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WWF 言いっぱなしブレーンストーミング座談会

 

 

 

押井守対策委員会


ネット上に設けた掲示板サイトに書き込む形で、座談会を試みてみた。参加対象メンバーは、WWF押井守対策委員会各メンバーだが、モノローグよりある意味はるかに難しい「対論」において持説を展開することはなかなか難しい。実験的な企画であり、成功したら以降もやりたいと思うのだがいかがであろーか。

 

「私と押井守(論)」について

 

清瀬六朗

 清瀬です。

 おめでとう、というか、手術後の状態が思わしくない状態でいろいろやっていただいて、ありがとうございます

>奥田さん。

 押井守については、うまく言えないんですが、う〜む、私の世界認識の基礎を作ってくれた人の一人は確実に押井さんですね。まったく関係のない分野の文章を書いていても、あとで考えたら押井作品で聴いたフレーズをそのまま私が書いていたり……などということがあります。

 そんなとこで、とりあえず。

へーげる奥田

さっそくのご協力ありがとうございます。とりあえず押井守に関してマッタリと語って行きましょう。使える部分をアレンジして使う所存です。

先日は『ビューティフル・ドリーマー』のDVDが発売されましたが、やはりあれが事実上の押井守原体験でしたね。あのころはドイツ観念論とかをよく読んでいたのですが、あの辺から意識して現象学系の方向を向いたりしたように記憶しています。

思えば『ビューティフル・ドリーマー』以来、いくつかの押井守作品解釈の方法が提示されてきましたが、そろそろこうした方法論に対する議論、方法自体の有効性や正当性などについてクリティークを加えていくべき段階ではないか、などと思ったりするデスヨ。

 

『ビューティフル・ドリーマー』当時の話。当時でも、押井守作品を論じようという同人誌などはいくつかあったし、その努力をしようとしている個人はありました。しかしなんと言っても発表手段も、知的蓄積もない。その意味でインターネットの出現は実際ものすごく大きかったんですが、それは置いといて、やはり「現実と夢の不可分性を主題としているということを指摘」するのがせいいっぱいという状況だったようですね。それも方法論的な洗練をほとんど受けていないものばかりだった。

そこにおいて、登坂氏の『ゲーデル・エッシャー・バッハ・BD』は相当に画期的だった。今にして思えば、基本的方法としては構造主義的な符号の探索と、それによってなる暗喩の読みとりだった訳ですが、方法論的に論じる価値のある最初の論文だったと思います。そしてこれに対抗できる論はなかなか現れなかった。

これに対抗……した訳ではありませんが、ぜんぜんその気がなかった訳でもなかったですが、意味の地平で本格的に提示してやりたかったんですねー。よく「押井守は哲学的だ」とか言う人は多かったんですが、じゃあどんな哲学なのか。んじゃ自分の目で見てそれらしいと思われる哲学の流派を列挙してやろうか、などと思った訳です。

でも、よく考えてみれば、当時はニュー・アカデミズムがブームだった。なんでもっとまともな研究が現れなかったんだろう、とか今にしてみれば思える訳ですねー。

 

清瀬

 私は、アニメに興味を持ったのが1989年頃でして、だから最初に公開時に観た押井作品というのは『機動警察パトレイバー』の最初の劇場版だった。アニメに限らず、映画をほとんど観なかったんですね、そのころまで。いまもあんまり観ないほうだと思います。というか、興味が出てきたら忙しくなってあんまり時間がとれなくなったというか。

 で、私がそのころまでよく読んでいたアニメ評論とか映画評論っていうのは、テーマ主義的っていうんですか、「この映画のテーマはこうだ」という、その「テーマ」というやつからしか作品を見ない。しかも、そのテーマを、監督にインタビューして聞き出して、それを出発点にああだこうだ言っている。宮崎駿だったら「自然」とかね。で、私も最初はそれで納得していたわけです。

 ところが、押井さんの作品というのは、そういうアプローチにかかりにくい。というより、押井さんが表面に出している「テーマ」、「夢と現実の交錯」みたいなのだけをとりあげて論じると、明らかにそこからこぼれ落ちるものがある。作品を見ていると、そのこぼれ落ちる部分がすごい豊かだということに気がついてくるんですよね。

 たとえば、押井さんが「この映画のテーマは夢と現実の交錯だ」と言ったとして、それを信じて正直に観れば、なるほどそうかと納得はする。でも、そこで正直に信じてしまうと押井さんの罠に落ちたような気分にもなる。その押井さんの方向づけをもし知らないで観たら感じられるはずのいろんな要素が、その押井さんのことばを知っているがために見逃されてしまう。その罠をくぐり抜けた人間にだけ接することができる世界を、押井作品はちゃんと持っている。しかもその世界がものすごく豊かだと。そういう作品だと思うんですね。

 で、押井守作品のそういう楽しみかたを知ってしまうと、どういう作品についても「テーマから作品を見る」っていうのがものすごくつまらない鑑賞法に思えてしまうんですよね。そういう意味じゃ、押井守の作品は、映画を観ることの「引き返し不能」―『迷宮物件』に出てくるセリフだったと思います―な性格を体現していると思います。

 

 私のばあい、やっぱり登坂さんの押井論の影響は強かったですね。

 じつは、『パトレイバー』なんかを観たあとに登坂氏の同人誌を鈴谷さんに紹介していただきまして。最初は「ほかでは読めない押井守のインタビューが載っている」ということで読んだんですが、登坂さんの方法論にもけっこう影響を受けました。都市論とか数学とかに興味を持ちだしたのもそのせいなんです。数学は私にはやっぱり難しすぎてわからなかったけど。

 登坂さんの押井守へのインタビューは、押井さんが語っていることもおもしろいんですが、それは登坂さんが聞き手だから聞き出せたってこともあると思うのです。

 押井さんの作品とか、自分の作品に対する態度とかには、登坂さんが好きなフランスの作曲家モーリス・ラヴェル(「ボレロ」や編曲作品『展覧会の絵』で有名)とも共通するところがある。ラヴェル自身が語った作品解説とか、ラヴェルがとくに否定しなかった同時代のラヴェル評とかに基づいてラヴェルの音楽を論ずると、やっぱりラヴェルの音楽の真価を見失うようなところがあるんです。

 ちょっと横道に逸れるけど、そのへんちょっと説明しますと、ラヴェルっていうのは、とにかくオーケストラを派手に鳴らす音楽を書く人で、優美・絢爛なフランス音楽の代表みたいに言われて、なかみはあんまりない人だと思われている。だから『展覧会の絵』をラヴェルが編曲したことで、ロシアの作曲家ムソルグスキーの原曲の持つ朴訥さが失われた、その曲解のもとを作ったのはラヴェルだなどという攻撃のされ方をする。とはいうけど、この曲、ラヴェルが編曲してあちこちで演奏されるようにならなければまだ無名の作品だったはずなんですけど。……って話がずれましたね。

 でも、じつは、ラヴェルは、第一次大戦に参加して、そこで受けた衝撃、そこからの内省なんかを、きちんと音楽作りにつなげて表現していったような人で、そんな軽薄な人じゃない。でも、ラヴェル自身の言ったことを真に受けてきちんと音楽を聴いていないと、そんなことは伝わらない。そういう作風なんですね。

 それを考えると登坂さんの押井守へのアプローチの道筋もわかるような気もしないでもないんです。

まつもとあきら

座談会代わりのブレインストーミングとゆーか、言いたい放題モードの掲示板だと勝手に解釈してますんで、間違ってたらすいません、最初に謝っときます。ただいまアルコホール血中濃度2.5以上?

