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不可知の思考とその抵抗

 思考の振動というアトラクタ

 

 

松本 晶


私たちは、あるアニメを「面白い」「良い」「感動する」作品であると思い、ある作品を凡作・駄作だと思うのでしょうか? なぜある作品には惹かれ、ある作品にはハマれないのでしょうか? それは作品が佳作か駄作かの違いと言ってしまえばおしまいですが、それではそのふたつを分けるものは何でしょう?

例えば誰かにそのアニメの良さを説明しようとするとき、私たちは大抵は、作品のこのキャラに萌えだ、あのアニメートがよかった、背景すごい、音楽の情感が素晴らしい、あそこの物語が泣かせる、そんな意外な展開になっていたとは驚きだ、こんな深い世界観やテーマを描いていたとは、更にはこれ程までに私たちの問題、社会、哲学とリンクしてシンクロしているとは、ううむなんてスゴイ作品なんだ、などと色々とそれら作品の「要素」を挙げて、その「良さ」を説明しようとするのが普通だと思います。

しかし中には、そのような方法では説明しきれない、つまり作品の部分部分を如何に詳細にすべて語ったとしても、その作品全体の良さをすべては伝えきれない、表現できないものもあるのではないかと私は最近思い始めています。いえそれどころか、佳作名作駄作怪作に関わらずどんな作品であれ、その良し悪しに拘らず「部分から全体をすべて説明しきれる」ものなど有り得ず、私たちを魅了する作品の肝心な部分の少なくとも一部は、まさにその「要素」から「全体」にステップアップしたときに生じる何かにあるのではないか、とも考えています、ホロニズムや複雑系のシッポだと言われてしまえばそれまでなのですが。

そしてさらには、自分がその作品を見てなぜ感動したのか、その理由すらよく分からない作品もあることを私たちは知っています。私の場合、一番初めのそれは『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』(例によって以下『BD』と略)に代表される押井守作品でした。そしてもっとも最近でこれと近いものを感じた作品は、我ながら随分と唐突な組み合わせではありますが、宮崎駿の『千と千尋の神隠し』(以下『千と千尋』と略)であると自分的には思えました。ヒットしたアニメという以外に、これら時間的にも作風的にも全く共通項があるとは思えない作品であるからこそ、これらに共通する何かを考えてみれば、コトバでは捕らえきれない映像作品の魅力の源のひとつに少しは迫れるのではないか、もしかしたらそれが「語り得ないもの」「不可知なもの」でありながら、私たちのココロに影響を与えているものの一端を知る手掛かりになるのではないか、と思いこの原稿を書いています。当然、コトバにするのが困難なことを敢えて「語って」みようとするのが、この文章の目的、というかその悪戦苦闘(と言うほどでもないですが)の過程なので、必然的に成功する見込みのない試みではありますが、これら二作品の魅力を語る為には避けて通れないことだと感じ、このような蛮行に走っている次第です。

また、不可知と思っていたことが、後に様々な概念や発明や発見や創造によって可知に入ることもあるわけですから、後から考えればドン・キホーテ的な不可知を取り出して悦に入ってしまう可能性は大きく、かと言ってそうならないためには何が可知で何が不可知であるかを恐ろしく厳密に数学的な、形式論理的な方法を使わなければ示すことが出来ないというわけで、それを映像作品という非体系的なものに行おうというのですから、まあ我ながら大言壮語もいいところではあります。さらにもし可知から不可知が示されるなんていうことが出来たように見えても、それらの言葉の定義上からホントにそれでいいのかと言う疑問があるうえに、不可知自体を可知から導こうとす試みの外にこれまた不可知がある可能性もあり、既にここまで書いただけで自分でも何が何だか分からなくなっておりますが、まあまずはダメもとでやってみようというわけです。

ちなみにあらかじめ予防線を張っておくと、『BD』と『千と千尋』の二作品に共通するイメージには、「夢」「郷愁」「退行」と「永遠」の確執などと言うものがあると思いますが、それが私の拘っているものの正体であれば、むしろ『BD』と、これまた名作の誉れも高い『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ! オトナ帝国の逆襲』との対比がむしろ相応しく、これについても語りたかったのですが、時間があればこれは別稿でといきましょう。

 

ではもう一度問いますが、なぜ自分がある作品を好きなのか? この問い自体、正直言って何かアタマ悪そうです、我ながら。その理由のひとつは、答えがあまりにも自明な質問だからかもしれません。つまり「良い作品だから惹かれる=惹かれるから良い作品である」というトートロジー(同語反復)だからかもしれませんし、また佳作の条件として時代や観客といった作品をとりまく環境もおおきな要素なわけですから、このような質問に対して、作品自体だけを云々するのははなから無意味なことで、つまり十人十色、各人でそれぞれ違った好みがあるのだから(類型的で紋切り型な反応をする人が多いにしても)、その人数ぶんだけ「惹かれる作品・良い作品」というものに対する答えがあることでしょう。つまりこの問いには「正解」がないのが当たり前なのかもしれません。蓼喰う虫も好き好きというものです。さらには「成功は偶然だが失敗は必然」というくらいですから。

