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押井守とその「時代」

―― 「B・D」から「パトレイバー2」まで ――

 

 

鈴谷 了


 今回の原稿は「押井守がこれまでアニメ界においてどのような位置にあったか」という点の概説として依頼されたものである。

 さて、それを語るにどこから始めるべきだろうか。

 押井守がアニメ業界に入ったタイミングだとすれば一九七七年まで遡らなければならないし、出世作であるテレビアニメ「うる星やつら」の放映開始ならば一九八一年、同じく(商業)映画初監督作品の「うる星やつら オンリー・ユー」の公開時なら一九八一年となる。

 しかし、この文章を読む多くの人が意識しているように、押井守の「映像作家」としてのスタートはやはり「うる星やつら2 ビューティフルドリーマー」(以下「B・D」と略記)と見るのが妥当だろう。他方、「攻殻機動隊」の成功によって押井守が(一応)国際的映像作家となってからは押井守が種々の媒体に登場する機会が飛躍的に増え、それ以前のように「知る人ぞ知る」に近い存在ではなくなった。何より、時代が新しく筆者があえて同時代史をたどる必要もない。というわけで、この小論においては「B・D」公開の一九八四年から「パトレイバー2」公開の一九九三年までの足かけ一〇年を、「同時代史」という形でたどることにする。

 

 ただし、その原点として一九八二年という年には注意を払っておくべきだろう。

 この年、当時の電電公社はカード式公衆電話の導入を開始した。(ただし、年末近い一二月二三日)本格的なプリペイドカードとしては初めてのものだった。

 もう一つ、ソニーとフィリップスによるコンパクトディスクの発売開始もこの年である。つまり、大衆的な(機械の裏で動いているというレベルではなく、目に見える形での)デジタル化が始まったという意味で記念すべき年なのである。とはいえ、その後の進展をまだ多くの人は認識していたわけではなかった。この年から翌年にかけて放映されたテレビアニメ「超時空要塞マクロス」(二一世紀初頭が舞台)においては、ヒロインのリン・ミンメイはLPアルバムやドーナツ盤をリリースしていた。

 もう一つ、後に日本におけるパソコンの「標準機」ともなったNECのPC-9800シリーズがリリースされたのもこの年だった。押井守との関わりで行けば、PCゲームに関心を持った彼がこのシリーズのPCを購入し、「デジタル」と関わり始める契機になった。

 また、この年公衆通信法の改正により、オンラインネットワーク結合の自由化が認められ、これを受けて日本最初のパソコン通信とされるMac

Eventがサービスを開始したといわれている。

 アニメ界においては、この年3月に劇場版ガンダムの完結編になる「めぐりあい宇宙篇」が公開され、ポストガンダムの時代に入った(とみなされていた。当時においては…)同じ三月に「魔法のプリンセス ミンキーモモ」が、十月には「超時空要塞マクロス」が放映を開始した。富野由悠季は「ガンダム」「イデオン」という二作品の劇場版を手がける一方で、「戦闘メカ ザブングル」でテレビシリーズにおいても現役だった。そしてその中で「うる星やつら」もこの年に入ってブレイクした。「ガンダム」によって開かれた(と思われていた)テレビアニメの枠と市場で、新たな試みが展開し、一九八四年まで続く「テレビアニメ黄金時代」といえる一時期を形成することになる。

 そしてもう一人、すでに日本のアニメの現場から遠ざかったと見られていた宮崎駿が「アニメージュ」誌上に「風の谷のナウシカ」の連載を開始したのもこの年のことだ。

 

 その狭間にあたる一九八三年に関しては、二つの出来事だけをあげておきたい。

 一つはこの年七月、任天堂がファミコンを発売したこと。

 もう一つはこの年の末に押井守も共同監督した「ダロス」が最初のオリジナルビデオアニメとして発売されたことである。

 

 

 一九八四年

 

 【押井守に関する事柄】

 

   二月 「B・D」公開

   三月 「うる星やつら」テレビシリーズの監督をこの月放映の「死闘!あたる対面堂軍団」をもって降板。ほどなくスタジオぴえろを退社。

       フリーとなる。

   八月 「ルパン三世」の新作映画の監督起用が発表される。(翌年降板)

      「アニメージュ」誌上で「とどのつまり……」連載開始。

 

 【その他アニメ界周辺の事柄】

 

   三月 「風の谷のナウシカ」公開

   七月 「超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか」公開

  十二月 9年ぶりとなる映画「ゴジラ」公開

      ガイナックス、株式会社として発足

 

 

 【その他世間の事柄】

 

