WWFNo.25のページへ戻る
 

押井作品における戦闘現象論

 

 

へーげる奥田


 

特権的地位演出のギミックとしての戦闘

 

 戦闘現象論。聞き慣れない言葉だと思いますし、たぶんグーグルとかで検索しても出てこないのではないかと思います。私がいま便宜的にデッチあげ―-- ではなく「思考技術的に提唱」した概念ですんで。

 別にハッタリで言っているわけではありません。ちょっといろいろ経緯があって考えた概念です。最初、押井作品において、そのストーリーラインの組み立てなどについて考えていたんですね。物語の組み立て上、「主人公の特権的地位の獲得」という演出は最もわかりやすい。そして、戦闘シーンの描写というのは、その効果が最も顕著にあらわれやすいというところがあるでしょう。

 たとえばプロテクトギア。常識的に考えたら、いくら治安が乱れているとはいえ、首都圏の治安維持ぐらいのために、あんな装甲車みたいな防弾性能と、個人携行用としてはほとんど最大クラスの軽機関銃の実装ははたして必要なのか? いったいナニと戦争するつもりなんだ? などと思うわけです。まあ押井監督ご本人も、ありゃあオーバーキルだとかおっしゃってますが。敵の攻撃をことごとく無効化する防御力と、過剰な攻撃力というプロテクトギアは、「主人公の特権的地位の描写」としての演出ギミックとしてはたいへん有効に機能するわけです。

 『アヴァロン』においても、主人公アッシュは作中で特権的な地位に立っています。これはゲーム「アヴァロン」の中で、超人的な能力と経験値をもつ伝説的なプレイヤー、という設定のもとにストーリーが成立していますね。

 ところで、わかりやすい例なのであげますが、ある掲示板で「『アヴァロン』の戦闘シーンが実際と違うのでダメだ」という意見が上がったことがあります。まあ、映像作品に対するスタンスというものは人それぞれですから一概に言えませんし、押井監督自身いろんなウンチクを売りにしている部分もありますので一層この手の「攻撃」を受けやすいという部分もありますが、実はこのとき私にはひとつ気になった部分がありました。つまり、「アンタ見たんか」と。「実際と違う」って、アンタ銃撃ったりミサイル撃ったりしたことあるんか、とツッコミ入れたくなったんですね。

 こういう意見を言う人は、まあそれなりの文献資料をもとにして「実際」とおぼしき認識を得て、それをもとに発言しているものと思います。しかし、物理学法則に反してるとか、完全にあからさまに全然違うというならともかく(彼らにとってはきっと「あからさまに違う」んでしょうけど)、たとえば実際の銃を撃ったこともないのに何故違うと断言できるのか。いや、別に「銃を撃ったことのない者は銃の撃ち方についてどうこう言うな」と言っているのではありません。その世界観のもととなる認識の形と源泉についての問題を論じようとしているのです。

 

死体現象と戦闘現象

 

 いま言わんとしている問題と似たものに、「死体現象」があります。「死体現象」というのは、(主に人間の)死体が、できたての状態からいろいろな段階を経て損壊する経過において、どのような状況を呈するのかという問題です。「死体現象」を中核的要素とした物語というのもポピュラーなもので、推理小説などにはしばしばこの問題を主要なものとして取り扱ったものがあります。かの名作『ドグラマグラ』などもある意味この「死体現象」についての描写が重要なファクターとなっています。それほど専門的なアプローチでなければ、たとえば時代劇などにも「死体現象」の描写というものは多くみられるますし、それなりに重要な位置を占める要素です。また、映像以外でも、たとえば実際の死体を正規の手続きを経ずして処理しなくてはならないといった状況に置かれた人などには切実な問題となり得る問題でもあります。そういった意味で、「死体現象」はよく知られているし、研究されている問題だと言っていいでしょう。