登坂さんのBD論はワタシもショーゲキとゆーか大変感激したのですが、一方でそりゃ「違う」んじゃないですか?という印象も強かったです。要は作品の「数学的?」下部構造はこうなんだから、ここから出発しなきゃダメですよ、とゆー印象がご本人の意図とは反対に強かった気がしたもんですから。当時の高橋留美子同人誌界(笑)はその力技に慄いて評論の土俵から一斉に引いちゃったし。

押井氏へのインタビューはあんまし読んでないんですが、実際押井氏本人も作品とは注意深く設計するもんだというスタンスで語っているんで、そりゃもう気が合ってしょーがないでしょーが、それだけでいいんですか、とゆーのが個人的な感想。もう一方のことも(敢えて言ってないのでしょーが)本当は語りたくてしょうがないはずなのに、「誤解」を増大させるのを楽しんでやしませんか、と勝手に考えてました。

で、これは原稿のネタなんですが、押井氏自身が語っているようにアニメ・映画という映像表現を作る際の多方向からのせめぎ合い、そのひとつは言語を介さない映像の力を信じることと、映像の情報量をコントロールすることと、セリフ=コトバで作品に構造を与えること、という互いに相反する?初期条件から生じる「振動」が作品に力と緊張を与えるのでしょうし、これらの操作は人の認識の形式(と認識しているスキーム)そのものだからこそ面白いわけだし。

奥田氏の批判する悪しきテーマ主義はコトバ=論理の切り口からだけの評論になるのでしょうが、そこからこぼれ落ちるものを多方面から補完しても、その間の緊張関係まで語らないと作品の内容カタログになってしまうとゆーことをみんな言いたいんじゃないかと、勝手に思ってる今日この頃Death.

んで、このことを自覚的に作品を作っているという意味で押井、宮崎、庵野作品は異なる方法論なのに近しいものを感じるのですが、最近の押井作品はそのせめぎ合いを振動・アトラクタではなくて平衡点で押さえてしまっているために「物静かな」印象を発散しているのではないかと。それが悪いわけではないけど、好き嫌いでいうとビミョー(NOVAうさぎのアレ)ってヤツかなという印象。BDの方法論がパトスならば、千と千尋は幽体離脱とゆーか自動書記とゆーか。それに対して攻殻、P2、アヴァロンをどう表現するか、思案中。

評論家の東浩紀はその振動をアニメ的なものと言っているのかもしれないけど、なんか表層的なことで言ってる印象もあって、彼程度にはそう簡単に押井さんを批判させないぞという気持ちもありますが、これは近親憎悪?(斉藤環もね)

で、ミニパトなんかはその反動なのかもしれないけれど、平衡点から敢えて動こうとして滑ってしまってやしないかと。ギャラクシー・エンジェルにも負けてるぞと(ウソ)。でもとにかく個人的にあのキャラ設定はキライで、特に干物のヤツはIGのマジなキャラでやってたらスゴイことになってたのではないかと。本編よりセンスオブワンダーですがな。

とゆーわけで言いたい放題ですんで反論待ってます。やっぱ夜中にビィルかっ食らって書くと筆(キー?)進むけど、明日の朝見たらアタマかかえるんだろうな・・・(笑)

奥田

言いたい放題モードの理解でオッケーです。私もそのつもりですな。

で、清瀬氏的視点は、学史的視点という観点で私も同感といいますか、私にとってあの論の意義というのは初の技術的解釈を取り入れた論だったということでした。あの当時、登坂論文をこきおろす者もけっこういましたが、知るかぎりたいしたものはでていない。かなり画期的で強力な論だったことは事実でしょう。

まつもと氏が「違う」と思われたのはいつの時点だったのかわかりませんが、私が感じた「違う」は、「足りない」という意味の「違う」で、それはすなわちかの論が、構造論的な視点から意味にアプローチするという手法に頼っていて、背後にこれみよがしにちりばめてある人文学的思想群にまったく触れいてなかった部分が最初に気になったわけですが、その後構造主義なんかをいろいろ読んでいるうちに、これはハマりやすいな、などと思ったですな。つまり、構造主義という思考形式ってのは、相当に気をつけないとトンデモになりかねないわけです。

そして、解釈学的な視点から言えば、「作家の意図をさぐる」という視点自体どこまで意味があるのか、ということになる。私もごく一部を除いて押井守インタビューとかにはあまり興味ないんですが、それはそういった方法論に由来するものです。

で、でして。

構造の解析から「作品記述者が作品に込めた意図」を読み取るという方法は、決定的な限界に直面することになる。たとえばつげ義春の『ねじ式』なんか、作者は別になんか深い「意図」なんか画策していなかった(と述懐してるだけで実は意図していたかも知れないんですが)わけだけど、作からは時代というかなんというか、いろんなものが読みとれ「てしまう」。

結局、作品が何らかの意図のもとに構成されたという前提に拘泥するかぎり、作者に直接「正解」を訊かなくてはならなくなる。……というところが初期の頃から言っていた主張だったわけですが、最近自分自身もいろんなカベに当たってきたんスね。

押井守作品の要素をいろいろ考えるに、階層型のデータモデルといった形式(多義的な意味においてのことだが)という感じを受けた。ただ、そういった表現の形式論にまで話を広げると、押井守作品だけに妥当する話かどうかという点を吟味しつつ考えないと思考を継続することができない。こういう「悩み」は私だけのものではない……か? う〜んアタマがまとまらん。背後ではマンガ夜話やってるし。