   一月 アップルコンピュータ、マッキントッシュを発表。

      週刊文春「疑惑の銃弾」キャンペーン開始。被疑者とされた三浦和義が有名人になる。

   三月 江崎グリコ社長誘拐事件。翌年八月までの一連の食品会社連続脅迫事件に発展。

      浅田彰「逃走論」刊行。前年の「構造と力」とあわせ、「ニューアカブーム」の引き金となる。

   七月 ロサンゼルス五輪。ソ連はじめ社会主義圏諸国が不参加。

 

  十一月 キャプテンシステムが本格稼働。このシステムを使った日本最初の個人ホームページが同月誕生している。

 

 

 「B・D」には何度か電話が登場する。別に押井作品とかアニメに限らず、ドラマの作劇法として電話が登場するのは、現代を舞台とした作品ではごく普通のことではあるが、「B・D」をはじめとする押井作品では電話というメディアの扱いに、他のアニメとは違ったセンスを感じることが多い。一つには「どこにつながっているかわからない」という状況をしばしば作ることとも関係するのだろう。

 さて、「B・D」の学園祭前夜、サクラが友引高校の温泉先生に向かってかけた電話がむなしくコールサインを繰り返す描写がある。その電話は当の友引高校ばかりではなく、町中の公衆電話にまでかかっていた。この公衆電話は黄色いボディの、今ではまず見ることのできないものである。テレホンカードが出現する以前、主流だったのはこの公衆電話(一〇〇円と十円共用)であった。先に記した通り、一九八二年にテレホンカード式公衆電話は登場していたものの、まだ普及率は今ひとつという時代だった。この当時、日本の電話を運営していたのは電電公社である。家庭用の電話はすべて電電公社が契約者に納入していたものだった。いわゆる「黒電話」(「B・D」にも出てくる)である。プッシュ式かダイヤル式かという選択肢はあったが、それ以外には何も選べない時代だった。

 また、「B・D」には出てこないがテレビシリーズの「うる星やつら」には、面堂がさっと二つ折りの携帯電話を取り出して「終太郎だ……」とやる場面がしばしばあった。面堂家専用のものだったのかもしれないが、なかなかかっこうよく見えたものだ。二〇年もたたないうちに、それがごく当たり前に見られる光景になることは、おそらく誰も予想しなかったろう。

 電話といえば電電公社の電話であり、黒電話か公衆電話しかなかった、という状況は、当時のアニメをめぐる評論のそれと似ているかもしれない。一九七七年、テレビ再編集の映画「宇宙戦艦ヤマト」の公開により、「中高生以上による、アニメ愛好者の活動」というものが本格化した。その中の評論活動とは(声優を別とすると)、まずキャラクターであり、メカニックであり、次にストーリーと作画、そして演出という方向に次第に分化していった。(その過程でスタッフファンが出現する)ただ、その多くはそれまでの「アニメの約束事」を大きく逸脱しない範囲でのものであった。基本的にはストーリーや設定(およびそれによって語られる世界観)が大前提にあって、その内容を云々するというスタイルである。

 「B・D」公開時の反響には、「うる星やつら」という作品の一つとしてこれを扱うもののほかに、従来のアニメ作品にはあまり見られなかったスタンス(たとえば作品のメタ構造そのもの)から扱うものが少なからず含まれていた。それは、新しい作風のアニメ作品に接した新鮮な驚き、あるいはこれまでのアニメ作品やアニメ評論の約束事に対する「飢え」を満たした爽快感といったものから成り立っていたといえる。(それは単にファンサイドにとどまらず、アニメ業界人の中にもあった。その一人が安彦良和で、二〇〇二年刊行の「ガンダム者」(講談社)でのインタビューで「B・D」を見たことが、アニメ業界をやめるきっかけの一つになったと述懐している)

 これらの発言者には、いわゆるアニメファンではなかった層の人々(実写映画メインとかSFファンとか)も少なからずおり、今に至る「アニメファンと押井守ファンの微妙な乖離」がそこで発生したのかもしれない。

 とはいえ、「B・D」は過去2年間のテレビシリーズの蓄積の総決算という側面も否定できないものであったし、ポスト「ガンダム」のテレビアニメ黄金時代がもたらした収穫の一つ(従来のアニメ作品からの「逸脱」も含めて)というとらえ方が一般的だったともいえよう。後者の見方はこの年公開された「超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか」にも共通したものだった。

 特筆すべきは、これらの作品の人気や評価にアニメ誌というメディアが果たした役割が、その前の「ヤマト」や「ガンダム」の時代以上に大きかったという点である。「ヤマト」はファンサイドの盛り上がりが逆にアニメ雑誌というメディアを生んだのだし、「ガンダム」の場合は揺籃期のアニメ雑誌が読者層に受ける作品を探し当て、相乗的にファン層を拡大していった。だが、「うる星」にしろ「マクロス」にしろ、アニメ雑誌は放映前から一定の「期待」をもって作品に接し(「うる星」の場合、押井守の個性は当初の「期待」に含まれてはいなかったが)、作品の人気が上昇すると特集を組んでスタッフを喧伝するという活動を行っていた。「B・D」で押井守の名前が広く知られるようになったのは事実だが、それに至る2年の間にアニメ誌の特集記事によって、すでにある程度アニメファンの間には「スター」としての地位がもたらされてもいた。

