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押井守関連作品短評

 

 

高山 大祐


 

(一)近作(九五〜現在)

 ちょっと前まで名前も知らなかったのだけれども、随分押井守の作品を見てきた。「ミニパト」「アヴァロン」「BLOOD」「怪童丸」「攻殻機動隊」あたりが近作なのかな、と思っている。

 このうちで評論を賑わせた長編二作「アヴァロン」「攻殻機動隊」について書こうと思う。アヴァロンの舞台は、もっぱらゲームの中である。攻殻機動隊はたしか架空の未来が舞台だった。こういう面だけ見ると、押井守が活動の舞台として選んでいるのは、段々と現実から遠ざかっている場所であるかのように見えるが、BLOODや怪童丸や人狼といった他の作品と並べてみると自在に舞台を選んでいると思ったほうがいいようだ。

 しかし、「アヴァロン」や「攻殻機動隊」に共通しているのが仮想の世界が現実化する、という状況である。夢と現実は、頻繁に現れる要素ではあったが、仮想の世界は近作ではよりその存在を主張する武器を手にしている。武器というのはつまり、仮想の世界を自律的に維持する根拠である。それは人工知能の研究の進展とか、現実の科学の状況とも無縁なものではないだろう。裏を返せば、フィクションの独立性は、現実の侵食を受けて脅かされているわけである。それは特に現実と仮想世界との関係が問題になるときに顕著である。現実におけるインターネットとか、人工知能の議論というものが、フィクションの内部にフィクションを生み出すときに、大きく影響する。あたかも、そのように形成されないと、フィクションが現実でないかのように。

 仮想ゲーム空間を扱った映画が多い昨今を見るに、現実の方でフィクションを偽装しなくてはならない理由がどこにあるのだろうか、などと私などは思ってしまう。フィクションを征服する? そんなことはないですわな。しかし現実化した虚構が人間を圧倒する映画を、人々は喜んで見ている。他人事なので喜んでいるのだろうが、どういうもんでしょう。

 「アヴァロン」を見て感じたことは、フィクションが現実化して外部から侵入してくる、ということによって、人間はかえって自分の構想するフィクションに対して違和を抱くようになる可能性があるということだ。どんな理想も、願望も最初はフィクションには違いと思うのだけれど、「本当のフィクション」でないといけないものだろうか。

 「アヴァロン」で、ちょっと残念なのは、仮想ゲームが行われている世界がどんなものかがよく分からなかったことだ。そのぶんゲーム「アヴァロン」の世界は、低制作費でいい仕事をしたSF映画みたいで、懐かしくもあったし、退屈しなかった。

 攻殻機動隊には、システム論とか進化論の香りがちりばめられているように思った。その筋の人間なら何ページも書けるんだろうけど。迫力があって楽しめました。

 

(二)中期の作品(八七から九三くらい)

 「パトレイバー 1・2」「ストレイドッグ」「トーキングヘッド」「御先祖様万々歳」について少しずつ。

 「パトレイバー」シリーズの二作は、とっつきやすい面白い作品だった。都市論や建築論が盛んだったころだ。それらを上手く吸収したパトレイバーは、夢と現実の関わりが前面に出た時期と比べて安定感があって、登場人物たちも、その世界での悩みを抱えてはいるが、自分のいる世界がフィクションであるかどうか、で悩んだりはしない。そこに成長する都市と集積する都市との違いを感じる。パトレイバーシリーズにおける都市は、人がそのなかに生きられるような都市であり、人と都市それぞれの成長を可能にしている。能天気ではない、重苦しい話しの展開もありながらどこか救われるところがある。集積しているだけの都市では、それは有機的なサイクルにはもはや従わない。それによる摩擦で悲鳴を上げるのはいつも人間である。