清瀬

 『ギャラクシーエンジェル』は私は好きですよ。とくにミントの耳が……

 ……というような話はおいといて。

 いま思い返せば、『ゲーデル・エッシャー・(バッハ・)BD』という評論は、登坂さんが作品をどう観たかという記録として成り立っているんじゃないかという気はするのですね。地図のないままどこかの場所を訪ねて、その場所のあちこちを訪ねまわったあげく、その場所を自分はどういうふうに理解したかという、旅行記や探訪記みたいな。

 だから、当然、登坂さんの視角から漏れてしまうものはあるだろうし、登坂さんにとってそれが重要でないからといって、別にその登坂さんの「重要でない」という断定に私たちがつきあう必要はないと思う。登坂さんと別の道でその目的の場所、つまり押井作品に入ってもかまわない。

 もっとも、そんなことを考えるのは、いま登坂さんの押井論からやや距離を置いて考えることができるようになったからで、当時はフラクタルの考えかたをなんとか理解しようとか懸命になったりしていましたけど……まあそれはそれで、楽しかったし。

 ただ、私に関連のあることから言えば、「構造」とか「形式」とかいうものの重要さを感じさせてくれたのは、やっぱり押井作品と登坂さんの評論でした。映像なら映像、小説なら小説というようなものと、「構造」というものの関係みたいなものに気づかせてくれたということがある。それは必ずしも構造主義的な意味ではなくて、もっと一般的な「構造」ね。

 映画とか小説とかを含めて「人間の構築した物」として捉えるとすると、その構築物には必ず何かの構造がある。けれども、その構造を突き止めただけでは、その構築物の全体を捉えきることはできない。どんなすばらしいもの、美しいものでも、構造というものに抽象化してしまった段階で、じつは構築物の全体を構成していたすばらしさや美しさの大半は失われてしまう。

 これは、逆に、ある構造を設定して何かを構築しようとするときにも必ず現れる問題だと思います。

 つまり、構造というのは構築物を一定のかたちにとどめようとするものです。けれども、実際にその構築物を作るという作業をしてみると、実際の構築物は常にその構造からはみ出ようとする傾向を持つ。映画でも小説でも、ある構造に沿って作らないと崩壊してしまうという危惧と、そんな構造からは離れてもっと好き勝手に作ってみようぜという誘惑と、そういう関係の上でバランスをとりながら作っていくものなんだろうな、という、そんな気がするのですね。まつもとさんが緊張とかせめぎ合いとか書いておられるのはそういうことなのかな〜という気もするんですけど、どうなんでしょ?

 だから、私は、「まずテーマを決めて、あらすじを決めて、大バコからハコを細かくしていって、最後にセリフに至る」というシナリオ作法って信じてないんですね。べつに否定するわけじゃないけど、それだけではすごいつまんないものしかできないし、それにそれだったら作品なんか作らないでテーマだけ演説で流せばえーやん、てなことを考えてしまうわけです。

奥田

ところで清瀬氏の述べられているような、「テーマから作品を解釈」という思考形態ってのは、やっぱ学校の国語の授業の「作者は何を言いたいのでしょうか」的教育とかの影響が強いんでしょうかね。あるいは、論評する場合、少ない行数でとりあえず原稿料もらえるような文章をちょいとひねってちゃっちゃっとオトす、そのためにそういったわかりやすくて大ざっぱな、一見「論じて」いるように見える内容を持ってくる必要があったんじゃないかな、とか思ったりして。

まあ実際のところ、明示的な「テーマ」とかなんとかわかりやすい主旋律の背後に立ち現れる「作品現象」の細部について論じようとすると、どうしても少々高度な、というかふだん使わないような語句をつかって、やっかいなロジックを展開して論じる必要がでてくる。めんどくさい操作だし、書く方も読む方もカッタルいので逃げちゃうというのもあるかもしれませんね。

ただ、押井守作品はそういった論をもってあたるに十分足る仕様になっているし、そういったアプローチをしなければ押井守作品に充填された意味や価値を十分に堪能することはできないので、まあいいんじゃないでしょうか。

問題なのは、「テーマ」とかなんとかそのへんを語ることは(語られた論のデキのよしあしは別として)なんか誰でもできるんでしょうけど、そっからはみ出した部分について、その暗黙知的な現象を形式知の形で固定してやるにはどうしてもそれなりの「武器」が要るんですよねー。だから「武器」持ってるヤツを集めたのがこの「押井守対策委員会」な訳で(笑)。

しかし、なるほど。私の場合、フィクションの作り方って、「まずテーマを決めて、あらすじを決めて、大バコからハコを細かくしていって、最後にセリフに至る」というように作るんだって無意識に思いこんでいましたですな! そうか、これがフィクションが書けない原因だったのかもしれん。う〜ん。

清瀬

 いや、べつに「ハコを細かくしていく」という方法を全面否定してるんじゃないっす。ただ、シナリオ作法などという本を読むと―ってあんまり読んだことありませんが―、その「テーマ」とかハコを細かくしていくこととかの説明に多くの紙面を割いて多大な労力を費やしている。でも、物語ってほんとにそれだけなのか、っていう懐疑が、私のばあい、あるんですね。

 たとえば、押井さんの小説版『BLOOD』とか読んでると、あらすじそのものの展開よりも、途中の焼き肉食いながら死体の話をする場面に力が入っていたりする。あらすじを際立たせたいのなら、この書きかたはあんまり推奨される書きかたじゃないかも知れない。でも、あれがなければ、あの小説のおもしろさはかなり減じるんじゃないかという気がするんですね。また、主人公の少年が暮らしている部屋の雰囲気とかも、あらすじにとくに深く関わっているわけじゃないけど、やっぱりあれがないとけっこう作品の感じは違ってくると思う。このへんの感じかたは人それぞれなんでしょうけど。

 奥田さんが別のところで触れておられる「観え」の問題ともおそらく関わるし、みなさん念頭に置いておられると思うんですが、押井さんは自分の作品がどう観られるかということには相当に自覚的だと思います。鑑賞って行為は、受け手側がどういうところに立っているか、受け手側が作品にどんなふうに働きかけるかによって左右される。押井さんはそういうことを戦略的に展開してるな、という気がするわけです。で、そうだとすると、たぶん単純なテーマ主義的なアプローチでは手に余る。

 テーマ主義的なアプローチというのは、その理想的な姿は、たぶん作品理解のための明快な方法ってことになるんでしょう。変数がいくつもある方程式を、ほかの変数を無視してたとえばxにだけ注目して解いてみる、とかね。それで方程式の解が出るわけじゃないけど、yイコールなんとかx、みたいなかたちに整理することで、その方程式のある性質は見えてくる。それが本来のテーマ的な読みかただと思うわけです。

