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物語から現実へ

 ――物語世界をめぐる外部と内部についての考察――

 

 

岩田 憲明


1. 物語の外部と内部

 語られるものは常にある制約をもっている。語られている世界は常にその根拠をその外部に持っているが、その根拠は語られている世界の外部にあるが故に決して物語の中では明らかにされることがない。数学の世界では、ゲーデルの不完全性の定理により一定の論理によって構成される公理系の外部の存在が明らかにされているが、物語にあっても、それは何らかの設定をその前提とする以上、常に同様の外部に晒されている。

 しかし、これは物語において一つのパラドックスとなっている。物語は常に一定の設定を前提とし、それに制約されているにもかかわらず、物語の語る真実はその設定に制約されるものではない。また、物語が語る対象は何らかの形で人間の五感によって捉えられるものであるが、我々が物語に求めているものは、その五感によって捉えられるだけの単なる「何か(etwas 独)」ではない。物語は常に自らの外部を持つが故に、まさに五感を通して認識され想起される「何か」を「1つにまとめ上げること(Einbildung 独)」によって、語られる以上のものを描き生み出すのである。

 優れた物語は常にこの物語の外部と内部との間にきわどい緊張を保ちつつ展開される。その緊張の震えが現実という物語の外部に生きる我々を打ち震わせるのであるが、押井作品はこの緊張を意図的にその内部に取り込み、複層的な厚みを帯びてきた。今回はオートポイエーシスの概念を援用しつつ、主に『トーキングヘッド』の考察を通じてこの物語の内部と外部の問題について考えてみたい。

 

2."インプットもアウトプットもない"

 近年自然科学の分野において複雑系やカオスと並んで自然を自律的なものとして捉える立場としてオートポイエーシスという考えが注目されている。これは自然を自ら作動しながらを生成しているものと観る考えであり、従来の思考のように原子や分子、もしくは細胞などの自然的存在の単位を既存のものとみなさず、物質とエネルギー、もしくは情報の流れの現れとして捉える立場である。このオートポイエーシスの考え方は "インプットもアウトプットもない" という言葉で表現されるが、この言葉は物語における<語られる物語そのもの>と<その物語を受け取る人間>との関係を明らかにするためにも有効な表現であろう。<語られる物語そのもの>は<その物語を受け取る人間>を前提として物語を展開するが、物語の中に直接その物語を受け取る人間が介入することは原則的にありえない。しかし、これら両者は常に互いを前提とするのであって、誰も見聞きしない物語は物語としては存在し得ない。ここには物語をめぐる<主体>と<客体>との連続した関係が成り立っているのであり、まさに "インプットもアウトプットもない" 一つの流れが成立しているのである。

 オートポイエーシスについては河本英夫氏がこの点を強調して、この考え方の独自性を主張している。氏の著作である『オートポイエーシス』によれば、 "インプットもアウトプットもない" ということにより、オートポイエーシスの考え方はそれまであった自然の既存の単位を前提としたシステム論、自己組織論と一線を画するものであり、これらの単位は単に観測者の視点によるものに過ぎないということになる。このような考えは仏教哲学など東洋思想に以前から親しんできた私にとって特に奇異に感じるものではないが、自然の既存の単位を単に観測者の立場に帰着させる立場はやや行き過ぎの感がある。河本氏の立場は従来の考え方からオートポイエーシスの考えを切り離すために観測者の特異性を前面に押し出しているが、なぜ観測者の立場がそのような既存の単位を我々にとって「何か(etwas)」として現象させているかについては言及していないように思われる。

 <語られる物語そのもの>と<その物語を受け取る人間>、より単純なケースでいえば、<見るもの>と<見られるもの>、この両者の間で生じる現象や解釈の揺らぎは常にこれら両者の微妙な関係のうちに成立する。このことは多義図形の解釈を例にとれば容易に理解されるであろう。右に示したのは心理学で有名な「ルビンの盃」の図であるが、この図が「盃」を示しているのか、それとも向き合っている2人の人間の顔をあらわしているのか定かではない。このどちらの解釈をするかは観測者の任意にゆだねられているのであるが、実際問題としてこの解釈を決定するのは、この図の外にあるであろう外部の状況である。だが、いずれにしても、多義図形においてもまったく恣意的な解釈は成り立たない。この「ルビンの盃」の図を見て(これを横にしながら)「××式リボルバーカノン」と見る人はまずいないであろう。