 「御先祖様万々歳!」は、ひたすら笑わせるアニメ。その舞台は、経済が頂点からやや下りかけていたころだろうか。高そうなマンションでの不条理ドラマが展開されていた。いわゆるバブル経済のころを筆者も知っているので、突如自分が不可解な高みに引き上げられることへの戸惑いや、シニカルな気分などを思い出した。「決して大したことをしていたわけではない」はずなのに、眼下には巨大都市が広がっているという境遇。「平凡な仕事、それ自身としてはつまらないが高い報酬が約束された仕事」なら山ほどあるという状況に対して抱く不信の念。現在からは考えられないように見えるが、いつ再来してもおかしくない状況である。

 「トーキングヘッド」は、実写映画でアニメへのオマージュみたいなことが宣伝にあった。実に不思議な映画で、何と感想を述べたらよいのか分からない。「エヴァンゲリオン」のときの庵野の発言のような、制作する側の倦怠みたいのを感じてしまうのだけれど、考えすぎだろうか。製作者の見る映画と客の見る映画は、確かに全く違う。うーん、でも、製作者に同情しても怒られるだけという感じがするしね。

 「ストレイドッグ」。実写映画。宣伝とは恐ろしいものであるという実感が沸いた映画だった。ハードアクション映画風の宣伝が流れていたのだけれど、実際にはやっぱりちょっと変な展開の映画だった。押井守のこのころの実写映画は、アニメと比べると、意識してのことなのか、骨組みだけをポンと置いてあるような印象を受ける。この2つの映画いずれのときも思ったことだが、もしこれがアニメとしてつくられていたらとても面白かったという感想を持つんじゃないだろうか。

 「アヴァロン」と比較すると、この二本の実写映画は洗練されていない印象を受けるが、どこか好況時のポストモダン的雰囲気を思い起こさせた。

 

(三)初期の作品(八四以前)

 「うる星やつら・ビューティフルドリーマー(略称BD)」「天使のたまご」「迷宮物件ファイル538」について少しずつ。

 「うる星やつら」にまつわる実に嫌な思い出があったために、私は今回の企画に誘ってもらえなかったらBDは一生見なかったろうと思う。世の中何があるか分からないものだ。

 それだけではなくて、アニメ全般にもあまりいい思い出がない。なぜ私が「ナウシカ班」に属して学級新聞を作らなければならないのか? 全く不本意なことである。小学校のころは、うる星やつらのページをたまたま雑誌で見ていたら、そこらへんの小学生に、まるで成人向け雑誌を立ち読みしているように言われたので、ああ! それならもう結構! アニメ、特にキャラクターものはもう見ないとひそかに決めたのであった。と、これは大げさにしても、可愛いキャラクターが出ているのは、見たくなくなっていた。

 いやあそれにしても、ラムちゃんですか。豹柄の水着だか、何だかですか。これは困りました。「キャプテン翼」とかでもあまりに軟弱で、ほとんど見なかったから。「タッチ」に至ってはお前ら野球辞めろ、という感じですね。だから、20代後半になってうる星やつらを見るときはどうなんだろう?、見たくないわけじゃないのだけど、何か引っかかるものがあったね。

 しかしまあとにかく、上手いきっかけでもって「BD」を見れた。映画はとても面白かったし、また評論でも言われているような入れ子構造も、映画に緊張感をもたらすようにして取り入れられているように感じた。そのことが「BD」を、この時期のアニメにおいて奇妙な位置にずらすことになったのだろう。アニメファンもアニメ制作者も、それなりに年齢を重ねた結果かもしれない。もっともそれが必然というわけではないのだが。

 「パトレイバーシリーズ」と比較して、とてもアニメ的な映画だと思うのは、BDが典型的なアニメ的なイメージとアニメファンに準拠しながら、そこからやや違う場所にずれているからではないかな。「パトレイバー2」は、実写映画に慣れた人間にとっては「いいな」と思わせる重厚なつくりだったが、「うる星やつら2・BD」は、まさにアニメであり「ナウシカ班」とか「ラム班」の世界だ。そこに、ねじれた、複雑な構造が織り込まれているのは確かによく考えてみると驚かされることかもしれない。