いやそんなことはない、作品の評論、批評というスタイルで、今までもその作品の素晴らしさを、その映像それ自体、キャラクター=登場人物、その作品の物語、テーマ、社会的学問的哲学的意義、などに沿って幾らでも語られてきているではないか、そのように作品の素晴らしさをひとつひとつ分析してゆくことが、我々がその作品に惹かれる理由を解き明かすこと、百歩譲ってもそれが鍵になり、それを積み重ねてゆけば、いつかは作品の全ての素晴らしさを解き明かせるのではないか、と思っている方も多いのではないかと思います。まさに還元主義を神と崇めゲノム解析されれば全てが解明して明るい未来が来ると信じたバイオ研究者にも似ていますが、これは余談でした。

そうではない、そのような「表層構造」だけでなく、意識されなくとも作品にはヒットする「要因」「深層構造」が必ずあって、それを明らかにするという方法を併用しなければ作品の価値は語れないと付け加える方もおられるでしょう。例えば作品の精神分析的やら構造主義的やら社会学的アプローチなどでは、その作品がなぜ人々に受け入れられるのかを個人の心的状態や作品の構造や社会状況から分析し解明していゆくことを目指していると思われます。これからはポスト・ゲノムだと叫びつつ、旧来の還元的手法を疑いもしないバイオ・エンジニアに似ていなくもありませんが、これまた余計なことでした。

そうは言っても、今まで私たちが目にしてきたその類のアプローチの殆どが、単なる世相や社会状況を作品に都合良く外挿しただけに過ぎない掘り下げ方の甘い雰囲気評論であったため、今まではそのような映像評論の存在は理論的には予想されていたものの(笑)、結局は高々書生の戯言とされ、このような方法論の有効性に対する説得力が乏しかったように思います。

しかし、これを突破して、単なる気分だけではない「構造主義的アプローチ」、「解釈学的・哲学的アプローチ」を押井作品において初めて行った「評論」が、私の知る限りではそれぞれ登坂正男氏の「ゲーデル・エッシャー・バッハ・BD」でありへーげる奥田氏の「押井論」であったわけです(当然このWWF誌に文章を掲載されている諸氏皆様がそれぞれ独創的アプローチをされており啓発されるところが大なのですが、全ての方々の方向性にコメントしてゆくと「押井学会」誌のメタ評論になってしまい趣旨から外れてしまうので、都合よくベクトルの直行するこのお二方にのみにつき言及させてもらいました)。

彼らの論旨が決定的に新鮮だったのは、はたしてそれらが構造主義的やら解釈学的と名付けられるかどうかはさておいて、実は先ほどから私が問題にしている「なぜこの作品が良い作品なのか? それに惹かれるのか? 」というような、大抵は通俗な心理分析・社会評論・作家論もどきに転落してしまう問いを発する場から離れて作品を語ることにあったと私は理解しています。つまり「良い作品だから惹かれる=惹かれるから良い作品」という不毛なトートロジーやテーマ主義の平面から飛翔して、自由に作品を語る場が存在しうることを、キチンと「実際に自ら」実行されたことです。登坂氏は作品の還元的分析により、奥田氏は作品と鑑賞者の出会いの場における解釈学的というか哲学的アプローチによって、それぞれ異なる方向での評論を、気分だけではなく真正面から行ったということです。

世に押井作品を哲学的だとか構造主義的だとか口先だけで語り掘り下げもせずその不毛さを捏造した挙句に批判する手合いの多い中、彼らのような真摯な評論はまさに快挙であったと言ってよいかと思います。特に奥田氏の方法は、作品の鑑賞が一期一会の出来事であるという意味からも、豊かな評論を創造している良い例として私も大いに影響されました。

私も力及ばずながら、そのような構造主義的と解釈学的という方向性の異なる評論が相互依存的で片方から他方が演繹できるような「悲劇性を帯びているにも拘らず幸福な場」として、かつての押井作品、『BD』や『紅い眼鏡』があったことを示すべく文章をひねくり出したのが私の「押井学会」Vol.1/2での文章であったわけです(既刊買ってね)。それがうまくいったかどうかは別にして、それまでの私はそのような「幸福」がずっと続いて欲しいと思いながら押井作品を鑑賞していました。しかしそれを敢えてハズしているのが劇場版『攻殻機動隊』以降の作品の特色だったのではないか、というような話は、あとでリンクしてくる話だとしても、今は話が横に逸れすぎたようです。

 

話を戻し、しかしそのように豊かで洗練された評論作業であったとしても、そしてそれを幾らでも続けてゆけるとしても、言語という些か不自由な媒体を使い続ける限り(不自由であるからこその可能性もあるのですが)、果たして映像作品の価値を語り尽くせるものなのでしょうか? 現実的な話、幾らでも続けるとかは当然無理なわけですが、物理的に可能であるという意味で思考実験的に考えてみましょう。つまり幾らでも現在過去の映像作品、評論、言説、哲学、科学を全て網羅し参照できる検索装置があるとして、私たちに幾らでも時間があってそれらをフルに組み合わせて活用したならば作品の価値を「原理的に」すべて書き尽くせるものなのでしょうか? また一人ではダメでも、多くの人、あるいは古今東西全ての人の英知が集まれば、それどころか例えばチューリングマシンのように有限だけれども幾らでも思考のステップを踏めるものがあれば、それは可能なものなのでしょうか?