 でも、実際には、評者が持っている「作品はこうあるべきだ」みたいな感情を外挿するための手段に使われているようなところがある。その人のイデオロギーに沿って作品を一方的に解釈する手段になっている面がある。べつに作品解釈にイデオロギーが入っていけないことはない。でも、作品に触れて自分のイデオロギーが少しでも変わっていくんじゃないとしたら、そのイデオロギーを意識して作品に触れた意味がないと思うんだけど、実際には「作品に応じて自分のイデオロギーも変えていく」って態度の批評にはあんまりお目にかからない気がするんですよね。なんか自分でも偉そうな発言だと思うけど。

 それと、そういう批評がたくさん集まって、作品を観る視線をむしろ狭く限定してしまっている面があるんじゃないかって気が私はするんですね。いまの小学生がどんな教育を受けているかは知らないけど、私の受けた経験からいうと、小学校から高校まであたりの国語教育の感想文って、「自由に書きなさい」と言っておいて、じつは「正解」が設定されているんですよね。夏目漱石の『こころ』はこう読むべし、とか。

 そういう訓練は、それはそれで重要なんだとは思う。でも、一方で、作品を批評するときにどうしても「正解」を探してしまうという傾向を作ってるんじゃないのかな、って気もするんですよね。押井作品を観ることは、そういう身になじんだ習慣を洗い直すことにもなるんじゃないかな。

奥田

う〜ん、大変参考になりますねえ。

で、「ハコを細かくしていく」手法ですが、これって考えてみると昔の日本企業のシゴトのしかたのフローなんではないかと思ったりするんですね。典型的なことを言えば、従来的なソフトウェア開発技法とか。

従来の業務系システムの開発工程というのは、主にウォーターフォール型で構造化という手法というか思考方法で進められていた。抽象的な「基本設計」から、具体的な「詳細設計」にブレークダウンしてきて、仕様どおりのシステムに組み上がったらプログラムを結合させてテストしてみる。旧通産省の「SLCP共通フレーム」なんかも、開発手法は特定していないものの、基本的にはこの方法を基本に置いて開発工程を定義しています。

大きな開発には、まあ必須の方法なんですけど、この方法ってのは「従来的な意味での品質」を向上できるように想定されたもので、現代的な品質、つまり「あたりまえ品質」に対する「魅力品質」といったものを向上させるといった視点が欠落している。

一般的、従来的な業務系のシステムならそれでもいいんですが、シナリオとかっていうのはむしろ「魅力品質」が主として問われるわけですね。従来の「シナリオ入門」などが、従来的業務フローを下敷きとして作成されたとしたらまあ無理もないことかもしれません。「魅力品質」は多くの場合、社員個人が持っている暗黙知的な部分の発露によって得られるところが大きいわけですが、従来は文書化された形式知しか業務定義の対象にされてこなかった傾向が強いですから。

最近、たとえばエクストリーム・プログラミングといった開発手法が提唱されてますが、これによるシステム開発の手法として、テスト・ファーストというやり方があげられている。つまり、できあがった単体プログラムを組み合わせて行う結合テストを中心にするのではなく、各プログラムの単体テスト主導で進めるんですね。大規模な業務系システムなら合目的性を重視した従来モデルが適しているんだろうけど、シナリオとかそういったものは、むしろ個のイメージ、各シークエンスごとのテスト正当性(この場合のテスト正当性とは、正しく動作することというより「興味深いか、おもしろいか」という点が重視される)を核として開発主導すべき点も大きいと思う訳です。

作品における「正解」とは、古典的な知としての合目的性の追求モデルにすぎないんですが、それだけでは語りきれない部分についてもそろそろ語る言葉というものを編み出すべき時期に来ているのではないかと。

まつもと

ちょっと話の筋が違うところから「観え」と「テーマ、正解」について話の腰を折ってしまうかも。私の興味の対象は何故ある作品に惹きつけられて、ほかはダメなのかという自己中なことです。で、その理由付けのために作品のテーマとか構造とかディテールとか萌えキャラとかを持ってくるわけですが、どれか単一のことだけでも押井作品は語ることが沢山あるので、評論の対象としては美味しいのですが、単一の要素だけではその魅力を語り切れないというのが奥田氏清瀬氏にも共通した考えだと思います。でも、まあそれらを(全部でなくても)ひっくるめての作品魅力をどう語るか?というのがワタシ的な現在の問題意識でござんす。映像作品をコトバで語れるのか?そもそも要素還元主義的アプローチは有効なのか、それともそれしか語る手段は無いのか?そこで創発的アプローチだとかが使えるのか?

あと奥田氏の指摘した「暗黙知」的なものを、また細部に宿った神を語ることも、そんなことも含んでいる映像作品をコトバで評論することの有効性や困難なんかはどう考えるのか、てなことを悩んでいます。

これは押井論に限らない漠然とした話題でしたね。

こちらもまともに前カキコを読まずにレス反省です。奥田氏、清瀬氏の作品の構築と解読(鑑賞)の件ですが、お二人が言うように古典的な正解発見モデルでの批評の限界に賛成です。でも実際に別の方法は困難で、例えば私が無謀にチャレンジした(今思えば無茶に決まってるのですが)書き物として、例えばパト2で二項対立による創発的な秩序=作品構造の形成、みたいなことをやろうとしてあえなく撃沈した覚えがありますが、もともとこれは無理矢理な構造をでっち上げをして、そこでは語りえない余剰、不可知外部、不可能な一点を求めるというキレイなオチを考えていたのですが、予想にたがわず出来ませんでした、マッチポンプ的だし。

で、なかなか上手い方法なんてないのかもしれないと思っていたところに、蓮見重彦のデリダ論とかで、『差異と反復』の評論なんかからヒントがありそうと画策中ですが、例えば発見者としてではなく反・冒険者としての読書とか、希薄な体験に耐えつつ読むことの快楽への回帰とか、まあそんなところをフムフムなどと読んでいたのですが、不可知は知に回収されないからこそ不可知であって、ここいらへんが、押井さんの言う「血」だとか、ラカンの「不可能な一点」やらになってヘーゲル流の弁証法を越えるだのという精神分析関係の話題とも繋がってくるもんでしょーか、と混乱をそのまま文字にしてしまいました。

奥田

混乱といえば確かに混乱ですね。なにしろまだ問題に対する記述自体が困難なレベルですから。

基本的な方法としては、要素論的なアプローチより全体論的なアプローチを取るべきだとは思うんですが、じゃあコレという方法がポンとあるわけではない。

まあここから方法論的に細かくアプローチしていくわけですが、前に書いたように、主題中心のわかりやすい方法だけではなく、要素によってオブジェクト指向的に組み上げられた総体としての作品を、そう成立したものとしていかに評価するかという視座が要求されていると思うんですな。『エヴァンゲリオン』なんかはまさにこういった方法で構成された作品だったものの、論ずる側にその視座がなかったために、不当にけなされたという経緯もありますし。