 この点は、同じ一九八四年のもう一つの重要作品である「風の谷のナウシカ」についても同じことがいえる。現在はスタジオジブリの「顔」で、当時「アニメージュ」編集長だった鈴木敏夫が、もはや日本のアニメでは活躍の場がない人物だと思われていた宮崎駿を、いわば誌上プロジェクト(過去の宮崎作品の特集による紹介、原作の連載)によって再び劇場アニメの制作に引き戻した企画であった。これもその当時においてはアニメファンの「勝利」という受け止め方をされた。実質的なジブリ第一作といえる「ナウシカ」のときには、ジブリ作品とアニメファンは蜜月の関係にあったのだ。

 多くのアニメファンは、この豊穣の時代はまだ続くと考えていた。これはその第一歩にすぎないのだと。

 

 

 

 一九八五年

 

 【押井守に関する事柄】

 

 十二月 「天使のたまご」発売

     翌年にかけて付帯イベントがいくつかあった。

 

 

 【その他アニメ界周辺の事柄】

 

  三月 テレビアニメ「機動戦士Zガンダム」放映開始

     アニメ誌「ニュータイプ」(角川書店)創刊

  七月 テレビアニメ「トランスフォーマー」放映開始

  九月 ファミコンゲーム「スーパーマリオブラザーズ」発売

 

 【その他世間の事柄】

 

   三月 ソ連共産党書記長にゴルバチョフ就任

      つくば科学万博(〜九月)

   四月 電電公社民営化、NTT発足。電気通信事業法施行により、通信事業が全面的に自由化。パソコン通信「PC-VAN」サービス開始

   八月 日航ジャンボ機墜落事故

     九月 G5のプラザ合意により円高政策へ転換。バブルの原点。

  十一月 マイクロソフト、最初のWindows1.0をリリース

 

 

 この年4月「中曽根民活」のトップを切って、電電公社が民営化された。電話事業・データ通信事業が基本的に自由化されたのだ。すでにいくつかのパソコン通信が存在していたが、この法律施行によって本格化することになる。それに機を合わせるかのように、つくば科学万博が開催され、エレクトロニクスによる未来をうたいあげた。

 しかし、メカニックアニメを中心に隆盛を続けたアニメ業界は、前年から一転する。その象徴が、ガンダムの続編「Zガンダム」の放映だった。もはや「ガンダム」をもう一度出さなければ商売にならない、という状況に立ち至っていたのだ。すでに前年あたりからメカものアニメのスポンサーだった玩具メーカーの倒産やアニメからの撤退が相次ぎ、そろそろ曲がり角かという状況にはあったのだが、ここまで一度に進むとはおそらく誰も予想していなかったに違いない。夏には東映動画がアメリカ向けに制作した「トランスフォーマー」が逆輸入で放映を開始した。従来、日本のロボットアニメのスポンサーだった企業がアメリカ向けに投入した商品のアニメで、その単純明快なコンセプトから日本でも玩具はヒットした。世界的に同じ商品を流せるから、メーカーにとっても願ったりかなったりである。当然、従来のようなスタイルのメカアニメは一段と減ることになった。

 それの受け皿として期待されたのがオリジナルビデオアニメだったものの、作品を重ねるにつれ、そのコンセプトは似通ったものになり、高い代金を払わなければならないハンディもあって、テレビアニメに代わる広範な視聴者を獲得することは困難となった。

 周辺産業だったアニメ誌にもその波が及ぶ。かねてからアニメ関連に触手を伸ばしていた角川書店がアニメ誌を創刊した。そのビジュアル重視で「ライト」な作りは読者を引きつけ、従来のアニメ誌にはそれなりの打撃となった。この角川がのちに「METHOD」のような堅い本を出すとは思いも及ばなかったというのが当時の印象である。

 一方、それを受けて立つ既存アニメ誌の中で、宮崎駿というブランドを掘り当てたアニメージュは、それに続く作家の発掘を模索していた。(「宮さんは2年に一回しか作らないから」とは某インタビューでの押井守の発言)その中で、「天使のたまご」は登場した。「ルパン三世」の降板という事情を受けたという部分はあったにせよ、雑誌社の側と押井守の側の思惑が一致した結果誕生したということは確かである。