このような荒唐無稽な問いは無意味だと思われる方も多いでしょうが、ネットで様々な情報を検索出来るようになってきている現在、それほど無謀な考えではなく、またネット型知識の限界を考える上でも有用ではないかと思いますが、まあそれはどうでもよいことです。私がここで考えたいのは、その作品が良い作品であればあるほど、言語による評論では捕らえきれない部分が多くなるのではないかと言う疑問です。って言うかそれは映像・音楽と言語の差からそれは明白に無理ではありますし、映画監督の殆ど誰もが言うように、コトバに出来ないからこそ映画を作っているんだというわけで、はなから問題視するようなことではないのかもしれません。しかし言説としての評論、コトバに限定した部分においてすら、以上列挙したような様々な哲学的・認識論的・科学的方法論、更にはこのようなカテゴリーに括れないような構造(ポスト構造主義的な方々が言うようなリゾーム的だかクラインの壺的なものであれ、ヒトに構造と認識できるものならば全て含めるとして)や、かつて語られそして現在未来に続く哲学、科学、美学、映像論、等々、認識の及ぶ範囲でのすべての「言説」を駆使するとしても、それで作品に内在する言語的メッセージを指摘しうるとしても、それが作品の言語的部分の全てをすら「語った」ことにはならない、むしろ作品鑑賞という一期一会の「イベント」に作品の肝要な部分は他にあるのではないかという疑問です。つまり私が考えたいのはメタ評論なのかもしれませんし、同時に既知の言説の引用を用いてそれぞれの個人の鑑賞した映像作品を語る限界についての疑問です。こう書いてみて分かったのですが、テーマやシナリオといった部分ならば言語の領域で大体は言及しきれるものでしょうし、絵柄や映像なら多分に視覚の問題で、音楽はもしかしたら数学的に語れるかもしれませんが音楽評論という分野も既にあることですし、それらとは異なる階層の押井守が固執していた「演出」とはそれらを含みなおかつそれらに依存しつつも単に従属しているだけではない別のベクトルであるからこそ、彼はこれを映画的なものとして演出家という役割に拘って不可知の領域に踏み込もうとしたのでしょうか。

 

たかだか作品の鑑賞という話をずいぶんと大げさにしてしまいましたが、それでもこの「思考実験」は幾つかの面白い問題を含んでいると私は思います。ひとつはヒトの知覚する世界が、作品の鑑賞であれ世界の認知方法であれ何でもかまわないのですが、意識的であれ下意識的であれ言語や表象を含めた「知」によって捉えきることが出来るかという問い(知覚フレームすら入ってこないような、生の「現実」から漏れ出るものがあるのは当たり前ですが、意識できないものでも私たちは知覚できているかという問題も含まれる)や、またそんなことは不可能だから全知の最前線を撤退し戦線を縮小して、知情意のうちのヒトが自ら仕切っている論理的な知の範囲内であってもその全てを予知しコントロールできるかという問題を含んでいるように思えます。ではなぜこんなことを語る「場」が映像鑑賞なのかというのは、結論を先走って言えば、例えば先ほどあげた二つの作品『BD』と『千と千尋の神隠し』はそのような疑問を抱かずにはいられないようにする「機能」を持っているように思えるからだと思います。つまり初期の押井作品の『BD』はその無限遡及を鑑賞者に促すような構造的に論理的な入れ子構造とそのモチーフによって「身をもって」その限界をネガティブに示しているような作品である一方、『千と千尋の神隠し』はその対極に構造や言語に収まりきりそうもない個人的でありながら同時に他の人にも何らかの感情を惹起させるようなアーキタイプ的イメージ(ユングは嫌いですが)を積み重ねることでポジティブに言語では「語りえないもの」を示しているかのようでした。