 ただ、これも「戦闘現象」と同じく、日常生活において実際の状況を再現して検証することがやや困難であるという性質をもっていることは言うまでもありません。「死体現象」も「戦闘現象」も、われわれ一般の視聴者レベルの者にとって一種の不可知的な現象であり、その表象はもっぱら思考実験的認識か、文献などの他の誰かによって供給される情報によってのみ構成可能であるという共通点をもっています。

 われわれは、情報をもって死体現象や戦闘現象を知ります。少なくとも現代社会においてはそれらの現象は日常生活上の身近にはないので、実体験としてではない、情報によって構成された「現象」という側面が、言葉の意味以上に濃厚なのです。一部の特殊な立場におられる方を除いては、われわれは「死体」や「戦闘」という事象自体を知っているのではなく、あくまで「死体現象」や「戦闘現象」を知っているにすぎません。(実のところ、実際の「死体現象」という概念は、いま論じているものとはまったく意味や目的が異なります。しかしまあそこは言葉のアヤというやつで目をつぶっていただけれは。)

 ただし、こと「死体現象」の問題には、「戦闘現象」とは異なった問題があります。それは、「死体現象」が、多くの部分において開示に耐えない外観を含んでいるという事情によります。このため、特定のジャンルを除いて、現代文化を構成する映像情報のなかには、必要以上にリアルな死体現象は現れません。すなわち、現代社会において、死体現象は意図的に隠蔽され、たやすく検証できない状況にある事象のひとつなのです。

 一方、戦闘現象ですが、これは人類の性とでもいうべきなのでしょうか、

あらゆる物語において非常にたいへん頻繁に描写される傾向にあります。言うまでもなく押井作品においてもそうであり、押井守ファンの方々の中にはそちらの描写を中心に注目している方もおられるのではないかとと思います。

 ただ、戦闘現象の描写にもいろいろとアンビバレントな問題があったりします。これからそれをいくつか挙げてみたいと思います。

 

え」

 

 知覚心理学などの分野では、視覚が脳に反映する状況を「見え」と称することがあります。たとえば知覚の実験として、物体Aが画面の右端から左側に移動して、物体Bに接触したところで静止し、そのあと物体Bが任意の方向に移動を始めるという一連のプロセスを人に見せたとき、Aの静止とBの移動開始とのタイムラグがある長さ以下(概ね100ミリ秒程度と聞きますが)だと、「AがぶつかったためBが動いた」という「見え」が生じるわけです。ちなみにこうした「見え」は、物体AとBの動きが、被験者の認識の中に関連性をもって構成されたということで、「因果的な見え」などという言い方で使われるようです。

 アニメーションなどというものはつまるところこうした「見え」の技術的追求の集大成のようなものと言っていいかもしれませんが、ここではこの分野において言うほど細かい概念は使いません。ここでは映像作品が観る者の意識に映じ、それがいかに解釈されるか、視覚による「見え」や聴覚による「聞こえ」が総合的にどういった意味のもとに視聴者の認識を構成するかという概念を、いま便宜的に「え」と称して論じてみたいと思います。

 たとえば今、アニメーションのキャラクターがブーメラン型の道具を握って相手に向け、「バキューン」などといった効果音とともに相手が倒れたとします。それがたとえ詳細の描写をまったく欠いた、ただの真っ黒な道具であったとしても、観る者は場合によっては「これはピストルだ」と解釈してくれます。これがすなわち武器としての「観え」ということです。

 この「観え」の現出は、映像の要素それ自体に固有なものではありません。それは、全体的な作品の世界観の中における意味論的な位置に依存するものであり、同じ要素でも作品の提示する世界観のレベルでその意味は変わってきます。