 「天使のたまご」が押井守を語る上で欠かせない重要作品であることは今さら言うまでもないが、視聴者との関係という点でも転換点になった作品だった。「天使のたまご」によって、押井守はアニメファンの間で「小難しくてわかりにくい作品を作るやつ」という「評価」が決定づけられた。テレビの「うる星やつら」から「B・D」への流れの中で、共存していた雑多な評価がここでかなりふるいにかけられたともいえる。アニメファンだけならまだよかったが、業界内部でも押井守に作品を作らせるととんでもないことになるという評価が生まれ、2年にわたって仕事をほとんど干されてしまう。作品に接する機会が減ることで、アニメファンの間から押井守に対する興味関心がさらに薄れていくという悪循環も起きた。

 押井ファンの「世代」が最初に大きく別れるのがこの「たまご」の前後ということもできるかもしれない。

 

 

 一九八六・八七年

 

 

 【押井守に関する事柄】

 

 八七年 二月 実写映画「紅い眼鏡」公開(東京・キネカ大森)

     八月 ビデオアニメ「トワイライトQ 迷宮物件」発売

 

 

 【その他アニメ界周辺の事柄】

 

  八六年 二月 テレビアニメ「ドラゴンボール」放映開始。

      三月 テレビアニメ「うる星やつら」終了。翌週より「めぞん一刻」開始。

      五月 ファミコンゲーム「ドラゴンクエスト」発売

      六月 アニメ雑誌「マイアニメ」(秋田書店)休刊

      七月 「天空の城ラピュタ」公開

      十月 テレビアニメ「聖闘士星矢」放映開始

     十二月 アニメ雑誌「ジ・アニメ」(近代映画社)、「アニメック」(ラポート)休刊

  八七年 二月 コミック「うる星やつら」終了

      三月 「王立宇宙軍」公開

 

 

 【その他世間の事柄】

 

  八六年一月 スペースシャトル「チャレンジャー」爆発事故

        ソ連・チェルノブイリ原発事故

  八七年四月 国鉄分割民営化・JR発足

        パソコン通信「ニフティサーブ」サービス開始

        NTT、携帯電話サービス開始

 

  一九八七年四月、NTTは携帯電話のサービスを開始した。しかし、それは携帯というには恐ろしく巨大な代物で、面堂のかっこいい姿を再現することなどとうていできなかった。(当時のNTTのコマーシャルでは、延々と長大なコードの電話を戸外で持ち歩きながら会話する人物を登場させ、「コードのないどこでも使える電話」をアピールしていた)後にこれが時代を大きく動かすことになるとは、誰も予想しなかった。

 その少し前、一本の劇場アニメが公開された。若いスタッフがバンダイという大資本を動かして送り出した「王立宇宙軍」である。興行的にヒットとはいえなかったこの作品は、しかしその後のアニメの描写や演出の技術に大きな影響を与えることになった。あたかも携帯電話のように。

 アニメ界は「冬の時代」と呼ばれる季節に入っていた。

 期待の「Zガンダム」がファーストガンダムほどの広範な支持を得られない上に、アニメ誌を支えてきた(原作漫画のない)オリジナルアニメがテレビから相次いで姿を消したこの時期、アニメ雑誌の休刊が相次いだ。受け皿になるはずだったオリジナルビデオアニメも乱作による失速がはっきりしていた。過去のヒット作の続編や再編集による「残り物」商法もすでに限界となり、いよいよ売るものがなくなった。

 アニメ雑誌では過去、作品をめぐり読者投稿欄で論争が起きることも珍しくなかった(パソコン通信すらなかった当時、議論のできる場所は投稿欄か同人誌に限定されていた)が、そうした作品が「Zガンダム」と「めぞん一刻」を最後に事実上姿を消した。

 それらのアニメに取って代わったものは、「少年ジャンプ」連載の漫画を原作とする「ジャンプアニメ」とファミコンである。ファミコンは、八五年発売の「スーパーマリオブラザーズ」の大ヒットで、子ども文化の一角に深く食い込んだ。後にはアニメにきわめて熱心になるテレビ東京などは、一九八六年のある時期三〇分もののアニメを週1本まで減らして代わりにファミコン番組を放映していた。また同じく八六年の夏にはファミコンを題材にした劇場アニメも公開されている。

 「ジャンプアニメ」は、「少年ジャンプ」が少年雑誌の「勝ち組」となるのに追随して増加した。「少年ジャンプ」は掲載作品をアニメ化しても、他の雑誌がそれを記事として掲載する際にページ数などの厳しい制限を加えたため、「ジャンプアニメ」が人気を博してもアニメ雑誌はほとんど潤わない仕組みになっていた。当時、最大のアニメ雑誌は「少年ジャンプ」である、という言われ方もされていた。

 「ジャンプアニメ」は当然ながら基本的に「男性向け」の作品であるが、同人誌文化の中で培われてきた「読み替え」(いわゆる「やおい化」)によって、女性ファンを大量に呼び込むことになる。この時期、アニメファンをリードしたのはこうした女性同人誌だった。