 物語のおいて一流の作り手は常に受け手(観客)の状況を想定しつつ、彼らを一定の解釈に誘導することが出来る。このことを実演して見せた押井作品が『トーキングヘッド』であった。この映画で押井監督は映画の銀幕の映像の中に敢えて舞台を持ち込むことによって、物語の内部と外部とを視覚化して見せている。この物語の中では外部の存在が「お客さん(=幽霊もしくは怪しげな少女)」として映し出されているが、彼女は決して物語の中に直接介入してくることはない。時として彼女は(ヒッチコック監督のように)物語の中のその他大勢の一人として出てくるのであるが、彼女は決して口を開かず、物語の流れに干渉することはないのである。しかし、彼女の存在は映像として映し出される舞台装置と同様に物語の外部を象徴しているのであり、この映画の見せる不思議な存在の揺らぎを映し出している。

 もし "インプットもアウトプットもない" という言葉の意味するものが単に世界や物語の内部と外部との連続性を示唆するものに過ぎないのであれば、そして我々が認識する「何か」の観測者による恣意性を正当化するものであるとするならば、押井監督がこの映画の中で舞台と客席、実際にドタバタを繰り広げる出演者と沈黙の少女とを対比させる必要はなかったであろう。現実に物語においては舞台と客席、<見る側>と<見られる側>との間にははっきりと一線が画されているのであり、逆にその一線こそ両者をつないでいる唯一の線なのである。

 

そう、我々は観客を知らないからこそ、映画において語り、また隠す自由が可能になるんだ。(『トーキングヘッド』・「私」のセリフ)

 

 "インプットもアウトプットもない" といってもそれは相対的なことに過ぎない。現実という世界の内部に入れば、そこには無数のインプットとアウトプットが存在する。しかし、それらは直接間接に連関しているのであって、世界そのものをブラックボックスとしたインプットもアウトプットもないだけの話である。

 むしろ物語との関連でオートポイエーシスが示唆している重要な点は "世界が常に自らを作動させていることによって成り立っている" という点である。

 

そう、ある映画を正確に語ることが可能な場所、そんなものがもしあるとするなら、それは現に進行している映画の中をおいて他にないのかも知れない。(『トーキングヘッド』・「私」のセリフ)

 

我々の知的思考は常に反省に基づいている。反省的に取り出され固定化された観念の組み合わせによって物事を論じているわけであるが、その論じられている物事の実相は常に変化するものであり、また論じている自己の思考も常に揺らぎながら変化し続けているものである。オートポイエーシスが指摘する "インプットもアウトプットもない" という事実の真相は、単に内と外との連続性を表現したのではなく、本来<インプット>や<アウトプット>そのものを成り立たしめている作動という流れから独立したブラックボックスとしての「何か」の否定である。

 普通、これらの言葉は数学における関数の考えに見て取れるように、何らかの形の機能体(function)を前提としている。たとえば、「f(x)=2x」という関数があった場合、 "「f」で示される箱に任意の数「x」を入れるとその二倍の数である「2x」が出てくる" という形で関数の説明がなされる。この「x」がインプットで「2x」がアウトプットということになるわけであるが、ここで「f(x)」はこれらの具体的な数から独立自存している実体のように見られるかも知れない。しかし、オートポイエーシスの立場では具体的な <インプット - アウトプット> を離れてこのような関数は存在し得ない。関数をなす機能体そのものは潮の満ち引きとともに現れる渦のようなものであって、 <インプット - アウトプット> の流れの中に現れる一時的な現象の場に過ぎない。それ故、 "インプットもアウトプットもない" という言葉が述べられるとき問題となっているのは、 <インプット - アウトプット> とその間に作用する機能(体)との相即の関係なのであって、観測者の問題もその関係の中で論じられなくてはならないのである。