と言うよりもむしろ、そのように何らかのテーマを描くために機能的に作られているというわけでもないのに、良い=すなわち強い創作衝動で創造され「快さ」を基本に鑑賞される「映画」や「アニメ」を目指した結果、「創発的」にそのようなことすら惹起させうる作品が「暗黙知」的に出来たのではないか、つまり作品自体もその形成過程も、製作者の言説を超えるレベルでその作品の肝となる「何か」が作られたのではないかという可能性を私は考えますが、これではあまりにもいい加減で思弁的すぎましたので、後程もっと具体的に作品に沿って考えてみましょう。ちなみに以上を思いつくに至った私のイメージとしては、論理哲学においてヴィトゲンシュタインが『論理哲学論考』で、数論集合論におけるクルト・ゲーデルの『不完全性定理』で彼らの意図とは結果的に逆のことを示したように、その積極的な論理や証明の果てに結果的に不可知を知らしめたような事態を彷彿とさせたからではあります。しかし一神教の神を信じていない我々日本人にとっては、全能の神の代わりを科学だか論理だかに求めようとする西欧の人々とは違って、たかだかニンゲンの考えることで世界の全ての事柄の説明がつくわけがないだろ、それをわざわざ証明するなんてえのは酔狂でヒマだねぇ、というのが一般的な考えでしょうし、その意味を考えずに構造主義の衝撃やらポスト構造主義なんて言ってる人たちは、これまた悪い意味で日本人的な和洋折衷というか和魂洋才というわけで、まあ哲学が書生のお遊びになっていたところでそれに目くじらや青筋をたてる必要もないわけですが、それを無自覚にやっている人たちを揶揄したくなるのも、半ば止むを得ないことではあります。とにかく、この議論自体は多分思想のバブルである80年代の現代思想ブームの時に散々食い散らされたテーマではないかと思われますが、それらの多くは文芸だかブンガク評論というような凡俗の我々にはどーでもよい議論、ましてや私のようなオタクくずれには縁のない、語るに必然性のない上滑りの議論であり、相変わらず哲学等を生きる糧自とか自我の成立に不可欠な止むに止まれぬ必要&必須事項としてではなく、オシャレや食い扶持の道具として用いていた輩が多かったなか、その意味ではオタクな私がその必須事項であるアニメ等の映像作品でこのような問いを立てて考えてみるのは、それよりかはナンボかマシだと自分を奮い立たせてはおりますが、結局は同じ空虚に入り込む覚悟だけはしておいたほうが良さそうです。

更にこのような語り口を神秘主義的とか、或いは東洋的だとかすら考える方もいるかもしれませんし、アニメという映像作品の評論という未だ確立されてもいない、自らを未発達で不完全だと宣言しているようなジャンル(映画評論はどうだか知りませんが何故か傲慢に感じるのは無力感に対する反動形成なのでしょうか? )における言説の限界を積極的に言語で示そうとするのは、弱いものいじめ的で自己否定的な貧しい試みだと言われるでしょう。たしかに以上のような議論はそのままでは単なる不可知論、心的過程を無理無謀に数学化して、それで到達し得ない一点に全てを収束させ無限遡及を止め新たな「神」をつくる(としか感じられない)ラカン的精神分析と同じ不毛さに行き着くだけなのかもしれません。また80年代の現代思想の「狂乱」においては、理論で追い詰めたその先に「力」が逃れ漏れ出る先が不可知であると「認識できる」のである、といかにも不可能そうなことをこれまた「コトバ」を用いて可能であるかのように語り、それを差分法や対角線法を用いた背理法のように無限を飼い慣らして扱えると高をくくっていた楽観的ポスト構造主義者の、そのまた出来損ないになってしまうだけかもしれません。例えば映像の「イメージ」がどのように人の心に響くのか、また「イメージ」たりえない「映像の断片」や、言語たりえない「コトバ」たりえないその先にある「不可知なもの」はどのように「考えられる」のか、などというのは数学、複雑系科学、脳神経科学、認知心理学、言語学なども含めたメタ的学際的な力技が将来的には必要かもしれませんが、今現在では途方もないSF的アイディアに過ぎないことでしょう。しかしそれで諦めてしまってはつまらないので、厳密さを要求されない同人誌だからこそ、ここではそれを考えるための与太な「仮説」の断片も後ほど示したいと思います。それはかつてフロイトが臨床体験から心的体制のモデルを作り出したように、実体的に「真実」であるかより、プラグマティックに「使える」か否かで有用性が決まるような、そのようなものの片鱗でも見えたらいいかなと思います。

 

では実際になにから手をつければ、不可知でありながら人を作品へと惹きつけるものを暗示的、隠喩的にでも、何とかコトバとして語れないのか、今まで大層な思いつきを述べてきましたが、実のところ当たり前ではありますが、確実でスマートな方法など思い浮かびません。そこでまずはヤケクソ気味に、『BD』と『千と千尋』について、その共通すると私にとって感じた部分を要素的にではなく、そのシークエンス全体から抱くイメージの相同性としてピックアップするところから始めてみましょう。つまりこの作業は恣意的で個人的でなおかつ凡庸な方法ですが、なるべく「私的」なイメージとシンクロする部分を敢えて取り出すことで、逆に作品におけるイメージの「強度」の高い部分にたどり着ければいいな、という希望的観測的戦略で、かつてジグムント・フロイト大先生が夢分析やら自由連想法やらで行ったことに因んで? の試みですが、それ成功するかどうかはかなり怪しいですから、まあ習作、だから試論だと思って下さい。しかしフェルディナン・ド・ソシュールや丸山圭三郎が単なるアナグラムといったアルファベットや音声の並べ替えに言語の深遠を見ようとしたのと同じく、またラカンが心的過程という超複雑怪奇なものを数学的比喩暗喩として捕らえようとしたのと同じく、シチュエーションの相同性やイメージ・画像のアナグラムというファジーで弱々しい道具を携えてやってみましょう。