 一方、宮崎駿は「天空の城ラピュタ」で「漫画映画」を全面展開して「ナウシカ」に劣らぬヒットを飛ばし、その地位を確立した。「ラピュタ」は作品の性格もあって、まだアニメ雑誌とそれなりに連動していたといえる。

 押井守はこの間、半ば沈黙を強いられていた。宮崎駿と組んだ「アンカー」の企画が頓挫し、本来は千葉繁のプロモーションビデオ企画だった初の実写映画「紅い眼鏡」に、30分のオリジナルビデオアニメ「トワイライトQ 迷宮物件」という、どちらかといえば小品ともいえる作品をかろうじて世に送ったに過ぎない。もちろん、これらの作品にも見所はあるし、「紅い眼鏡」においては音楽の川井憲次、「迷宮物件」においては美術の小倉宏昌という、その後の押井作品に欠かせない人材とのコラボレーションを実現したという意義は小さくない。しかし、「B・D」や「天たま」を見たファンには「手すさび」のように映ったのも確かである。しかも、アニメ誌のビデオ評では「迷宮物件」に対して「押井守は裸の王様だ。周囲がいいと褒めそやすのでその気になってどんどんずれた作品を作っている」といった趣旨の「感想」が乗る始末。ファンは、押井守がこの間せっせと企画書を書いては没にされることを繰り返していた、などとはつゆ知るはずもなく、「迷宮物件」に出てくる「そうめんをすする生活」が押井守の実生活を反映したものだ、とは想像もできなかった。

 富野由悠季がテレビシリーズを降り(一九八七年二月「ガンダムZZ終了)、アニメブームを支えた名だたるアニメ作家たちはテレビから姿を消していた。ガンダムの時代以来、アニメ受容の中心にあった「作家主義」というものが一時的にせよ相当薄れたのがこの時期だった。

 世間が「円高不況」にあえぐ中、「内需拡大」の呼び声のもと金融の緩和が行われ、次なるバブルの時代がやってくることになる。

 

 

 一九八八年

 

 【押井守に関する事柄】

 

   四月 ビデオアニメ「機動警察パトレイバー」発売開始(〜一二月)

 

 

 【その他アニメ界周辺の事柄】

 

   一月 ソニー、VHS方式ビデオへの参入発表。ビデオの「規格戦争」終結

   二月 ファミコンゲーム「ドラゴンクエスト3」発売。各地で行列や商品の恐喝騒ぎが起き、社会現象化。

   三月 「機動戦士ガンダム 逆襲のシャア」公開

   四月 「となりのトトロ」「火垂るの墓」公開

   七月 「AKIRA」公開

   十月  ビデオアニメ「トップをねらえ!」発売開始(〜八九年七月)

 

 

 【その他世間の事柄】

 

   三月 青函トンネル開通

   四月 アフガニスタン和平協定。ソ連軍撤退へ。

   六月 リクルート事件発覚

   八月 イランイラク戦争停戦

 

 「バブル景気」が本格化した時期。アニメにもお金が流れ込んで、この頃から再び大作が作られるようになる。今日「バブルの遺産」は決して肯定的には語られないが、ことアニメに関する限りはあだ花ではなく、世界に日本のアニメが知られる契機にもなった作品群を生み出した。

 そんな中、押井守は「パトレイバー」の監督の仕事でメジャーな場に返り咲く。仕事が全くない状態で、雇われ監督に近い形で入ったものだったが、ゆうきまさみのコミックとの連動や当時としては破格の低価格でのリリースなどが奏功し、「パトレイバー」はヒットした。ビデオアニメとしての出来は(低予算もあって)決して高いものではなかったものの、ラスト2話のクーデター話に押井守らしさを垣間見せていた。とにもかくにも、押井守という作家の存在をアニメファンに再びアピールできる環境にこぎ着けることはできた。

 「高度成長前の日本」を描いた宮崎駿の「となりのトトロ」は、中高年にも広くアピールして映画賞を総なめにし、宮崎駿は「国民的アニメ作家」の地位を不動のものとした。それは同時に、宮崎作品がもはやアニメファンだけによって支えられるものではなくなった、ということをあらわしていた。富野由悠季は「逆襲のシャア」で「アムロとシャアの物語」に(かなり強引に)決着を付けた。

 大友克洋という「異業種」参入者によって作られたのが、おそらく世間的にはもっともこの年話題を呼んだ「AKIRA」である。日本の動画枚数最多記録を塗り替え、放送局や商社を含む複数の資本提携で送り出されたこの大作は、海外でも高く評価されることになる。また、コンソーシアム(共同出資)による制作体制はその後のアニメ作りに影響を与えた。が、その破格な作りの故に、今日に至るまで大友(監督)作品がアニメ界で(押井守以上に)「異端視」されるきっかけになったことも否めないように思われる。