 たとえば、もしそのアニメーションが単純な絵で構成されたギャグマンガなどであったとしたら、それをピストルとして了解してもらえる「観えに対する許容度」は非常に大きくなりますし、逆に作品全体のトーンがきわめてリアルであり、「道具」の描写と全体的な世界観とに差があれば、それは「ピストルとしての観え」に対する許容の拒否となるか、あるいは別の何らかの意味の追求となるか、ということになります。またこれは、観る者が属する社会の文化的状況などにも依存します。たとえばこれが『鉄人28号』(初代)が放映されていたような映像技術および文化段階であれば、相当に稚拙で記号的なレベルの描写であっても、その道具が「武器」であり、今画面上で行われているのは「戦闘」である、ということが了解してもらえることでしょう。

 実際、戦闘現象は基本的には情報によってのみ開示され認識される性質のものなので、情報流通が未熟であった時代においてはその描写に対する許容度が非常に大きかったと思われます。古典的な絵画に描かれた西洋の甲冑などには、非常に不正確に描写されたものが多く残っていますが、そのことが指摘されることはあまりなく、それによって何らかの不具合が起こることはほとんどありませんでした。また、戦後日本の映像作品において自動拳銃がブローバック動作をしはじめたのは、おそらくは1970年代の後半頃ではなかろうかと思います。当時、日本では銃のブローバックの動作や銃の装弾などの仕様がよく理解されておらず、よい資料もあまりありませんでした。ある作品などは、誤った外観をもつモデルガンを元にしたと思われる実物と違った外観や、明らかに誤った作動が描写されていたりします。

 

戦闘現象の観え

 

 さて、商業的な映像作品の多くは、限られた時間内に観る者の精神状態を一定の意図どおりに操作することを目的としています。従ってその「観え」は、それが帯びた意味をより効果的に伝えるため、わかりやすく、明示的に描かれたほうが、より多くの視聴者に意図した了解を得られる可能性が高くなります。映像表現のクリエイターにとって、この効果と現実からの乖離との調整は、永遠のアポリアといっていいでしょう。

 映像作品の最も重要な目的は、観る者に必要な情報を開示して説得し、その意識を意図した方向に導くことであって、事実を厳密に描写すること自体は必ずしも主たる目的ではありません。戦闘現象に限定して言えば、それはさまざまな意味において「目を引くこと」が重要であり、それに続いて「説得すること」が要求されます。

 ひとつの例をあげると、たとえば主人公が心理的な昂揚をともなうシーンで銃を撃つシーンがあるとします。多くの表現者は、必要以上に大きな射撃音やマズルフラッシュを描写しますが、現実の銃器の設計者は逆に技術の粋をこらしてそれらを小さく地味にしようとしています。武器はその性質上、できるかぎり作動音をたてないほうが有利であることが多いですし、また示威や威嚇などの目的を除けば、あまり目を引く動きをしないにこしたことはありません。実際、現実の銃の射撃時の音やマズルフラッシュが、多くの映画やドラマ、アニメ、ゲーム、漫画などに描写されるものほど派手でなく、「実物」を見て拍子抜けした、などというケースは珍しいことではありません。

 具体的な話をしてみましょう。たとえば2002年に公開された映画『ロード・オブ・ザ・リング』の戦闘シーンの描写は、いろいろな「問題」を持っています。単純に、実際の歴史上の白兵戦の記録等から考えて、あれほどの彼我戦力差がありながら主人公側が会敵・交戦してなお勝利し、逃げ延びることのできる可能性はきわめて低いと思われ、戦術考証的な説得力に難があるのです。

 正面会敵を避けてゲリラ的に行動しつつ旅をすれば何とかなろうとは思いますが、ひたすら逃げ回っているだけでは物語としてちっとも盛り上がりませんし、またそれを許すようであれば、敵方はそのおどろおどろしい相貌に似合わぬかなりの戦略的無能であると言わざるをえません。ああいった頻度であの規模・武装の敵と交戦したら、「実際」にはもっと別の結果となったであろうことは想像に難くないと思われます。