 

まず『千と千尋』の物語の時間軸に沿って思いつくままの自由連想法的な(長椅子はありませんが)演出方法とイメージの羅列とそこから勝手に妄想される監督・演出家の意図を邪推してみましょう。なお製作者の意図と述べている部分は勝手な妄想ですから、本人にインタビューしたけどそんな意図じゃなかったヨ、てえのはとりあえず無しですからね。

『千と千尋』の物語の冒頭、「現実」の世界、世俗の世界(千尋のおとうさんが最も世俗的印象でそのカーグラ的な団塊の世代的な俗っぽさをアウディ・クワトロで表わしていたのが道具立てとして秀逸)が、千尋にとって既に転校のためのクラスメートとの別れという劇的でクライマックスを過ぎたにも関わらず落胆の中でも生きてゆかなければならない世界であることを、萎れたピンクのスイートピーの花束で表象している、という時点でかなり期待させる冒頭でした。タイトルのバックも単なる丘の上の集合住宅という、これ以上内ほどの日常性でありましたが、あえて次の祠の傍の神木みたいな大きな木にしなかったセンスは、抑制の美学というものを予感させました。さらには物語の始まりが既に終わりであることを、そのような演出に加えその部分のBGMとともに示していますが、これは押井守の『紅い眼鏡』や『アヴァロン』で用いた音楽の使い方と似ていて、冒頭と終わりの音楽が変奏は入っていても主旋律は同じなのも、ありがちな方法と言ってしまえばそれまでですが、これらには妙に近しいものを感じました。その場面も音楽のイメージも物語りの初めでは子供にとっては、旧来のアニメにありがちな希望的世界への始まりではなく「絶望的に退屈で何も起こるはずのない」な境遇からの出発です(それが最後では希望の音楽に聞こえるんですからスゴイ)。対する『BD』でも同じく心象風景的な「終わった世界」であたるが実に呆けた格好で旗持ってボーゼンと立ち尽くしている情景となぜか相同性を感じましたが、それに対照的に学園祭の初日の大騒ぎガラリと変わり描かれますが、これが徐々に学園祭前日のループであるという「新しいことが起こるはずの無い」世界のループへと漸近線を描いてゆくわけで、ここをミステリーじみて魅力的に描くのが初期の押井作品と感じていた人も多いとは思うにもかかわらず押井守はそこから敢えて離れていったのに、老境に達っしようとする宮崎駿が逆にそこに「辿り着いて」きたのは興味深いことではあります。以上はかなりこじつけが入っているかもしれませんし、実際この場面を観ているだけでは『BD』との相同性なんて考えもつきませんでした。

しかし『千と千尋』の異界への入口が「紅い」「壊れた時計塔」で「90年代のバブルの頃」に建てられ打ち捨てられた安っぽい「モルタル製」の「テーマパークの残骸」で、それが草原の「海に浮かんでいる」というシーンでは、何か『BD』を含めた押井作品への含意(悪意? >笑)が、それが意識的であれ無意識的であれ、存在するように感じられてならない場面です。と言うか、後にも押井作品に対してに限らず、『千と千尋』ではその様々なシークエンスや台詞が日本と日本のアニメに対する様々な「批評」になっているメタアニメのような気がしてきたのですが、それも後述しましょう。

『千と千尋』で異界の入口から川を渡った先は食の街、紅を基本とした町並みに目、唇、狗(犬!)、飢と食に会う街でしたが、そこではかつて『BD』で「衣食住を保障されたサバイバル」を生き抜くために設定された「供給の尽きないコンビニ」の食料で生き抜いた末に特機隊の地獄の番犬となったメガネ(=千葉繁)=都々目紅一とは対照的に、八百万の神様の食べ物を意地汚く貪り喰ったニンゲンは豚になるしかないんだよ、それも紅い複葉機を駆って空を飛ぶどころか豚小屋に飼われる食べられるしかないのですが、子供らしい潔癖さからか畏れを予感できた鋭さを、いくらブーたれているとは言え若い千尋に込めているのも宮崎駿らしい物語ではあります。

