欲望をかき立てる。そうして資本主義社会は一挙に多様化を進めていく。

 生産力に余裕が出てきて、社会のなかの多くのものごとが資本主義社会に取りこまれていったことが、旧来の権威を揺るがし、社会全体を縛る規範を弛めた。おカネやモノが豊富に入ってくるようになったので、それを分配する権限を握る会社とか組合とか親とかの権威も低下した。

 また、人間は、多少は逸脱はあっても、人間は定まった規範のなかで行動するモノだという旧来の権威の持ち主たちの考えが実際の社会の動きに合わなくなってしまった。そのため、旧来の権威の持ち主たちは単なる「時代遅れ」の存在になってしまい、その権威は失われた。それとともに、社会全体を覆う規範も弛んでしまった。新しい規範を立ち上げようとしても、人びとは多様な生きかたを始めているのだから、「社会全体を覆うような規範」は、ごく基本的なもの以外は生み出しようがなかった。

 こうなってくると、「高級な文化」(ハイカルチャー)と「低い文化」(サブカルチャー)との区別なんかなくなってしまう。そういう区別が意味があるのは、旧来の規範がまだ通用すると考えている「時代遅れ」の人びとのあいだでだけということになってしまう。その区別が通用するのは、せいぜい、その「時代遅れ」の人びとの価値観に対抗して自分たちの「サブカルチャー」的な価値観を守ろうとした記憶を持つ人たちまでである。

 

「モノ」の制約から解き放たれた情報

 だが、情報の流通がモノによって制約されているかぎり、情報の流通には大きな制約がついて回る。

 モノには、同じ一つのモノは一つしか存在し得ないという制約(希少性)がある。一つのパンを千人の人間が欲しがったとしても、パンがいきなり千個に増えるわけもなく、パンは一つのままである。ところが、情報は、一つの情報を一人の相手に伝えることもできるし、千人の相手に伝えることもできる。伝えるときにミスすれば伝言ゲームのように情報の内容がお粗末になってしまう(情報が劣化する)可能性もあるが、注意すればもとと同じ情報を伝えることもできる。情報は、「一つのパンは何人が欲しがっても一つのままだ」というモノにつきまとう制約からは本来は自由なのだ。

 けれども、情報がモノによって運ばれているかぎり、情報もそのモノにつきまとう制約に制約される。本に書かれた情報は本を刷った数だけしか行き渡らない。違法を覚悟で一冊まるごとコピーするという方法もないではないが、面倒だし、コピー費用のほうが高かったりする。二〇年も前にはコピーも高かったのだ。一枚五〇円とか、ほかは二〇円でA3だけは五〇円とかいう、いまから考えるととんでもない値段を取っていた店もあったし、だいいちコピー機のある店がいまのように多くはなかった。

 レコードに刻まれた音楽もレコードの数だけしか流通しない。テープにダビングすることはできるが、やっぱり面倒だし、それに音質は劣化してしまう。テレビやラジオで多くの人に同じ情報を流すことはできたが、それを同じ質でさらに他の人に伝えていくことはできない。エアチェックしてもやっぱり画質や音質は悪くなる。

 だから、単純な情報はともかく、長い文章や音楽や画像・映像は、媒体としてのモノの流通に制約されていた。「ある一つのモノは一つきりしか存在し得ない」というモノの性格が情報の流通を強く制約していたのだ。したがって情報を手に入れるにはそれ相応のおカネを支払わなければならなかった。

 ところが、コンピューター技術の発達と情報機器の普及が、情報を「モノ」の制約から解き放った。

 情報機器が普及すると、情報をデジタルで記録する媒体の単価は安くなる。二〇〇三年の現在、何ギガバイトものデジタル情報を記録できる媒体が買える値段で、一五年前には一メガバイトの情報も記録できない媒体が買えなかったのだ。

 さらにコンピューターがネットで結び合わされることで、情報は「モノ」を介しないで電子的にやりとりされるようになる。こうなると、「ある一つのモノは一つきりしか存在しない」というモノの本質が情報の流通をほとんど制約しなくなってしまう。

 情報の流通がモノに制約されている時代には、やはり情報もある規範にしたがって構成されなければならなかった。その時代に価値があると考えられた規範にしたがって構成された情報が質のよい情報とされ、そういう構成がなされていない情報は、流通に載る段階の前で切り捨てられていたのだ。

 アニメなどでは、たとえば起承転結のはっきりした物語など、ある「型」に構成されたひとまとまりの物語にまとめられたモノが、流通に載せる価値のあるモノとして流通した。せいぜいヒット作で続編が作られたりサイドストーリーが「小説版」として刊行されたりするにすぎなかった。しかも、それも、基本的にアニメの物語を書いた作者が書くか、版権を持っている会社がだれかに依頼して書いてもらうかだった。