 

押井守作品における「キャラクター」について

 

鈴谷 了

 えー、こっちにやって参りました。

 「私と押井守」というと、以前No.21に載せた文章に出会ったいきさつとかはかなり書いてますのでその辺は省略します。

 で、私の場合(アニメファンとして)アニメに接した最初が「ミンキーモモ」という、キャラクター主導、でもちょっと考えてみると……、というスタンスの作品だったところに、「天使のたまご」を見たものなので、キャラクターという要素を切り捨てたアニメ作品がこのような形で成立する、ということが大変印象深く感じられた記憶があります。それ以降今日まで、押井守作品は、一方に存在する(というより大多数のアニメがそれに属しますが)キャラクター(メカニックも含む)主導の作品とバランスするような存在としてあり続けています。しかも、「天使のたまご」のような「ストイック」な作品のみならず、古くは「うる星やつら」、そして「パトレイバー」や「攻殻」のような、明らかにキャラクターやメカニックへの依存が大きいとされる作品においてすら、そうした要素を無化するとともに、それとは異なる要素(場合によっては夾雑物)をぶち込んで作品を換骨奪胎させるという方法論は今も新鮮です。

 その裏には、アニメにおいてはキャラクターやメカニックの設定がテーマという言葉に密接に絡んでくる性質があるんじゃないか、という気もしているんですね。テーマを絵にしたものがキャラクターだったりメカニックだったりする。しかもそれは作品への媒介となることを半ば義務づけられてもいるわけです。「こういうかわいいキャラクターが出るから見たい」という具合に。それに頼らない作品作りを押井守がずっと手がけてきた人は多くの人には異論のない点だと思いますが、それがアニメファン層における押井守の位置づけとも関係しているように感じるわけです。

 この辺、まつもと氏あたりのご意見を聞いてみたくも思いますが。

清瀬

 鈴谷さんが言っておられるキャラクターやメカニックとアニメ作品との関係というのは興味深い視点ですね。

 アニメを観るときにやっぱり絵的な意味でのキャラクターというのは大きい要素だと思う。単純に興行成績的に言ってね。絵的な意味で好きなキャラクターとか、気になるキャラクターがいれば、お話が凡庸でもまあ見てしまうという面がある。べつにこれはアニメに限ったことでもなくて、実写ドラマとか映画とかでもどんな役者が出てるかっていうのがけっこう大きい要素になると思う。ただ、アニメのばあいは、絵柄まで作り手側でいちおうコントロールできるという面が、実写作品との違いってことになるのかな。

 でも、じつは、作品として見たばあい、キャラクターと背景というのにどれぐらい区別があるのか。たしかに、キャラクターやメカニックと背景との区別はあり、映像作品のなかでの役割にも違いがある。しかし、それはそれほどはっきり分かれているものなのか。

 いま、仮に、映像作品は「作者」の意図によって作られると考えたばあい、その「作者」の意図したことは集中的にキャラクターの動きに表現される。「動き」っていうのは声とか効果音とかも含めてね。でも、それは、背景の部分にだって表現されているはずだ。つまり、背景とか、ガヤの部分とかにしても、それは「作者」が表現したかったものの一部が反映しているわけで、そういう「キャラクター以外の部分」もじつはキャラクターとしての性格を持っている。同潤会アパートとか、取り壊し中の銭湯の跡とか、夕焼けとか、そういうもののキャラクター的性格が、果たして野明や遊馬より弱いと言えるのか。市場で銃撃を食ってはじけ飛ぶスイカと、市場の人ごみを縫って逃げる犯人と、どちらがその作品の性格を強く印象づけるのか。

 いま「作者」の意図って話を「仮に」ということばで入れましたけども、そういう仮定は、こんどは「じゃあ、「作者」っていうのがいるとして、それは作品にどういうかたちで介入できるのか」ということがまた問われてしまうわけですね。作者が作品を自由にできるなんてことはぜんぜんないわけで、市場的な言いかたをすると、受け手というのが必ず必要だ。たとえ受け手が作者本人だったとしても、また、作者が勝手に想定する一万年後の人類だったとしてもね。でも、作者と受け手だけで成立するかというと、その作者と受け手が共有している世界というのがあるだろう、ということになる。

 「作者」にできるのは、その果てなく広がっている世界、そして、どこがどうなっているかわからない世界を、何かのかたちで切り取って「作品」に持ってくること、それが「作品のなかの世界をつくる」ってことなんじゃないかっていう妄想が、私にはあるんですね。つまり、それは、キャラクター性の決めようのない世界を、自分の「作品の中の世界」にした時点で、作品のなかの世界そのものにキャラクターとしての性格が生まれてしまうということでもある。

 私が押井さんも同じようなことを自覚してるんじゃないかな、って、勝手に考える根拠は、劇場版『パトレイバー2』のオープニングの場面だったりします。CGで「ヴァーチャルリアリティー」で街の情景が再現されていくっていうやつ。まあ、こういう暗喩的読みかたに頼るのは危険なのは承知の上で考えてるんですけど。

 ともかく、ふだんはキャラクターの影に隠れて見えないけれど、作品世界そのもの自体にすでにキャラクター性があるってこと、それを見せてくれるのが押井作品だ、っていう魅力はあるように私は思うのですね。

 こういう読みかたが鈴谷さんの意図に合しているかどうかはわからないんですけど、そんなとこで。

鈴谷

 押井作品において、背景などにキャラクター的な要素があるという清瀬氏の指摘はその通りだと思います。私もずっと以前に「パトレイバー2」においてはキャラクターの自我が「風景」の中に拡散している、というようなことを書いたことがありますが、たぶんそれは同じようなことを指しているんじゃないかと。

 押井作品というのは、一般的なキャラクターのあり方(と思われているもの)をそうした形で変えて、むしろキャラクターというものの「本質」を出そうとしているといえるんではないか。これはいろんな意味でそうです。

 たとえば、「御先祖様万々歳!」は「うる星やつら」のモチーフを逆手にとって作られた作品です。でもあの麿子のキャラクター表を見て「御先祖様」を見よう!と思ったアニメファンというのはたぶんほとんどいない。「うる星やつら」なら「トラジマビキニでグラマーなエイリアンの美少女」というだけで見ようという人がたくさんいたはずです。(最近になって「御先祖様」のうつのみやさとるのキャラクターは90年代のアニメに大きな影響を与えたという見方も出てきていますが)