 

3. カントの「物自体」と押井の「不在のキャラクター」

 すべてが流動する流れの中で自己を生成し、一見固定的に見える「何か」も流れが成す渦のようなものであり、しかもその「何か」が我々にとって具体的な「何か」であるのは、インプットとアウトプットの一定の連なりの中でかりそめにそうであるに過ぎない、というのがオートポイエーシスの示唆するところである。とするならば、我々が実際に「本」や「コンピューター」として認識する具体的な「何か」も、このかりそめの存在であることを免れることは出来ない。いま読んでいる本の文字について、日本語を解する我々にとっては意味を持った記号であるが、そうでない人々にとっては単なるインクの染みに過ぎない。当たり前のことだが、このことをよく考えてみれば、そこに舞台上における役者と観客、そして演じられる物語の設定に対応する関係が見えてくる。我々は「本」を「本」と見なすように、ある役者は医者や弁護士、殺人犯やその他多数の役を持った人間として認識され振舞っており、それを可能にしている物語世界の前提はその設定と呼ばれている。物語の外では全く医学を知らない人間も物語の舞台の上では医者を演じることができるのであり、それを見る観客もそのことを承知した上で舞台の上でなされる医者の演技を受け入れる。舞台と観客席は約束事によって仕切られた世界ではあるが、そこには「何か」を「何か」として成り立たしめるシステム世界の内部と外部のすべてが存在している。

 このことからいえるのは、我々が「何か」を「何か」として認識する時、それはその「何かそのもの」ではなく、ある一定の状況で特定の誰かに対して「何か」として存在しているものであるということである。この「何かそのもの」と認識される「何か」とをカントは「物自体(Ding an sich selbst)」と「現象(Erscheinung)」と呼んで区別した。我々が「本」や「コンピューター」、もしくは「木」や「草」として目にするものは単に現象であるに過ぎず、本来は認識不可能な「何かそのもの」によって触発されてそう認識されているにすぎないとカントは考えた。我々人間の認識は客観的な事物の法則にしたがって事物そのものを認識するのではなく、人間自身の持つ主観的な認識法則に従ってその枠組みの中でそれらは認識されるのだと彼は考えたわけである。一見非常識な考えのようにも思えるが、少なくとも我々が認識する事物が認識されるままに実在するという素朴唯物論の考え方よりはるかに理にかなった考え方である。また、単に事物が主観によって構成されたにせよ、自己の外部に「物自体」の存在を認めている以上、決して夢と現実とを無制限に混同しているわけではない。

 しかし、哲学史上この「物自体」の考えほど批判の矢面に立たされた思想はない。それはこの概念が <実体 - 属性> の枠組みに基づいていたからである。伝統的に西洋ではある存在がある性質を持つという形で物事を論理化してきた。例えば、「塩」は「しょっぱい」「白い」などの性質を持っているが、このことは「塩」という実体が「しょっぱい」「白い」などの属性(性質)を持つと解釈されてきたのである。しかし、これらの属性をすべて取り払った後に残る「実体」としての「塩」とはいったい何であろうか。現実には「実体」という発想が「属性」との関わりのみで意味を持っていたため、「属性」から見放された「実体」、「現象」から独立した「物自体」はナンセンスではないかという見方がすでにカントの時代から広まりつつあった。「物自体」は「現象」を触発するものとして要請されたが、これは「物自体」が「現象」から独立してその根拠となる何らかの実在物であるかのような印象を与える。しかし、もしそうなら原理的に不可知な実在物ではなんであろうか。結果として、後の哲学者たちはこの「物自体」の克服に奮闘するのである。