 ファンが同人誌のかたちで勝手にサイドストーリーを作り、流通させることもできないではなかった。しかし、一九八〇年代までは同人誌の印刷もいまよりはずっと不便だったし、高かったし、同人誌即売イベントもいまほど盛んに開かれているわけでもなかった。ファン活動のなかでアニメのサイドストーリーを作ったとしても、それが流通する力は、正式の作者と版元を通した製品版とくらべてはるかに小さかった。

 

マルチエンディングの普及と「一つの物語」の崩壊

 しかし、情報の流通がモノの制約から自由になるにつれて、そのあり方が変わってくる。

 一つのパッケージに、複数の物語を構成するような情報を詰めこむだけの余裕も生まれた。最初は、それでも、一つの「成功する結末」を中心に組み立て、そこに到達するための仕組まれた障害としていくつかの「失敗の結末(バッドエンド)」を配置するというようなものだった。しかし、情報を流す際の制約が小さくなるにつれて、複数の「成功する結末」を配置することができるようになる。

 アニメやストーリー性の高いゲームが「一つの物語」を構成していなければならないという規範も力を失う。それは「情報はモノによって運ばれ、そのモノは、一つのモノは一つきりしか存在しないということから来る強い制約を受けている」という事態が生み出し、存続させつづけてきた規範だったからだ。数少ない貴重なモノ、つまり本とかレコードとかビデオテープとか電波とかに載せるのだから、いいかげんな情報は載せられない。規範に合ったモノしか載せるわけにいかない。アニメなどで「規範に合ったモノ」とは「一つの物語」を構成しているものだった。だからアニメやゲームには「一つの物語」であるという構成が求められていたのだ。

 この規範が崩れると、自分の好きなものに接するために、自分にとっては関心のない要素や、退屈な部分、自分にとっては接するのが辛い部分などをぜんぶすっ飛ばして、自分の好きな要素や好きな場面や好きなキャラクターだけを選んでそれを楽しむという行動が可能になる。

 人は、自分の好きな物語にならば何度でもつき合うが、好きでもない物語になんか一瞬でもつき合いたくないものだ。自分の好きな人、自分の好きなもの、自分の好きな場面だけを見たいものである。

 ただ、好きでもない物語に、好きな登場人物とか、そこだけはむしょうに好きな場面とかがあるばあい、「一つのまとまった物語」で作品が提供されなければならないという規範の下では、ある程度は好きでもない物語につき合わなければならなかった。しかし、現在では、その規範が崩れてしまったため、好きな要素だけを引っぱり出して見ることも普通の接しかたになってしまった。

 受け手の側がそうなってしまった以上、供給側もそれに合わせた作品を供給するのが合理的だということになる。こうして、膨大な「データ」をセットとして供給し、そこから受け手が勝手に好きなデータだけを引っぱり出して楽しめるように最初から仕組んだ商品ができあがっていく。

 東氏の言う「オタク系文化」の完成である。

 

人間性は何も変わっていない

 東氏は、この「オタク系文化」の出現を文化の大きな変容と捉え、人間の感性とか行動様式とかが根本的に変化してしまったのだと捉えている。

 「なんとロマンチックなこと!」と私は思う。人間性の根本からの変革こそ、一八世紀末からロマンティシズムが追い求めてきた夢だったではないか! たとえそれが「人間」から「動物」への変化であろうと――そして東氏はいま起こっているのがまさに「人間」の「動物」化だというのだ――、人間性が基本的に変化しないという筋書きよりはずっとロマンチックなものなのだ。

 だが、私の考えは、まったくそうではない、散文的なものだ。

 人間はずっと昔から好きでもない物語にもつき合いたくはなかった。自分の好きな人物や好きな場面だけを選び出してそれを味わいたかった(東氏流にいうと「消費したかった」)。現に歌舞伎の名場面だけの上演とか、オペラの有名なアリアだけ聴くとか、そういう楽しみかたはずっとあったわけだ。

 けれども、社会全体で共有されている文化的規範が、そういう一部分だけを楽しむことが一般化するのを妨げた。どうしてそんな規範が存在したかといえば、生産力が十分でなかったために、社会のなかで流通することを許される情報が限られていたからだ。