 庵野秀明はこの年、初の監督作品「トップをねらえ!」を送り出す。おちゃらけたパロディという当初の印象と「そこのアニメは道をどけろ!」という挑発的な広告コピーの狭間で、「アニメやその周辺にしかアイデンティティーを持てない」という(上の世代にはなかった)自己言及をまじめに描き出し、多くのアニメファンを瞠目させることになる。

 しかし、全体としてはアニメファンにとって「作家性」という要素はこの時期やはりあまり高いステータスを与えられていなかった。この年、テレビでは「聖闘士星矢」のヒットに続く形で「鎧伝サムライトルーパー」が放映された。「星矢」と異なり(原作コミックを持たない)オリジナル作品である「サムライトルーパー」は、半ばアニメ雑誌の救世主ともなり、多くの特集を組んだことで女性ファンをさらに増やすという構図を生んだ。 世間ではゴルバチョフによる「新思考外交」の本格化によって冷戦が終結に向かい、誰もが世界はよりよい方向に進むだろうと考え始めていた。

 

 

 一九八九年

 

 【押井守に関する事柄】

 

   七月 映画「機動警察パトレイバー The Movie」公開

   八月 ビデオアニメ「御先祖様万々歳!」発売開始(〜九〇年一月)

 

 【その他アニメ界周辺の事柄】

 

   二月 手塚治虫死去

   七月 「魔女の宅急便」公開

   八月 連続少女誘拐殺人事件で宮崎勤容疑者を逮捕。マスコミによる「おたく」バッシングが勃発

   十月 「機動警察パトレイバー」テレビシリーズ放映開始。

 

 

 【その他世間の事柄】

 

   一月 昭和天皇死去

   四月 消費税施行

   六月 中国・北京の天安門広場で学生らの民主化デモを軍が強制排除

      東芝、世界最初のノートパソコン「ダイナブック」発売

   九月 ポーランドに非共産党政権誕生。以降年末にかけて東欧諸国で民主化運動が連鎖的に進展(一一月ベルリンの壁崩壊)

  十二月 マルタの米ソ首脳会議で「冷戦終結」宣言

      東京証券取引所の日経平均株価、大納会で3万8915円の最高値を記録

  この年 WWWの構想が提唱される

 

 

 内外で象徴的な出来事が多発し、時代の転換期を画したとして記憶されている年だが、日本経済はバブルの最盛期。消費税が施行されて自民党が参議院選挙で大敗しても、日本は世界の覇者だという楽観に包まれていた。バブルマネーのアニメへの流入は、前年「パトレイバー」によって火のついた低価格ビデオアニメに波及した。(しかしすぐに潰れたところもあった)

 しかし、夏の連続少女誘拐殺人事件容疑者に関する報道は、多くのアニメ好きに衝撃を与えた。その後いくつかの勢力によって連綿と続くことになる「成年コミック」「児童ポルノ」排撃運動の源流はここにあるといってもいいだろう。一方、ネガティブキャンペーンへの反発から、ファンの側にも一種の「開き直り」の気運が生まれ、やがて九〇年代後半の再度のアニメブームを支える「高年齢のアニメファン」を生み出す素地にもなったといえる。

 バブルで東京の古い町並みが次々と地上げに遭っているさなか、押井守は劇場版「パトレイバー」を送り出す。「劇場版3つの誓い」をとりあえず守り、娯楽性を持ちながらもコンピュータウィルスや現実に重なる「失われつつある東京」といった題材による社会性を持った内容により、新たな押井ファンを獲得した作品となった。

 ただ、社会的な注目度という点ではやはりこの年公開の「魔女の宅急便」には及ばなかった。この作品はメインターゲットを若い女性にすえていた。従来通り「アニメージュ」は特集記事を組んだものの、もはやそれは中心ではなかったのである。宮崎駿が二年連続で映画を作り、それがヒットしたことで本格的なジブリのアニメ制作体制が築き上げられていく。鈴木敏夫が「アニメージュ」を離れてジブリ専従となるのもこの作品のあとのことだった。評価はともかく、これを起点にジブリが日本におけるアニメビジネスのスタイルを一つ創出したことは事実である。また、これを契機に「作家主義」的な観点からのアニメ評価が再びクローズアップされることになった。しかもそれが視聴者ばかりではなく、出資者サイドに及んだことは特筆されていい。やがて押井守にもその影響は波及する