 しかし、たとえこの「物自体」の概念が<実体 - 属性>の枠組みにとらわれていたにせよ、その示唆するところは大きい。というのも、これは我々の認識が常に一定の枠組みの制約の中でなされていることを示しているからである。我々が認識する事物は常に無限の関わりの中に存在している。我々が認識を通して得るその事物との関わりは、その無限の関わりの中のごく一部分に過ぎない。そのことを考えるならば、「物自体」とは我々の認識を超えた事物を成り立たしめている世界の連関すべてをさすものとなる。実践的な側面においてこの我々を超えた関わりを意識することは重要な意味を持つ。カント自身にあっては、「物自体」の概念は道徳や信仰にかかわるものであった。我々は自らの認識を通して実証的な科学的認識を打ち立てることは出来るが、実践的な価値基準をそこから導き出すことは出来ない。"我々がいかにあるべきか" という問題は「現象」の内では解き得ないのである。

 このことは現在の経済学に見られる行き詰まりを見れば理解されるだろう。現在の経済学は実証科学であることを目指して、計測できるもののみを対象としてきた。実際の経済活動は何らかの価値を求めて行われているのであるが、近代経済学が取り扱うのはお金を通して計測される価格によって成り立つ関係のみである。それ故、価格が低いものは価値も低いものとされ、価格が高いものは価値があるものとされる。近代的経済市場はお金を通した商品のやり取りによって成り立っているが、自由市場が価格を基準にしてなされる需要と供給とのバランスによって調整されている以上、本来そこには何ら問題が生じるはずはない。ところが、実際には多くの問題が生じている。この問題の幾つかは需給バランスの調整にかかる時間的な要因によるものもあるが、より以上にこれらの問題は「価格=価値」というところに根ざしている。仮にアフガン難民が手にする100ドルとアメリカの大富豪が手にする1000ドルとではどちらが価値があるであろうか。自らの生死をわずかな収入に頼る人々の立場がどれだけ市場経済に反映されるかを考えれば、価格によって計られる経済的価値はそのごく一面に過ぎないことが分かるだろう。

 一般に経済学では個々の人間が具体的に得るメリット、価値を「効用」もしくは「使用価値」と呼んでいる。だが、近代経済学ではこれは常にその範囲外におかれてきた。「価格」によって計測されないものは不可知の「物自体」だったのである。これはマルクス主義経済学においても同様で、時間などによって計られうる「労働量」が「価値」と同一視されていた。しかし、計測不能であるにせよ、この「効用」もしくは「使用価値」は実在する。それは我々自身のことを考えれば誰もが納得することである。「価値」とは近代経済学の舞台において不在でありながらも、常にそれを成り立たしめていた外部の根拠なのであり、現に進行している経済学の機能不全はその不在の根拠をあまりにも無視し続けてきたことの当然のツケなのである。

  物語においてこのような不手際は格好は良いものの、現実味に欠けたストーリーに見ることができる。物語の中では善が勝ち悪が負けるにしても、現実と同じ苦悩を見い出すことが出来なければ観客はその中に現実味を感じないであろう。近代経済学も同様に、内部の整合性にこだわるあまり、外部にある「物自体」としての現実を見失ったのである。

   押井作品にあっては、この「物自体」は「不在のキャラクター」として語られてきた。その定義は『トーキングヘッド』の言葉を引用すれば次のようなものである。

 

映画の中で繰り返し語られ、たえず話題の中心となりながら、一度としてその姿をスクリーンに現さぬ不在のキャラクター。不在であるが故に、ペルゾナや、その堆積として発散される特定のキャラクターの神話的雰囲気という具体的審級を必要とせず、内面的人格として認識されつつも不特定多数の観客の恣意の視線に晒されることもないキャラクターそれ自身。ただ演出するものの意志にのみ根拠づけられた、純粋にして究極のキャラクター。(『トーキングヘッド』作画監督・大塚のセリフ)

 

このような定義は一見そのうちに矛盾を含んでいるように思われるかもしれない。それは主人公の活躍など具体的に描写できるものが物語を成り立たしめていると考えられているからである。しかし、物語の前提は常に物語の外部との関わりで成り立つのであり、その前提を問うということは、必然的に外部との緊張を孕みつつ、不在の「何か」を要請せざるを得ない。