 つまり、最初からそうした造形上の「ツボ」をはずしてかかっているわけです。

結果として麿子のキャラクターは絵ではなくてその設定という部分でラムの「異様さ」を浮かび上がらせる、という効果をもたらしてもいる。もちろん、「御先祖様」においては舞台仕立ての設定とか、埋め立て地の新興住宅とかそうした要素がキャラクター性を強く持っているわけですけども。

 くだいて言えば、アニメファンが求めるキャラクターであるとかメカニックのあり方というものを、頭ごなしに否定はしないが、それに素直に応えることはしない。だからといってそうした要請について無知なわけでもない。知りつつずらすんじゃないか、と思うわけです。そこら辺が「押井守を嫌う人々」の反応につながっているようにも感じます。

高山

キャラクターについてのみなさんのご指摘に同感です。僕は最近になって押井守を知ったくちですけど。

お話をうかがってみると確かにキャラクターが突出していなかったと思います。押井作品の背景には、こう、映っていないところでもちゃんと機能しているように思わせるものがあります。

それは登坂さんのBD論で指摘されていた、受け手が見つけようと思えば

見つけられる法則とか暗号にも関係するのかなぁと。

アニメの世界なのに様々な法則が遍在していて、ラムのいる世界が充実しているなと思わせて、最後はやっぱりこれはアニメなんだよ、となりますよね。

一度世界を充実させないとできないな、すごいもんだなと思いました。

キャラクターを呑み込んだ押井作品の魅力だと思います。

ソクラテスぽいかとも思いますが、考えすぎでしょうか。

キャラクターに依存した映画やアニメは、疲れないかわりに長く記憶にとどめようとも思わないです。

清瀬

 別のところで話に出ている「物語の組み立てかた」とかとも関わるんですけど、物語を組み立てていく上では、最初は「あらすじ」を表現するための一手段に過ぎなかった存在が、主役とかレギュラーとかになってしまって、本来の「あらすじ」を食ってしまうというような主客逆転現象が起こったりもするわけです。たとえば、ほんの一回だけ端役に出したでじこの「暴れん坊」が、その後の放映分にも頻々と登場してDVD10巻にわたるシリーズでレギュラーになってしまったとか……ってあんまり関係なかったっすね。それにしてもブロッコリーの株価、派手に落ちてるなぁ。株主じゃないからいーけど。

 で、話をもとに戻すと、そういうことってよくあるんじゃないでしょうか。

 物語が「空間」だとしたら、そのなかに出てくるキャラクターとかメカとかはその空間と無縁に動いているわけではない。「物語」空間というのはニュートン的な絶対空間じゃない。なかに出てくるキャラクターとかメカニックとか、背景とか、そういうのの万有引力が物語の「空間」自体のあり方を決めていく、アインシュタインの相対性理論みたいなところがある。そういうものじゃないかと思うわけです。

まつもと

萌え系キャラの話は興味しんしんなのですが、これもみなの意見を聞きたいですが、押井さんは対談とかでモロに「目玉ぐりぐりのアニメキャラでは自分の作品の世界を構築できない」「キャラに各人の妥協の余地はないから論理的な話にならない」というようなことを言ってたのですが、ここいらヘンが真意かどうかにせよ、東浩紀なんかに庵野秀明と比べられて批判されちゃうような部分だと思うのですが、どう思います?

奥田

う〜ん、「目玉ぐりぐりのアニメキャラでは自分の作品の世界を構築できない」はなんかわかるんですが、「キャラに各人の妥協の余地はないから論理的な話にならない」ってのがよくわかんないですねー。各人て視聴者? それとも各キャラクターということかな? 妥協ってのはどういう妥協なんでしょう。キャラの持つ芸風というかイメージとかが固定化されていてイジる余地がないということですかね。

でも、押井守版目玉ぐりぐりキャラというのも観てみたいし、『うる星やつら』で実績出している演出家としての押井さんの実力なら十分うまくやっちゃいそうな気がしますけどね。

まつもと

高山さん、清瀬さん、鈴谷さん、話の腰を折ってすいません。ちゃんと読んでレスしてませんでした反省。で、キャラと背景との話ですが、人間の終焉じゃないデスガ、押井さんはなんか人間尊重の昨今のドラマ・アニメの雰囲気に辟易してるのでは?真意かは別として、もう人間なんか描いても仕方ない、みたいなことを言ってませんでしたっけ?ニンゲンの特権化は裏返せば傲慢ですから、情念を描きつつも意外とエコ派かと思いきや、宮崎さんみたいに森がどーのこーの、にはなりたくないと。だからこその背景=ニンゲン以外のものの描写への執着なんでしょうか?だから本心では押井さん、人狼キライと見ましたが?ただこれもケースバイケースというか、「目的」は映像作品をいかに思い通りに仕上げるかですから、『天使のたまご』みたいに天野キャラと名倉背景がスゴイことになってるような作品も存在するわけだし、逆に言うと、それだけのキャラデザインをするヒトが今いないのかも。だから映像の何がどうという固定的な配置でなく、全体の「効率」というか「最適化」のためには主従関係やらお約束なんかは関係ないのかもしれませんね。ただそうやっていてキャラに恵まれない作品ばかりだと艶がなくなってきやしないかなと、枯れてきやしないかなというのが、ないモノねだりというか杞憂というか。

奥田氏、すいません、出典を明らかにして正確に引用しますね、明日以降(ただいま当直中)。で、実は私もそこでの押井さんの言わんとすることがよく分からないのですよ。奥田氏の言うことかもしれないし、単に生理的嫌悪のような書き方もしてたし。某友人が言うには、押井さんはどこかでオタクを止めたと思ってたんだけど、もとからオタクがキライだったのかも、と。でも東浩紀とかにアニメ的なものからの後退などと揶揄されて(と勝手に妄想>でも押井さんって異常に情報チェックしてますよね、サラリと。だから深読み邪推のやりがいもあるというもんですが)ミニパトとか作ったのでわ?でも映像の力を信じている彼がそこに抑制を効かせるようなこの作品の真意は?(マジ絵だとOVA版と変わらなくなっちゃうから?)