 劇場版「パトレイバー」と並行して押井守が世に問うたのがビデオアニメ「御先祖様万々歳!」だった。従来のアニメからは逸脱したうつのみやさとるのキャラクター、シリーズ当初の舞台劇を意識した演出などは、当時においては際物扱いされたり、「一昔前の前衛劇レベル」といった、訳知りな「評価」が語られた。また、スタジオぴえろの「10周年記念作品」という触れ込みから、「うる星」や「魔法少女シリーズ」への思い入れがあるぴえろファンには、妙な思いこみと「期待はずれ」を与えたようでもあった。

 しかし、うつのみやさとるのこのキャラクターがアニメの現場サイドにはかなりの衝撃と影響を与えていたことが近年語られており、また「家族制度」の持つ不条理の描写は後にテレビアニメレベルでも見られるようになったことを考えれば、「早すぎた作品」だったということもできよう。(一九九七年、幾原邦彦監督のテレビアニメ「少女革命ウテナ」は、まさしく寺山修司に代表される前衛劇を強く意識していたが、「御先祖様」のような「感想」を見ることはなかった)

 テレビアニメの世界では「美少年格闘系」作品人気の余波がまだ続いていた一方、RPGなどの影響を受けた作品も登場し、「ゲームはアニメの敵」だった時代を過ぎて、影響を干渉し合う関係が確立しつつあった。その中でアニメファンの嗜好も拡散の道をたどることになる。

 

 

 一九九〇・九一年

 

 【押井守に関する事柄】

 

  九〇年 三月 ファミコンゲーム「サンサーラナーガ」発売

  九一年 三月 「ストレイドッグ(ケルベロス 地獄の番犬)」公開

 

 

 【その他アニメ界周辺の事柄】

 

  九〇年  一月 テレビアニメ「ちびまる子ちゃん」放映開始

         四月 テレビアニメ「ふしぎの海のナディア」放映開始

       十一月 ゲーム機「スーパーファミコン」発売

  この年    世界最初の商用インターネットプロバイダが誕生

 

  九一年 一月 テレビアニメ「きんぎょ注意報!」放映開始

        三月 「機動戦士ガンダムF91」公開

        七月 「おもひでぽろぽろ」公開

        九月 「老人Z」公開

 

 

 【その他世間一般の事柄】

 

  九〇年 一月 東京証券取引所の日経平均株価、大発会で下落。

            バブル崩壊始まる。

        八月 イラク、クウェートに軍事侵攻

        十月 AT互換機用日本語表示ソフト「DOS/V」発売

  九一年 一月 湾岸戦争勃発

        八月 ソ連でクーデター未遂

      十二月 ソ連崩壊

 

 膨らんだバブル経済がついにはじけたが、まだその余韻は残っていた。「ストレイドッグ」ができた事情にはそうした「時代の雰囲気」と、劇場版「パトレイバー」での(出資者レベルへの)「認知」があった。しかし、撮影時の度重なるアクシデントも手伝って、ガンアクション映画になるはずだったものは、一種のロードムービーへと変貌し、「押井守に実写を撮らせると……」という「評価」が今度はできあがってしまう。「犬狼」という「遺産」を生むには10年の歳月が必要だった。

 庵野秀明とガイナックスは、初のテレビアニメ「ふしぎの海のナディア」を送り出す。「NHKの冒険活劇もの」という条件の中で、自分たちの趣味をあらわにしたり、「トップをねらえ!」以上の自己言及という(昔から見れば)「禁じ手」のような作りをしながらも、ラストはきっちりと終わらせた、ある意味では「ふしぎな」作品だった。作り手の「自分たちの趣味」に多くのアニメファン層は共感し、「ナディア」は同人誌の世界で一躍人気者になる。しかし、作品中に忍ばせていた「まじめ」なテーマへの反応は決して十分ではなく、ブームは永続しなかった。(「パロディ趣味」という部分がおそらくは「まじめな評論」の対象とすることをためらわせたのである)この作り手と受け手の「断絶」はのちの「新世紀エヴァンゲリオン」で、作中のテーマの一つとして取り上げられることになる。

 作り手が受け手の意識のあり方やその「断絶」を考えるようになったのは、作り手自身が「受け手」であった経験のある世代にして初めて起こった現象でもあった。逆に言えば押井守を含めたその上の世代にとっては「断絶」は特筆すべきことでもなく、それは最初から自明のことだったからと考えられる。

 誰を受け手とするか、ジブリアニメや完全なキッズ向けアニメを別にすれば、ビジネス・作品内容の両面で多くの作り手が模索していた。富野由悠季が3年ぶりに作った「ガンダム」はヒットしなかった。コアなガンダムファンは少なからずいたが、まだ「ガンダム」は広い世代で共有されるアイテムには至っていなかった。その意味では、「ああいうものしか撮らない」という見方が確立していた押井守は、恵まれたポジションにいたということもできるだろう。