 話しは変わって、「ビューティフルドリーマー」では、夢と現実との区別というテーマが現れている。「BD」では、夢の中にいる人が、これは夢ではないかと疑うところが、上手いこと描かれている。私は一応哲学がどうのこうのとやっている人間ということで書かせてもらっているので、夢について少し書こう。

 睡眠中に自分が見る普通の夢はあくまでも夢であるし、そのことを疑うというのは、無理があるように思う。この世界が夢だとしたら、それは自分が睡眠中に見ているものとはどこかが異質であるはずだ。現実を夢と同一視するだけでなくて、現実と夢、現実と虚構とを同時に捉えるような物の見方をしないと、現実と夢から成るこの世界が夢であるということは言えないと思う。つまり、そのようにでないと夢としての世界に裂け目は生じないと思う。

 私は虚構の、現実に対する権利をむやみに主張するということに懐疑的で、現実がつくりものだというだけでは、現実という名の夢に対して何も効力を有しないのではないかと思っている。現実を理解する仕方が高まるからこそ、その外部が現れてくる、とそのようなことがいろいろなところで書かれていなかったかと思うのだが。そういう独特の書き方は、何につかってもいいわけじゃないとは思うが、夢としての世界ということについては示唆的だと思う。

 「BD」における夢ネタの扱いは、世界に生じる裂け目という風に私には感じられた。そのときの裂け目というのは、私としてはハイデガー的なうけ取り方をしたくなったところだった。

 「迷宮物件ファイル538」は、短編で、ここでも虚構と現実という頻出するテーマが現れる。小説内小説というのがあるが、そういう作りになっていた。それで台無しになってしまうのもあるが、これは上手くいっているような気がした。フィクションの中にフィクションを生み出すというのが、たくさん見てきた押井守の作品において印象的なところだった。それをやるには、世界内世界の設定とか、世界内世界とその外側との境界をよく考えなくてはいけないと思うが、そういうことが好きな人なのかもしれない。人によると「BD」のうちに壮大な世界観とちりばめられた法則を発見することができるらしいが、「迷宮物件」にもあるんですかね。

 小説内小説や世界内の世界というのは両義的であって、本筋が行き詰まったので手当たり次第にそれを「夢でした」「次行ってみよう」となるやつもあって、そういうのだと正直落胆することがあるのだが、他方ではフィクションにそれなりの力を与えようというような気分を感じさせるものもある。どちらかというと押井守の場合は、後者に近いかなという気がしている。

 「天使のたまご」は、大げさにいうと宇宙論的な作品。モデルになっているのがどんな宇宙論かは分からないが、架空の宇宙論を具体化したみたいな感じだった。日本に住んでいると、キリスト教会の秘儀とか、ゾロアスターの世界観とかにやけにひかれてしまうようで、「天使のたまご」にもそういうものの一つに出会ったような面白さを感じてしまった。

 

 (四)象徴性

 いろいろ見てきて、「押井作品?」と聞かれてどんな印象を持つかというと、表題のように、「象徴的」という言葉が浮かぶ。念入りな工夫の跡が窺えるその作品は、見る者の冒険心とか探究心を裏切らないだろう。象徴的な雰囲気というのは、現代の雰囲気とはちょっと疎遠な気もするが、みんな忙しいからだろう。そういうのを感じ取るのには、何より時間が必要だと思う。みんなして目をしょぼしょぼさせて、金もなければ時間もないという状況らしいが、何とかしたいものですね。

 世界過程の頂点に昂然と君臨するのを義務と感じている人なら、目のしょぼしょぼまで無理やりに君臨させるのかもしれないが、ニーチェなら「君たちは狂っているのだ」ということだろう。不況になって荒んだ状態になると、それが肯定されて君臨されるのではたまらない。そんなことより押井作品を楽しめるような時間を取り戻そうではないですか。

 

 (五) 著者情報とあいさつ

 結局「トーキングヘッド」は何だったのか今も分かりません。座談会で聞こうと思ったのですが止めました。

 WWFとへーげる奥田さんに感謝します。三年間どうもありがとうございました。

 

2002/12

 

 


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