そのまるで書割みたいな(『BD』で無邪鬼が作り上げた世界や『紅い眼鏡』に出てきた映画セットのような街を連想させる)紅い街並みから見える空の色が、まるで硫酸銅色。人工的でありながらなぜか郷愁を誘う色合いなのは、昔絵本で見た色なのか、絵の具の色なのか、理科実験室の棚に埃を被っていた壜の中の結晶の色だったのか、それとも本当にこんな空を見たことがあるせいなのか、様々なイメージを掻き立てる色合いでした。それと対照的なのが『BD』の空ですが、基本的には季節を強く意識した色で、夏の空、台風一過の空、学園祭の秋の空、そしてそれ以外は夜空。特に冒頭での空の色は夏の突き抜けるような気楽さと不安を同時に表わした色彩でしたが。これは幼少のころというよりも、少年期のころ見た夏休みの空の色ではないかと感じるのですが、これが個人的感想にとどまるのかそれとも押井守の狙いそのものなのかは分かりませんし、正解を求める必要もありません。ただ双方の作品とも、それら空の色という単純な青に対する拘りは、その色を場面場面で使い分けていることからも窺い知れます。しかし空をイメージする年齢、体験の強度が最も強かった年齢が異なるのでしょうか、映画全体のイメージの青色は異なるようです。空を含めて青色が多数の人にとって重要なファクターだと思うのは、例の『千と千尋』のDVDの赤色問題があれほど取沙汰されたことが示しているように思えます。つまり画面が赤くてスッキリした空の青い色が見えなかったのが、これ程多くの人の不満を誘ったというのは、その青色のイメージが無意識的にせよ余程大切だったにもかかわらず、製作者と鑑賞者で持っているイメージが乖離していたせいなのでしょうか? 後で気付いたのですが、エンディングの歌詞、「繰り返す過ちのその度いつも人は青い空の青さを知る」(青か蒼か分かりませんが)が空色の重要性を隠さず語っていたんですね。

同じ空でも夜空ですが、『千と千尋』で湯屋が夜になり、八百万の神さまたちだか、妖怪たちだか、幼少時の酔客やら歓楽街での大人たちの原初的イメージだか、その影が飲食街を跳梁跋扈し始め、千尋が驚き逃げた先で、草原は蝦蟇の口から吐き出された水で川になっているのに驚いた彼女が見上げた光景は、その川向こうでは先ほどのボロ時計台がその周囲の町と供に遥か彼方で夜景として煌いている光景であり、川向こうの黄泉の国に来てしまったというようなイメージと一瞬息を静止させるような雰囲気を惹起させましたが、これは臨死体験において殆ど皆が共通に見るイメージであることから、何らかの心的実体を伴うものだと私は推測しているのですが(本当の来世だとかアーキタイプなんて私は「信じて」いません)、とにかくそのようなイメージを巧みに物語りのシークエンスに組み込んでいることに感動の寒気が走りました。これと同一の息を呑むような同一の『BD』での夜景の体験は、レオパルドの砲身にフワリと降りたラムとその背景の紫の空(同じ読み方で「宇宙」か?)を描写した部分で、まさにその世界を成立させるキーパーソンが降臨したと構造解析出来ないこともありませんが、そんなコトバでは収まりきらない静かなインパクトで映画の画面を凛々しく締めていたように思われました。

物語りの主たる舞台も両作品では似ていながら興味深い相違を感じます。湯屋+αと亀の上友引町の違いですが、いずれも時間が循環しているか止まっているかという設定で、『BD』ではそれを季節の移り変わりとして描いてはいるものの、さらにその設定自体を論理的言語的に捉えてかつ映画の重要なモチーフとしたのに対して、『千と千尋』では庭に咲き誇る全ての季節の花々(椿、沈丁花、梅、皐、石楠花、梔子、紫陽花、凌霄花といった日本的な園芸種を中心にして)を背景に描くことでイメージとしての時間の循環をサラリと描いているように感じられました。優劣ではありませんが、しかしそのような半閉鎖空間の描き方は両者で対照的です。威容を誇る、と言ってもどこか安っぽく通俗で猥雑なイメージの湯屋と、それと橋でつながっている田舎の清廉っぽくても石楠花が咲き誇る庭・畑・豚小屋の島状の台地は、初めは草原の海、後に本当の海から屹立して、電車をによって「外部」の影だけの人たちのいる世界と連続してはいます。またこれはあまりにも個人的感想ではありますが、橋の遥か下を走っている電車や、油屋の裏道のから見える電車というシークエンスは何か地の底や黄泉の世界に通じるような不安を漂わせているのですが、このようなイメージを抱いたのは私だけでしょうか。それに対して『BD』の亀の上友引町は、他に支えを持たず宇宙に浮かびまったく「外部」の世界とは孤立した空間であり、それを支えているのは意思を持たない石像となったキャラクターだちです。そしてそれらのキャラの世界(夢)は水族館の窓を通して別世界として覗き見ることしか出来ないという描写で、これはそれぞれの監督の世界観、心的構成、外部に対する認識そのものではないでしょうか。押井守には論理的な不可知=夢の世界はそれ以上先に進めない漆黒の宇宙であり、自分の認識などハリアーの垂直移動で突き詰めて見れば限られた範囲内にしか及ばないものであるという攻撃的な諦念、それに対して宮崎駿の外部は水のような拒絶はしないけれども緩やかな結界によって電車のような何らかの経路によって「他の世界」=他者? と繋がってはいますが、通過点の人々は、それぞれの生活がある実体であっても、自分にとっては所詮影のような存在であるという傲慢ではなく諦念を表象しているかのようでした。