 わざと野暮な話をしますが、少数精鋭部隊が大規模な軍を相手に勝利を得る確率を上げるにはいくつかの条件があります。まず、武装について、戦術的攻撃力と戦術的防備力のバランスが攻撃力優位になければ、少数の防御者が生き残る確率は低くなります。つまり、敵兵を一撃で斃す攻撃用武装(銃などはこれに属すると考えていいでしょう)があれば、大部隊の攻撃側の展開速度を上回る形で戦闘を連続的に遂行できますが、攻撃力と防御力が比較的拮抗しているようなケース(剣や弓と鎧や盾による武装など)であれば、一人の敵を斃すのに何度も攻撃し、多くの時間と労力をかけなくてはならない確率が高くなります。またこの映画では、通常この種の白兵戦闘で主力武器として使われることの多い長柄武器(槍など)の装備率が低く、一部のキャラクターは近接戦闘に適した剣などを装備していました。逆に敵側は盾を装備している者もおり、この状況では戦技によほどの差がないと、なかなか敵に致命傷を与えることはできません(剣道の経験がある方は、対戦相手が機動隊の大盾を装備しているケースを想定してみればよかろうかと思います。盾を装備した相手に致命的な一撃を与えることはなかなかに難しいと考えられます)。こうした条件だと、少人数の防御側が大群の攻撃部隊を個別撃破して突破できる可能性はかなり低くなります。しかも一部の主人公側キャラクターは徒歩で戦闘しており、これでは少数部隊が活路を見いだす可能性を確保し得るための機動戦を展開することができません。

 以上のような観点から、この作品で語られているような戦闘規模や武器、戦闘方法を考えると、多数の攻撃側である敵が主導する包囲戦が優位に展開する確率のほうが高くなろうと思います。

 ごく一般的な作品においては、戦闘現象の描写に際して、主人公側の特権的状況を説得力ある方法で演出するため、それなりのギミックを使うことがよくあります。それはたとえば「主人公の特異な能力」であったり、「特殊で強力な武器」であったり、「他の追随を許さぬ強力な魔法」であったりするのですが、この作品においては戦況を覆すほど強力な武器も主人公の特殊な能力もそれほど強調されず、超常現象的な魔法などもあまり安易に使われることがありません。結局一連の戦闘描写における主人公の特権的な状況は、論理的な説得力が確保されぬまま語られることとなっています。

 しかし、この作品の、相当に論理性を欠いた戦闘状況の描写がさして非難を受けないばかりか、むしろ賞賛を受けるのは、それが「観え」という観点からの圧倒的な迫力において描写されていることが大きいと思われます。それは、戦闘現象の細部の描写が、「説得力と驚嘆をともなう観え」のもとに描かれているという情報の量と質が問題なのであって、いわゆる「現実的」ということではありません。「リアル」か否かという問題はいわば括弧入れといった形で判断中止の扱いを受けることとなるのです。

 第一、オークやゴブリンとの交戦記録は実在のどの戦史を繙いても見つからないでしょうし、魔法なるものが介在する戦闘現象がどのようになるのか、いやそもそもこの世界でわれわれの持つ「現実性」がどれほど役に立つものか、疑問の余地は多々あります。事実、この『ロード・オブ・ザ・リング』の戦闘現象の描写を高く評価している押井監督自身、刀剣に関する知識はさほどではありませんし、またこうした白兵戦における戦闘現象に関する知識がそれほどあるかどうか定かではありません。しかしともあれこの作品が、少なくとも「観え」の演出という観点では合格ということは確かなようです。

 

押井作品における戦闘現象

 

 押井作品においては、この問題はより象徴的です。たとえば映画『ストレイドッグ』においての戦闘シーンは、とても現実的なものとは言えません。

 「プロテクトギア」が活躍する仮想戦後史シリーズでは、雨あられとふりそそぐ犯人の銃撃を、この特殊で特権的な兵器がほとんど無効化してしまいます。『人狼』では、犯人の携行火器はほとんどが拳銃や、拳銃弾を使用する短機関銃程度ですが、『ストレイドッグ』ではアサルトライフルによる掃射を無効化しています。