奥田

う〜ん。このへんの議論は以前からいろいろ考えていていまだ明確な答えが思いつかないんですがねー。なぜ「一般のオタク」と押井守ファンとに隔たりがあるのか? 押井守作品のノリと他の、特に「萌え系」みたいに言われる作品との差異というのはどこから来るのか? 難しいところですなあ。

目玉グリグリのキャラだろうと、マル物だろうと、押井さんはやらなきゃならない状況だったらやるでしょう。プロの演出なんだから。ラムちゃんとか泉野明とかなんてキャラもあんまり好きじゃなかったみたいですしねー。

押井作品のキャラと言っても、なにしろもともと演出のヒトだから、まったくのオリジナルというのは少ない。その中で特徴的なのは『AVALON』のアッシュかもしれませんが、どうもあのキャラは『攻殻機動隊』の素子氏にいやに似ているところが気になる。ああいうキャラが押井さん好みなのか、はたまた攻殻の成功の二匹目を狙ったキャラなのか。まあいいんですが。

人間の描写という問題については、私はそれほど問題意識をもっていません。エンターテイメント作品にエピステーメー論とか持ってくることはいかがなものかとも思っちゃったりしますし。いやことによるとわかんないですが。

 

 

押井守作品における武器・兵器について

 

奥田

最近考えているのが、アニメーション等の映像作品における「観え」という問題なんですが、こと「戦闘シーン」というものは考えてみればなんだか奇妙な状況なんですね。

つまりなんていうか、古今東西の作品の中にこの「戦闘シーン」は登場し描写されていて、われわれはそれを幼い頃からさんざん観てきているのだが、それがリアルなのかどうなのか実のところよくわからない。メシを食うとか野球するとか、クルマ運転するとか魚さばくとか、いろんな状況が人生のシチュエーションにあるわけで、それは自分で検証することが可能なんですけど、こと「戦闘」は、「やろうと思えばできるけどタイホされたりするしそこまでして検証するのもアレだなあ」的状況と言いますか、まあ禁忌の対象でもあったりしますし、それでいてある意味「ハレ」という状況だったりするわけですね。人によっては格闘技なんかをやっていたりして、片鱗だけでも「戦闘」に加わることがあるし、兵器マニアなんかもそれこそ片鱗だけ兵站的状況に加わることとなる。コリアなんかだと兵役なんかで強制的に兵站的状況にさらされるが、それでも実戦を体験する者はそうそうはいないでしょう。

つまり、「戦闘」というものは、「人類にとって非常に魅力的な状況であり、生物の源基的行動でありながら、現代社会からは隔離・隠蔽された状況」なわけで、それがいかなる現象として表象するか、それがいかなる「観え」を呈することとなるのかは不可知に近いわけですね。映像の作り手も受け手も、その状況とそれを構成する「観え」について、推測と思考実験をもって追認しながら観るしかない。これは、言ってみれば「戦闘現象学」とでもいうべき思考態度で臨むしかない作業なんでありますな。

これにあたって、押井守作品は、現代的戦闘現象に関する情報や思考実験実績を実に豊富に持っているふしがある。まあ実際押井監督はグアムだったかサイパンだったかの射撃場にマイガンを所有していて、観光客相手の弱装弾ではない素のマグナム弾とか撃っているらしいですし。

こういう視点について、いろいろ考えてみたいと思うわけです。

清瀬

 戦闘についてですかぁ。

 奥田さんの言われるとおり、平時には戦闘というのは現実にはなかなか起こらないわけです。というか、戦闘があたりまえに起こるのだったらすでに平時ではないわけで。

 でも、じゃあ「戦闘」が日常からまったくかけ離れた行為かというと、そうでもないわけです。「戦闘」じゃないかも知れないけど、学生運動について書かれた文章で、「バリケードにこもったから日常がなくなるわけではない、バリケードの向こうにはバリケードのなかの日常がある」って文章を読んだことがある。「戦闘」にもそういう一面があるんじゃないでしょうか。

 一口に戦闘と言っても、現実にはその場の条件で千差万別なわけですね。刀剣での白兵戦もあれば、銃撃戦もあるし、劇場版『パトレイバー2』の冒頭で描かれた電子戦みたいなものもあるわけです。戦闘中にだって長い作戦行動だったらメシは食うし、じっと何もしないで待機しているのが「戦闘」ってこともある。敵と戦う前にマラリアを持った蚊と戦うとか、寒気と戦うとか、そういうのもある。日常生活にはじつにさまざまな行為が含まれているのと同じように、戦闘にもさまざまな行為が含まれていて、日常生活のなかでの行為に重なってくるものも多い。

 まあ、「戦闘」をごく狭く捉えると、敵との命のやりとりだけが「戦闘」だということになるんでしょうけど、ここではもう少し広い意味で考えています。

 ただ、戦闘状態は、日常と違って、戦っている人間に常に精神的緊張を強いるということがある。たぶんそれが日常生活とまったく違っている点だと思うんですね。ところが、その精神的緊張の源を探ろうとすると、じつは「戦闘」中でも敵と命のやりとりをしているのはそのうちの短い時間にすぎないし、その決定的瞬間がなかなか来ないとなると、何のためにこんなに精神的緊張を強いられているかわからなくなってしまう。そういう不安がつねにつきまとう。それは、戦闘の本質とはいわないにしても、戦闘にはほとんど不可避について回る気分じゃないか。

 押井作品の戦闘シーンがもっぱらそういうものの描写に費やされているとは言わないけれども、押井作品は全体としてそういう気分を描いている面があるんじゃないかな、って私は思うんです。

奥田

たしかに戦闘と言ってもいささか広うござんして、たとえば弾丸やなんかが人体に突き刺さる場面も戦闘なら、敵の所行を悪く報道するような情報戦だって戦闘の一環でしょうしねえ。まあ、そのへんはカテゴライズしていく必要はあるし、広げようとすればいくらでも広げられますしね。たとえば前者としては山本貴嗣氏とかいろいろ細かく論じているし、園田健一氏『エグザクソン』とかは後者を作品にした、みたいな感じでしょう。

ただ、私がちょっと言いたかったのは、やはり存在論的な意味にあふれた世界を「観え」によって構築するという作業を行うにあたって、その「観え」のレベルにおける現象として、戦闘という現象はきわめてよく描写されるものの、それが「現実的」なのかどうなのかよくわからないという事情があるというのが奇妙に思えたんですねー。

われわれは時代劇とかなんかで、鎧を着たオサムライが合戦なんかでばっさばっさと斬られちゃうとかいった映像を見慣れているけど、どうもいろいろな情報をつきあわせるとそう簡単には行かないらしい。鉄砲も同様、というよりこれは法律もあるんでより一層実証しづらいものがある。

清瀬氏の言われるような状況自体の描写もむちろん重要なんですが、まあある程度細かいところから行こうかと。

まつもと

疑問というか皆様のご意見拝借したいです。押井作品に戦闘の描写、あまり思いつかなくて『紅い眼鏡』での演劇的なのとか、他の犬(仮想戦後史)シリーズのやや形式的なのとか、アニメでは最近のミニパトのウンチク的リボルバーカノンの話とか。攻殻のはちょっとマジっぽかったですが、士郎的以上のそれではなかったような記憶で・・・押井式ってどんなもんなんでしょうね?いやマジでよく特徴が分からなくて。