 その模索の時代に「ちびまる子ちゃん」からギャグ系少女漫画のアニメへの移植が本格化し、「きんぎょ注意報!」ではさまざまな「漫符」(「汗」など)がアニメの世界で違和感なく表現されることを示した。同時に少女漫画特有の「作り手の自意識」の描写(コマ外の落書きなど)が、ナレーションなどの形でアニメに取り入れられ、高い年齢層のアニメファンを注目させることになった。かつて「おもちゃアニメ」であるロボットアニメや魔法少女アニメから自分たちの楽しみを読みとった鑑賞スタイルが、この系列の作品で再び前に出始めた。やがてその潮流が90年代中盤のアニメに大きく影響を与えていく。

 

 一九九二・九三年

 

 【押井守に関する事柄】

 

  九二年  十月 「トーキングヘッド」公開

  九三年  八月 「機動警察パトレイバー2 The Movie」公開

 

 

 【その他アニメ界に関する事柄】

 

  九二年  三月 テレビアニメ「美少女戦士セーラームーン」放映開始

         七月 「紅の豚」公開

  九三年  一月 テレビアニメ「無責任艦長タイラー」放映開始

 

 

 【その他世間一般の事柄】

 

  九二年 一月 ユーゴ内戦勃発

        六月 PKO法案成立。カンボジアに第一段が派遣される

        十月 コンパック、日本市場でPC販売開始。PCの価格破壊(コンパック・ショック)を引き起こす

       この年国内最初のインターネットプロバイダIIJが設立

 

  九三年 二月 ニューヨーク・世界貿易センタービル爆破。のちにアルカイダの犯行と判明。

      五月 Windows3.1日本語版発売

      カンボジアでPKO派遣中の警官が襲撃され死亡

      八月 非自民連立の細川内閣誕生

      九月 ロシアで反エリツィン派の議会を武力で鎮圧

 この年  イリノイ大学で、WWW閲覧ソフト「MOSAIC」開発

 

 

 インターネットの商用利用が本格化し、閲覧ソフトの登場によってその威力が広く知られる契機がやってくる。またWindows3.1の登場はAT互換機の普及を促進し、アニメファンの活動にもPCが大きなウエイトを占めるようになるが、まだこの段階では少数であった。いわば、今日の状況の「前夜」といえる時期である。

 九二年三月、「きんぎょ注意報!」の後番組として始まった「美少女戦士セーラームーン」は際物という当初の評判を覆し、アニメファンさらには一般の子どもまでを巻き込んだ人気作に成長する。「アニメージュ」ではもはや「紅の豚」の表紙の号より、セーラー戦士が表紙の号の方が売れるという事態になっていた。「少年ジャンプ」ほど強いメディア規制がなかったことも幸いし、九〇年代後半のアニメに多大な影響を与えることになる。

 すでに導入されていた「少女漫画のアニメ化」のノウハウに加え、男女・年齢によってそれぞれ興味を抱くポイントが持てるアイテムがそろったことで幅広い人気を得た。

 一方、九三年一月から放映された「無責任艦長タイラー」ははっきりと高年齢のアニメファンを視聴者として指向し、ビデオや関連CDを売ることでビジネスするというモデルを成功させた。それだけ高い購買力のあるアニメファンが増えた、ということがその背景にあった。(正確な日付確認ができなかったので年表に書かなかったが、「うる星やつら」テレビシリーズの33万円というLDボックスがリリースされて完売し、テレビアニメLDボックス化の呼び水になったのは、この少し前のことである)

 押井守は「パトレイバー2」と、その制作を条件に作ったという「トーキングヘッド」をこの時期送った。この2作について語ることはここではあえて控えよう。押井守はアニメファンを探し出さないと知っている者がいない、という存在ではもはやなくなっていた。ことに「パトレイバー2」は、日本のPKO参加というタイミングも手伝って、時事的な関心からのアプローチが一作目以上に増えた。それは「パトレイバーファン」にあえて冷淡に作られた内容と、いわばトレードオフで得られたものでもあった。

 押井ファンはともかく、アニメファンにとっての「押井守」は、アニメの社会的評価を高めてくれた(宮崎駿と並ぶ)ヒーローという側面と、自分たちが好きな「世界」に距離を置く「傍観者」という側面が混じり合った、複雑な存在としての評価がこれ以降定着していったように思われる。

 

 

 あしかけ一〇年にわたって眺めてみると、アニメファンと押井守の関係は、「アニメへの愛憎」によって決められてきたといえる。それは押井守に限ったことではないのだが、「愛憎」のあり方においてもっともアニメファンと一線を引いた一人であったということが、押井守評価の振幅につながっているのだろう。

 「アニメへの愛着はあるが、アニメファンとなれ合わない」というアニメ作家は果たしてこれから出てくるのだろうか。それが困難だとすれば、押井守的な「作家」はもう見られなくなるのかもしれない。

 

2002/12

 


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