 しかも、近代的な「文学」では、部分ばらばらの享受のしかたを許さないということが「制度」になってしまっている。「全体」を鑑賞しないと十分に理解もできないし感動も得られないような作品であることがかたちになってしまったのだ。だから、モーツァルトのオペラの曲は一部だけ取り出して聴いても独立した名曲として聴けるけれど、ワーグナーの『ニーベルンゲンの指輪』の曲を一部だけ取り出して聴いて感動するのはけっこう難しい。『指輪』の「名場面集」に収録されているものは、たいてい、原曲では次へつづく部分を無理やり終わりにしたり、歌・セリフの部分を楽器に置き換えたりして、名場面集用に編曲したものになっている。

 生産力が発展して、まず多様なモノを社会に供給するようになり、つづいて情報の流通をモノの制約から解き放ったことで、人間の宿願だった「自分の好きなものだけを思うぞんぶん享受したい」という願望がごく普通に実現できるようになった。それが、近代的な「文学」の制度を突き崩してしまったのだ。

 その結果として出現したものが「オタク」的な行動様式や「オタク系文化」として現れているのである。

 人間が動物になったことにする必要なんかない。生産力の向上が、人間がほんらい持っていた願望を自在に実現することができる環境を実現してしまっただけなのだ。もしそれによって人間が動物になったというのなら、人間は最初からほんとうは動物だったのであって、生産力の不足から来る制約が「動物」を「人間」にしていただけなのだ。

 そう、「好きなものを好きなだけ取ることができる」とは、マルクスがその理想社会として描いた共産主義社会の姿だったのではないか?

 いまでは、共産主義というと、一九八〇年代前半のソ連や中国のような強制と抑圧と貧困を思い描くのが普通だろう。あるいはいまの北朝鮮のようなイメージか。しかし、マルクスにとっては共産主義の社会とは理想的な社会だった。マルクスの共産主義社会は高い生産力に支えられているので、人は少しだけ自分の好きなように働けば、それで社会の人がほしいと思うものはなんでも生産できてしまう。資本主義社会のようにあくせく働く必要はなくなる。それでも好きなものは望むだけ手に入る。それがマルクスが理想とした共産主義社会なのだ。こういう理想は、別にマルクスだけではなく、マルクスの反対者たちも含めて、一九世紀の社会主義運動家たちの多くが抱いていた共通の理想だろう。実在の共産主義社会は、生産力が高くなっていないのにその理想の共産主義のまねをしようとしたから失敗したのだ。

 東氏のいう「オタク」とは、情報の理想的共産主義社会の幸福な住人たちなのである。

 

終焉の感覚と居心地の悪さ

 東氏の『動物化するポストモダン』を読んで感じるのは、東氏が現在に対して持っているぼんやりした不安の根強さだ。

 東氏は「歴史の終焉」ということを話題にする。「歴史」のゲームをプレイしていたあいだ「人間」だった存在は、「歴史」のゲームが終わったあとには「動物」になってしまった。

 「歴史の終焉」後の社会で、人間は膨大な「データベース」のすべてを体験することが原理的には可能になっている。また「動物」と化した人間たちはそれをじっさいに体験しようとする。だが、「データベース」の豊饒は何をもたらすこともない。せいぜい、データベースに接することで、何の変わり映えもしない「互いに似通ったもの(シミュラークル)」の体験がプレイヤーの経験に一つ加わるだけである。「いまの人生とは違う、あり得たかも知れない別の人生」をいくら生きて体験を重ねたところで、その先に想像されるのは、あまりに定型化された「剣と魔法」の世界でしかない。

 それが、東氏が『動物化するポストモダン』の最後でゲーム『YU‐NO』を読み解いている部分から感じられる東氏のやりきれない気分である。

 「データベース」の豊饒さは実は何も産みはしない。人間が「歴史」をプレイしていたころに完成された「互いに似通ったもの」の深みに溺れていく一方なのだ。この豊饒と貧困の落差の前に、東氏は呆然と立ちつくしているように私は感じる。

 自分が分析した「オタク的なもの」を「最先端」と位置づけられることを東氏は嫌う。それは、「現代思想」の思想家としての立場による部分もあるし、岡田斗司夫氏や村上隆氏などの「オタク」礼賛論から距離を取りたいということでもあるだろう。しかし、東氏は実は「オタク的なもの」が典型になっている現在の社会、東氏の言う「ポストモダン」の社会に非常な居心地の悪さを感じていて、その「居心地の悪さ」をもたらしているものを「最先端」などと言われるのが本当に厭なんじゃないかと私は感じる。

 

「ポストモダン」の憂鬱

 東氏はなぜ「ポストモダン」という表現にこだわるのか? 「現代」とか「現在」とか言ってしまってもいいはずだ。東氏は自分の思想を思想としての「ポストモダニズム」と区別している。だったらなおさらわざわざ「ポストモダン」ということばを使わなくてもよさそうなものだと思う。