あとはもう面倒なので、それぞれの印象的だったイメージを抜き出してみましょう。『千と千尋』では、顔が付いた鳥が夕暮れの空を旋回していて、大きなヒヨコや赤ん坊のようなネオテニーというかフリークスが跋扈し、オトナはみんなカエルや太った大根だし、紛れ込んだボイラー室や宴会場の明かりで蜘蛛みたいな手足の影が見えたり化け物の揺らめく姿が見えたり、夜明けの雑魚寝部屋の白々とした寒さが身にしみたり、お腐れ様はちょっとエコな寓話的すぎてあざとかったものの、宮崎駿本人がクライマックスだと言う海の上を走る電車のイメージは本当に秀逸でしたし、白との別れで繋いだ手を離すときの苔生す石段もなぜか印象的でした。物語の最後で紫の石の髪飾りが光り入口の森を去るときのけれんみの無さ、引っ張らないタイミングの取り方は、潔い以上の情感を感じました。かつて宮崎駿は『ルパン三世カリオストロの城』や『アルプスの少女ハイジ』でエンディングの際に去り行く人物を嘗めて撮りながら遠くの日常の風景を遠景で眺め終わらせるという映像文法を取っていましたが、今回、森のなかに消えてゆくアウディを撮ってサラリと切るやり方は、余程映像の計算に自信がないと出来ない方法でしょうし、その効果は、次のエンディングテーマの流れる際の、背景を更に際立たせるものでした。その背景画は単に背景に過ぎないのに、スタッフの幼少の原風景を並べ立てているようで、はっきり言ってここが一番スゴイ部分になっていたのには驚きました。

『BD』に関しては構造解析じみたことを散々してきましたので(「押井学会」既刊)、その基本的モチーフから外れてくるイメージだけの印象的な部分を取り出してみると、改めてその無駄の無い構成に驚かされますが、それでも構造という面だけでは収まりきらないように思える幾つかの印象的イメージショットもあって、先ほども挙げたラムか夜空から舞い降りてくるシーン、しのぶが風鈴のなかに消えてゆくシーン、ラムと面堂が廃墟の水道を捻り水の鏡が広がるシーン、最後にあたるがラムに「夢だよ」とまるで懺悔するかのように逆光に囁くシーン、でしょうか。ただ、物語から受ける震えるような感動のもとは、こう書いていてはっきりしてきたのですが、それらイメージそのものではなく、構造の積み重ねから創発される知的興奮、郷愁、雰囲気と、その蕩尽消尽から得られるポテンシャルエネルギーだったのではないかと感じられます、抽象的で思念的なので断定は出来ないのですが。それが『千と千尋』との相違とは言え、やはり言説を直接的にテーマとして語っていくようなタイプの物語ではなく様々な哲学的数学的概念を展開出来るような豊かな映像であり、当初言われていた「オタクを夢から醒ます」みたいなテーマ主義的な「正解」は貧しい解釈であるといえましょう。

まだまだ具体的なイメージに沿って考えてゆきたいのですが、今回も既に時間が無いうえに、読んでいる人にはこのような試みは退屈でしょうし、さらにはこのような場面の羅列が切通理作による退屈な宮崎駿本(『宮崎駿の<世界>』ちくま新書)に似てきたことが自己嫌悪なので、このへんで打ち切り、またまた同人誌らしい? 思弁的な話に戻りましょう。

以上のようなイメージと音楽の積み重ねの代わりに、ストーリーと「テーマ」と構造を用いた無理矢理な論理に押し込め両者の共通点を挙げようとすれば、こうも言えるかもしれません。すなわち双方の作品とも、そのシークエンスをおおまかに言えば、日常退屈平凡変化の無い世界の裏? には、実は未分化で理解できない不安の世界が広がっていて、そこに放り込まれた主人公がそこから脱出しようとする試みの物語で、という聞くだに通俗に過ぎる話のように感じてしまいます(私のまとめ方が悪いのでしょうが)。これだけであれば、例えば『嵐を呼ぶモーレツ! オトナ帝国』を含めたクレヨンしんちゃんの映画シリーズの殆どがこのようなシークエンスだとも言えます。しかし最も大きな違いは、『クレしん』の場合は(悪い意味ではなく)比較的、映像と言語的領域でテーマという形でキチンとまとめられているのに対して、押井作品や宮崎作品はその中に相反するテーマ、イメージ、言語的なものと映像的なものが多く存在し、それ等が互いに抵抗や振動を生じさせ、構造分析やらテーマやら単なる絵の動きだけからは演繹しきれない別の階層の感情惹起能力を持っている「何か」を創発しているのではないのか、というようなことを私は疑っているからです。これらイメージと演出の堆積がもたらす物から、ストーリーやテーマや哲学で語られる評論を差し引いた違いは何であるのか? その「何か」のひとつとして私が今考えているのは、知情意を含めた心的体制がアトラクタに喩えられるものならば、異なったアトラクタの軌道間の「振動」=すなわち平たく言えば「感情の震え」なのではないかと思っています。