 これは「物自体」にしても同様であった。次のセリフはカントの「物自体」の概念に対して、彼と同時代のヤコービという哲学者が放った言葉である。

 

(物自体の)前提なしには(カント哲学の)体系中に入り得ない。然るにかかる前提を以てしては体系中に止まりえない。

 

 「物自体」も「不在のキャラクター」も語られる外部に自らの根拠を持つ。だが、物語とその受け手との間には常にある一線が引かれている。物語がこの一線を越えることは、現実そのものをその物語の設定に組み込むことになる。 果たして、常に外部に自らの前提としての不可知の制約を持つ物語にそれはいかにして可能なのであろうか。

 

4.現実と共振する物語

 物語の世界と現実の世界との境界、それは2つの世界が本来独立に進行しているというところにある。天気予報、そして為替や株式の市況は直接我々に影響を及ぼし得る。たとえ、株や為替に無縁な生活を送っていても、景気の動向を通じてめぐりめぐって我々が何らかの影響を受ける可能性は否定できない。これに対して、物語は悲劇に終わっても、所謂ハッピーエンドになっても、我々の世界に直接影響が及ぶわけではない。しかし、物語はそれを受け取る人の心に直接影響を与えるのであって、その人を通して間接的に現実を変える可能性を持っている。物語の中にも真実といえるものがあるのであって、不自然で強引なハッピーエンドは受け入れられないし、そもそも人を引き付ける面白みがなければ誰も物語に触れようとしないであろう。このことから一般的に物語の価値とは、人が物語を通じてその主人公にシンパシーを感じ、その主人公と自分を重ね合わせることによってカタルシスを得るところにあると見られている。

 確かにこの常識的ともいえるこの見解を敢えて否定する理由は見当たらない。物語の登場人物に感情移入できないような物語は見る価値もないし、そもそもそのような物語が物語として語られるかどうかも疑問である。しかし、この常識的な見方は物語を単なる出来事の叙述の連続としてしか考えておらず、一つの完結した全体としては捉えていない。物語を語られる出来事の集まりとするならば、そこで語られているのは我々が感覚できる事象の連続であり、そこにあるのは我々の現実に似た世界で起こる他人事ということになる。しかし、本来、物語が描き出すべきものは現に我々が生きる現実世界にも通じる真実であり、自らを通して我々の現実を、そして我々自身を浮き彫りにさせるのが一流の物語である。

 押井作品が求めてきた「不在のキャラクター」はキャラクターでありつつも、「不在」のものとして常に我々の感覚の外、もしくは物語の流れの外部に位置してきた。「パトレイバー1」の帆場のように、物語の中に登場するときはシルエットのみを残し、我々の感覚する画面の背後で物語を支配していた。また、我々が目に出来る場合は、「紅い眼鏡」や『トーキングヘッド』の少女のように、物語の流れとは無関係に存在し、ただそれを見ているだけの存在であった。その存在はいずれにしても不自然なものであったが、唯一つ共通しているのは、これらの存在が物語世界全体を明確に境界づけていたということである。

  境界づけられた物語は自身を一つの世界として提示することによって、我々の現実世界と同じ一つの完結した世界であることを明らかにする。しかし、押井作品の場合は、この完結した世界が常に物語の進行と共に揺らいでいるのであり、夢と現実との不確かな関係に見られるように、決してその境界は強固なものとしては描かれていない。これは押井作品においては、物語自身がその中で展開する進行によってのみ物語の世界が境界づけられているからであって、求められる「不在のキャラクター」も時として「不在」のベールをはがすことによって、その世界そのものの存在を相対化しているからである。概して、押井作品はこの「不在」のカードを巧みに使うことによって物語が常に語られない外部の中に晒されていることを印象づけようとする。 「パトレイバー1/2」の映画では、それぞれ帆場英一と柘植行人の正体が徐々にその姿を現すことによって、物語が未知の外部へと拡散していた。また、「ビューティフル・ドリーマー」と「紅い眼鏡」では本来物語の外部に位置していた少女が自らその物語の中に入り込むことによって、未知の外部がその世界へ侵入する形をとっていた。