ええっと、つまりワタシのハンドガン撃った数少ない経験から言うと(弱装弾じゃないヤツ)銃の重さとか質感は記憶に残るズッシリしたもんだったのですが、実際の撃つ経験自体は、何か「エ、こんなもん?」で押井監督なんかはそういう撃つ描写ってえのをどう考えてるもんだか?ウンチクが先走るのは状況と遊離したとき純粋な「戦闘経験」なんてえのはアニメの描写以上に希薄な経験だと感じてやしないかと。

奥田

たとえば『パトレイバー2』の東京攻撃とか、『AVALON』とかいろいろありますがな。『攻殻』にしたって、士郎正宗のものとは単純に優劣をつけられないと思います。というのは、マンガだったら鉄砲の筒先から火かなんかがでている絵を描いて、なんかそれらしいオノマトペを当てておけばそれっぽく観えるんですが、動画的映像だとなかなかそうはいかない。アメリカが長かったまつもと氏は実銃の射撃経験は私より豊富ですのでおわかりでしょうが、実際のてっぽうの撃発音は「ドキューン」なんて音はしない。けっこう情けない「パン」という感じの音です。私は22口径のライフルと12番ゲージのショットシェルしか撃ったことないんだけど。そもそも、マグナム実包なんかならまだしも、通常の銃の撃発動作はできるだけ地味に、目立たないように作られている。まあ当然のことで、示威行為等の非常に特殊な場合を除いて、銃器の撃発動作がハデであって得るものはなにもないからなんですけど、演出者としてはなかなかアンビバレントな状況だと思うんですね。

そこにもってきて、「通常の生活を送る人にとって、戦闘行為は希薄で希有な状況である」ということに乗っかって、演出上都合のよいような完全に架空の戦闘現象を描写するということが行われる。

ただし押井氏の場合は、現実的な状況を多世界的にではなく描写することにこだわりを見せていたりするわけですんで、このアンビバレントはいっそう強いのではないかとも思うんですよ私もね。

まつもと

あっ、やっと論旨の一部が分かった気が(すいません、最近マジでAlz)。お馬鹿な自分のために平たく表現すると、

    リアルにやればケレン味の出ない戦闘表現をリアルと観えの狭間でどう描写するかは、世界をどう捉え表現するか

という認識と表出の問題にまでなるし、それ自体をモチーフとしてる押井さんが彼自身の方法=映像作品の表現方法として如何にそれをアンビバレントに苛まれながら?しているかということですかね。例えば『アヴァロン』での戦闘シーンで実写にCGを追加するんではなくて修飾をする、そして描きたいモノを際立たせる?純化する?のは表現だけのものに収まらずに現象学的とゆーか認知論的な話に行くですかね。養老が喜びそうな脳の話題とかにもなりそうですが、それは宮崎駿と同じになるから嫌がるでしょうね。で、これは一方ではキャラ萌え問題とも関連してくるんではないかと思うのに、押井さんの所謂アニメキャラ嫌い?のアンビバレントにも興味あるですが。

奥田

いや、必ずしもそればっかりということではないデス。というか、それが「主題」ではない。私自身それほど明確な方向性や論点を確定している訳ではないですけど。まあ、わかりやすい「主題」としての論旨がないと不安というか、どう論じていいんだか、というのよくわかりますが、これはそう明確な話ではまだない。例のOSI/7階層モデルのアナロジーで言えば、これはセッション層といったやや下位の階層に関することです。

思うに、アニメーション技術が比較的未熟な時代においては、とりあえず最上位のアプリケーション層の上におけるストーリーなどの実メッセージでいろいろ伝えるしか手がなかった。この時にあっては、作品の中における「物語」、その構造だとか意味だとかの占める位置というものは相対的に非常に大きかったわけです。

しかしアニメーション自体の情報量が格段にアップした今、もっと下位の階層にもいろいろな情報を任すことができるようになった。ここにあって、下位階層にゆだねられた情報に対するアプローチを含むホーリズムという見方をしないと、大きなものを取りこぼすのではないか、と。これが最近私が考えていることなんです。

鈴谷

私はミニパト見ていないんですが、ミニパトでの蘊蓄については兵器マニアからのツッコミやらそれへの反論が山本弘のHPにある掲示板(空想科学読本関係 http://8626.teacup.com/hirorin15/bbs ; 2004/08現在、リンク切れ)であがってます。正直なところ、アニメにおけるリアリティなんていうのは、ある程度の「ウソ」を入れて成り立つものだと思っていますので、「リアリティがないから幻滅する」といった感想には兵器オタクだねぇという感想しかありません。逆に言えば、押井守がそれだけ虚実を取り混ぜた「戦争」あるいは「戦闘」の描写をしているということでもあるように思います。

かの「板野ミサイル」が一世を風靡した時代にも押井守は板野ミサイルっぽい描写は取り入れなかった。しかし、「王立宇宙軍」において「曲がる曳光弾」が描写されると、劇場版パトレイバーではさっそくそれを取り入れるということをしていて、このあたりが押井守のメカ描写を考える上でおもしろいと感じたりします。

奥田

さっそく見てみました。やあ、なかなかおもしろいですねー。う〜ん、この「+α」というヒトにツッコミたい。

私の立場としては、「現実の」兵器の運用状況に忠実かどうかという問題は括弧に入れられるというスタンスですね。「戦闘写実」ではなく、「戦闘現象学」というのはあくまで「観え」という観点、間主観的な世界観として確立した戦闘現象を記述するにあたっての方法をうんぬんすべきであるという考えです。

単に、むやみに「それは実際の兵器の動き方と違うからダメだ」とか主張するのであれば、それはただの「自分の知識をひけらかしたいだけの没生産的なヒト」にすぎません。ちなみにそういうヒトは、「じゃあオマエは実際の戦闘に参加したんか?」という問いを突きつけられることとなるでしょうが、まあきっとなんかうまい逃げ口上を持ってるんでしょうね。

戦闘現象の描写は、時代と観測機器や情報伝達の方法および速度によって変わります。多くはその精度を増し、より精緻に、より「現実に近く」なるのでしょうが、場合によってはそうとは限らないし、また現実には存在しない兵器、もはや検証することのできない兵器の運用状況等については、観測による「リアル」の追求は難しく、思考実験的方法に依存するしかありません。

そのへんが、表現者のウデの見せどころなんですけどね。

 

2002/12

 

 


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