この考えはいかにも陳腐なうえに突飛で、私自身もこれに似た与太で、ロジャー・ペンローズという立派な物理学者が人の心を神経細胞のマイクロチューブだかでの量子的ナントカの振る舞いで説明できるとかいう実体論を現時点で持ち出してしまい、その名声をすっかり地に落としてしまった例を思い出します。しかし私が言っている「感情のアトラクタ間の振動」というのは、実体ではなく、単なる操作概念です。これを持ち出す意義ですが、大きく出ると、フロイトからラカンにいたる精神分析的思想のラインで変わらなかった、心的体制における最終目標がそのエコノミー、つまり心的ポテンシャルが最も低くて安定している体制に向かうことが大前提であったわけです。しかしこれ一本化では説明できないのが、反復強迫(これはヤな境遇に慣れるためにというテクニカルな説明もありますが)やらタナトス(死の衝動)であります。しかし心的エネルギーを駆動力として回る心的体制のアトラクタというモデルであれば、それらの心的現象も一本化して上手く説明できる可能性があります(科学的説明上でのエコノミーであるオッカムの剃刀の請求より)。これは別に私のオリジナルではなくて、神経回路と複雑系の研究者の仮説でこのような話があったという程度のものです。それを詳しく述べるのは本稿の目的ではありませんが、作品を見て感動するということをこのような説明で行うならば、感情のアトラクタの軌道間の遷移を繰り返し生じる、そのような「振動」がヒトの心に感動を与えるのではないかと、そのような与太を考えています。ならば様々なイメージや郷愁の積み重ねがそのような「振動」を引き起こす、と考えるのは飛躍にすぎますでしょうか? ココロが「震える」って言いますしね。ちなみに応用例はオタク的な「燃える展開」や「萌え」も、二つの異なる感情(アトラクタ)間の「振動」という説明が出来ると思っていますが、これはオタク論ですので、また別稿で(こんな与太まだやるのか!? )。

というわけで、不可知で語りえないものが作品の魅力になる直接の証拠を示すことは、言葉の定義からも不可能なわけで、このような「振動」だか「波紋」仮説では屁の突っ張りにもなりませんでしたが、イメージや構造や音楽やシークエンスの積み重ねが、創発的に異なる階層であるヒトの感動のもとになりうることの片鱗でも示せればと思ったのですが、これも大きな誤解に過ぎないのかもしれません。しかしこれからも様々な文体(スタイル)とか、暗喩とか、隠喩とかで映像の感動を、インクのシミやファイルに固着すべく、様々な試みをしてみたいと思いますし、またそのような試みをしている文章を探してゆきたいと思っています >小学生の作文の終わり方みたいだなオイ。

 

で、ここで終われば、あまりにも押井論ぽくないので、以上挙げた点を梃子に最後に一人井戸端会議的で蛇足な状況論と作品論を。

大鉈でブッタ切りという批判を承知で言えば、以上挙げた構造とイメージという分類を念頭に考えるとすれば、『アヴァロン』=『BD』―『千と千尋』であり、つまり『アヴァロン』は構造的には『BD』や『紅い眼鏡』

とかなり近い作品に感じられるものの、そこでは既存のイメージや郷愁に訴えるような方法を敢えて? 外したという印象があります。というか押井守本人にとっては過去の全共闘や東京への拘りやらイメージやらが希薄になってきた結果の東欧(ワルシャワの春的な映像に何の感慨も見出せませんでした)的なゲームの虚構世界なのかも知れませんが、そのため映像の凝りようは一筋縄で行かないほどなのにも関わらず、その感情移入を拒むがごときアッシュだか灰色の貴婦人は、「紅い眼鏡」が外れてしまった彼に見える世界の隠喩なのでしょうか。

その気配はすでに『機動警察パトレイバー2 the movie』において既に感じられていましたが、その後の映画『攻殻機動隊』以降では、心震えるような感情の起伏、不安といったものは影を潜め、その代わりにシュミラークルを映していた合わせ鏡が粉々に砕け散ったあとの何かに囲まれた茫漠としてのっぺりとした灰色の不安とも言えない静けさが私の抱くイメージです。それに反抗すべく素子が起こす行動も、不安自体が薄いために動機を共有することが困難ですが、それが現在の私たちののっぴきならない状況であるという認識は論理的にも倫理的にも賛成します。だからと言って『人狼』のように人間ドラマを目指し差異を叫んでみても、世界の中心を気取ってアイを叫んでみても、返ってくるコトバは2ちゃんねる的な揶揄しか思い浮かびません。そんな状況で押井守にこのような素晴らしい映像以上の何を望むというのでしょうか? しかし、だからこその『千と千尋』のエンディングテーマの歌詞が、彼に対するやけに厳しい注文に聞こえたのは私の勘繰りすぎというものでしょうか。

 

「果てしなく道は続いて見えるけれどその両手は光を抱ける」

「粉々に砕かれた鏡の上にも新しい景色が写される」

「呼んでいる胸のどこか奥でいつも何度でも夢を描こう」

 

その後の「悲しみの数を言い尽くすより同じ唇でそっと歌おう」は押井守だけじゃなくてエヴァで自殺とか言ってた庵野秀明にもお小言を言っている様子に聞こえてしまいましたよ。

 

2002/12

 

 


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