 だが、やっぱり、東氏にとっては「ポストモダン」でなくてはならないのだ。

 木村敏氏は鬱病に特有な時間感覚を「ポスト・フェストゥム」的と名づけた。「ポスト・フェストゥム」とは「祭りの後」という意味で、この「ポスト」は「ポストモダン」の「ポスト」に重なっている。「〜の後(に)」という意味だ。

 木村氏の考えをここの文脈に合わせて単純化すると、鬱病の気分というのは、「祭り」が終わってしまって、その「祭り」の時間はもうどうやっても取り返しがつかないという感覚に似ているということになる。「祭り」のなかでやってしまった軽はずみなことはもうやり直しがきかず、そのことへの後悔は一生抱えていかなければならないという憂鬱、そして、同時に、あの「祭り」の楽しい高揚した気分は二度と自分を訪れることはないのだという憂鬱――それが鬱病に特徴的な時間感覚だと木村氏は言うのだ。

 東氏の「ポストモダン」ということばには、「ポストモダン」という思想的オシャレな語感とは裏腹に、この「祭りの後」の憂鬱が抜きがたく染みついているのだ。

 人間は「近代」という「祭り」のなかにいた。そしてそれが終わった。「祭り」の残したものは目の前にある。しかし、そこからは何の新しいものも生まれてこない。「近代」後の人間は、その「近代」の「祭り」が残したものを、あたかも自分がはじめて出会ったもののようにわざと勘違いしながら生きていかなければならないのだ。

 「祭りの後」の憂鬱は、「祭り」の日々がもう二度と訪れないという予感に裏打ちされている。

 べつにそう予感することを求めているわけではない。むしろ「祭り」の楽しさはいつでも体験できると自分を欺いて行動しつづける。しかし、まさにそのことによって、「祭り」の日々が二度と訪れることはないという確信は深まり、憂鬱はますます深く心に食いこんでいくことになる。

 この「祭りの後」の憂鬱にいくらかでも向き合うために、東氏は「ポストモダン」ということばにこだわりつづけている。次に「祭り」が訪れるという予感が少しも持てないなかで、いまが「祭りの後」であるという自覚を持ちつづけることが、いまの時点での最善の生きかただと東氏は考えているのだ。

 そう読むのは私の勝手な深読みのしすぎなのだろうか。

 だが、私は、「ポストモダン」論の旗手としての東氏には何の共感も感じないが、「近代」という「祭り」を懐かしみ、その「祭り」の時間が二度と戻ってこないという予感のもたらす憂鬱から逃げずに立ちつくしているロマンチストとしての東氏には強い共感を感じたいと思うのである。

(終)

 

 ※ この文章は、清瀬のホームページ「さんごのくに」に発表したものを修正し、最後の二節を書き加えたものです。

 

 

【補説】木村敏氏の時間感覚論について

 近代的な時間とは過去から未来へと変わらず流れていく「均質な時間」である。時計が表現するのはそういう時間だ。近代になって社会全体のお約束になったのがこの時間感覚である。

 しかし、人間の時間感覚には、そういう「均質な時間」とは違う感覚がある。その「違う感覚で計る時間」と「均質な時間」とのズレを自分のなかで処理することで私たちは通常の生活を送っていくことができる。精神病は、そのズレの埋め合わせに失敗したばあいに起こると木村氏は捉えている。そしてそこから逆に私たちの日常に潜む「時間感覚の食い違い」を読み解いていく。

 ここで、木村氏は、近代的な「均質な時間」では捉えきれない「特別な時間」(「祭り」の時間)を感じるのが人間のもう一つの時間感覚の特徴だとする。それと「均質な時間」との関係をうまく見いだせなくなったときに人間は精神病を発症すると位置づけるのだ。

 木村氏によれば、精神分裂病(統合失調症)は、「特別な時間」がこれからやってくるという予感が強すぎることで起こる。その「特別な時間」をどう過ごせばよいかということがわからなくなり、時間が止まっていてほしいのに、「均質な時間」はどんどん流れていく。そのずれが分裂病を引き起こすという。また、てんかんに伴うある症状では、その「特別な時間」を限りなく幸福な時間と感じ、その幸福感は生と死の区別をも失わせてしまうほどのものだという。これに対して、鬱病は「特別な時間は二度と戻ってこない。それなのに均質な時間はどんどん流れてしまう」というどうしようもない「取り返しがつかない」感覚だという。木村氏はこれを「ポスト・フェストゥム(祭りの後)」的狂気と名づけている。

 

2003/08

 


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