 アメリカ司法省研究所の規格では、自動拳銃に使われる、発射初速度360m/s前後の9ミリパラベラムフルメタルジャケット弾程度に対する防弾性能をレベル2、発射初速度430m/s前後の.357マグナム弾程度に対する防弾性能をレベル3Aに分類しているようです。一般にアサルトライフルは、ものにもよりますが、前記規格ではレベル3Aより1ランク上のレベル3に分類されます。ちなみにレベル3の.223ミリタリボールを使用するM16の発射初速度は1000m/s弱程度です。

 『ストレイドッグ』の銃撃戦のシーンでは、乾が頭部に負傷しているシーンがあります。これは部分的に装甲が貫徹されたか、装備内部の構造物が被弾の衝撃で破損し、その飛散によって負傷したかいずれかでしょう。どちらにせよ、このことからも、「プロテクトギア」の防弾性能はだいたいレベル3Aから3までといった設定になっているものと思われます。押井監督は銃器に関連する戦闘現象については相当に詳細にわたる知識を有していますから、そういった設定は公開こそされていませんが、ある程度厳密に定められている可能性は低くないでしょう。

 しかし、「プロテクトギア」は(いろいろと議論があったものの結局のところは)動力化されておらず、使用者の筋力のみで稼働するといいます。人力で動くことを前提としながら、レベル2から3A程度の装甲をほぼ全身に施し、なお大型の多目的軽機関銃を携行することは、かなり困難と思われます(たとえば「展性チタン」などの超高性能の特殊素材があれば別でしょうが)。全体としてこの兵器が、少なくとも第二次大戦後といった時代設定下において、兵站学的な合理性に欠けるものであることは否めません(逆に言えば、この仕様が有効であるならば、実際の軍や警察組織等にすでに採用されているはずです)。

 もともと『紅い眼鏡』は、リアリティ云々という問題の埒外にある作品ですから、その系列にある作品については、戦闘現象について厳密に論じることにあまり意味がないのかもしれません。しかし、少なくともこの作品世界の中で、「プロテクトギア」なる戦闘兵器によって描かれる「観え」が、作品世界の成立に大きな要素になっていることは事実です。「プロテクトギア」という要素によってなる「観え」を核たる構成素材として成立する世界観、「千葉繁」というキャラクターを初期動機として、いくつかのモチーフをボトムアップ的に組み上げていくという作品構成方法は、過去論じられたいくつかの評論とは相反する部分があろうと思いますが、この方法ないしは思考法の介在を無視することは些か不誠実ではないか、そう思うところがあります。

 

「観え」と「合理性」の経済学

 

 『パトレイバー』に対しては、『ミニパト』において制作サイドみずからツッコミを入れています。これを観て、押井作品の戦闘現象の合理性に対して異論をもつ多くのアンチファンの方は、自己の知識の顕示の場を得たことに小躍りして喜びつつ、口々に蘊蓄を語ったことでしょう。

 一部原理主義者の方はお怒りになるかもしれませんが、兵器としての人型巨大ロボットというものは、少なくとも現代の技術水準と「現実世界での軍用の稼働」を前提とすれば、ほとんどナンセンスです。そもそも、人型をしているメリットがほとんどありません。サイズが2メートル程度であれば、人間の活動環境に入り込んでその行動をサポートし、人間の道具や武器をそのまま使用し、人間の兵士の代わりに戦闘行為一般を行うことができるというメリットがありますが、巨大サイズではこのメリットは根こそぎ消滅します。

 これはやはり、「現実の実用性」というよりも、血湧き肉躍るドラマを語るための「観え」の追求の極限にあるひとつの演出装置と断じてしまったほうが合理的であろうかと思います。

 装備火器についても大変なもので、短砲身とはいえ37ミリ砲を市街地で実弾射撃することに対する許可が下りるなどとは到底思えません。しかし、警察の警備用レイバーが「銃」を持たずになんとする、という議論には私は賛成です。やはりそうでなければ、最低限必要な「観え」を確保することができないではありませんか。