"インプットもアウトプットもない" というのがオートポイエーシスの原理であったが、物語自らの進行によって自身の枠組みに穴をあけ、その穴を通して揺らぎながらも自己を拡大していく押井作品はこのオートポイエーシスの原理を自らのうちに含んでいる。"ルールを作りながら遊ぶゲーム"というのは『トーキングヘッド』の中に出てくるセリフだが、まさに世界の前提となっている設定のルールを自らの展開と共に変質させることによって、物語は夢と現実との境を越え、揺らぎながら進展するのである。

  このような物語世界の揺らぎは我々の現実世界にも微妙な波紋を投げかける。それはその世界の不安定な揺らぎが我々自身の現実世界をも相対化させ、不可知の外部に覆われた一つの世界に過ぎないことを浮き彫りにするからである。物語世界も現実世界も何らかの設定をその前提として成り立っていることには変わりはない。しかも、その前提は不可知の外部に常に晒されており、その不可知の外部領域に覆われているという点で2つの世界は対等なのである。それ故、不可知の外部を描き出す押井作品にあっては、物語世界の揺らぎがこの不可知の領域を通して現実世界を共振させる。押井作品の魅力は、この揺らぎの共振によって、現実を問い返すことであり、そのことを通じて自ら作動しながら自らを生成している世界の実相を映し出すところにある。

 

5.物語の後に来るもの

 現実世界に対する人間の態度には2つのタイプがある。一つは我々の目にする現実のみを真実と考え、事実のみを意味あるものとする態度、もう一つは、我々の目にする現実のみが真実ではなく、それを超えた世界があるとする態度である。実際には、両者は交じり合い、同一の個人においても時と場合でこれら2つの態度を使い分けているが、概ね近代人は前者の態度をとることが多いのではないだろうか。客観的現実というと確固たるものと感じられる傾向が強いが、本当は我々の五感の感覚にその基礎を置いている。客観的というのは、ある意味で「万人に共通の感覚に基づいた」程度の意味に過ぎない。しかし、実際に社会が人々の合意で成り立っている以上、この客観的現実は実質的には唯一の真理判断の基準となりかねない。実証主義は、その意味で、現代の常識を支配する思想だが、往々にして人はその中で自分の生きる世界がある前提に基づく多様な世界の一つに過ぎず、他にも異なった世界があり得るのではないかという可能性を見失ってしまう。

 オートポイエーシスの思想も押井作品も、このような世の流れに対して、より広い世界の可能性を提示している。かつてカントは実証主義から道徳や信仰の領域を守るために「物自体」による叡智界を提示したが、今日ではより現実的、理論的な形で実証主義を超えた世界を論じることができるようになった。実証主義は忠実に事実を語ろうとする。しかし、それらは常に過去の出来事についてのものであり、やはりそこにも外部が存在する。それは [今ここ] の現在であり、[これから] の未来である。未来は常に我々に行為を要求し、行為は常に現在をその場とする。自ら作動することによって成り立つ世界では、語られた後に問われるのは行為である。 

2002/12

 

 (参考文献)

「オートポイエーシス」 河本英夫  青土社

「前略、押井守様。」  野田真外  フットワーク出版社

「カント批判哲学の研究」 黒積俊夫  名古屋大学出版会

 

 

補遺1: 河本氏の『オートポイエーシス』については私のサイトの下記URLで書評を載せている。他にもオートポイエーシスの基本的文献である『知恵の樹』にもコメントをしているので、関心のある方は参考にしていただきたい。

  http://www.oct-net.ne.jp/~iwatanrk/lb112.htm

 

補遺2:すでに押井作品における外部の存在については、上述の野田氏の著述のほか、押井学会(2001年SF大会)における清瀬六朗氏の発表においても、「他者」という概念を通じて指摘されている。自己にとって「他者」の存在が何らかの予測不能な部分を持っていることが自己を外部に展開させる契機になるが、物語にあっては、これが常に現実的重みを付加する働きを持っている。

 


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