 「意味」を圧縮して構成しなくてはならない映像作品において、「現実」の希薄な観えは多くの場合加工を要するものと言えます。制作者は、その時代に許容されるレベルの加工を「リアル」なイメージに対して施し、効率的な「観え」を演出します。しかしそれは常にその時代の意識からの批判の対象となり続けます。制作者は、著しいレベルの加工によってひきおこされる、観る者が興ざめしてしまうほどの「現実との大きな乖離」を注意深く避けつつ、効率的に「観え」を紡ぎ出すというタイトロープの経済のもとで語ることを義務づけられるのです。

 

方法論の問題

 

 押井作品を語るにあたって、過去私を含めた多くの論評は、そのストーリーや世界観、論理的に構成された作品構造などを中心に扱ってきました。むろんそれは間違いではないのですが、それがある意味要素論に偏っていたことは否めません。

 「観え」の問題は、ともすればあたりまえの、俗な観点であるといった扱いを受けることが多いようですが、実際の作品に接するとき、思弁的な態度うんぬんといった以前に、源基的な「驚き」に直結する問題です。それは、画面いっぱいに整列し一斉に視線を上げるプロテクトギアであったり、都市を嘲笑する呪われた情報技術者であったり、水没する街に響き渡る少女の絶叫であったりするわけですが、これら個々のシークエンスの単子的な威力を軽視し、その「関係」にばかり着目することは必ずしも誠実な態度ではありません。

 考えてみると、アニメーションの場合、初期の技術では、その「観え」の追求に限界があったという事情もあります。

 いかに幻想的なビジュアルを持って「観え」を構成しようとしても、あくまで人力で描かれる絵には自ずから限界があります。映像作成の技法や演出技法、また映像作成の技術的限界やマンパワーや時間といった経済的要因から、どうしても不完全で、単純化・記号化された画面を、ストーリーや演出や音声で最大限に援護し、総合的な「観え」に仕立て上げていかざるを得なかったという現実的な事情があったことを忘れる訳にはいきません。

 物語の合理性や整合性をもっぱら問い、そのストーリーラインに魅了されるという態度は決して誤りではありませんが、押井作品においては、その部分についてのみ語られることが多かったのも事実です。そしてその背後には、合理的な思考にとって、形式知としてあるストーリー上のロジックや世界観などの要素のほうが取り扱いやすかったという一種の思考経済が効果していたことを認めなくてはなりません。

 ここ数年来思うことは、映像技術の発達が、もはや単なる記号として記述されるだけにとどまらない豊富な情報量をもって、「観え」を構成するに足るレベルに達しているということです。それは、たとえば銃を撃つときの一瞬の逡巡であったり、剣を振りかぶる間際の吸い込む息の描写であったりといった「肉の存在論」を語り得るものであり、従来のアニメーションの映像が情報として運ぶことをあきらめざるを得ないような、いままではむしろ暗黙知的な領域に属する部分を描写する「観え」であるわけです。

 作品とは、整合性のある設定や合理的なストーリーに準拠し、的確なシーンを取捨選択して組み込んで行くトップダウンモデルとして構築されるものである――などと書くと、いや俺はそんなことは思っていないという方も多いでしょうが、「明確なテーマ」中心主義、「合理的な物語」至上主義といったものの考え方がわれわれの思考のそこかしこに見かけられるのも事実でしょう。思弁が具現化して実在に現象するといった、「神に約束された方法論」にとらわれている限り、われわれは情報の最も上層にある安易な部分をのみ見ることとなりかねません。

 残念なことに、今のわれわれはこうした「観え」の単子たちに対する評価を述べるにあたって、たいへん稚拙な言葉をしか持っていません。しかし時代の要請は、それを含めた意味論的な総合主義の視線を必要とするレベルにまで来ているように思います。

 

2002/12

 


WWFNo.25のページへ戻る